1. グッドバイブス ミッドナイト楽座
  2. 116 noteに公開した新刊『The ..
2023-05-08 45:46

116 noteに公開した新刊『The Gift』についてたっぷりと語っています!

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今日は、noteに新刊『The Gift』を公開した記念として、この本をどのような想いで書いているかをお話ししています。よかったら、こちらのマガジンですでにアップしている3章をご一読ください!→ https://note.com/kurazono/m/mb8020724f148

グッドバイブスファクトリーの連載について
グッドバイブス ミッドナイト楽座 by 倉園佳三
こんばんは、ただいま5月8日月曜日の午前3時29分ですね。
ゴールデンウィークは予定通り、はっきりと予定したわけじゃなかったんですけどもね。
確か、先週月曜日1週間前の番組で、やる確率が3で、やらない確率が7というふうに、ちょっと曖昧な回答をしておいたんですが。
やっぱり、やる気持ちが3ぐらいでは、とてもじゃないけど、この7のやらないには打ち勝てなくてですね。
そういう心持ちは、やっぱりなかなかね、この番組1本撮ることは難しいんだなと。
わかって言ってたんですけどもね。
でも久しぶりに、グッドバイブスファクトリーのオンラインコミュニティの連載ですね。
あれが今日のグッドバイブスというワークアウトなんですけども、これもお休みさせていただいたんで。
なんと私は火曜日からね、ついさっきまでほぼほぼ丸1週間、連載のない1週間というのをね、過ごすことができまして。
たまにはこういうのは大事だなという感じがしていますね。
なんつうか単にもう気楽なんですよね。
やることが何も決まっていないっていうね。
もともと何も決めずに動いてるんですが、このやっぱり連載とかね、こういうポッドキャストの収録、ルーチンが決まっているやつはやることになりますんでね。
これはもう仕方ないんですが、これが何もないっていうのはね、とても心にやっぱりいいなという感じがしますね。
だったら連載とかやらなきゃいいじゃんって話になるんですが、そうもいかないわけですね。
だから今日からまた再開しましたね。
本当に仕事はワントレとかイベントとかほぼほぼ毎日入っていて、丸1日何もなかったのは1日だけだったんですけども、かなり僕はすごい休んだなっていう感じが強いですね。
例の新刊『The Gift』について
この1週間は主にザ・ギフトという例の新刊ですね。
まだ仮タイトルなんですが、仮タイトルといってもザ・ギフトという響きがかなり気に入っていてね。
これはどこかで使いたいなと思ってるんですが、これの執筆をずっとやってましたね。
これも前回お話しした通り、とてもいいモードに今入ってましてね。
このモードっていうのもほぼほぼ新章なんですけども、僕の中で本当に楽しいんですね。
この書くのが楽しいという、クリエイションをする、ものづくりをするクラゾのみたいなそんな感じになってるね。
時々あるんですよね、こういう時がね。
何年かに1回ぐらいなんですけども、だからこの時期はとても大切にしたいなと。
おそらく完成するまでには、こうでない時期もたぶん通ることになるんでしょうから、
こういう時期はできるだけ多くのテキストを書いておきたいなという、そんな感じがしています。
まさにこの番組の収録が終わってから直後になると思うんですが、
すでにこのゴールデンウィーク中に書き終えた3章分ですか。
3章と言っても普通の書籍の章ほど長くはないんですけどもね。
節ですね、3節ぐらいを。
たぶんこの本はどうだろうな、20節ぐらいになるのかな、そのぐらいになるような感じがしますね。
だから7分の1になるのか、それでも。
それをこの後公開しようと思いますね。
だいたい1万字弱ぐらいですね。
最初1節が2000、その後が3節ぐらい。
最初1節が2000、その後が3000、その後が4000ぐらいなんでね。
9000字ぐらいかな、そのぐらい出来上がっています。
この3章をまとめて読んでいただくと、この本が何を目指して書いているのか、
どんなフォーマットでお伝えしたいのかみたいなね、
そういうことを分かっていただけるかなという感じがしますね。
やっぱり本というのは文字のメディアで、
これもまさに第1章に書いている内容でもあるんですけども、
この本はちょっと不思議な作りになっていまして、
この本を作っているという本なんですよ。
まさにね、登場人物がこの本を書いているという、
その途中を書いている本みたいなね、
字系列がちょっとおかしくなっているという感じなんですよね。
本の登場人物はこの本を書こうとしているのに、
その本がもう出来上がっているみたいなね、
ちょっと不思議な時間感覚なんですけども、
だからこの1章にね、要はこの文字のメディアというのはね、
やっぱりいろんな様々な派手で気楽に使えて、
そして面白いメディアというのがたくさん登場していますよね。
だからそんな中でやっぱりこの文字のメディアが、
生き残るって言ったら変だけども、
その存在意義というのがね、
やっぱり文字のメディアって面白いよねっていう、
そこには作り手の工夫みたいなものが、
やっぱりこれからすごく必要になっていくんだろうなという、
