新刊の執筆について
GOOD VIBES ミッドナイトラクザ by クラザムケイザ
こんばんは。ただいま4月26日水曜日の3時12分です。
この番組でですね、ちょこちょことお伝えしてたと思うんですけど、
私の新刊ですね、新しい本、これは年初に、確かお正月の番組ぐらいだったと思うんですけどね、
今年は書くぞ!みたいな宣言をね、宣言ではないですかね、願望ですかね、お伝えして、
それで途中2月3月あたりにもポツポツとなかなかちょっと進んでいませんみたいな報告をね、してましたけども、
これがなんとようやくですね、今日が4月26日なんで、もうほぼほぼ5ヶ月をね、5ヶ月弱を要して、
ようやく先日ですね、1章は完成しまして、今2章の半分ぐらいを書いてるところなんですよ。
だからなんとなくようやくね、軌道に乗ったというか、この1章が長かったですね、ほんとね。
2、3ヶ月はかかってる感じ。
途中そのブランクもあったんですけどね、書いては没にし、書いては没にし、みたいなことを何度か繰り返しながらね、
ようやく先週かな、やっとこれだったらいけるなっていう完成版がね、出来上がったというそんな感じなんですよ。
で、私がその書いてきたね、グッドバイブスご機嫌な仕事とか、それから攻撃のないコミュニケーションっていうのは、
もうまさにこの番組をそのまま文字にしたような感じでね、グッドバイブスという考えをそのままお伝えするというフォーマットだったんですけども、
ちょっとそれとは違うことをやりたいなと思いましてね、今回は全く全く異なるアプローチをしています。
まあちょっとそれはね、ここで先に言ってしまうのもつまらないので、楽しめるかどうかわかりませんが、見てはお楽しみみたいなそんな感じにしておきたいんですけども、
なのでそうですね、2章が完成したら、またここで1ヶ月とかかかる可能性はなくもないんですけどもね、
でももうだいたい2章はもう僕の頭の中にすっかり出来上がっているので、たぶん書くのはそんなに苦労しないと思うんですよね。
だから2章が出来上がったら公開しようかなと思って、もう今ノートに下書きで入ってるんですよ、画像付きでね、
もう一発ボタンをポンと押せばいつでも公開できるような感じで、ただちょっと1章と2章と合わせて読んでいただかないと、
もし仮にね、この1章を公開した後にここでちょっと間が空いてしまうと何のことやらわからなくなるんで、
だから一応2章までは書いて、そこから公開しようかなと思っています。
でもまあ軌道に乗ったということでね、
例の書き上げ塾、私の執筆講座の、これが第8期がね、もう今始まってますんで、
ここにいらっしゃる皆さんと一緒にね、今年というか今期はね、私もまさにこの受講生になった気分で、
それから私のやってるジャジンワークとかをね、活用しながらガンガン書いていこうかなと思っています。
そんな感じです。まあこれがザ・ギフト、軌道に乗りましたよという、そういうご報告ですね。
自己認識と歌唱力
で、今日はですね、ここ最近この番組でね、私が言うところのこの2人の自分っていう、本来の自分と偽りの自分ですね。
この2人の自分のうちのその偽りのほう、恐れや不安の自分ね、これまあガーディアンとか最近はよく呼んでたんですけども、
こちらの話をたくさんしてきた感じがしていて、今日はどちらかというとこの本来の自分ね、
こちらにちょっと話題を移していこうかなと思っています。
で、というのも、僕がやってる先週のね、日曜日かにもやった、あ、土曜日か、
今ここのボイストレーニングというね、まあイベントがありまして、これ月一でやってるんですけども、
ここではその歌を歌うための4つぐらいのポイントをね、
まあもちろん良い歌を歌うためなんですけども、それを4つぐらいこうお伝えしているんだけど、
その中にですね、自分をどのように見てるかっていう話があるんですね。
で、私がその私のサイズというかな、私の大きさというのはこのぐらいかなと、
そういうふうに認識すると、その大きさと同じ歌しか歌えないっていうかね、
まあその同じ、私の自分とは何かの認識と私の歌う歌っていうのはね、
基本的には等しくなるっていう、そういう話をしているんですね。
で、残念ながら、この僕らが本来持っているスケールっていうのは、
いつも言っているように、この宇宙の死んだ万象と一つである僕らはね、
おそらく相当無限な大きさを持っているはずなんですよ。
この形のない部分っていうか、形のない自分としてはね。
で、歌はもちろんこの体を使って歌うんですけども、
体は道具なので、この思いの部分ね、形のない部分の大きさにやっぱり従うわけですね。
だから、体力とか体の大きさとか筋力とかそういうものとは全く関係なく、
この形のない思いが無限に大きく広がれば広がるほど、
その出てくる声、歌、それもね、大きくなっていく。
これは音量を言っているわけではないんですよ。
音量ではないんですね。
でかい声が出るとかそういうことではなくて、歌の広がりみたいなね、
これは本当に言語化できないんですけど、
言葉で表すのが難しいんですけどね。
なんかこう、歌、この人の歌大きいなっていう、そういう感じ。
このスケールが大きくなる。
これは何で決まるかというと、この自分をどう見るかですね。
私とは何かみたいな、この答えによってスケールが決まってくるわけです。
自分の限界を外してスケールを広げる
ここをですね、もっと大きくしましょうっていうかね、
これはもう本当に自分の思いなので、
自分がどのぐらいの限界を設けているかっていうことに従うんですね。
だからそれをなるべく外していって、
どこまで広げられるか試そうみたいなことをやるんですよ。
そうすると、これはもう間違いなくね、
ほぼ百発百中で最初にこの話を意識しないで歌う歌よりもね、
これを通った後の方が、はるかにスケールが大きくなった。
