残念ながら、うまくしゃべれませんでした。
以下にまとめます。
フレキシブルな幸せ
「幸せ」にはいろいろな形、レベルがあります。その時々の状況に合わせてフレキシブルに「今ここにある幸せ」を感じ続けて生きられるようになるとすごく理想的(すごく難しいけど)。
「幸せ」って不思議。人間以外の動物は不幸だとか幸せだとかいちいち考えない(たぶん)。
家族がいるから幸せ。その通り。健康だと幸せ。大事です、健康。年を重ねてひしひしと感じることも多いです。お金が十分あるから幸せ。お金は大事だよ。お金に困る人生は辛い。
――確かに(一般的には)そうなんだけど、それが欠けたからといって、イコール「不幸」、は限らない。
イマココにある幸せに気付く力、大事と思います。
ないものねだりじゃなく。
極端かもしれないけど、息ができる幸せ(多分宇宙にいった後なら、今ここに酸素があって幸せ、と自然に思えるような気がしますが、そうじゃないとなかなか難しい。ちょっとだけ息を止めてみたあとに息をしたら、いきてる!と感じられます。)、もうちょっとわかりやすいところでは、ご飯食べて幸せ(これはわかりやすい)とか、睡眠欲を満たして幸せなどのプリミティブな幸せはわかりやすい。
ちょっと後ろ向きな考え方かもですが、ひととのコミュニケーションでいやな気持になったときは「別に殴られたわけじゃない」と思えば、あとは自分の気の持ちよう次第だと気づけます(とはいえ、言葉の魔術師は言葉で殴るのと同等以上のダメージを与えることもできると思うので甘く見てはいけないですけど)
ちょっと極端な例を並べたけど、「これで満足しろ」ってことをいいたいわけではないんです。「〇〇には今日食べるものにも困っている人がいるんですよ!」というような話。確かにそうかもしれないけれど、だからといって、だから自分は幸せだと思わなければいけない、とかいうことでもないと思います。
もっと豊かになりたい、夢を叶えたい、誰かを幸せにしたい、愛されたい、認められたい、承認されたい――愛して、愛して、愛して、、、そう思う気持ちも全然否定するものではないです。
言いたいことは、それがないときに不幸になるのではなく、今ある幸せに気付いて今でも必要十分幸せ、という立ち位置に立つことはたいていの場合可能ですよ、ということです。
柔軟でいようってことで、逃げようってことじゃないんです。
むしろ、どんな状況でも自分なりの幸せを見つられる力、幸せ見つけ力を鍛えるのは(筋トレと同じくらい?いや、ウォーキングと同じくらい?)有意義だと思います、という話。
そして、その立ち位置に立つことは、自分のメンタルの健康のためにいいし、もしかすると、結果としてより幸せな場所、方向に向かいやすく効果もあるんじゃないかと思います(個人の感想です)。
1秒後に1回の息ができる幸せをかみしめる時も、大きな夢に向かってわくわく進んでる日も、好きな趣味に没頭しているときも、どれも幸せ、と思ってます。
という話でした。
サマリー
今回のエピソードでは、幸せの定義の柔軟さについて探求している。特に、幸せを感じる力や気づく力の重要性、そしてそれを実現するための方法について論じている。