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2025-06-04 23:10

#369_予習をしない自由と、話をふくらませる自由

▼今回はこんな話!

このエピソードでは、主にIT企業のスケールとリバタリアン思想の変遷、そしてそれに伴う自由と平等の相克について語られました。

  • まず、ポッドキャスト「ゆるコンピューター科学ラジオ」の「巨大IT企業はなぜ邪悪にならないのか」という回が紹介され、そこで取り上げられたリバタリアン的な思想で始まった企業(AmazonやeBayなど)が、規模(スケール)が拡大するにつれてその思想から離れていく現象が議論の中心となりました。

  • eBayやメルカリといったフリマサービスを例に、ユーザー間のトラブルが増加することで、ルールが追加され、プラットフォームが中央集権化していく過程が詳細に説明されました。これは、規模が大きくなると不正や問題行動が見過ごせなくなるため避けられない現象であるとされています。

  • 構成員の多様性が増すことや、一定の規模を超えると、構成員の質に関わらず強いルールが必要になるという点が強調されました。

  • リバタリアン思想は本来、ルールやガードレールが少ない状態を好むものですが、現実にはスケールに伴い思想が変わる事例も存在することが示されました。

  • 自身の会社経営の経験から、評価制度がない状態から、人が増えるにつれて評価制度が必要になるなど、リバタリアン的な思想を諦めざるを得なかったエピソードが語られました。

  • これは自由と平等の相性の悪さに起因する問題であり、社会には思想的な成熟度が異なる人々が存在するため、同じ自由や平等を等しく適用することに無理があるという考察がなされました。

  • リモートワークにおける自由のグレード制に関する議論や、システムや仕組みが平等化を推進し、自由な発想やパフォーマンスを出しづらくするという点が、イノベーションのジレンマに類似していると指摘されました。

  • また、信用力や能力によって自由を享受できる度合いが変わるという社会の傾向も言及されました。

  • 哲学者のアイザイア・バーリンによる自由の二分類(消極的自由と積極的自由)が紹介され、自身は「~からの自由」である消極的自由を重視する傾向があることが語られました。

終盤では、テレビやYouTubeのようなメディアの変遷と、規制強化に伴うクリエイターの移動が、リバタリアン的な運動の繰り返しであるという視点や、大規模プラットフォームでの多様性の維持の難しさ深夜枠のような「抜け道」がなくなった現状についても触れられました。

▼紹介されていたもの

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サマリー

このエピソードでは、Ebayやメルカリなどリバタリアン的思想から始まったサービスが成長する中で直面する課題について論じています。また、予習をしない自由や組織の規模による変化にも触れています。さらに、リバタリアン思想と資本主義の関係についての議論が展開され、自由と平等という相反する理念がどのように職場に影響を及ぼすかが検討されています。自由のグレード制の必要性とその影響についても言及されています。加えて、自由の多様性や哲学的議論、特に消極的自由と積極的自由の違いについて深く掘り下げ、文化祭の例を通じて自由の概念に関する葛藤や側面が考察されています。

