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グッドバイブス ミッドナイト楽座
by 倉園佳三
こんばんは、ただいま6月26日月曜日の午前2時55分ですね。
今日は週末日曜日で開催したジャジーンワーク。
ここでね、ちょっと私がお伝えしたことを話そうかなと思うんですけども、
このジャジーンワークはですね、冒頭の30分弱ぐらいかな。
ジャジーンワークの7つの作法
ここで一応私がこのジャジーンワークの7つの作法という話をするんですね。
7モードのジャジーンワークというタイトルがついてるんだけども、
7つのモード、7つの流儀みたいなそんな感じかな。
ただ結構ね、リピーターの方が多くて、毎回毎回その同じ話になるというね、
そういう面もありまして、でもこれを辞めるつもりはなくてですね、
何度でも聞いていただきたいということで、必ずこの一つの儀式のような感じでね、
もう知ってると思うんですけどということで、
これはジャジーンワークを続ける限りね、この7つの作法はお伝えしていくつもりなんだけども、
でもさすがにそれだけだとね、ちょっとつまんないよなっていうのもあって、
毎回私がその日に決めるそのテーマというのをいくつか持ってきて、
これはハードオンみたいな感じですよね。
おまけというかね、7つプラスアルファというか、まさにプラスアルファかな。
今日のお題というような感じで、毎回毎回その日に思いついたことをお伝えしてるんだけども、
今回はですね、2つありまして、
1つは、まさに先週の金曜日の一つ前の番組でお話しした、ゴールを一つに絞りましょうというやつね。
幸せであること、これだけをゴールにしましょうと。
ただし、何が僕らに幸せをもたらすか、これは本当のことを知らないという設定でいましょうと。
でもあらゆる状況はね、本当のことを知らなかったとしても、
あらゆる状況は僕らに幸せをもたらすように用意されていると。
この2つの認識を持ちながらゴールを一つに絞りましょうと、これをまずお伝えした。
もう1つがですね、行為ではなく、行為というのは行動ですね。
行為ではなく、思いを目的にするというね、これをお伝えしたんですね。
これが結構好評でしてね、響いたという方がたくさんいらっしゃったので、
今日はこれを話したいなと思っています。
どういうことかというと、僕らはですね、この仕事とか、もしくは日々の暮らし、
それから遊び、あるいはね、場合によってはこの休息とかね、休むときでさえ、
何をするかのこの目に見える行為、これに価値があるというふうにね、考える習慣をつけてきたんですね。
とにかくこの体を動かすこと、これですね、これに価値があるということ、
行為と思いの目的
これを言い換えるならば、そのまさに僕らがね、生きるとは、この体を使って何かをすることっていう、
こういう認識じゃないかと思うんですね。
これが僕は実は偽りの自分の考える、この番組でよく言うね、2人の自分のうちの偽りの自分、もしくはね、
がですね、こちらが抱いている大きな誤解じゃないかと思ってるわけです。
なぜかというとね、こちらの自分はこの体こそが自分であるというふうに認識してますからね。
体が自分であるならば、この体を動かすこと、つまり行為にこそ価値があるというふうにね、
捉えてもこれはおかしくないですよね。自然な流れ。
でも僕はやっぱりこれはね、大きな誤解、偽りの自分の大きな誤解なんじゃないかなと思うわけです。
で、これをね、確かめる簡単な問いがね、1個あるので、ぜひちょっと考えてみてほしいんですね。
この問いを、この問いに答えてみるとか、そうするとおそらくこのさっき言った、この偽りの自分のね、誤解というのが多分解けるんじゃないかなと思います。
この問いというのはね、サウナに入って気持ちいいと感じるのは体かっていう問いなんですよ。
一見その通りですよねっていうふうに思いがちなんだけども、これをね、よーくこの吟味してみると、
この僕らのまず皮膚のセンサーというのがありますよね。これがサウナで温度の変化を感じてるんですね。
でも実は体が感じられるのはそこまでなんですよ。
これ以上のね、温度が高いか低いか、もしくは上がったか下がったかっていう感じかな。
これ以上の多分もっと深遠なイメージというのかな、これを体は多分抱くことはできてないはずです。
もう言うならばですね、この暑い冷たいという感覚すら多分体は持ってない。
温度が下がった温度が上がったっていうのは分かるんだけども、それが暑い、この冷たいっていうね、これはちょっと違う。
ましてやその気持ちいいとか素晴らしいみたいなこの情緒、これらは体が感じてるんじゃなくて、心の動きによって決まりますよね。
