久保さんとお送りする1回目のテーマは、失敗と学びから見つけたエンジニアキャリアの道です。
ということで、まず1回目はですね、久保さんの今までのキャリアについてお伺いをしていきたいなと思っております。
今はですね、今自己紹介で伺ったようなところをやられているんじゃないかなと思うんですが、
ずっとやっているわけではないかなと思うので、ぜひ今までの久保さんの人生についてちょっとお伺いができると
ありがたいなと思っているところです。
最初にまず聞きたいなと思っているのが、プログラミングを始めたのっていつなんですかね。
プログラミングを始めたのは私は大学時代で、ちょうど筑波大学の、まだあるのか分からないですけど、
社会工学類というところにいてですね、そこでプログラミングの授業があって、
たぶん一番最初に本格的に触った言語はC++ですね。
そこからプログラミング人生が始まったというようなところですね。
そうなんですね。
じゃあ逆に言うとその大学入るまではあんまりプログラミングとかはされていなかったという感じなんですかね。
そうですね。
私がたぶんまだ大学生の、ちょうどあんまり年齢がバレてしまうので、
ちょっとあんまりつまびらかにその、はわかられるところではあるんですけど、
あんまりこの高校の時にプログラムをやらせてやっているというところはそんなに一般的ではなくて、
たぶん大学に入って工学系とか数学系とかで、
初めてプログラムに触れるということが私の世代では多かったんじゃないかなというふうに思います。
ありがとうございます。
もともとその大学学部にはプログラミングみたいなのが興味があって入ったのか、
それか全然別の目的で入ったけど結果的にプログラミングでやったのかみたいな感じでどっちなんですかね。
これは結果的にプログラミングをやっていたというところで、
そうなんですね。
私が所属していた社会工学類っていうところは、
この社会的な問題っていうのを工学的な手法で解決するというところをアプローチしていて、
例えば現行の窓口って何個ぐらいあると適用率が少なくなるのかであるとか、
大学とかの駐車場がどれぐらいのサイズだと満杯にならないのかといったようなですね、
社会的な問題に対してその数理的な手法を用いてアプローチするというようなところを研究していてですね、
そのシミュレーションとかを行うのにプログラミングが必要なので、
じゃあプログラミングを勉強する人があるというような流れで始めたっていうところですね。
そうなんですね。
その当時プログラミングにハマってたのかどうかはちょっと分からないんですけど、
結構やられて今までキャリア積んでるっていう中で、
当時のプログラミングの面白さみたいなのってどういうところに感じてたんですかね。
面白さというか、私の場合は結構非常に痛みが深かったというところがあって、
どういうことかというとですね、
教授が書いたプログラムがあったんですね。
C++で。
この研究にこのプログラムを使うので、
ひいてはこれを理解して動かしてくれたまえと、
そういう話になるわけですね。
皆さん知ってるかどうか分からないですけど、
トラップが多い言語ですと。
そういう中で様々なですね、C++の言語の複雑な仕様を理解して、
なおかつ当然自分の研究もしないといけなかったので、
その教授のプログラムをカスタマイズする必要があったんですね。
どういうふうにカスタマイズすると効率が良くて、
バグが起こらないのかというところを突き詰めていった結果、
その調べること自体がいつの間にか楽しくなっていて、
プログラミングも最終的には教授に引き渡して返すという、
ある意味恩返しみたいなところに至って、
ある程度熟達したというところがあって、
そういうような関わり方と、あと勉強の仕方でしたね。
なので、今だとウェブアプリケーションとか作りたくて、
プログラミング学んだとかっていう方結構多いかなというふうに思うんですけど、
私の場合は教授から与えられたコードを何とかして読解して、
自分なりにカスタマイズしないといけないという、
非常に追い詰められた状態からスタートしたというのが、
私とプログラミングの接点ですね。
そうなんですね。ありがとうございます。
そこからプログラミングというものに関わりだして、
キャリアを積んでいくかなと思うんですが、
ファーストキャリアではどういうことをされていたんですか。
ファーストキャリアでは大学卒業したのが2006年で、
そこからTIS株式会社というところに所属したんですけど、
大学の時から社会的な問題をプログラムで解決するというのが、
やっぱり面白みというところがあったので、
お客さんの業務課題というところとプログラミング両方が
扱える場所がどうかというので、
一番最初は製造業向けのお客様のコンサルティングと、
その結果必要だというふうに分かったシステムについて
実装するというようなコンサルティングと開発が一緒になった部署で、
キャリアをスタートしたというような感じですね。
その当時はいわゆるシステム開発みたいなのをされていた
みたいなイメージですか?
