1. Good News for Cities〜都市に関する炉辺談話
  2. 【#110】モントリオールから帰..
2023-04-11 58:18

【#110】モントリオールから帰国したばかりの建築キュレーター・本橋仁さんに聞く展覧会のつくり方

今回は、建築キュレーターとして京都国立近代美術館やThe Canadian Centre for Architecture (CCA)で活動されてきた本橋仁さんをゲストにお迎えしました。"建てる"だけではない建築との関わりを、本橋さんの活動の軌跡を通して考えます。


◉トピック

・建築との出会い

・建築展に興味を持ち始めたきっかけ

・展示デザインと学芸員への道のり

・建築キュレーターという仕事

・印象に残っている展覧会

・モントリオール・The Canadian Centre for Architecture (CCA)での活動


◉ゲストプロフィール

本橋仁

博士(工学)。専門は日本近代建築史。メグロ建築研究所取締役、早稲田大学建築学科助手、京都国立近代美術館特定研究員を経て、現在は文化庁在外芸術家研修員としてThe Canadian Centre for Architecture (CCA)に滞在中。建築作品に「旧本庄商業銀行煉瓦倉庫」(1896年竣工、2017年改修)、著書に『クリティカル・ワード 現代建築』(編著、フィルムアート、2022年)『ホルツ・バウ 近代初期ドイツ木造建築』(共編著、TOTO出版、2022年)。キュレーションに関わった展覧会に「第14回ベネチアビエンナーレ日本館」(2014年)、「分離派建築会100年 建築は芸術か?」(2020年)など。

00:10
みなさんこんにちは、杉田まりこと石川由加子です。
Good News for Citiesは、都市、建築、町づくりに関するさまざまなグッドニュースをザックバランに話す番組です。
Good News for Cities
はい、じゃあ、今日は建築士科の本橋仁さんにお越しいただいてます。
よろしくお願いします。
家が近いんですよね。
今、今日も通勤ここまでは30秒ぐらいでした。
30秒、そんなに近い。
確かに、本橋さんは、私の家の近くのすごい面白い洋館みたいなね、フォーサードのところに住まわれていて、
で、過去に2回ぐらい共通のコミュニティがあるので、お会いしていたんですが、
ちゃんと話したことがなく、私は勝手に始めましてだと思い込んで、失礼ながらにも思い込んでおり、
一回やってますよって。
本橋さんのツイッターをめっちゃ見てたんですよ。見てて、あれ?みたいな。
家の写真か何かをポストされて、
京都帰ってきましたって。
その建物知ってます?みたいな。
散歩の時によく見てます?みたいな返事をしたら、そうですよみたいな。
よくは知ってますよ。
2回会ったじゃないですか、みたいな感じで。
笑いみたいな感じで帰ってきたんですけど、顔見たら思い出しました。
ありがとうございます。思い出していただきました。
本橋さんでちょっと簡単に自己紹介をお願いできました。
僕は建築の歴史を扱っているものです。
主には美術館に勤めているので、前の職場も、前々の職場も、次の職場も美術館です。
建築士を扱って、論文も書いてはいるんですけど、
そのアウトプットが論文というよりは、最終的には展覧会を作る。
主には僕は建築なんで、建築展を作る。
でも、今まで扱った展覧会は建築だけじゃなくて、デザインとか扱ってきたので、
建築一般の展覧会を作るみたいな感じですかね。
建築から物事を見て、展覧会を作るというふうに言うかな。
なるほど。バックグラウンドが建築ってことですか。建築を勉強されてた。
そうですね。日本の場合は建築士を勉強するって言っても、
学部は大体ほとんどの人が建築学科を卒業して、
大体、研究室から建築士の研究室に入ってっていうのがほとんどの人。
僕もそうで、早稲田大学の建築学科に行って、
それこそ普通の建築家を目指す人と同様に図面を書いたり、そういうことをやってましたけど、
学部4年生で早稲田の場合は、研究室が決まるんですが、
その時に中谷範人先生という建築士の先生、
その人もね、その人が言っちゃった。その人が私の恩師ですけど、
03:03
中谷先生も建築士家っていうよりは歴史工学者とか言ってるんですよ。
アートプットをすごい大事にしてる先生だから、歴史工学っていうのを提唱してるんですね。
歴史から物を見て、しかもそれを作ることにちゃんと反映させていく。
その方法はいろいろなんですけど、
その先生から受けた影響はすごく大きくて、
先生は本作ったりとか、設計したりとかされてたんですけど、
僕はもともと学部時代に建築学科学んでる時、
もともと高校生の時から展覧会見に行くの好きで、
で、なんかこう、いろいろあったんですが、建築の展覧会。
美術館とか博物館みたいなところで働きたいなっていう漠然とした思いがあって、
それをつなげられるところは建築展のキュレーターというふうに落ち着いていったっていうところかな。
その経緯はいろいろあるんですけど。
で、話戻すと、学部の4年生で歴史の研ぎ裂いて、
