子供の学校生活
先日ね、うちの子供が電話をかけてまして、なんかうちの子供が電話をかけてるのってすごく珍しいので、何かなーと思って、電話の内容をちょっと聞いてたんですよね。
そしたらね、どうも学校に電話をかけていたんですね。
その電話というのは、学校からうちの子供が帰ってきて、夕方の4時ぐらいだったかな。
たまたまね、僕がその日、平日仕事が休みで、自宅にいたんですね。
普段から、学校に電話をかけているかどうかっていうのは、履歴を見ればわかるんでしょうけども、そこまで多くはないと信じたいんですけど、まだ確認してないんであれですけど。
子供がね、中学生です。中学校に電話をかけていたんですよ。
で、そこでね、どんな電話の内容も聞いてあるじゃないですか。内容がね、中学生になると科目ごとに先生が変わってきますよね。
で、その科目の先生に聞きたいことがある。
なんか勉強熱心なのかなーなんてちょっと思ったんですけどもね、全然違って、
今日授業で課題って出ましたかねっていうことを先生に聞きたいってその電話口で言ってるんですよ。
もちろんその電話に出ている先生は直でその先生にかかっているわけじゃないので、取り継ぎをしてくれるわけですけどもね、
まあ多分、中学校事務の方がいらっしゃいますからね。
その方が電話を取って、何年生の何の科目の先生に今日授業で課題を出したかどうかを聞きたいっていう電話をしてたんですよ。
で、どうです?皆さんの感覚として。
いや、電話ができたならすごいじゃんっていうのもまあ、僕もちょっとそこは思ったんですけど、電話ができたならすごいじゃんっていうね。
ただまあ、自分がもしそういう課題を聞き忘れたとした時にはどうしただろうかって思ったら、とりあえず友達に聞きますよね。
同じクラスの子に電話をして聞くということをしますよね。
何なら昔は連絡網っていうのがあって、それを見れば電話がかけられたので、なんでちゃちゃっと電話をかけて聞いたと思います。
まあところがね、今は連絡網がないので、緊急連絡網なんてものは存在しないので、同じクラスの子の電話番号がわからない。
で、もちろん学校にはスマートフォンを持っていっちゃいけないだとかいうルールがありますから、お互いLINEも知らない。
連絡の取りようがないが、ゆえに最終的な手段として学校に電話をかけたんだって、今僕しゃべりながらわかりました。
子供の発達障害について
そうか、最終手段だったんだ。だから偉いな。
偉いなっていうのがありましたけど。
まあでもね、欲を言えば同級生の中に一人でもLINEとか電話番号を知っている、同級生でもスマートフォンを持っている方がいっぱいいますから、うちの子供も持たせてますからね。
スマートフォンの電話番号だったりLINEだったりを交換してやっててもいいんじゃないかって思うんですけども、
そこらへんが、なかなかうちの子供は発達障害というところまでいかないというかね、これが難しいところでして、
昔ちょっと前まではグレーゾーンっていうね、発達障害っていうところまでは言ってない、白黒はっきりしないグレーゾーンなんていう言い方をしたっていう風に我々もクリニックで話を聞いたことがあります。
今はね、じゃあなんていうかっていうと、はっきりとした色がつけられないパステルゾーンっていう風な、ちょっとなんかキラキラした感じで綺麗だねなんて思ったんですけども、パステルゾーンなんていう言い方をするそうです。
昔はうちの子供は放課後デイサービスに通ってソーシャルスキルトレーニング、SSTを少しやってもらってた時期があります。
さらには通級というね、普段は普通の学級に通っていながら、週に1回とかね、何週間に1回とかっていう割合で通級クラスっていうのがあって、そこに通う、そういうことを利用していました。
もうこれは過去になりますね。今はもうそういう制度を利用することなく、普通の学級での生活を送るという風にはなってはいるわけですね。
なってはいる。なってはいるんだけど、今回のように、例えばね、もともとを正せば、ちゃんと話聞いときゃいいわけですよ。
ところがもう、集中力というものをどこかに置き忘れているような状態なので、本当に何一つ集中できないというね。
授業においても、それ以外においても、集中しているのはYouTubeを見ている時とか、アニメを見ている時なんで、そっち方面見てて何か身につくんだったらそれでいいのかと。
もう勉強に関しては苦手分野がすごく強いので、できないこともかなりありますね。
この集中できない環境というのをどうやって解消してあげようかというのも悩んではいるんですけれども、もうぼちぼち進路というものを考えなきゃいけないというところの段階まで来ていますね。
発達障害に対する考え方
