モード学園の時に、岡崎で民宿やりたいみたいなので、岡崎ギャザっていうのを、なんかアイディアの授業の中で企画書作る授業があって、
その中で岡崎ギャザっていうのをつけて、もうそのまんまギャザっていうのがずっと続いてる。
- あ、そうなんだ。じゃあスタートはそのモード学園の授業の中の一個こう、ビジネスを作りましょうっていう授業計画みたいなところからスタートしてるんだ。
- いや、そうなんだよね。
- えー、おもろ。
- それは最初の方向性はその今の形とは、またちょっと別の企画だったの?
- もう多分全然違う感じかな。全然違うわけじゃないのか。一応ギャザ集まるみたいな、一緒にとかのトゥギャザとか、ギャザ集まるとか、
集まるっていうところからギャザ集まって、まあ泊まろうやみたいななんかわかんないけど、
どういう、岡崎で民宿のどういう企画だったかわかんないけど、
そこからギャザがついて、
- あ、そうなんだ。
- そう、まあ造形教室も集まるよねっていうので。
もともとその、で、樋口もモード曰くやん。で、そのユカさんと出会ってると思うんだけど、
その一応ファッションの、ファッション関係のその事業というか、クラスだったけど、どっちかというとそのビジネス寄りだったもんね。
その服をどう作るかっていうよりかは。
- そう、めっちゃね、ファッションビジネス学科っていう名前の学科だったんだけど、
- 服作るというよりかは、どうやって服を生み出してそれを販売していくかみたいな。
なんか店舗作りとか、
なんかそういうマーチャンダイジングとか、そういう授業だったね。
- ああ、そうなんだ。
じゃあその授業の一環で、その民宿の授業案から始まって、
実際に今はその造形教室っていう形で、
その子ども、いわゆる小学校から中学生まで、
小学生以下もいるんだっけ?
- そうだね、年長さんから。
- 年長さんから中学生までが集まって造形教室をやってると思うんだけど、
その民宿の案からその造形教室になるまでっていうのはどういう変遷だったの?
- ああ、民宿はもうなんか別に、本当に授業の一つとしてやっただけで、
- 本当に名前だけっていう感じなんだ。
- もう本当に名前だけ、もうなんかもう全然忘れてもいいぐらいの、
こういうところが岡崎にあったらぐらいの話だったと思うんだけど、
でもその時に割とユカさんはなんか街作りというか、
なんかそういうのを考えてた時期があって、
でもなんか街作りを考えていくと、
なんか街作りっていうか、街を作ろうとすること自体がなんかちょっと違うんじゃないかなみたいな、
なんかその街を作っていくのは本当に個々のお店さんがあってこその、
街が作られたみたいな、結果的に街が作られたというか、
そういうことになることが一番ベスト?
なんかその、なんか街を作ってやってるというかさ、
なんか例えば街作りしてお店さんがこう、
俺たちのおかげで街作りした人たちのおかげで潤ってるっていうわけじゃなくて、
個々のお店さんが頑張って、そこに人が集まって、
その人たちが回遊するみたいなさ、
なんかなんだろう、街が、街を作ろうってだけがいい街作れるわけじゃないから、
なんかお店やってるっていうこと自体がなんかすごく価値あるよねってなって、
街作りみたいなことからちょっと手を引こうというか、
なんかそういうのはなんかちょっと、なんか風に落ちないなみたいな、
実際街作りしてる人たちとか見て、なんかちょっと自分たちとは違うなみたいなところも。
なるほどね。じゃあその、やっぱり今は岡崎だけど岡崎に限らず、
いわゆる街とか人が集まってる場所をより発展させていきたいっていうところは根底にありつつも、
人を集めるとか、街作りが目的になるのは違うんじゃないかみたいなことなのかな。
そうそう、もうまさに本当にそう、目的になったら。
結果的にね、いろんな人が集まってとか、いろんなお店屋さんだったりとかそこの横のつながりもそうだし、
自然発展じゃないけど、自然に発展いく方が、そっちを目指していきたいっていうことだったんだね。
なんかそっちの方がなんか、自分たちとしては気持ちよくできるなって。
確かにね、なんかこう、一、全貌知らないからだけど、
変にこう、街おこし的なイベントってすごく長く続いてさ、実際にそれが成功してる例もあるとは思うんだけど、
実際にそのイベントをやることが結果的に目的になっちゃってるみたいなのもね、小さいところとか自治体がやってるところとかだとありそうだもんね。
そうなんだよね。結局なんかこう、やっとそうなんだよ。
継続していったり質を高めていったり、なんかそういうことを考えると、やっぱりこう店を構えるというか、そこに根付くもの。
よその人が来て、よその市で、なんかこう、まあ別にまあ、もちろん成功例もあると思うんだけど、それ否定できないけど、
なんかその日だけ集まって、なんか写真だけ見るとめっちゃ街が盛り上がってる風に見えるみたいな、なんかそういうことは違うんじゃないかなっていう。
なるほど。それでいうと、じゃあそこから造形教室をやろうってなったのは、これってその服のアバンをやる前なのか、どっちが先だったの?
