大いなる物語の危険性
皆さん、こんばんは。上水優輝でございます。
完全招待制の晩餐会を開催したり、公園にレジャーシートを敷くなど、存在としての公園コンセプトに様々な活動をしています。
現象のラジオ、ぜひ最後までお付き合いください。
このところですね、すごく意識していることがあるんですけども、
大いなる物語から距離を取るということですね。
今時は、社会が良くなるためにとかって言って、すごく崇高なパーパスみたいなものを掲げてやっている企業だったりとか、
企業だけじゃなくてね、いろんな団体、個人も含めですね。
ものすごくインパクトの大きいことを美しく掲げて活動していると。
僕はね、それをすごく危険視していますね。
確かに、Aという問題を解決するって言って、Aで苦しんでいる人が助かるかもしれないけども、
Aという人を助けることによって、助けることによってというか、
その取ったアプローチによってBという課題が生じて、また別の苦しむ人が出てくれば、出てくればというか、出てくるんですよね。
例えば、印鑑をなくそうみたいなことをすると、印鑑をなくして苦しむ人もいると思うんですよね。
日本の人口の何パーセントが印鑑を残してほしいと思っているのか知りませんけども、一定数はいるはずですよね。
特に印鑑関連のお仕事をしている人とか、印鑑大好きな人は、印鑑がなくなったら困ると思うんですけども、
大多数の人にとって印鑑はめんどくさいから、全部デジタル化しますとかした瞬間、印鑑派の人たちが苦しむと。
何をしてもね、それはそうだと思うんですよ。本当に何をしても。
例えば、僕がどっかのパン屋でサンドウィッチを買えば、在庫が1個なくなるんで、
それが人気のサンドウィッチだとしたら、僕が買ったせいで1人買えなくなった可能性が出てくるということですよね。
という、めちゃくちゃ小さいレベルで言えば、自分が何かしたことによって誰かの機会を奪ったりとか、
そういうことって、サンドウィッチレベルでも起こるんですけど、そういうことを言っているのではなくて、
大いなる物語っていうのは、結構な人数に結構なインパクトを与えてしまうから、失業するとかですね。
その失業から連鎖して、その人が自殺して一家離散しますとか、家族がトラウマになりますとか、
分かんないけど、ものすごい犠牲者を出すことだなって思っているんですね。
それはどんな美しいものであっても、例えば地球温暖化を防ごうって言っても、
今ちょうど寒い地域が地球温暖化でちょうど住みやすくなるみたいなパターンだとすると、温暖化するとめっちゃチャンスなんですよね。
だから多くの人が温暖化してほしくなくても、ある地域の人は温暖化してほしいと思っているかもしれないみたいなね。
じゃあどっちがいいんだみたいな話をしたいわけではなくて、何かが正しいみたいなふうにして、これこそが善であるみたいなふうにして、
それが大きなものであればあるほど、その裏側にある悪みたいなものだったりとか、犠牲者みたいなものに対して、しょうがない犠牲だよねみたいな捉え方になっちゃって、
そうすると結局マイノリティみたいな人たちが、それは何におけるマイノリティかわかりませんけども、ある意思決定における多数派でない人たちっていうのが、
虐げられ、犠牲になるということかなと思うので、なるべく大きな物語には近づかないようにっていうのは僕は気をつけていることですね。
なし、そういうことを言っている人、それをちょっとがんぎまった感じで言っている人ほど、近づかないように気をつけてますね。
思いっきしビジネスとして、ポーズとしてやってますのほうがまだ、犠牲を出してるけども犠牲に自覚的であるというか、わかってやってるみたいなところもあるんで、
コミュニケーション可能な感じはするんですけども、がんぎまってですね、これは良いことなんだって言ってる人っていうのは、ちょっとやばいなと思うので、
いわゆるソーシャルグッドみたいなやつって、本当かって思ったりしてるっていうところがありますね。あんまり真似を受けてないっていうのがあります。
もう生きてるだけで何をしても誰かの機会を奪ったりとか、誰かに害を与えたりとか、誰かに加害してしまうみたいなことがあったりって、コミュニケーション一つともそうですよね。
僕が魂のしりとり、無限しりとりって言って、しりとりをしようって言ってね、やってるだけでも、
それがしりとりで回ってきた人がすごい嫌がってたりとかすると、僕が舞い立たねで誰かが嫌な思いをしてるみたいなことも起こるわけで、
その加害性みたいなものは絶対にあるかなと、何をしてもね、アクションするということが、アクションするということがっていうか、アクションしないことが人を不快にしたり傷つけたりすることもあるから、
何をどうしても人は人を傷つけたり、そんなつもりなくてもね、してしまうんだと思うんですが、
これがね、大いなる物語になると、普通に数百人死んだりしますから、ちょっとね、加担したくないなという気持ちになってしまいますね。
小さな物語の価値
そういう意味でもですね、地に足のついたことをやってる人、身近なところで精一杯やってる人とかに対しての方が、僕は好感があるというか、リスペクトが持てる。
どっかの食堂を経営してますとかって、その食堂でね、来るお客さんを満足させるために頑張ってるみたいな、そういう規模感、いいなって思いますね。
だから僕の講演活動も、僕一人でやるって決めてるのは、そういう要素も実はあったりしますね。
思い描いてるその構想みたいなものが、あまりにもちょっと抽象的すぎるので、他者と共有するのは難しいから、チーム組めないなっていう気持ちももちろんあるし、
中のコミュニケーションがすごく難しくなるだろうなっていうのがあるから、そこをショートカットするために一人でやってるっていうのもあるし、
あとは、タバになるとね、そこがやっぱりヒエラルキーみたいなものになってくるんで、それもやりたくないなというので、
シンボルとしてね、子として、そしてその子が人ではなくて場である、講演であるというような、そういったコンセプトとも連動するので一人でいなければならないみたいな事情もあるんですけれども、
それとは別にですね、スケールするようなことをやりたくないと。自分一人でできる、自分の目が届く範囲、自分が現場できる範囲で可能な最大は目指すけれども、
無茶なスケールみたいなことを考えない。地に足をつけて、小さな物語の中で、存在としての講演が社会をひっくり返すなんて1ミリも思ってませんけれども、
せめてそこを利用する人たち、一人一人が、全員がってのは難しいかもしれないですけれども、なるべく多くの人が満足していただけるような場を作るということにフルコミットすると。
別に社会を変える気はないけれども、来てくださった方に講演のような場を提供するということにはコミットしたい。
そういった小さな物語を一人一人が頑張っていれば、その小さな物語と小さな物語が織り重なって結果としてできるのが社会みたいな、そういう感じの方が民主主義っぽくていいなって僕は思ったりしますね。
最後のメッセージ
トップダウンで大きな物語を振りかざす人らっていうのは、やっぱり信用ならんなと思っています。そういう人が、もしこのPodcastを聞いていたらすみません。本日は以上です。
最後までお聞きいただきありがとうございます。減少の活動を応援してくださる方は、減少メンバーシップ、存在としての講演にご登録いただけると嬉しいです。
概要欄にあるリンクから詳細をご確認ください。減少の講演活動を継続、発展させていくためにぜひよろしくお願いします。
それではまたお会いしましょう。さようなら。