リバタリアン思想とサービスの成長
まさにその話です。
これもう始まってるけど。
もう始まっていいの?
なんかあの、ゆるコンピューター科学ラジオって聞いてます?
ゆる言語学ラジオの。
堀本さんのスピンオフみたいな。
そうそう、スピンオフっていうか、登場人物と同じなの。
あ、そうか。
逆サイドみたいな。
そうそう、言語学に詳しい、あっちのあの眼鏡のさ。
水野さん。
そうそう、水野さんじゃない方の、堀本さんの、
彼はコンピューターサイエンスをもともと大学で専攻されてたはず。
で、彼がコンピューターとか、コンピューターにまつわる知識をもとに水野さんを教育するっていうのが、ゆるコンピューター科学ラジオだったかな。
で、僕そっちの方よく聞くんですよ。
ゆる言語学ラジオはたまにしか聞かないんだけど、コンピューターの方は結構聞いてて。
で、それで取り上げられてたのに、172回巨大IT企業はなぜ邪悪にないのかっていう回があって。
これその番組なんだ。
そう、それがね、めっちゃ面白かった。
てか、ヒカルさんも絶対好きな内容だったから、もし時間あったら聞いてほしいんですけど。
なんかそこで取り上げてた本があって、本のタイトルがですね、何なんだろう。
何個か出てるわ。何個かあるんだけど、僕が読んだのはリバタニアンが社会実験してみた街の話っていう。
これ買ってみたんですよ。で、ちょっと読んでる最中で。
ただ取り上げられてるメインの方はそうじゃなくて、どっちかというとIT企業。
例えば名前で言うとAmazonとかEbayとか、こういう会社が、特にEbayかな。
Ebayがいわゆるリバタリアンな思想で始まった事業とか会社なのに、どんどんどんどんスケールすればすればするほどリバタリアンじゃなくなっていって、
最終的に創業者はもうこんなの俺の会社じゃないって言ってやめてくっていう。
ほとんどあらゆるいわゆるリバタリアン的な思想で始まったサービスとか、
コミュニティみたいなものがスケールに伴って同じ結末をたどるってことについて語られてるやつなんですよ。
これ我々多分身に覚えがある話に近いと思ってて。
ちょっとそのEbayの話。
全然この話好きじゃないけど続けてくれ。
好きじゃないの?
全然好きじゃないけど、もっと詳しく。
何ですかね、例えばEbayって中古品を出品して、セラーがいて、バイヤーがいて、
それをセッて買って届けるみたいな、そういうサービスなんで、
今の日本でいうとメルカリみたいなサービスの類だっていう風にできるんですよね。
そうなんですけど、初めの方は出品者も自分の中古のこんなものに値段がつくんだって楽しくて出品するし、
買う側もこんなお買い得に買えるんだってやっていてすごく平和でしたと。
なんですけどスケールしていくと、例えば元品が紛れてたりとか、
あるいは振り込みを先にさせてるのに物が届かないとか、そういうトラブルが起きてくるんですよ。
そうすると何をするかというと、ルールとか機能が増えてくるんですよね。
例えば必ず入金確認が終わってからじゃないと発送しないとか、あるいは評価をするみたいな。
この人はいいセラーでした、いいバイヤーでしたみたいな、両側の評価をすると。
ただこれもスケールしていくと、例えば評価を集めるっていうことをハックし出すやつが出て、
必ずいい評価を集めてるんだけど、裏ではさっきみたいな法の抜け道を縫って悪いことするみたいなことがどうしても起きてって、
簡単に言うとイタチごっこになってしまうっていう。
これってどこでもある話やなっていうふうに思ってて、特にメルカリとかも、
例えばの原品の出品みたいなものが問題になって、それを禁止したと思ったら、
今度はそれを折り鶴にして、これを鶴ですみたいな出品があったりとか、
ずっとイタチごっこをしてせざるを得ない状況になったりするじゃないですか。
でも多分元々の創業者とかサービスが成り立つ初めの頃って、もっとピュアな形で始まってて、
そのピュアな時っていうのは基本的にはルールなんてそんなに多くない方がいいし、
ルールが多ければ多いほど複雑になっていくしユーザー体験も落ちていくから、
ユーザー体験市場主義的に始まったサービスって基本的にはリバタリアン的というか、
基本的には市場の原理に任せればうまくいくって発想でやるんだけど、
