1. Healthcare Hackathon Hub - H3
  2. #5 H3アンバサダーインタビュ..
2025-03-25 48:09

#5 H3アンバサダーインタビュー 近藤 敬太さん(前半)

第5回となるH3アンバサダーインタビューでは、豊田地域医療センター総合診療科在宅医療支援センター長でいらっしゃる、近藤敬先生をゲストにお呼びしました。医師を志したきっかけからH3との出会いまで、近藤先生のこれまでの人生を深掘りしています。お楽しみに!

サマリー

今エピソードでは、近藤敬太さんがH3アンバサダーとしての役割や、藤田創信における医療のイノベーションについて話しています。特に、総合診療の必要性やヘルスケアハッカソンハブとの関わりが強調されています。近藤敬太さんのインタビューでは、医師になった経緯や医療の成長、医師不足の問題について語られています。また、彼の個人的な背景や家族の影響についても触れられ、興味深い人生談が展開されています。近藤敬太さんは医療の世界への道のりや総合診療の魅力について話しており、医療業界のユニークさや患者に対する理解が必要であることを深く感じている様子です。インタビューの中で、彼は医療業界におけるキャリア選択やプライマリーケアの重要性についても語っており、同調圧力や医療法人の現状、そして自身が選んだ総合診療の意義について明らかにしています。また、近藤敬太さんが医療系スタートアップにおけるキャリアとその挑戦についても話しています。

H3アンバサダーの紹介
H3ポートキャストの方に乗っていただいて、
Healthcare Hackathon Hub H3の共同企画者の木村でございまして、
普段はベンチのキャプテルをやっているんですけれども、
このシリーズもだいぶ重ねてきたかなというところで、
今回もH3アンバサダーのご紹介となったポートキャストになっておりまして、
正式名称をスラスラ言いなきゃいけないんですが、
藤田創信の近藤先生に本日はキャストに来ていただいております。
よろしくお願いします。藤田育太区総合診療プログラムの近藤と申します。
中の人だけスラスラ言えるやつです。よろしくお願いします。
いつも藤田創信のって略称ばかりで呼んでいるということになるというですね、
本当に悪いお手本みたいな感じで申し訳ございません。ありがとうございます。
一応このH3ポートキャストを何回かやらせていただいているんですけど、
趣旨としてはこの我々H3ってですね、
各業界でというかヘルスケアのイノベーションのいろんな側面で
ご活躍していらっしゃる専門家の方がアンバサダーという形で
サポートいただいているコミュニティになっておりまして、
特に私自身が本当にいろんなところのベンチャーキャプテルをやっている中の
仕事の後援で最初のご接点いただいた方が多いんですけども、
そういう方々にご協力いただいてある、今がある、
教え学び合うコミュニティみたいな感じを体現するためにも、
手前みそですが結構H3アンバサダーの皆さんがですね、
すごい先生方、素晴らしい方々が多いと思ってまして、
その方々に絡みやすくですね、コミュニティメンバーの方だったりとか、
このポートキャストを聞いていただいた方がするために
人となりだったりとか、
今でもすごい方がさらにどんな風に進化したいのか、
辿ろうとするというところで、前後半45分かけ2回ぐらいでやろうとしておりましてですね、
今日が近藤先生の前半ということで、
近藤敬太の経歴
近藤先生のこれまで、いろいろ私の方が規約になって
お話を伺えするような形にできればと思っております。
早速なんですけども、このポートキャストを聞いていただいている方々に
まさか近藤先生のことをご存知ない方っていうのは
ちょっとしかいらっしゃらないと思うんですけども、
改めて初めてお知りになる方もいらっしゃるかもしれませんので、
簡単に2,3分ぐらいでですね、
自己紹介のほうをお願いしてもよろしいでしょうか。
はい、けまさんありがとうございます。
めっちゃハードル上がっている感じにしますけど、
大丈夫ですかね、本日。
すいません、本当に。よろしくお願いします。
僕はヘルケアハッカソンハブの中で、
ヘルフケアの専門家としてアンバサーをさせていただいていますけれども、
今、医師11年目ですね。医師になります。
2014年にアイチカ大学を卒業しまして、
その後、豊田記念病院というところで初期研修。
初期研修っていうとちょっと分かりにくいんですけど、
いわゆる世の中の人は研修医、研修医っていうのは
初期研修のことを指すんですけど、
医学部卒業して医師になってから2年間ですね、
スーパーローテイトといっていろんな顔もあるっていうのが
豊田記念病院という病院で過ごしました。
結構面白くて、豊田自動車の直属の病院で
トヨタっていうのがカタカナになっている病院です。
その後、藤田医科大学というところに入りまして、
いわゆる医局のところに入りまして、
藤田医科大学総合診療プログラムというところに入りました。
これが僕らが今、名前で言っている藤田総診というものになります。
その後、総合診療、この時は家庭医療と呼んでいたんですが、
今、総合診療を統一させてもらいますけど、
専門医をとって、1、6年目の時に、
今の自分の活動の原点となるというか、中小病院を1つ、
総合診療科というところを立ち上げに関わって、1、6年目の時。
その後、今は豊田地域医療センターという
自分の地元の豊田市に戻ってきて、
豊田地域医療センターで普段は総合診療科として、
あとは在宅部門のセンター長として訪問診療を結構やっている
というところです。
大学と、あと病院と、あと1つは、もう1つは学会の活動で、
日本プライマリーケア連合会というところの理事をしております。
学会理事って結構イメージとしては、だいぶご年配の方のイメージがあると思うんですけど、
