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グッドバイブス ミッドナイト楽座 by 倉園佳三
こんばんは、ただいま11月7日月曜日の4時2分ですね。
今日はいい時間になってます。
今週末はイベント三昧でして、土曜日が加藤さつきとやっているありのままを見るデッサン教室ですね。
これが今回ちょっと盛況でして、たくさんの方に来ていただきましてね、なかなか盛り上がったんですが、
4回目ということで、私もこの第1回からね、慣れない木炭デッサンにトライし続けてるんですけども、
私も講師の一人なんですが、書き始める時間が来ると3時間みっちり、私もね、受講生の皆さんに混じって書くんですね。
全員書きます、これはね。事務局の矢部さんも書くし、さつきも当然書くし、毎回さつきの奥さんとですね、
11歳になる息子さんが手伝いにやってきてくれて、奥さんも実はさつきと同じ美大卒で、
それからさつきはデザイナー、奥さんはイラストレーターみたいな感じでね、2人で会社をやってるんですけども、
その地を受け継いだ11歳の息子さん、彼もね、なかなかの才能を持っていて、毎回いい絵を描いてくれるんだけどね、
この3人も書くということで、みんなで黙々と書くんだけども、
これを4回やってですね、私はなんかちょっと3回目とは別の手応えを感じたんですよね。
こうやればいいんだ、みたいなね。
というのも今回ちょっとさつきと2人でね、相談しまして、技術を学んでいただくプログラムではないのでね、
あまりどう書くかっていうところをみっちり今までレクチャーするみたいな機会はなかったんだけども、
とはいってもやっぱりこの光と影を使ってね、どんな風に立体を描いていくんだっていう基本のところはちょっと説明した方がいいんじゃないかねっていうんで、
立方体の石膏を持ってきて、さつきがそれを20分くらいかけて光と影を描いてくれるんですよね。
それをリアルタイムにみんなで見せてもらうっていうのを新しくプログラムの中に組み込んだんですけども、
これがね、非常に僕にとっては目から鱗でね、立方体って角っていうのかな、直線がきってエッジが立ってて、
そしてその一番とんがっているところはもうなんか点というかね、触ると痛いくらいのとんがりがあるわけですね。
そこをどんな風に描いていくんだろうと思って興味を持って見ていたら、パンを取り出してね、消しながら出していくんですよね。
そこをね、描くんではなくてね、影をブワーッと作っておいて、そこに光を当てるような感じで消しゴムを当てていくんですよね。
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そうすると見事にそのエッジがきって立ってくるんですよね。
まだちょっと弱いですねと言いながら、何回も塗り直してもう一回消していくと、
そこの角ととんがりが表現されていくっていう、そういう手法を教えてもらって、
それから描き始めたんで、いつもとは違う感覚もあったし、
それから1,2,3回目でなんとなくこうだなーみたいな気づきもたくさんあったんで、
とてもちょっと僕としてはね、4回目にしてちょっと分かったよーみたいなとは言っても、
おそらくね、この世界で言えば入り口の入り口のまた入り口、
玄関のドアの前に置いてある玄関マットに乗ったぐらいのね、
扉もまだ開けてないぐらいの感じだと思うんですが、
それでも楽しさが垣間見えましてね、
ちょっとこれはさつきが続けてくれる限り、
私もライフワークの一つとして、このデッサンというのを磨いていきたいなと思いましたね。
そして今回来ていただいた方はね、なんか偶然なんですけども、
元々絵の心得のある方が多くてですね、
毎回終わった後に全員の作品を一列に並べてね、
そこで一人ずつどうだったかっていうレビューと最後に記念撮影をするんだけども、
そこに並んだ作品の感じがね、ちょっと過去3回とは一つレベルが上がったなーみたいな感じでしたね。
何度も参加してくださっている方もいらっしゃるんで、
私と同じようにね、そういう方も腕を挙げながら、
そして初参加の方がなんかちょっと上手かったみたいなのがこう偶然が重なって、
おーなんかいいじゃんみたいなね、そんな感じでしたね。
そして翌日、先ほどまで私は第6期描き上げ塾の最後の講義をやってきましてね、
これが6ヶ月目の、だから6回目の講義になるんですよ。
早いですね、だから半年があっという間に過ぎていくというね、
もう来週からは7期が始まるんですけども、
6期の皆さんはね、お二方が関西の方で、
オンラインとリアルとね、混合でやってたんですよね。
会議室でリアルの講義をやりながらそれをズームで中継するみたいな、
毎回そのオンラインとリアルが混ざってたんですけども、
今回最終講義ということでね、その関西のお二人が東京に駆けつけてくれましてね、
ズームなし、全品リアルというね、
そういう珍しい、確か第1期はズームをやってなかったんで、
なんか久しぶりに全てをリアルでやるみたいなね、