どんなサービスもUberとかも全てがスケールしていくと、それじゃ回らなくなって、
非常に中央集権的なルールと法の運用みたいな形でサービスとかマッチとか運用されていくっていう、
ここから人は逃れないのか、逃れられないのかって、なんかそういう話なんですけど。
ユーザー体験の変化
全然好きじゃないけど、もどかしく。
好きじゃなかった?
いや、ちょっと延々話しててもいいよ。好きじゃないけど。
好きじゃなかった?
好物かもしれない。
僕はここまでなんですけど、ネタとして持ってきたのは。
終わった?はい。
ネタとして持ってきたのはここまでで、むしろなんなら事前に、
これヒカルさんも好きだから聞いといてほしいなぐらいの気持ちでスラックに書いといて、
ヒカルさんは予習ゼロで今来てる。
予習ゼロ。
感想発表会してよ。
やば。
それは本当その通りじゃないですか。
やっぱその通り?
メルカリの話みたいな話をしたけど、
俺はサービスもそうだけど、組織としても結構そう思ってるから、
むしろヤモトが組織について悪口言ってるなみたいな。
そんなこと言ってないよ。
メルカリも組織的にすごいリバタリアンというか、
自由でノールールみたいなところから始まったんだけど、
やれ自販機はタダでジュースはいかでも飲めるけど、
そういうのをやっぱり人が増えると好きなだけ買うというか、
ボタン押して全部持って帰るとか、お家にあげるみたいなやつがたくさん増えてくると、
じゃあ自販機ってタダじゃない方がいいんじゃないかみたいな話ができたりとか、
ルールが厳しくなったりとかしていくわけじゃない?
そういうのってやっぱり避けられないよね、とは思うんだよね。
結局、構成員の選択みたいなものをどれくらい行うかっていう気がしてて、
構成員が増えてそこに多様性みたいなものっていうのがすごく増してくると、
そこで起きてくる不祥事というか、
予期せぬ、あまり具合がよろしくないことみたいなものを、
それを見過ごせなくなってくるっていうところにあるんだよね、規模がでかいと。
だから多分人数が少なかった頃のメルカリとかも、
そういう不正みたいなものとかっていうのは全然増してると思うんだよね。
サービスの意味もそうだし、組織もそうだし。
規模が大きくなってくると0.1%しか起きてない、そういったものっていうのを、
いろんな意味で放置できなくなる。
それっていうのは0.1%でも十分な件数になってくるっていうのと、
あいつらがそれしてる意味だったら、俺たちなんでこのルールに従うみたいなことを言わせると、
結構厳しくなってくる。
本質的には規模が増えてくると、
あと構成員みたいなものっていうのを自分たち好きに選ぶ権利みたいなものっていうのが
増えるように失われてくると、開けられない問題なのかなみたいな気がします。
なんかもうもはや構成員の品質に問わず、
例えばすごく誠実で真面目な人でも、
1700人とか2000人とかの一定の規模を超えたら、
とりあえず不正は絶対に起きるし、
構成員の品質を問わずに、
もはや強いルールみたいなのが必要になるっていう感覚があるんですよね。
自由の制約とルール
確かに。どれくらいの人数だったら。
どうなんだろうね。
でもやっぱそれは。
なんか事情作用みたいなのが働く限界みたいなのがあるのかなと思ってて。
あるとは思うけど、
でも同じ人口が15000とかでも、
やっぱ葉山みたいなところに住んでいる15000と、
そうじゃない貧民街、スラムみたいなところに住んでいる15000って、
結構必要なルールみたいなのが違うイメージはあるから、
もちろんどんなに強い大規模人数でも、
ルールがゼロじゃなくていいっていうのもあるけど、
そこに必要な違いはあるのかなって感じは。
必要なガードレールの本数は構成員の品質で変わるかもしれないですね。
でも確かに人数増えるとガードレールがゼロでは済まないっていうのは。
ゼロは無理みたいな。
リバタリアンって基本的にガードレールない方が一緒みたいな。
本当でもそうだよね。
そういう感じで。
リバタリアンってシートベルトをしなさいっていうやつ自体も、
基本的には彼らのポリシーからするとNGみたいな感じで、
自分の生き死にみたいなものを、
