正解を求めてしまう人々について考える(その2)です。


【今回の内容】

自分の意見を主張するアメリカ/人はなぜバカにするのか?/人間に内包されたバグ/多様性と富国強兵/あり得た世界線を直視できない/不幸を生むメタ認知/善悪の起源とルサンチマン/正解を選ぶのではなく、選んだ選択を正解にする/他人の選択を否定する権利/ネット時代のリテラシー


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【パーソナリティ】

とよだ:富士通で働くビジネス哲学芸人。

ショーン:シリコンバレーのテック企業で働くデータの魔術師。


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※このラジオは、個人の見解に基づくものであり、所属組織を代表するものではございません。


#白米FM #哲学 #正解 #ルサンチマン #ネットリテラシー

サマリー

資本主義やお金を稼ぐことに対する考え方や価値観について話し合っており、人間の不安やリスクを感じる傾向について考察しています。ブータンはインターネットを通じて世界を知り、幸せ度が下がったと報告されています。正解の選択肢を選ぶよりも、自分が選んだ選択肢を正解にするマインドが重要です。他人の選択肢を否定する権利はありませんが、言う権利はあります。自分の意見を主張することはリスペクトされます。

資本主義とお金を稼ぐこと
いやー、アメリカにいると、資本主義の方が強いから、やっぱりお金を稼いがないといけないとか、強いものがやっぱり生き残るみたいなのが強いから、生きは、なんだろう、そういうのを、でも、周りはみんな当たり前だと思ってるし、それを誰かが押し付けてきてるかっていうと、
別に誰かが言ってくるわけでもないような気がするんだけど、場から生じる力学というか、場が言ってる気がするみたいなのはあるような気がするけど、するのは何なんだろうなって、今ちょっと思った。
アメリカとかってさ、結構自分の考えみたいのを、ちゃんと主張して、そういう教育というかをしてると思うんだよね。
だから、自分の考えをちゃんと持っていて、それをちゃんと人に論理立てて説明できるっていうことに対して、すごいリスペクトを払う気がするんだよね。
だから、例えば、世の中全体が資本主義とかお金を稼ぐことが良いというふうに思っているんだが、僕はこうこうこういう理由で、そうではなくて、こういう道の方がいいと思っているんだ、みたいなことを述べたら、それは尊敬されないのかな。
でも、それはあると思うよ。ちゃんと自分の意見を言うっていうこと自体はリスペクトされると思う。
じゃあ、それでいいんじゃない?って思ったけど。何か違うかな?しっくりこないのがあるかな?
でもさ、リスペクトはされるけど。
物理的に生き残れるかどうかって話かな?
そうそう、それは別だよねっていう話はあるかもしれない。だから僕はお金を稼ぐことに反対ですというか、自分の心情に合わりませんとか言うと、そうなんだと。で、言うこと自体はリスペクトされるし、なんだけど、じゃあ会社では働けませんねって言って。
何もしない人はレイオフっていうとか、ファイヤーとか、そういうのは別のこととしては起こるなとか、それだと生きられませんとか食べ物ないですねみたいなのはあり得るけど、でもどっちも共存してるというか。
じゃあ日本だと、やっぱりそもそも言うこと自体がはばかられるというか、なんか言いにくいってことかな?
日本で私はこういうふうに思ってますと、これが正しいというかこれがいいと思って私の人生こうしてますっていうふうに言ってるのがさっきのあのなんだっけ、子供を産まなくてよかったっていうのがまさにそれなんだよね。
で、僕が見るとその主張してる人はなんか全然おかしなこと言ってないというか、なるほどこの人はそういうふうな価値観でそれでよかったんだっていうふうに受け取れるんだけど、なんかそれを何だろうな叩きたくなる真理とは何なんだろうとか。
リスペクトと自己主張
いやほんとね、それ一個、僕もさあもう一個のテーマとしてやってみたいなと思ってたのがさ、人はなぜバカにするのかみたいなのをやってみたかった。
なんかでもそれって実は今回のテーマにもなんか裏表の関係なのかなとか、ちょっと近いものを感じたんだよね。今そういうふうにとよだくんが言ってくれて。
