浜田幸一のルーツ
おはようございます、浜田幸一です。今日は初ライブなんだよね。どなたか来ていただけると嬉しいんだけども、今日は何をお話したいかというとですね、僕の実績を見ると、すごいなというふうに勘違いしている人もいるかもしれないので、僕のルーツを今日お話したいと思うんですね。
要するに、僕は九州の熊本県の水俣市が出身なんですけども、そこでモンモンとした日々、セミナー講師になる前の話をしてみようと思うんです。
テーマはね、人生は夢と出会いだね。そういうことをちょっとお話してみたいんです。
僕のスタートはウォレットディズニーなんですよ。どういう意味かというと、昔ね、ウォレットディズニーってまだ生きてた時にテレビでですね、彼らプレゼンテーションをやってたんですね。
自分で。今日はおとぎの国、野生の国ってですね、白雪姫とかピーターパンクとか、彼らプレゼンテーションして4つの部屋ぐらいをテレビで見てたんです。
それを見てたんですね。その時にね、ピーターパンク、白雪姫を見てね、綺麗だなと思ったんだよね。まだ白黒でした、当時はね。
そういう世界に行きたい。言葉を聞いたらですね、まあ吹き替えだったんだけども、どうやら聞いてる言葉は日本語と違うんだよね。
母親に聞いたら、それは英語って言うんだよね。あ、そうか、英語が話せるようになれば世界に出れるんだなと思ってました。
そこがね、原点になりました。あのファンタジーの世界。そういうふうな世界にね、行きたいなってことを僕は思ってました。海外に行くまで思ってましたね。
それが僕の最初のスタートになります。
実家はですね、建設業です。熊本県の三河橋というところで有名だよね。
浜田建設というですね、小さな建設会社の親父がやってました。社長で、従業員も30人ぐらいいたのかな。
そこのボンボン長男で生まれたんですね、僕はね。
当然、後継というレッテルを払えるわけですね、田舎は。家族構成はですね、母親と三つ目にあれがいます。
そして八つ下に弟がいるんですけども、とりあえず長男に期待されるんですけども、長男の時はね、期待外なんだよね。
なぜかというと、どうやらもう建築の方法が合ってない。親が引いたレールをずっと大学までは走ってきたんだけども、なんかやっぱ合わなかったんだよね。
東京の大学を出て就職活動をしたいと思った親父がね、俺が鍛えるから帰ってこいって言うんですね。
それでその甘い言葉に騙されて、僕は就職活動をすることになったんですね。浜田建設株式会社の3代目。
とりあえず専務だよね、社長の前。何も専務、何もわかんない。22歳で就職したわけですね。
まあやる気ないよなって言ってね。だって、僕にはもう夢がありました。それはね、前、女性教師との出会いってことで話してたんですけどね、このスタイルでも。
興味がある方はね、そこでその番組を聞いてみてくださいね。9歳でその女性教師と会ったことで、僕はもう教育関係に行きたいっていうのは決めてたんですね。
そういうふうな経緯だったんです。
毎日つまんないんだよね、発球って。現場のことはわかんないし。
ちょうど最初に入った現場がね、何だったかっていうと、消防署だったんですね。
消防署をつくって話してたんです。
工程会議とかあったけど、全くわかんない。いろんな業者、いろんな人間関係があるわけですね。
青年会議所での出会い
そこは例えば、電気工事の方、車間工事の方、あるいは大工さんとかね、いろんな人が来るわけですよ。
工程会議っていうのがね、打ち合わせがあるんだけども、1週間に行って全くわかんないわけ。
現場用語わかんないし、経験ないし、キャリアもないし、やる気ないし。
ところがその、一応ね、会議には出るんだよね。
ちょっと東山さんというですね、都市計画の方がですね、
浜田建設さん、何かありますか?って言ったらわかんないじゃん。
だから、ちょっと何かあったら後で持ってきます。
いうぐらいしか言えないんだよね。
今日はね、大体20分くらい話そうと思ってますので、よろしくお願いしますね。
で、何をやったかというとね、もう3つのことをやりました。
30歳で本を書いて、講師になりたいという夢を持ったんで、
まずね、本を読んだりとか、自己ケアですね。
すごーい高く、高いね、テープを買ってましたよ。
SMIと言ってね、150万くらいするのかな。
学割か何かで買ってね、ずっと聞いてましたよね。
そしてね、やってたのがね、英語。
ウォルト・ディズニーの未来に行きたい。
まあ、講師になって英語が使えればいいなと思って、英語の勉強をしてたんですね。
そして、それからね、陸上競技をやってました。
走ることはちょっと得意だったんですね。
高校時代まで自分はやって、インターファイまで行ったんですけど、
大したら選手じゃないよね。
九州で通用するかしないか。
種目はね、いろいろやってたんですよ。
短距離400m、中距離400m、ハードル。
それからね、1500m、5000mまで走ったんですけども、
短距離もやる、ハードルもやる、長距離もやるっていうね、
絞れなかったからあまり耐性しなかったってことはあるんだけど、好きでやってました。