院博士課程と進んで、
博士とったタイミングというか、そのぐらいで、
京都国立近代美術館という美術館を。
そこでいくつか展覧会担当させてもらって、
で、去年1年間、モントリオルのカナディアンセンター・フォーアーキテクチャーというところで、
スタッフ的なポジションで仕事していたっていうことですかね。
で、帰ってきました。
めっちゃあの、もっと聞きたいところが、今の話でもめっちゃ出てきたんですけど。
はい、そうですか。
建築工学の博士を持っていて、で、設計はされない。
もする。
しようと思えばできる。
いや、それこそ展覧会の展示デザインはしてたんで。
あー、なるほど。
だから、建築、建物を作るみたいな経験はないんですが、
設計に関わることは結構何度か経験させて、ありがたいことに経験させてもらったんですよ。
で、例えば、
僕は修士出たタイミングで博士上がると同時に、
株式会社目黒建築研究所っていう設計事務所があるんですが、
いろんな、最近は工番設計したりとかして、
あと近代建築の保存なんかも手がけられるということで、
そこの取締役にさせてもらって、
っていうのはね、組織をもともと、ちょっと正確に忘れちゃったんですけど、
06:00
株式会社に法人格を変えるときに、
取締役、あと2人の事務所だから、取締役として3人目として入ってもらえると嬉しいって言っていただいて、
僕はほんと修士上がり立てだったんですけど、偉そうに取締役とかいうポジションでいただいて、
で、設計事務所を、席は置かせてもらったんですよね。
だから、一応建築に関わる場所にはいったし、
あと博士論文は僕、今の専門と全然違うように思われるかもしれないんですけど、
明治29年にできた、埼玉県本庄市という、結構群馬都の県境にある、
本庄市というところに残っているレンガ像建造物の保存改修に携わっていて、
それは、2011年に最初に行って、2017年3月に就校したから、
足掛け6年になったな。
で、そのプロジェクトの始まり、本当の始まりから就校まで、
全部プロジェクトマネージャーみたいな感じで関わったんですよ。
で、その時は建築家途中から、さっき少し話、事前に話にも出た福島克也さん、富永陽さんという2人がやっている事務所が、
最終的に設計者として関わってくださったんですけど、
僕は、あそこの一番最初の企画設計とか、使徒の調整とか、
大きくは使徒の調整が実は良かったんですけど、
で、設計者、使徒、歴史家としておくと、
あと設計者と、密度萌えの中で改修設計に携わらせてもらったりとか、
だから、もろに図面を描いて建築設計して、自分のデザインです、みたいなのはあんまりないんですが、
建築の設計の過程には結構携わる機会は、何とか常に行って叶えてさせてもらっているかなっていう。
なるほど。で、建築にそもそも興味を持ち始めた原風景みたいなのってあるんですか?
なんかあんまりそういう話するのはないというか、恥ずかしいんですが、
まあ、せっかくだからお話すると、
わせだ中学からわせだ高等学校ってずっとわせだなんですよ。
で、わせだって結局18年間わせだにいたんですけど、中学から博士まで。
すごいですね、それ。
だいぶ長いんですけど。
で、中学高校、わせだ中学高校と中学高等学校って付属校じゃないんですよ。
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継続校なんですよ。で、推薦枠がほとんどないんですよ。
だから、受験する人も多い、受験校なんですよね。
でも、僕は普通に受験するほどのモチベーションもなかったんで、
わせだの推薦枠狙ってた時に、建築、第一規模落ちちゃって、第二規模で建築あったんですよ。
第一規模は何だったんですか?
応用科学。今も応用科学大好きで。
ご存知か分からないけど、高段車のブルーバックスシリーズっていう本のシリーズがあるんですが、
科学とか物理とか数学とか環境問題とか使ってる新書シリーズがあるんですけど、
それ読むのが超好きで、小学校ぐらいから漠然と化学者、化学になりたい。
物理は苦手なんだけど、化学に行きたいっていうのがあって、
しかも工業化学に行きたいっていうのがあって。
で、ほんとずっとその道目指してたんですけど、
たまたまというか、第二規模、第三規模まで書けたんだけど、第二規模までしか書かなかった。
第二に建築って書いて、そこになっちゃったっていうのが。
なるほど。
建築に興味、建築でもいいかなって思った理由は、実際ちゃんとあって、
僕は中高、中高校の一貫校なんだけど、一緒に文化祭やるんですよ、中高全体で。
で、そこの創飾っていう、文化祭実行委員会っていうのがあって、
そこで創飾っていうセクションがあるんですね。
創飾、はい。
で、例えば、学校内マップ、何やってますっていうの出したりとか、あとは、なんかこうデコレーションですよね。
で、大きい仕事でね、よくあるんだけど、文化祭廃へとかの門を作るっていうね。
なんか結構花型なんですよ。
なるほどね。
で、僕そこで創飾に芽生えて、中学2年から。
で、頭張るのは高2なんで、だから1、2、3、4年間ずっと創飾やって、結局創飾リーダー長みたいになってた。
創飾リーダー長?