私はもう本当にどちらかと言ったらリアルの方が圧倒的に好きなんですけどね、
やっぱり人が近くにいて話すという方が、
僕の言葉も伝わりやすく、皆さんの反応も分かりやすいんで、
まさにいいコミュニケーションができるというね、
そして毎回その掻き上げ塾というのは、継続コースというのがありましてね、
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だいたいその通常の半額ぐらいで継続できるんですけども、
とても良心的なプログラムになってまして、
だから卒業される方と、来期も第7期も継続される方とね、
2つに分かれるんですが、今回はちょうど半分ぐらいかな、
半数の方が卒業されて、半数の方が7期に継続という、
そんな割合になったんですけどもね、
だから今日でお別れというのも変ですけども、
なかなか会う機会のない方も何人かいらっしゃいまして、
だからこの皆さんに向けて最後の私のメッセージとして、
今後の人生って言ったら大げさですけども、
執筆人生かな、物を書いたり、
でも一部おそらく仕事にも役に立つ、そんな話をしたいな、
みたいな感覚が昨夜からありましてね、
何の話をしようかなって久しぶりに考えてみたんですね、
そしたらやっぱりテーマが執筆、これはクリエーション、創造ですよね、
だから私が緑の本、グッドバイブスご機嫌な仕事で書いた、
広がる創造というのをね、詳しくお話ししたいなと思いまして、
あれも結構アップデートして語れるんじゃないかなという感覚もあったんで、
まさにそのものづくり、創造というのはどういうもので、
そして広がる創造っていうのは何がいいんだ、みたいなね、
これもまた別にこのテーマで、この番組でも詳しくお話ししたいとは思ってるんですけどね、
ちょっと壮大な話なんでね、どこを切り取ってどう話すか、
みたいなのがちょっとなかなか決めかねていて、
これを前から選べないでいるんですけどね、
これを1時間半ぐらい話したかな、
なんか全貌をお伝えしてね、ホワイトボードを一面に図を書きながらね、
お伝えできたという、まさに私の送る言葉ですね、卒業生の皆さんに、
で、その後懇親会になりましてね、会議室でそのままピザとか取りながら、
飲み物買ってきてコンビニでみんなで、
なんていうのかな、ワイワイガヤガヤ飲んだり食べたりしながらお話しするんですけどね、
これが全員リアルで参加してくださったこともあって、
今まで第6期までやってきた中でね、最も雰囲気がいいというかな、
なんて素晴らしい空間なんだ、時間なんだって感じるような、
もう本当に良い懇親会になりましたね、
こういうのがあるから、なんていうのかな、やめられないですよね、
こういう書き上げ軸みたいなね、6ヶ月皆さんと一緒に暗くを共にしながらね、
クリエーションの中でもがいたり、一緒にコラボレーションしたり、
私は提案をしたり、そして皆さんが頑張って書いてくれてね、
リライとしてどんどん良い作品に磨かれていくみたいなことを、
まさに同じ釜の飯を食べるみたいなそんな感じかな、
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クリエーションにおける同じ釜の飯を共にした皆さんと、
6ヶ月いるとね、やっぱ不思議な絆ができていくんですよね、
その方たちと今日で終わりですね、と言いながらお酒を飲み交わすという時間はね、
たまらんですな、他の講義は一発ものなのでね、
その日にうちで終わるんだけども、この書き上げ軸だけはね、
なんとも言えない、本当に卒業というかね、
ちょっと私の中に寂しさと、それからこれからも頑張ってくださいね、
みたいなエールを送りたい感覚とね、
いろんな複雑な思いが入り混じるという、
今回初めてね、二次会行きましょうよ、みたいな感じでね、
中華料理屋さん行って、それで高速まで飲んでたんで、
私はノンアルで通したんですけどもね、
この番組もあるし、日刊の記事も書かなくちゃいけないんで、
でもとても楽しかったですね、
それでその最後のね、広がる想像の話をしようかなと思った時に、
ちょっと質問いいですかっていうね、これも卒業する方だったんですけども、
もし自分がね、これから文章を書く自信を失った時、
なんかもうこの自分じゃ書けないんじゃないかっていうね、
そういう自分への信頼を失った時はどうすればいいでしょうか、
なんとか書いたんだけども、その書いたアウトプット、
これに自信が持てなくなった時はどうすればいいでしょうか、
みたいなね、とてもいい質問が出されましてね、
ちょうど私はこの後にこの広がる想像という話をしようと思っていたので、
この中にその話題がバチッと入っているんですよ、
だからなんという流れを作ってくれてありがとう、
いい流れをありがとう、みたいな感じでね、
よしじゃあ10分休憩してそのお答えにもなる話で締めくくろうと思います、
みたいな感じで入ったんですけども、
この番組でもね、そこの部分をちょっと話してみたいなと思って、
