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  2. #226 選択的幻
2020-12-26 13:33

#226 選択的幻

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今年は本当に年末感が感じられない。「2020年が終わる」なんて実感がまったく湧かないのだ。クリスマスイブ。キリスト教に縁もゆかりもない人間とはいえ、小さい頃からこのイベントに参加してきた。貧しい実家の食卓が一時的に豪華になり、ホールケーキが用意され、枕元にはプレゼントが届いた。サンタがお亡くなりになってからは、ひとつのパーティとしてクリスマスを楽しんできた。2019年は「福岡クリスマスマーケット2020」のCMのエキストラとして、彼女役の女性とホットワインで乾杯とかやってはしゃいでいた(2020年は予算カットでCMはお蔵入りになったらしい)。そんなクリスマスも、今や「え?今日クリスマス?」というテンションである。相変わらず、私は作務衣を着ている。/サイコパスのラジオは、サイコパスがサイコパスの視点で語るラジオです。斜め上の視点に触れたり、サイコパスについての理解を深めるきっかけとなることを目的としています。/パーソナリティ:うえみずゆうき /【脳内議事録】というマガジンをやっています。https://note.com/y_uemizu/m/md0e3af51acf5 【脳内議事録について】「本音は傷つく、高くつく。」毎日更新のエッセイ。認識の解像度を上げるための思索の旅の記録です。うえみずゆうきの考えたことのすべてがここにあります。ご自身の考えと対比させながら、人生観を磨き上げていくきっかけの1つにしていただければ幸いです。マガジン購読者限定の特典として「サイコパスの裏ラジオ(音声)」と「月例反省会(動画)」も毎月プレゼント。ぜひ購読ください!

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みなさんこんばんは、上水優輝でございます。
サイコパスのラジオ、ぜひ最後までお付き合いください。
今日は、選択的幻というお話をしたいと思っています。
今年は本当に年末感がないなぁと、年末っぽいなぁって感じがしないし、
クリスマスでしたけども、クリスマスだなぁって感じが全くしませんでしたね。
とにかくそういうイベントとかその時期みたいなものですね、
季節感みたいなものを感じることができなかったですね。
もうすぐ今年が終わるみたいな実感は全くないと。
で、クリスマスといえばというかね、
クリスマスはなんだかんだね、別にキリスト教徒ではないんですが、
日本人ってクリスマスなんかいろいろやるじゃないですか。
僕も生まれて記憶がある頃から家ではクリスマスパーティーというか、
クリスマス会というか何て言うんですか、クリスマスをお祝いしてましたね。
なんか貧しかったんですけども、クリスマスだとすごくいいちょっと豪華な食事が食べれて、
ホールケーキがあって、枕元にプレゼントがあって、
無理して買ってんだろうなみたいなのがすごいね、幼いながらに感じてましたね。
ちょっと余談ですけど、貧しい家庭って、貧しい家庭というか貧しくなくてもいいんだけども、
子供って結構自分の家庭の懐事情っていうのは、数字がわからないだけに余計に空気で感じ取るっていうのがあって、
特に貧しい家庭って貧しいっていうことを結構強調したり、
かつそれをやりながらもイベントごとでは抑えてくるみたいな、
頑張っている感じとかが結構子供からするとね、あんまりいい思い出じゃないというか、
頑張ってくれてありがとうっていうよりは無理してるな、大丈夫かな、心配になるみたいなね、そういう記憶がありました。
ちょっと余談でした。
そんな感じでね、クリスマスはこんな思い出があったりとか、
学生になってくるとね、サンタはどうだろこうだろみたいなプレゼントとかじゃなくて、
友達とクリスマス会をするとか、
もうちょっと高校生とかになってくると、恋人と過ごしたいなみたいなとかですね、
そういう欲が出てくるわけですよね。
それでまた違ったクリスマス、キラキラした感じのクリスマスっていうのをやってきたわけですけども、
だんだん年重ねて30近くなってくるとね、だんだんそういうのも行くかなってなってきたんですけども、
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とはいえですね、クリスマスの時期にイルミネーションが街にあって、
