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エイドリアン太郎の日常
理不尽な進化という本を読んだら、そこに書かれている科学哲学の歴史というか思想史みたいな部分で、説明と理解の話、もしくは方法と体験の話というのが出てきて、これやーってなったという話ですね。
理不尽な進化という本の話をしたいんですけど、これ5,6年くらい前に買ったのかな?半分くらい読んでめちゃくちゃ面白いなと思ったんですけど、濃すぎて半分くらいで一旦休憩入れるかと言って5年経ってたみたいな感じですね。
最近多様性の話とかみたいなことを話してたりしたときに、進化論についてもう一回ちゃんと勉強したいなと思って、もう一回ちゃんと読めば別にめっちゃ勉強してたわけでもないんですけど、
理不尽な進化という本をもう一回読んでみようってあれ途中でやめたんだよなと思って、読み直したらやっぱりめちゃくちゃ面白かったと。
今回最後まで読んだんですけど、前読んだ時に読んでなかった科学哲学の話っていうのがまさに今回のこととピッタリ符号をしたんですよね。
どういう話かっていうと、この本あまりにも語り幅がありすぎるのでコンパクトにこの話だけするとなんですけど、
その学問って言われるもので、幅があって一番この法則でできてるんですみたいなのが物理学。
これは一番左側だとすると、一番右側の法則とかじゃないんだけどだいぶ感覚ってわかるなとか主観的なんだけど伝わってくるなみたいな文学とかが一番右にあると。
ざっくり言うと左側が自然科学、右側が人文学というか歴史学とか文学とかみたいな学問って言われるものにも左右幅があるわけですよね。
ざっくり言うと理系と文系みたいな話なんですけど、それぞれ一番その中でも左と右にいるのは物理学と文学とか歴史学とかだと思うんですよね。
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それぞれどういう性質の違いみたいなのがあるかっていうと、物理学とかだったら必然ですよね。
必然と客観的ですよね。
量子力学とかだと観測者が見たら結果が変わるとかはあるとしても、基本的には誰が見ようが誰が実験しようが再現できるということが科学とか物理学とかの要定なわけですよね。
ある物体は等しく万有引力とかが働いててみたいな感じで、その結果この高さからこのもの落とすとこのスピードで落ちてここにぶつかるよね、その時のエネルギーはこうだよねみたいな感じで必然的に語られる。
一方その歴史学とかですね、それと比べると何らかの法則的なものみたいなのを見出し得る、この歴史にはこういうパターンの繰り返しちょっと見られるなみたいなことは多少あれど、
でも基本的には偶然が支配してると思うんですよね。その場にその人がいたのは偶然だとかね、例えばですけど、じゃあなんでこの国負けたのかって言ったらなんかすごい天変地異があって国が弱っていたからみたいなことがあるわけじゃないですか。
だから偶然ですと。
あとその歴史を例えば語る時に、僕が今江戸時代を語るのと明治の人が江戸時代を語るのって全然違うはずなんですよね。
明治の人からするとですね直前の時代でですね、例えば文明開化するぞっていう時にすごくその否定したい過去として江戸時代を語るかもしれないですし、
例えば僕らが今江戸時代を語る時っていうのはまあいろんなこういうこともあったけどこういう意味もあったよねみたいなまた全然違う語り口になると。
もちろん語る人によっても変わると。
って考えるとその主観っていうのがすごく大きくなってくるわけですよね。
でですね、そういう必然客観vs偶然主観みたいな、そういう対立みたいなのがそこに発生するわけですよね。
で、これをまた別の言葉で言い換えると、物理学みたいな必然客観の方は説明できると。
で、一方でですね、歴史学みたいな偶然主観の方は理解ができるっていうのの対立という風にも捉えられるわけですよね。
例えばですけど、なんでこういう風に光が進むのって言ったら、いいこれMC二乗だからだよみたいなことを言ったら説明はできてるんですよね。
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でも理解できてるかって言ったら理解はできてなかったりするわけですよね。
でですね、逆のこともあって、例えばですけど、織田信長は最後こんなことがあって、
こんな気持ちで死んでったのかな、歴史ってそういう商業無常なものがあるなという風に理解ができたとしてですね。
じゃあなんでそういうことが起こったかっていうことを説明できるかって言うと、説明できなかったりするわけですよね。
なのでですね、やっぱりこの説明と理解っていうのの対立ではあると。
そうなるとですね、今でもその傾向があると思うんですけど、
自然科学の方が偉そうな感じがするんですよね。
物理学とかの方が、例えば歴史学とか文学とかより偉そうな感じがする。
理系の方が文系より偉そうな感じがする。
なんでかって言うと、必然で客観的であるということはですね、つまりその揺るがなさみたいなのを感じるので、
そして何にでも適応できる、汎用性のあるもの、一般的なものだという感じがするので、
そのある種の凄さを知ってると、歴史学とかさ、語る人によっても違うし、主観的だしね、偶然とかも入ってて、
物語であって学問じゃないんじゃないの?みたいな、理系からの文系見暮らしみたいなものが発生しがちなわけですよね。
それに対して、説明と理解、必然と偶然、客観と主観っていう、それぞれの特性を持った学問があると。