前ですね、アバンやる前。
じゃあギャザの方が先なんだ。
うん、始めたのはギャザの方が先だね。
そのギャザがスタートしたのが、今のアバンがある建物の2階でスタートしてると思うんだけど、あそこその造形教室でじゃあスタートしていこうってなったのは、なんかどういうきっかけだったの?
なんかまあ、もともと百貨店で働いてて、なんかその販売めっちゃ面白いなと思って、うん、販売することとかなんかすごく重要な仕事だなと思って、
まあ続けようと思ったけど、なんか続けたくても、だんだんこう身引いていくじゃん、なんかその現場から離れていくというか、マネージャーとかさ、なんかそういうのがあって、
っていうその人たちを見てると、現場から結局は離れるのかって思ったら、この仕事続けるんだったら自分のお店を構えた方が、なんか自分のやりたいことできるなと思って、うん、ずっとその方がずっとお客様と接していられる気がして、
で、お店作ろうと思ったんだけど、なんかそこでちょっとこじらせてたのは、こじらせたというか、なんか服を、服屋、服を見る目線を服屋だけの目線で理解しようとするのって、なんか無理ないかって思ったというか、
なんかそのいろんなデザイナーさんの服作りがあって、なんかファッション業界の人ファッションの中でしかずっといないから、なんか僕ら販売員とかはさ、なんか作れるわけでもないし、うん、なんかそんな人間が服を売るってなった時に、
なんか服屋だけでやってきた人の目線より、なんか違う目線を持ってた人間の方が、よりこう、その人から変えたいというか、なんかこの人違う視点を持ってて面白そうだなみたいな思えるというか、なんかそんな気がして、うん、自分の中で、
自分の、まあ言葉はすごく、なんか安易、安易というか、ブランディングじゃないけど、そんなのも考えながら、なんか違う柱があったらいいなってずっと思ってて。
そうなんだ、その実際に販売員をね、ずっとあの名機の伊勢丹でやっていて、それを形に自分の店として始めたいなっていうところから、ただね、服を、あの服屋としての視点だけじゃなくて、他の視点も欲しいなっていうところで、じゃあ何やろう、で、そこでじゃあ何か01でツイーター作る教室というか、
造形教室っていうところももう一つの柱として構えてからっていうのが始まりだったんだね。
そうだね、そこでなんかもう一本やろうって、何かと何か足して新しいもん作ろうみたいなことは、なんか漠然と思ってただけだったんだけど、その時に、ゆかつさんが、なんか廃材に興味があった時期があって、今でも僕ら好きだから廃材業者とかいっぱい行くんだけど、
なんかその時は本当に、そのとっかかりの時期で、ゆかつさんもともと商社にいたから、生産管理とか焼却処分とか、なんかそういうのを現場で紙一枚でそれが処理されていく、何枚も廃棄でみたいなのを見てて、
なんかもっと今あるものでできるんじゃないかなみたいな、ゆかさんの実家もなんかめっちゃ物あんの、なんかめっちゃ物あって、自分の家も見ても、なんかもっとこれ使われてないこういうのなんかもっとできるんじゃないのみたいなのがあって、
じゃあなんかわかんないけど一緒にやろうよみたいな、っていうところでいろんな人をまず訪ねるところから始めたのが最初だね、まだ造形教室と思ってない時。
そうなんだ、じゃあそこの造形教室基点というよりかは、そのいわゆるゆかさんのね、その仕事での経験もありつつ、その廃材というか、いわゆるその当時特にそのサスピナブルみたいな、そういう流れとかそういうところ。
流れの走りだったよね、なんか走りとか。
じゃあ実際そのユカ先生のワークショップをやってみて、実際にそこからその造形教室という形になってるわけじゃん。
そこをやってみて、なんかじゃあこれだなっていうのがあったのか、もしくは全然違う方向性になったのかというと。
質問が上手いですね、進行が。
もうまさにやっていく中で、一番最初のワークショップの時に、なんかギャラリーのオーナーの人に君何やってんのみたいな言われて、
ああなんか廃材でワークショップやりたいっすみたいな。
で、君もう結構いい歳でしょとか言われて、30ぐらい言ってるでしょみたいな言われて、
俺まだその時21とか2とかそんなぐらいだったんだけど、まだ21、2ぐらいですみたいな話して、
ああ本当、ごめんごめんみたいな感じになって。
で、なんか君やりたいんだったらなんか紹介するよって言ったけど、
で、最初紹介してもらったのが、イオンのちっちゃいバージョンみたいなショッピングモールがあって、
そこで1ヶ月、スペースが空いちゃったからワークショップやってもいいよみたいな。
おお、1ヶ月。
で、なんかそこでやってくれたら、その施設から無料で企画していいから、その施設からお給料とか出すようにするみたいな、