そんな感じが僕はしていましてね。
私はもともと雑誌作りからこの世界に入ったので、
雑誌のように作れないかなというような、
そんなイメージがあったんですね。
だから単に説明をするだけであれば、
この番組もそういうことをしているのでね、
これしかも例のリッスンというのに登録したので、
全部このテキストが起こされるわけですね。
ちなみにこの番組に大体どのくらいのテキスト量があるかというと、
前回の番組で1万8000文字なんですよ。
だからこれ圧倒的に読むより聞く方が早いんじゃないかなという、
そんな感じもしなくはないんですけどもね。
だからこの番組で話しているようなことをそのままテキストに起こしても、
やっぱりリッスンでテキストにしたものとあまり変わりがないのであれば、
やっぱりこの文字のメディアというところで、
ちょっと私は弱いかなというかね、魅力かな。
魅力が足りないかなというそんな感じがして、
2023年のコンテンツとしてはね。
でもね、できることは本当に限られているんですが、
文字のメディアの存在意義と魅力について
なんとかちょっとそこをもがいてね、
面白くしたいなというのが一つありますよね。
面白く読んでほしいというかね。
楽しめないと、やっぱりこれからのメディアというのはなかなか難しい。
よっぽど別の目的があればね、それですごく楽しめるかもしれないですね。
目的があればね、それですごく視覚の勉強をするとかね、
それがものすごくテクニカルな技術書になっているとか、
そういうものに関しては全く面白くある必要はないと思うんですけどもね。
そうでない、やっぱり本は。
少なくともどこかにエンターテイメントというのかな、
エンターテイメントといったら少し軽く聞こえてしまうかもしれないんだけども、
読んで心が踊るというかね、楽しいなあと面白いなという、
ワウというかな、ワウというこの感じがあってほしいなと。
だから私なりにトライをしていましてね、
いろんな工夫をこれからしようと思っていて、
まだまだ3章でいくつかのフォーマットが登場するんだけども、
まだまだこれに新しいものを加えていきたいなと思っているんですよ。
本当はね、漫画描けたら漫画入れたいなとか思うんですよね。
ある説は漫画だけで出来上がっているっていうね。
だから私実は知り合いにとても有名な漫画家が一人いましてね、
高校の同級生なんだけど、ちょっとあえてね、
ファンもいらっしゃることですから、結構恐れ多いお名前なので出さないでおきますが、
その人にちょっと頼んでみようかなとかね、そんなことも考えたりもしてるんですが、
だからこれから構成も目次も決めてませんからね、
どんなものを飛び出させていくか、なんか僕はもともと歌詞を書いていたので、
詩はありだなと思っているんですよね。
どっかの説は詩だけで書いちゃおうかなとかね、
まさに雑誌のような雑多な感じというのを今回一つチャレンジとして盛り込んでいます。
平安とクリエーション
今日はですね、せっかくなんで、そういうわけで今ね、
フォーマットの話をしたんですけども、このザ・ギフトという本についてね、
私がどんなことをお伝えしようとしているのか、
これもね、あんまりネタバレとかね、それからなんていうのかな、
コンセプチュアルな話にしてしまうと余計な説明になってしまうんで、
この本のベースに流れている感じっていうのかな、
僕がなぜこの本を書こうと思ったかみたいな、そんな感じの方がいいのかもしれない。
まだ出来上がっていないんでね、途中で終わったらどうするっていう、
みたいな恐れや不安もあるんですよ、僕の中にね。
というのももう今3章書き終わって、4章どうするかがまだ浮かんでいなくてね、
そこでもう先のことを考えるとどんどん不安になるんで、
絶対に考えないようにして、エディターに向かった時だけ本のことを考えるようにね、
なるべくはしているんですけどもね、
だから完成するかどうかも分からない本の話なのでね、
この話自体がそれなりに、この本と離れてもね、
意味があるようなものになればいいなとは思っているんですけども、
要は僕はこの本はですね、一言で言うならば、
私とは何か、そして世界とは何かっていうね、
この問いを私なりにね、もう一度問い直した、
その現時点での結論みたいな感じなんですよ。
この現時点というエクスキューズをつけるのはね、
過去にもこれが随分と変わってきたっていう、
実績すらないんですけども、経験がありますんでね、
やっぱりこの私が今60歳、
この現時点で私はこの私とは何か、世界とは何かっていうのを問い直した、
その答え、その結論みたいなことをね、書きたかったんですね。
じゃあなんでそんなめんどくさい問いを今更ね、
問い直さなきゃいけないのかっていうと、
これはですね、もうたった一言、平安を得るためなんですね。
この私とは何か、世界とは何かの答えによって、
僕らはその、それは不安を抱くか、それとも平安でいられるか、
ここが大きく変わってくるっていう、まあそういうベースがあって、
でこの平安というのはね、この番組でも何度かお伝えしましたが、
僕にとっては非常に大きな意味を持っていてね、
単にこのなんていうのかな、心が穏やかっていうそんなもんじゃないんですね。
まずはやっぱり僕にとって平安は幸せの土台だと思ってます。
なぜかというと、どんなに私がね、楽しいことをやっていても、
それから好きな人と一緒にいてもね、