比較的街の方に住んでますので、ちょっと外を歩くだけでクリスマスっていうのを感じられたっていうのが、
去年までだったかなみたいな。
去年なんかはですね、友達に頼まれてクリスマスマーケットって言って、
博多駅の前の広場でめっちゃキラキラやって、商売やってるわけですよね。
そのCMのエキストラとして、去年の2019年のクリスマスは、
それも友人と一緒にエキストラで出演して、カップル役ということで、
クリスマスマーケットではしゃぐっていう映像素材を撮ったんですけども、
本当は今年のCMで流れる予定だったんですが、
このあいにくコロナでCMなしということで遅れ入りしちゃったわけですけども、
そんな感じでクリスマスというと、イベント的に楽しんできたわけですよ。
それが今年は、今日クリスマスだっけ?みたいな感じになっちゃったんですね。
これって本当に時代の転換点とかいう言い方をしていいのかわからないけども、
あくまでコロナのきっかけではあるんだろうけども、
そういう感覚になるっていうのは、やっぱり認識の大きな変化なのかなと思っていて、
これは時代が変わるのにとても大事なひとつのきっかけなんじゃないかな、
このコロナっていうのは、改めて感じたわけです。
例えば、改めて考えると、1年が365日みたいな、
エジプト人がナイル川が氾濫する農業をするのに、
年間のサイクルを見るために太陽暦みたいなものを編み出して、
365日でしてるわけじゃないですか。
細かいことは知りませんけども、何月何日みたいな感じで、
365日が振り分けられてるわけですよね。
つまり、もともとは地球が太陽を回っているっていう位置関係を365日で表しただけであって、
別にそれが何の日とか何の日とかじゃなかったわけですよね。
もっと言うと、何月何日みたいなのはある種、
ここら辺の位置にありますよっていう、ある種の位置を理解するためのものだったはずなんだけども、
今ではですね、
今12月だから、例えば今地球が太陽に対してこの辺の位置にいるよねみたいなことって、
感じないわけじゃないですか。考えもしないわけじゃないですか。
どっちかというと、クリスマスだからちょっとなんかしなきゃなとか、
もう年末近いな、年末までに、仕事収めが28日だから28日までにこの仕事とこの仕事を終わらせなきゃとか、
28日の午前中挨拶回りで、どうたらこたらで予定が入っててとかっていう感じで、
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どっちかというと僕たちの待ち合わせによる待ち合わせのためのものになっているとか、
あと締め切りとかね、そういうものになっているなと思ったんですね。
つまり、もともとの365日の意味みたいなのが、いつの間にか僕たちが今生きていく上で、
待ち合わせの道具として使っているって感じで、本来の誕生した意味とはまた違った意味で運用しているっていうことなんですよね。
つまり、365日とか12月26日、12月27日、12月28日みたいなことには、
本質的な絶対的なこれという意味はなくて、それをどう使うかは、
結局人それぞれとかその時代時代の人たちの使い方になっちゃっているんですよね。
クリスマスなんかもまさにそうですよね。
なんか分からないけど、キリスト教にとって大事な日なわけでしょ。
でも日本人からしたらキリスト教徒って相当少なくて、
別にそのキリスト教的な文脈でクリスマスを楽しんでいる人ってほとんどいないと思うんですよね。
ざっくり言うと、消費を煽られる日みたいな感じなんじゃないですか、経済的な面から見ると。
もっと個人的に見れば、僕は最初は家族と過ごす日だったのが、
もっと言うとサンタからプレゼントをもらう日だったのが、家族とコミュニケーションする日になり、
だんだん友達と遊ぶ日になり、恋人と過ごす日になり、
なんか分かんないけど、キラキラしてるなーっていう日になり、
クリスマスの意味そのものも、僕個人の中でもずっと変わり続けているわけですね。
何なら今年に関しては、平日だったなと。何でもない12月24日だったなって思ったんですね。
そんな感じでクリスマスそのものの意味みたいなものは、
もちろんそれが誕生した意味自体はもちろん変わってないけども、
運用されていく上でというか、一人一人で捉えているクリスマスっていうのは、
ものすごく多様性があるなと思うんですね。
そう考えるとね、いろんなものって幻だよねって思うんです。
例えばミッキーマウス、中国のミッキーマウス見たことありますかね?
