Satieさんのキャリア
こんにちは、ハタラクボクラです。この番組は、毎回違う働く人をゲストにお迎えして、働くことについてのお話を時に広く、時に深く聞いていくことで、働くって何だろう?を考える番組です。
今回のゲストは、Satieさんにお越しいただいております。どうぞよろしくお願いします。
よろしくお願いします。
Satieさんって、さんづけして呼んでしまったものの、大学1年生ぐらいからの付き合いなんで、もう言っても10年以上の付き合いとなる友情があるんですが、
長いものでね、改まるとちょっと緊張しちゃうんですけど、意外とこういう話聞くことも少ないなとは思っていて、
まず、この番組で最初に聞いているのが、あなたのこれまでのキャリア、職歴を教えてくださいっていうことが一つと、
働き始めてからの最寄り駅、どんな駅に住んできましたか、これは差し障りのない範囲で、
っていうところの2つなんですけれど、これまずちょっとそれぞれ教えてもらってもいいですか?
承知しました。よろしくお願いします。
私は大学を出てから日系のメーカーさんに勤めて、その後外資系のITの会社に移ってというところで、
実は言うと今現在は学生という身分に戻りました。
職歴としては2年半ほど最初に日系のメーカーで勤めて、営業に近いような仕事をしていました。
その後の後半は外資系のITの会社に行って、それは一応ソフトウェアのコンサルタントというかそういった形で勤務していました。
ただもちろん後半の時期っていうのはコロナとちょうど時期がかぶってしまったということもあって、
お家で働くことが多いかなっていう時期が長かったんですけれども、まずそこが簡単な職歴ですね。
最寄り駅については、1社目にいた時はとある関西の地方の田舎の駅なので、
どちらかというとバスとかあるいは電車も一応あったんですけど、
本当に1時間に1本来るか来ないかとそういったような田舎のところだったので、
最寄り駅で言うとそういう関西のとある田舎であることが一つ。
後半は関東なので東京駅近辺ですよね。
丸の内とかそういうところではないんですけれども、東京の割とど真ん中辺りにオフィスを構えるところではありましたが、
緊急事態宣言等々をかぶったこともあり、あんまり出社に固執することはなくですね、
家で働いたり、あるいはたまに客先にお邪魔したりという形だったので、
割と最寄り駅が関東にいた時は結構ばらけてたかなというふうな感じです。
まずそんなところですかね。
ありがとうございます。
最寄り駅ばらけてたっていうのは、関東に来てから何回か引っ越したっていう?
いや、引っ越しては実はないんですけど、
ばらけてたっていうのはですね、一応最寄り駅で言っていいんですかね、
であると東京のいわゆる江戸っ子の空気感が残るようなところですね。
でっかい長寿院があるところではないんですけれども、
そういったところに住んではいました。
ただお店が開いてた時期と開いてなかった時期とそれぞれ交互にちょっとあったので、
割と地元に馴染みの店なんとかできはしたんですけれども、
いわゆるホームオフィスというか在宅を共生された時間が長かったりもしたので、
最寄りって言っていいんだろうかみたいな、
それにあれなんですよ、自転車通勤を当時始めてしまったんですよね。
電車に乗るのが若干抵抗があった時期も、
今は電車に乗ることに全く抵抗ないんですけれども、
今振り返ってみると無利益だけど、
そこを自転車で通過してた日々だったなぁみたいな、そんな風に思ってます。
なるほど、ありがとうございます。
そうすると、で、今はあれだよね、
外資のITは退職してる?
そうです、辞めました。
今はスペインで学生をやっていると。
おっしゃる通りです。
スペインのマドリードですね、
空港から本当に近いところに学校があるので助かってます。
いいですね、その辺の話をこの後詳しく聞きたいなと。
ぜひぜひお願いします。
ありがとうございます。
そういった関西のある田舎の町から江戸っこの空気感を経て、
マドリードにいるということで。
だいぶ変わりましたね。
だいぶ変わったよね。
変わっちゃいました。
確かにな。
まずは日系メーカーに勤めたっていうところから聞いていきたいなと思ってるんだけど、
大学卒業して、そこのメーカーを選んだのは、
なんでここで働こうと思ったのかって何かあったんですか?