結構プライマリーケア会は若手でも理事にさせてくれるということで、
僕もそれを務めさせていただいております。よろしくお願いします。
総合診療の重要性
ありがとうございます。すごい鮮やかな自己紹介をいただきまして、
いつも慣れていらっしゃる上田さんのところで。
一応プライドを見ながらやってます。
本当ですか。ありがとうございます。
そんな大根があったんですね。
ちょっと今お話の中でも出てきたかなと思いますけれども、
近藤先生の今のご所属でもおそらくいらっしゃる、
藤田創信と通称、私もよく親しみを込めて呼ばせている藤田創信さんの
ご紹介ということで、何をやっていらっしゃる、どんな慣れ出しのところなんでしょうか。
お伺いしてもよろしいでしょうか。
ありがとうございます。
ちょっと途中で総合診療の話も少し、ここでさせていただこうかなと思うんですけど、
総合診療ってまず、木村さん多分あんまり聞かれたことって今までなかったですね。
僕とお会いさせていただくまで。
そういうことにしておきます。はい、なかったです。
ごめんなさい。木村さん元の方になれば。
なかったです。何もなかった。
結構難しくて、僕らもちゃんと言えてないっていうところが多分原因だと思うんですけど、
かなり認知がされてないというか、それもそうで、実は日本の中だと2018年にやっと専門家になったんですね、総合診療っていうのは。
まだたった7年ぐらいしか経ってないです。
もちろんそれ時点から総合診療ってのあって、アメリカでは家庭医療って言われたりとか、
イギリスではジェネラルプラクティスって言って総合診療近い意味で使われている言葉なんですけど、
簡単に言えばプライマリーケアですね。最初の医療というか、
例えば皆さんが病院にかかった時に最初に見たりとか、あとはクリニックにかかっても最初に見たりとか、
よくある病気の専門家っていうところが総合診療になります。
本当にどんな疾患でもどんな年齢の人でも、もちろん性別にもよらないですし、
その人が目の前に来たらとりあえず断らずに見るっていうのが総合診療なんですけれども、
この医局としてあるのがフジタ送信というものです。
フジタって名前がついているのにフジタ医科大学のプログラムになります。
医局ってですね、一般の人からすると白い巨頭みたいなイメージと、
おぞましい悪の組織的な雰囲気がしていると思うんですけど、
医局って何かって言うと大学にあったら、
そこに若い医師が学びに来て、
そこから各病院に振り分けられるみたいなのが医局なんですよね。
なんで医局があるかというと、
もともとは本当に医局制度しかなくて、
普通に卒業するとほとんどの医師がドコドコ大学の医局に入ります。
医局から病院に派遣されますというのがずっと長い間ありました。
今は普通に病院に派遣されて、
病院に就職するっていう人もいらっしゃるんですけど、
もともとは医局っていうのがもっともっと今より強くてですね、
医局制度って成り立ったんですけど、僕らもその医局の一つで、
藤田医科大学を中心として、
豊田地域医療センターとか、あとはダイヤモンドプリンセス号などの患者さんを
一気にたまたま会員前で引き受けた岡崎医療センターとかも、
僕らの医局の大きい病院の一つで、
そういったいろんな病院に総合診療の派遣をしているという感じになります。
あとはその医局のもう一つの役割としては、
後期研修医っていうのを育てるっていうことになります。
この後期研修っていうのもまた分かりにくいんですけど、
先ほどお伝えした初期研修、前期研修とかも言いますけど、
それがいわゆる研修医ですね。みんながイメージする研修医。
最初2年間の研修医なんですけど、後期研修っていうのはその後に
医科とか外科とかの専門家になるための研修でして、
その総合診療の研修を僕らが藤田で行っているのが、
この藤田創新というものになります。
なので今も医局員というものが100名近くいまして、
後期研修、専門医を取るまでの医師っていうのも結構4,50人いてくれて、
活気があってワイワイしているような感じになります。
最初にお伝えしたみたいに、総合診療科というのは2018年にできて新しい科なので、
なんかちょっとベンチャーっぽいところがあって、
若い医師もめっちゃ集まってきてですね、
日本で総合診療を頑張って盛り上げようみたいな感じになっているので、
そこで僕ら学術大会という大きい学会を開くときに、
たまたま木村さんにちょっとお手伝いいただいたりとか、
見学に来ていただいたっていう経緯で、
いちつりとも出会いっていうような感じになっております。
ありがとうございます。そうですね。
これ今収録2025年の2月ぐらいに撮らせていただいているんですけど、
私も結構鮮明に覚えていまして、
おそらく2022年ですかね。
そうですね。はい。
今から収録して2,3年ぐらい前に始めてですね、
思えば不思議なツアーだったんですが、
愛知県を拠点とされているですね、
ベンチャーキャピタル仲間の方というかですね、
愛知でベンチャーキャピタルいればもちろんMTGベンチャーズさんですっていうですね、
方々のお借りがけで、
私自身もいちつりも変わりもあったですが、
ヘルスケアとか特にデジタルヘルスの領域で長く
投資としてとかスタートアップの世界でってことで
関わらせていただいていたんですけど、
私みたいなヘルスケア好きなベンチャーキャピタルがですね、
主に東京から一部関西とかからですね、
10人か20人ぐらいなぜか愛知県豊田市に集合するというですね、
謎の事例として。
病院に行くってすごいっすよね。
そうですね。
しかもまあ、そもそもあんまりね、
病院をVCがゾロゾロ視察するって、
すごいツアーだったなって今でも思うんですけども。
日本でやったことあるの、僕らしかいないような気がします。
いまだに。
いかないんじゃないですか、あんまり聞かないですね。
そうですよね。
そもそも投資先でもないっていう、別に病院自体。