というのも金曜日にね、私がやっている知恵とぞのという番組があるんだけども、
ここで実は知恵さんがね、同じ話題を言い出しましてね、
もともと伝えたいことが伝わらない時はどうすればいいですかっていうテーマで、
今日は話しましょうって言った後に、
なんかたまたまちょっと私はこのポッドキャストの自分の声があまり好きではなくて、
ってポロッと言ったんで、私はこの今からお話しするような話を、
その番組でも実は始めてしまって、
伝えたいことが伝わらないっていう話題には行かなかったんですけどね、
急遽変更して、知恵さんその自分の声が嫌いっていうのはどういうことよ、
みたいな話が始まってしまったんだけどもね、
要はこれもう一つ私がやっている、
今ここのボイストレーニングっていうところのものすごく重要なテーマになってるんですね、
どういうことをやるかというと、
簡単なフレーズを何回も何回も歌ってもらうんですよ、
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例えばカーラースとかね、童謡みたいなやつを、
そのカーラースの3音だけを歌ってもらうと、
そうすると当然だけどもそこであだこだしようとかあんま思わないですよね、
カーラースの3音にこんな風にカッコつけてみようとかね、
もしくはそのカーラースが歌うのが不安だなみたいなことも思わないんで、
簡単に言うと思考が止まるんですよ、
こういう簡単なフレーズを繰り返しているうちにね、
それだけじゃなくて何度も何度も自分の声を聞くことになるんですね、
しかも普通の1曲を歌おうとすると、
どうしてもその課題曲の歌手の真似をしちゃうんですよね、
寄せに行くっていうのかな、
前もこの番組でお話ししましたけど、
玉城浩二の歌を歌った方がいて、
なぜ?みたいな玉城浩二の声に寄せようとするんですよ、
歌い方とかね、あと髭断とかそのあたりもなんとなく寄せ気味になるのかな、
海外のアーティストもそうですよね、
元歌に近い感じで歌おうとするんで、
自分の声じゃない声で歌い始めてしまうんですよ、
これを一番最初に講義の前にまずみんなに披露してもらって、
そこからこのカラスみたいなことをやると、
その最初に歌った声とカラスの声が違うんだってことに気が付くわけですね、
寄せていない自分の声っていうのが初めて聞こえてくるわけです、
そのためにこのどうでもいいフレーズを選んでいるわけですね、
ちょっとでもその歌唱が入っているような曲をフレーズを使うと、
そこにやっぱり何か寄せとか演出とかね、
こうしてやろうみたいな何かが混じってしまうんで、
混ざらないようにとてもシンプルなフレーズを使うわけです、
そうすると繰り返し繰り返し聞いているうちに、
これが自分の声だなっていうのは何となくわかるんですよ、
これをしっかりと認識してほしいと僕はまずお伝えするんですね、
体というのは楽器なんですと、僕らは楽器なんです、
そこの楽器から声が出るとしたら、
この楽器は一種類の声しか出せない、
一種類の音色しか出せないんです、
これはアナログの楽器だと必ずそうなるんですね、
ストラビバリウスのバイオリンだろうと、
僕らがいつも弾いているようなアコースティックギターだろうとね、
もちろんその強弱とかピックの当て方、爪の当て方、
それから弓の当て方とかで様々なバリエーションは出せるんだけども、
でも元となっている音色は一種類だけなんですよ、
だから例えばアーティストが楽曲ごとにギターを変えるみたいなことをやりますよね、
あれはこのギターの音を使いたいというね、
その音色を使いたいという意味なんですよね、
だから僕らという楽器が出す音はどんな音なんだっていうことを、
まずしっかりと知るということなんですよ、
そして重要なのがこの声しかないんだっていうことを受け入れるってことですね、
これが最も重要なポイントなんですよ、歌う歌う上でね、
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この声は嫌だなんて思いながら、いい歌歌えっこないんですよ、
そして好き嫌いとかね、否定か肯定かとか、
良い悪いとかそういう次元でもないってこと、
そういう評価判断の挟まる余地がない世界、
これしかないんだから、これしかないものは受け入れるしかないんですね、
別の言い方をするとね、あまり良い意味として使っていない言葉なんだけど、
諦めるっていうのがね、僕は結構ぴったりハマるなーって感じがするんですよ、
何を諦めるかというと、この声でない声で歌おうとすることを諦めるということです、
そうしようとすると必ず何か別のことをそこに挟まなきゃならないんですよね、
自分の持っている声はこの声だ、でもこの声はあまり好きではないので、
このように加工してこのように修正して歌おうみたいな、
そういうことを始めてしまうわけですね、
だからまずはここを止めるというのがこのボイトレの最初のスタート地点、
チェイさんのお話もまさにこれと同じで、