ありがとうございます。
これなんか懐かしい感じですね。
懐かしいよね。
当時を振り返ってみて思うのは、
最寄り駅の話
やっぱり自分自身それまでの高校とか大学の間に幸いにも留学する経験を得ることができたんですね。
そういう機会をいただいたので。
その間やっぱり日本のメーカーの製品ですとか、
あるいは日本というふうに出身国を名乗ったときに、
何かしらの形でみんな知ってる、あるいはみんな信頼を置いてる国だという形で、
ポジティブな印象を受けたことが多かったんですね。
大学自体も通ってる間に、どういうところで働こうかなというふうに考えたときに、
やっぱりそういうふうに海外に何か通用するというよりかは、
自分が働くことによってその会社の知名度の維持に貢献するですとか、
あるいは海外の方々が持ってくれてる良い印象をやっぱり自分も受け継いでいきたいと。
自分がそうやって前の世代の方々から後も引き継いでもらったというとちょっとおこがましいですけど、
そういうふうな形で良い国だよねっていうふうに言ってもらえるような恩恵を込むたので、
これをやっぱり次の世代にも引き継いでいけたらなみたいな変な言い方をすると責任感じゃないですけど、
若干あったと言えばあったんですよね。
なので、それでぜひそういった会社に入れればなというところでメーカーを選んだというところがありました。
なので、なんでそこを選んだんですかって言われたら、
他にも自動車の会社さんとかいろんな会社がある中で、
自分自身出身が関西、出生が関西だったことで、できれば関西にルーツがあるような会社、
あるいは関西にしっかり根を張ってしっかり頑張っている会社で働けたらなというところで、
その会社を選んだと。
ここでね、聞いている方からすると関西のメーカーの人なんだなっていうのもわかっちゃうんですけど、
そうなんですよ。
でもそういう形で、だから知名度の観点と、
あとは本拠地を置いている、本社の置いている場所がどこだったかっていうところの観点で、
その会社を選んだという、その背景がありますね。
おもしろい。ありがとう。
もともと、大学の時も学部が国際系の学部だったんだ。
日系メーカーへの入社動機
そうですね、いわゆる流行りの学部でしたね。
流行りの学部、そうなんですね。
コロナでめちゃめちゃくちゃ止まっちゃったと思うんですけど、
復調はしようと思うんですけどね。
当時は僕でだいぶ若かったですね。
何期生かぐらいのカウントだったので、すごく若かったです。
なるほど。
ある種、海外での知名度みたいな、
日本の中にいても当然知名度はあると思うんだけれど、
海外に1回出た時に、その環境、その異質な異国の環境においても、
知られている、そして信頼感を持って使われている製品みたいなところには、
やっぱり結構印象が強くて、そこに携わりたいなっていう感覚だったんです。
おっしゃる通りです。
自分自身がそこに寄与することで、またその会社の信頼とか、
あるいは自分に対してそれを買わせるお客さんがいらっしゃれば、
国益に資するって言うとちょっと言葉が大きいんですけど、
その会社に何か投資してくれたら、お客様がそれを買っていただけたら、
少なくともその人に日本との接点をその製品を通じて持ったみたいに、
ちょっと拡大化したりすることですけどね。
そういうところに喜びを見出してた時期があったなっていうふうに思います。
もちろん今もね、日本製のものを使ってくださっている方、
いらっしゃればすごく嬉しいですよ。
さっきも教室で無地のペン持ってることがいて、
思わず話したりしましたし、嬉しかったです。
なるほど、面白いな。
何だろう、海外に出て日本のブランドとか製品とかが評価されていることを
すごく嬉しく思うっていう気持ちは僕もよく分かって、
そこに対してある種の愛着みたいなのが湧く感覚もすごい分かるんですけど、
そこからさらに一歩二歩進んで、
ある種の大きい継承みたいなものに自分も入ってみたいっていうのはすごく面白いなと思って。
それって何でだったんだろうなっていう。