そっち側が押し付けてくるのって結構おかしくて、
俺が死のうがお前に何か関係あるの?
その関係ないことに対して、
シートベルトっていうルールを課してるっていうことに対して、
自由を損なっているねっていう主張。
この話の面白いのは、
最終的にスケールをしてって、
例えばリバタリアンが始めたサービスとも言い心地が悪くなっていくと、
リバタリアン思想と歴史
リバタリアンの人たちもそこで初めて気づいて、
思想ごと変わるみたいな事例も全然あるっていうのも面白いなと思って、
単純に見えてないからその思想であるみたいな。
見えてないというか、経験してないからっていうケースもめっちゃあるんだろうなっていう。
そうだね、どっちかっていうと、
そっちの方、人の方が過剰反応するんじゃないかな。
なんとなくするけどね、そのピュアな思想を持っている人の方が、
フランス革命とかでも割とその革命派だったロベス・ピエールとかが、
自分の思想に染まらない奴を全員ギロチンにかけていったりとか、
まあまあ歴史的には有名だったりするけど、
俺も結構そういうところある。
思想にピュアだから、染まらない人に対しての怒りみたいなのって結構強いタイプだから、
分からんではない。
てか僕も実学的には多分リバタリアンよりの思想に近い。
勝った。勝ったけど無理ってなったタイプだなっていう風に自己認識してる。
なんか、いやない方がいいっしょみたいな。
人々が自立してりゃオッケーっしょみたいなのが思うんだけど、
早々に限界が来るなみたいな。
その時に選択肢はあってもいいかなと思ってて、
リバタリアン的な主義で回る規模にもう一度戻るみたいな。
戻るとか、そこまで撤退をするっていう話も世の中的にあってもいいかなみたいな。
でもこのさっきの事例の面白いのは、基本的に資本主義って加速主義じゃないですか。
成長主義というか。成長主義とリバタリアンって基本的には。
成長目指すってことと加速主義は全然別の用語だけど、まあいいや。
加速主義っていうのはまた別途存在する用語なんで。
なるほど。基本的に噛み合わないっていう。
資本主義の中に。
ちなみに加速主義というのは、資本主義みたいなものに対してアンチテーゼっていっぱいあるじゃん。
成長市場主義だからよくない、だからもっとペースをスローダウンさせなきゃいけないとか、
評価制度と自覚
もっとオルタナティブというか別の方向のコミュニタリアンみたいな感じに回帰しなきゃいけないみたいな形で
社会の回復を目指すっていう層に対して、
いやそんなもう進んでる車を無理やり逆走させるって無理だから、
行くとこまで行ってぶっ壊れるとか、光の速度を超えた形で脱出するくらいに、
どんどんどんどんテクノロジーとか加速してって、別の地平に向かうか、
クラッシュしたところで革命的に何か変革することにしか資本主義は良くならない。
だからガンガン加速しようっていうのは加速主義。
なるほど。今勝手に言葉を生み出したつもりだったんですけど、あるんですね。
ある。
なるほど。何言いたかったかっていうと、
だからその資本主義的なもの、成長とかそういうものと、まさに加速してってるものを止めらんないとか、
あるいは成長を求められる環境みたいなものと、基本的に相性悪いってことだと思って、
それに対して自覚的である必要がある。
山本は自分がリバタリアン的な思想でやっていこうと思ったのを、
そうするに諦めたっていうのはどういう文脈?
でも一番初めはめっちゃ具体例があって、
うちの会社評価制度なかったんですよ。
で、全員同じ給与だったんですよ。
でも12、3人目ぐらいに来た人に、
なんで評価制度ないの?みたいな。
なんでみんな同じ給与なの?
なんで僕の方が高くないの?みたいなのをコメントされたことがあって、
その瞬間にうわっ!ってなったんですよね。
うわっ!って思ったってことは、やっぱ僕は基本的にはない方がいいって思ってたっていう。
それで結構自覚的になった記憶がありますね。
TENXやってる経験の中で。
僕もない方がいいとは思うけどね。
いわゆる事に向かえとか、事業に向かうための組織だから事業に向かってる時間が増えた方がいい。
だから人生とか評価とかそういうものを気にしてる方が無駄だ、みたいな。
そういうちょっと原理的な考えに、今結構ポジションとしては近かったんですけど。