得難い機会だったなってことと、
でもやっぱり、
1点見て本当に良かったなというのは、
先ほど先生にもご紹介いただいたプライマリーケアをやっていくっていう、
すごく古くて新しいというか、
やっぱりまだまだ日本だと概念として新しい必要な取り組みを
手動的にやってらっしゃるっていう、
いろんな先進的な、もちろんケアの面でもそうですし、
あとはいろいろな、
それこそ、
DXされている医療機関とか、大学とか、
背景にいるような医療機関でっていうのは、
すごくいろんな場所も、
当時視察というか、
ケンカさせている時にも、
すごくこういう取り組みをやっていらっしゃる、
もしくは大学病院でみたいな感じのところの流れの方々がいらっしゃるんだって、
すごく印象的で、
あとはどうですかね、
いろいろありましたけど、
さっきちょっと藤田総製のご説明に触れたところで、
我々VC的に言うと、
医局とか、
大学病院がグロースしてるって、
あんまりこう、
あんまり聞いたこととか、
考えたことはなかったんですけど、
藤田総製さんって、
今が、すいません、
医局員というか、
何人くらいになられてるんでしょうっけ、
100名ちょっといますね、
2年前が何名、
もっと少なかったんですよね、
医療機関の成長と課題
いや少なかった、7、80だったんです、
そうですね、
で、設立というか、
立ち上げの時期が何年頃でしたっけ、
2015なんで、
10年経ったってことですね、
10年前は、
ゼロは言い過ぎですけど、
オープニングは何人でしたっけ、
オープニングは、
本当に最初多分3、4名だったと思うんですね、
3、4人が、
10年で100名くらいになるって考えると、
結構なんか、
当初グロースに上昇してそうなですね、
スタートアップの、
14人規模だけで言うと、
よくありそうな感じの規模感、
しかも上手くいってるスタートアップですね、
規模感で、
たまに見るかなっていう、
そういう世界かなっていうものを、
やっぱりすごく、
大事なお仕事とか、
セクターでもある医師とか、
病院、
医療機関みたいなところの中でいた時に、
とはいえすごくですね、
全国どこもかしくも人手不足で、
全、東京ですら例外でなく悩んでいる、
医師不足だったりとか、
そういうことがある中で、
全国からですね、
そういうタレントが集まってくるっていうこととか、
しかもそれをこう、
もちろん藤田さんのバックが荒れててもありつつも、
本当に立ち上げてきたっていう、
この先生はじめ、
みなさんはですね、
アントレペラシップあふれる、
異曲だなあっていうところが、
私はすごい印象的だったし、
あの、
あの日の晩に、
先生はいらっしゃったとか、
僕らは行けなかったですよ、
コロナかなんかのあれで、
まだコロナ予報がある時期に、
それで愛知県豊田市で視察をさせていただいて、
店、店行ってませんでした?みんなで。
名古屋に行って店で、
みんなで辛いご飯食べてたんですけど、
その時もみんなすごかったですね、
今みたいな感想をしながら行ってたので、
グロースする異曲みたいな感じで、
すごいこう、
パワーワードが飛んでいたっていうところなので、
もしまあね、
今日のこの冬、
プライマリーケアだったりとか、
それはまあ、
もちろん、
藤田奏進さんもあるんですけども、
グロースする異曲っていうですね、
近藤の個人の背景
この謎のフレーズに、
なんだそれは、
意味がわからないと思っていただく方は、
ぜひ見ていただければと思います。
これめっちゃいいっすね、
グロースする異曲を僕使います、
めっちゃいい言葉。
ぜひグロースつけていただいてですね、
見ていただけるとありがたいなと思います。
ちょっとまあ、
そんな藤田奏進をですね、
本当に始まりから、
今まで見てリードされている、
お一人の近藤先生ですけど、
ちょっとこの前半ではですね、
近藤先生の個人のところっていうのを、
いろいろ深掘って、
これまでの話をお伺いしたいと思っておりまして、
最初のご質問ですが、
そもそも、
さっきも今も、
お医者さん医師でいらっしゃると思うんですが、
なぜ医師になろうと思ったのかっていう、
経緯というか動機というかにある、
ちょっとそこだけ先にお伺いしてもらっていいですかね。
ありがとうございます。
聞いちゃいます?長くなるかもしれません。
ぜひ。
バッチリ時間ありますので、
これだけの紹介も10分、20分されていても大丈夫です。
いやいや、そんなあれなんですけど、
結構変わった人生で、
多分、
まあ僕はすごい楽しんでやってるんですけど、
まず、
5歳ぐらいまでは、
親父がMRさんだったんですよ。
あの薬屋さんで、
その頃で薬を、
何ですか、紹介したりとかっていう感じで、
めっちゃ転校してて、
生まれたら三重県津市で、
その後沼津行って、
沼津行って、
伊豆岡沼津行って、
で、神奈川の厚木行って、
みたいな感じでもう点々としてて、
で、5歳の時に豊田市に来たんですよね。
そこまでもう、
三重に生まれてから、
ポンポンポンみたいな感じで引っ越していって、
で、父親がMRで、
母親が、
序山市だったんですよね。
母親の実家が、
その時にお年寄りの施設を建てるってなりまして、
今、老人保健施設、
今も運営してるんですけど、
それで建てるってなって、
5歳の時に母親と父親が、
そこに今、
ジョインするために戻ってきたっていうような感じだったんですね。
ここからまた色々複雑で、
で、結構立ち上がって上手くいって、
その時代、
1995年ですね、経ったのは。
なんで、
介護保険ができたのは2000年なんで、
それまでの時代って、
結構何でもありかつ、
すごいやっぱり、
急激に介護が必要だよね。
介護保険の必要になるぞっていう感じで、
機運も高まって、
いわゆる介護バブルみたいな状態だったんで、
めっちゃ介護業界も、
今よりもさらに景気がいい、