で、高校3年生までやって、4年間は大学生の時は同校会にいたんだけども、
とりあえず目標設定をしたんですよ。
帰ってきて、400mで県で優勝する。
それから400m、ハードルで国体を狙うと思ってました。
長距離もやりたかったので、駅伝もやりたいなと思ってました。
そしたらね、町の人たちが非常に親切なところでその体制を受け入れてたんですね。
そして、中学校の同級生の友達が帰ってきてくれたんで、そこそこ戦力は揃ったわけ。
だから、県大会でとりあえず優勝しようぜっていうね、
県大会っていうのは県の運動会だよね、各市町村で。
そういう目標を持ってたんですね。
でもね、やる気ないよ、はっきり言って。
それはあるけども、仕事のことわかんないし、人間関係はむちゃくちゃだし、
やる気があるんだけども、
当時の僕は自分さえ頑張れれば成功できるっていう変なプライド、夢を持ってたんで、
なかなか前に進まないんだよね、はっきり言って。
そういうのは生活をしてましたよね。
青年会議所に入ったなって言われたんですね。
青年会議所っていうのはJCって言うんですけども、
これは簡単に言うと、ライオンズクラブとか、
あるいはロータリークラブのミニチュアバーみたいな形で保護したみたいなんですね。
中小企業の2代目、3代目のオーナーの息子さんが入ってるんだよね。
全国で6万5千人くらい当時はいたから、そこに僕は入ったんですね。
そこであまり人間関係は良くなくて、はっきり言って浮いてました。
変な奴だなってレッテルが貼られてましたよね。
趣味が自己嫌悪、陸上なんだもん。
そこに入ったんですね。
ところが全国組織だからね、いろんな全国大会とか行ったりとか、
それと地区大会とかあるんでね、そういうところに入ってね、
とりあえず活動はやったんですね。
そこに宮崎翔吾さんというのがいたんですね。
この方が僕の人生を開いてくれた方なんです、実は。
同じ委員会にいたんですよね。
僕みたいな人間でも彼は受け入れてくれました。
そして僕は英語ができたんで、
その当時、小学校3年生くらいまでの子どもたちで英語を教えてたんですね。
分かりやすく楽しく。
それが僕の生き抜きでもあったんですね。
その宮崎さんという方が自分の息子さんとかね、
友達の人に声をかけてくれて、十数人ね、本当に振り込んでくれたんですよ。
ありがたいよね。
そしたらね、総合しているうちに、
24歳の時に面白い出来事が起こったんです。
そこに人生が変わる出来事だったんですけども、
青年会議所っていうのはですね、全国組織なんですけども、
熊本県は16の地区があるわけ。
これロムって言うんですけども、
要するに16の団体で一つの熊本青年会議所。
これJCって言うんですけどね、ブロック協議会ってのがあるわけ。
だいたいね、そこは青年会議所ですって言うだけで仲良くなれるのはどこでもありがたい。
こういうことです。
スタイフみたいなもんでね。
いろんなところに行ってたんですけども、
僕はそこに行ってましたよね。
だいたいね、ブロック協議会とか持ち場でやるんだけども、
だいたい式典があって、飲み会があって懇親会で終わりって感じだったよね。
ところがところが、僕にすっごいチャンスが来たのはね、
福岐青年会議所っていうね、福岐っていうのは熊本県の真ん中付近にあるところですけども、
そこのね、勝永和夫ってこの人僕の大切な恩人なんだけども、
この方が面白い企画を考えた。
青年会議所の人たちはね、飲んでばっかりいるから、
たまには外に出て運動会でもやろうっていうことを言ったわけよ。
そして16のロムっていうがあるよね。
それで16地区で運動会をやろうということを言ったわけ。
そしてそこのブロック会長がね、またそこから出てたんですね。
一番トップ、要するに熊本ブロック長というのだったね。
そして福岐青年会議所の理事長は勝永さんという方だった。
そして運動会があったわけですね。
福岐はね、みんなまた青年会議所というところなんだけども、
メンツが結構揃った時にね、足が速い練習が行ったわけ。
しかもですね、勝永という人はですね、勝算があったわけ。
なぜか長距離を走るやつもいるし、そこそこ速いやつがいるということで、
絶対にいろんな出し物をしても勝てるという勝算があったんですよ。
それでリレーと1500メートル。
これはですね、得点をですね、3倍ぐらいにしてたわけ。
そこで得点を獲ったというのは、地区は優勝する可能性が高いんですね。
あと踊りとかね、あるいは障害物競争とかいろんなアトラクションがあるんだけども、
ここがね、うちはメンツが揃ってたわけ。
リレー走るのは速い練習も多いし、1500メートルはね、僕のちょうど箱だったわけ。
運動会と恋の物語
なぜかというと、僕は400メートルと1500メートルで、
交互にですね、熊本県の選手権というのが出てたんですけども、
400メートルのカードはね、3連敗したんです、とりあえずね。
それは国会に行けなかった。
1500メートルは、その年はね、県で7番だったの、県の選手権で。
4分6秒長かったかな。結構ね、そこそこいい話なんで。
普通の一般の人と走れば、大人と子供ぐらいの速さに違いがあったんですね。
