えー、仏教と出会ったのはね、なんだろうなー、
あの、僕、昔、苫米地英人が好きだったんだよね。
で、彼の本をいろいろ読んで、で、彼は脳科学者的なポジションでいろいろ話をしていて、
で、その脳科学っていうところと、その仏教っていうところをつなげて、彼が解説している本を読み、
で、彼の言っていることで理解していったのが最初かな。
いつ頃?
えー、でも20代の半ばかぐらいかなーと思うね。
まあ10年前ぐらいかな。
そうだね、10年前ぐらいか。
うーん。
そうだと思うよ。
僕は、一応家は仏教だよって言われていて、
その冠婚葬祭の、特に葬儀の方でぐらいでしか接点がなくて、
他、うちに何かあるっけ、なんか本当に接点がそれくらいなのかな。
あー。
まあでもそういう意味で言うと、うちもないけどね、ほとんど。そんな仏教、仏教、仏教した人生は全くないよ。
本当にお葬式の時とかぐらいしかないし、
その仏教、一般的に日本で言われている仏教と、そのお釈迦様が何を言ったのかっていうことはだいぶイメージが違うなと思っていて、
で、僕がいいなと思っているのはお釈迦様が言ってる方なんだよね。
で、その葬式とかで出てくる仏教の方はあんまり俺よくわかんない。
あー。よくわかんないっていうのは、知ってるけど、いいと思わないっていう意味のわかんない。
そもそもよく知らないっていう感じ。
よく知らないってこと。
その哲学としての仏教はすごいいいなと思うんだけど、宗教としての仏教は俺あんまりよく知らないっていう感じ。
なるほどね、なるほどね。
いやその、この龍源さんの問題意識もさ、そんな感じだったよね。
なんか日本人の仏教観が、本来ある思考プロセスみたいなものからかけ離れてて、イメージがあんまりよくないみたいな。
そうね。
っていうこととか、もっとみんな仏教思考使えば日々苦しんでいるものからちょっと楽になれるのにって思ってるみたいなことを書いてて、確か。
そうなんだよね。普通に生まれて普通に生きてると、自分が今見てる世界っていうのが現実みたいな感じだと思うんだが、実際仏教を学ぶと、ここにも書いてあったけど、VRヘッドセットかぶってるみたいな感じなんだよね。
その実際、実際というか、今自分が見てる世界がVRヘッドセットをかぶっていてそれを外しちゃえば、たとえばVRの世界ですごいつらいこととか苦しいことがあったとしても、所詮VRじゃんみたいな感じに思えるので、いいなと思うな。
外した後はどんな感じなの?
外すと、よく宇宙のことを想像すると自分のちっぽけな、自分の人生なんかちっぽけで、自分のくよくよ悩んでたことなんかどうでもよくなるみたいな。よく言うじゃない。
あるね。
そんな気分だよね。スケールの違いなのかなと思うな。
宇宙レベルのスケールで物事を見るのと、自分の一人称視点で、人間の目線で見るのの視点のスケールを行き来するというか、自由自在に切り替えるみたいな、そんなイメージ。
それを普段やってるの?