喋るという行為を通して彼女はコンテンツを作っているわけですね、
まさにクリエーションしているわけです、
その私が使える素材はこの声だけなんですよ、
でもこの声があまり好きではないと思っているということは、
おそらくだけどもそのクリエーションはあまり良い形になっていない可能性があるんですね、
でもおそらくチェイさんが話し始めたらそんなことを忘れてしまうので、
いつもいつもナチュラルな彼女の声がポーンと聞こえてくるんだけども、
これに対して何か好きではないという判断を挟まない方が僕は良いと思うんですね、
結果としてね、
どうするかというとやっぱり私がボイトレでやっているように何度も聞いて知ることですよね、
私の声というのはこういう声なんだなっていうのをただただ知ろうとする、
だからもっと言うと自分に興味を持つということが、
この先ほどの自分に自信がなくなった時どうすればいいんですかの答えの第一歩なんですね、
自信がなくなったらまず自分に興味を持ちましょうと、
興味を持つというのは好きになろうと努力することではないです、
ただ私というこの人間がいて、
それぞれの人によってやっている仕事とか携わっている職業が違いますよね、
そこで使っている自分の何かが必ずあるわけなんですよ、
手先が器用なこの手先みたいなのを使っているかもしれない、
それからもっと言うと計算するこの頭脳能力、
そのね、知能みたいなものを使っているかもしれない、
とにかくありとあらゆるこの僕らが使えるこの体の中の要素を駆使しているわけですね、
ここを多くの場合、後でお話ししますけども、
何らかの理由で嫌いになっているわけですよ、
拒否したいというかね、これじゃないんだと、
私が使いたいのはこれじゃないんだと、
この声じゃないんだと、この技術じゃないんだと、
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この手先ではないんだっていうね、
もう場合によってはこのルックスではないんだとかね、
そういうこともあるかもしれない、この身長ではないんだとかね、
そういうことを一切考えずに、
それを考えてもしょうがないので、
その前にまず知るということをやる、
これを興味を持って知りに行く、
私とはどんなものなんだ、
私が使っているものはどんなものなんだ、
ということをしっかり興味を持って知りに行くということですね、
そうすると分かりますよね、
なるほど、こういうことかと、
こんな感じで私はこれを使っているんだなっていう自分の中の要素、
様々なものが見えてくる、
私は以前、自分について本当のことは分からないと言ったんだけども、
そう、最終的には分からないんですよ、
分からないんだけども、
例えばどんな声をしているか聞くことはできる、
どんな動きをしているのか見ることはできる、
ここが手がかりになるわけですね、
自分を知るということのね、
本当のことは分からないから興味を持って自分を知りに行く、
できる限り知ろうとする、
全貌はつかめないとしても、
この使っているものはなんだっていうことぐらいは分かりますよね、
これを受け入れる、第二に受け入れるってことですね、
これはもうどう拒否しようとこの自分しかないので、
この自分以外のものを作ろうとしても無理なんですね、
だからまずは受け入れる、
こうしないとですね、何が起こるかというとその反対、
自分ではない何者かになろうとするわけですね、僕らはね、
多くの人がおそらくこの努力を積んでいるんだと思います、
そして私もご多分に漏れずそうでしたね、
なんか今思い出すとですね、
私は基本的には曲を作って歌うというところにこう主眼というかね、
私とはどんなミュージシャンだっていうその問いがもし来た場合に、
私はシンガーソングライターですよっていうふうに答えていたんですね、
だからどちらかというと楽器、ギターは弾けますけど、
それはなんていうのかな、歌の伴奏のためのギターであって、
決していわゆる一人のギターリストとしてそこをなんていうのかな、
自分の柱にしてはいないんですね、
これは結構ある時期からそうだなっていう感じで僕は決めたんですけども、
これもなぜそうなったかっていうと多分だけども無意識のうちにね、
そうした方がいいんだろうなって気づいたんですね、
なんかこういう話を理解してたとかそういうことではなくてね、
高校生ぐらいの時に私はやっぱりギターから始めたのでね、
ギターから入ったので音楽を、
このギターで超絶上手いギタリストになろうっていうふうなことを考えていた、
黙論でたわけですよ、
弾いてすごい練習してそれなりに弾けるようになるんだけども、
後にですね、いろんなところでものすごく上手いギタリストにいっぱい出会っていくわけですね、
この人たちと僕の差はなんだろうと、
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僕はかなり練習してるんだけどなぜか彼らの領域にはいけないと、