確かにそうですね。
大きな流れの中に自分がいるっていう風な感覚にどうしてもなっちゃったんですよね。
これまた現代系になっちゃうんですけれども、
ちょうど311が起きた時に自分はとあるヨーロッパの国にいたんですよ。
その時に、あれほど技術力を持った日本という国が今こんな原発の事故で苦しんでる。
だから募金しようとか、だから反原発だみたいな。
潮流が世の中にもちろんその当時あったんですけれども、
ただ必ず守護として置かれてついて回ってたのは、
あれほど信頼感のある日本がといったような、
日本の特別な感覚と信頼感
みんなの期待値がすごく高い状態でセットされたんですよね。
こういうことって他のアジアの国々がなかなか、
ちょっと極端な言い方をすると差別ですとか、
あるいは違うような扱いを受けてしまうんです。
少なくともそれは悪い意味合いで、
異なる区別を受けて、
こっちで例えば生活を営む方々がいらっしゃったりとかする中で、
日本だけは何か特別な感覚を持って見ていただいたんです。
自分自身が別にナショナリストとかそういうわけではないんですけれども、
戦争が終わってから当時で言うと70年弱の時間が経つ中で、
こんなにも日本だけは、
マシンライトとかある種のブランドと言っても過言ではないと思うんですけれども、
その地位みたいなものを高めることができてたっていうのは、
戦後の世代の方々が本当に頑張って築いてこられた、
一つの遺産だなと思ってみましたし、
これが今度人口が減ることによってですとか、
あるいは中国が台頭することは別に悪く言うつもりは全くないんですけれども、
他国の台頭によって日本の存在感が落ちていって、
そういう守護がなくなっていく未来はちょっと悲しいなと思ったんですね。
もちろんきっかけになったのが原発の事故だったと言うと、
ちょっと言い過ぎかもしれませんけれども、
あれほど信頼感のある日本をこれからもついていきたいなという気持ちになったのは当時です。
ただもちろんその時は将来こういったメーカーで働きたいという気持ちになったかというよりも、
むしろこんなにその信頼を築いてくるのに時間を要した一方で、
それがこういうふうに崩れていくのも少し悲しいなというような、
自分自身が日本人であることを強く認識させた瞬間だったなというのは、
工場での勤務経験
今振り返ってみれば思いますね。
伝わりますか?
すごい伝わります。
結構その信頼感だったりというところに、
自分が初めて海外に留学した時とかに、
やっぱり恩恵を受けたりみたいなところも大きかったと感じたんですか?
そうですね、すごく大きかったです。
やっぱり当時、教室とかで募金箱を持って回っても、
大体そのいろんな国に留学された方々が言ってたのは、
人によっては僕はそこまで金額集められてないですけど、
日本円で言うと50万円とか100万円とか、
一人の留学生が頑張って動いたことで集めてた。
僕自身も日本円に関すると10万円ぐらいは集めることが当時できたんですね。
学校とか入ってた合唱団の方々のご行為で。
という形で見てみると、
他の国が同じような災害にあった時に、
募金はもちろんしてもらえるんだろうけれども、
自分が一人で周りの方の協力を求めて動いてみて、
それだけの金額を例えば1週間、2週間で集めることができたかというと、
多分そうはなってない気がするんですよ。
なので、そこはやっぱりある種のブランド、
信頼感というものが金額にも反映されてたところだったのかなというのは、
多少おこがましい発言になってしまったあれですけど、
思いますよね。
ありがとうございます。
ずっと現体験から何か通帯してつながっているものがあるんだなっていうのがすごい。
納得されましたか?
いや、全然あの人に納得もないよ。
納得とか、あ、そうなんだ。
意外とこういう話しないので、
友達同士でも。
なかなかできないですからね。
興味が面白いなと思って。
その日経メーカーの2年半の営業みたいなお仕事っていうのは、
実際にはどんな仕事内容だったんですか?
