単管がダーって組んであってそこは伸ばれるようになってたりとか、とりあえずスケールがなんかでかくてハードだから。
でも実際の厚子さんはとてもポップな感じというか。
ポップな感じ。いい風に言ってくれたねずいぶんね今ね。
でもその家を切ったり回したり、そういう作風というかそういうことにチャレンジし始めたのはいつ頃で、それはきっかけとしてはどういうものだったんですか。
えっとなんだろうな、最初に日本画をやってたって話をしたんだけど、
あの日本画、武蔵野美術大学っていうところの日本画をやってて、
そこはなんか日本画って結構ねなんか素材論みたいなのが大事になってきて、その日本画の定義ってなんだろうみたいな話もあるんだけど、
一ついろんなねその政治的歴史的文脈があるんだけど、
一つ言いやすいのがその岩絵の具とかに皮を使って書くっていう素材論的な側面があったりもして、
まあそれ使って日本画になるかってわけでもないし、他の材料使ってたら日本画じゃないんかって言ったらそういうわけでもないんだけど、
まあ簡単な括りとして日本画といえば、自分で煮革っていう要するにゼラチンみたいなやつをふやかして溶いて、
それに岩を砕いたザラザラとしたような岩絵の具っていうのを溶いて、
それで絵を描いていく、それこそ和紙とか絹に描いていくっていうような、
まあステレオタイプって言ったらあれだけど、そういう基本的な考え方もあって、
まあそういうのがあるから、大学生もその素材を研究するんだよね最初。
自分でその石を砕いて絵の具にしてみるとか、泥を集めて、
それを煮立てるじゃないけど乾燥させて、それを絵の具にするとか、
私も頑張りたいみたいな気持ちだけはあったから、誰よりも大きい絵を描こうとしてた時期があったの。
だから大きいパネルとかを一生懸命作ったりとか、変形のパネルとかを作ったりとかしてたのもあって、
で、壁みたいなものもすごい好きだったから、
なんかそのパネルから結構壁に派生していって、この壁に直接描いたりとかするのをだんだんするようになってて、
で、何つうの、絵画ってさ、上手な人の絵っていうか、いい絵って絵に力があってさ、
絵の中に取り込まれるような力があるじゃないですか、わかる?
それでうちの日本画の先生とかも、ご自分の絵画世界を構築しなさいみたいなことを言ってたりとかして、
絵画世界ってさ、上手な人じゃないとできないわけ。
私はそれがあんまりできなくて、だからその絵画世界に引き込まれるような絵画世界は作れないから、
絵画の方を世界に出してくると、なんかの効果が得られるんじゃないかと思って、
それこそ壁とか床とかに描き出して、そのうちなんか自分で壁を作るようになったり、
空間の中に絵を点在させるようなものをしてたんだけど、
なんか一回すごい失敗した時があってね、なんかすごいそれがうまくいかなくて、
もう本当に絵はダメなんだと思って、そこで一回ズドーンと落ち込んで、
その後作った作品がインスタレーションの壁っていうタイトルの、
自分のベッドルームの壁を大学の校舎にぶっ刺すっていうだけの作品なんだけど、
これを日本画の卒業制作として出しちゃったので、絵筆を一筆も使わないインスタレーション作品を出しちゃって、
そこで先生方の評価も割れて、評価的にはすごい低かったんだけど、
そこがインスタレーションの始まりかな、インスタレーション作品として舵を切ったのはそこが始まり、
そこからだね、
私がベラベラ喋っちゃって申し訳ないけど、
卒業した時点では自分のポートフォリオ的にはインスタレーション作品が一作品しかなかったから、
とにかく数を増やさなきゃと思って、どっかインスタレーションができる場所がないかなと思って探してたんだけど、
あるじゃん、オープンコールとかもあるからいろいろ出したりとかしてみるんだけど、
そもそも日本画にいたし、現代美術とかインスタレーションのキャリアの積み方がそもそも分かってなくて、
逆に有名どころのオープンコールとか出して見事に散るみたいなのを何回かやって、
そうだよねって話なんだけど、一作品しか今までやったことがないから。
やっとやれたのが、大学の近くの中学校、
普通にパブリックの中学校なんだけど、そこの校長先生がむさびの卒業生で、
学生時代にちょっとお付き合い、教職のプロジェクトでちょっと関わらせていただいたりした、
すごい理解のある学校があって、
美術の先生もすごい頑張る、すごいいろんなことをトライしたいっていう感じの先生だったから、
むさびといろいろやってたんだよね、一緒にプロジェクトを。
そこの先生に個人的に会いに行って困ってますっていう話をしたら、
教室の空き教室を使っていいって言ってくれて、
一人レジデンスみたいな感じで、別に何のインスティテューションもないんだけど、
ただ学校に通い詰めて、第2作品目の壁を作るみたいなアートをしたりとか、
例えば他の社員だったりとか他の人たちに伝えることが今までできなかったんだけど、
今回町田さんのこのプロジェクトを一度みんな経験したから、
今後こういうことをやりたいみたいな、このなんかいいねみたいなのを共有したときに周りにああああみたいな、
なるほどって言ってもらえるんじゃないかなっていう期待がありますっていう話をしてて、
なんかすごいこれアートの力、町田さんの力だったなと一番感じたポイントで、
なんかそういうこう、なんかいいねに力を与えるというか、
そのいいねって思える風景を一時的にでもみんなで作って共有するみたいなところが、
なんか魔法だなと思って、その町田さんの魔法を見た感じがした。
すごい素敵。ありがとうございます。
そうなのよね、なんかそれの言葉とかってさ、
意外と私それこそ、普通に美術作品を作ってると、
そこまでフィードバックをもらうタイミングがなかったりするのね。
なんだろう、なんだろう、やっぱりみんな恥ずかしいしさ、
あんまりその心の内をさ、言わなかったりして、
なんかその、だけど今回そのインタビューをね、
してみんなに改まって話を聞いたから、
そういう宝石みたいな言葉がたくさん出てきて、
私もそれはすごくびっくりして、なんか、
なんかもちろん私は作っているし、そのコミュニケーションを取っているから、
何かが起こっていたりとか、その面白がってやってくれてるかどうかぐらいまでは
わかるんだけど、改めてこうやってカメラを向けてインタビューを撮ると、
本当にどう思っているのかっていうのをちゃんと言ってくれて、
そこにはなんだろうな、ちょっとテレとかさ、
なんだろうな、ちょっと自分、ちょっとよく言うとか、
そういうことももちろん含まれているんだけど、
今回のビデオでもね、なんかそのネタバラシみたいなのが一番最後に
あったりとかもするんだけど、なんだろう、
だけどなんだ、私もね、初めてこのインタビュー、
ドキュメンタリーを撮って、改めてなんかその作品が、
なんだろうな、ただできました、で写真撮りました。
で、なんか、なんだろうな、みんなに見てもらいましただけじゃなくて、
実際関わってた人たちがどう思ってどう変わっていくのかっていうのを
私も改めて見せてもらって、すごい感動したんだよね。
すごく今回そういう機会がもらえてよかったなと思って。
で、上手でしょ、青山監督が。
うん、上手。
すごく上手で、で、音楽もすごい素敵な方に作っていただいたので、
よくできたなと思って、
まあ低予算だったんですけど、すごく頑張っていただいちゃってっていう。