温度が少しぐらい動いたからといって、その心は動かないんですね。
でもこのサウナとかに入って、まあ100度ぐらいあるんですけどもね、気温が。
この気温100度のところに入ると、この皮膚のセンサーはかなり急激に温度が上がったっていう風に捉えるわけね。
でもそこまでなんですよ。ここまでが体が感じられる限界。
これを僕らは心で受けて、これは暑いなとかっていう風にここで判断解釈、イメージですね。
これを心の中に抱くわけです。
そしてこれは我慢しなくてはならない暑さだなということもこの心がその感じ取ってね。
それをしばらく我慢する。
そこから外に出て水風呂に入る。
この時皮膚のセンサーは温度が急激に下がったなっていうことは感じるんだけども、
ここでうわ冷たいこのうわっていうこの感覚、これは体が感じてるんじゃなくて心が感じ取ってますよね。
そしてそこにうわ気持ちいいなとかね。
もしくは何かを見て素晴らしいなぁと感じる。
体が持っているこの目というセンサー。
これが捉えているのは単なる色だったり光だったりね、形だったりするわけ。
これを見て素晴らしいなというこの情緒が動く。
ある種のイメージがこの心の中に出来上がる。
これは心の動きですよね。
だからこのことを踏まえて僕はですね、ジャジュンワークで行為、つまりね体のセンサーとか体の動き、
これを目的にするんじゃなくてこの動く方のね、本当に動く方の思い、心ですね。
こちらを目的にしましょうという話をしたわけです。
要はこの番組でね、時々お話ししているようにね、僕らの本体はこの体ではなくて、
まさにこの形のないね、心とか意識とか呼ばれる、重いとしておきましょうかね、今日のところはね。
ここの名称は本当に難しくてね、私も中でもなかなか固まらないんですけどもね、
この形がないからこの名前の付けようがないと。
あんまり変な名前付けると、それがすでに持っている意味がここに加わってしまうので、
割と慎重にここは扱っているんですけどもね。
要はこの形のある体ではなくて、形のないこの思いの方、これを自分と捉えるということですね。
これが多分私が言う本来の自分の捉え方。
行為の目的と心の動き
まさに本来の自分というのはこの形のないものなんですよね。
こうなると、体はどうなるかというと、この思いがね、まさにこの物質の世界に何かを表現するためには、
思っているだけでは伝わらないんですね。
僕の中にははっきりとそのイメージがあるんだけども、他の人にそれを伝える術がないと、
少なくともそれを喋ったりする必要があるわけですね。
もしくは絵に描いたり文章に起こしたりね、もしくはパフォーマンスで表現したり、
音楽として奏でたりする必要がある。
この体はね、まさにこれを思いを表現するための道具なんですね。
この世界に自分の思い、この形のない思いを誰かが見て、
そういうものなんだというふうにわかってもらえる、このためにやるのが表現。
その道具が体ということですね。
だからこの体を使うすべての行為というのかな、
喋るとかね、歌うとか、文章を書くとか、手を振るとかね、ゼッチャーをする、表情を浮かべる、
これらの行為ね、これはまさに思いを形にするための手段に過ぎないということですね。
これ主-自由関係みたいな感じで言うと、形のないこの思いが主、そして体が自由ということですね。
これを忘れてしまうとね、僕らは何をやるかと、
これをなるべくしないようにしたいなということで、このジャッジングワークでね、
行為ではなく思いを目的にするというお話をしたんだけども、
要は千本ノックですよ。
思いがない状態で淡々と行為を続けるってやつね。
子供の頃ならこの漢字の書き取り100回とかね、
なんか今でも今の小学生にそういう宿題は出されているようなんですけども、
それからまさにその、例えばね、セミナーとかそういうとこでメモを取るっていうありますよね、機械が。
この時にこの擬字録を取るように、もう1文字1句残さず全てを記録するみたいなね。
もうとにかくこの体が、手が動いてそれを記録しているっていう、これでこういう感じだけのメモ。
それからこれも子供の頃にやった記憶があると思うんですけども、
この動きをなぞるだけのラジオ体操とかね、
それから私もブログをずっとやってきているんでわかるんですけども、
その継続するためのブログみたいな感じね。
とにかく思いがなくて、とにかく体が動いていればいいと。
そして、なんていうのかな、この行為そのものが目的になるという感じね。
さらに言うと、その行為そのものが目的なので、そこに思いが乗っていようと乗っていまいとですね、