これはもうプロであろうと音楽とかあまり詳しい人じゃなくても、
必ずわかるんですね。
時々ボイトレの受講者のビデオっていうのを知り合いに限りますけどね、
ちょっと見比べてみてよとかつって見てもらうんだけど、
うわ、本当に大きくなってますね。
これ誰でもわかるんですよ。
そうでなければやる意味がないくてね。
大きいか小さいかよくわかんないですねって世界だったら、
この工夫自体があまり意味がないんで、
誰でもわかるからこれが効くんですよ。
本来の自分と仮想の自分
自分をどう見るか、私とは何かっていうね、この答えですね。
これによってやっぱり行動や考えが歌だけじゃなくて、
僕らのあらゆる行動、それから考え方、捉え方みたいなものが決まっていくっていうね。
これはなぜかというと、
これは当然自分で言うと自分のスケールっていうことに反映されるので、
例えば歌で言うならばそれと同じような大きさになると。
でもこの自分をどう見るか、私とは何かっていうこの視点はですね、
必ず他の人をどう見るか、私以外のですね、
それと私が生きているこの世界をどう見るかの視点に反映されるってことなんですね。
これがいつも言っている鏡の法則で。
例えば私はあまり寛容ではないってね、サイズが小さくて寛容さがないんだみたいなことを自分だと思うと、
それを必ず他の人にも見てしまうんですね。
私が小さくて寛容でないんであれば、他の人も当然だけども小さくて寛容じゃないはずだと。
そうすると、例えば歌を歌うときにね、人が誰か見ていると、
この私の歌をその人が笑うんじゃないかと、大したことないなと、
バカにするんじゃないかみたいなことを想像してしまうわけね。
それで緊張するみたいなことが起こるんだけども、
これはまずは自分をどう見るか、あまり寛容ではないな、小さいような器みたいな感じ。
これがそのまま他の人に反映されて、
そして私が変な歌を歌ったら不快になるんじゃないかみたいなことを想像するってことですよね。
だから私がしつこく本来の自分と偽りの自分がいるというふうに、
いつもこの番組でもそうですけどもお話しているのは、
ここの自分をどのように見るかという視点が最も重要な部分だと思っているんですね。
私とは何よっていうこの答え、これを本来の自分、そのように取り戻したいというかね、
本来ですからね、もともと僕らはどうだったんだっていう、ここを取り戻したいという、そういう目的なんですよ。
これがさっき言った歌ですね。歌には直結しているんでわかりやすいんですね。
だからもともと本来の自分を思い出して、何がいいわけ?みたいなね。
私とはこういうもんだったんだな、そうかって思い出すだけではね、全く意味がないんで、
これを私は生活とか仕事とか人生そのもの、そこに反映させたいわけですね。
もちろん反映されるんですけども、これを少しずついろんなところに応用しながら、
やっぱこっちの方がいいねっていうことを、体験とか実際の実感というのかな、
こっちの自分すごいねっていうね、これをしっかりと生活とか人生の中で味わいながら、
より強化していくっていう、そういうやり方をしたいなと思ってるんですよね。
それで一つはそのボイトレっていうのがあるんだけども、これがなんとですね、
僕はその問題解決というのかな、なんかその人生のキロに立った時にどちらを選ぶんだ?みたいなね、
こういう迷う場面とかね、そこにものすごく効果を発揮してくれるっていう風に僕は自負していて、
だからこれを味わってしまうと、やっぱりこう問題が起こったり揉め事が起こったり、
ちょっと悩ましい出来事に遭遇した時に、もうこちらの自分でしか解決したくないなっていう、
自己認識の重要性
そんな感じがするぐらいすごい効果があるんですね。
効果があるって言い方はちょっとあまりにしょぼいんだけど、いやすごいんですよ、もっと。
だからこの話をね、今日はどのようにその本来の自分を問題解決に役立てるっていうかな、そういうテーマなんだと思うんですね。
もう一回この二人の自分というのを整理しておくとね、この二人いると言ってもどちらも現実の僕ではないんですね。
僕が二人いるって言ってもこの世の中に二人存在してるわけではなくて、これは現実は一人なんですよ。
私が現実だと感じている方は本来の自分と言っている方。
これはこの宇宙の真羅万象から生まれた、この世界とこの宇宙の真羅万象と一つで、
そして他の人と等しくカチマックス、そして愛しそのものである形のない傷つかない自分、そんな感じかな。
これが本来の自分なんですね。
要は私はこの宇宙の真羅万象の広がりから生まれた、まさにその宇宙の真羅万象と一つである、等しい存在であるという、
こういう認識をしている自分というのが僕にとってはその現実の私なんですね。
もう一方は、ここが重要なんですけどもね、僕の定義で言うと、
このある種の願望をもとに無理やり作り出してしまった仮想の自分という感じですね。
仮想というのはバーチャルということです。まさに心象なんですね。
要はその本来の自分に対してある願望を持ったがゆえに、
なぜかその本来の自分ではないもう一人の自分を作り出してしまったということなんですね。
本来の自分を問題解決に役立てる
これは僕らの想像力なんですよ。
どういう想像力かというと、頭で考え、そして心でそれがそのようなものだというふうに信じること、信念ですね。
思考と信念によってあたかも現実のようなものを作り出してしまうという、
これは本当に僕らがそもそも持っていた想像力の一つの使い方のバリエーションというふうにね、私は見ているんですけども、
要はこの仮想の自分、バーチャルの自分、心象の自分というのがどのようにして生まれたかということなんですね。
僕はこれはその私とは何かというね、さっき言ったこの宇宙の真理万象から生まれたというこの答え、
