特別支援学校でのボランティア活動
引っ越してきてから参加させてもらっている活動としてね、チョコボーというボランティア活動があるんですけども
特別支援学校でね、いろんなイベントの時に生徒とバディを組んだりなんかして、いろんなイベントに参加させてもらうっていう、そういう活動ですね。
まあやらせてもらったりしてるんですけども、それの案内が今回来てないなということをちょっと今思い出しまして、明日以降にまた確認しなきゃなーと思いながら
この特別支援学校っていうところにね、15年ずっと関わらせてもらって
最初はね、何気ないきっかけだったんですよ。インターネットで検索、何を検索してたのかわからないですけども
自分の住んでる家のすぐ近くの支援学校がそういう地域の人のボランティアを募集してるっていう、それが目についたんで何気なく応募してみたら、ぜひ来てくださいということでね、参加させてもらったんですけども
そこからこう、イベントですよね。なんとか祭りとか、あとは運動会とか、あとはあれは何だろうな、発表会ですね。いろんな発表会がありますね。
それと作業の発表会もありますね。中等部以上になると、物を作ったりとかしてね、それを販売するっていう活動があるんですけどもね、そういう作業の発表会、展示会っていうもののお手伝いをずっとさせてもらったり、
直接遊ぶような感じですかね。そういうイベントに参加したりとか、いろいろ活動させてもらってました。
で、障害というね、身体の障害、心障さんもいれば、心障さんだけだと、あ、でもいるな、心障さんもいるな、車椅子を使ってっていう子ですね。
でも心障さんの場合、わりと一般の通常の学校に通っている子の方が多かったりすると思うんですけどもね。そこに少し知的なものが絡んでくると、特別支援学校ってことになってくるのかな。
行ってみてね、初めてわかったのが、自分の同級生の子供がそこに通学していて、お互い全然知らない、僕がそのボランティアの活動をしていることも知らなかったし、僕もその同級生の子供がそこに通っていることも知らなかった。
で、何気なく顔合わせて、「おお!」っていうね、もうそれも十数年ぶり、中学卒業して以来とかなんで、かなり20年くらいか、経ってから初めて顔合わせたのがそこだったですね。
なかなかお互い不思議なタイミングで出会って、その後も同窓会なんかでも顔合わせることもあるし、介護の分野でもお互い顔合わせる、全然違うイベントで顔合わせることもあったりして、同級生から教わることもあったりしてね、すごく刺激をもらったこともありましたね。
障害者との関わりの楽しさ
この障害というところをちょっと考えたときにね、知的の障害、軽度の知的の障害であるとかね、重度の子もいますけどもね、人と関わるのがすごく大変だよとか、物の理解が大変だよとかね、ルールとかが難しいとかね。
まあいろんなものがありますけれども、それでも関わっててね、思うのは単純に楽しいんですよね。楽しいってことはもう間違いなく楽しい。
その楽しさが先に来るんですよね。どういう感覚かっていうのはまだちょっとよくわかんない。でも楽しい、とにかくそこ参加して一緒にね。
例えば作品の展示販売会なんかだと、どうやって声出していいのかわかんないなみたいな子がいたら、一緒に声出そうよ、いらっしゃいませってね。
そうやって見に来て、全部売れると、やったーやったーってね、嬉しいんですよね。
一つのプロジェクトを完遂するとね、売り切りたい、今日は全部売るぞっていう意気込みで始まって、時間前にね、全部売り切れて、逆に売り切れたよって宣伝しといてって言うと喜んでみんなで、
何々部、商品全部売り切れましたーって言ってまわってると、わーすごいじゃんってね、いろんな人に声かけられてまた喜んで戻ってくるんですよね。
そうやって関わってると先生方からも声かけられてね、ありがとうございますってね、いつもいつもありがとうございますって何回も声かけてくれてる、そこにいる長年いてくれる先生もいるのでね、
今年もありがとうございますなんてね、言ってもらったりとかして、見てくれに特徴が僕もあるんでしょうかね。
普通にコンビニとかで買い物したら関わらせてもらった子とかがいて、この間のありがとうございましたってその子に普通に声かけられたりとかね、駅で息子を待ってたりとかしても駅のロータリーで顔合わせたりとかして、
ああ、みたいなね、そういうことも多々あるんですけどね、本当に生涯をもっていろいろこう、うちの子どもも生涯まではいかないまでもグレーゾーン、パステルゾーンという関わりの難しさっていうのを抱えているんですけども、
こうね、生涯をもっている子どもたちと一緒に遊ぶというか関わらせてもらって、本当に思うのはね、よくいろんな生涯をもっている人で才能があるみたいな言い方がありますよね。
実際ね、自閉症の子でとんでもない記憶力を持っていたりとか、耳で聞いたことを全部覚えているとか、目で見たものは写真のようにね、目でパチッと写真を撮ってしまったかのように絵に描けるとか、数学的な能力が尋常じゃなく高いとか、絶対音感があるとか、いろんなパターンがありますよね。
書道がすごい上手だよとかね、いろいろなんか言われてはいるんですけども、間違ったギフテッドっていう感覚がね、なんかすごい先行している気がして、ギフテッド、ギフテッドっていう、
そういうのに当てはまらない子供がいる親御さんっていうのは、また逆に苦しんでいるっていうのもね、いろいろ座談会みたいなのもあるので、そこでお話を聞いたりとかして、そうだよなって思う部分もあったんですけどもね。
ギフテッドという概念の問題性
僕とか、ある程度年齢も言ってますし、自分も仕事で医療介護としてずっと長いこと業界にいて、
感想を述べる機会であったり、感想文を書くことがあるんですけどもね、そこでギフテッドっていうところで、才能才能っていうね、そういう言葉が何年くらい前かな、すごいお手早されたような時期があったと思うんですけどもね。
うちの子供がまだ小さい頃だったと思いますけども、うちの子供もそういうパステルゾーン、グレーゾーンの子供ではあるんですけども、別段何らかの特殊な能力があるわけでもなく、何のギフトも持ってないっていう言い方もあるんですけども、
ただね、やっぱりこう思うのはね、そういう子供から受けた影響、そういう子供が持つ才能っていう言い方に変えてもいいんですけども、
僕の場合は…