めっちゃ気になる。
で、門を作って。
で、その時に、あるいは法人なんですよ、うちの学校って。
すごい自主性をもんじるっていうか。
中学旅行の行き先もみんなで選挙で決まるみたいな学校だったから、みんなでプレゼンし合って。
12:02
で、あんまり押し付けられないってとこあって、文化祭実行委員もそれぞれ結構ですね、責任を学生に委ねてくれる、生徒に委ねてくれる学校だったんです。
だから、何作るとかも全部自由で。
高校生にしてはなかなかの良さなんですけど、50万ポンって渡されて、あとはどうぞっていう。
すごい。
だから、一人で50万渡されて。
で、後輩たち20人ぐらい、創飾についてくれたのかな。
その子たちに連れて、3ヶ月間ずっとトンカイやってたんですよ。
で、その過程でやっぱり僕たちが作る、まあまあ人がくぐれるもの、でかいの作るから。
で、週2からずっと先輩を押し囲まれてはきてるんだけど、いよいよ頭張るときに、なかなか上もいないし相談できる人いないじゃないですか。
で、それまでの経験もあるけど相談できる人が養務員さんだったんですよね。
養務員さんが元大学だったんですよ。
で、すごい養務員さんと仲良くなって、なかなか養務員さんと話す機会ってないと思うんだけど、いつもなんか養務員さんと養務員室行って、
なんかここをどうしたらいいかなとか言ってそうだなって。
で、なんかいろいろその頃に、なんかそんな必要ほぼないんだけど、門ぐらいのレベルだと。
でも図書館行って、建築の本とか見て。
でも意味ないじゃん。
安藤忠雄のコンクリートの建物見ても門に何も反映されないんだけど、なんかとりあえず見るみたいな。
図書館好きだったし。で、建築って世界あるんだなっていうふうに思ったから。
応用科学もしかも頭になかったんだけど、なんとなくそれやったから、一応建築って書いた。
でもそれ以外ないんだよ。行きたいところはないから大学を書いてた。
応用科学に興味がありつつ、その学際のこの門を非常懸命大工さんと一緒に作ってたみたいなところも、
面白いギャップがあっていいなと思ってたんですけど、
そうか、建築屋の興味はそこからだったんですね。
あとね、なんかそこで結構ね、なんかね、建築デザインっていうかね、
建築ってやっぱり一人でものを作れないじゃないですか。
もちろん、作る施工の人たちがいて、予算も降りてくる予算取りみたいにもして、
そういうのね、なんか全部そこで学べたんですよね。
僕結構、あの頃はワンマンで、こうやるんだ、こうやるんだとかやってたら、
中二ぐらい、中二の子たちから、なんか、僕たちこんなのやりたいんですとか言って、
バルーンで文字書くみたいな。
僕、趣味じゃないんですよ、あんまり。
でも、なんかそれがすごい嬉しくって、
その子たちに予算をポンって渡して、作ったら確かに趣味じゃないんだけど、
15:04
なんかこう華やかになったんですよ。
それがね、今も覚えてる、なんかすごい嬉しかったんです。
だから、なんかこう任せるとか、自分一人だとやっぱり自分の価値観になると思っちゃうから、
そういうの面白いな、みたいなことにその時気づいたって。
なるほど、面白い。
なんか、手を動かしながら建築を学んだんだと思って、ほーっと思いながら聞いてました。
なんかこう、なんとなく、例えばアンドタダーの世界外がかっこいいなっていうので、
本の中で憧れて大学で始めたっていうよりは、
なんかもう、金槌を握りしめ、
50万円を握りしめ、中学生たちに雇いながら、
その中で、広い建築的なものに惹かれていった、みたいな感じだったんです。
そうなの。
その時の経験は大きいですね。
先輩たちも、大伝先輩たちも悪が強かったし、
なんか、バスダーの先輩たちも悪が強くて、
それこそ、自分のすごく先輩でいて、バーって言ってきた先輩とかは、
例えば、なんか真剣10代しゃべり場って当時あったよね。
知ってますよ。
あれにも出てた人だったんでね。
そういう、なんかね、悪が強い人たちに思われながら、
こうになって、自分でどうにかしなきゃいけない、みたいな。
僕の方法としては、まとめられるかなと思ったんだけど、
最終的にはそういうね、学生から主体的になんか、
僕があんまりワンマンだったから、嫌気させたのかもしれないけど、
いやいや。
提案してくれて、みたいな。
任せるみたいなのが好きだった。
建築は好きだし、設計するのも好きなんだけど、
じゃあ例えば施工をまとめるとか、マネジメントする方が好きなのかもしれない。
おー、なんか今の原風景の話が、今のお仕事にももしかしてつながってるのかと思って。
いや、わかんないけど。
で、大学でじゃあ、第二規模だった建築を勉強して、
で、学芸員の資格も取られたってことですか?この時に。
そうそう、学芸員は、陰性の2年の時に取りましたね。
それは理工学部だと取れないんで、
そういう人は僕だけじゃなくて何人かいるんだけど、
文学部の科目取り修正になって取った。
へー、なるほど。
そういうプログラムがあるんですよ。
今は?
なんか、早稲田って学芸員を2ヶ月だけで取るっていうプログラムがあるんですよ。
ただ朝9時から夜7時までかな、毎日。
18:03
激厳。
激厳なんですけど、お盆しか休みなし2ヶ月みたいな感じ。
で、外から取る人はまあまあなお金払っていくんだけど、
和世田生だと科目取り修正になるのは容易で、
お金は全く払わなくていいんですよ。
で、そのプログラムに自分で参加できるんですよ。
だから日光に、これじゃない、修士2年の2ヶ月でそれで取ったんですよ。
でもなんかそもそも建築と学芸員と美術館と展覧会とみたいな、
なんかその分野を合わせようみたいな人ってそんなにいないじゃないですか。
それを仕事にしようって人少ないかもしれない。
そうですよね。なんかそれこそ建築会話だったら、
ラットみたいなリサーチをしているチームがあったりとか、
さっきも話にあった川勝さんみたいに建築キュレーターみたいな人もいますけど、
なんかそこまで一般的じゃないニッチな世界かなと思ったんですけど。
そうですね、建築。
もうちょっと、修士2年で学芸員資格を取ろうと思った理由は、
その前にちょっとあって、もともとその学部でいろいろ設計課題やるときに、
当時はなんだろうな、そういう場合は特になんだけど、
社会性、社会性とか言われる。建築の社会性みたいな。
でもなんかそれ、建築だけで解決できる問題じゃないじゃんっていうのが自分の中で、
建築で解決できる問題もあるんだけど、
効率も変えなきゃいけないし、
もうちょっとなんかシステムで、ソフトで変えられることもあるだろうしっていう。
だからそのトータルで考えなきゃいけないのは、
自殺者が多い問題は建築だけで解決できるわけじゃないじゃないですか。
で、なんか建築でゴネゴネやるより、
例えばこうやって今、植物置かれてるけど、