その種目があったわけですよ。
ところがその笠原さんというのはですね、絶対に勝てる。
うちは特訓してきたやつがいるからって言ってたわけ。
しかもね、その走る子はですね、20代の子だったんだけども、
彼女がいたって事実は。
そして彼女の前で、俺は絶対に運動会で優勝して君にプロポーズするかと言ってたわけ。
それで彼はですね、もう燃えてたわけですって彼女も期待したわけですよ。
ところがいざですね、まず1500メートルが始まりました。
もう一人ですね、九州一周駅を走った先輩がいたんですね。
そこそこ走れる先輩がいたんですよ。
その方と僕が2人代表だったわけです。
そしたらね、やっぱり早いよね。
1500メートル、300メートルのトラックを5周するんだけども、
僕はそのですね、勝永さんが自信を持って送り出した彼を一周抜いちゃったんだよね。
そして2年もうちのチームはぶっちぎり優勝したんですよ。
これ完璧なプレゼンテーションだよね。
そしてその勝永さんというのはですね、なんかあの旦那みたいな男みたいな形で、
僕に非常に興味を持ってくれたんです。
そしてもちろん室区町の金谷さんという方もね、
あの水又青年会所の彼は誰やという話になって、注目を一心に浴びたわけですよね。
そしてね、その後日産があるんですけど、どうなったかというとね、
結婚する予定だったんですけど、彼は結局旗になったそうです。
情けないと。
ああ、悪いことしたなあと思ってたんですね。
そして数十年ぶりにその時の話を勝永さんの言葉にしたわけ。
先輩、あの時には彼には気の毒なことをしましたねって言ったんですね。
濱田君、四ヶ月待ったと言うよ。
あの後ね、もっといい彼女ができてね、彼は結婚してね。
そこにね、養子みたいな形で入ったけども、そこがねものすごく発展して、
彼はね、ものすごく今、地位人生を取るんよ。
だから濱田君、人助けをしたよって言われて、よかったなあと思うんです。
そしてね、その後、あと話があるんですね。
青年の船の冒険
ここから僕の人生が開けていくわけ、実は。
ちょうどその時に青年の船ってのがあったんですよ。
青年会社のメンバーが一年に一度ですね、リクルートしたんだけども、
第12回青年の船、これに乗れることになったわけ。
というのは締め切りは過ぎてたんだけども、僕は何とか外に出ないと思って、
宮崎さんにそのパンフレットの話をしたわけ。
青年の船っていいですねって言ったら、分かった分かった。
これがね、ブロック長と、それと勝永君に誘ってあげたいって言ったんですね。
言ったら僕の活躍を目で見てるんで、そういう人間だったらぜひ青年の船に乗ってくれっていうことで、
もう締め切りが過ぎていたんだけども、その青年の船に乗ることができたんですね。
ここでね、また人生の大どんでん返しが起こるんですけども、
その青年の船というのはですね、簡単にお話ししますと、540人乗ったんだよね。
新桜丸という帆船に乗って約2週間の船旅です。
神戸のポートピアを出てですね、それから香港、台湾、沖縄に帰ってくる約2週間の船旅なんですけども、
これがめっちゃ来てるわけ。
540人の内訳はね、360名がスターホークアイドウから南や九州、沖縄までの勤労少年少女40歳以下が乗ってきました。
そして80名が青年会議所のスタッフ、これがお世話係なんだよね。
そして80名が海外招聘船員といって、世界25国から非常に優秀な男女が届いたんです。
あと30人が、これがね、講師の先生が12名と、それと病院の医者の方とかスタッフが30名くらい乗ってですね、総勢540人の青年の船に乗ったわけです。
そこで僕はなんとね、クラブ活動のスタッフに呼べたんだけども、そこでこういうふうなアンケートがあったわけ。
英語喋れますか?海外招聘の青年が乗ってくるからね、話せる、話せないにあったわけ。
僕はここにね、話せる、大得意ですって書いたんだよね、鉛筆で。
そしたらね、そのクラブ活動委員会だったんだけども、濱原君はどうも英語ができるらしいということで講師接待になったわけ。
これがね、僕の超ラッキーラッキーラッキーだったんですね。
というのはね、講師の先生を独り占めできるわけ。
それはね、東京都知事にもらった増添洋一さん、それから大阪の真野真っていうですね、劇作家の方。
それから太平洋を一人持ちで、初めてですね、太平洋を単独ヨットで行ったですね、堀江圭一さんという方。
それから大阪府知事の真野とかですね、草々たるメンバーと仲良くなれたんです。
そしてこれが僕の運勢をね、開いていくことになりました。
ここまで話してですね、なんか閉鎖的な僕の人生、ここで一気に花開いたんですね。
次回はですね、それからどういう風になっていったかということをお話したいと思います。
ということで、ちょうど20分になりますので。
今日はですね、もう絶望の檻にいた僕がですね、ちょっと青年の船、青年が入って希望の光を見たっていうところですね。
今日はお別れしたいと思います。また次回お会いしましょう。
よかったらまた遊びに来てくださいね。
それでは今日はこれで終わりです。ちょうど20分ですね。