そうですね。要件定義、コンサルティングとシステム開発。
その時は、SAPって聞いている方の中で
どれくらい知っている方がいるかというところなんですけど、
ドイツの会社が開発したSAPという、
お客様の業務全般を扱う機関系システムというのがあるんですけども、
それのカスタマイズとか周辺システムの開発というところをやっていました。
やっぱりそこでやっていることは、プログラミングがもちろんされていると思うんですけど、
もともと大学でされていた経営工学みたいなところの流れで
そういうTISさんの中でもいろいろやられていたようなイメージなんですかね?
そうですね。経営工学とは直接は関わらなかったんですけど、
お客様の業務を理解して整理して、
それの解決に最適なものを作っていくというところ。
あとは分かりやすい例で言うと、文系的な領域と理系的な領域。
その業務の理解とプログラミング両方を活かして活動するというところは、
大学の時から変わらないし、それがやりたかったところだったので、
そこにあまりズレはなかったかなというふうに思います。
ちょっと話戻っちゃうんですけど、そもそもそういう経営工学に興味を持っていたのは何でだったんですか?
どうですかね。そもそも私の中で社会工学類というところは、
3年生か4年生ぐらいで専攻が分かれるというところがあって、
都市計画科、経営工学科、あともう1個あったんですけど、どれかやるかというところがあって、
その時に一番関心があった。
プログラミングを書くとかシミュレーションをするというのがやっぱり好きだなというところがあったので、
それで選んでいたというところがあります。
なるほど、そうなんですね。
社会工学的なところとか経営工学的なところに関わっていて、
いろいろやられていたということですね。
そうですね。
今のお話の中で言うと、
今やられているエザフリスさんのお仕事にはまだちょっと距離があるなと感じているんですけど、
いわゆるキャリアの転機点というか、
そういう今までの流れからちょっと変わってきたタイミングとかっていうのはあったりするんですか?
キャリアの転機は私の中では大きく2つあって、
1つは一番最初専属からやってきたコンサルティングの事業部から機械学習の研究開発部門に移ったというところですと、
コンサルティングは多分10年ぐらいやってたと思うんですけど、
やっぱりお客様の業務を最適化していくというときになると、
いわゆる計画系、計画がそもそもうまくできていないと、
業務もその後メタメタになるというところが分かってきたので、
ただどうやってお客様が計画しているかというと、
熟達した人が鉛筆をなめなめして、
こんな感じじゃないみたいなっていう風にやっているというところがあって、
これもう少しプログラミングとかでアシストできないかなという風に考えていたときに、
ちょうど機械学習とかの技術が出てきたというところもあって、
じゃあちょっと本格的に機械学習というのを勉強したいなという風に思って、
同じ会社の中の研究開発部門で移動したというところが、
転機としては大きいですと。
そこで初めて機械学習の講座、
大学時代にやっていたとはいえ、
そのときは10年以上前でも線形台数とか記憶の彼方に消し飛んでいるという状態から、
アンドリューング先生、コーセラーで知っている人は、
スタンフォードのコーセラーの機械学習のコースを覚えているかと思うんですけど、
それで機械学習をゼロから学んで、
研究開発部門でなんとか生き抜いてきたというところが、
まず今機械学習医療機能デベロッパーの練習所なんですけど、
そこで機械学習というところの伏線が回収されたというところがまず一つあります。
転機の2つ目はプロダクトマネージャーをやったというところと、
そのプロダクトマネージャーがすごいうまくいかなかったというところがあって、
当時プロダクトマネージャーとしての私を知る人は、
あの人と一生仕事したくないというふうに思っても、
何の言い訳もできないというぐらい、
本当に今日いろいろな失敗をして、
そのときに思ったのが本当に機械学習を活かしたプロダクト、
研究開発部門でやっていた研究というのがプロダクトにできないかというところで、
事業部の方から声をかけていただいて、
それをプロダクト化するというところにチャレンジしたわけなんですけど、
この機械学習を使ったプロダクトとか、
プロダクトそのものというものがいかに作るのが難しいのかというのを、
本当に頭ではなくて、
身体ともにダメージとともに理解するという、
そういう人生の転機というか、
衝撃的なということがあってですね。
ただ、それを克服するとか、
本当にどうすればよかったのかというのを理解するには、
やっぱりバカ図を踏まないといけなくて、
プロダクトマネジメントって書籍に書いてあって、
ありがとうございます。
もうまさにスタートのところからAWSに入るところまですべて、
お答えいただきありがとうございます。
本当に今のお話を聞いていると、もちろん挫折とかもすごいされていたんだろうなというのは思う一方で、
すごいチャレンジをされていて、
かつ多分それこそTISさんの中でも評価はされていたんじゃないかなというのは何となく私は聞いていて感じていたんですけど、
そこから何て言うんですかね、
多分TISさんも今のお話だとキャリアとしても結構在籍されていた時間は長いんじゃないかなという気がしている中で、
そこで新しいところに行くところの怖さというか、そういうのはなかったですか。
それは怖かったですね。
そもそもTISに新卒で入ってから転職したことなんて1回もなかった。
ただ相談したんですよね、奥さんに相談をしてですね、
残るか、それともチャレンジしてみるかみたいな、
というふうに相談したときに、
なんかチャレンジすればいいんじゃないみたいな。
割とそういうときに第三者のカリア投資って意外と人生を決めるかなという、
ところがあって、
採用を受けてみて、
今いいだろうというところなので、
どちらかというと何だろう、
自分自身の強い意志でもって崖から飛び込んだというよりは、
自分として多分そのほうがいいとは思ってたけど踏み出せなかったというときに、
今少し背中を押してもらって今があるというような感じですね。
ありがとうございます。
実際いろいろ最初は恐怖というか悩みがある中で、
AWSさんに入って今またいろいろなことをされていると思うんですけど、
最初の頃って転職した直後ってどうでした?