その行動をしているということで安心を得るっていうね。
これはまさにこの主従の逆転が起こるっていう、そういう感じがするんですね。
なんか多分思い当たる節はね、どなたにもあると思います。
なんていうのかな、この虚しい行動っていうのかね。
全くその気持ちが乗っていなくて、とにかくとにかく体を動かして動いて、
この行為の結果のね、例えばブログとか議事録みたいなメモとかね、
それから書き取った漢字の100回の紙みたいなそういうものが残れば、
なんかこうやった感があるよねっていうこの感じ。
そしてそれを見るとね、僕は努力してるよね、サボってないよねっていうこの安心を得るっていうね。
これがその行為だけになっているっていうこのシチュエーション、これをね何とかしたいなと。
なぜならば多分ですね、これが僕らを相当疲れさせている感じがするのね。
これは本当に体の動きになってしまうからね。
だから1日に例えば15個ぐらいの何か行動をするとして、
その全てがですね、この行為そのものが目的になっているとすれば、
もう1日その16時間ぐらいかな、18時間ぐらい、
その僕らはずっとその体を動かすという行為をしているってことになるので、
多分これは相当疲れますよね。
そしてこれは行為自体が目的になっているので、
このさっき言ったね、心の動き、これを割と切り離してしまっているから、
そうしないとできないんですよ。
この1000本ノックとか書き取り100回みたいなやつはね、
もう心を失くしてしまわないとできない。
この失くすというこの行為によって、
僕らはこのあらゆる事柄からね、この興味を失っていく。
だんだんこのつまらないものになっていくっていうかね、
なんていうのかな、僕の感覚だと楽しかったものがどんどん色あせていくという、
そんな感じがしているんですよ。
だから、このどちらを目的にしているかっていうね、
この視点というのかな、今自分はもうやればいいと思っているのか、
それとも、いやいやいや、この大事なのはね、
道具である体がどう動いているかではなくて、
その種である形のないこの思い、こちらがどうなっているか、
僕らの心がね、その行為を通してどのように動いているか、
こちらを目的にしましょうという、そういうお話だったんですね。
ギターの練習と思い
もともとこれはですね、私がこれをなんとなく得得したというかね、
得得っていうのも変だな、やっぱりそうだな、こっちの方が大事だなと思ったのは、
やっぱり楽器の練習を通してだったんですね。
もともと僕はこの行為によって、まさにこの練習、反復練習、
体を動かすことによって楽器がうまくなるというふうにね、
ずいぶんこの長いこと認識していたんですよ。
だからその長く弾いている、とにかくずっとギターを触っているというね、
この習慣さえつければどんどんうまくなるだろうと思い込んで、
例えば映画とかね、テレビとかその家で見ているときにギターを離さない、
そしてあるフレーズをね、難しいフレーズを遠遠とそのテレビを見ながら
繰り返すということをやったわけですね、やってたんですよ。
そうすると長いときで言うと、もう4時間とか6時間は平気でね、弾くことになるので、
これは相当うまくなるだろうなと思っていたんですが、
このやり方だと残念ながらですね、たいしてうまくはならないんです。
これで家で弾けるようになっても、おそらく本番でその通りに弾くっていう、
そこに達するまでにはですね、まだ相当なその険しい道のりが待っているんですね。
これなぜかというと、ここに気持ちが全く入っていないからです。
これはもうさっき言ったように、道具に反復練習をさせている、そういう感じなんですね。
なんかこう自動化させたプログラムをなんかしている間にパソコンで走らせているみたいな、
そんな感じで、ここに私の心が加わっていないので、
その期待するほどっていうのかな、ほとんどうまくならなかった。
弾けるようにはなるんですけどね、難しいフレーズが弾けるか弾けないかみたいなことで言うと、
手が動くみたいなことにはなるんだけども、それは本番で表現するっていう、
これを披露するっていうところには程遠い、なんていうのかな、隔たりがある、そういう感じね。
それで僕はこのことに気づいてからは、練習という概念を捨てたんですよね。
ギター教室と本番
練習って意味ないなと思って、もう家で弾く、一人で弾く、そういう時も全部本番と同じ心でやろうっていうふうに決めたんですね。
ちょうどたまたまなんですけども、その頃だったと思うんだけど、
映画でね、北京バイオリンっていう映画がね、上映されてて。
僕これ映画館で見てですね、これはとてもいい映画で、もう内容全然覚えてないんですけども、