なんかやっぱり自然と、いいとか上とかを作ると、それに下っていうのがあって、その下に対してどうしてもこう、そういう言葉を投げつけたくなる、バカにしたような言葉みたいなのを投げつけたくなるっていう習性がなんかあるのかなとか、なんでそうなるのかなとか、
あの、なんだろうね、そこら辺ちょっとあんまりこう深く考えたことはなかったんだけど、今ちょっと関係してるのかなとか思った。
そうね、なんか今思ったのはやっぱそのバカに、相手をバカにすることによって自分が安心したい、みたいな多分心理が働いてるんじゃないかなと思ったけどね。
うんうんうんうん。
裏に不安があるってこと?
そうだね、多分不安があるから、自分より下のもの、下に見なせるものを作り出して、で、あいつより自分のほうがマシだみたいなのを心理にして、相対的に自分を上にして安心するみたいな。
うんうんうん。
結構でも人間ってあると思うんだよね、そういう。
だし、人間が生き残る上で、そもそも不安がある、不安がある習性だったりするのかなとかね。
なんかリスクを取れないようにしてきたから生き残ってきたみたいな。
そうだね。
別にリスクはどこにもないはずなんだけど、やっぱりリスクを感じてないと、何万年もやってきたことだから、なかなか辞められないで。
さっきの動くエレベーター、歩く歩道か。さっきエレベーターって言ったっけ俺。
あ、そうだね。
言いたかったのは動く歩道なんだけど、動く歩道から降りた状態の慣性の法則でやっぱり続けちゃってるっていうことの一つに、不安があるとかリスクを見つけてしまうと。
それを抑えるために現代社会では一つの行動として人をバカにして安心したくなるみたいなのがあるってことなのか。
そうね。自分の選んだ選択が正解なんだっていうふうに信じたいのかもしれないなと思ったね。
そこを自分を納得させる材料として、自分が選んだ選択とは違う選択をしてる人を、あいつは間違ってると不正解だっていうふうにレッテル貼ることによって自分が正解だっていうふうにしてんのかな。
なんかよく自分のアイデンティティーが崩壊するとかさ、それを否定されるとみたいな。それに繋がってんのかな。要は自分が選んだものが否定されると自分がいなくなるんじゃないかっていう不安がある。それを守ろうとしてるみたいな。
そうだねそうだね。でもそういうのってさ、みんなが同じ選択選んでたらさ、なんか天変地異とかでさ、起きたらさ、みんな死ぬんだよね一気に。同じ選択をしてる人が。
だからみんな違う選択をするように遺伝子が多分プログラムして微妙に多様性を確保するように設計されてるはずなんだが、やっぱり種全体としての最適より個っていうの。個の最適化をやっぱり求めてしまうバグなのかな。
人間に内包されたバグなのかな。
バカにすることと不安
なんかやっぱね、本来はそういうダイバーシティというか、なんか勝手にランダム性みたいなのが生まれるはずだけど、今のちょうどこう日本っていう特殊な場所で、しかもここ過去2,30年とか50年の間は、なぜかその純度が高まるような環境にあったっていうことなのかな。
純度って何?
みんなの選択とか考え方が一致しちゃう傾向にあるっていう。
それは明らかに、富国強兵の国を富ませて強くなるんだっていう政策によって、国にとっての正解みたいなのを示して、その正解に合致するものは良いと。で、合致しないものはダメだっていうふうにやってきたからだよね。
それが教育にも反映されてるし、その教育を受けた人たちがそういう考えになるのは至極当然だよなーって。
多分今もうそれは通用しないっていうふうにはわかってるから、変わってきてはいるんだけど、多分若い今の教育とかは多分変わってきてるんではないかと僕は信じてるというか、期待をしているんだけど。
そう、願いたいよね。
昔の教育を受けた人はやっぱそういう考え方になっちゃってるのかなー。
なんかその前回のメタ認知の功罪をさ、やった後にいろいろ思うことがあって、実は序盤にこの次の回の最初に話したいみたいな言ってたこととさ。
あ、そうだね、言ってたね。ごめんねなんか。すっかり忘れて俺がなんか。
実はね、今この話してた流れで結構関係してるのかなと思ってて、僕が言いたかったのがさ、前回そのメタ認知の功罪の罪の方かな。
ちょっと自分が書いたメモを読めなくて。ちょっと待って。
前回のその2話目のある主義で吐けばいいのか、幸せなのか。
ちょっと待って、なんて俺が書いてるのかちょっとここら辺うまくカットしてほしいんだけど。
