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2021-04-01 09:06

#322 意味の脆弱性

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最近の私は、「言葉」に対して不信感がある。誰かと「分かり合えた」という感覚自体が思い込みであり、まやかしの中のまやかしであると思っている。「このリンゴは赤いね」「そうだね」という会話一つとっても、赤さをまるで共有できる気がしない。まやかしを楽しむことはできても、信じることはできない。確かに、解像度が低いなりにでも言語化し、誰かと意味を共有しようとすることで、それがよりどころとなって比較的安定した関係は築ける。ところが、そんな関係を支える意味も、意味の意味の意味までたどったときには大して何も共有できていないことが露呈される。そんな現実を見たくないなら、人間関係は表面的に済ませておくのがお作法なのかもしれない。/シソフレ(思想フレンド)募集中!【秘密結社S.A.B】の活動はこちら  https://bit.ly/2P3pujF /うえみずゆうきの活動を応援していただける方は、noteマガジン【脳内議事録】をぜひご購読いただけると嬉しいです。 https://note.com/y_uemizu/m/md0e3af51acf5 

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みなさんこんばんは、上水優輝でございます。 サイコパスのラジオ、ぜひ最後までお付き合いください。
今日は意味の脆弱性というお話をしたいと思っています。 最近は言葉でね、人とこう分かり合うみたいなことに対して
期待感がかなり下がっていると。 対話についてお話しした、対話だったかな、考えるということ、対話についてお話しした
機会があったんですが、その時は自分が考えるために対話を必要としているんだ、みたいなことを言いましたけども、
そういった文脈ではですね、まだこうコミュニケーションというか、言葉を使ってね、 人とこう意味を作っていくみたいなところの面白さみたいなのを感じるんですけども
分かり合うみたいになってくると、ちょっと無理なんじゃないかなっていうことをすごく感じますね。
それは何回か前にお話しした、あまりにも未熟な、ということで言葉を使うにはあまりにも未熟なんじゃないか、私たち人間は、っていうお話をさせていただきました。
その時はね、ちょっとごちゃごちゃ話したんで、ちょっと分かりづらい回になってしまったと思うんですけども、
要は意味付けしているものとか、その意味付けしたものを聞いて、さらにそこに解釈を加えるとかっていう中で、
言葉に解釈を加える、言葉で何か意味付けをしていくっていう中で、結局個人が好き勝手やっちゃってる以上、
人と人が分かり合うっていうのは、めちゃくちゃハードルが高いんだろうなっていうことを最近思っていますね。
すごい分かりやすい話、新型コロナウイルスの評価ですね。
データを見て、これはとてもリスクの高いウイルスであるというふうに言う人もいれば、データを見た上で、
これは大したことないよねって言う人もいると。 つまり同じデータが
違うふうに見えている。何なら真逆に見えているってことなんですよね。 数字は意味を語りませんから、
数字から人間が意味を語る。その意味はその人間、データを読んだ人間によって意味が変わると。
その2つだったらディベートしてもらえればそれでいいんだけども、今度はデータを見てないのに命が危ない、怖いという人もいるし、
データを見てないのに大丈夫っしょっていう人がいる。 もうこの点でねじれてますよね。データを見て怖がっている人、データを見ずに怖がっている人、
データを見て大丈夫って言ってる人、データを見てない上で大丈夫って言ってる人、もうね似たようで似てないみたいなね、大丈夫派と大丈夫じゃない派みたいな簡単な分け方はできないんですよね。
でもっと言うと、さらにもう一本軸を加えて、自分の知人が重症化したからやっぱりこれは怖いんだ。
自分の知人がすごく軽症だったから、これ別に大したことないんじゃないか、みたいな目立つ事例を取り上げて、今度そこによった評価をしてしまう。
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だからデータを見てる見てないとかが今度またその身近な人のとかっていうね、ことでまた評価が変わってしまうって感じで、結局どれだけデータに基づいた報道をしたりとか、
軸をねしっかり揃えた報道なり情報提供したところで、みんな見たいようにものを見るということなんですよね。
で、本当の真実、コロナウイルスの真実とは何か、みたいなことは誰にもわからないですよね。