一つだけ忘れられないフレーズがあってね、要は少年がバイオリンを練習するんだけども、師匠がいるんですね。
師匠さんが一つアドバイスをするんだけど、毎回真剣に弾けって言うんですよ。練習と思うなって言ってね。
これをなんか僕が、なんとなくこれに気づきかけた時に見て、やっぱこれだよなと思って。
それからはですね、もうステージをやるように家で弾くというね、それを心がけたんですね。
だからもちろんその弾けないフレーズを反復して弾けるようにするみたいなこともなくなりはしないんだけども、難しいフレーズとかね。
その時も練習と思ってそれをやるんではなくて、まさにね、僕の前に聞いてる人が何人かいて、その前で演奏をするというこのモードの中で、この反復練習もやるようにしたんですね。
そうすると驚くごとに、以前の8時間とかそのテレビを見ながらただ体を動かすというね、この行為を目的にする練習に比べるとはるかにやっぱり上手くなるっていうか、
何が一番違うかというと、その家で本番のように弾くという練習を、これも練習なんだけども、リハーサルですね。
リハーサルも本番のようにやるということをすることによって、本番でもそのように弾けるというね、さっき言ってたこの隔たりが埋まるんですよね。
これをその僕は身につけた頃に、ちょうど2000年の頭ぐらいからギター教室を始めたんですよ。
ブラジリアンギターのね、ボサノバとかサンバとかそういうものをやりましょうっていうんで、まだブログとかね、ソーシャルとかほとんど普及してない時代だったんですけども、
ホームページにね、それなりのコンテンツをちょっとあげておいたら、15人ぐらい生徒が集まってくれましてね、なんかその頃はほぼ毎日誰か1人生徒がね、うちにギター弾きに来るっていうそんな感じだったんですけども、
この方たちにもね、とにかく反復練習はやめましょうっていうことをお伝えしてね、とにかく本番さながらに弾いて歌う、これをやると必ず上手くなるっていうふうにお伝えしたんですけども、
やっぱ中にはですね、すごく真面目な方、ストイックの方がね、ストイックな方がいらっしゃいまして、どうしても反復練習をやってしまう。
で、これはね、本当にもう見事な実証実験のような感じで、私は今でも覚えてるんだけど、歌が大好き、ギターが大好き、そしてなんかボサノバ大好きみたいなね、女性が1人いらっしゃってね、
この方は本当にこの私のね、教えを守ってくれまして、家でも楽しく、まさに本番のようにね、この歌を楽しむみたいな感じで練習をしてくれた。
この人はめきめきと上手くなりましてね、僕はなんかもうプロになれるんじゃないかなって、これは嘘じゃなくて、本当にこの人はすごいなっていうぐらい上手くなった方が1人いらっしゃいましたね。
で、一方でやっぱりね、このストイックな方というかね、真面目な方なんですけどもね、何人かいらっしゃって、この方たちは僕がそれはやめた方がいいって言うんだけども、どうしても反復練習をやってしまうんですね。
話を聞くと、そのテレビを見ながらずっとひっくり返してますみたいなことをおっしゃる。
だからそれはやめた方がいいですよって言うんだけど、やっぱ好きなんですよね。
この行為が好きだからやってしまう。
で、じゃあどうかっていうと、じゃあ僕の前で一曲弾いてみてくださいって言うと、必ず間違えるんですよ。
で、間違えるとやり直すんですね。
止まって、曲をね、曲がバンと止まって、もう一度その間違える前からやり直す。
でもこれはね、本番ではできないんですよね。
やり直すということができない。
その上ね、この練習の時に間違えたらやり直すということ、これも反復されてしまうんですね。
反復練習だから。
そうすると間違えるというこの感覚を覚えてしまうんですよ。
心がね。
それで本番でも間違えるという。
これはね、ダブルにやっぱりあまり良くないんですよね。
だからやっぱりお客さんがいるんだよねと。
今の実力の私なんだけどもその前でやってるんだよっていう。
その状態で間違えてもその先に進まなきゃいけない。
この感覚で弾いていく方が多分上手くなりますね。
そしていつも必ず同じとこで間違えるんだったら、そこだけを取り出してね。
そこを何度も繰り返す。
でもその時も練習としてやるんではなくて、本番さながらのこの心の状態でやるっていう。
これがやっぱり上手くなる秘訣なんだろうなというのをね、ここでまざまざと学びましてね。
私も本当に良い体験をさせてもらったんだけど、これが一つ大きな私にとってのヒントだったんですよね。
もう一つは、執筆ですね。
この文章を書くというこの行為。
これもですね、油断するとさっきのその継続を目的にするブログみたいな感じで、