これを見失ったときね、私とは何だっけっていう答えをいつか僕ら見失ってしまった。
この時に僕らはですね、いつかこの世から消える儚くて小さな体というのかな、これを自分と見成してしまったということですね。
この答えを見失ったというのは、たぶん僕らがその一代でそうなったわけじゃないんですね。
私が生まれたときには本来の自分を知っていて、2歳3歳と育っていきながら私とは何かの答えを見失っていき、
この体が自分だというふうに見成したわけではなくて、これはもう本当人類の歴史の遥か昔にそれはたぶん始まっていったようなそんな感じを僕はイメージしているよね。
だから僕らが生まれたこの現代の日本というのは、もうそもそもそのように認識したね、このもう一人の自分というかな、
この偽りの自分の方が作り出したこの仕組みの中に生まれてますから、
普通に生きてれば見失い続けるようになっているっていうそんな感じね。
人間の心象と願望
だから僕らの人生の中でこれをやったというよりはもっともっとすごい歴史の中でね、
人類がいつかこれを忘れた時が来たってことですね。
この話はね、私がなんとなくそうじゃないかというその想像しているようなものなので、
はっきりした根拠があってね、この時代にほら人類はこのようになりましたとかってそういうものではないんですね。
なんとなくそんな感じがする。
だからやっぱりこの心象というのは、僕らは一人でも作り出せるんだけども、
これがやっぱり人数が増えていくとね、やっぱりものすごく強化されるっていうそういう性質を持っているわけですね。
だから思い出すと言ってもね、その僕らの人生を振り返って何歳かの子供の頃に帰るとかね、
そういうこととはちょっとニュアンスが違うんですね。
もっともっとさがなぼる感じ。
だからなんていうのかな、記憶も遺伝するみたいなことをよく言われますけどもね、
そういうものをたどっていくようなね、なんとなく僕のイメージとしてはそんな感じなんですね。
この辺はちょっとよくわからないっていうのが正直なとこなんですけどもね、
要はそんなこんなで僕らは自分をこの世から消えてなくなるようなね、
はかなくて小さな体っていうふうに見成した時があると。
で、この一つの体というのは当然ですけども、
その自分の生存そして自分の快楽っていうのを最優先しますよね。
だからこれは余裕があるときは多少は分かち合えるんですよ。
でもこれ突き詰めていくと、たぶんこのね、己の生存、己の快楽というのを、
これを他の人と分かち合うことはたぶんないんですね。
まあ無理なんですよ。一つの体ですからね。
これは完全に効率してますから、ここの利というのはたぶん他の人と一致しないんですね。
この突き詰めていくとね。
で、もちろん僕らはその本来の自分を半分持ってますからね、
自己定義と支配の願望
そんなになんていうのかな、クールに人との利害が全く一致しないみたいな生き方は絶対にしてないんですよね。
ここが面白い。
もし本当に体だけであればそのようになるということですね。
だから僕はこちらではありえないというふうに考えてるんだけども、
まあでも理屈としてはですよ。
やっぱりこの自分は体だなと認識した瞬間に、
この体はその生存とか快楽みたいなのを他の人とは分かち合えないよなっていうのは分かるんですね。
でもものすごく親しい人であれば、子供とかね、親子みたいな、そういう関係であれば、
なんとなくここを超えられる感じはするんだけども、
でも一般にこの私の周りにいる赤の他人とはおそらくここは利害が一致しないんですよね。
で、そのようにね、僕も捉えて生きていたんだけども、
そのように自分と他の人を捉えた瞬間、
僕の中にはですね、かなり端緒って乱暴に言いますけども、
ある願望が生まれるんですね。
それがまず安全で痛いですよね。
この小さな体、この生存をかけて安全で痛いとまず思いますよね。
そうするとその次にさっき言ったように、これは他の人と利害が一致しませんから、
他の人々と利害が対立するね、この体を守りたいっていう風にこれが発展していって、
最後にどうなるかというと、ここが乱暴なんですけど、
他の人々を支配したいっていうね、多分こういう願いが生まれるんですよ、きっと。
安全で痛い、1ね。
2番目が、だから他の人々と利害が対立するこの体を守りたい。
そして3番、だから他の人々を支配したい。
そうすれば一番安全ですからね。
これが僕がバラバラ意識なんじゃないかなと思っているわけです。
体と支配の願望
この願望というのは、今乱暴に言ったんですけども、実はもうちょっと細かくいろいろあってね、
結局は支配したいってところにつながるんだけども、
例えばこれが本来の自分と真逆になっているところが面白くてね、
生まれながらに価値マックスなのは嫌なんですよ。
そうじゃなくて、自分でその価値を高めたいっていう、そんな風に、そんな願望を持っている。
それから自分とは何か、この答えを自分自身で定義したいってことですね。
さっき私が言ったような、この宇宙の森羅万象の広がる想像から生まれた価値マックスの存在みたいなことをね、
勝手に定義するなと、これは自分で決めるんだっていう、そういう願望ね。
それから、みんなと一つじゃなくてね、これも誰と結ばれて、誰と仲良くするかを自分で決めるんだっていうね、
この一つになる相手は自分で決めるんだよ、だからみんなってのはやめて、みたいなそんな願望。
それから等しいのは嫌だと、できれば自力で人の上に立ちたい、みたいなね、これも願望ですね。
それからもっと言うと、だからこの宇宙の森羅万象のサポートとかいらないです、みたいなそういう感じ。
これは子供の頃ね、なんか工作とか作ってて、この親とかね、兄貴とかがポッと手を出すとすごい嫌じゃないですか。
やめて、みたいな感じがあるじゃないですか。