やってんじゃないかなと思うね、無意識に。
無意識にやってんだ。
やってるような気がするけどね。
なんかそのヘッドセットとってる間ってさ、VRの世界にいられない気がするんだけど、そのアバター自体はVRの世界で止まってたりしないのかなって思うんだけど。
それは止まってるんじゃないかな。だから普通にVRのリアリティを感じてるときは、もうそっちに頭が取られてるので、それはそれで目の前のことをいかに対処するかっていう話でしょ。
でもそれでちょっと自分の頭を休めるというか、ちょっとぼーっとできるタイミングがあれば、ちょっとそこから離れて、メタ認知をして、自分をメタ認知し、そのメタ認知してるのをまずは自分の頭の上みたいなところにその視点を持っていき、そこがさらに上にだんだん上がっていき、それがもう究極宇宙の彼方まで飛んでいくみたいな感じじゃないか。
今一緒にビジュアライゼーションしてるからね。どんな感じかなって。グーグルアースか何かをズームアウトしてるからね。
そうそうそうそう。グーグルアースみたいな感じじゃないかな。だから地球規模で考えたり、宇宙規模で考えたりとか。まあ宇宙規模で考えることはそうそうないけど。
うん。とりあえずズームアウトすると。
そうすると、なんか落ち着くんだよな。だから自然とやっちゃう気がする。
なるほどね。その落ち着くっていうのは、なんだろうね、その目の前にあったものをあんまり考えなくて、なんか考えないようにできるからってことかな。迷走とかと似てて。
そうかもね。そうかもしれないね。あとなんだろう、そのズームアウトしていくと、大きい流れでは、大きい流れで見るとこういうふうに物事って流れるよなっていうことがなんとなく感覚として分かり、
で、自分がその大きい流れに逆らってないっていうことが認知できると落ち着くっていうか、なんかそんな気がする。
もしさ、じゃあズームアウトして自分が大きい流れに逆らってるということに気づいたらどうなるの?
もしそれに気づくんだったら、たぶんソワソワしちゃうと思うんだよね。そうなったらそれが嫌だから、そうならないように自分の行いみたいのを変えるんじゃないかな。
なるほどね。今言ってる大きな流れって、なんだろう、どんなイメージ、どんな例がある?
でも今自分が置かれてる状況とか、自分が向かおうとしてる状況が嫌な感じがしなければ、それはなんだろう、流れに逆らってないんじゃないかなっていう気がするけどな。
じゃあ言葉で考えてるというよりは、その感覚を聞いて感覚がソワソワするかみたいな判断の仕方ってこと?
メタ認知してロジカルに、もしくはビジュアル的にさ、自分の浮いてる方向とか進んでる方向がここにあって、ここに大きな流れがあるみたいな。
今イメージしてたのは、地球規模にズームアウトすると、偏西風とかジェットストリームみたいなのが可視化できてさ、ここにこういう流れがあるみたいな。
で、自分がそこにいて、点が。その流れに沿ってフラーっていってるのか、逆走しようとしてるのかみたいなのが見えるとか、そういう意味じゃないんだよね。
見える感じじゃないね。そういう目で、風景みたいな感じで、っていう感じではないね。
本当に自分の、なんだろうね、これ言語化しにくいんだけど、いいなぁ悪いなぁっていう、本当に感覚?プラスなのかマイナスなのか。
で、この本一通り読んで、確かに良さそうというか、メタ認知をこれもしてるような、とよだくんも今言ってたようにさ、
で、それを仏教思考っていう一つのフレームワークで説明しきってる感じなんだよね。なぜメタ認知がいいかみたいな。
あーそうね、そうね。
プラス、最後自分ごとみたいな、ある意味マインドセットみたいなところまで説明してくれてて、非常にいいなって思ったんだけど、でもまだいろいろと用語が理解できてない部分とかがあって、
用語?
用語っていうか概念だね。まあ言葉の定義自体は読めばそうかなっていうのはわかるんだけど、まだなんか理解しきってるのかどうかっていうのがちょっと怪しいなぁって。
ちなみにじゃあそれ、例えばどういうのがある?