植物一個置くだけで窓一つ開けるより効果があったりするじゃないですか。
でも物をどこに置くかとかそういうことって、
そういう設計では問われないし教えられないじゃないですか。
で、なんかそういうこうちょっと疑問というか、
なんか設計課題やってても、
そこでの暮らしとか物をどこに置くかみたいなことを含めて、
本当は建築って考えられるのになっていう思いから、
もともとずっと展覧会、美術館行ったりとか、
うちの親がすごい連れてってくれたんで、
一人でも高校生で美術館とか行くようになってたから、
なんか絵一つで変わるのになって思ってたんですよね。
で、その時に展示デザインという世界があることを知るんですよ。
21:02
で、展示デザインって、今日本だとあんまり、
それを専門にしてる仕事の人もまあまあいるんだけど、
大きくはね、日本の場合は野村工芸社とか、
単線社とか大きい会社があるんですが、
箱付きのデザイン室みたいのがあるところが、
僕が学生の時には2つあったんですよ。
1つが東京国立博物館に展示デザイン室っていうのがある。
もう1つは森美術館に展示デザイナーがいる。
で、その時に東京国立博物館でインターン募集してて、
で、僕その修士1年の時に1年間、
東京国立博物館の展示デザイン室で働いてたんですよ。
で、なんか展示デザインやりたいなっていう気持ちがその時にあって、
で、木下師生さんっていう、今も東博にいるんだけど、
その人の元で働かせてもらって、今もすごいお世話になってるんですけど。
で、その過程でもちろん世界狭いから、森美術館の展示デザイナーの前田尚武さんっていう人にも出会うことができて、
で、その世界本当に狭いから、
なんていうか狭いし、お二人はそういう世界を広げようとしてらっしゃるから、
頑張りよってすごい応援してくれたんだ。
で、今も応援してもらってるんです。
で、前田尚武さんはその後今、実は京都市京セラ美術館にいるんだけど、
木下さんは東博にいるんだけど、
お二人とも大変仲良くって言うとしてるんだけど、
いろいろ面倒見てくださる。いまだに面倒見てくださる。
で、そのお二人からどうやったら、
要は僕みたいな建築の人が美術館、博物館に潜り込むのって道がないんだ。
どう潜り込むかみたいなことを一緒に相談してくれて、
やっぱり、ひょっとしたら展示デザインっていう職能とかそういう募集でかかることは皆無だから。
実際今もないから。
大手に行くか、あとは学芸員として潜り込むっていう。
なるほどね。
結果として学芸員として潜り込むことになった。
その時展示デザインやりたかったんだよね。
今思えば。忘れてるけど。
今はキュレーターになっちゃったっていう。
潜り込んだ先にまた他のキャリアがあった。
だから博士取る予定もなかったんだけど。
中谷先生に学芸員になりたいんだって言ったら、どうぞどうぞみたいな。
で、とりあえず博士に上がって仕事を見つかるまで。
合わせたね、その時博士かって今もそうかもしれないけど、学芸描かなかったんですよ。
バイトすればなんとかなる。
24:02
なんか上がって、そんなすぐ就職できないかな。
とりあえず博士上がって、学芸員どっかなれるか試行錯誤してみたらって言われてるうちに、博士取ってたっていう話。
気づいたら取ってた。
中谷先生それ忘れててね、いつ博士取るんだとか言われて。
僕そんな気なかったんですけど。でも取っちゃったみたいな。
展示デザインっていう世界確かに謎が多いというか。
私去年南アフリカに行った時に一番仲良くしてくれてた人が展示デザイナーだったんですよ。
すごい元気なおじさんなんですけど。
でも具体的に何をして、展示のデザインをしてるのかなって感じなんですけど、
どういったスキルが求められるのかとか、それがいわゆる建築家がやっている仕事とどう違うのかみたいなところあんまりわからなくて。
どういう展覧会を扱うかによって全く変わるんですよね。
例えば現代美術で存命作家だと、それはその作家とともにその作家のもちろん意見も求められるし、彼らのやりたい演出的になるところもあるし。
例えば作家の新作だったら、その作家がオッケーといえばどんな展示でもできますよね。
ちょっと危なっかしい展示だって踏まれてもいいかもしれない展示だってできるかもしれないですよね。
美術館と博物館とか例えば古いもの扱う場合は保存環境が求められるじゃないですか。
実際ここは結構大事なところで、美術館だと衝動がいくつとかね。
お借りする作品だったら保全は本当に第一条件なので、火の光は当然入らない。
ものによるけど彫刻だったら火の光当たってもいいものもあるかもしれないけど、衝動はいくつにしなきゃいけない。
視線の高さはいくつにしなきゃいけない。
人がどんだけ入ることを想定すると、あんまり人だまりができちゃうようなデザインができないとか。
学芸は一番そこを気をかけるから、危ない展示、危ないと思う不安要素はすべてトリゾンの坂みたいな。
でもその中でもやっぱり作品は魅力的に見えるようにしなきゃいけない。
何枚もガラス立ててその中で見せればいいかって言ったらやっぱりそうじゃないってこともありますよね。
だから保全との攻めぎ合いみたいなところとデザインとの攻めぎ合いみたいなところが古いものを扱う場合には発生するかもしれない。
27:01
あと、例えば僕の専門としている建築の展覧会なんていうと、
まだ絵画とか彫刻だったらそのものの持っているアウラーを享受すればいいから、割と分かりやすいって言うと失礼だけど、
割とその作品自体をどう見せるかっていうことに全力とかければいいとこもあるかもしれないんですが、
建築の場合は結構資料展示になるから、その資料が淡々と並んでいるだけじゃ全く面白みがなくなってくるので、
どう空間として演出していくかということも一方で必要になるし、資料もお借りしているものだから保全もいるっていう、
その辺の見せ方というか演出の仕方も必要になってきたりとかするっていうことですかね。
だから何を展示するかによって変わるし、皆さん多分得意不得意もあると思うし。
僕も海外に展示デザインの仕事、デザイナーの友人って何人かいますけど、結構大学で教えられたりするらしくて、大学の先生もしてたりするんだけどね。
で、その最近面白いのは要は展示デザイナーの、日本だったら展示デザイナーって完全にデザインは主張しないんですよ。作品がメインだから。
でも展示デザインみたいなものも楽しむ状態になってるんですよ。海外のたまにギャラリーとかって。
だからその展示デザイナーの作品ともなるっていう。これ自体が。展示自体が。そういう世界性もあって。
だからいろんな状況が生まれるから一概に何とも言えない。
今まで行った展覧会、展示とかで好きだったもの、ガチンと来たもの、やられたなと思ったものとかありますか?