多分あの感覚にちょっと僕は似てる感じがするんですよね。
ガーディアンとしての生き方
俺の人生手出すなよ、みたいなね、一人でやるんだから、みたいな。
これは手柄を独り占めしたい、みたいな感覚と近いのかもしれないですよね。
この支配するっていうのは大げさな感じがするんですけども、
決してその、なんていうのかな、この現代の、今の日本においてはね、
世界征服みたいな話はなくて、かつてはあったんですけどもね、それをやろうとした人はね。
そういう選ばれしい人でもないしね、みんな普通に暮らしてますから、
ここではね、この支配みたいな大げさな言葉ではなくて、
要は人との間で主導権を握りたいとかね。
もっと言えば、もっと小さく言えば、鍋武器を俺がやりたい、みたいなこの感覚。
今ではもう相当規模が小さくなっているんだけども、
こういう願望を僕らは抱いているってことですね。
私は体であると、さっき言ったように他の人とね、基本的には利害が一致しないんだという、
ある種過酷な中で生きながら、このような願望を持っている。
これがもう一人の自分なんですよ。偽りの自分なんですね。
ガーディアンというのは、この自分がその恐れや不安を抱きながら、
自分との葛藤
この儚い体を守ろうとする時の、その名称というかな、
その役割を果たそうとした時に、僕はガーディアンという風に呼んでいるんですが、
もうちょっとでかいんですね。このもう一人の自分がやろうとしていることっていうのはね、
今言ったような、まさに本来の自分の宇宙の真羅万象から生まれたという、
ここを否定したいんですよ、どちらかというと。
そうではなくて、そして僕が言うように、その一つであるみたいなことね、
それを否定したいんですね。
要はだから、やっぱりこの自力で何か自分は特別なものになるみたいなことが、
私が言ったこの支配したいみたいなね、
この願望に、今、現代ではそのように変わっているんじゃないかなと思うわけです。
で、この自分というのはね、つまり他の人や世界から切り離されているわけですね。
だから当然だけども、問題とか困難に直面するとね、
まず先にこの未来を予想します、まずね。
そして困ったことになったらどうしようという風に考えるわけです。
そう考えざるを得ないですよね。
今言ったようなお話の中で、私は体、ちっぽけな体、
そして他の人とこれはこの利害が一致しない、生存、快楽みたいなことは一致しない、
そういう認識の中で問題困難に直面しますからね、
まずは困ったことになったらどうしようという風に考えるわけですね。
で、これがまあ要はもう一人のその偽りの自分が作り出す真相でもあり、
恐れや不安の正体でもあるわけです。
で、僕はまあ2013年頃にあのミドリの本、
グッドバイブスごきげんな仕事をね、書き始めたんですけども、
その辺りからこちらの自分に頼るのをやめたんですね。
なぜならばこの私というのは、この何ていうか偽りの自分の方ね、
自分を体とみなして、さっき言ったような願望を抱きながらね、
暮らしているこの私は、まず自分も他の人もこの世界も基本的には信頼してないんですね。
それはさっき言ったような理由でね。
それでその自分がこの問題を解決しようとして、
困ったことになったらどうしようって考えて出す答えが、
結果としてね、必ず僕を苦しめる、もしくは追い込んだりすると、
これを痛感したからなんですね。
だからまあ第一歩としてはね、この問題とか難しい場面に直面すると、
僕らはやっぱり悩んだりね、怖くなったり不安になったりしますよね。
これを何とかしようというので、その偽りの自分が作り出す真相に騙されないようにするという、
これが入り口になるんだけども、ここで終わりではなくてね、
そこで本来の自分を思い出しながら、
この間違いの訂正とか問題の解決を本来の自分でやりたいんですよ。
これが今日のポイントなんですね。
この本来の自分ではない偽りの自分の側で問題とか困難に直面し、
そして悩みを抱えると、そうすると当然この真相を作り出してね、
実際にはないものを見たりとか、より現実を悪く見たりするので、
まずは入り口としてね、ここの真相を手放す。
そういうことによって平安を取り戻すんですね。
許容と問題解決
これが第一段階なんですよ。
この話をこの番組でも数多くしているんだけども、
これだけじゃなくて、ここから僕らは問題の解決とかね、
間違いの訂正みたいなことに挑むんですよね。
その自分も本来の自分でいたいということですね。
問題解決とか間違いの訂正も本来の自分でやりたいんですよ。
本来の自分にやらせたいんですね。
ここも私も何度も経験してますけども、
一旦、例えばね、私がすごく許せないなと思う出来事に遭遇しますね。
あまり複雑じゃなくてくだらないことにしておく方がいいんだけど例はね、
例えば私がワンオンワンのセッションをやっていて、
いつもどれぐらいがいいかな、30分くらい遅れてくる人がいると、
そんな人はいませんからね。いないんでこの例に出してるんで、
聞いてる方で俺かとか思う必要は全くありません。
誰も私、今頭の中に浮かべてませんから。
もしそういう人がいたとします。毎回30分遅れてくるとね、
これを平安な自分にクッとなりながらね、とりあえず許すということをする。
そうしないと、ここで相手の行動に罪を見て、僕は罰を与えたくなる。
それは私にとって全くいい問題の解決方法ではないので、
まずは彼のやったこと、彼、彼女のやったことを許すということをやるわけですね。
でも、何とかしないとまずいんですよ。
このままずっとそれが続いていくと、毎回毎回この30分が無駄になっていきますからね。
だから私はそこで間違いの訂正というか問題解決をしたいなと思うんですね。
でもここでそれを考え始めた瞬間に、
僕は本来の自分からさっきの偽りの自分にクッと戻っているんですよ。