例えば、
えっと一個、唯識っていうのは、僕の認識、僕の解釈を言うと、すべては、さっきとよだくんが言ったVRみたいな、なんかバーチャルなというか、感覚でしかなくて、絶対的なものがあるわけじゃないんだよみたいなそういう認識でいいのかな。
全部漢字で書いてあって、割となじみのない言葉だからさ、こうやって使いながら自分の血肉にしていくしかないのかなと思ってるんだけど、本当の意味で自分が理解できてるのか怪しい感じするんだよね。
これは普通に考えると、世の中っていうのは客観的な事実というか、例えば目の前に、僕の今の目の前にマイクがあるんだけど、このマイクっていう物理的な何かがここにあるみたいな感じがするじゃないですか。
でもそれは、僕がこれがマイクだと思ってるからマイクがあるというふうに見えてるだけであって、例えばそうだな、マイクなんか知らない原始人みたいな人が、僕が例えば原始人だとしたら、この目の前にあるマイクはマイクだっていう認識ができないと思うんだよね。なんかよくわかんない、なんか変な物体みたいな。
そうだね、赤ちゃんとかもまあ見たらこれをただブンブン回すだけみたいな感じで、理解できないもんね、何に使うかとか。
それは今マイクの例を言ったけど、それはあらゆるものに言えて、今俺が家の中にいて、壁に囲まれてまあ部屋の中にいるんだけど、なんかそういうのも実際のその壁みたいのがあるように見えるんだが、これは僕が壁だと思ってるから壁なだけであって、何て言うのかな、絶対的にこれは壁だとは言えないんだよな。
だから結局僕がそう思ってるから、それがそこにあるっていうだけだよね。だから絶対的なものは何もないよねっていうことなんだけど、なんかねうまく伝えられてる気がしないな、今の説明だと。
で、これ自体さ、別の捉え方、仏教的に捉えなくてもさ、なんか捉えられるなとは思っていて、例えばさ、ソフトウェア作っていても、なんかそのユーザーとかさ、目的、ユーザーストーリーって言って、なんかどういうふうに使えるかみたいなのを定義して、使ってくださいみたいな。で、ツールをさ、ユーザーに渡すと思うんだけどさ。
ユーザーは、とか、ターゲットじゃない人はさ、そのツールをデザインした通りに使わない可能性っていっぱいあったりするじゃん。
そういうことと何か違いがあったりするのかな。なんか大事なものをなんか見逃したりするのかな。
なんかね、それだとちょっと表層的な感じがするんだよな。確かにその今、例えばソフトウェアの例で言えば、あるソフトウェアがあってそれをどう使うかっていうのは人それぞれだよねっていうのはもちろんそうなんだけど、私が見ている世界とあなたが見ている世界は違いますよねっていうのはわかるよね。
うん、そうだね。それも主観がそれぞれあるから、違います、違う可能性があるよねと。
違う可能性、てかそもそも違うんだよなっていう感じかなと。僕としおくんが例えば同じものを見ていたとしても、その僕が見ているのは僕の頭の中で、なんて言うんだろうな、シミュレーションというかその頭の中でレンダリングされた映像みたいのが僕の頭の中で再生されてるだけですと。
で、しおくんの方はしおくんの頭の中で再生されてるだけで、それは全くつながってないし、同じものを見てるっていうふうには言えないと思うんだよね、物理的に。そういうことだと思う。
なるほどね。で、その違うということを認識しておくことが大事ってこと?唯識ってのは。
大事、いや大事というかそういう見方だよね、見方。世の中っていうのはもう客観的な事実みたいなのがあって、具体的な物理世界があり、その中に人間とか動物とかが生きていて、大きい世界の中に小さい私たちがいるみたいな世界観ももちろんあると思うんだけど、
そうじゃなくて、この世界っていうのは自分の頭の中にしかないんだっていう、自分の頭の中にある小さい世界がつまり全ての世界なんだっていう考え方?そういう見方も持ってた方がいいんじゃないっていうことだと思うよ、唯識。