それめちゃくちゃ難しいな。ちょっと待ってくださいね。それあんまり準備してないんだよな。
大丈夫です。特に建築系とかであると良さそう。
あるんだけど、そういうのすぐ思い出せない人なんだよな。
あれは面白かった。3批あったけど、中山秀幸さんがギャラまでやった展覧会はこれはやられたなって思った。
あれは誰が、中山さんが思いついたもの。行かれてないです。
行かれてないです。
ギャラマって1階と2階があるんですよね。外階段が繋がってて。
まず1階のとこに、2階に上がるとこに廊下ができてて、まずは2階に上がるんですよ。
その廊下がどういう風になってるかっていうと、映画館の待ち受けみたいになってるの。
中山さんのその展覧会は、2階で自分の作った建築…いつだったかな。
30:07
いつだったかな。ちょっと回数ついちゃったんだけど。
本当にその建物を舞台にして撮られた映像作品を、まずは全部見るんですよ。
30巻くらい?40巻くらい?
45本?4本?忘れたけど。
で、その映像作品を見た後に下に行って、その映像作品が撮られた時の打ち合わせ資料とか、模型でスタディ、その映像をどう撮るかっていうスタディしてる資料とか、
何て言うんだろう、映画のシナリオ?いろんなシナリオを作る資料を最後見て帰るっていう展覧会だった。
オペレーション大変そう。
映画館なんで、全体が。映画館とその資料展示になってるっていう。
建築展ってよく言われて、僕も嫌いなことあるんだけど、いろんな図面とか模型とかって建築って持ってこれないから代表者に過ぎないって言われ方をするんだよ。
でもその中山さん展覧会で何が作品だったかっていうと映画なんですよ。
映画だったら確かにそれ代表者じゃなくて映像作品だから、それが作品なんですよね。
最後その資料を見るっていう構成になってるから、その映画の持ってる空間をどう監督が捉えてやるかっていう。
その監督の視線を通してその建築の魅力を逆照射されるみたいな状態になる。
だからそこでは建築持ってこれないから図面持ってきましたみたいな、そういう話じゃない。
映像作品を見たから。
常にその建築持ってこれない問題みたいなものと建築展は戦わなきゃいけないんだけど、映像作品を見るっていうコンセプトに変えてしまってるから、その議論を全く無視できるっていう。
これはすごいなって思った。
それ見たかったです。
それは南部生とかになってて、同じ時間帯にみんないらっしゃって、同時に見るっていう形なんですね。
そのための上映時間のための時計とかまでデザインされてる。
めっちゃいいな確かにそれは。
確かにその建築系の展覧会って私もよく行くんですけど、やっぱこう図面がポンと開いてあったりとか模型がポンって置いてあったりとかして、
専門知識がない人とか補足情報がないとさーっと通り過ぎるしかない大体情報みたいなのがあることが多いじゃないですか。
それってやっぱり建築家としても歯がゆいところがあるんじゃないかなと思う中で、
映画という新しいものを作ってしまったっていうのは。
建築家自体も結構そういうことに対して意識向けてる作家はいて実際に。
33:06
やっぱりその中でもすごいなと思うのは磯崎さんなんですよ。
磯崎アウトさんこの間亡くなったけど。
何年前か忘れたけど海外巡回した日本も東京ステーションギャラリーでやった展覧会があって。
ちょっと展覧会のタイトル忘れてしまったんですけど。
それはすべて作品を、建築写真はもう使ってなかった。
僕もね、いけてないぐらい古い展覧会なんですけどね。だいぶ昔の。
で、全部の作品をシルクスクリーンと模型で見せた展覧会。
シルクスクリーン。
で、作品解説も全部シルクスクリーンです。
お金かかってますね。
写真でしか見たことないからあれなんだけど。
磯崎さんってシルクスクリーンプリントの、自分の作品をシルクスクリーンの作品というか版画にして売ってるんですよ、結構。
それこそ東京都庁舎のコンペの提出案も、彼はシルクスクリーンプリントで提出してるんですよね、コンペ。
あれはものすごい意識的で、磯崎さん愛意一家の人だけど、自分の作品はいつか取り壊されるっていうことに対して、
常に意識向ける中で、どう自分の作品を残すかっていったときに、
本来我々代理表彰と呼んでしまっている図面、そのものを芸術作品に昇華させてるんですよ。
で、シルクプリントですることで、しかもそれが、東京都庁舎のバラマンブスっていうのが20部とかすったのかな。
それが世界の美術館にバラマン壊れてるんですよ。で、CCAもそれ、例えば。
CCAが持ってるのはね、APって書いてあったから、アーティストプルーフで本人が持ってたやつな気がする。
で、そういう美術館に収められて、美術館っていうのはもう100年、200年、理想論的には持つんですよ。
で、本当は建物が壊れた後に、作品が残ってる。自分の本来の作品としたものは残ってるっていう状態なわけ。
なんかもうすごくこう、面白い。盗作してるようだけども、非常に面白いし、実際そういう展覧会も当時されてて。
要は建築を代表者じゃなくて、シルクスクイーン全部見せてるから。
シルクスクイーンってもうそれがアウラを持った作品だから、そういう本物をちゃんと見せてるっていうことになってる。
中山秀幸さんだと同じ。構造が取られてる。
そういうのって本当に面白いなと思うし、磯崎さん、中山さんみたいに意識向けてる建築家はいる。
なるほど。小田橋さんがじゃあ実際にキュレーション手がけられた展覧会についても聞いてみたいと思うんですけど、
36:02
いくつかある中でちょっとハイライトを教えていただければ嬉しいです。
教金日でやった展覧会はサポートしたのも含めていくつかあって、でも建築展は1回しかやってないんですよ。
あ、でもね、常設でも何回かやったから、実際にあれなんだけど。
大きい展覧会では分離派遣地下100年っていう展覧会を2020年。
うちの美術館では?