ここが気がつかないんですね。なかなかね。
一旦平安になってますから、もう許せたとし、
大丈夫だよってね、もう許してくから大丈夫だよってさ、どうしようかなと、
この解決方法を考えた瞬間にまた元に戻っているということが多いんですね。
なぜかというとね、僕らがその訂正とか解決をしようとすると、
例えばね、今後遅刻しないようにね、この1回は何々さんちょっと悪いんだけどね、
今日はここで終わりにしますと、もう30分経っているので続けられませんみたいなことを言う方がいいのかなみたいなことを考えちゃうんですね。
今はちょっと痛い目に合わせないと分からないだろうみたいなことを思いついてしまうわけ。
これは罰ですからね、どう考えてもね、このままセッションはしませんと言って私が罰ってこのズームを切るみたいな、これは完全に罰なんですよ。
これはやりたくないんだけど、じゃあどうするかを考えても一向に良いアイデアが浮かんでこないんですよ。
この自分だとね、罰は与えたくない。
でもここが重要なんですね。このままだと困ってしまうんじゃないかっていうこの葛藤が生まれるんですね。
だからさっき言ったように、こちらの自分、偽りの自分で問題に遭遇すると必ず困ったことになったらどうしようっていうこの前提を持ってしまうからなんですね。
本来の自分を取り戻すための前提
だから僕が例えば30分遅刻する受講生を相手にした時も、このままじゃまずいよな、このままだと困っちゃうよなっていう前提、ここから抜け出せないんですね。
ここでもうその罰は与えたくない、でもこのままだと困るというこの葛藤を持っているということは、もういつの間にか偽りの自分に私は戻っているっていうことなんですね。
こいつを出さずに本来の自分でこの間違いの訂正とか問題解決をしたいんですよ。
じゃあどうするかっていうね、ここで出てくるのが最初にお話した自分をどう見るか、私とは何かっていうね、これによって行動や考えが決まるという、
このある種の法則なんですよ。ここを本来の自分として問題解決に当たるっていうふうにすればいいわけですね。
まず自分はなんだっけ、なんだっけ、ここを思い出すわけですね。
その前に第一段階としてね、この平安な自分をそれを取り戻すために紳士を手放した。
ということは本来の自分に近づけているよね、と。
私とはなんだっけ、あ、そうか、宇宙の森羅万象が広がる想像によって作ってくれた。
形のない存在、決して傷つかない愛そのものなんだなっていう。
それから他の人やこの世界と一つだったよな、価値マックスだったよな、等しく。
そして宇宙の森羅万象から全てを受け継いでいるはずだよなという、こういう結論に至るわけですね。
そうするとどうなるかっていうと、さっきのね、偽りの自分、恐れや不安の自分の方は問題とか困難に直面した時にね、
すぐに未来を予想して困ったことになったらどうしようっていう風に考えましたよね。
本来の自分は今言ったような存在なんですよ。
決して傷つかない愛そのものでこの世界と一つで宇宙の森羅万象から全て受け継いでいるんだとしたら、
何があっても私が困ることはありえないという風に捉えていいはずなんですね。
これはとてもごくごく当たり前の結論だと思います。
ここでですね、この話をその偽りの自分が聞いたら、何言ってんだありえねえだろう、これは当たり前ですよね。
ここがこの話の難しいところなんですよね。
今言った私とは何かの定義はね、この本来の自分の定義だからその自分が困ることはありえないと言ってる。
これは偽りの自分からしたら絶対に受け入れられないという結論になりますね。
だから困ったらどうしようと考えることで、いろんな手を打ちながら自分を守ろうとするわけですね。
でも本来の自分は困ることがありえないとここから始められるということなんですよ。
これは一見で、ただただあんまり困ることはありえないからさって言われても、
本来の自分に基づく問題解決
ただただただのはこの楽観的なもう本当にこうかなり世の中を舐めてるような発想に聞こえてしまうんだけども、
もう少しそうなのっていう感じで聞いていただきたいんですけどもね。
例えば問題が起こった時に何があっても私が困ることはありえないというこの結論を先に持っておいたとしますよね。
困ったらどうしようではなくて、いやいや何があっても困らないからって。
そうするとこの結論から逆にたどって何をすればいいかっていうことが見えてくるんですよ。
例えば少なくとも僕は4つあるなと思っていて、無理地位とかゴリ押しっていう道はもう多分選ばなくていいはずなんですね。
だってこれもし流れに大きくさらうようなやり方をすると、それをし始めた瞬間から困るじゃないですか。
だから困ることがありえない僕にとってこの無理地位ゴリ押しっていうのはありえない道なんだなっていうふうにもうそこで判断していいんですよ。
本来の私がもしこの問題解決に取り組むとしたらですよ。
例えば何かをするのにお金がないとしますよね。
このお金がないから何かができないって僕らはここで悩み苦悩を抱えるんだけども、
いやここで借金までして無理するのは違うくね?みたいな答えがここにスッと出てくるわけですよ。
ここが重要なんですけども、こちらの本来の自分は自分と他の人と世界を信頼してるんですね。
この三者が必ず私をいいところに連れて行ってくれるっていうふうに信頼をしているので、
もし私にお金がなくて今それに手が出ないんだとすれば、世界が私にそれは今ではないよって教えてくれているんだというふうに捉えることができるってことですね。
これは非常に大きな僕にとってはものすごく頼りになる一つの基準なんですよ。
これによって私はもう選ばなくていいんですね。
今できることの中に答えがある
今お金ないね、買えないね、できないね、これってどうすればいいの?