その唯識っていうのは別にその見方の一つなので、別にそれが絶対的な真理だ。仏教的に言えばそれが真理だと思うんだけど、なんていうんだろう、そういう見方もあるし、さっきの前者の物理的な世界があり、その大きい世界の中に我々がいるっていう見方もあるよね。
まあまあ、そういうことね。
だからどっちも都合のいいように使い分ければいいんじゃないってことだと思う。
もう一個は因果と縁起っていうのも一つ大きな章として書いてあったと思うんだよね。
何事も関係性があったり、過去にあったことが繋がってきて、だから自分はこうしてるんだとか、これに意味があるんだという意味を見出すとか、きっかけとなるアクションをするから何か結果が結びつくんだみたいな話をしてたと思うんだよね、この本の中でも。
で、とあることを、例えば夢があって、何々になりたいとか、こういう結果を出すんだって思っていても、それに繋がるアクションを起こしてない限り、それは結果に結びつきませんよねみたいな話をしてたと思うんだよね、この章で。
この何か因果縁起は何となくやっぱ分かるんだけども、その因果推論の話をしたじゃん。何か科学的に因果みたいなのを見つけようとするときにさ、一つの例を持って、自分の好きな解釈を持って、AがBに影響してるんだっていう風に見ようと。
そういう風に解釈できて、そうすると、何かちょっと都合が良すぎるんじゃないかとか、自分にとって。で、何ていうのかな、ここにちょっともやもやが発生するんだけど、仏教思考自体は自分の心が落ち着くような、苦しみを解くようなものが目的だから、
そういう風に自分の納得いくように、因果関係を結びつけていいんですよっていうのは分からなくもないんだけど、でもそれをしていいのかっていうのがどうしてもね、頭に戻ってくるんだよね。
僕の理解だと、仏教が言ってるのは、因果をコントロールはできないっていうことだと思うんだよね。ある目標とか目的みたいなのがあり、その目的を達成するために、いろんな努力をするとか、何か準備をするとかってあると思うんだけど、それが結局、最終的なゴールに繋がるかどうかなんか、お前がコントロールできることじゃないよっていう風に言ってるのが仏教だと思うんだよな。
うんうんうん。確かにハイライトしてる部分で、私たちは予測可能、コントロール可能だと思い込み、こうなるはずだと固定的に考えがちですと、それが苦しみが発生する原因となりますって書いてある。
うんうんうん。ここで言ってる因果とか縁起っていうのは、自分が今ある地点からどこか理想の場所に向かおうとする動きのことを言ってるわけじゃなくて、私が今いる、今ここがもうすでに縁起というか、周りの関係性によってでしか自分って今ここに存在できないよねっていうことを言っている。
何だろうな、例えばプールの中に人がめっちゃギュウギュウに詰まってますと、それで押し合いへし合いしていますと、で、例えば隣の人から押されたら自分はちょっとその右の方にずれるじゃない、左の人から押されれば自分は左の方にこうプールの中で動いていくじゃない。
なんかそんな感じなんだよね、その自分の周りにある人との接点によって自分の場所が今決められており、その自分が、自分がしっかりこうプールの底に足をつけて、俺の居場所はここだってやってるわけじゃなくて、あくまでその周りに押されてこう浮き輪をね、浮き輪をつけて足はついてませんと全然。
そこでただ漂ってるだけなんだよっていうことだと俺は思ってる、イメージ的に。
なんか自分たちは一つの粒子、原子とか分子とかそういうレベルで緩く浮いてる物体であって、で、その周りの原子とかの影響を受けてお互い引っ張り合ったりとかくっつき合ったりとか、こっちが近づきすぎるとお互い反発をするような、なんかそういう関係性が無数にあると、っていう感じかな。