中国のミッキーマウスとか調べてみたら分かるんですけども、
結構ね、すごいブサイクなミッキーマウスが出てくると思うんですけども、
なんかこれって別にディズニーの本来のミッキーというか、
夢の国的な文脈とはかけ離れた地獄絵図なんですけども、
でもなんかミッキーなんですよね。
ミッキーと言われればもうミッキーだなみたいな。
違うよって思うんだけどもミッキーだなみたいな感じで、
矛盾してるけども、違うんだけども同じみたいな。
そういう感覚なんですよ。
クリスマスだってそうじゃないですか。
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キリスト教的なものを捉えてる人もいれば、
ロマンチックなデートの日と捉える人もいればみたいな感じで、
同じことに対して全然違う文脈が交差しあっているみたいな感じで、
結局は幻と幻と幻の交差点で現実みたいなものがあるんだろうなと思うわけです。
つまりね、あらゆる物事は幻であるということなんですよね。
あらゆることが幻ってクリスマスの捉え方の話じゃないかって思ったかもしれないんですけども、
例えば友達がいます、あなたの友達がいますと、
その友達とすごい喧嘩して、それから嫌悪になって、
友達じゃなくなったというパターンがあったとしますよね。
その時に考えないといけないのは、
じゃあその喧嘩したとか、嫌悪の中になったとか、
だんだん友達じゃなくなっていったみたいなことを言うんだけども、
じゃあどのタイミングまでが友達で、どこから友達じゃないのかみたいなのは難しいですよね。
激しい喧嘩をしたタイミングなのか、それとも嫌悪の中になったタイミングなのか、
それとも連絡も取り合わなくなったタイミングなのかっていう、
もっと言うと喧嘩をするきっかけになったその手前のフェーズもありますよね。
ムカついてくるきっかけとなった出来事とか、
蓄積していったそのプロセスみたいな。
っていう時間軸で見ると、点で捉えることはできなくて、
結局どこで友達じゃなくなったのかみたいなことは、
むちゃくちゃ判断しづらいんですよ、その細かい認識で見るとね。
もっと言うと、
それって友達っていう前提じゃないですか。
じゃあいつ友達になったの?って。
出会った瞬間友達だったのか、もっと言うと、
出会うってどこが出会いなのかって話ですよね。
初めて声をかけたのが出会ったのか、
相手の存在を認識した時が出会っていたのかっていう感じで、
結局言い出せばキリがなくて、
結局その友達とか言ってるけども、
じゃあ何を持って友達としてるのか、
いつどこで何のために友達としてるのかみたいなことの連続なんですよ。
だから友達にすらなってない可能性がある。
友達じゃなくなったって思い込んでるけども、
それは思い込みなんですよ。
つまり友達というふうに思い込んでいったものが
友達じゃないというふうに思い込み始めたという話であって、
友達だったわけでも友達じゃなくなったわけでもなく、
友達という思い込みを持って、
そして友達という思い込みを持たなくなったという思い込みの世界。
信仰の世界なんですね、もう宗教みたいな世界なんですよ。
つまり自分が信じたものをただ信じてるだけであって、
私とこの人は友達であると、
私は信じているみたいな世界でしかないのですね、いろんなものが。
例えば
なんだろう 僕が今テーブルの上にミネラルウォーターがあるけども
このミネラルウォーターがちゃんとね
そんな変なものが入ってない安全な水だと思って飲んでるけど
例えばここにね ものすごい30年後ぐらいに
なんだろうな すごい体のダメージを与えるような
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時差を持ってね 毒を与えてくれるものが入ってるかもしれないんだけども
自分はこの水を安全だと信じて飲んでいるわけじゃないですか
例えば今すぐ飲んで今すぐ死ぬとかだったら確かに毒ってわかるけども
30年後それが効果出ますよ あのなんだろうな 害が出ますよって言われたら
今判断つかないから
結局はその自分がその水が安全と思うか思わないかみたいな
信じて飲んでるだけだから
全てはね 自分の認識の中の信じるみたいな
信仰みたいな話になっちゃうんですよ
つまり幻なんですよね全てはね
で全て幻だから全ては無意味だとか言っちゃうと
まあなんかすごい辛くなっちゃうと思いますんで
お勧めしたいのはですね
全ては幻という前提に立った上で
自分が信じたい幻を信じて生きていけばいいんじゃないかなというお話でした
もちろんねその信じ方が何だろう他の人迷惑をかけるような信じ方だと
圧力も生まれるんだけども
まあね程よい圧力というかまあ許容範囲
許容できる範囲の圧力っていうのはねもうしょうがないと思いますんで
自分が信じたいものを信じて生きていくってことが大事なんじゃないか
選択的にね幻を選んでいくと
幻を選んでちゃんと幻に対して自覚的になって
自覚した上でですね幻を選択していくってことが重要なんじゃないかなというふうに思うところでございます
本日は以上ですまたお会いしましょうさよなら
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