違う、2019年東京で、2020年。
あ、うそ、2002年。
あ、違う、2021年京都でやったんです。
で、分離派建築会っていう日本で一番最初の建築運動って言われている、建築運動を紹介する展覧会で、
これは東京帝国大学を卒業した最初6人、後から3人加えて9人になるんですけど、
東京帝国大学を卒業した6人が立ち上げた建築運動で、
端的に言うと建築は芸術です、これを認めてくださいっていう運動なんですね。
で、当時何があったかというと、結構鉄筋コンクリートとか新しい技術もできてくる中で、
質実合憲というか、機能性合理性みたいなものが重視される中で、建築の芸術的側面っていうものは、
今ジェンダーの問題でなかなかこういう言葉って使い慣れるけど、
女子のやることだとか言われてます。
そういう中で、でも建築っていうのは芸術である。
今もやっぱり建築って芸術かって言われると、そこは議論があるんですよ絶対。
建築はデザインでしょ、デザインは芸術かっていろいろあると思うんだけど、
当時もそういう問題に彼らは苦しんで、建築を芸術として認めてくださいっていう運動を起こして、
当時の例えば彫刻の方で、新しいというか潮流となっていた白樺派の人たち、
それは元をたどすとロダンなんだけど、
ロダンの彫刻から影響を受けて、自分たちの彫刻的な建築のモデル、
未実施だったりするけど、そういったものを作って展覧会に登場したりとか、
そういうことを知った団体がいたんですね。
で、その彼らの活動、実際には9年くらい続くんですが、
9年間の活動を紹介する展覧会をやったんです。
で、やっぱりここの中でもやっぱり、それこそもう残ってない建物ほとんどだから、
39:03
どれもが代理表彰的にならざるを得ないんですよね。
で、やっぱりここでも、やっぱりかつ古いものだから、
あんまり資料としても残ってないし、残ってても、
例えば雑誌に紹介されてるとか、そればっかりやっていくと、
雑誌とか本ばっかり紹介されてる展覧会になっちゃうんで、
どうやって本物を見せるかっていうことをやっぱり意識して、
とにかく資料調査をしていった。
例えば、これは文理博士の前紙なんですけど、
彼らがシンパシーを感じていたちょっと上の世代に、
後藤圭司っていう作家がいるんです。
後藤圭司の代表作は豊田間監獄っていうものなんですけど、
豊田間監獄を紹介するのはその展覧会の中で必須なんですが、
豊田間監獄ってこんな建物でしたっていうのを、
雑誌だけで紹介するとやっぱり、
資料っていうか代表書の地味なものになっちゃう。
で、僕はたまたまその時に、
豊田間監獄で撮られた映像作品があるのを知ってたんですよ。
これは萩原作美さんという萩原作太郎の孫が映像作家で、
田間美乃先生もしてて、今前橋文学科の館長してるんですけど、
作美さんが作った豊田間監獄の映像っていうのがあるのを知ってたんです。
映像作家なんで、映像作品ですねそれは。
で、それを発掘して展示したりとか。
そうすると萩原作美の映像作品を展示してるから。
あとは、それこそ露壇の彫刻も展示したのかな。
彫刻展示したりとか。
彼らが当時構想した彫刻的な作品が載ってる雑誌ってあるんですよ。
そういったものを紹介したい時に、
確かに雑誌展示するのもいいんだけど、
何でもいいけどそれだけだと面白くないでしょ。
だから映像作品も作っちゃおうと思って。
作ったの?
CGで立ち上げて、それはね、
富良陽君っていう、僕の知ってる、
何と紹介すればいいんだろう、建築家なのかな。
あそこにいたんですよ。
芸理関係のところで、当時僕がお願いした時はまだ働いてて、
今は日本に帰ってきたんだけど。
芸理のところで芸理テクノロジーで働いてたのかな。
だからCGめっちゃ得意で。
その彼に映像作品一緒に作ろうって言って、
映像作品作ってもらったんですよ。
42:01
シナリオも一緒に考えて、
構想で彼らがいろいろ作った作品、粘土で作ったみたいな写真がいっぱいあるんですけど、
それを3Dで立ち上げるのはもちろんなんだけど、
その一つの中に入ると、
その、彼らの展覧会がその中で繰り広げられてるみたいな。
彼らの言葉と織り混ぜながら、
彼らの構想したものをぐるぐる見るみたいな、
そういう映像で結構作ったんですよ。
で、音も必要だろうってことになって。
それはね、
植村…あれ?植村洋一さん?
植村…ちょっと違ったら…
OKです。
植村洋一さんってサウンドアーティスト。
やっぱり知り合いで、
以前一緒に仕事をした人がいるんだけど、
今はフィンランドかな?
彼に映像につける音を一緒に作りたいんだけど、
ということで相談をして、
実際にその分離派建築会のメンバーの一人で、
山田守っていう人がいるんですが、
山田守が設計した東海道大学のキャンパスの中にある、
東海道大学のキャンパスの中にいっぱい建物を作ってるんだけど、
その中で松前寮?
松前会館だ。
宿泊施設が中にあるんですよ。
で、そこにお風呂があるんですよ。
話がどんどん細かいニッチの話になって。
すっごい造形のお風呂があるの。
で、そのお風呂のお湯の滴る音で音楽を作ってもらった。
やば!めっちゃニッチ!