原子とかまで行くとちょっと、俺のイメージとはちょっと違うかな。
違う。分かったから。
なんだろうね。
そもそも俺が、私っていうものが今ここの、ここにいるのは、私単独でここに存在することはできないと思うんだよね。
あのー、例えばじゃあ自分の両親、両親っていうのがいないと自分はここに存在していないわけで、両親はまたその両親の存在がなかったら存在していないわけであり、
例えばその両親とかが、ちょっと何かがずれていたら、もしかしたら出会ってない。で、出会ってなければ私が生まれてないかもしれないし、なんかそういう一個一個のつながりの連鎖で、今私ってここにいますよねっていうことだよね。
例えば、もしかしたら昨日俺が道歩いてて、交通事故にあって死んで、もしかしたら今ここでしおくんと喋ってないかもしれないし、そういういろんな連鎖連鎖連鎖連鎖で、たまたま今ここに私がいるだけなんですよっていうイメージかな。
なんかでもその予測可能、コントロール可能だと思い込みっていうのはさ、なんか度合いもある気がするんだよね。予測可能な部分、相対的にもあると思うんだよね。だから何だろう、物を手で離したらその物が重力に従って下に落ちるとかさ、食べ物を口にしておいしいと思うとかさ、
なんかいろいろあると思うんだけど、ここで言ってるのは何に関して予測可能だと思い込むと良くないみたいな、なんかそういう前提みたいなのが抜けてるのかな。
予測可能、予測するのは全然良くて、予測をしてその予測が合ってればそれは良かったねって話になるんだけど、予測が外れたときになんでそうなるんだよみたいな感じになりがちじゃない人間って。こうなるだろうなと予測していたんだがそれが外れて自分の思った通りにならないと。
そうするとイライラするとかなんか嫌な気分になるわけじゃん。それが勘違いだよって言われてるってことだと思う。だからもし予測をして予測を外しても別に何も心が動かないのであれば何も問題ないと思うね。
なんかその実験的マインドセットみたいな感じでさ、こんな予測値と外れが出たというのはなぜなんだろうみたいな感じでさ、その予測が外れたことがさ、なんか面白いと解釈できればこういう苦しみはないってことかなってこと?
そうだね逆にうん、外れた方が面白いって言うんだったらそれはそれでいいんじゃないか。
なんかこれを見ててその自分が予測していること自覚的だったらとか予測しているものと現実っていうのがずれてると。なんかそこら辺もしっかり認知できてればいい気がするんだけど自分が予測していることにすら気づかない。
自分の力でやってると思わない方がいいんじゃないかなと思う。
伝えられないけど。
自分で落ち着かせようとするのも自分でコントロールしようとしてるじゃないですか。
そこも手放そうよっていうことだと思うんだよね。
自分の力で落ち着かせられると思うなと。
自分のこのなんか燃え上がる気持ちみたいなの、苦しみを落ち着かせたい落ち着かせたいと思っていると、落ち着かせられないことに執着をし、
落ち着かせたいということを執着をし、落ち着けさせられない自分に失望して、そこでさらに苦しみが生まれるわけよね。
ちょっとなんか違うような気がして、落ち着かせたいわけじゃないんだよね。
でも落ち着かせることはできるんだけど、それによるデメリットっていうのを感じるってことだと思うんだよね。
落ち着かせることはできてるんじゃないかな。それにはイライラしてないんじゃない。
デメリット。
それは本当にそれが正しい欲望だったら勝手に湧いてくると思うんだけどね。
何が湧いてくるの?
落ち着かせ、たとえば仮に仏教思考を使って自分の気持ちを落ち着かせて、それをしたことによって勢いがなくなるとか、欲望が小さくなっちゃうとか、
っていうことをデメリットだと思っているのであれば、それはたぶん正しい欲望じゃないんじゃないかなって思ったね。
なるほど。正しい欲望っていうのは?