ないってことは今じゃないって世界が言ってるんだよってこの声が聞こえてきてもう終わりなんですよ。
だから無理中をしたりご利用したりする必要がないってことですね。
これが一番ですね。一つの方針が見えましたね。
それから二番、今できることの中に答えがあるはずなんですよ。
だってできないことをやろうとすれば困りますからね。
そうするとさっきの私は困ることはありえないっていうこの結論に反してしまうので、
だから本来の自分はできないことは選ばないんですね。
もちろんその一生できないことはやらないっていう意味ではないですよ。
そんなことしてたら今できることしかできなくなりますからね。
将来何かをしてできるようになるっていうことはあり得るんだけども、
それは今できることではないのでね、今の問題解決には使えないとみなすわけです。
だから必ず答えは今できることの中にあるはずだっていう風に見るのが本来の自分ということですね。
これは例えばですね、私がものすごく忙しい状態だったとします。
もう本当に何も今他のことはできないっていうね。
一年に一回あるかないかぐらいですけどもね、なくはないですね。
そんな時に佐々木さんが例えばこういうことやりませんかって誘ってくると、
これは受けるとえらい大変なことになるってわかりますよね。
そうすると困ったことになるんですよ。
だけどもここでその恐れや不安の自分はね、決められないんですね。
今でもこの佐々木さんの、佐々木さんだったらそんなことないんだけど、
これがもっと別のね、例えば出版社で本書いてくれませんかとかね、
どっかでセミナーやってくれませんかみたいな依頼だと、
これ断っちゃうとこの後やばいかなとかね、
この人との付き合いが断たれてしまうんじゃないかとか、
困ることがありえないという前提から導き出される方針
二度と仕事がこないんじゃないかみたいなことをこれは予想するわけですね。
困ったことが起こるんじゃないかと、
断ってしまうと困ったことが起こるんじゃないかということで、
忙しいけど受けようかどうかみたいなことを迷うわけですね。
でも本来の自分は困ることはありえないと知ってますから、
今この仕事を受けるという選択はないよねっていうことを一瞬にして教えてくれるわけね。
もう一つの懸念ね、これによってもう仕事が来なくなるんじゃないかとかね、
人の関係をちょっと悪くしてしまうんじゃないかみたいなことも考えなくていいってことですよね。
そうするとそれは困ったことになりますから、
ここは今この状況で受けないというこの回答をしても何も困らないというふうに本来の自分は認識する。
非常にシンプルに答えが出ますよね。
今できることの中に答えがあるという2番ですね。
それから3番、これもすごいんですよ。
どちらを選んだとしても途中でうまくいく方に修正できるというね。
だから結局はこれを言ってしまうと選ぶ必要ないってことになるんだけども、
そうではないんですね。
やっぱりよりベターな方を選ぶ方がいいんですよ。
困らない方を選ぶ方がいいんだけども、
万が一ここで偽りの自分がポーンと出てきてね、さっきの仕事とか受けちゃったとしますよね。
でもどちらを選んだとしても本来の自分は困ることはありえませんから、
必ず途中でうまくいく方に修正できるというこの確信を持っているってことですね。
だから選択を間違えても気にする必要はないってことです。
その選択を間違えて困る前に必ず他の人とかこの世界から
そろそろ修正した方がいいんじゃない?みたいなメッセージが寄せられるということですね。
そのような背景の中に僕はいるということです。
だからさっきの話で言うと受けたらちょっとしばらくやってみて無理だったらね、
もう一度迷惑のかからないような範囲でやっぱりちょっと厳しかったですみたいなことを話すとか、
時期を変えてもらえませんかみたいなことを話す。
これが修正なんですよね。
これも私は困ることがありえないという前提であれば、
多分いろんなことを話し合えるはずですよね。
それからこれが3番目ね。
それから4番目。
もしこの有効と思えるような手立てが見つからなければ、
見つからないまでじっくり待っていいっていう、
これが大きな方針としてここに加わってくるわけですね。
今言ったその無理辞位はしない、ご了承しないっていうのが1でしょ。
2番は今できることの中に答えがある。
そして3番はどちらを選んだとしても必ず途中でうまくいく方に修正できる。
この3つが負に落ちていたら絶対焦らなくていいって分かりますよね。
だから見つからないんだったらこの解決策がね、見つかるまでじっくり待てばいいんですよ。
これだと思うものが見つかる前にもうしょうがないこれやっちまおうっていうんじゃなくて、
有効な手立てがない場合
もし僕が困ることがありえないんだったらね、
もしかしたらですよ、待ってる間に勝手に問題が解決してしまうことも実は少なくないんですよ。
僕はこれを実は頻繁に経験してますね。
いやーどうしていいか分かんない。
さっきの遅刻の話はこれですね、きっとね。
30分遅れてくる彼がいると、彼女がいると。
ここは許そうと。
でもこのままだと彼はずっと遅刻しまくるよね。
彼女はいつも30分遅れてくるよねと。
どうするよ、答えが見つからない。