発達障害も障害ということなんですけれども、障害って誰が考えるのか感じるのか、誰が障害と決めるのかということをちょっと考えるわけですよ。
例えばね、腕が片方ないとか足が片方ないとかっていうのって困るじゃないですか。これを障害だって捉えるっていうのは分かりやすいし、
視力障害、眼鏡をかけた強制視力もなかなかすっきり見えないよっていうぐらいまでいくとこれはもう視力障害ということで、やはり生活に困るわけですよね。
この本人が困っているっていうのが一つの障害っていうところの大事なポイントだと僕は考えてるんですね。
それでいくと、じゃあ今うちの子供が今自分の置かれている状況っていうものを判断して困っているか、自分自身で困っているのかって聞くと、別にぐらいなんですよね。
端から見たら困ってるなーって思うんですけどね。やっぱり僕ら親目線からすれば困ってるんじゃないだろうかっていうことで先回りしていろいろ口出しをしてしまいたいところなんですけども、本人が困ってるっていうことを言わない。
知識として今これ困ってる、あなたは今こういうことは本当は困ってるんだよっていうことを並べていってね、いくつか並べていってこういう時ってのはあなたは実は困ってるという表現をするんだよっていうことを子供に伝えたりとかするんですけども、
伝えすぎて困りすぎてもこっちも困っちゃうので、難しいところですよね。どうしようっていうのが悩みとしてあるわけですよ。
自分自身は一応定型発達として育ってきたつもりではいます。ただ定型発達の中においては真ん中ではなくて、路肩を歩いてたような感じはあるんですけれども、
その時はやっぱり自分では気づけない。後になって気づく。こうしておけばよかった、こうしておけばよかったっていうことをまた子供に教えてあげたくなってしまうっていうのが果たしていいことなのかという悩みを持っているわけですね。
答えが出ないことは自分でもわかってはいるんですけれども、本当に本人はこういう仕事をしたいっていうのは本人の中ではあるんですけれども、
じゃあそれに対してどこまで努力できてるかっていうと、そこに対する努力はできないわけですね。憧れというものはすごく強くて、本当に憧れっていうものの風船はすごく膨らんでるんですよ。
憧れてるものに近づいて自分の風船を膨らませるっていう努力が全くできてないわけですね。自分の風船は一個も膨らんでないわけですよ。
自分が頑張っている姿を他の人が見て憧れるぐらいの存在にならなければ、うちの息子が憧れてる職業っていうのがあるわけですよね。
そうやって憧れられる存在っていうものに本人もなっていかなきゃいけないんだっていうところの気づきがないわけですね。
普通に生きてりゃ何とかそういう風にはここに行くんじゃないかみたいに思っている節もあるわけで。
そうかと思えば、憧れてる職業のことを調べて学習発表で、なかなか一筋縄ではいかないんだと。
苦しんで成し遂げること
本当に思いつきではそういう仕事はできないんだっていう風には学習発表では言ってはいたんですよね。
まあでもね、どうかなっていう風に思いつつ、っていう重い沈黙が流れて結局は終わるわけですけどね。
こういう悩みって深いですよね。
ただ本人が辛いって思ってなければそれでいいのかとか、っていうのはその障害、学習障害、発達障害に関しても本人が辛いって思ってなければそれはもう障害という風な捉え方をする必要はないのではないかっていうところの観点からね。
自分の進みたい道に自分の努力では進めなかったっていうことも一つの到達点なのかなと。
誰しもが思ったところに行くっていうことはない。思い通りになるっていうことの方がなかなかないというね。
まあ、もがきあがき苦しむのが人間という生き物の特性だと僕は思っているので、
そこでもがき苦しむのか、はたから見たらもがき苦しんでるはずなのに本人の中では全くなのかというのはもうその等の本人が死ぬ時にしかわからないわけですよね。
まあ、ちょっとこう、勉強がなかなか成績が伸びないとか、そういうレベルの話ではないっていうところの悩み。
こういう悩みを抱えているお父さんお母さんって結構多いと思うんですよね。
でも、どこに相談していいのかもわからないっていうのもあると思うんですよ。どうなんでしょうね。
ちなみにね、うちは自分の父親が学習塾をもともと経営していて、教える側のスキルというのがあるわけですよね。
ツールもある、スキルもある。いろんな子供に対して勉強を教えてきていましたから、学習障害みたいな子もいたので、過去に。
それに対してのスキルもあるんですけれども、やはり一筋縄ではいかないというのが、特に身内だからこそ重いっていうのがありますよね。
今日はそんなところで終わってみたいと思います。おはようございます。おかえり。