なんとなく一つはやっぱり音楽の才能はあるんだろうと思うんだけども、
それ以前にね、なんか運動神経が違うなって感じがやっぱりどうしてもするんですよね、
ギターというのは指で弾きますからね、
そこの動きというかね、その滑らかさとかしなやかさみたいなのが、
そもそも私のこの指にはないなみたいな感じなんですよ、
だからどちらかというと、
なんだろう、まさにその音楽の才能というよりは運動神経、体のつくりみたいなところに
もう限界を感じたというか、あまりに違うなっていうのをまざまざとね、
味わった時に、ここをなんていうのかな、
自分の売りにするようなミュージシャンでは僕はないんだなっていうことが認めざるを得なかったんですね、
だから諦めたんですよ、そこをどうしようというのはね、
でもその代わりに僕には歌があって、そして曲を作るという別の能力というかね、
持ち味があったんですね、
女子はこっちでいいんじゃないかって、
後期の方は僕はもうギター弾いてないっていう時もありましたね、
その運動神経のいいギターヒストにね、
お任せして、私はボーカルに専念するみたいな、
これもなんていうのかな、そこに気づくまでは、
私はやっぱりその自分ではない何者かになろうとしたと思うんですよね、
これをやるとどうなるかというと、
途中の自分というのがね、なんか現れてしまうんですよ、
そうですよね、自分ではない何者かになろうとしている、
その途中の自分っていうのがポコンとここの現実に現れてくるんですよ、
不思議なもんでね、
その自分ってどういう自分かっていうと、
途中なんで何もかもが途中なんですよ、
アウトプットも途中になるんですね、
だから何かを作ろうとして、
例えば何かの仕事をしようとして、
その自分に自信が持てないって思った時に、
この途中感がないかっていうのをチェックするのはすごい大切なんですよね、
もしまだまだだなとかね、
あとはこれとこれとこれさえ身につければ、
もしかしたらいい仕事ができるのになとかね、
そんなふうに感じた時は、
間違いなく多分自分ではない何者かになろうとしていて、
それによって途中の自分というのが現れたっていうふうに
見出すのが僕はいいんじゃないかなと思うんですね、
で、これをこの途中の自分っていうのかな、
途中の自分で途中のものを作るっていうこの状況にはまると、
当然だけどもアウトプットも途中のものが出てきますから、
その質問の彼が言ったようにね、
自分の書いたものが何となくイマイチだとそんなふうに感じる、
途中の自分で途中の作品を作っているそんな感じですね、
だからこの途中の自分っていうのから抜け出すために、
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そもそも本当は途中の自分なんていないんですよね、
だって僕らはこうやって生まれて既に存在しているわけだから、
もうここにいるんですよね、
もうここに既に存在して何かをしているこの自分が
本当は途中のはずはないんだけどもね、
もう理由派だからこの自分でないものになろうとしたからなんだな
っていうことをしっかりと認識するんですよね、
そして自分に戻るために自分の持っているものを
もう一回見直すということですよね、
声を聞き自分が使っているその体力なのか知力なのか
分かりませんけども、日々仕事で使っているそういうもの、
様々な要素をね、しっかりと振り返ってみて、
これが私なんだなと、
私は超絶ギターが上手くなるそういう運動神経の持ち主ではなくて、
どちらかというと曲を作って歌を歌うという、
その素材は持っているよね、確かにあるよね、
作れるもんね、歌えるもんね、
みたいな感じで一つ一つ確認していくわけですね、
そしてそれをそのまま私だ、
これが私だというふうに受け入れるわけです、
そしてそうでないものになることを諦めるんですね、
受け入れると諦めるっていうこれをしっかりとやるわけです、
これは全く自分自身の自然な形に逆らっていないはずなんですね、
何か諦めるとかっていうと夢も希望もないような感じがするんだけど、
それの方が私というものをしっかりと認識しやすいし、
受け入れやすいはずなんですよね、
そして重要なのはこれしかないっていうことをしっかりと受け入れること、
そうすると何ができるかっていうと、
何か変な言い回しなんだけどね、
私はちょっとこの言い方が気に入っていて、
自分を始めることができるってことですね、
もともと始まってたんですけども、
僕らは生まれた時から自分が始まっていたんだけども、
何かの変なきっかけでこの自分がダメだと、
こうじゃないものにならなきゃって思ってしまったんで、
途中に戻っちゃったっていうかね、
完成する前の途中に戻されてしまったんですよね、
自分で戻してしまったんですよ、
でもそんな途中の自分なんていうのはそもそも存在しないので、
始めていい自分っていうかね、
途中をやめて自分を始めるみたいなそんな感じ、
これができるようになるんですね、
始まってしまえば何とでもなるんですよ、