前回のそのメタ認知の功罪の罪の話をしてるときかな。で、可能だったもう一つの自分の世界線が想像できてしまうと、
なんでこれ話してるんだっけ。全然ちょっとド忘れしてるな。
そうだよね。歴史の話とかして認知できない?死ぬまで認知できないんだったらそれでいいじゃんみたいな話をした流れだっけ。
そうだよね。それで究極のメタ認知してる人誰だっけとか、歴史を通じて時を越えてメタ認知できるのかみたいな話をして、うまく繋げられる自信がないんだけども、
でもその、今とよだくんがちょうど言った自分の生きてきた世界観を正しいと思いたいっていうことと繋がってるなと思ったのがさ、
世界線っていう考え方があって、自分の行動によってさ、将来が分岐すると。で、いろんな世界線があり得る。もしくは今の自分も、実は過去10年前の自分から見たら、
一つの道でしかないんだけど、実は他にもいくつか線があったみたいなのが想像できるよねと。そういう考え方の世界線があって、もしある時点でもう一つの自分の世界線が想像できちゃって、さらにそれが今よりいいって思えちゃうっていうことは、人間は嫌いなんじゃないかみたいなことを思ってたわけよ。
で、今はインターネットとか、いろんなメディアのおかげでさ、今この時間に生きてる世界、地理的な垣根を越えて、どんなふうに他の人が生活してるか、どんなふうに考えてるかっていうのが見れるようになっちゃったから、なんかこう世界線の幅がだいぶ広がっちゃって、
これは自分もなり得たかもしれなくて、かつ良かったみたいなのが目に入ってきちゃうと。
入ってきちゃうね。
そう、今のすごい特徴かなと思ったわけよ。
で、仮に千年前の人が僕らのこう、今の生活をなんかこう映像かなんか見せられたり、伝聞で聞いたとしても、いきなり千年たった先のこんな世界になるって思えないから、
なんかあんまりこう、こんな起こり得ないから、嫉妬というか、こうであるべきだったのにとは思わないような気がした。
もしくは、僕らが千年後の世界の未来から来た人にパッと見せられて、こんなになるよって思って、めっちゃいいなとか、なんかこう、なんていうのかな、
いいとは思う可能性もあるかもしれないけど、今自分たちが同世代で、もしくはもう一人の自分としてこんなにいい自分になり得たのかって思うよりは、
そうだね。
なんかこう衝撃が少ない気がするんだよね。
だからそのなり得た可能性みたいなのがちょっとあると、なんかこう認知的不協和じゃないけど、何かこう許せないものが出てくるのかなと。
そうだね。これ人間ってさ、損するのが嫌だと。損をするってなると不合理な行動をしてしまうっていう、なんだっけ、行動経済学でよく言われるプロスペクト理論か。
なんだろう、合理的に考えれば別にどっちでもいいんだけど、損をする選択肢は不合理だとしてもそれは選べないみたいな。すごい損をするっていうのをなんかすごい嫌うらしいんだよね、人間って。
だから自分があり得たかもしれない世界線を見せられて、それと今の自分を比較して自分が損してるというふうに感じてしまうのが多分、最も避けるべき事態なんだろうね。
で、認知を変えようとするのか、それを避けるべきだから。世界線は別に良くないっていうふうに認知を変えたくなるってこと。
そうじゃない、そうじゃない。
わお。
ブータンの幸せ度の変動
なんかその、なんでこの話を思いついたかって、ブータンっていう人の話で、多分数年前か十数年前かわかんないけど、世界で一番幸せな国、ランキング1位みたいな国民に聞いてみると幸せ度が一番高いみたいな国として知られてたけど、
インターネットを通してその国民が周りの世界はどうかってことを知った途端に、一気にその幸せ度みたいなのが下がったっていうのを聞いて、やっぱ知らなかったり、自分たちがこうなれる可能性があるってことを知らないと、幸せだったりすると。
でも彼らは相対化、メタ認知できてしまったがゆえに、かつ世界線として、僕らも実はこうなれたんじゃねっていうのがわかってしまったから、幸せ度みたいなのが下がったみたいな。
うわー、メタ認知の功罪じゃん、それ。
そうそうそう、だから功罪の罪として、罪なのかな。そうかな。
メタ認知したせいでブータンは幸せの国から転落したってことね。
そうだね。相対化できてしまったと。自分たちを。
それきついな。
で、一方でさ、ちょっとなんか思いついた。