でもやっぱ人が増えていくと、どうしてもそこから避けられない引力がある。
なぜかっていうと、あんま綺麗に言語化できてないかもしれないですけど、
自分と他の人との相対的な比較っていうのを基本的には気にする生き物だと思うんですよね、人間が。
そのマグマみたいなものが、社員が2だったら2しかないけど、社員が100だったら100になるんで、
どうしても避けられないっていう感じでしょうね。
まあでも人類全体の。
でもこれすごい何か不都合な真実な気がしてて。
世の中何が重要かみたいな話をした時に、自由と平等みたいなのがあるじゃん。
でもこの2個って何か同時に語られるとめっちゃ相性悪いってなって。
めっちゃそう思う。
リバトリアンとか給料とか気にしないよとか、評価制度とかなくても、
俺は俺のやり方でやるし、周りのやつが給料もらってても気にしないってやつは、
多分結構自由なやつなんだよね。
でも平等を求めるやつは結構そうじゃないというか、
平等を求めるやつは多分あんま自由じゃないんだよね。
だからこの両方を結構実現すると結構難しくて、
あんまこれ言うと怒られるけど、やっぱ社会には自由を享受できるっていう、
強かったりとか思想的に割と成熟してる人間とそうじゃない人間っていうのが、
残念ながら存在していて、
その二層に対して同じ制度みたいなものを平等に等しく適用するっていうことに無理があるってことだと思うんだよね。
会社の中でも給料とかあんま気にしないけども、
ただ俺は自分が必要なことをやるんで、
自分のジョブディスクっていうのはここからここまでだからとか言わずに、
好きなだけ自由を無人に好きなボールを拾っていくみたいな、
一方この面で言うとすごく成熟した精神性を持ってる人と、
自分はその範囲の仕事しかしません。
でも給料は周りの人と比べて低い気がするので不満ですみたいな人って、
持っている前提とか精神性の成熟度が違うと思うんだよね。
その二人に対して同じ自由と同じ平等っていうのを適用するっていうのは相当無理があるし、
その二つの層に対して同じ人事制度を適用するっていうのも、
同じくらい無理がある。
自由と平等のジレンマ
でもどっちに合わせるかって言ったら、平等というか、
制度を導入する方に基本的には傾くわけじゃない。
なぜか知らないけどね。
そうすると自由層っていうのは、
なんでこんな毎日、市販機に一回顔並び買わなきゃいけないんですかとか、
なんであいつってセクショナリズムで自分の職務範囲しか仕事しないくせに、
SOがどうとかずっと文句一件使ってなっていってやめるっていう構造なんだよね。
すごい悩ましいから、
俺は自由もグレード制にしたい。
一定以上のグレードじゃないやつには自由とかないだろうみたいな。
でもそういう議論結構あります。
日本人って同調圧力強いみたいなのよく言うじゃないですか。
でも自由と平等で言うと平等を求める人の方が多いっていう議論かなと思うんですけど。
さっきの具体例で言うと、自由もグレードみたいな。
直近ある話だと、例えば今ってリモートワークどうするのみたいな話とかって、
もう2024年に2,3週してる話だと思うんですけど、
直近出てる議論とか、僕らの会社っていうよりは、
世の中的に出てる、それはアメリカとかで出てる議論としては、
基本的にある一定の能力があると認められた人だけの権利って形に今なってきてる。
それって自由のグレード制みたいな。
一定のバーを超えた人しかその自由を享受できないっていうオプショナルチケットになってる。
でも本当に平等もある種そういうふうに区切りができてくるし、
自由も区切りができてって、どんどん息苦しくなるんだろうなみたいな。
そうね。それは一定ある議論だよね確かに。
確かによくも言ったら裁量労働制とかもそういう。
あるグレード以上じゃないと裁量労働制の中に組み込まれないみたいな。
でも正しいっちゃ正しいですけどね。
だから実は区別してるんだよね、なるべく分かりづらいように。
とか管理職は給料高いけど残業つかないとかも、
その範囲の中でパフォーマンス出すように頑張るでしょっていう。
この前提があるから。
システムとか仕組みとかって慣らす行為じゃないですか。