なんか大好きなこのなんだろう、今で言うとその文章を書くとかね、
歌を歌うとか、楽器を演奏するとか、そういうことをやっていても、
心が平安でないとちょっともハッピーじゃないんですね。
もう本当にこの心の平安という土台がないと、
何をやっても幸せを感じられないという、
私にとってはまさにこの幸せの土台なんですね。
そしてもう一つ、これはですね、
良いクリエーションをするための土台でもあります。
もちろん、恐れや不安の中で物作りをしたことなんてもう散々やってきてまして、
これはもう特に僕の雑誌の時代ですね、
8年間やったんですけども、月刊誌、そして締切がもう完全に決められている、
1日たりとも遅れられないという中でね、
毎月毎月、そうだな、2、300ページかな、
そのぐらいのページを作っていくという雑誌の物作りというのは、
そうだな、今思い出して9割か9割5分ぐらいは恐れや不安の中で作っていましたね。
だから作ろうと思えば別に平安でなくてもいくらでもできるんですよ。
ただ僕はここで良いクリエーション、この良いというのを空いて使っているのは、
これは僕の中で質の高いとか、もしくはさっき言ったような面白いとかね、
そういうものを一歩踏み込んで作るためには、
僕の中ではやっぱりこの平安というのがどうしても必要ですね。
心がざわついている中で、この先に一歩踏み込んだりね、
もっと言うとすんごい笑えるアイデアみたいなことを思いつくことができない、
ひらめくことができないんですね。
なんかすごくシリアスになっているんですけど、
なんかすごくシリアスになっていくことはそんなに難しくないんだけども、
ここでなんか一発コロンと転がしてやろうみたいな、
そういう試みというのはまずできないんですね。
だからどこでどんな表現をするかというのはね、
描きながら僕の中では自分の中から出てくるんだけども、
まさにその偶然生まれてくるね、僕の中から何が出てくるかっていう、
この引き出しみたいなものが、この恐れや不安があることによって
非常に狭くなってくる。
例えて言うならば1000個あるうちの10個ぐらいしか使えなくなるみたいなね、
990個が埋もれてしまうっていう、
そういう意味で僕にとってはそのものづくりをする、
あらゆるその仕事ですね、全般についてとても重要な土台ですね。
私の人生を振り返って思うもの
ただやるだけじゃなくて一歩踏み込むためには僕にはこれが必要っていうそんな感じ。
それからもう一つは人との関係を良くする土台なんですよ、平安はね。
僕はいつもお話してますが、僕は人間関係デストロイヤーだったので、
ここから脱出するための土台でもありますね。
そして何よりも、これも私の人生を振り返って思うんですが、
自分が望まない人生、これを送らないための土台でもありますね。
どうしてもこの平安でないと、恐れや不安の中ではね、
自然と自然とその自分が望まない方の人生、こっちを選択してしまうんですね。
もちろんそれを選びたいなんて夢にも思ってないんだけども、
自然と僕の判断、解釈、そして決意、決断みたいなものが望まない方、望まない方に持っていかれてしまうっていうかね、
自分が持っていってるんだけども、これをしないための土台なんですね。
これを阻むものがまさに恐れや不安なんですね。
じゃあどうやって恐れや不安が生まれるかっていうと、
これは私の捉え方なんですけども、心象から生まれると思っています。
現実を見て恐れや不安を僕らは感じるのではなくて、
心の中の像、心象、イリュージョンですね。
恐れや不安について
そういうものを自分で作り出して、そこから恐れや不安を感じる。
じゃあその心象はどうやって生まれるのかって言ったら、
僕らが怖いことを考えるから生まれるっていうふうに捉えてるわけですね。
そうすると恐れや不安の原因は考えってことになるんだけども、
じゃあなんで僕らはわざわざ自分を怖がらせたり不安にしたりするようなことを考えるのかっていう、
この問いが、ここの疑問が出てきますよね。
なんでそんなことをわざわざ考えるのっていう。
ここがさっき言った、私とは何か、そして世界とは何かの認識がね、
そうせざるを得ないようになっているからっていうふうに見てるわけです。
要は私とは何か、世界とは何か、この答え、この二つの答えが、
僕に怖いことを考えさせるようになってしまっているってことですね。
非常にシンプルに言うならば、私とは何か、この答えが小さくて弱い自分なんですよ。
そして世界とは何か、その反対にものすごく強大、強くて大きいと書いてね、
強大で恐ろしい世界という関係。
小さくて弱い自分と強大で恐ろしい世界っていうこの関係が、
僕が持った時にね、これは当然ですけども怖くなりますよね。
怖いことを考えずにはいられないっていうことですね。
集団生活と存在の意味
これはまあ突き詰めていくと、なんていうのかな、僕らはそもそもね、
ある現象とか価格反応みたいなものによって偶然生まれたのかっていう問いでもあるような気がするのね。
そういう意味では、もしこの将来価格がもっともっと進んでいったら、
この人ねてによってね、僕らによって僕らを再現できるみたいなことが可能なのか。
こういう感じでもあるね。
それとも、実は僕らにはね、全くこの分野には手出しできない。
つまり僕らが僕らを作り出すようなことができないという意味で、
人知を超えた何かから生まれたのか。