なんか結構ありがたい話があって、で、まあなんとか仕事になるかみたいなノリで、
で、その仕事が決まった時に、
ああ、そうなんだ。それも岩倉だし、岡崎でやっていくとかも全然意識としてはまだない時だったな。
もう全然、岡崎でやっていくとかも全然意識としてはまだない時だったな。
ああ、そうなんだ。
で、その岩倉から岡崎に住んで、
ああ、そうなんだ。それも岩倉だし、岡崎でやっていくとかも全然意識としてはまだない時だったな。
もう全然なくて。
へえ。
そうそうそう。
でもそこでね、そこのイベントがめっちゃ大きかった。
じゃあその1ヶ月間っていう期間とその場所を使わせてもらうことになって、
そこでじゃあその1ヶ月間造形教室をやるっていうのが、じゃあ割と今の形に近いスタートなんだ。
そう、でね、形はね全然違うんだけど、なんかすごく問題を感じたというか、
なんか、あ、これだなって気づいたのがそこだったかな。
ああ、そうなんだ。
なんかそれを、なんかちょっと深掘ると。
その時、なんかそのこれだなっていうのは、その樋口としてはどういう、どういう気づきだった?
なんか、その1ヶ月で、なんか600組ぐらいの親子を見れたの。
そう、すごい数を見させてもらって、で、なんか映画のチケットとかを持ってくるとできるみたいな、なんかいろんな試作をやってたんだよね。
で、その中で、親子さんがなんか先回りして、テープ切っちゃったりとか、なんかああそこ違うよとかさ、
なんかこの色じゃないんじゃないとかさ、なんかすごいそういうのをなんか見た時に、なんかすごいもどかしくて、
なんでもうちょっと待つことができるのかなみたいな、失敗してもいいじゃんと思って、
ずっとなんか、ああ、なんかなんでそうするかなって思って見てたのが、結構自分の幼少期に結構、
まあおばあちゃんが結構なんかもう何でもしてくれるみたいなタイプだったから、
もっと自分でやりたいのになみたいなのが、なんかすごい思ってて、小っちゃい頃からずっと。
なんかいつもパンフレットとかにも書いてあるんだけど、なんか焼きそばを作りたいって言ったら、
いい焼きそばは私作ってあげるからみたいな、食べるだけでいいよみたいな、
でも焼きそばをもう食べたいんじゃなくて、作りたいっていうことが理解されないみたいなことに、
なんかすごい小っちゃい頃なんかこうモヤモヤがあって、
なんかそれと今、それとなんかその目の前のなんか親御さんが先に行っちゃうみたいなのがめっちゃ重なって、
で、ああこれ、これやっぱり今も現状あるよねと思って、
いやもっとなんか子供のなんか意思を尊重した場所があったらいいなっていうところで、
それが一つと、ワークショップっていうもの、一つだけを子供にその1日与えても、
なんかそのワークショップでその子の人生になんか影響を及ぼすことって無理だなと思って、
なんかただの思い出作りでしかなくて、この子の人生に影響を及ぼす、この子のとかその家庭に影響を及ぼすんだったら、
なんかもう毎週会うっていう形、定期的に僕らと会うっていう形を取らなきゃいけないって思って、
で、そこのワークショップをしている間にそれを思って、
今のアバの2階のところをなんかその期間中に物件をとりあえず確保して、なんかすぐ決めたんだよね。
そうなんだ。
これだってなって、すぐ物件決めて、で、そこでチラシ後半から少し配って、
そしたら2人か3人くらいかな、おかげやさん入ってくれて。
その1ヶ月限定のそのワークショップやりながら、今度そのおかげやさん、今のおかげやさんの場所で造形教室やりますよっていうのを、
そうやっての宣伝というか伝え始めたんだ。
そうそう、だから今思うとめちゃくちゃ早い行動だったなと思うけど、
でもなんかすごく自然の流れでなんかやれたから、たぶんしっくりきたんだろうなと思う、今となったよね。
そうなんだ。
ワークショップの期間は1ヶ月くらいっていうことだよね。
そう、1ヶ月だね。
じゃあもう相当早い段階でそういう。
前、ひぐちも経験泥棒っていう言い方をたぶんどっかの会でしてくれたと思うんだけど、
経験泥棒ってあるなっていうのと、
ちょっと中長期的に、より長い目線で新しい気づきとか変化みたいなところを、
その若い世代、子供になんかもっと感じてほしいっていうところで、
じゃあもう場所を構えてやるまでが、
じゃあ1ヶ月どころかもう半月くらいのタイミングでもうこれで行くぞってなってるってことだもんね。
なんかね、それはなかなかのスピード感なの。
物件もね、なんかそんな当時は高リッチじゃなかったからさ安かったし。
うんうんうん。
まあ、やるっしょみたいな感じで。
で、その子が、前ね、ワークショップの時に有勢来てくれた、
メガネかけたね、りんちゃんって女の子がいて。
あの中学生の?