みんなが意味づけしている、一人一人が意味づけしている、一人一人が思っているだけのコロナウイルスがこの世界に存在する。
ないしはコロナなんか茶番だという人にとってはコロナウイルス自体存在していない、みたいなことが起こってくると。
前提をね、共有するっていうこと自体ができそうでできない、できているようでできていない、そんな会話がですね、
やっぱりね、改めて考えてみると、そんな会話ばっかりだなぁと思うんですよね。
エリートとは何ぞや、みたいな話をするときに、じゃあまずエリートを定義しましょうよ、とか言って、まあ前提からお話できているよねってことになるんだけども、
そこで、なんかなんだろう、工学歴でとか、どうたらこうたらで、みたいな条件をつけて、そしたらその条件をそこにいるみんなで共有して、それがエリートだと、
仮にそれをエリートだと設定した場合に、みたいな会話ってあると思うんですよね。
でも仮に設定したそれがっていう範囲が、共有できない人もいますよね。
仮に設定したんだけども、いやエリートっていうのは、とか言って、急に自分が思うエリートを言い出したりとかね、いやいや今みんなで決めたエリートを仮にエリートとしたときに、みたいなものがあるんだけども、
なんかそれをすっ飛ばしてね、自分が思うエリートみたいな話になってしまったりとかですね。
そうなると前提が擦れているので、まあ会話が成立しないよねと。
先日ですね、それこそ組織について会話をしていたんですが、ある組織に理念があって、組織図があって、社内の規則があってっていうときに、それを前提としたときにはそこの箱の中に収まる人が善であり、
それを無視しちゃう、それをなんていうのかな、ルール違反して理念に背いてってやってる人は、まあ悪になってしまうよね。
もちろんその組織の外ではそれは善悪ではないんだけども、少なくともその組織の中では善と悪があるよね、みたいな話をしていたら、
なんか善悪という言葉に引っ張られて、そのある組織の中の善悪という話だったのが、もうすっ飛んでしまってですね、この世の中の善悪になってしまう方がいたりとかですね。
そういう、何だろう、見てる抽象度とかサイズとか前提条件みたいなものを逸脱して会話しだす人がいると、やっぱり話題自体が共有できているとか共有できてないし、
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一つ一つの言葉の範囲みたいなものをあえて限定していても、その限定した範囲を飛び越されると言葉の意味が変わっちゃうので、やっぱり共有ができないと。
それは、まあ僕は比較的多分得意な方だと思うんですけども、苦手な人からすると、まあもしくはその力の差があると、
例えば僕よりもそういうのが得意な人が難しい言葉で話したりとかすると、僕もついていけないでしょうし、そういう差みたいなのがもうコミュニケーションの難しさになってしまうよねと。
意味を共有しているより共有できない、前提を共有したつもりなのに共有できないということが起こってしまって、
分かり合うってもう無理なんじゃないかなっていうふうにちょっと思っていますね。
そこまで極端な例じゃないにしても、結構前提を確認せずに会話をすると。前提を確認しても確認が甘いというか、確認がざっくりだったりしますよね。
だから結局分かり合ったようで、あんまり分かり合ってないと思うんですよね。で、その分かり合ってる率何%を目指すかっていう、もはやそこの
そこなんじゃないかなと最近は思っていますね。どうしてもピシャッと分かり合ったなって思う80点ぐらいをついつい目指してしまうんだけども、
20点ぐらい分かり合えているような感じがするなっていうのでも良しとするというか、それぐらいの目標設定にしないと
人と意味を共有していくっていうことは難しいなというふうに感じていますね。 そのプリンは私のものだとかね。
そのレベルだと結構いけそうな気がするんですけども、 そのプリンが私にとってどんな意味があってそれがどれぐらい尊いか
ということを伝えても多分きっと伝わらないんじゃないかなというふうに思ったりしますね。
こうして一方的にというかお話しするのは理解度を無視できるというかですね、聞いて分かる人だけが聞くということになるんだと思うので気楽に話せるんですけども、
やっぱり面と向かってというか相手ありきでお話をする時っていうのは伝わってるのかな、どうなのかな、相手が言ってることちょっと意味わかんないな、
これってこういうことですかみたいな、分かり合うっていう、分かり合おうとするっていうことそのものに気をすごく使うし、
使った割には分かり合えないなっていうのが最近思うところですね。
意味に頼って生きてきたんですけども、意味に今ですね、
頭を抱えているっていう感じですね。
本日は以上です。またお会いしましょう。さよなら。
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