今思いついたのはさ、さっき僕さ、この世に正解なんてないみたいなさ、風に言ったじゃない。
でもそれってなんか自分が恵まれてる側っていうかさ、マジョリティ側にいるから、なんかそんな理想論を振りかざせてるのかもしれないなって思ったんだよね。
おお、どういう背景でそう思ったの?なんでそう思ったの?
なんかさっきのさ、自分があり得たかもしれないのを認知したくないから、そこで認知的不協和が起きて、それをこう書き換えるみたいな。
それはさ、相対的に自分、今の自分っていうのを下っていうのかな。
下側に見えてしまうと、どうしてもやっぱそういうふうに心の動きってなっちゃうような気がしたんだよね。
自分がなんかそんな、いや正解なんかないからさ、みたいなこと言えるのって、それがその、なんだろう、比較したときに自分がこう、上側っていうのかな。
そんなにこう、自分が下側だっていうふうに感じないからそんなことが言えてるのではないか。
っていうふうにちょっと思った。
上か下かはわかんないけど、たぶん不安を感じてる量が少ないから、たぶんそういうふうに思えるのかなって、今、とよだくんが言ってることを言い換えるとそうかなって思った。
そうだね。上か下かって言うとちょっとなんか語弊があるから。
とよだくんがそういうふうに判断してるように聞こえちゃうけど、そうじゃないと思うんだよね。
そうそうそう。
だから不安の量が少ないと、そういう、なんだろう、自分をあえて肯定しようとする圧力とか、周りを落とそうとする圧力が発生しにくいんじゃないかなとは思った。
ニーチェが善と悪がなぜ生まれたのかっていうと、弱者のルサンチマンを解消するために善とか悪っていう概念が生み出されたんだっていうふうに言ってるらしくて。
そうなの?
現実世界ってさ、強いやつがいるわけじゃない。強いやつがいて弱いやつがいると。弱いやつはいつも虐げられてるわけよね。
で虐げられていて、その虐げられてる側はその強いやつのことを悪っていうふうにレッテル張りをして、虐げられてる我々こそが善なんだっていうふうにやることによってそのルサンチマンを解消するっていう。
その心の動きから善と悪っていう概念が生まれたっていうふうにニーチェが言ってるらしくて。
それはそうなの?歴史的にそうだっていうこと?それともその何だろう、哲学的にというか、そう解釈できるっていう。
ニーチェは歴史的にそういうふうに、そういうふうな経緯があって善と悪っていう概念が生まれてきたんだっていうふうに言ってる。
それが真実かどうかは知らないけど。
なるほどね。
だから、ルサンチマンに終着してしまうなそうすると。
でもその、確かにそのルサンチマン、ルサンチマンってあの、何だっけ。
何ていうの、妬みみたいな。
そう、妬みみたいな感じだよね。
それを解消したいっていうのは一つ、まあ今も当てはまるんじゃないかなとは思ったけどね、さっきのネットの書き込みとかも、なんか近いものはあるのかなとか。
それを解消するために、いろいろと非難とかを投げていると。
なんかちょっと悲しい感じになっちゃったな。
どうしたら、よりベターなことが起こるのかみたいな。
そうそうそう。それをね、話したいよね。
自分たちが何できるのかって話と、社会的にどうなったらいいかみたいな話はあるけど、できることとしては、自分たちはまずどんなふうにベターになれるのかっていうことだよね。
僕がね、一つ思ってる信念があって、まずこれ自分にできることね、その社会とかじゃなくて、まず個人の話で言うと、
人生において大事なことっていうのは、正解の選択肢を選ぶことじゃなくて、自分が選んだ選択肢を正解にするマインドっていうものが求められてると思うわけよ。
で、僕はそういうふうなマインドで生きたいと思ってるし、生きようと思ってるんだけど、みんながそういうふうに思えるようになるにはどうしたらいいのかなっていうのはちょっと答えがない。
今同じだって言ったけど、しおくんもそう思ってるってこと?
俺らこんな話したんだっけっていうぐらい同じことを思ってるというか。
本当に?
本当に。でも、したことないよね、この話は。
自分が選んだ選択肢を正解にするマインド
したことないと思うよ。
ないと思うけど、僕も今言ってくれた言葉を英語で考えてて、Make the right choice じゃなくて、Make the choice right みたいな。
へー。
チョイスをライトにするみたいな。
なるほど。