当然だけどももっと腕を磨きたいとかね、
もっと自分が望むようなイメージにこの作品を近づけたいみたいな、
ここでトライアンドエラーしたり、
もしくは自分が持っていないスキルを身につけたりする、
これは途中の自分でやる場合は終わりがないんですね、
途中の自分として足りないものを身につけようとするっていうのは、
そもそもゴールが自分ではないものに想定されてしまっているので、
基本的には限りない、終わりない旅が始まってしまうわけです、
多分だけどもずっと途中の自分っていうのが現れ続けるでしょうね、
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だからそうではなくて始まる自分ってことですね、
自分が始まる、
そうするとこれはもっと自分が望むようなアウトプットを出すために、
ここを頑張ってみようとか、
こういうことを学んでみようとかっていうふうに始まってるんですよ、
ここのニュアンスが伝わるといいんですけどね、
途中なんだよって言って何かを差し出すんじゃなくて始まってるんですよ、
でも私の今の作品はこれです、
でももっと次回はいいのが作れると思いますよ、
それも始まってますから、
そのトライも見たらこの感覚の違い、
なんかお店に例えるといいのかもしれないね、
開店準備中のお店というかオープン前のお店で、
そこにたまたまお客さんが入ってきて、
ごめんなさい、まだちょっとオープンの準備が整ってないんですよね、
でも何か食べますって言って何かを出しているってね、
店の中も暗くてノレンも閉まってあってね、
それからまだ材料も全部揃ってないんだけど、
ありもので作りましょうかみたいな感じ、
これが途中の自分ですよね、
始まってる自分っていうのは、
その店のクオリティがどうであろうと店がオープンしてるってことですね、
どうぞいらっしゃいませと言って、
お客さんが入れる、
これが始まっている自分っていうね、
この校舎を作りたいんですよ、
いつでもね、この校舎でいたいわけです、
精進するにしても磨いていくにしても、
始まっている自分でやる方がおそらくだけど、
僕は上手くいくだろうなと思います、
ここで例えばね、いまいちだなと思ったら、
次にそれを活かすようなトライをすればいいだけですね、
なんか変な例えですけど、
私がそのデッサン教室で4回目に手応えをつかんだ、
みたいなそういうプロセスをたどればいいだけのことなんですよね、
おそらくこれをやり始めるとですね、
私とはね、どういう存在なのかっていうことがだんだん明らかになってきて、
それと同時にですね、
僕はそれでしっかりとアウトプットを出せていたとしたら、
多分だけど自分がどのぐらいすごいかとかね、
自分がどこまでできるかみたいなことを、
しっかりと知ることができるんじゃないかっていうね、
今度はここを知ることができるっていう、
やっぱり途中の自分だとここがわからないですよね、
だって始まってないんだから、そもそもね、
土俵に乗っていない、でもその世の中は待ってくれないので、
いつもその稽古不足の途中の自分で、
その土俵に舞台に登らなきゃいけなかったんですよね、
その状態であれば、間違いなく何ができて、
どこがすごいのかなんていうのは、
多分見えにくくなってますよね、
だからとにかく始めるっていうね、
この自分でokを出しながら始めていく、
そうすると何がすごくて何ができるんだ、
みたいなことが徐々にわかってくるんですよね、
これもまた一つ自分も知るということになるんだろうと思うわけです、
で問題はね、さっきもちょこっとお話ししましたけども、
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なんでこの自分ではダメでね、
自分以外の自分ではないものにみんななろうとするのか、
そこを目指そうとするのか、
私で言えばね、
例えば永遠にその超絶上手いギタリストを目指さなきゃいけないのか、
みたいなね、
これは僕が思うに、
多分だけどもすごく幼い頃から周りにいる人たちね、
他の人たちをその鏡と見てね、
その他の人たちの鏡に自分がどんな姿で映るかっていうのを、
気にして生きてしまうからだと思うんですよね、
これも全ての人がそうですよね、
私もまさにそうやって生きてきました、
最初は多分親なんですよね、
親が私が何かある言動をすると、
嫌な顔をしたり喜んだりする、
この喜んでいる時の鏡に映っている自分がいい自分なんですよ、
そして親がしかめつらして僕を見ている時、
その親の鏡に僕はひどい姿で映っているんですね、
そんな風に僕らの心の中に像が描かれるわけですよ、
これが親から始まり外に出て行って、
学校の同級生だとか先生だとか部活の先輩とか、
世の中に出ていく社会に出ていくと、
ここに上司とか同僚とかが入っていく、
そこから例えばパートナーとかもね、
お付き合いしているパートナーとかもその一員になりますよね、
その人たちの鏡に自分がどう映っているんだっていうのを、