とにかく文字を打てばいいやっていうね、こういう感じになってしまうんですね。
でも私の知り合いで、やっぱりその大量に書けっていうね、教えを受けてきたという方がいらっしゃって、
執筆と思い
その方のやっぱり書く文章もなんていうのかな。
さっきのね、この反復練習をよくしてたそのギター教室の生徒さんとすごく似通っている感じがしましたね。
イメージ、音楽と文章で全く違うんだけども、何かが欠けてるんですね。
これはまさにその重い心の動き、これが欠けているんですよ。
で、先月かな、今月か、今月初めてやった3時間の執筆レッスンっていうのがあるんですけどね、
来月も7月の16日にやろうと思ってるんですが、ここでもですね、私はとにかくその書くという行為、
これをですね、できるだけ、なんつーのかな、この書いてるという意識をね、持たないっていうことをお勧めしたんですね。
具体的に何をするかというと、まずその書こうとするその登場人物とか、場面、情景ね、
例えばエッセイであれば自分がその場所に行っているという私ですよね。
この自分と、そしてその私がいる場所、この情景、これをしっかりとですね、まず意識の中に形作るんですね。
このいきなりね、バッと書き始めるんではなくてね、まずは情景、人、それから場所みたいなものをしっかりと形作って、
それを実際に動かしてみるんですね。
だからこれ、例えば小説のような架空の物語だとしても、その登場人物のイメージをしっかり持って、その人を実際に動かしてみるわけです。
そうすると、こちらが何かしなくても勝手に動いてくれたりするわけね。
昔のことを書くのであればもう勝手に動きますから、もうやったことなのでね。
これをしっかりと形作った上で、何も考えずにありのままに描写していくというやり方をお勧めしているわけね。
だから書くという行為は本当にもう結果であって、筆筆の9割ぐらいかな、それはこの意識の中に書きたいイメージを形作るという、
こちらの方が主になるわけですね。
まさに主、自由という感じ。
この意識の中に何かを形作るというプロセスを省いて書こうとしてしまうと、まさにこの体が動いて文字を打っているというね。
さっきのちょっと虚しい行為といったやつね。
これになりがちなんですよね。
こういうものもののところから、僕はやっぱり行為ではなくて思いを目的にするということをお勧めしたいなと思っているわけね。
この思いが目的になると不思議なことにですね、体の感覚が消えるんですよね。
これは多分多くの方が実は経験している感じがします。
行為ではなく意識や思い、まさにこちらの形のないものが働いているという、そういう感じね。
そちらの方が強くなって、この体の感覚がなくなっていくような感じ。
これもギターでいうと、僕はこれを何度も経験していてね。
ギターに挫折した方っていうのも少なくないと思うんだけど、
多分Fのコードが抑えられないっていうね。
セーハってやつですね。
人差し指でベンと6弦全部抑える。
あれ最初に初めてやると、こんなのできるかよっていうぐらい力が必要な感じがするんですよ。
なんか握力がね、ものすごい握力が必要なんじゃないかつって。
楽器屋に行くとですね、面白いことにこの握力を鍛えるグッズみたいなのも売ってたりするのね。
チョーキングとかもそうなんですけどね。
弦をグーッと上に引っ張って、上に押し上げてか、音程を1音とか2音とか上げるっていう、あれも最初できないんで、
これをやる力ってどんなに必要なんだろうっていう、握力がどれだけ必要なんだって感じがする。
この時、僕らはね、体に意識がいってるわけですよ。
これが弾いてるうちにある日突然ね、全く力を入れなくても抑えられる日が来るんですね。
もう軽々と。
これどう考えてもですね、その間に僕の指の筋肉がものすごい鍛えられたなんてことはおそらくないと思うんですね。
そうじゃないんですよ。若干は力がつくとかもあるかもしれないけども、そうではなくて、たぶんこれは心が難しくないというふうに認めたからなんですよね。
だから実は最初から力は必要なかったんですよ。
でも僕らはこの体に意識がいっているのでね、これを力とか腕力とかね、握力みたいなものに置き換えてしまうので、
どうしてもそれが力がなくてはできないというふうに認識してしまう。
でもこれを毎日やってるとわかってくるんですよ。あれこれ力必要ないなっていうふうに。
思いと行為の関係
その時に心がね、これ難しくないよ、力入れないよって認めてくれる。
そうするとスッと抑えることができるんですね。
だからこれもまさに思いと行為の関係なんだけども、こんなふうにスッと抑えられるっていうのは体の感覚がなくなったっていう感じに近いですよね。