正しい欲望っていうのは自然と湧き上がってくるんじゃないかなっていう気が。
なんかその無理やり自分をドライブさせないと湧き上がってこないその勢いみたいなのは、なんかね不自然な感じがするし、それをやってると苦しいんじゃないかなっていう気がするんだよね。
そうそうそうそう。だからなんだろう、そこがね、苦しみがあるから取れる、それをバネに取れるみたいな考え方があるような気がするんだよね。今のこの現代社会なのか知らないけどさ。
苦しみがあるから取れる。それで苦しみがあって何かを成し遂げたいっていうことを望んでるんだったら、それでいいんじゃないかな。
でも仮にそれで成し遂げられなかったとしても、もうそれは自分が選んだ人生なわけで、そこはもうしょうがないよねって受け入れられるんだったら、それでいいんじゃないかな。
なるほどね。
なんかね、あんまり伝わってる感じしないな。
いや、分かったよ。言いたいことは分かった。で、なんだけどその、そのね、仏教思考をやっぱりどこで入れるかとか、それを最初の時点で入れてしまっていいのかみたいなやっぱり躊躇があるんだよね。
そのエネルギーがもしかしたら本当は出てくるかもしれないんだけど、それを抑えちゃうんじゃないかみたいな。
なんか今こう言葉でさ、いろいろ伝えてはいるんだけど、なんかそれが全然伝わってる気がしなくて、その表面的というか。
なんか僕の中ではもうそんなの悩むことでもなくない?みたいな。
なるほど。
悩むまでもないじゃんみたいななんかこう。
もっと上の次元に行けと。
感覚なんだけど、それがうまく伝えられないんだよね。
なるほど。
その、だからなんだっけ、身体感覚が重要みたいな。
うんうん。
言ってたような気がするんだけど。
うん。
もう感覚として、多分僕が感じてることを、今こう言葉で伝えようとしても、なんか伝えられてる感じがしないんだよな。
うん。
ちょっとじゃあ他の点からもちょっと聞いてみたいんだけど。
うん。
えっとね、悟りっていうのは結局何なんだろうって。
悟りっていうのが、さっきのそのスケールを上げたり下げたり、思い通りにコントロールできることじゃないかな。
うんうんうん。
前、メタ認知の功罪で言ったのは、全ての重要度がフラットになってる状態が悟りだって。
うんうんうん。
言ったと思うんだよね。
うん。
自我っていうのは自分の、自分にとって重要なものの重要なものでできてると。
うん。
自分にとって重要なものを集積したものが自我であると。
うん。
だからその時言ったのは、自分の家族は大事なので重要度が高いですと。
うん。
でも地球の反対側にいるブラジルのペドロさんの家族は、僕にとっては別にそんな重要ではないので。
うん。
重要度は低いですと。
うん。
それがそれぞれみんな違っていて。
うん。
その重要度っていうのがみんなバラバラなのが、それぞれあってそれが集積しているものが自分ですと、自我ですと。
うん。
自我っていうのはその自我が、その重要度のが全部この世にあるものすべてが同じ重要度で見える状態。
うん。
ということは私の家族とペドロさんの家族が同じ重要度になるってこと。
うん。
です。だから私の家族にするようにペドロさんの家族にもできる状態かな。
うん。
悟りっていうのは。
そうするとさ、とよだくんの家族でなんか自分の家族なんだから特別扱いしてよって思って期待されてたりするとさ、怒るよね。
うん。
なんでその地球の反対側の人に対してそんなことするのみたいな。
そんなことするんだったらもうちょっと自分のこと、この家族に対してもうちょっとこれやってよみたいな。
はいはいはい。そういうふうに言われたら、またスケールをその瞬間に切り替えればいいんだよ。
うん。
ローカルに。
ローカル、ローカル、ローカルっていうのかな。
うん。
自分の今、目の前に。
そうね。今改めて聞いて思ったのはその、メタ認知を獲得してそれを常に持ってることじゃなくて、
時間や空間の認知スケールを自在にコントロールできるようになることが悟りっていうふうに龍源さん書いてて。
だから戻れないといけないんだよね。
メタ認知じゃない状態からも自在に戻ってきて。
うん。
この、なんていうのかな、そのメタ認知の逆はなんなんだ。
フォーカス。
フォーカス?
そのすごいローカルな部分にフォーカスしてる状態とか、空間も超えずに今現在を生きてる状態。
そうそうそう。
なるほどね。
まあじゃあそういう意味ではさっきのその仏教思考を取り入れるとエネルギーがなくなるんじゃないかみたいなのも。
うん。
まあ本当の意味で仏教思考を取り入れて悟りの境地に近づけば、
うん。
まあその必要に応じて今に戻ってきて、でめっちゃ怒るみたいな。
そういうこともできると。
うーん、そうだね。
今はもう起こるタイミングだっていうふうに自分がちゃんと認知をして意思決定するんだったらそうだよね。
感情に流されてそうなっちゃうと苦しいんだけど、
ちゃんとこう自分を俯瞰して見た上で、あ、今は怒るべき時だなっていう判断をして怒ってるんだったら、
別にとらわれてないので苦しくないっていうことだと思う。
今もちょっと聞いて思ったんだけどさ、怒ってる間って苦しいのかな?