やっぱりものすごく気にしながらね、
そしてできればそこによく映りたいっていうね、
ものすごく自然な願望だと思うんだけども、
この人の鏡に映る自分の姿をよくしよう、
よくしようとしてきたわけですよね、
もうこの時点でその本当の私は何なんだ、
みたいなのを多分かなり見失っているはずなんですよ、
私がどうあれこの鏡にはよく映らなきゃいけないっていう風な発想に多分なっているから、
私の声がどうだとかね、
私のルックスがどうだとか、
私の運動神経がどうだとかね、
私の頭の良さがどうだとかっていう、
その自分自身はどうでもよくて、
結果この鏡にどう映るのかっていうところだけを何か求めていくわけですよね、
そうすると当然だけども、
おそらくある種のお手本みたいなのが必要になりますよね、
どういう人がこの人の鏡にいい感じで映っているんだろうか、
みたいなことを僕らは参考にしたくなりますよね、
そしたら隣の奴がこういうことをしたら上司がものすごく喜んでいると、
これやんとかね、
もしくはもっと一般的なね、
例えば本とか雑誌とか読んで、
こういう人が好かれるとかね、
こういう人はモテるみたいなことを見ると、
こうやると人の鏡によく映るんだなっていう風に僕らは捉えますよね、
ここに型というのができるじゃないですか、
人の鏡によく映る型、お手本みたいなのができますよね、
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これに僕らは自分をはめようとするわけですよね、
誰かがこれはいいぞって言ったモデルみたいなところに、
だったらこれを私もここにはめてみようみたいな感じでね、
ところがありのままの自分、
私の声だとかルックスだとか立ち振る舞いがそこの型にはまらないんですよ、
そのままね、
そりゃそうですよ、だって人が作った型だからね、
その時にこれではダメだと、
ここの型にはまらないからここをなんとか変えていこう、
修正していこうみたいなね、
この声じゃない、もっと別な声が出せるようになろうみたいなね、
これをおそらく自分ではない何者かになるっていう形で、
僕らはトライするんだろうと思うんですよね、
これをやっぱりどこかでやめるということはとても大事な気がします、
もちろん自然にそう僕らがね、
振る舞ってしまうのはしょうがないんだけども、
特にこの自分の自信を失ったりね、
自分を信頼できなくなった時、
自分のアウトプットがなんかイマイチだなと思った時に、
いやいやちょっと待てよと、
それって他の人の鏡に映っている自分を見ていないかとかね、
この視点を持って、
これは人に評価を委ねているということでもあるので、
この評価を自分に取り戻すわけですよね、
こういう風に話が進むと、
これ前もこの番組で言ったかもしれないけど、
なんかちょっとある種の傲慢さみたいなところを僕ら懸念しますわね、
なぜその人の鏡に映る自分を良くするこの試みは安心してできるかというと、
ここに客観的な視点みたいなのが僕ら感じることができるからなんですよね、
独りよがりじゃないよと、
ここでみんなが僕をいい鏡で映してくれているということは、
おそらく誰が見ても私はこれでOKなんでしょうと、
この客観的な視点は信じるに値する、
でも私が自分を見てね、
この声を聞きこれでいいとOKしょうがないこれでしかないんだという納得するのは、
どうにもちょっと傲慢だし、ある意味そのバカっぽい感じもしますよね、
なんていうのかな独りよがりというか天狗というかね、
ここが多分僕らはちょっと嫌なんだなっていう、
そんな私を自分で振り返ってみてもね思いますね、
なかなかその自分自身で自分にOKを出せない、
これでいいと言えないっていうこの感覚の中にね、
やっぱりこの主観的すぎるだろうみたいなね、
そうなるとどうなるかというと主観の反対は客観じゃないですか、
そしてここに大多数の人多くの人がそれを認めるみたいなことをはめていくとね、
どうしてもね理屈になっていくんですよ、
論理立ててこれこれこうでこうだから私はいいのであるというね、
理が必要になるんですね、
ところがこの論理の理、理屈の理というのは僕らに全くそぐわないというかね、
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あってないんですよね、
これもねなかなかちょっとこう説明するのが難しいんだけど、
私がここにいるというのはこれは理屈でも論理でもなくて真理なんですよ、
まさに現実なんですよ、
だからこの理はね、理屈の理ではなくて真理の理なんですよね、
僕らはじゃあこの世界の真理についてどこまでその論理立ててしゃべれるか、
理論で説明できるかというと、
まあまあまあおそらく数パーセントも解き明かしてないはずなんですね、
自分自身についてもそうなはずなんですよ、
ということは僕らにとってね、
これも何か言い方によっては語弊があるんだけども、
真理はねこの論理の外、理外なんですよね、
理の外にあるんですよ、