あと自転車の運転もそうですよね。
自転車って最初なんかものすごい力を入れてハンドルを自分で操作してるって感じがするんだけども、
乗れるようになるとまさにこの体の感覚がフッと消えてね、なんで走れるのって感じがしますよね。
僕は子供の頃からね、実は近くにスケート場があってね、
もう本当に4,5歳の頃からスケートリンクで遊んでたんで、めちゃくちゃ上手いんですね、スケートはね。
高校の頃にローラースケートブームが来まして、原宿の歩行者天国でね、ローラースケートをやるという一大ブームがやってきた時にもローラースケートを買って田舎でやってたんだけども、
その頃も本当にあらゆる技は全部できたんですけどもね、
このスケートも滑れるようになった瞬間に、このスイーと滑れるようになった時に体がキュッと消えますよね。
これを僕らはその体が覚えたとかね、あと場合によってはこの指先にも脳があるみたいな、そういう説もあるんだけど、
これ僕はちょっと違うなと思って、これ体が覚えたんじゃなくて、僕は心がそれを受け入れたっていうふうに捉えてるわけですね。
だからもちろんこの体を使うパフォーマンス、ダンスとかね、今で言うとブレイクダンスとかだな、あとバレエとか、それからスポーツ、
そういうものは体がある程度の筋力とかね、柔軟さとか瞬発力、これを身につける必要があるというのは確かだと思います。
でも最後はですね、それを試合でどう使うか、それを舞台でどう使うか、この時はやっぱり思いがその道具、体という道具をどのように扱えるか、こっちの方が重要になるはずなんですよね。
なんか私はそんな風に感じますね。
面白いことに、この行為の方ではなくて、思い、こちらが目的になるとね、僕は時間の間隔も消える感じがするんですよ。
これはまさに没頭するというかね、集中している感じ。
この時本当に体の意識っていうのはね、ふっと消え去りますよね。
疲れない感じっていうのかな。
そして時間がどのぐらい経っているかを忘れてしまう感じ。
これはもうとても自然な流れでね、時間とは身体間隔ですからね。
要はその体がある変化を感じ取らなければ、僕らは時間の概念は持てないんですよね。
例えば昼から夜になるこの景色を見るとかね、それからまさにその目にしているこの光景が変わっていくとかね、それから場合によってはこの疲れが溜まっていくみたいな感じ。
とにかく体が何かの変化を感じてくれるから、僕らは時間という概念を持てているわけね。
これは面白いことに空間も同じなんですよね。
空間と時間というのは僕らの体が感じるもの。
だからこれは実は別のもののように僕らは捉えているんですけども、おそらく同じ種類の一つのイメージなんですよね、心象なんですよ。
だから例えば目隠しして耳栓をして新幹線に乗ってみると、おそらくもうまず空間を移動している感覚というのはゼロになりますよね。
そしておそらくだけでも時間が経過しているこの感覚も随分と薄まるはずです。
心の探索と向き合い
この見たり聞いたりしているこの変化がなければ、時間も空間も感じられないということね。
だから結果としてこの思いが目的になると体の感覚が消えて、それと同時にこの時間の概念、空間の概念みたいなのも薄らいでいくということですね。
これに従っておそらくこの疲れる感じとか、重いなという感じ、これも柔らぐはずなんですよね。
これは要は力が抜ける瞬間といってもいいかもしれませんよね。
スラッとできるようになったこの力が抜ける瞬間、まさにそのギターのFを何の力も入れずに抑えられるこの瞬間。
あらゆるスポーツとかいろんな競技みたいなことで僕はこの感覚を味わったことがあるんですけどもね。
要はこれはいつもの私の偽りの自分と本来の自分、もしくは我と私みたいなことでいうと、まさにその我の意図が消えて意識と体が直結されたという感じですね。
まさに先ほどお話ししたこの主従関係でいうと、主人である意識が道具である体を完璧に使いこなせているという状態ですね。
この意識と体が直結される状態、そしてこの主人である意識が道具を完璧に使いこなせている状態、こうなると僕らはその体の意識が薄れていくという感じなんですよ。
この偽りの自分もしくは我は意識というのが本来の自分というのを知っているので、こいつが出てくると自分たちが消えてしまうということもわかっているのでね。
これを排除しようとするわけですね。
そして体に目的を持たせるということをやるわけ。
もう少しわかりやすい例で言うと、気が乗らないとか不安だとか、こういう理由で行動を妨げられるのは嫌だな、みたいなふうにこの偽りの自分は捉えるわけですね。