あー、あの怒ってる瞬間は苦しくないけど、後で多分苦しくなるんじゃないかな。
ね。僕もなんかどっちかというとその怒ってる瞬間ってさ、
そんなこと考えてないというか感じてないような気がして、
全てが上塗りされてる気がするんだよね、怒りというかその瞬間の何かに。
そこもさ、後で自分が後悔するとか悲しくなるよっていうことを、時間軸を先に伸ばしてメタ認知すれば気づけるんだよね。
今ここだけじゃなくて、これ怒った後で絶対後悔するなっていうことが無駄認知できてればコントロールができる。
あとは、色即是空。これがね、何なんだろう。
この漢字が4文字でこう新しい単語が流れてくると頭に入ってこないんだけど。
万物の根源、物事の本質は空性である。
一言で言えば、実体の無さこそ本質であるという意味で、
有名な般若心経に出てくる色即是空、空石籍。
ぜく、あ、ぜしきか。
色足籍?
色即是空、空即是色
これを表した言葉です。
で、僕はこれに対してハテナっていうメモをしてて、分からん。
分かんないか。
なんだこれってなっちゃって。
色っていうのは、今自分がこう見ている世界だと思えばいいよね。
目に入ってきて見える世界。
触れることもできるし、何かこう触れることもできると。
影響を与えることもできると。
それが色ですと。
で、空っていうのは、例えば、今また俺の目の前にマイクがあるんだけど、
このマイクと、このマイクスタンドと、机と、地面と、
あとこのうちの俺の部屋と、俺の今住んでるマンションと、
この地球って、明確な区別というか、区切りはないと思っていて、
それを、そこに区切りをつけて、いやここは地球ですとか、ここは誰々さん家のマンションですとか、
ここは誰々さんの部屋ですみたいな、区切って区切って区切っていくと、
あの色、区切っていけば色になり、
それを全部、その区切りを全部取っ払った状態が空だと思えばいいと思うよ。
なるほど。
この世界はもともと、もともとっていうかその空なんだよね。
その区切りなんかないわけよ。
それが実体なんだけど、その区切ることによって、
これは私の部屋とか、これは私の机とか、これは私のマイクとか、
っていうものになっていきますと。
それは裏表っていうか、
私の目の前にあるマイクっていうのは私のマイクでもあるし、
私のマイクでないとも言える。
これってさ、全て例えば粒子の連続みたいな、
かなえんさんが言ったみたいな感じでさ、分子とか原子とか、
すごい小さい単位でいっていったらさ、
ただのこう、つぶつぶの集まりみたいな感じで、
全部繋がってるみたいな、なんかそういうふうに捉えるのも近いのかな。
そうだね、そっちのほうが分かりやすいかもしれないね。
ある一定の単位を人間が勝手に名前つけて、
これはマイクだとか、机だとか言ってたりして。
今話しながら思ったのはさ、マトリックスのシーンでさ、
ある瞬間、ネオが目覚めて、
全てがこうデジタルに見える瞬間って覚えてる?分かる?
その壁とか、エージェント・スミスとか、自分の手とかも全部さ、
黒字に緑の点がこう0101ってなってて、
で、そう見えるみたいな。なんかそれも近いのかな。
全世界がデジタルのドットでできてるみたいな感じで見えると。
実はそうなんじゃないか。
うん。そうそうそうだと思う。
で、その色、色即是空。
これをどうやってこう解釈していいの?もう一回言って。
あの色が、その色。
色はつまり空ですよねと。
で、空もつまり色ですよね。それは表裏一体で裏表ですよねっていう風に言っている。
あーそういう意味なのね。漢文としてこれは何?