ライトなチョイスをするんじゃなくて、チョイスをライトにするっていうことを心がけるっていうのは、てかその方がやっぱね、生きやすいんだよね、自分も。
そうだよね。
うん。で、いくつか僕もそのなんか大事なさ、人生の起路になる決断をするときってやっぱりそれに行き着いたんだよね。
大学の研究室選ぶとか就職先を選ぶとかもそうだし、なんかこう選ぶ瞬間ってすごいいろんな人に会ってジタバタ考えたり、自分の考えを誰かに相談して話してみて、最後バーってこう決めるじゃん、なんかここにすると。
で、決めたらじゃあまあ、いやひたすらもうやれることはやって考えたし、あとは決めたことを正しくするだけだと、っていうふうにやっぱりやってきたような気がするよね。
うん。そうだよね。だって正解なんかわかんないもんな。
確かに正解はやっぱり、なんだろうな、やっぱ正解って、なんだろう、定義のしようによっていくらでもできるとか、時系列、時間がこう経てば変化、変化するんじゃないかなとかね。
どこの断面で切るかによって正解がどうかって変わるよねってことね。
そういう意味で正解がわかんないとか、正解ってないってことなんじゃないかなと思ってて、ある切り口で見れば良い悪いって言えたり、ある時点では言えると思うんだけど、
例えば僕が今その当時の大学時代の決断をある面で見れば、これは良いとか悪いとか言えると思うし、それが60になったり、死ぬ直前になってから見返してみてもまた別の見方はできるから、
そういう意味で何通りでも解釈しようがある正解がないってことなのかなと。
そうなんだよね。だから自分個人はその考えで良いんじゃないかなと思っていて、さっきの子供を産まなくて良かったっていう人は、自分は自分の人生においてはそれが正解だっていう風に多分自分でしてきたんだと思うんだよね。
だから今の自分の人生に納得しているから別に子供はいなくても自分は幸せであるという風に言えてるんだが、それを周りが叩くっていうのがやっぱちょっと何かな。
今思ったのが、その投稿した人の後悔はしてないっていう話も、僕らはその人の人生とか全ての情報にはアクセスできないから、本当に100%その人が産まなくて良かったと思っているのか、
8割ぐらいなんだけど、20%ぐらい実は産んだ方が良かったかなと思っている瞬間が実はあるとかさ、あとはそれが時間を考えれば、ある時期はそういう思っている時期が増えたり、後悔してる時が増えたりとか増えなかったりとかって、
本当はすごくニュアンスが、ニュアンスというか複雑な心の動きだったりとか、その人が本当はそういう風に思いたい、またそれを肯定化したい理由があったりするのかとか、本当はいろんな要素があると思うんだよね。
で、それぞれ反応してきた人たちも、
反論か。
なんかね、本当にそう見えなくはないとか、そう捉えようと思ったら捉えられる可能性っていうのはどっかにはあるのかなとは思ったんだよね。
今思ったのがさ、子供を産まなくて良かったって言った人は、例えば20%ぐらいはやっぱり子供を産んどいた方が良かったなーみたいな思いがあったのかもしれないけど、
産まなくて良かったんだっていう風に書き込むことで、自分が選んだ選択肢を正解にしようとしているんじゃないかなと思ったんだよね。
まだ正解か不正解かちょっと揺れ動いてるんだけど、今一生懸命自分がこれは正解なんだっていう風にしている最中なのかなと思ったんだよ。
それも一つの可能性としてはあるかなとか、
心の動きってさ、本当に煙がこうドライアイスの煙みたいなのがファーってあって、それをなんとか形作るとか説明しようとしているものと近いような気がしていて、
その人が本当に、本人もそう思ってるかどうかわかんないし、
それが、その本人が60、80になった時にどのくらいの割合でそう思ってるかどうかもわかんないし、
結構だから、なんだろうな、わからないことを、
ちょっと待って言いたいことがわからなくなってきた。
やっぱり自分でもわかんないけど、それを自分に納得させるっていうのかな。
それがその自分が選んだ選択肢を正解にするマインドなんじゃないかなって思ったんだよね。
あー、そっかそっか。
俺そこに尊さを感じたっていうのがまず一つあるんだけど、
その叩いてる人たちも自分が選んだ選択肢を正解にするために叩いてるのかなって思ったんだよね。
そうだね、それもあり得るね。
誰も悪くないみたいな話。
自分で選んだ選択肢を正解にするための、みんなやってるっていう。