中学生の。
今も通ってくれてるっていう?
その子は、今はね卒業して、次高校なんだけど、
ああ、分かった分かった分かったわ。
その子が、一番最初のワークショップ、1ヶ月のワークショップの時に来て入ってくれた子がその子、あの子。
そうなんだ。
そう、あの子。
え、じゃあその入った時は小学校2、3年生とかってこと?
その時はね、1年生だったからね。
そうなんだ。
うん、もうずっと見てるね、りんちゃん。
えー、うわ、それ結構すごいね。
すごいでかくなってる。
ねえ。
だってもう、なんか我が社行ってくるわ、みたいな感じだったじゃん。
そうそうそうそう、あの子あの子そうそうそう。
もう自分の意思がちゃんとあるからさ。
そうなんだ。
じゃあやっぱそのスタートの時から、もっと徐々に参加してくれてる子は増えて、今の形になってると思うんだけど、
やっぱずっとその本当に長期的な関係性というか、長期的な付き合いになってるんだね。
そう、そうだね、確かにね。
そうだね、今思えば。
うーん。
なってますね。
なるほど。
今日は、うん、今日りんちゃんからLINEが来て、高校が決まったのかな、わかんないけど、決まったよ、みたいな。
うわー、それなんか、えー、すごい話だね。
うーん、なんかそんな連絡が来て、なんか、いや、いいなー、と。
おー、なるほどね。
じゃあ、やっぱりその、ね、一定期間その、じゃあ、ね、ワークショップ、まあその廃材っていうテーマもそうだし、
で、そっからじゃあ一旦、その、じゃあ子供が、ね、今親御さんとどういう関わり方をしてるのかとか、あのー、っていうところを想じて経験したのが、まあ今のおかげさ、の、まあ形になってて、で、そっからね、場所も何回か変わってると思うんだけど。
そうだね。
うーん、それこそ、じゃあ最初はさ、一人とか二人とかから、そのスタートをして、で、まあそれをじゃあ、その、まあ参加する、まあ規模っていうとあれだけど、とかは、実際にその、まあ習い事っていう形を、として、まあどんどんこう、なんかまあ友達自体じゃないけど、口コミみたいな感じでどんどん広がっていったってこと?
うーん、そうだね、うーん、発信力もなかったし、うーん、ほんと多分口コミで、もうなんか、しー、なんかじわりじわりじわりみたいな。
うーん。
うーん、全然、だってほとんど週1とかのペースで多分やってたから。
あーそうなんだ。
うん。
まあでもそうだよね、最初はそうだよね。
うん、もう働きながらやってたから。
うんうんうんうん。
うん、ゲザだけで飯食うのとかできなかったから。
え、その時ってまだ免疫で働いてるってこと?