活発な時代だったんですね。
で、
めちゃくちゃうちも頑張って、
すごく有名になっていったんですけど、
そこで、
父親がなんかちょっと金深い、
おかしいみたいな感じになって、
母親が気づいてですね。
で、父親と母親が、
全国全世界放送されてますけど。
いやいや、大丈夫です。
いろんなところでしゃべってるんで、別に。
父親に聞いとけよって思いますけど、
いや、ほんと会ってないんでね、
親父も全然。
それで離婚する、
別居するってなったんですね。
それが7歳かな、
7、8歳ぐらい。
で、父親について、
母親にもその時、
7歳の自分。
で、
母親、
その時もなんでかは、
僕その理由があるんですけど、
本当恥ずかしいですけど、
母親めっちゃこう、
僕を塾とかに行かせてたんです。
週5、週6みたいな。
塾、習い事みたいな。
で、母親はやっぱ女三士で、
どうしても俺を医者にしたいみたいな、
多分思いがあって。
で、頑張って習い事をしなさい、
って言って、
ポケモンをこう、
布団の中でやってるみたいな少年だったんですけど。
それで母親嫌いすぎて、
嫌すぎて、
で、親父と出てったんですね。
その時3歳とか、
あの妹がいたんですけど、
妹が寝た後に、
僕と親父家を出るってですね、
結構今でも、
あの光景は覚えてますね、
小児でも。
なかなかハード。
で、その後三重に行ったんですよね。
三重で育ってたんですけど、
正午の時かな、
三重のおじいちゃんおばあちゃんに
ずっと育てられてる感じだったんですけど、
おばあちゃんが脳出血になっちゃって、
で、しかも僕の誕生日の次の日で、
ぶっ倒れて、風呂場で。
で、脳出血、半身麻痺になる。
で、そこから、
あのじいちゃんもすっごい介護するようになって、
すっげえ厳しいじいちゃんおばあちゃんって、
もともとじいちゃんもなんか、
大阪で私塾、
私の塾みたいなの、
開いたような人で、
おばあちゃんの介護につきっきになっちゃったんで、
あの、親父も割とこう、
なんていうんですか、
目がきかなくなってっていうか、
まあ、ギャンブル、
ギャンブル遺族場あったんですよ。
あの水原一帝さんみたいな。
その時、しばらく経ってからわかったんですけど、
まあ、僕は本当に
いい経験させてもらったなと思って、
父親とゲーセンとか行くと、
3万4万平均で使うんですよ、
ゲームセンターで。
これはすごいですね。
はい。あの、常時に使えないじゃないですか。
怖くてとかさすがにブレーキかかったりしますよね。
満札まで出てくると。
そうなんですよ。
メダルゲームとかって、
パチンコとかスロットだったら
お金返ってくると思うんですけど、
あの、メダルゲームとかでも、
要はその脳の報酬系、
もうすごい自分がこうやることに
すごいハマっちゃってるんで、
3万も4万使う親父を見てて、
その時はなんか変な人っていうか
やばいなと思ってたけど、
そこまで気がつかなかったんですけど、
あの、大人になって医者になってから
で、どんどんギャンブル依存症みたいな
症状が出て、僕も
そのぐらいの時に
なんで母親と離婚したかが分かって、
金るから洗いだけじゃなくて、
僕が生まれる前、
結婚する前にもう
自己破産したんですよ、父親が。
おー。なるほど。
で、それを隠して母親と結婚してたんで、
で、闇金からしか金借りれなくて、
でも僕は中学校になる時には
あの、借金取りが家に来るみたいな。
家になってました。
で、金ないし闇もないし、
ちょっと、やべーなみたいな感じで。
まあ、僕もなんかその、
ちょっとバイト、中学生バイトしたりとか。
でもまあ、あのー、借金取りに追い回された人って
あまりこれ聞いてる人いないと思う。
ちょっと面白いんですけど、
あんまりその、あのー、
牛字幕みたいなことはないんですね、
基本的には。
なるほど。意外にクリーンな業界だったりする。
そうそう。クリーンっていうか、
なんか、あのー、しょぼいっていうか。
ピザの配達とかを嫌がらせで呼ばれたりとかするんですよ。
へー。
すげー地味じゃないですか。
なんで呼ぶんですか、それを。
そうそう。だから、ピザ注文しましたかって、
いや、注文しないですみたいな。
だから、要はそういう嫌がらせをちょいちょいされるようになってって。
でもまあ、そんなのブラックリストに乗ったら
別に怖くなるんで。
で、まあ、電話かかってきて、
なんかお前その、あのー、
こんなんじゃ中学校行けないぞ、
みたいなことすごい脅されるんですけど、
そもそも別にあんまいい時期ないんでいいです、
みたいな感じでガチャみたいな。
繰り返してるうちに、
中学校3年生になって、
まあもう、さすがにやばい
なって、金がなさすぎて。
でも、これがちょっと医者になった後の、
まあ僕の考えとかにつながるんですけど、
その時めちゃくちゃ助けてくれたんですよ、
周りの人は。
で、僕の友達って、
まあ三重って田舎だったんで、
津市っていう県庁所在地に住んでたんですけど、
まあ今でも連絡取り合いの友達とかもいて、
ほんとなんか、そのご両親とかも
うちの子供になったらいいよとか、
ご飯食わせてくれたりとか、
まあほんと金なかったんで、
ご飯食わせてくれるのもありがたいし、
家に親父とかもいないんで、
あったかいなーみたいな感じがすごい良くて、
世間一般で見ると貧困の子供なしじゃない人と
お金ないんで。
でも、助けてもらえるっていうとこ、
すごくありがたいなと思ってるうちに、
中3で、
あの親権が移されたんですよね。
結局もう、その親戚の人は
このままだと、けいたくんが、
まあ僕はその時、名前も違う、
苗字も違いましたけど、
彼はお母さんとか持った方がいいんじゃないか
医師になった道のり
って感じで、戻されたというのは
中学校3年生で、
そこから、
まあ結局、
なんすかね、
母親もまた最初、医者になってほしいと思ったし、
引き取ってもらったんで、
まあ恩もあるじゃないですか。
そうですね。