それ全然ちゃんと書かなかったからもったいなかったけど、
でもその音でポチャンとかいう音が音楽になっていくっていう、
映像につける音も作ってもらって、一緒に撮りに行って、
だから完全に映像作品だし音もアーティストだしみたいな、
映像作品としてものを作って大規模なダウンと上映したりした。
そうするとそれはある種の作品になる。
作品作っちゃったってちょっとまずいような感じなんだけど。
だからそういう、いかに本物を見せるかっていうのはやっぱり
突き詰めて考えないと、単なる建築を紹介するパネル展と何らかはなくなっちゃうから。
なるほどね。
模型があればいいって話じゃないんだよね。
そこはすごくこだわってる。
なるほど、なるほど。
次何か行ける機会があったらもとあしさんのキャリアさん、
ぜひいらっしゃってください。
見てみたいなと思いました。
後で、音声だけだからあれだけど、写真をお見せしても。
ぜひぜひ。
あとちょっと長くなってしまったのがあれなんですが、
最後にモントリオールの話も聞かねばならぬと思っております。
45:03
1年間行かれていて、みんな気になってるんじゃないかなと思うんですけど、
実際どうでしたか?モントリオール。
新鮮でしたっていう感想に端的になるんだけど、
組織も違うし、やってる活動も違うし、
ああいう組織って世界でもあそこぐらいしかないから、
新しすぎちゃって。
何が違いましたって話というよりは、
全部新しいことでしたって感じなんだけど。
そもそもなんでそこに行く機会になったんですか?
どんなことになったんですか?
CCAは、僕はずっと学習士の頃に建築の展覧、
美術館に潜り込みたいなって思った時に、
たまたまCCAの存在を知って、
その頃は僕はCCAは展示施設だと思ってたんです。
実際違うんですけど。
その頃から建築出身で、
美術館とか博物館とかで見れるんだったら、
CCAってちゃんとフォローしとかなきゃなと思ったのが、
25、6、4、5の時かな。
そこから興味持って、
2014年のベネチア・ヴィエンナーレに関わって、
ベネチアも行ってたんですよ。
その時にキュレーターを務めたのが大高岩さんということで、
大高さんはよくCCAと仕事してるんですよね。
そこからCCAに興味があるんですって話をしてたら、
小澤さんが機会をくれて、本当にありがたかったんですが、
ジア・ザ・アーキテクト展っていう、
CCAでやった展覧会のお手伝いをさせてもらった。
その中で藤森テルノブさんと堀田芸師さんがやってた、
建築探偵団っていうのを紹介するっていう、
CCA側のリクエストがあって、
調査をやってくれないかっていうのが大高さんのところにあって、
僕がさらに下請けっていうか、
大高さんと実際にやったんだけど、
藤森さんのところに行って話聞いたりとか資料調査したりとか、
その時トマソン、
土壌観察学会も紹介したりとか、
松田哲夫さんっていう人のところに行って、
いろいろ話聞いて資料を見せてもらって、
最終的に僕の方で取りまとめて、
CCAに資料を送ってみたいなことをやったんです。
その時から繋がりができたから、
CCA行きたいんです、とか言って、
そのジア・ザ・アーキテクト展のキュレーターをやってたのがジョバンナっていう女性で、
その彼女に言ってたんですね。
48:00
でも、行くにもCCAもそんなスカラシップないし、
僕も何かで行かなきゃいけないから、
例えば行くとしたらポーラとか文化庁のお金とか、
で、何かのお金取って、
で、あっちはいいよって言ってくれたんで、
だから行こうと思って、
で、僕女性金取らなきゃなと思っているうちに、
狂気味の仕事が決まっちゃったんで、
とりあえず今はこっちに専念しようかなと思って、
狂気味の仕事は5年任期だったんで、
5年の任期を終えるタイミングでCCA行けるように、
女性金の申請とかして行ったっていう。
結構計画してたんだ。
長い計画があったんですね。
その間にジョバンナはまさかの館長になり、
僕がいた時は館長だったんだけど、
大変遅いんだったけど。
でもその存在を知ったのが24、10年前ぐらい?
そう、割と早かったと思う、あの時は。
他の人より。
なるほどね。
でもなんかいろんなところにアンテナを張って、
今すぐにではなくても、いつかみたいなこう、
伏線があっての、今の元橋さんなんだなと思って。
割と執念深くCCAを狙ってました。
そうなんですね。
CCAは何人ぐらい?
CCAは思ったよりもでかい組織で、
なんだかんだ100人ぐらいいるんですよ。
そうなんだ、意外。
何が全部新鮮だったって、
CCAの話は全然できてなくて申し訳ないんだけど。
CCAって、外から見ると展覧会やって美術館みたいに見えるし、
あるいは本もいっぱい出してるから、
出版社のようにも見えるし。
なんですけど、実際には結構やっぱね、
研究機関っていう側面が強いんですよ。
で、夏場はね、いろんな予算を持っていて、
短期で研究者をどんどんどんどん招いて、
で、CCAの資料を使わせて研究させて、
あとCCAってアーカイブ組織でもある。
そうなんだ。
大量の資料を持ってるんですよ。
建築資料。
アルドロッシュとか、
あとはゴードン・マッタークラブの資料も大量持ってるし、
あとはセドリック・プライスとかね、
いろいろ持ってるんですよ。
日本の洋商へのアーカイブも持ってるしとかね。
ただそれ持ってるんだけど、
それやっぱり手使わせないと、
その資料の価値って再発見されないから、
研究者に見せて、で、研究させて、
それをいろんなところで出版。
日本にはCCAで出版するし、
で、研究した成果はその場でシンポジウムで発表させるとか、
夏場は本当にいろんな人来てて、
世界から。
で、YKKもそういう予算持ってて、
YKKがCCAにお金渡して、
51:00
CCAがあの研究所と一緒に、
研究者5人か、3人だったかな。
ちょっと忘れたけど、3人かな。
招聘して、
研究させたりとか、
とにかくいろんな予算を持ってる。
いろんな予算で来てる人たちがいて、
そういう人たちをオーバーラップしながら、
ずっと夏はワイワイしてる。
へー、楽しそう。
そっか。
だから本当にいろんな人と知り合えた。
それだけで財産ですよね。
そこで何をするかっていうのもそうですけど、
誰に会ったかみたいなところも。
そうなんですよね。
僕、杉田さんみたいに、
学部も院も博士も2本だったから、
言ってあんまり海外のコネクション少ないかったんですよ。
でもCCAにいたら、
たくさんの人が自動的に来るみたいな。
だからあんなところなかなかないんじゃないかなと思うけど、
そうなんですよ。
だからハブなんですよね、あるしね。
そこは大学でもないし、CCAって。
でも予算を持ってるからいろんな人が来て、
いろんな成果を落としていくっていう。
なるほど。
なんか印象に残っているエピソードとかありますか?