人知を超えた何かから生まれたのかっていうね、このどちらかなんですよ。
価格反応とか現象みたいなものによって偶然生まれたのかね。
それとも、いやそれだけじゃないんじゃないっていうね、これ分からないんですけどもね。
まさに人知を超えてるから、僕も答えようがないんだけども、
いや何かもっと他にあんじゃないっていうね、このどちらかなんですよ。
で、もし前者であればね、この来たくもなかった荒野みたいなとこにポツンと置かれてね、
あらら、みたいな。
なんかいろいろ反応しちゃって、クラゾノ君が生まれちゃったね、みたいなね。
ちょっとこれやばいぞ、つーか後はよろしくね、みたいなね。
そんな感じで僕がポツンとここに置かれているっていうね、こういうイメージ。
まさに小さくて弱い自分。
そして置かれた荒野はね、まさに兄弟で恐ろしい世界っていう、こういう関係になりますよね。
僕はもうなんかいろいろ反応しちゃって、クラゾノ君が偶然生まれちゃったね、みたいな感じなんで、
何にも繋がっていないわけですね。
なんで俺ここに生み出されてるわけ、みたいなそんな感じ。
で、何が作ったか分かんないんですけど、やべえみたいな感じで、
もう責任俺は知らないんで、みたいな感じでポッと去っていく。
僕はそこにポツンと取り残されているっていうね、こんなイメージ。
そうなのかもしれないんですよね、もしかしたらね。
これは私も分からないんですよ、本当のことはね。
そうなのかもしれないなっていう気持ちはね、今でも少し残っていますね、おそらくね。
でもそうだとすると、いろんなやっぱりね、辻褄が合わないことがあるなっていう感じもするんですよ。
例えばそうですね、僕らは集団で暮らしたり、その集団で活動したりしますよね。
これが孫徳だけでそうしてるんだったら納得いくんですね。
孤立してポツンと切り離されて荒野に置かれて、偶然出来上がった個体同士がね、
一緒にいた方が都合がいいじゃん、安全じゃんとかね、
群れを成しといた方が危険から身を守れるじゃん、みたいな孫徳だけで
集団になっているって言ったら、それだったら分かるんだけども、
でもなぜか僕らはここで寂しいから人といたいっていうふうな気持ちが湧きますよね。
この寂しいっていうのはどっから来るんだろうというね、
もともと孤立してポツンと一人で置かれて、そして私という、もう本当に暮らさのというね、
たった一つの個体、切り離された個体が最初からそうであってここに生まれたんだとしたら、
寂しくないはずなんですよ。もともと一人ですからね。
そんな理由というか動機で僕らは集団というか二人で暮らしたりしますよね。
私も家族と今暮らしているし、それから必ずしもね、孫徳館長だけじゃなくて、
なんかこの人と一緒にいたいなと思う人はね、僕にとっては性別問わずいるわけですよね。
あと例えば、もしそのような孤立した存在であるならば、
生きるというね、生存、あるいは種を増やすという生殖みたいな反映ですかね、
そういう目的ではない大切な人っていうのができるのかっていうね、
まさにさっき私が言ったこの人と一緒にいたいなと思うような人は、
意識の分離と一体感
その生存とか生殖とか反映に関係ないわけですよ。
もう何のメリットも自分にもたらさないみたいな人もいるんですね。
そういう目的を全く持たない人を大切と思えるっていうこの感じは何なんだろうなっていうね、
ここにも深い心の奥底でそれが生存に結びついているとかね、
生存にとって何かの利益をもたらしているみたいなことなのかもしれないんですけどもね。
もっと言うと、これは確か不安ゼロで生きる技術というね、
佐々木さんと協調で書いた文庫にも確か載せたんですけども、
じゃあなぜ恋人があなたは体が目当てなんでしょって言って悲しむのかっていうね、
だって体なんですもの、僕らはね。
だとしたら体が目当てに決まっていますよね。
体が目当てなんでしょって言って悲しむ時って何が目当てだといいんですかっていうね、
そこでやっぱりおかしな話になりますよね。
でもこの感覚は多分性別問わず持つはずなんですよ。
いやいや体が目当てって言われたら嫌だなっていう感じはね。
人によってはそっちの方が楽だっていう人がいるかもしれないけど、
僕はちょっとこれは悲しいなっていう感じはしますね。
まあ僕の場合は多分体が目当てにはならないと思うんだけども。
これもおかしな話ですよね。
あとはまあこれはねちょっと方向は違いますけどね。
今その差別をなくすって方向に世の中動いてますよね。
これも何か合わないですよね。
この一人一人孤立してそれぞれの利益に沿って生きてるって言うんであれば、
何でその差別をなくさなきゃいけないのかっていうね。
それからダイバーシティ多様な価値を認める。
この方向に動いてると思いますよね。
なぜ多様な価値を認めなきゃいけないんでしょうかってことになりますよね。
私が一番であれば、私の価値さえ担保されてれば、
他の存在の価値を認めなくてもいいはずなんですよね。
でもどう考えても僕らは気持ちいいか気持ち悪いかっていうと、
私はやっぱりこの差別はなくそうがいいと思うし、
多様な価値は認める方がいいと思うし、
何かこれも全く存続じゃないんですよ。
いやいやそうでしょっていうこういう感じがする。
いやもうそうでしょとしか言いようがないっていうね。
この辺がやっぱりね矛盾してますよね。
この荒野にポツンと置かれて、