さすがに。と思って、
家業は施設やってたんで、
医療系に進もうかなと思って、
考えているうちに、
医学部が一番いいかなと思って、
でも、そこでまた高校入ってから
勉強とかしなくなっちゃうんですけど、
定期的に推薦で受かるみたいな感じで。
推薦ってあるんですね。
あ、そうなんすよ。
医学部あって、
僕の高校は、
今、僕が行った愛知医大、
学力もそんな、正直全然あれだったんですけど、
愛知医大の推薦が、
足切りもなくて内進店とかの。
へー。
指定校で、
指定校推薦があったんですよね。
私学の医学部だったんで。
でもそれでも倍率が6倍ぐらいあって、
で、高校の先生にもお前、
落ちるのはしょうがないけど、
母校の恥にはなるなよみたいなこと、
教頭先生にマジで言われる。
よくわかんない指導ですよね。
同棲中年みたいな。
もうそれで僕ちょっと、
ムカついてめっちゃ。
絶対受かってやると。
それ言われたから本当によかったんですけど、
そこの後、僕数学苦手だったんで、
ここにいる方とか、
青チャートってあるじゃないですか。
青チャート式っていう。
青チャート。
そう、あれの重要例題を
全部暗記したんすよ。
2週間。
2週間。
受験応募してから2週間しかなかったんで、
2週間で暗記したんす。
英語と数学と小論しかなかったのと、
英語は結構好きだったんで。
で、めっちゃ暗記したら、
なんか受かっちゃったみたいな。
すごい、
ポテンシャルと、
気合を感じますね。
気合なんでしょうね。
相当本気だったんでしょうね。
相当本気だったんでしょうね。
で、
その後は本当に
僕、向いてたのかもしれないですけど、
すごく
高校の時の勉強よりも、
医学部入ってからの勉強のほうが
すごい楽しくて、
全然、
そんな計算とか、
難しいもんないし、
覚えたりとか、人とコミュニケーション取って
っていうのはすごい嫌いじゃなかったので、
そこでやっぱり医者ってすごい楽しいな、
医学って楽しいなと思って、
そういう感じですかね。
なるほど、ありがとうございます。
実は初めて、
僕自身がお聞きしましたけど、
すごいですねって、
すさまじいのほうのすごいっていう字のほうが
総合診療との出会い
すごいですねっていうところで、
楽しいっすね。
そういった字でいらっしゃったんですね。
僕自身はちなみにヘルスケアに関わってる
個人的な理由はですね、
両親ともに別に医療系でも何でもなく、
大学も小学部というか、
経験のところの大学だったんで、
全然縁がなかったんですけど、
たまたま大学の授業で、
医学部と一緒にやってる単位交換授業
みたいなやつがあったんですね。
なるほど。
そこで、
両方の大学のOBが出てしゃべるみたいな感じの
構成の会だったんで、
僕の大学の先輩にあたる方が、
後輩の皆さんと、
医療って面白いですよ、
経営とか、
そういうのがまだまだ必要だけど得られてないから、
面白いですよ、
みたいな感じのこととか言われたっていうのが
きっかけで、
今でも僕は覚えてるんですけど、
僕らみたいな人が少ないから、
やりがいもあって目立てますよっていう、
そんな感じのことを言われました。
いや、ほんとそう思いますよ。
すごくすみません、
なんていうか、
そんな理由で志してすみません。
いやいや、全然、
僕もなんで、
なんでって言われたら、
なんとなくだっていう感じで、
これしかなかったし、楽しくて向いてたと思うし、
総合診療やってるのは、
きっとその中でもやっぱ、
そういう人の、
もちろんわかるって言ったら失礼かもしれないですけど、
なんかいろんな経験したから、
いろんな人見たいなっていう、
どんな悩みにも乗ってあげたいなみたいなのが、
総合診療やってる理由だと思うんですけどね。
僕もそんな感じだった中で、
ひっかけはなんかほんと、
結構ビジネスライフにというか、
史上目標し、これからも伸びるから、
食いパグれないかなとか、
存在感を示せるかなみたいな感じで、
コンサルタントとして最初、
医療業界に関わるんですけど、
すごい衝撃も受けたし、
感銘も受けたのが、
医療ってすごい珍しい、
業界だなって思ってて、
日本の中では。
何が珍しいかっていうと、
いわゆる学歴主義的に言うとですね、
偏差指標の遥か彼方にいる医学部、
トップオブトップ、
学歴社会的にはエリートの方々が、
でも、
海保険でフリーアクセスだとか、
あとはやっぱり、何て言うんですかね、
医療全般で多分そうだと思うんですけど、
命とか健康は平等じゃないですか、
というところで、
かかってこられる患者さんとかご家族っていうのは、
普通の人って言ったらあれなんですけど、
人口分布的に普通の方々があって、
そうなるので、
ちょっと不適切な表現だったら、
患者への理解と医療の意義
嫌な気もしてるから、
言えるかもしれないですけど、
すごい、
場合によっては恵まれたお坊ちゃん、
お坊ちゃん、
いい教育を受けた人が、
でも、本当に今、
生活保護を受けてらっしゃる方もいらっしゃれば、
金婚の中でって方もいらっしゃれば、
やっぱり、
何て言うんですかね、
医療を必要としている方って、
いろんな人がいらっしゃるんですけど、
本当に、
全人口的に来るし、
どっちかっていうと、
社会的支援がありてない方というか、
周りにそういう方が、
必要とされることが多いとは思うので、
それってすごく、
当時の若手だったからすると、
不思議な感覚であったり、
同時に何か、
貴いなというか、
そのために何か、
勉強してきたのか、
みたいなことを、
実感できる業界とか職業って、
意外とないと思うんですよね。
はいはいはいはい。
新学校に入って、
いい大学に入ったら、
多分そういう似たような人とするんで、
生き続けるみたいな仕事が結構、
世の中、なんだかんだ多いと思うんですけど、
本当に、
命とか健康は、
みんな平等なんでっていうのを、
強烈に、
ギャップにさらされる、