その気が乗らないとか不安を作り出しているのがまさにこの偽りの自分なんだけども、そこはもう隠しておいてね。
心があるから俺らは行動を邪魔されるんだと。
だから心がどうであれ動けるような方法ってないかなっていうことで、さっきの反復練習みたいな繰り返すみたいなことに多分走っていくわけですね。
心と行動をはっきり話せばうまくいくんじゃないかと考えているわけです。
でもね、これをやると先ほども言いましたけども行為そのものが目的になって、とにかくこれをしていることで安心みたいなね、そういう発想になってしまう。
これはまさに主従の逆転なんですね。
これが繰り返しますけど、僕らを疲れさせたりね、何かを色褪せさせる、楽しかったことが色褪せてしまうとか、あらゆることから興味を失うというそういう要因になるんじゃないかなと思います。
これが一つのね、私が考える行為を目的にするということのデメリットなんですね。
もう一個ありまして、私はこの番組でお話ししているように、基本はやっぱり過去はなるべく振り返らないほうがいいと思っているんですね。
でも場合によってはですね、子供の頃の記憶とかね、学生の頃の記憶とか、あるいはこの新卒で初めてこの社会に出てね、仕事をした時の、もちろん望ましくないですか、この嫌な記憶。
ここにやっぱり怒りとかね、罪悪感の種が根深く染み付いているケースというのがあって。
こういう時はやっぱりですね、そのモヤモヤしている、何か納得できないよってこの感覚、これを柔らげたり消したりするために、今の自分でその嫌な記憶を体験した頃の自分に会いに行ってね。
まさにこの自分の子供を抱きしめるようにね、どうしたってそこの思いを聞いてあげるということをね、お勧めすることがあるんですね。
この時にも私はできるだけ書かないでくるって言うんですよ。
紙にね、紙に書いたりタイプで打ったりしない方がいいですよっていうことをお勧めするんですよ。
これはなぜかというと、やっぱり行為にその主眼が行ってしまうからなんですね。
行為にフォーカスしてしまうってこと。
僕がやってほしいのはやっぱり心の探索なんですよ。
その自分の思いに会いに行くということをやっていただきたいんですね。
でもこの僕らはね、やっぱり行為を目的にするということに慣れてしまっているので、どうしても書きたくなっちゃうんですね。
ギフトモードを通じた思いの載せ方
そしてこの書いている、書いたというこの結果に安心してしまう。
でもそれを通してね、その本来の目的であるこの心の探索、その頃の自分その思いに向き合いに行くというこれをできていないとあんまり意味がないんですよね。
おそらく僕らはね、これを手を止めて心の中だけでやるということがとても苦手になっている感じがしますね。
なんていうかな、この体を動かせずに静かにこう座ってね、目を閉じて、そして自分の心に向き合うみたいなね、この体を動かしてないこの時間がね、やっぱり僕らにとってはちょっと耐えがたい感じがするんじゃないかなと思います。
だからこの行為を目的にするというこの習慣を通してね、僕らは随分とこの心に向き合うということをね、おろそかにしてきているんじゃないかなという感じもするんですね。
だからさっきのその体を鍛えるみたいなことの対比でね、あえて言うとすると心がね、随分とその黙っているんじゃないかなっていうそんな感じがするんですね。
例えばその瞑想っていうのがありますがね、これは基本のやり方というのがある対象だけに集中するっていうね、そこだけに集中してそれ以外のことを考えないようにするというのが一つの基本の型としてあるんだけども、やってみるとすぐわかるんですけどもね、その対象だけにグーッと集中しようとしても心はすぐにフラフラするんですよ。
で、もしこれがね、体だったら、えっと、歩き始めても目的地にたどり着けないっていうそういう感じなんですよね。
もしくはこのお酒を飲みすぎて、こう、命定している感じ、このぐらい多分僕らの心はフラフラしているわけね。
これ目に見える体だったら気にしてね、すぐに何とかするんですけども、心はね、えっと、目に見えないし、なんとなくこの偽りの自分によっておろそかにされているので放置されがちなんですよね。
これがもう第二のね、僕はデメリットというのかな。
うん、なんかこの心の探索、心に向き合うというね、これ非常に重要なメソッドなんですけども、これがものすごく苦手になってる。
なんでかというと体を動かさないからですね。
で、これをやろうとすると、どうしても体が動かしたくなって、えっと、書いてしまったりね。
まあ人に話すというのはまだいいんですけどもね、この書くという行為でこの心の探索を代替代わりにしようというのは、えっと、割とありがちなんじゃないかなって感じがします。