現象反応によって切り離された個体として僕らが生まれたっていうね、この感じ。
これがまさにそのもう一つのね、
私とは何か、世界とは何かの答えなんだけどもね。
僕はこの番組でもね以前お伝えしたように、
実はこの答えは探す必要はなくてすでに決まっているという風に見てるわけですね。
なぜかというと、
もし私と他の人とこの世界が一つだとしたら、
私とは何か、そしてこの世界とは何かの答えは同じになるんですね。
なぜならばそれは、
私と世界が一つならば、
私とは何か、この世界とは何かは同じになるんですね、答えがね。
そして一つだとしたら、私もこの世界も等しいということになりますから、
そこにもし価値があるとすれば価値マックスなんですね、両方ともね。
世界と私しかここにはいませんから、
世界と他の人と私、この三者しかこの宇宙には存在していない。
その三者が等しいのであれば、その価値も等しく価値マックスということになりますよね。
私たちは切り離された存在なのか
一つであるがゆえに多分愛そのものなんですよ。
なぜならば一つということは何とも対立や分離をしていませんからね。
それは自然に愛になるはずなんですね。
なぜならば一つということは何とも対立や分離をしていませんからね。
それは自然に愛になるはずなんですね。
これにそのもう一人の自分ね、さっき言った、いやいやいや私たちは切り離されたね、
ここに切り離された、孤立した、個別の存在なんだ、一つではないというね、
このように認識している自分、これがこのさっき言ったね、
私とこの世界と他の人、これが一つであるならば等しく価値マックスで、
愛そのものであるという、これに真っ向から反対するわけですね。
そしてこの自分をね、まさにこの他の人とか世界から切り離されてね、
孤立している存在というふうに認識した瞬間かな、
僕はこれ誤解したというふうに捉えているんだけども、
その瞬間に僕らはね、私とは何かの答えを忘れますよね。
僕はこれは決まっている一つであるなんですけども、
いやいやいやそんなことはないと、切り離されて孤立している存在なんですね。
いやいやいやそんなことはないと、切り離されて孤立しているんだというふうに認識した瞬間に、
僕らはこの答えを探さなくちゃいけなくなったんですね。
じゃあ何なんだよっていうね、一つじゃなくて切り離されているんだとしたら、
この私は何なんだってね、これを自分自身の中に見つけなきゃいけないというふうに
思い込んだというふうに僕は見ているわけですね。
でもまさにね、さっき言ったようなその現象とかね、
画角反応によって偶然生まれた体そのものはね、
これは中をどれだけ探してもこの自分とは何だって答えは見つからないわけですね。
仕方がないので多分このもう一人の自分、こちらはですね、
何を得られたかでそれを証明しろっていうふうに考えたんじゃないかなと思うんですね。
この中にないんだったら、お前が外から何を得る、ゲットできたか、
それで証明すればいいじゃないかっていうふうに考えたんじゃないかなっていうそんな感じがする。
だからこの得ようとすればするほどね、何かを得ようとすればするほど、
多分このもう一人の自分、こちらのね、私たちは切り離された個体、個別の体なんだという
この認識を持っている自分の方針にね、賛成することになるんじゃないかなって、
そして本来の自分を忘れてしまうんじゃないかなっていうふうに思うわけですね。
バラバラ意識と意識の真相
ここでそのまさにその一つ意識が現実なのか、
それとも個別に切り離されたバラバラ意識が現実なのかっていうね、
ここの大きな分かれ目になるわけです。
僕はこのバラバラ意識の方はおそらく真相、現実ではない、
これはイリュージョンだと思ってるんですね。
なぜかというとここには矛盾がたくさんあるんですよ。
例えばそのバラバラ意識の世界はもう孤立っていうのが確定してますよね。
それぞれ切り離されてますからね。
だけどもその私たちは孤独になることをすごく恐れてもいますよね。
これはおかしい。そして孤独を恐れているのに、
愛なんてありえないっていう、へたすると信念のようなものを持っていたりする。
ものすごく矛盾してますよね。
で、もう一つこのバラバラ意識の世界には、
このバラバラ意識の世界には僕にとってはとても不都合なことが一つあって、
これが僕らは自分の意思が自由であることをとても恐れているってことなんですね。
自分の意思を自由にすることを恐れているっていう方がいいかな。
これはなぜかというとカチュマックスでも愛そのものでもないからなんですね。
要は自分の意思というものにものすごく信頼を置いてないというかね、
非常に怖がっているってことです。
例えば本当はこうしなきゃいけないっていう時に、
僕の意思が自由だとしたら、それはしたくないって言うかもしれませんよね。
だから反対に本当はここは我慢しなきゃいけないって時に、
僕の意思が自由だと、それをしたいって言うかもしれない。
つまりこうしなければならないとか、この本当は我慢しなきゃいけないって時に、
僕の意思を自由にしておくとその反対に行ってしまうんじゃないかっていう恐れを抱いているわけですよ。
なぜならば、繰り返しますけども、なぜならば僕らは自分自身をカチュマックス、
そして愛そのものと思っていないからなんですね。
なんか放っておくととんでもないことを知れがすんじゃないかというね、
