2025-09-27 11:45

第346回 「本当の私は誰?」―日本語の仮面とアイデンティティの秘密

日本語には 「先輩・後輩・私・僕・俺」など、自分や他人を表現する、いわゆる「人称代名詞」がいろいろあるわけですが、英語だとこんなにバリエーションがないんですよね〜💦 この背後にある文化的な背景と心理的な影響についてお話をしました!

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サマリー

このエピソードでは、日本語における「先輩」の概念や日本文化の影響を探求している。また、アイデンティティの変化や日本社会における一人称の使い分けについても論じている。日本語の一人称の使い方がアイデンティティや自我に深い影響を与えることが議論されている。言葉の多様性によって文化やメンタリティが形成されることが考察されている。

日本語の先輩の理解
こんにちは。言葉で人の未来を開く英語指導メンタリストのはじめ先生です。
このチャンネルでは、思考を変えることによって、英語力と人生を劇的に好転させる秘訣についてお伝えしています。
今日のテーマは、「本当の私は誰?日本語の仮面とアイデンティティの秘密」というお話です。
英語のレッスンをやっていてですね、よくある質問なんですけど、
私の先輩がとか言いたいんだけど、先輩って何て言うんですか?みたいな質問って結構あるんですよね。
特に学生さんですね、部活の先輩がとかって言いたくなるじゃないですか。
そういう時に、なんて言うんですか?って聞かれて、例えば、
My old friendでいいんですか?って言うと、
My old friendって言うと、昔からの長い付き合いのある友達っていう意味になっちゃうんですよね。
っていうことを説明すると、じゃあ、My older friend、比較級ですね、ERをつけて、より年上の友達ってこれでいいんですか?って言うと、
いや、その言い方もしないよね。
じゃあ、先輩後輩って言わないんですか?って言った時に、
やっぱりね、あんまりそういうこと、どうしても必要がある時は言うかもしれないけど、
日常の中で、この人は私よりも先輩であるとか後輩であるっていう、そういう考え方自体が、
日本の文化というか、東洋の文化に目指していると思うんですよね。
ご存知の通り、私たちの日本文化というのはですね、
儒教とかの影響を受けていて、自分より年上の人を敬うというのが当たり前になっている文化なんですよね。
そこから生まれている日本の縦社会というものがあるわけで、
私たちはその縦社会的なもの、だいぶフラットにはなってきているけど、それでもやっぱり、
年上の人に対しては気を使うとか敬語を使うとかね、そういう文化もあるじゃないですか。
敬語にあたるものが英語にあんまりないっていうのを皆さん聞いたことがあるんですけど、
そこに源泉と土管とですね、文化の違いが大きくあるので、
そういう概念そのものがないよね、という言葉があるわけなんですね。
例えば部活の先輩ってあえて言わなきゃいけないんだったら、
セニアメンバーとかですかね。
だけどこのセニアって言ったときに、年齢が上っていうことにはなるんだけど、
そこに多分先輩っていう言葉の中には、自分よりただ単に早く始めているというよりも、
そこに経験値が自分よりも上であるとかいうことを意味しているわけですよね。
なので、学校生活での先輩って言ったら学年が上だとかいうことが多いわけですけど、
例えばね、大人になって何か習い始めましたと、
その集団はいろんな年齢層の人がいますというふうになったときには、
その集団に入って先にどんどんスキルを身につけている人は、
自分にとって先輩になると思うんですよね。
だけどその人が必ずしも自分より年上であるとは限らないわけじゃないですか。
自分よりも早く学び始めて、スキルがもうあればもうその人は先輩になる。
だからこの先輩という言葉ですね、
一つにとってもそこにどんな意味を込めているかで英語にしようと思ったらニュアンスが違ってくるし、
そもそもそれを英語にする必要あるのっていうところもあるわけですよね。
だから日本語で先輩が僕にこんなアドバイスくれたんだよねっていうときに、
そこで先輩って言いたいのはその先輩が自分よりも見識や経験があって、
その人がアドバイスをしてくれたっていうニュアンスを込めたかったから日本語で先輩って言ってるんだけど、
じゃあ英語にするときに何と言えばいいのって言ったら、
一人称の使い分け
one of my teammatesでいいと思うんだよね。
そのティーメイトの一人があって言えばそれで良くないっていう話なんですよね。
例えばキャプテンが言ってくれたとか言えば、
キャプテンというリーダーが言ってくれたとか、
まあそんな風には言えるかもしれないけど、
だからそこまで言う必要性がないというところなんですよね。
で、この日本の縦社会的なところで、
日本人は当たり前にやってるけど、英語だとそんなのありませんけどみたいなのって、
例えば私たちの一人称もそうですよね。
今私たちって、僕は今私たちっていう言葉で自分たち全体を表しましたけど、
僕個人が自分を呼ぶときに僕と言いましたね。
だけどこれ僕っていう人だけじゃなくて俺という人もいますよね。
自分はとは言う人もいますね。
だから私はっていう人もいますね。
それから年を経った人だと、わしはと言ったりとか言ったりしますね。
で、女性だったら私という人もいるし、
あたし、あっていう人もいるよね。
まあちょっと古いかな、あたしってあんまり最近言わないかな。
あと、うちとは言う人よね。
うちはと言う人もいますし、
まあこんな風にその一人称もいろいろあるじゃないですか。
で、これはじゃあどうやって使い分けているかというと、
まあ私たちほぼほぼ無意識にですね、
場面によって使い分けてますよね。
まあ例えば就職の面接なんかでね、
