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2021-12-22 10:31

今日の10分de1テーマ「道徳を基礎づける〜孟子vsルソー、カント、ニーチェ」について③

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本職は編集者のエイドリアン太郎が1日1テーマを決めて10分話すpodcastです。 ※ご意見、ご感想、質問や話のお題などありましたら eidoriantarou@gmail.com へお便りください

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道徳を傷つけるという本の話ですが、
孟子が道徳の一番基礎に置いているものは、
忍びざる反応である、
今から殺される牛や井戸に落ちそうな子供を見た時に、
怒ってしまう反応であると、
自分の利害関係を全く抜きにして怒る反応、
これが道徳の厳選でしょうと言っているわけですよね。
これは僕も本当にそうだろうなと思うというか、
めちゃくちゃ説得力があるというか、
あそこの問答無用さ、
本当に反応にふさわしいですね。
パッと怒ってしまう気持ちというのは、かなり賭け値なしのものなので、
それを一番基礎に置くというのはすごく納得いくんですよね。
これを読んだ時に思い出したのが、
本のタイトルを思い出したいんですけどね、
ずっともう一回読みたいなと思っているんですけど忘れちゃった、
しかも講談書から出ている新章があってですね、
それは何かというと、それは生物学の本だったんですけど、
人類の歴史についての本だったんですよね。
それがですね、ざっくり言うと、
人間というのが生き残っていく上で、
お互いに対して、他人に対して助けなきゃと思っている個体が
選別的に生き延びてきたみたいな話なんですよね。
やっぱりですね、群れで生きる必要があると。
その群れの中で協力し合うということが人間の生存戦略なので、
それをできる個体が生き延びてきたので、
そういう遺伝子が残っていると。
逆にそれができない、何か良いことをされてもお返しできないというものとかね、
いわゆるサイコパス的な性質を持っていたりすると、
その群れからパージされてですね、
死んでいくと、孤立して死んでいくと。
なので、それが支配的になっていくので、
今の人間はそういう本能に近いものを持っているんだという話でですね、
その実験もあってですね、面白かったんですけど、
生まれて間もない、つまり何の道徳教育も受けてないですね、
生まれてまだ6ヶ月とかぐらいのですね、赤ちゃんにですね、
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すごいこの抽象的な図を見せるんですよね、コンピューターの画面上で。
それは何かというと、坂道をですね、小さい三角形みたいなのが登っていくと。
登っていくんだけど、坂のですね、角度が急になって、
その三角形がですね、そこまでスムーズに登っていたのに、
その急になった坂のところでですね、
うーんってこう登ろうとするんだけど、
登りきれないみたいな感じで、ずっとうーんってなっている。
というアニメーションみたいなのを見せるんですよね。
見せたらですね、その赤ん坊はですね、
その三角形をですね、指で後ろから押そうとするんですよね。
押そうとして、つまり何か困っているというのを助けたいという行動を赤ん坊は取るらしいんですよね。
なのでその道徳的なですね、感覚というのは、
その肯定的なもの、つまり教育によってもたらされたものではなくて、
先天的に備わっていると。
その先天性というのは、人間が生存していく中でですね、
共存していくということが必須なので、
その中でですね、選別されていったものだろうという生物学的な本だったんですけど、
そのことを思い出すわけですよね。
この忍びざる反応というのはですね、
おそらくそういうちょっと人間の本能に根差しているわけですよね。
なのでそれを道徳の基礎に置くというのはですね、
すごく僕は納得がいく話だったんですよね。
でですね、
あとはですね、本当にちょっと話長くなりそうだなと思ったんですけど、
なんか申しのですね、広瀬エピソードの中に、
親の死体を溝に捨てる話っていうのがあって、
何かというと、ある村で親の死体を埋葬するという習慣がなくて、
で、溝に死んだらポイって捨てるっていう村があったみたいな話でですね、