みたいな、
もしかしたら、
自分の中で、
医師になる方の、
一部にはそういう方もいらっしゃるのかな、
と思ったりもする中で、
すごく、
総合診療のっていうこととか、
っていうのは、
この後もいろんなきっかけがあられて、
その道に進まれると思うんですけど、
今後先生みたいな、
少年期を過ごされた方が、
すごく、
なるほどと勝手ながら、
肌落ちをした気分で、
今いるっていうところです。
本当に、
本当に、
もったいないなと思って、
やっぱり患者さんほとんどの人が、
医療者じゃないことほとんどなので、
僕もよく学生とか研修とか話すのは、
高校の時の友達とか、
マジ大事にした方がいいよっていうのは、
よく言いますね。
本当にそれこそ、
当たり前の就活とかですら、
僕ら経験しないんで、
本当に、
全然違う感じになりますから、
だからそういう普通のキャリアを描いてる人って、
患者さんとか、
ご家族も含めて、
どんな暮らしをされているかとか、
理解とか、
想像力とかも含めて、
医療としても重要みたいな感じのところで、
本当におっしゃる通りですよね。
なるほど。
どこに話を振っていこうか。
最初のアジェンダに、
今から移ると、
違和感があるかもしれない。
いやいや、
全然、
そんな、
総合診療との出会いの方が、
いいのかもしれないですけど、
総合診療、
医学部に勤まれて、
医大に勤まれて、
医師になられて、
この先生が、
総合診療的なものとの出会いは、
思い返す、
一番最初はあそこだったな、
みたいなのって、
どんなものっておっしゃるんですか。
いや、これ完璧ですね、
フリーが。
ありがとうございます。
僕の、
今いる藤田総心でできたのは、
2015年なんですよ。
僕が医師になったのは、
2014年なんですね。
なので、
先ほどお伝えしたみたいに、
初期研修、いわゆる研修いて2年あるので、
途中でできてるんですよ。
1年終わった時に。
それがたまたま、
僕の上司が、
麻生居塚っていう、
麻生太郎さんの
地元の居塚市ですね。
居塚総合病院って大きいところがあって、
そこで総合診療を学んだ上司が、
たまたま地元に戻ってくるって言って、
作ったのが、
この藤田総心なんですね。
藤田医科大学と豊田地域医療センター。
豊田地域医療センターというか、
豊田市の半官半御の、
第三セクターの病院なので、
豊田市と藤田が寄付口座っていうやつで、
豊田市にお金出してもらって作った大学の口座が、
そこにできていたと。
1、2年目になって、
僕は循環器内科医になりたかったんですね。
循環器って心臓の医者なんですけど、
豊田記念病院って、
すごい循環器の先生が、
中心になって、
すごい頑張ってる病院で、
循環器有名な病院だったんで、
すごいイケイケでかっこよくて、
僕も、総合診療とか、
患者さんを全人的に見るとか、
家族とか地域を見るって、
なんとなくは知ってたんですけど、
周りに本物の先生もいないし、
かつ、
年取ってもできんじゃね?
って思うところだったんですね。
若いうちは、
もっと救急でバリバリで、
死ぬか生きるか、
みたいな人を助けるのが、
大事なんじゃないか。
自分、ラグビーやってたんで、
体力もある方だし、
そっちをやるべきじゃないか、
みたいな感じを受けて、
ずっと初期研修してて、
2年目になった時に、
近くに、いい総合診療先生が来たらしいよ、
って言われて、
たまたま見学行ってきて、
ケイト、総合診療とかも好きそうだから、
行ってみたら?って言われたんですね。
で、それが、
もう、
研修院2年目の秋ぐらい、
なんです。
で、普通はもうその時には、
化を決めてて、
今ちょっと精度変わったんで、
もっと早いんですけど、
診療化ってある程度決めてなきゃいけないんですけど、
で、見学になんとなくポッて行って、
見たんですよ。
で、
そこからまだいろいろあって、
全然、最初、正直、
面白いと思わなかったんですよ。
こう、なんか、
キャリアの選択と同調圧力
その時の気持ちを思い出すと、
はい。
どんな、形容詞で言うと、
どんな感じとかだったんですか?
いやいや、なんか、
いいことやってそうだけど、
まあ、まだいいかな、みたいな。
まあ、僕はその時まだその、
バリバリで、
あの、救急とかそれに近いような、
はい。
キャリアモデルで、
やっぱり今も昔もデファクトみたいな感じのところを、
若い人はしっかりやりきった方があって、
やっぱりまあ、
みんなそういう感じの景色の中で、
それこそ自分の専門を選んでいくみたいな感じ、
なんですかね、
その景色とか、
まあ、同調圧力ってことのものはないかもしれないですけど、
まあ、普通交渉みたいなやつって、
やっぱあったりするもんなんですかね、
若手種のキャリアとして。
医療法人の立ち上げ
えっ、やっぱり同調圧力とかめちゃくちゃあると思いますよ。
うん。
もう逆に言うと、
やっぱりその、
どうしても、
あの、みんなが普通にやることやらなきゃなっていうので、
持ってきたのが影響制度だと思いますね。
で、それが今壊れかけてるのが、
よく直美直美とか今言いますけど、
直接美容外科に行ったりする人のこと、
直美って言うんですよ。
直美って言うんですか、すごいネイティングですね。
はい。
直美って書いて、
直美、美しい直美って書いて、
よく直美って最近ニュースとかに出てくるんですよ。
それのことを直接美容外科って言うんですけど、
まあ、
やっぱり大変な思いして、
5年10年やって下働きして、
やっと給料がよくなるぐらいだったら、
最初から、もう医者3年目とかから
2000万もらえるってこともあるんで、
練習が。
そっち行った方がよくないみたいなのが、
結構そうなってるんですけど、
まあそれは置いといて、
とりあえずそんな感じで、
なんか微妙かなと思って、
で、見学に行って、
まあ騙されたんですね、簡単に言うと。
気になりますね。
どう騙されたんですか?