一回だけね、ちょっと心を鬼にしてね、なんとかさんすいません。
今日はこの時間になったので続けられません。
じゃあまた次回お会いしましょうって言うのか。
いやーそれは罰だよねと。
じゃあどうすると。
困ることがありえないという前提から導き出される選択肢のシンプルさ
じっくり話し合うから遅刻するのでやめてくださいって言うか。
これを僕が罰でない形で言うことってできるかなと。
しかもできればさっき言った偽りの自分の相手を支配するみたいな。
そういうこともしたくないよなと。
全くわからん。どうしたらいいんだと。
これを罰じゃない形でどのように解決すればいいんだとかって悩むわけでね。
そうすると4番目。
そういう有効な手立てがないんだったら待ちなさいと。
そうかと。
じゃあまた次回やりましょうと。
また30分遅れてくるかもしれない。
でもなぜか不思議なことにね。
何もしなくても時間を守るようになる方も実はいらっしゃったりするんですよね。
これはもう多分言葉では説明できない領域に入ってると思うんだけども。
多分私が何かしてるんですね。きっと。
この許すということを通じて何かをしてるのかもしれないし。
このじっくり待って罰を与えないというこれが相手に何かを響かせてるのかもしれない。
でもいずれにしてもここは有効な手立てがないんであれば待っているしかないんですね。
心配してる間にいろんなことがトントントントンと片付くとかね。
懸念してこれは手出しとかないとまずいんじゃないかと思いながらも
いやこれを有効だと言えないなっていうふうに思って待っているとですね。
誰かがそれをスッと片付けてくれたりするみたいな。
本来の自分とは何か
これは結構あるんですよ。全部ではないですけどもね。
でもまあこの4つが大きな方針として問題が起きたとき選択肢に迷ったとき
私は困ることはありえないっていうね。
私が困ることはありえないっていうこの結論からこの4つの方針を導き出すとですね。
全くその偽りの自分が考えるような選択肢とは全然別のものが見えてくるし
えらいシンプルになりますよね。
多くの選択肢はスッとなくなっていくんですね。
多くの場合2つあるかないかぐらいな感じ。
だいたいもう一つに絞られてきますね。
これが私がそのお勧めしたいね。
間違いの訂正問題の解決を本来の自分に任せるということです。
本来の自分ってどうやってやるわけってわかんないですよね。
だから前提として本来の自分とは何か。
それは何があっても困ることがない存在なんだっていうこの認識から始めるってことですよね。
ちなみに僕はですね。
問題解決の前提としての「私が困ることはありえない」
昨日から今日にかけてね。
結構大きな難題が実は2つあったんですね。
どちらもこのやり方でうまくいきましたね。
どちらも困らずに済んでいます。
さっき言ったように2013年の緑の本を書き始めてから。
僕はこの偽りの自分に問題解決を任せるっていうのをなるべくしないようにしてるんですね。
というかさっき言ったようにこの自分だといいアイデアが浮かばないんですよ。
必ず攻撃とか罪と罰とかそういうものが入ってしまっていて。
この自分にこの間違いを訂正させちゃいけないなっていうね。
必ず何かこの裁きとか処罰とかそういうものに近づいていくんで。
これを信頼するのをやめたんですね。
そろそろもう10年に経つなるんだけども。
最初の頃はそうは知ってもあまりうまくはできないかったんですけどもね。
これを10年続けていってやっぱりこの方がいい感じで問題が解決できるっていう実感がありますね。
いやいやとはいってもっていう感じであるとすればね。
さっき言った4項目この方針を立てながら選択肢を探っていくっていう。
ちょっとさすがにこれは勇気いるよっていうことであれば僕は実行しなくてもいいと思うんですよ。
必ずしもね。
その通りにやらなくてもいいと思うんですよ。
実行するのはこの偽りの自分のね困ったことになったらどうしようっていうこっちの方で解決策を見つけていってもいいんだけども。
一回だけねこのシミュレーションみたいな感じで。
例えば私が困ることはありえないという前提に立ったとして。
さっき言った4項目無理事ご利用ししない。
今できることの中に答えがある。
どちらを選んだとしても途中でうまくいく方に修正できる。
有効と思える手立てが見つかるまでじっくり待っていいみたいなね。
この4項目を想定してみて。
ここからどんな答えが導き出されるだろうかっていう。
このシミュレーションをやってみるっていうのは悪くないですよね。
それをやらなく実行しなくていいんで。
シミュレーションで答えを見つける
どんな答えが出るのっていうね。
この答えを見るだけでも僕は価値があると意味があると思いますんでね。
これはちょっと早速ね困ったことがあった時に。
特にね二者択一とかがいいですね。
受けるか受けないかとかね。
やるかやらないかみたいな時に。
この困らない、困ることがありえない自分だったらどうするかっていうこの前提で解決策を見てみるわけですね。
何がいいかっていうとね。
私が実感していることのメリットの一つはですね。
さっきのその4項目みたいな方針を立ててね。
そして本来の自分。
私は困ることはありえないというような前提で物事を見ているとですね。