イコールってことを言ってるの?即是空。
あ、そうそうそうそう。
色は空であり、空は色である。
うん。
なるほどね。なんかあの、この空を説明してるあたりでさ、
形而上化と形而上…形而下か。
形而上と形而下っていうのも出てきていたと思うんだけど、
ここもね、なんかこの言葉が導入されてきてから、
ちょっとわかんなくなってきたというか。
形而上っていうのは概念みたいなもんだと思えばよくて、
抽象的な感じ。
形而下っていうのは物理的な何か、物理的なものみたいなイメージでいいと思うよ。
形而下に現れるのは実存ともいいます。
実際の物理的なもの。
そう、なんかね、一単語、その何とか何とかであるっていう説明を読んだときはわかったって思うんだけどさ。
うん。
トータルとして、全てがなんかこう、まだ結びついてこないというか、
なんかすぐ頭から抜けてっちゃうんだよね。
この聞いた瞬間はわかるんだけど。
なんかね、俺思ったのはね、しょうくんは仏教じゃなくて、
量子力学の方から入った方がね、理解できるんじゃないかなと思った。
なるほど。
で、量子力学で世界っていうのはこういう風になってるんだっていうことがわかれば、
多分仏教が言ってることもね、あ、同じこと言ってんじゃんって。
わかると思うんだよ。
こっちの方が多分ね、すんなり入ってくると思うよ。
なるほどね。
この用語をさ、いろいろやっぱ定義しないといけないのは何でなんだろうね。
用語を定義。
それは、お釈迦様ないし、その後の人々がそういう用語を使って説明したからだよね。
うん。
で、その説明していることが何なのかっていうところがわかってれば、別にその言葉はあんまり重要じゃない。
うん。
ただの説明原理なので。
で、その説明原理が量子力学とかの方がすんなり入ってくる人もいるだろうし、
こういう仏教的な言葉の方が入ってくる人もいるだろうし、
それは多分人それぞれだと思ってて、
それも仮の姿でしかないからさ、言葉。
だからどう説明しても同じものを説明するのに行く通りの説明の仕方があるみたいな感じだから、
無理にこの仏教の用語を、無理に覚えなくてもいいんじゃないかなっていう気がするな。
なるほどね。
なんかあんまり今日はすっきりした感じじゃないよね。
いや、でもこういうのを通してちょっとずつなじんでいったり、
今言ったことがそうだったのかなって普段生活しながら、またふと考えながらやっていくから、
まあ今日1回で全部わかんなくてもいいかなって思ってはいるよ。
今俺さ、量子力学の本を読んでいて、
カルロ・ロヴェッリっていう、時間は存在しないっていう本で有名な人が書いてる、
世界は関係でできているっていう本を読んでるんですけど、
それがまさにその量子力学の話をしていて、
まだ俺はそこまで到達してないんだけど、目次を見る感じだと仏教につながってくるんだよね。
本自体も仏教に言ってるの?それについて言及してるの?
うん、言及している。
なるほど。
だからこれでまず量子力学が言ってることを理解し、
理解した後に最終的に仏教みたいなところにつながってくると、もしかしたらわかるのかもしれない。
なるほどね。じゃあそれを僕も読んでみて、
そっちから同じような境地に達するのかみたいなことをやってみますか。
そうね。
あとこれもお勧めしたけど、
苫米地英人のお釈迦様の能科学かな。
これも読むといいね。
なるほど。
そうだ、俺がその空の理論とかを、
がわかったのもその苫米地英人が説明してる動画を見て理解したんだけど、
ちょっとそれも教えるわ。
多分ね、それ見た方がね、わかると思う。
動画?ビジュアル的に?
ビジュアルというか、普通に喋ってるだけなんだけど。
なるほど。
喋ってるだけなんだけど、多分それを聞いたら、
多分なんとなくイメージが伝わるんじゃないかなと思う。