そこでですね、親をポイって死んだんで投げ捨てておいたらですね、
数日すると腐ってですね、狐とかが食べに来てですね、
で、ハエとかアブとかが湧いてると、
それをですね、通りかかってですね、
その息子が見てですね、すごく冷汗が出てくると、
なんとも言えない気持ちになってくると、
まさに忍びざる反応が起こっているわけですよね。
で、この死んだですね、親というのを、
できればなるべく厚い棺にですね、
直接土をつけずに葬りたいという気持ちが湧いてくるというのは話だったんですけど、
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これちょっと個人的にね、ちょっとしたことも思い出してですね、
10年、もっと前か20年くらい前に飼ってたハムスターが死んだ時にですね、
死んじゃったってなってですね、
で、じゃあ埋めるかって言って、この木の下に埋めようって言って、
木の下に穴を掘ってですね、で、ハムスターを置いてですね、
で、そこに土をパサってかけた瞬間ですね、
もうめちゃくちゃ悲しくなってですね、
もうおいおいそこで、そのハムスターね、そろそろ死にそうだなと思ってたんで、
あ、死んだか、しょうがねえな、ぐらいな感じでですね、
ずっとこのハムスターが死んでから泣いてなかったんですけど、
で、じゃあ埋めるかって言ってですね、
その土を掛けた姿を見た瞬間にですね、
ものすごく悲しくなって、
もうまさに忍びざる反応というかね、
で、もうおいおい泣いちゃったんですけど、
で、結局ダメだと、これは何かに入れて埋めなきゃダメだと思ってですね、
何か、なんかの箱でも用意したのかな、箱か、
それこそティッシュぐらいのものかもしれないですけど、
何かに包んでですね、姿を見えなくしてから、
こう思ったんですけど、
でですね、そういう忍びざる反応が起こるよね、
これを読んで思い出したんですよね。
さらに言うとね、
儒教における儀礼っていうのがですね、
儀礼の礼、まさに礼なんですけど、
その礼っていうのは神を形式化したものであるというのでですね、
その忍びざる反応というのが起こる。
忍びざる反応というのは神を持っているから起こるわけですけど、
その神をですね、
その忍びざる反応が起こって、
それをですね、形として礼にするといった時に、
その形として礼にするというのは、
このケースの場合は棺に入れるということですね。
で、それによってですね、
神が実行されるという考え方ですね、儒教は。
まっすぐちょっと話は逸れたんですけど、
そんな感じのこともあってですね、
いちいち紹介されるエピソードにですね、
分かるなと思って見てたんですけど、
でですね、そこで、
そういう時にですね、
忍びざる反応が起こったから、
じゃあね、
あんたは神があると。
じゃあもう大丈夫だよという話ではなくてですね、
この孟子ってその清善説で有名ですけど、
清善説って聞くとですね、
ほとんどの人がですね、
そんなね、みんないい人なんてことあるかいと、
それはちょっとなんかのんきなんじゃないの?
みたいなふうにですね、思うわけですけど、
実は別にそんなことをですね、孟子は言ってなくて、
誰にでも忍っていうのは備わっていると。
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その忍っていうのは忍びざる反応として現れると。
なんだけど、その時に現れた忍びざる反応っていうのは、
忍の兆しにしかないと。
兆しってですね、端っこの端って書いて兆しって読むんですけど、
これ糸の先っぽって意味らしいんですよね。
だからこの先っぽだけが出ていると。
その先っぽだけなんだけど確実には存在していると。
でもその時、なぜか人間の当然な反応として出てくるですね、
忍びざる反応っていうのがですね、
その先っぽの部分をですね、
グイッと引っ張って引きずり出して、
自分の日々の行為によって拡大させていくと。
いった人が忍を持つ者とか聖者になれるっていうのは考え方なんですよね。
だから誰でも良くなる才能は持っているんだけど、
それには努力というか、
それを成す必要があるよということを言っているわけですよね。
というような話をしたらまた10分経っちゃった。
ということで、続きはまた明日。よろしくお願いします。
10:31

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