例えばスケジュールが合わないとかね。
なんか狙った日にセミナーの会場が取れないとか。
様々なアクシデントがこの人生に起こるんだけども。
それの意味が全然違ってくるんですよね。
そこでほとんどもう全くがっかりしなくてすぐ。
そのたんびにそういうことじゃないんだね。
今じゃないんだね。
「私が困ることはありえない」の価値
その日じゃないってことなんだねとかね。
このやり方だとうまくいかないんだねとかね。
もう本当になんていうのかな。
まさにこの私と他の人とこの世界この3つがね。
いろんなことをいろんなメッセージを送ってくれて。
だからそれじゃないんだよっていうことを安全に教えてくれてるみたいな。
そんな感覚になるんで。
本当に一瞬も落ち込まずに済むんですよ。
そうすると一瞬も落ち込まないということは。
それなりにずっと本来の自分でいられるので。
ますますこの判断力というかね。
じゃあその後その次どうするみたいな。
ここの判断もさえ渡るっていうね。
だからこの落ち込まない威力というのは本当に僕は絶大だなというふうに見ています。
拡大解釈とパートナーシップ
だからまさに困ることがありえない自分というのは落ち込むこともありえないわけだから。
これがねくるくる回っていくと本当にいい流れに連れて行ってもらえるんじゃないかなって。
そんな感じがしますね。
そうそうだから冒頭にお話しした原稿を書くか書かないか本を書けるか書けないかみたいなのも。
この1月2月3月あまり進まない。
それは今じゃないんだねとかね。
さっきの4番目に近いのかもしれないね。
いいアイデアが浮かばないということはね。
いつまでも待っていいんだみたいな。
困ることがありえないんであればね。
今このかけない時間も困ることのために使ってるんじゃないよねというね。
困らないために今書けないんだよねというね。
本当に本当に楽なその受け取り方ができるようになると。
そんな感じですね。
ぜひやってみてくださいよかったら。
そして今週4月30日にコーチングをやっている菅原邦也さんという若い方と初めて一緒にセミナーのようなものをやります。
セミナーっていうか相談会みたいな感じかな。
小さな会議室でね。
これは書き上げ塾でいつも使っている神保町の会議室なんですけども。
店員が6名様ということでテーマがですねパートナーシップなんですよ。
これは簡単に言うとどうして僕らは他の人と一緒に暮らすのかっていうね。
この答えでもあるんですね。
一人で暮らしている人もいるだろうし僕はもう人とは暮らさないという方もいらっしゃると思うんですけども。
私はやっぱり今家族と暮らしています。
おそらく多くの方がパートナー恋人家族のような夫婦みたいなね。
そういう形でその誰かと一緒に住んでるはずなんですよ。
それはなぜだと。
いろんな理由があると思うんですけども。
僕はですねホームを作るためだと思っています。
僕らはどっかのホームで生まれてますけどね。
どっかのホームで生まれるんだけども大人になるとそのホームというのはね。
多くの人はそこから育つわけですね。
この次にその育った自分が別の人とパートナーシップを結んで私のまたホームを作り直す。
そしてこのホームというのはこの番組でもお話しましたけどね。
まさにこの本来の自分とは何かを思い出してくれる空間なんですよ。
パートナーシップの問題解決
機能ですね。とても大切な場所なんですね。
この人が作ったね様々な競技仕事その世界の中で自分の価値を見失って自信を失った時に
この家にホームに帰ればですね。
いやあなたの価値はマックスだよとそれは私が知っているからと言ってくれる人がいるというそういう場所だと私は認識していまして。
でもこのパートナーシップがねうまくいかないとそのような機能は果たせないんですね。
だからどちらかというと家でありながらあまりいたくないなとかね。
逆に言うとあまりパートナーにいてほしくないなみたいな感覚を抱いてしまう。
それはもったいないなということでこのいいホームを作るパートナーシップの作り方というね。
割と僕は新しい切り口なんじゃないかと思っているんですが。
これを菅原さんとねとても共感しましてねこれやりましょうということで。
まあ少人数で現状のパートナーシップのあり方を伺いながらね。
どこをどのように修正していけば相手とね完全に合意を結んでいなくてもこちらの取り組みで何とかなるというのを個別に相談しながら。
このまさに解決策をねそこで持って帰っていただくというそういう感じのイベントですね。
だからまさにこれも今日の話とつながりますね。
まさにこの本来の自分でねこのパートナーシップの問題を解決していく課題を解決していく。
そんなイベントになりますんでよかったらまだ空席ありますのでね。
今週末4月30日ご参加ください。
じゃあ今日はですね何かその問題とかね課題とかそういう解決しなければならない。
問題解決の手法
訂正しなければならないような場面に出くわしてねどちらを選ぶかと迷った時はですね。
本来の自分を思い出して私は何があっても困ることはありえないというこの結論から逆にたどっていってね。
その私は何をすればいいというふうに答えを導き出していい1日をお過ごしください。
ありがとうございます。