騙されたんですけど、
僕は大学の時に1週間半ぐらい休みもらえたんですよ、
まとまって。
で、見学に行った日の次の日から、
僕、夏休みもらったんですよ。
で、
僕、もともと大学の時DJやってたんで、
スペインのイビサ島ってですね、
DJ、
クラブばっかの島みたいなのがあって、
世界中比例切れって言われてるリゾートみたいのがあって、
そこに行ったんですね、
職権種の同期と。
で、
友達か、大学の時の友達と行って、そのから帰ってきて、いろいろやって帰ってきた後に
委員長に呼び出されて、その職権主席の。で、お前見学行っただろみたいなこと言われて
さっきもたまたまその委員長をお会いしたんですけど、その委員長、純関係の先生で有名な先生なんで僕尊敬してるんですけど、その先生に言われて、いや行きましたけどねみたいな
で、お前そこの委員長から、あのうちの蚊に来年から来てくれるってことでいいですかって電話がかかってきたぞみたいなこと言われてですね。
外掘りを全力で。こんな話ここで言っていいのか知らないですけど、まあいいか。
その時やっぱりその2年目なんで多分必死だったでしょうね。僕らの今のいる文字社組織も、だから何としても人欲しいし、特に地元出身のやつなんて、まあ熱いじゃないですか。
残ってくれそうだから。地元ってやっぱそれだけ大きいことだと思うんで、なんか何としても入ってほしい。
で、そこからもそのもともと僕が職権収集した病院の院長とか内閣部長からも残れ残れと言われてるうちに、ここにちょっと天気が訪れるんですけど、なんかそれが自分のやりたいことなんかだってめっちゃ思うようになってたんですね。
従来型の牛刈り屋でっていうところで。
そう。その時総合診療まだ専門医にもなってないんで、本当にグレーゾーンみたいなところで大丈夫なんかって思われるのは当然だと思うんですけど、まあいろいろ調べれば調べるほど、やっぱりこうプライマリーケアって一番大事だし、最後の方、後半にもかかってくるんですけど、
一時期の中で、OECDの加盟国、いわゆる先進国とかだと平均2、3割がプライマリーケアの専門医になるんですよね。
でも日本は全然それ少ないと。でも絶対必要じゃんみたいな。
そういうふうに思うようになって、これはなんか自分が循環期で年に2、300人食うよりも、そもそも新規法則になる人減らせるかもしれないし、で、なると、実は総合診療になって、それができる人を増やすことの方が、結果的に僕は多くの人を救えるんじゃないかって思うようになったんです。
で、その頃からやっぱり、自分の価値の基準みたいなのができて、少しでも多くの人を救える方に常に舵を切ろうっていうふうに思ったんです。
自分のこの一生を使って医師とか医療者として働いていく中で、ちょっとでも多くの人を携わりたいし、ちょっとでも多くの人を幸せにしたいじゃないですか、健康で幸せにしたいって思いがあるんで、そうなっていった時に、結局、やっぱり総合診療の方が意味があるような気がして。
それで総合診療を最終的に選んだっていう感じですね。
当時の感覚だと結構キャリアのリスクというか、まあ怖さもあったけど、まあでも今みたいな話で、やるべきだ、やりたいんだというところで飛び込んでいったみたいな感じだったんですかね。
そうですね、あの僕のいる中小病院って実は僕が出身、中学校3年生転校してきた中学校の裏の病院なんですよ。
その裏の中学校なんですけど。なんですけど、本当にまあ、もともと小さい病院ですし、僕の母親とかもそこに来年からそこと藤田のプログラム行こうかなと思ってるんだよねって言ったら、本当にブチギレられて、何考えてんだお前みたいな。
ブチギレられて、すいません。
豊田記念みたいにいい病院に入ったのに、なんでお前そのとこ行くんだみたいな、そんなお前、アホかお前はみたいなこと散々もうパチギレられて。
喜ばれるかと思ったらブチギレられて。
全然全然、もうカチギレもカチギレも絶対やめろみたいなのをずっと言われて。
地元に来てくれてありがとうっていうフレーズは全然予想と違って、脳の処理が追いつかなかったんですけど。
本当にそんな感じでした。
そこからですね、ちょっと前半もそろそろ大詰めになってきてはいるんですけど、それで飛び込んでいかれて、でも本当に最初数名しかいなかった、一桁の3人とか4人とかっていうところから今100名というところで、
ちょっとお時間の上で全てお聞きできないかもしれないですけど、立ち上げの中でたくさん達成したとか、
成し遂げたことはあられると思うんですけど、一番しんどかったことみたいな、スタートアップっぽく言うとハードシンクスみたいなもので言うと、
あの頃は、あの出来事は本当にきつかったなーって思い出すものって何か思い出せるものってありますか?初期だったり中期でもいいんですけど。
ありがとうございます。あの、やっぱり初期は本当何でもやらないとダメでしたね、みんなが。
っていうのはあって、本当にもうリクルート、医者も全然来ないし、どうやったら魅力を作れるのかなーみたいなこと全部自分たち、
あのメンバーが全部負担しなきゃいけなかったので、なんで、
本当にあの、週3焼肉行って、週3医者誘うとか、
体力はそのハードじゃないんですけど、金とかもめっちゃかかるじゃないですか。
そうですね、こう、あの、なかなかあまり医師の方々とか先生方が、
やる仕事かって言うとあまりそうですよ。 いやもう本当に、なんかすごい、すごいハードな営業みたいな感じで、もう本当に、
焼肉行って、もう一番なんかその辛かったのは、すごい、
あの入ってほしいな、みたいな感じの女子が来るから、勧誘に行くぞって言って、で、名古屋で勧誘で飯食うってなったんですよね。
でも金なさすぎて、もうとにかくその勧誘で食う飯の量を減らそうって言って、
一緒に行ったやつと二郎系のラーメン食ってから行きましたね。
なるほど、あの接待する人にはお肉を食べていただくけど、自分たちはもう無理。
もうちょっと、ちょっと減らそうみたいな感じ、それぐらいもうあのカツカツだった時はありました。
まあ、それって一応こう念のため競わなきゃいけないなとすると、自腹でというかこう職員の皆さんが、もう経費とかじゃなくて、もう完全自腹で。
すごいですね、なんか下手したらもう、あのスタートアップの創業メンバーでももしかしたらそこまでやってないかもしれないぐらいのこう、
水煮の切り方。