基本的に平等にしていくっていう行為に近いと思ってて、
例えば不確実性を削る行為とか、再現性を高める行為が仕組みを作るとか、
システムにするってことだと思うんですけど、
そういうものにしてけばしてくほど、どんどん平等の方に会社とかコミュニティとか倒れていって、
そうなっていくと自由があるが家に出てたパフォーマンスっていうのが出づらくなっていくっていう、
これってめっちゃイノベーションのジレンマと同じ構造ですよね。
難しいよね。
自由の定義と葛藤
でも結局その信用できる人は自由度が高くみたいな話とかって、
中国的な話で、あの人信用力が高いから、
あいつはほぼ無担保無審査で家借りるけど、そうじゃない奴らはみたいな話とかが、
良い社会かみたいな話とかはあるよね。
結局そうなってくると、その自由を得る、自由のグレードを掴む前提となる能力みたいなものとか、
信用力みたいなものっていうのが、本人の努力と先天的などうしようもない環境と、
どっちに強く結びついているかみたいな議論になっていくわけですよね。
そうですよね。逆転が起きづらい社会。
結構マイケル・サンデルとかは、
努力で何でも勝ち取ったとか思っている奴らはカスだみたいな感じで最近は。
ありましたよね。
いや、膨らましていただいてありがとうございます。
いや、そうですね。結構これは興味がある。
でもやっぱりヒカルさん引き出しめっちゃあるな。このトピックに対して。
でも自由とか結構興味すごいすごいあります。
ぶつけてよかった。
本当?
はい。
でもリバタリアンみたいな話が出たけど、自由もすごいいろんな側面とか定義があるらしいんだよ。
自由自体も?
うん。僕結構好きな人が言ってたの。
アイザリア・バーリンっていう有名な哲学者の人がいて、その人自由を2個に分類してて、
積極的な自由と消極的な自由みたいな話をしてて。
僕の好きな友達の哲学者がすごいわかりやすい例にしたんだけど、
消極的な自由は何々からの自由。何々をしなくていい自由。
積極的な自由は何々への自由。何々をしていい自由ということらしいのね。
文化祭を学校でやったときに文化祭に参加せずにサボるっていうのが文化祭からの自由。
だから消極的自由。
だからみんなが文化祭を成功させたいって言っても、自分はサボって家でゲームするみたいなのが一種自由。
もう1個は文化祭をやるっていうことの自由。
これはつまり、サボるやつに対して文化祭やろうぜっていうふうに働きかけることも自由だっていう。
その2個って明確に今コンフリクトしてる。
で、その
よく水かけろになるやつやん。
自由はどっちなんだいっていう。
俺は自由だから文化祭サボるよって言うけど、
もう片方は文化祭をやるっていう自由を遂行するために俺はお前を巻き込むみたいな。
このお節介。
この大和が言うリバタリアンというか、自分が自由だと言うのはどっちなんだいみたいな話。
え、むず。
文化祭の例
でも、
いやその、今の具体例で言うと、文化祭に参加しなくてもいい自由が自由だなって思います。
消極的自由でしたっけ。
消極的自由。まあそうね。
消極的自由が認められてる環境は自由なように受け取りますね、なんか。
まあそうね。
あってる?
あってるっていうか、まあそうなんじゃないかなって感じする。
むずいな。自由に種類があるって考えたことない?
自由に種類があるらしいんだよね。
面白い。
これら面白いんでまたちょっと。
わかりました。じゃあ終了の自由を行使します。
終了の自由。
いやでも俺はこれを続ける自由。
続けることからの自由と、続けることへの自由がある。
フリーアジェンダでは皆さんからの感想や質問をお待ちしています。
Twitterでハッシュタグ、カタカナでフリーアジェンダをつけて投稿いただくか、概要欄にあるGoogleフォームよりお送りください。
皆さんからのコメントはフリーアジェンダ一堂、いつも楽しく読ませていただいています。
また番組内で紹介させていただいた方には、後日忘れた頃にノベルティが届く可能性もあります。
それでは今日もフリーアジェンダをお聞きいただきありがとうございました。
また次回お会いしましょう。バイバイ。
23:10

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