この孤立した一つの体というこの自分はね、
ここの信頼を置く根拠みたいなものがどこにもないんですね。
この私とは何かの答えがこの世界から切り離されたこの体、
それはカチュマックスでも愛そのものでもない。
だとすると放っておいたらね、反対側に本当はしなきゃいけないことの反対側に行ってしまう、
そういう意思を発揮してしまうんじゃないかっていうこういう不信を持っているわけね。
だから結論として自分の意思が自由であることをすごく恐れている感じがする。
これもまさにこのバラバラ意識から生まれている恐れだと僕は思うのね。
そうするとこの私がね、クリエーションを一つの成り割としている私にとっては非常にまずいことになるわけ。
自由を失うというのはね、もう本当にこのクリエーションにとっては致命的なんですよ。
自由であることがね、やっぱりすごく重要ですからね。
そういう意味でやっぱりこの自分の自由な意思を信頼できないというこちらのバラバラ意識はね、
どうも私は乗ることができない。このような矛盾をはかいているっていうのが、
僕がこちらはやっぱり真相なんじゃないかな、現実ではないんじゃないかなと疑ってしまう大きな理由なんですね。
そして何よりもこちらの世界はね、恐れや不安が消えることがないっていう、ここがやっぱ根本的にまずい。
そうすると冒頭に挙げたようなね、私にとってとても重要な土台である平安というのを失ってしまいますからね。
だからやっぱりこの一つ意識が現実か、それともバラバラ意識が現実かっていうこの問いはね、
妥協することができないわけですね、私にとっては。
でもこれを頭で考えても永遠に多分答えは出ないんですよ。
どちらもあり得るなって感じがする。
ギフトと幸せな役割
だから私はここでですね、ギフトというキーワードを持ってきたわけですね。
ギフトというのは、自分がこの世界と一つであることの証じゃないかなというふうに私は見ています。
そしてそれをね、ギフトすることで思い出せるっていうね、そのことをね、だからギフトしてみようという、そういう本なんですよ。
で、ここにはですね、ギフトというキーワードを持ってきたわけですね。
ここには以前もお話したかな、ギフト2つあるんですね。
ギフトされたもの、そして私たちがギフトするものっていうね。
このギフトされたものっていうのは、生まれながらにギフトされたものです。
これは私の感覚では80億分の1の個性にね、紐づいた幸せな役割っていうのがあって、
これを担うために絶対に必要なものなんですね。
これがギフトされたものです。
これがまさにこの世界と私が1つであることの証なんですよ。
幸せな役割を担うために必要なギフト。
これを個性とか素質とか、そういうふうに表すこともできるかもしれない。
今書いているね、これからアップする本の中では、才能というと少し違う感じがするみたいなことも書いてますね。
才能っていうと、なんかものすごく特別にね、
なんかものすごく特別になるためのものっていう感じがします。
私はこのギフトというのは本にも書きましたけども、
元素みたいなものすごく当たり前のものなんじゃないかなっていう。
そして、ある条件が揃えばね、
誰もが目を出して鼻を開かせる、そういう種のようなもの。
誰にでもそれを鼻を開かせることができる種のようなもの。
ものすごく素朴なものなんですね。
なんかキラキラして、才能すごいなみたいなそういうものじゃなくて、
まさにこの80億分の1の幸せな役割を担うためのギフトですからね。
これを使うということは一人ではできないんですね。
なぜならば、これは幸せな役割を担うために必要なものだから。
そのためにギフトされたものだからなんですね。
これを使うということは必ず自分以外の他の人や、もしくは環境ですね、この世界。
ここにギフトするしかないんですよ。
だから面白いことに、この幸せな役割を担うためのこのギフトされたものは、
誰かにギフトすることでそれが何だったかっていうのを知ることになり、
そしてそれをギフトすることで自分が何だったかっていうのも思い出せるってことなんですよね。
このギフトによって僕らは他の人と世界とのつながりを思い出せますからね。
そうかそうかと、この私が私であるというその証でもあるそのギフトを、
私たちの存在の意味
この他の人や世界にギフトすることによって、
私たちはここと一つだったんだなってことを思い出せるという、そういうことですね。
だからこちらの世界では、この誰かにその自分がギフトされたものをギフトするということで、
この機会をいつもいつも得ているってことなんですね。
私とは何かの答えをそれによっていつもいつも得ているということです。
これがそのさっき言ったバラバラ意識の自分とは何かの答えの探し方と曲げまして、
真逆になっているってことですね。
さっき言ったように、このもう一人の自分は何を得られたかでそれを証明しろって言いましたよね。
だからこれが、そもそもはギフトすることによってそれを思い出せるという、
この自分の本質と多分真逆のやり方になっているんですね。
だからこれをやっていても私とは何かは永遠に分からないってことになるわけ。
仕方ないから分からないんで仮に小さくて弱いってことにしておくってことになるのね。
これによって僕らはやっぱり恐れや不安を抱くということ。
この反対に私に何がギフトされているんだろうというね、ここから始まるわけですね。