えっとね、いや、その時は辞めて、えーと、岡崎の、あの、ナノユニバースが、フランチャイズやってる会社があるんだけど。
そっか。
そう、そこで、えーと、働きながら、ちょっと木曜日だけはーって言って。
うん。
うん、えーと、ギャザやってたみたいな。
あ、そうなんだ。
うん。
なるほどね。
うん。
なるほど。
そう、だからそこが、下積みみたいな感じだよね。
いや、下積み、下積み感あるね。
下積みだよね。
だってアバン始めてからもう、そのナノユニバースでは働いてたもんね。
働いてた。
ね、自分の服屋やりながらギャザもやって、アバンもや、あーそのナノユニバースのバイトもしてっていう感じだったもんね。
そうそうそうそう。
はー。
今日そのバイトもさ、もうなんか、週一のほんと少しみたいな。
うんうん。
なってて。
うん。
なんか、このバイトいるか?みたいな感じになってきて。
ははは。
で、なんかまあ向こうもなんか結構させてくれて。
うん。
なんか、日打ちくん全然そんな無理せんでいいよみたいな。
はいはいはい。
なって、じゃあまあ、もうそろそろ身を引こうかなって言って辞めて。
うん。
うん。
あ、そうなんだ。
そう。で、ようやく、うん、アバンとギャザでもしてくれたみたいな。
ちょっとずっと待っちゃったんだけどさ。
うん。
その、その1ヶ月限定のそのワークショップに関しては、その時にはもう今のお客さんみたいな形で、その廃材を使った、その造形する、なんかそのいわゆる工作って言うとあれだけど、その工作教室みたいな形をもうその時から取ってたの?
そうだね。全部廃材だったね。
うーん。
うん。なんか割と岡崎はね、廃材の土壌があるというか。
あーそうなんだ。
そう、まあなんかね、その廃材の業界のちょっと話をすると、廃材をクリエイティブリユースっていう形の名前でやり出した、多分それ言い出したのが多分大月博子さんっていう方がいて、
うん。
なんかその辺の方たちが、なんかだんだんこう世にこう出てき始めて、で、いろんな廃材業者さんが今なんか多分そういうリユースをしてると思うんだけど、
うん。
それの走りでやり始めたのが群馬と東京に拠点を持ってる参拝業者で、中田井っていうところがあって、なんかそこが多分結構日本ではいち早く廃材をなんかアーティストに提供したりとか、
うんうんうん。
あと廃材のショールーム作ったりとか、なんかそういう形でクリエイティブなことをしだして、で、それをなんか見に行ってたんだけど、
あーそうなんだ。
そうそうそう、ショールームとか見に行ったりとかして、たら、なんかその中田井さんに共感した参拝業者が岡崎にあって、
うんうん。
そう、でその岡崎の参拝業者さんが、そうやって岡崎でも廃材を自分たちも売りたいってなって、ショールーム作って売ってるところが、まあそのショールームはちょっと今は機能してるかわかんないけど、
もうとにかく倉庫を見に行ってもいいみたいな状態になってる参拝業者さんがあって、で僕らはいつもそこに通ってる感じかな。
あ、そうなんだ。
そうそうそう。
でその、いわゆるあの廃材、廃材のその流れっていうのがさ、いわゆるリサイクルじゃなくてそのアップサイクルみたいな流れがちょっと加速したというか、
そうだね。
それがその最初の、なんだっけ、中田井さん?
中田井さん、うん中田井さん。
リサイクルってね、結構もうずっと前から言われてるけど、じゃあ廃材を次のものに生かすっていうよりかは、よりこう価値を上げていくみたいな流れが東京都軍場のところからあって、
それがたまたまその岡崎にもそういったショールームみたいなのがあって、そこで廃材は仕入れてやってたんだ。
そうそうそう、そこを行って、仕入れて、でまぁだんだんと仕入れが出てきたらなんか、うちにも廃材あるよみたいな言ってくれる人たちが出てきてみたいな、
でもそこの岡崎の参拝業者はずっと今も行ってる、めっちゃ面白い。
あーそうなんだ、それは実際どういうものが集まってんの?
いやもう本当にね、もう素材ゴミって言われるような、でかい自転車もそうだしホワイトボードとかもあれば、
製造業がやっぱりこの辺トヨタの自動車関係の会社が多いから、その配送するときの干渉剤に使われるようなスポンジ、
そういうなんかくり抜かれたスポンジみたいなのがなんか大量に出てきたりとか、
でなんか目視でして分かるようにするためにめっちゃカラフルなのそれが、
めっちゃ可愛くてそれ、そういうのをなんかたくさんもらったりとかして、
でも買うに近く買うかな、もらうというか、そこは売ってる。
あーそうなんだ。
でもちろんね、そういう企業さんからというか、配材として譲り受けることもあれば、そういったショールームで仕入れてっていうこともあって、
それを土台にじゃあ今日はこれを作りましょうとか、こういうテーマで作ってみましょうみたいなところを、
その最初の1ヶ月間のそのワークショップの時からやってるんだね。