そうですね。自分自身、製造業にはTier1とかTier2っていうのは、
このラジオを聞いてくださった方々の中でなじみのない表現かもしれないんですけれども、
いわゆるB2CのメーカーさんがそのTierっていうのはピラミッドだという風に想像していただいて構いません。
その頂点にいると。
B2Cの会社の手前側にはいわゆるB2Bの会社がたくさん連なって、
一つのチェーンのような状態になっていますと。
そうするとそのピラミッドが上から順番にTier1、Tier2、Tier3、Tier4、Tier5、Tier6という風に連なっていくんですね。
じゃあTier1が何かっていうと、
例えば車の場合だったらエンジンを供給する。
もうそれを例えばアッセンブルというか組み立てることによって、
その2C向けの製品が完成するよと。
で、例えばじゃあTier6は何かっていうと鉄粉ですとか、
あるいは石炭の原材料に近いところですね。石炭の何かとかコールとか。
簡単に言うと原材料レベルのものをそのTierのランクがどんどんどんどん下に、
数字が大きくなっていくにつれて、
より小さなもの、ネジとか原材料とかその他になっていって、
それを組み立てていくことでTier6、Tier5、Tier4、Tier3、Tier2、Tier1という風に上っていくと。
自分たちがいたのはTier1あるいはTier2と分類できるような会社にいましたと。
今お伝えした言葉でおそらく伝わったと思うんですけれども、
自分自身がパーツを組み立てていたことによって、
2C向けの会社に収めるような部品を作っていたという風な理解でいただいて結構です。
なのでそこにいて海外のお客様、海外の2Cのメーカーさん、国内の2Cのメーカーさん、
あるいはTier2の場合は国内の2Bのメーカーさん、海外の2Bのメーカーさんに対して
配属されるポジションへの戸惑いと理解
自分たちの作ったものを収めていったと。
そういう風な羅列で考えていただいて結構です。
ありがとうございます。
そういうのってもう完全に配属されるっていうのが分かってから、
自分はそういうポジションになるんだっていうのが分かる感じだと。
そうなんですよ。これは大きなメーカーの悩みではあったと思うんですけれども、
配属面談っていうのがいわゆるよく最近の流行りのこと、
配属ガチャとかっていう言葉があると思うんですけれども、
そこで言うところの自分自身は工場の勤務になったので、
本社で例えば東京とか大阪とかでギリギラオフィスで働いている人たち、
いいなと思いながら見てた側の、指を込めて側の人間でしたね。
なのでこれは入社してからの発表でした。
はいはいはい。
それは正直なところどういう気持ちで受け止めてたんですか?
例えば、どうしよう、海外での印象みたいなところよりは、
もうちょっと物理的にもおそらく遠いだろうし、
場合によってはもともと抱いてたイメージみたいな実感も持ちにくいのかなとかも想像したりする。
もちろん一番大事な部分でも一方であるんだけれど、
それは当時のサティはそれをどう受け止めてたんですか?
同じようなとおりですね。最初は言わなかったんですよね。
やっぱりこう、現実と理想はもちろん違うじゃないですか。
簡単に言うとその真理に気づけたっていうのが大きかったんですけど、ポジティブに言うと。
でもすごく本音を基にして語ると、工場勤務と言われたときに、
メーカーの最前線、言葉ではね、いくらでもきれいに言うことができるんですけど、
メーカーの最前線であり、その現場を知ることによって、
例えば原価表の原点というか、一番細かいところは、
ちゃんとその実感を伴って理解ができるビジネスの正体を掴むのには、
現場が全てだというふうにおっしゃる方もいたので、そうかと思ってはいたんですが、
工場に行ってみるとね、現実としてはあるのは朝はラジオ体操から始まって、
右よし左よしとか、ご安全にとか、そういった標語があるんですけれども、
そういったこともルールとしてやらなければいけない。
そういった時に、これは果たして本当に意味があるんだろうかというふうに思ったことだとしても、
結局それは伝統として続いているからさ、守らなければいけないというふうになるんですとか、
今おっしゃったような質問に立ち返ってみると、
最初は最前線を知れるからいいかなと思っていたんですが、
実際に配属されて日々過ごすにつれて、まだラジオ体操はいいでしょう。
ただ、この伝統的な、いわゆる会議形態には意味があるんだろうかと、
もちろん時代が時代だったので、多少なりと無駄をなくしていきましょうですとか、
ぜひ改善を続けていきましょうといったような空気感はあったといえども、
やっぱり簡単に人って変われない、あるいは変わらないものだと私は思っているんですね。
それを踏まえてみると、やっぱり工場配属というのはすごくしんどい時期だったなと思います。
なので、該当になっていますか?