だから体を動かさずに、体を全く動かさなくて、静かに座って心に向き合って、えっと、フラフラと動かさないでね。
何か一つのことにスッと集中しながら、その探索したり向き合ったりするということもやっぱり大事なんじゃないかなと思うわけですね。
で、これをやるためにも、まさに今回ね、私がジャジュンワークのテーマにしたね、行為ではなく思いを目的にするというのがおすすめですね。
だからまずその何かをするときに、これ行為そのものが目的になってないかってこう自問してみるんですよ。
もしくはこれをやってることから、これ自体から安心を得ようとしてないかっていうふうに自問してみるんですね。
ここをまずね、確認してみてください。
そして今日ですね、この番組を聞いていただいたら、その後ね、おそらくすぐに何かを始めるはずなんですね。
で、何をやるにしても、今私はこれを通して何を感じられているかっていうのを自分に問うっていうね、この習慣をちょっとつけてみてください。
何かしましょうとやり始めますよね。
そしたら今私はこれを通して何を感じられているっていうようなことをこう自分に聞いてみるわけですね。
いや何も感じないって言うんであれば、できればその行動に思いを載せてみましょう。
この具体的な方法がね、私が一つ提案しているのがギフトモードなんですね。
自分と他の人と環境に何かをギフトするというこのモードで動いてみる。
これはもう完全に思いが乗りますからね。
思いが載せられないかなということを見直してみるわけですね。
何かさっきのギターの反復練習で言うならば、いやいやこれちょっと本番同様に本気でやってみようよっていうそんな感じですね。
まあとにかくさっき言ったね、この手中関係を思い出して。
えっと体は自由だよなぁと手が動いてるかと、主いるかみたいなそんな問いかけなんですよね。
これが思いを載せてみるということ。
で、どうやっても乗らんわってことになればね。
えっとこれがもし選べるんであれば、僕は思い切ってやめるっていう決断をするのも悪くないと思いますね。
反復する行為に対する選択肢
何か反復、さっきの1000本ノックとかね漢字の書き取り100回みたいなことを、
このそれをしていることで安心を得ているみたいなことが見つかったらね。
そしてここも思いは乗らんわっていうことがわかったら、思い切ってねやめるというこの選択も考慮してみるのがいいんじゃないかと。
そんな感じですかね。
まああとはえっとそれだけじゃなくてね。
もうやりたくねえんだよみたいなこともあると思います。
これは仕事とかだったらね。
こんな上司の下で働くのなんてまっぴらごめんだよと。
でもえっとしょうがないんだよ食べていくためにはみたいなこともあるでしょう。
この場合はねやっぱりこの怒りを何とかしないと、この今日の話にはね多分いけないと思いますんで。
それはこの過去の番組等でお話ししたね怒りと向き合うというところもしくは罪悪感かな。
そこからまずちょっと解決してみて。
そしてできるだけフラットにした後にさてもう一度この行為私はここから何を感じられている。
これをやるこの思いはなんだっけというところを思い出してみるというね。
行為の目的を思いに変える
そんな感じになるでしょうね。
まあだからあのそういう厄介なやつはちょっと置いといて。
そうでないやつね。
そこからその行為と思いこの目的をね逆転させて。
もし行為そのものが目的になっているようであれば思いを目的にするというね。
この修正をしてみるといいんじゃないかなと思います。
これによってさっきの逆ですね。
疲れない。
そして面白いね手応えあるねという。
まあ動いてて楽しいね。
まさに私が知るこのリアルタイムの報酬というのかな。
これが得られるんじゃないかなと思います。
疲れず面白い結果を得る方法
よかったらやってみてください。
そしてまあね今日はこの話ジャジュンワークから始まっているんですが。
7月もね8日と29日から2回やりますんで。
よかったらちょっとこのやり方をね試すという意味でもご参加ください。
そして6月いっぱいですね。
第9期かき上げ塾の超早割キャンペーンというのをやってましてね。
もうあと6、7、8、9、10と5日になりましたので。
9期トライしてみたいという方はぜひこの機会をねお見逃しなくお申し込みください。
じゃあ今日はですねできるだけその人生の中からねこの虚しい行動っていうのはな。
その思い気持ちの乗っていないもの心が離れている行動っていうのをね少なくしてみるというこれをお勧めしますね。
だから行為ではなく思いを目的にするこれをやりながらいい1日をお過ごしください。
ありがとうございます。