そうすると自分が何をギフトするかによってそれを知ることができる。
そしてそれができる自分を思い出すことによってまさに私とは何かの答え、
これは私と他の人と世界と一つであったっていうね、
価値マックスで愛そのものであるというこの自分を思い出せるという、
このために非常にこのギフトというのは重要な役割を果たしているっていうそんな感じですね。
そうするとこれがさっきのね、私は体であるというこの体がね、
また全然違うその見え方をしてくるんですよ。
こちらのこの一つ意識の世界、このギフトによって自分とは何かの答えを知る世界では、
まさにこの体がね、ギフトをするための手段なんですね。
私が今このポッドキャストを作っているのは、作れているのはね、
私のこの喉を使ってまさにこの体を使って喋っているからなんですね。
でもそれを行っているのは体じゃないんですよ。私の思いの方なんですよ。
水曜日と金曜日休んだと、よしまた月曜日から番組再開するぞというこの思いがこの体を動かしているんですね。
この体はそれを忠実に再現してくれる本当に貴重な一生に一つしかない。
そして私が喋るとこのクラゾルの声というね、まさにこれが私にギフトされたものだと思うんですね。
この声が良いか悪いかは別として、このように喋れているというね、
ポッドキャストという番組を作ることができるというこの声、
そしてこの喋るのに必要な様々な能力、これが僕の体がその手段として動いてくれているわけね。
でも動かしているのは思いの方なんですよ。
このように体を使うことで、僕らはこの僕らのね、自分の心の力っていうのを動かしているんですね。
これを理解できるんですよ。
ここの心は何を司っているかって言ったら、想像を司っているんですね。
まさにクリエーションを司っているわけです。
作るの方の想像ですね。クリエーションの想像。
私の体がそのクリエーションを行うための手段であって、
その元、それを動かしている、それが心なんだと。
この心の中に想像力があるんだっていうことが理解できるわけですね。
まさに本体はこちらなんだな、形のない心の方なんだなっていうことがわかるわけ。
そしてもう一つ、このように体を使うときね、
つまり私がこの体はギフトのための手段なんだっていう風に見出して体を使うとき、
多分僕らは他の人を攻撃しないと思うんですよ。
というよりも他の人を攻撃するために体を使いたくなくなるっていうかな、そんな感じかな。
そうですね、やっぱりこのギフトに体を使うことによってものすごく大変良いものが得られるのでね、
その反対にこの体を攻撃に使ってしまうと、
多分僕らはその瞬間にバラバラ意識の世界にコンと連れ戻されていく。
切り離された、孤立した私というね、
体を攻撃に使うのか、それともギフトに使うのかっていうのも、
まさにこの一つ意識とバラバラ意識の分かれ道になるわけですね。
だからそういう意味で簡単にまとめるとね、
恐れや不安の克服
もともとこの本というのは、ギフトという本というのは、
私にとっては私とは何か、この世界とは何かの答えを問い直すための本であるということですね。
そしてその現時点での結論を書いている。
なぜそれが必要かというと、平安を得たいから、
平安を妨げるものは恐れや不安、恐れや不安は考えから生まれる、
考えによって生まれる、心象から生まれる。
その考えはなぜその世に考えるのかというと、
私とは何か、これが小さくてか弱い自分、
世界とは何か、危険で強大な世界、
そしてそれは私とは何の繋がりもなくね、
もっと言うと、ただただポツンと私は起こる、
ただただポツンと私は荒野に置かれた、その荒野ということですね。
まさに私に何もしてくれはしないし、過酷なものばかりをもたらす荒野、
その認識から恐れや不安を生み出す心象、そのような考えを捨てざるを得ないというね、
だとしたら私とは何か、世界とは何か、この認識を変える必要がありますよね。
しかもそのポツンと私が荒野の中に放り出された、
ギフトの思想を実践する
これが現実であるならばもう変えることはできない。
でももしそれがね、僕らの誤解というかな、まさにこれが幻想、心象であるならば、
もう一つの一つ意識というね、現実を見ることによって、
この恐れや不安が必然として湧き上がってくる世界から抜け出すことができると。
そして私はそこにね、一つ意識という仮説というかな、そういうものを持ってきて、
でもここに気づくために、実はギフトというね、素晴らしいものがあるんだと。
そしてこれを私に何がギフトされているのかな、こういうことなんだ、
例えば文章を書くことなんだ、こうやって喋ることなんだ、
あるいはワンオンワンのセッションで誰かの相談を受けることなんだ、
これ全部多分だけどもギフトなんですね、音楽もそうなのかもしれない。
音楽活動といういわゆるこの、なんていうのかな、
CDとか楽曲を売って、音源を売って、お金を稼ぐ、
それはしていないけれども、私のこの活動の中にね、
音楽という要素が非常に大きく関わってきていますからね、
そういう諸々のね、私がギフトされたものを思い出す、
知るためには、僕が私以外の他の人、
もしくはこの環境にね、それをギフトすればいいんだっていうね、
まさにそういうやり方なんですよ。
そしてそれによって、いや、世界と他の人と俺つながってんじゃん、
The Giftについてたっぷりと語っています!