まあ、あのこれ一般企業とやっぱ違うところかもしれないですけど、どうしてもその医療法人とかなんで、その経費とかって言っても普通は使えないじゃないですか、そんなあの普通の会社、一般企業と違うので。
自分らがその理事長とかだったりですけど、基本的にやっぱりそういう人じゃないので。
なんで、あのそうなってくるとやっぱり自分たちで最初のうちはちょっと負担しなきゃいけないし、
まあ僕の上司もでも考えてその分給料を頑張ってあげてくれたりとかしてたので、そこから出てると思ってもやるしかないという感じでした。
でもまあそれを僕らも最初本当きつかったので、徐々にその関与費みたいな感じで、一回いくらまで使っていいよみたいなのを制度にしていくっていうまでのところがすごい大変でしたね。
いやもうね、異曲の、異曲というかまあ立ち上がりを置きしてるはずなんですけど、スタートアップの創業物語にしか聞こえないですね、グロースする異曲の一番最初の頃っていうのはですね、このなんか焼肉っていうのはですね、結構知り合いのベンチャーキャピタルで大学発でたくさん会社を生み出してる、僕は兄さんとしたベンチャーキャピタリストが一人いるんですけど、
その人も立ち上げ当初はとにかく焼肉をひたすら奢るためだけに生きてるぐらいで、このシーズで起業しませんかって人をなんかその大学の門の前で学生さんも集めながら焼肉を奢り続けてる人が、今でもたぶん奢ってると思うんですけどいて、
最初はラーメンから始まって、いきなり焼肉だと破産するんで、1回目はラーメンで、この人筋いいなとかですね、すごいなと思ったら焼肉にクロージングがいくみたいな感じのそういうコースがあるって、この間僕の地元の横浜でその人も来てもらってしゃべってもらいました。
やっぱあの、医者は単価高いんで焼肉か寿司にしてましたね。
いやー、言ってらんないですねそれはね、採用活動やってるかわからず。
医者でラーメン送られてもたぶん何も思わないんでみんな。
そうですね、いやだからこうすごく、あのー、ウィットメントが求められる立ち上げを、一、メンバーのはずなんですけども、あのー、より、やってる中で、
あ、すいません、こんなんで締めていいのかわからないですけど、前半。
あと一個だけいいですか?
どうぞ。
あとやっぱハードシングスっていうので、もう一個やっぱ辛いことがあるとすると、やっぱりフェーズが変わる時ですかね。
メンバーが増えてきて、それこそこう、なんかちょっとできることになって体系化されてくると、自分一人が全部を見れないじゃないですか、やっぱり。
なんかそう寂しいところがあって、たぶん自分結構その立ち上げ屋っていうか、割とこう病院でも、こう01が好きなんで、そこじゃない立場になった時に、
ギャップができた時に、そこを乗り越えれるぐらいビジョンが持てるかどうかっていうところで、やっぱり辞めたくなったりとか、仲間がいなくなったりとかっていうのは経験するんで。
ここでさらにやっぱりもっと、僕ら今、これ次の話につながってきますけど、やっぱり日本で総合診療をインフラにしたいとか、
すごい人数の意思をちゃんとプライマリーケアができるようにしたいなって思ってる方を考えるとまだまだ足りないなと思うので、まだ頑張れますけど、
やっぱ一段落着いた時にやっぱりちょっと組織離れた方がいいんじゃないかなみたいな考えはどうしても、自分も出たこともありますし、
そうやって離れていったメンバーもいるんで、やっぱそういうところがちょっと辛いなと思ったところがありましたね、やっぱり。
プライマリーケアの重要性
なんかこう、その辺が業界語でシリーズDのスタートアップの創業者にってことを聞いてるような感覚になんか。
僕01をするために起用したはずなんですけど、あの子を一緒に共にしたい人ももう起用して別の会社やっててとか、
管理職になりたくて別に起用したわけじゃなかったけど、しなきゃいけなくって、みたいな。
でもどんどん実務から跳ねなきゃいけないけど、01は自分しかできないから新規企業を自分が担当しててみたいな、そういうことをよく聞くんですけど、
そういうちょっと先のフェーズに行ってる業界のこともやりがいでもあるけど、ちょっと寂しくも多いみたいな感じだと、
完全にこうシンクロしてるやつが今、やっぱり。
やっぱり。
先生のお話を聞いてるはずなんだけど、すごくなんか既視感のある、
判明を受けました。
すいません。
ですのでね、そんな藤田聡進さんのっていうところで言うとね、
意気込みなんでIPOとかないから、これからも。
はい、頑張る。
ぜひ前半編はですね、こういった形で近藤先生のですね、
おいたちから藤田聡進さんとは何かとか、
でも焼肉の話とかちょっとコンテンツ力強すぎてそれに皆さん引っ張られてるかもしれませんけど、
本当にお話いただききれなかったですね。
黒話だったりとか逆にやりがいだったりとか、
一人一人の役員の先生方のキャリアチェンジのきっかけだったり、
それを通して総合診療、プライマリケアの日本の救援というところの真現地になっていただいているのが、
藤田聡進さんじゃないかなっていうのを少しでもお伝えできたらなと思うので、
このボートキャストのですね、概要欄とかにリンクを貼らせていただくんで、
ぜひ気になった方はウェブで藤田聡進と、総合の診療と書いて藤田聡進と検索していただくか、
概要欄からぜひ見ていただいて、
ゆりやかにですね、このH3Sは医療系の方もいらっしゃいますし、
医師の方もいらっしゃいますけど、
エンジニアの方とか、リサーチャー、研究者の方あったりとか、
ビジネスの方とか、いろんな方が参加いただけたので、
パワード量をですね、だいぶ下げていただいたと、
久しぶりに呼んでいるこの近藤先生らしく、
何かご一緒したいこととか、気になることがあったらお忙しいとは思うんですけども、
もちろんです。
いろんなことが一緒にできたらというプロジェクトとか、
みたいなものはぜひお気軽にご連絡いただければと思っておりますので、
よろしくお願いします。
前半戦このあたりで区切らせていただいて、
というところでまた後半の方に行っておりますので、
一旦こちらで失礼できればと思います。
近藤先生どうも貴重なお話ありがとうございました。
はい、ありがとうございます。
48:09

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