印象に残っているエピソード?
印象に残っているエピソードなんだろうな。
すみません、難しいな。
でも、博士課程の学生たちのプログラムっていうのもあって、
で、博士書くためにみんな、
博士論文の調査のためにCCAの資料を使いたい学生があるときに
バッと来るんですよ。
で、本当に年齢も様々で。
海外の博士課程の学生って。
まあ日本もそうかもしれないけど。
様々で。
で、みんなで全然テーマ違うんでやってること。
もう古い。
CCAの中で言って現代建築から古い西洋建築まで様々なんで。
みんな全然違うんだけど、
そこで博士課程の学生たちだけと、
あとCCAの緊急支援をしているスタッフとか、
あと僕も加わらせてもらったりとか、
あとは長期でいる、すごく仲良くなった、
エストニアから来た研究者がいるんだけど、
何人かそういう、なぜかいる、CCAになぜかいる人たちと、
20人くらいかな。
10人くらいだったかな。
そんな多くなかった。
で、全然テーマ違うんだけど、みんなで質問し合うみたいな。
楽しそうだな。
だから、僕は言語の壁もあって、なかなか最初は難しかったけど、
でもやっぱりすごい刺激になりましたね。
なるほど。
帰国されてまだ数ヶ月目?
いや、22に帰国したから、
やばくない?
12?2週間?経ってない。
本当に?そっか、そのタイミングよくあえてよかったです。
54:03
次の目標とかあったりしますか?最後に。野望?
野望はね、常にあるっていうか、
今やっぱり建築の展覧会って日本では多いんですよ。
でも建築のクリエイターは実際安くないんですよ。
で、建築を専門とする館は国立金園で建築シール館っていうのがあるんだけど、
あそこはアーカイブなんで、なかなか自由な展覧会もできるんですよ。
で、一方で昔から建築博物館を作ろうっていう機運はあって、
それは実際にはうまくいかずに、なかなかうまくいかないであろうと思うんですよ。
で、僕も実際建築博物館にはあんまり興味ないんですよ。
そういう資料を守る場所っていうのは必要だろうし、
国立館みたいなのがあったらいいのかもしれないけど、
そういう資料を預かるところは別にプライベートでも地方の美術館、博物館でも
転在していれば別にいいから。
なんか大きい組織ができる必要はあるのか。
そういう予算がついてできればいいんだろうけど。
僕はもっと興味あって、自分はそうしてるつもりっていうか、
それを切り開いてるつもりではあるんだけど、
いろんな美術カテゴリー、日本画とか洋画とか工芸とか、
現代美術写真版がありますね。
で、美術館とか行くと常設展ってあるんですよ。
常設展で大体その観覧を持っている強みとして、
文や日本画、洋画とかいうのが順路をたどって、
このセクション、このセクション、このセクションみたいなのが回ってきますよね。
そういうのってあるじゃないですか。
その常設展の中に建築っていうのが入る観を作りたいっていう感じ。
建築だけの観はできればいいんだろうけど、
できればいいっていうか、僕はそこにはできたら嬉しいねって思うけど、
僕自身はそこにふたつある興味はあんまなくて、
やっぱり他の分野とフラットに建築っていうセクションがあるといいなって思うんですよね。
だって昔だって工芸っていうのは美術じゃないとか言われて、
美術館から占め出されてたわけだから。
やっぱりそういう美術館の中にそういう場合は席もなきゃいけないし、
資料もなきゃいけないし、
そういうタイトな立場になるポジションも必要だし、
57:00
いろんな条件が揃わなきゃいけないんだけど、
僕がそういう館の中に所属して建築系を得た、
特立されて活躍される方もいっぱいいるけど、
僕があくまでも組織に所属したいな、そういう理由なんです。
なるほどね。
そっか。
所属して、大きな組織に所属しないとできないこととかもたくさんありますもんね。
なるほど。
野望としてはちっちゃいのこっちの方がよくわかんないけど、
それです。常に目指してるな。
なるほど。
じゃあちょっと次の活躍も楽しみです。
ありがとうございます。
今日帰国されたばっかりで、これから報告会とかもぜひやっていただけたらなと思うんですけど、
一番最初に帰国されて、そんな話をキャッチできたのは良かったかなと思ってます。
超早いですね。最速です。
京都に戻ってくるときは、ぜひ浄土寺に戻ってきてください。
はい、ありがとうございます。
はい、ありがとうございました。本橋さんでした。
いやいや、今日は呼んでいただいてありがとうございました。
ありがとうございます。
グッドニュース・フォーシティーズでは毎週新しいエピソードを配信しています。
次回もお楽しみに。
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