しかも一つじゃん、ってことがもし思い出せたとしたら、
まさにこの心象、幻想のバラバラ意識からね、
実は現実だった一つ意識の方にシフトできるっていうことですね。
それによってさっき言ったように、
この身体という認識も随分と大きく変わるということです。
身体がまさにこのギフトをするための、
とても大切な手段に変わっていくということですね。
それによって多分僕らは、この身体を攻撃に使わなくなるんじゃないかっていう、
そういう私の願いというかな、夢物語も含まれている。
そんな本になるんじゃないかなと思います。
今日はね、あえて要所要所それほど詳しくっていうかな、
具体的にわざとお話ししなかったところがあります。
それはなぜかというと、それを話してしまうとですね、
まさにこの本の全容を言葉で説明することになってしまうのでね、
でも過去に話したことだったり、
それからこれからこの番組で話していくこと、
でもありますからね。
いずれは必ずどこかでお話をするでしょうし、
すでに話したことなんですけどもね、
今回はそのザ・ギフトとはっていうね、本の話なので、
その中ではちょっとあえてぼやかしたところもありますので、
よかったら今日公開するノートのブログですかね、
これをぜひご覧ください、ご一読ください。
ここから先は本当に不定期です。
全く僕は期日を決めずに書こうと思っています。
せっかくね、この時間を取れるというチャンスですのでね、
焦らずにじっくりいろんなチャレンジをしながら、
多分途中書いたやつを何度も上げ直したり、
書き直したりすることもあると思います。
あれ、なんか前のやつとこの2章のバージョン違うじゃん、
The Giftを話題にすることに
みたいなことが多分あって、
なんか前のやつとこの2章のバージョン違うじゃん、
みたいなことが頻繁に起こると思いますので、
よかったら時たまこの頭に戻って、
読み直すみたいなこともしていただけるといいかなと思います。
これ、今日のグッドバイブスというね、
有料で配信しているマガジンと同じアカウントで作ることにしたので、
アップすることにしたので、
記事が混在しちゃうんですね、多分ね。
片方の今日のグッドバイブスは週に3本上げますから、
だからどんどんどんどん下に埋もれていくので、
このザ・ギフトもマガジンを作りました。
だからこのマガジンを開いていただくとね、
一番記事は見つけやすいんじゃないかなと思います。
ザ・ギフトというマガジンを作っています。
それからこの本はまだですね、
この本はできれば私は普通に商業出版したいなと思っています。
Amazonのオンデマンドプリントではなくてね。
でもまだこの出版社を全く決めずにというかね、
そういう話なく書いています。
ですので、そちらの業界の方はですね、
これいいじゃんと思ったら、ぜひお声をおかけください。
これもどうなるかわからないんでね、
書き終わるまでわからないんですけども、
そのような感じで私はちょっと構えてますんでね、
面白いぞと思った方はぜひお声がけください。
そちらもよろしくお願いします。
じゃあ今日はそんな感じでですね、
なんかこうまとめにくい感じにはなってしまったんですが、
そうですね、なんていうのか、
暮らしの中でね、恐れや不安を感じた時は、
あ、これは私の考えから生まれているんだなっていうところに気づき、
なんでこんな風に考えてしまうんだろう、
あ、そうか、これは私とは何か、そして世界とは何か、
この認識がね、弱くて小さな自分、
そして強大で過酷、恐ろしい世界っていうこの図式の中から、
私はこの考えを生み出しているんだな、
こう考えざるを得ないようになっているんだなっていうね、
そんな風に捉えて、
ここをものすごく単純に、
私と他の人とこの世界は一つなんだな、
そして私は価値マックス、そして愛そのものなんだなっていう風に認識を
修正すれば、おそらくそのように考えなくて済むんじゃないかなと思います。
そのようにして、ぜひいい一日をお過ごしください。
ありがとうございます。
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