やってたね実は、かもしれないね。
だって本当にわかんないもんだって、その言葉のさ、文字、この文字に全部が現れてるわけではないし、
その人と仮に話せたとしても本当にわかんないし、結構わかんないよね。
本当に何が起こっているのかって。
他人の選択肢を否定する権利
でも、自分が選んだ選択肢を正解にする権利はあるが、他人のその権利を否定する権利はないと思うんだよな、俺は。
他人の権利を否定してるっていうのは?
他人が自分が選んだ選択肢はこれが正解なんだっていうふうに選ぶ権利はあると思うんだよね。
でもそれを他人が否定する権利はないと思うんだよな。
否定っていうのは言うってこと?非難をするってこと?それともその人に本当に選べなくさせるってこと?
非難するってことだね。私は子供を産まなくてよかったんですっていうふうに言ってる人に対して、それはお前間違ってるよっていうふうに言う権利はないんじゃないのかなっていう。
でも言う権利はあるんじゃないの?
言う権利はあるのか。
言う権利はあるよね。だから何ができないかっていうと、本当にその人の行動を制限する権利はないような気がする。それが正解だから。
そうだけど、いやでも言っちゃダメじゃない?
でもさ、そうするとさ、言う権利はあると思うんだけど、どう言うかの問題なのかなとも思ったんだよな。
これ面白いね、その違いが出たね。
自分の意見を主張すること
っていうのは、だってさ、また別の視点から見れば、アメリカでは自分の意見を主張することはリスペクトされるみたいな話の時にさ、
やっぱりそれぞれ自分が自分はこう思うってことを言えた方がいいっていうのはとよだくんも賛成してたと思うんだよね。
だから、ある物事を自分なりに解釈して、それを発信すること自体は多分いいと思うんだよね。
だからその発言内容によって、相手が何だろう、著しく何かを損失する、傷つくとかっていうこと自体は避けた方がいいけど、
発信する権利はあるんじゃないかなとか、それを良いとか悪いとか解釈するってこと自体は、まではアリなのかなと。
そうだね、例えばその人の見えないところで自分のブログとかで自分の考えを述べるのは全然オッケーだと俺は思うんだよね。
そはてな匿名ダイアリーって、書いてる投稿にコメントみたいので反応ができるのよ。
そうだよね。
そのコメントでそれを言っちゃうと、確実に記事を書いてる人はそのコメントが目に入るわけじゃない。
そうだね。
それはダメなんじゃないかなって俺は思うんだけど。
ダメっていうか、もうちょっと言い方を考えるとかしないと良くないなって思うんだけど。
あとは何を良いとするかだよね。今ダメとか良いって言ってたけど、そのはてな自体がどういう場なのかとか、
投稿者がはてなの投稿によって何を求めてたのかとかにもよるのかなとかね。
たとえばひねくれた考え方として、その投稿自体が本当にその女性じゃないとして、炎上することをテストしてみたいというか、
ある男の人が勝手に想定するシナリオとして書いてみて、世の中どう反応するのかみたいな、釣りじゃないけどさ、
っていうような人がたとえばいたとしてとか、何か分かんないけど、
何かいろんな目的とか意図とか他にもあり得るのかなとか今考え始めちゃったんだけど。
確かにね。
でも、ごめん、全然話がずれてちゃったから、仮に想定としては本当にその女性の何十代の人が本当に書いてたとしたらっていう前提の方が多分いいよね。
話がずれてちゃうはないから。
その人に対してそういう、仮に自分が良い悪いって思ったとしても、
コメント欄には書かない方が、本人には、本人を傷つけないんじゃないかっていうことでいいのかな。
別に書くのはいいんだが、それは自分の論をちゃんと相手に理解してもらえるように書くべきだと思うんだよね。
私はこういう考えです。なぜならこうこうこうだからですっていう風に。
それもなしに、お前の考えは間違ってるからダメなんだみたいなだけを投げつけるのは、よろしくないなって思うかな。
いやーなんかちょっと難しいねこれね。
なんだっけ、インターネットリテラシーみたいになっちゃったな。
そうだね、確かに。
超相対性理論のなんだっけ、これからのネットリテラシーを考える、みたいな。
あったねあったね。
次回へ続く。
35:55

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