だからこの自分自身を論理立てて、理屈立てて、
そして客観的に評価しようと思っても基本的にはできないんですね、
おそらくそれをやろうとすれば、
その理にはめようとして自分ではないものに進むしかなくなってしまう、
なかなかこううまく説明できてる感じはしないんだけど、
とにかく私というのが真理なんですよ、
だからこれでいいということのどこも傲慢じゃないですよね、
多分私はこの宇宙の神羅万象が生んだものの存在なんですよ、
この宇宙の神羅万象が生んだものは真理ですよね、
そして私はここに存在している、現実として存在している、
これに対してこうではないという方が僕はよっぽど傲慢だと思うんですね、
これは評価してはいけないもので受け入れるしかない、
そしてこれであることをいい意味で諦めるしかないんですよ、
これが多分だけど僕は真理を知るということなんじゃないかなと思うわけですね、
だからここに理屈の理、論理の理を当てはめない方がいいと思う、
だからただ聞いて、ただ見て、私というものはこういうものだと知る、
そしてそれを使って自分を始める、これで十分なんじゃないかなと思うわけですね、
だからちょっと整理するとね、とにかく自分に自信がないなと思ったときは、
自分以外の何者かになろうとしていないかということを疑うわけですね、
そしてそれをやろうとしているということはおそらく途中の自分が今ここにボンと出現している、
でも僕らは本当は途中の自分なんていうのはなくて、
生まれた時からすでにそのままでいい私というのがここにいるんですね、
その自分で始めるということをしたいわけです、
そのために私として始めるにあたって、私はどんなものなんだっていうことを興味を持ってもう一回見直してみるということですね、
そして多くの場合、この私ではいけないとかね、この私はまだ途中なんだというふうに捉えてしまう、
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その大きな要因は他の人の鏡に映る自分の姿を良くしようとしてきたからじゃないかと、
これも一瞬やめてみるわけですね、
意図して自分の意思で一回この人の鏡に自分を映して、そこで良い悪いを判断するのをやめてみようと、
なぜか今自信を失っているからですね、これを取り戻すのは理屈でも論理でもなくて、
真理というものを受け入れる、たったこれだけなんですよね、
だからこの人の鏡に映して自分を見るというこの客観的そしてある意味論理的なやり方から離れてみると、
これでなんとなく私はいつもこの自分を取り戻すというかね、
そういうことをしょっちゅうやっている気がしますね、
というのも私はこれ良い質問だなと思ったのはですね、
まさに僕が日々この不安を抱えているからなんですね、
とにかくやっぱり人はやらかすんですよ、失敗をするんですよ、しくじるんですね、
そのたんびにさっき言った人の目を通してダメな自分というのを見ちゃうんですよね、
人の反応を通して自分を見るみたいなね、
そうして自信を失っていき、
僕らで言うならばねそのコンテンツだとかこのセミナーとかね、
いろんなイベントプログラムそういう中身にまでその影響は及んできて、
なんとなく自分がやっていることが良くないんじゃないかなっていうような、
これは心象だと思うんだけどもそこにはまり込んでいくわけですね、
だから今日お話したようなやり方で僕はいつもそれを取り戻していくわけです、
だからなんかこう自信を取り戻すというよりは自分を取り戻すというそれに近い感覚ですかね、
始めていい自分を取り戻すという、
始まってしまえばもう繰り返しますけどどうにでもなるのでね、
始めることもなんとなくもう躊躇してしまうようなまさに書けなくなるとかね、
動けなくなるとかここに入らないようにするために、
いつもいつも自分を取り戻すというこの試み、
今日お話したようなプロセスでねやるのがいいんじゃないかなと思います、
そんな感じですかね、
今週末に先ほどお話ししたその自分の声を知ってね、
自分という楽器をしっかりと知って、
その声しかないんだって諦めて受け入れて歌ってみると何が起こるかというのを体験できる、
今ここのボイストレーニングというのをやります、
これボイストレーニングと書いてますけど基本的には腹筋したりとかね、
発声練習したりとかってのは一切やらないんで、
まさにこういうところにトライしていくためのプログラムなんですよ、
だからよかったらぜひなんか面白そうだなと思って、
今日の番組を聞いていただいて思われた方はぜひご参加ください、
そんな感じですかね、
よしじゃあ今日はですね、
自分をもう一度改めて知ってみて興味を持ってみて、
そして他人の鏡に映すのではなくてね、
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その改めて知った自分によしこれで始めようという風にOKを出しながらですね、
いい一日をお過ごしください、
ありがとうございます。
ありがとうございました。