なっていると思います。
なるほど。
2年半勤めて転職を決意したのは、そのあたりのしんどさみたいなのも理由にはあったという感じですか?
それとも、もうちょっと別のモチベーションがその時あったんですか?
両方ありますね。
大企業の慣習に苦しむ人々
まず、辞めたかった理由としては、やっぱり2年半見てみてもなかなか変わらないのかなというのが一つあったほかには、
やっぱり、外からの圧力が変わらない限りはなかなか簡単には変われない。
それは良くも悪くも日本の古き良きあるいは悪しき習慣というものはずっと残っているものなので、
おそらくこのラジオを聞いてくださっている方の中には、そういった伝統的な大企業に勤めていて、
変わらない慣習にちょっともがいている方も一部いらっしゃるかもしれません。
自分自身もそこにもがいたというか、ちょっと苦しかったなというふうに思ったところがあったので、
ぜひここはちょっと抜けてみたいというふうに思ったのが一つ。
後者が転職の機会を求めていたのかというところなんですけれども、
ポジティブな意味では、違う職種にチャレンジできる機会があるとしたら、
おそらく第二新卒ぐらいしかないのかなというふうに思ったんですね。
なので、コンサルタントという仕事にちょっと挑戦してみたいというふうに思った気持ちもありました。
なので、辞めたかったことが一つだし、新しい職種にチャレンジしたかったのが理由で、
その2つで辞めたというのが当時の背景ですね。
いいですね。このね、多分ポッドキャスト聞いてる人は完全に声だけで聞くんであれですけど、
このめちゃめちゃしっかりした喋りの中に、ちゃんと辞めたかった、しんどかったっていうのが聞こえてくる安心感ね。
そうなんですよ。
あるよなって。
すごくしんどかったですね。やっぱり、よくもあるかも、SNS見てると同期が海外出張行ってるとか、
同期が東京のおいしいの宮の写真とか様子とかやっぱり上げちゃうわけじゃないですか。
最初はあんまり気にしてなかったんですけど、仕事のしんどさが増えていくにつれて、
うわあ、なんで同じ入り口入ってるのにこの人たちは違う、こんな恵まれた環境にいるんだろうと思っちゃったんですよ。
何でもって恵まれたっていうのは人によって違うのは事実なんですけど、
少なくとも当時の自分からすると、車宅に東京で安い値段で住めて、
交通費を例えば、最初にバスで移動してってお伝えしたんですけど、
そのバス代も飲み屋代に変えられるわけじゃないですか。
かつ、通勤だって当時僕は自転車だったんですけれども、彼らは定期代を会社から支給してもらうわけですよね。
つまり、プライベート代にお金をかけずに東京というすごく地乗りの良い場所に住めて、
大学とか高校かわかんないですけど、
お友達と何不自由なく会えるっていうのは、年月を重ねるにつれて見ていてすごくしんどくなっていったっていうのが正直背景としてはありましたね。
なので別に嫉妬か妬みかと言われたら、そうではないと言いたいものの、
友情がそこにある手前、それはそうですとは言いませんが、
ただ、見る自分自身に苦しんでいたっていうのもあります。
なので、彼らのことは今でも大事に思っていますけれども、
当時の自分はそれを見ることによってすごく苦しんでいたというのはありましたね。
いや、確かにその、なんだろう、すごい対比的に見えちゃうというか別にね、
いう感覚はすごいわかる気がする。
メーカーに勤めて仕方ないんですけどね。
ある種、見えない方が楽だった部分みたいなのもあるのかもしれないですけどね。
そうなんですよ。
ありがとうございます。
なんかまあ個人的には確かにあの期間あんまりサティと連絡、
なんかあんまり来たり連絡取ること少なかったような気がするなっていう印象はまあ、ありますね。
だから当時はありがとうございます。
なるほど、一旦そしたらまずはこのね、
一社目に勤めて、そして次の会社に行こうチャレンジしようってなるところまでかかったので、
後半ではですね、またソフトウェアの会社ITでのコンサルのお話とか、
今のマグリードで何やってるのかみたいなところを後半でまた聞いていきたいなと思っています。
はい、ありがとうございました。
ありがとうございました。