あなた今まで何を頑張ってきたんですかと言われて、
ああ俺はね、とか言って、それはちょっとこいつなんだというふうに思われてしまいますよね。
逆にね、なんかそのすごい仲のいい友達同士で話した時に、
私はとかっていつも言ってると、
こいつおかしなやつだなってやっぱり思われるし、
なんか他人行儀のやつだなって思われてしまいますよね。
まあなんか空気の読めない人みたいな、
あのね、いなくなっちゃうけど、ふわちゃんなんかいつもタメ語で、
まあその空気の読めるさが面白がられていたんだけど、
まあ結局ね、その空気の読めるさ加減でなんか消えちゃいましたけども、
まあ結局ね、そうなんですよ。
そこら辺の空気を読めない人っていうのは、
日本社会ではね、消えてしまうとか、抹殺されたりとかですね、
なんかあんまりいいことがないんですよね。
だからそこら辺を上手く立ち回るために、
そういう一人称ですら、我々日本人というのはですね、
めちゃめちゃ変えているということなんです。
アイデンティティの変化
これあんまり気がついてないですよね。
英語だと主語ってだって愛しかないですもんね。
これすごく面白いですよね。
やっぱり愛が1個しかないってことは、
その1個がブレないってことですよ。
その1個をいちいち付け替えてないっていうところですよね。
だけど日本人はその、
私というものは相対的な関係で成立するものだっていうところがあるわけです。
誰々の前ではこういう私でいる。
誰々という場ではこういう私でいるっていうことで、
ある種こう自分のアイデンティティをその都度その都度、
パッパッパッパッと変えているというところがあるわけですよね。
なのでそういった仮面の付け替え、
言ってみればペルソナですね、
の付け替えが瞬時にできることというのが日本社会では無意識に求められていて、
それができないとさっきも言ったふわちゃんのように、
空気が読めない人みたいな感じのね、
レッテルを張られてしまうということがあるわけです。
アイデンティティと一人称
うちの英会話教室からですね、
留学をして1年とかして戻ってきた人という言葉として、
向こうで現地の生活に慣れるまではそれはもちろん大変なんだけど、
慣れてくるとすごく気が楽なんだそうですね。
それは何が楽なのかというのが、
ちょっとうまく言語化できていない人はいるんだけど向こうはすごく楽だったと。
日本に戻ってきたらなんだか息苦しいみたいな感じで言う方が多いんですけど、
まあそれは本当にいろんな要素があるとは思うんですけれども、
一つにはやっぱりその一人称、私は私以外でなくていいっていうね。
この感じ、私は私でいいという。
だけど日本では私は私でなくてはいけない時もあるけど、
俺でいい時もあるし、僕でいい時もあるし、うちでいい時もあるし、
わしでいい時もあるわけですよね。
この仮面の付け替えみたいなものがストレスになっているのかもしれないですよね、ひょっとしたらね。
そこで日本人が自分ってなんだろうっていうアイデンティティの喪失みたいなものを抱えやすいっていうのも、
ここら辺に結構原因があるのではないかなと思うんですよね。
だから日本人の自我構造というものが、
私っていうとシングルのものではなくて、
いろんな人との関係性においていろいろ変わっていく、
集合的な自我というんですかね、他者志向な自我というか、
そんな性質があるということがだんだん浮き彫りになってくるということですね。
言葉の文化的影響
面白いですよね、この言語の違いによって国の国民性、メンタリティというものがやっぱり形成されてくるというのは、
とても興味深い話だなと思うんですよね。
本当に言葉って何かものを規定する力がめちゃめちゃあるんですよね。
例えば親がね、俺なんて言葉を使っちゃいけませんって言ったら、
俺っていうことに対するやっぱり心理的なハードルを抱えた子供になっていくわけですね。
この俺という言葉は、俺は俺だ、自分本位でもちょっといいよっていうような感じじゃないですか。
他の誰にも気を使わない俺は俺だみたいな感じじゃないですか。
それに対して僕っていうと、ちょっと周りに気を使って突出するというよりは周りに馴染んでいる自我という感じがしませんかね、互換的に。
そういった一人称を親がどうやって使っているかとか、
親がどういう一人称を使いなさいというかによってその子供にどんなメンタリティを与えていくかという、
これもいろいろ変わってくると思うとなかなか奥が深いでしょうね。
別に正解があるわけじゃないんだけど、そういう日本語の多様さゆえにその言葉をどう使うかによってメンタリティが変わってくると。
逆に言えばですね、自分を変えたかったら一人称を変えてみるというのもいいかもしれないですよね。
普段僕と言っている人がもうちょっと大胆にいきたかったら、あえて俺を使ってみるとかね。
僕から俺になるのってね、ちょっとね、僕はね、僕は昔から僕って言ってますけど、でも俺って言う瞬間もやっぱりあったりするんだけど、
これはなんだろうね、ちょっと自分が男を意識し始めたぐらいかな、なんかね。
ちょっと男を出したい時に俺はさ、とか言いたくなるわけだけど。
普段は僕は僕だと言って、それがちょっとね、例えば女性の前で決めた時に、
え、やっぱ俺、お前のこと好きなんだよね、みたいなこと言うたりするとドキドキになるのかな、みたいな感じじゃないですか。
というわけでね、先輩後輩という言葉とか、その一人称にしても、やっぱりそこの文化の影響ってめちゃめちゃ大きいんだよっていうね、お話を今日はしてみました。
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OK, that's it for today. Thank you for listening, and have a great day.
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