スムーズに自分がやりたいことができていたのか、
いろいろ学びがあったのか活躍できたのか。
転職の直後はもうストレス半端ないですよね。
まずストレスの要因が三つあってですね、
一つはさっきお話ししたとおり、
プロダクトマネージャーとして失敗した後で入っていったので、
まず自分の能力に対しての信頼というのがない状態なんですよね。
その半端ない不安というところと、
あとちょうど子供が生まれるときだったので、
一級を取ったりとかプライベートの生活が変わる中で
状況に対処していかないといけないという話。
三つ目は機械学習域のデベロッパーリリーションって
前例がないというか初めてのポジションだったので、
誰も仕事のやり方を知らないわけなんですよね。
メンターでそのモバイル領域で先行で
デベロッパーリリーションを担当している方に
メンターについていただいたんですけど、
でも基本的には一人で全部戦略を立てて、
立てた戦略に沿って成果を出していかないという
プレッシャーがあるという中で、
プレッシャーはすごかったですね。
なるほど、でもそれでも何か辞めたいなとか
そういうのはあまり思わなかったんですか?
辞めたいなとは思わなかったですね。
この場で全力を尽くして、
そもそも自分が解き明かしたい、見つけたいという
感じていたものに取り組んでいくというところなので、
辞めたいという思いはなかったんですけど、
自分が全力で仮にこの職務を取り組んだとして
本当に成果が出るのかというところが
すごい疑心暗鬼だったというところはありますね。
その疑心暗鬼さとかプレッシャーとかって
また今は多分、もしかしたら今もあるかもしれないですけど
変わってきているんじゃないかなという前提の中で、
その不安みたいなものが払拭されていったりとか
ある意味ちょっと自信がついてきたタイミングとか
そういうのってどういうタイミングなんですかね?
多分デベロッパーリレーションを担当して
2年目ぐらいでようやく自信がついてきたなというところですね。
デベロッパーリレーションの1年目は
さっきお話しした先行でデベロッパーリレーション
モバイルの領域でデベロッパーリレーションを担当されていた
先輩がまさにメンターになってくれて
その方との出会いは私にとって非常に大きくて
本当にその仕事のやり方とか
あとは人との関わり合いとか
その1人っていうロールの中で
どういうふうに組織でインフルエンスを高めていくのかっていう
教えを本当に密に教えていただいて
途中で転職されて
大きなチャレンジをするために転職されたので
数ヶ月ぐらいの期間だったんですけど
その数ヶ月の期間は私の中で本当に貴重な話で
そこでまずは仕事のスタイルっていうところを身につけて
1年目は本当にがむしろって感じで取り組んで
一応その目標 KPI 達成っていうところだったんですけど
2年目はですね その方いないわけですね
信頼していたメンターが2年目にはもういないっていう
本当に2年目は自分で
ゼロから戦略を立てて
目標に対して達成できるかできないかっていう
本当にギリギリのチャレンジをしていくっていうところをやって
それが本当に達成できた
確かそのとき 115か120%ぐらいのアチューブメントだったんですけど
そのときに初めてようやく計画の立案から実行までっていうのが
本当にゼロからやってきたっていうところがあったんで
ようやく少し自分で走れるようになったかなっていう
実感ができたっていうところあります