でも特に偶然主観とか、文系側の方はちょっと学問っぽくないんじゃない?みたいな流れの中で、
いやいやいや、学問ですぞ!みたいなことを打ち立てようとしてきたという歴史があるんですよね。
そこの歴史がどういう風に推移したかというと、
19世紀はそういう論争が始まって、説明をするという自然科学に対して、理解をするという精神科学を打ち立てようというムーブメントがあったらしいんですよね。
歴史学とかっていうのは、物理学は説明ということを軸に置いた自然科学であると。
歴史学というのは、理解というのを基礎に置いた精神科学だ!みたいな感じで、自然科学と全く別のものを打ち立てようとしたというのが、まず19世紀のムーブメントとしてありました。
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これがまず失敗するんですよね。
次に、今度は逆に触れるんですけど、20世紀の前半に、歴史学とかも自然科学みたいに説明できるんだと。
その学問に、全部一緒なんだと、統一科学なんだと、歴史学、文学とかですら科学なんだと、全部説明ができるんだ、という物理学のように説明ができるんだ、みたいな感じで、
こういう統一科学を作ろうっていうのが20世紀前半、中盤くらいまで盛り上がったんですよね。
さっきの逆ですよね。
理解をベースにした別物の科学を作ろうじゃなくて、全部説明できると。
理解なんてあやふやなものに頼っちゃいかん!みたいな感じだったんですけど、これもダメだ!ってなるわけですよね。
結局、最終的にこの論争がこの辺で落ち着いてきたって話なんですけど、
ガダマーって人が言ったらしいんですけど、そもそも説明と理解っていうのは同じ次元のもんじゃないと。
対立するものでもない。説明vs理解みたいなもんでもないんだと。
それぞれ何かっていうと、説明っていうのは方法で、理解っていうのは体験なんだって言うんですよね。
学問っていうのは説明という方法を使った知の相対のことを言うんだと。
説明しか学問の方法になり得ないと説明しか。
じゃあ理解はどうなの?ってなるんですけど、理解っていうのはそういう学問を通して心理に触れるという体験が理解なんだって言うんですよね。
だからもう全然違いますよね。説明は方法であると。
理解っていうのは体験なんだって言うんですよね。
だからこれどっちが上とか下とかですね、どっちに統一するとかですね、そういう話じゃないっていうところに最終的に落ち着いていったわけですよね。
さて、ということでですね、その前置きは長くなったんですけど、その分下りを読んでこの会社で起こったすれ違いのことがピシャーンって理解できたんですよね。
まさに理解できたんですけど。
つまり僕の方はですね、なぜこの契約がないようになったのかということを理解したかったんですよね。
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それは僕がですね、クリエイターの方に理解してもらうように説明する必要があったからなんですけど、
なんでこんなことになったの?っていうのを理解したいと。
理解をするという体験をしたいと。
なぜかというと、理解をするという体験をクリエイターの人にもしてもらう必要があるからなんですよね。
一方、契約部署の人はどういう方法でこうなったのかという方法の説明をずっとしてたんですよね。
それはなんでこうなったのかということに対する答えじゃなくて、
こういう方法を取っているので間違いがないですという説明をひたすらしていたと。
このすれ違いだったんですよね。
理解をするという体験を求めている僕と、間違っていませんという説明をしている契約部署というすれ違いだったんですよね。
だから5回6回やっていてももう全然話が噛み合わないのはそれはそうかと思ったんですけど、
これはもう少し優しい言い方で言うと、
頭でわかると気持ちで納得するは全く別物だということですよね。
頭でわかるは方法であり説明です。
気持ちで納得するは理解であり真理なんですよね。
例えば家族の思い出が詰まった家がありますと、
お金に困ってその家をさらちにして土地を売らなきゃいけないとか、
駐車場にして貸し出さなきゃいけないとかわからないんですけど、
そういうようなことになりました。
お父さんがそれを決めましたと言って子供が、
この思い出の詰まった家を壊しちゃうんだと思って、
なんでそれをするのと聞いたら、
お父さんの方が、お金が足りなくてそのお金を用意する必要があって、
そのためにはこの土地を売る必要があるんだよね。
金額はこれくらいあるから、この土地を売っていただくとこうだから、
こういうふうに生活するためにいるんだよね。
そうなんだけど、なんでこの家を潰すの?みたいな感じですね。
結局この方法として言ってるのは頭でわかる。
でも気持ちでは納得できないんだよね。みたいな感じですよね。
例えばそのお父さんが、
いやー俺もしたくはない。本当にしたくなかった。
昨日もこれでもずっと酒飲んでた。もうやりきれないと思った。
やるしかないんだよな。どうしても。
って言ったらですね、納得できると思うんですよね。
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何の説明もしないですよね、今のことって。
でもそのお父さんの言葉で、
理解ができるわけですよね。
理解をするという体験ができたわけですよね。
だから、わかったよってなると思うんですよね。
こういうすれ違いって死ぬほどどこでも起こってると思いました。
というわけで本日は以上です。ありがとうございました。