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2021-12-23 12:57

今日の10分de1テーマ「道徳を基礎づける〜孟子vsルソー、カント、ニーチェ」について④

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本職は編集者のエイドリアン太郎が1日1テーマを決めて10分話すpodcastです。 ※ご意見、ご感想、質問や話のお題などありましたら eidoriantarou@gmail.com へお便りください

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というわけで、昨日の続きです。
えーっとですね、その申しの話ですよね。
えーっと、申しのですね、道徳の基礎となるのは、忍びざる反応であると。
で、忍びざる反応というのは確かに確実に存在する、理由もつけられないぐらい現象的な反応なんだけど、
それは、兆しでしかないと。
その兆しだけではですね、良いことはできないというか、
その兆しがあるからあなたは良い人間なのだということの証拠ではあるんだけど、
それをですね、行為によって拡大させていかないと良くないよと。
というか、人間が唯一道を踏み外す理由というのは、その行為で拡大させられないことなんだと。
何が良いかを、何が悪いかを知っているくせに、それができないことなんだというのが申しの主張なわけですよね。
でですね、結構俺、ルソーも似たことを言っていてですね、
ルソーはその忍びざる反応のことを哀れみと呼んでいるんですけど、
でですね、えーっと、ただちょっと違うんですよね、立場が。
何かと言うと、まず哀れみを持つためには想像力が必要だってルソーは言っているんですよ。
だからその、例えばですけど、見慣れると想像しなくなるから、
哀れみを感じさせるためには、辛い光景を子供に多く見せてはいけないとか言ってるんですよね。
これは例えば、戦場とかね、ものすごい悲惨な地域の子供とかを想像すると、まあまあわかりますよね。
周りでどんどん人が死んでいくのが当たり前なのに、それにいちいちですね、
うっつって反応できなくなってくる、心が麻痺してくるってことはあるわけですね。
なのでそういう想像力が必要だから、哀れみを発達させるには他者への想像力が必要だから、
その想像をしなくなるような環境に子供を置いちゃいけないよとか、エミールの中で言ってるんですよね。
あとはですね、もう一つ違うところはですね、
じゃあその哀れみっていうのはどこから来るのかというとですね、自己愛から来ると思うんですよね。
ルソーという人は結構なんでも自己愛で語る人だったんで、まあそう言ってるわけですけど。
つまりですね、その哀れみという感情はどこから来るか、何で来るのかというとですね、
自分と似た立場にある人っていうのを見てですね、その人が苦しんでいるのを見ると自分も苦しいと、
だから自分が苦しまないようにその人に苦しんでほしくない、というですね、
まあいわゆるちょっとエゴイスティックなですね、思考プロセスを経て出てくるのが哀れみという感情なんだって言ってるわけですよね。
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でですね、なんでちょっとルソーもですね、道徳っていうのの一番の基礎は哀れみだろう。
これはまあほとんど申しの忍びざる反応とほぼ同じようなことを言ってるんですけど、
ただ想像力は必要だったりとかですね、自己愛というものから思考のプロセスを経てきてるんだよみたいな感じでですね、
ちょっと言ってることは違うんですよね。
申しの忍びざる反応の方がですね、もっと生物的に近いようなですね、もっと現象的な反応なんですよね。
でですね、本当に申しの忍びざる反応の言ってることとはそこの点で違うわけですけど、
申しの忍びざる反応っていうのはもう嫌顔にも起こるものなんですよね。
だから哀れみという感情ですらないというか。
じゃあなぜ起こるの?って言ったら人間だから起こると。
人間だからつまり人間的だから起こるんだけど、その人間的とはつまり人のことを言ってるわけですよね。
でですね、その人をみんなが持っていると。
だから忍びざる反応っていうのはもう嫌顔にも起こるんだと言ってるんですよね。
じゃあですね、そういう陣を持っていても行為によってそれを拡大させられないと善を成せないよと。
じゃあどうやって善を成せばいいんですかっていう問いに対してですね、
成さないことは成さず、欲しないことは欲しない、ただそれだけって言ってるんですよね。
もう何も答えてないに等しいんですけど、
ただですね、それぐらいもともと人間に備わっているから自明すぎるものであるって言ってるんですよね。
でですね、つまり何か良い人間になりたい、良く生きたいって思った時にですね、
良いことしようとか良い人間目指そうとかではないんですよね。
もうあなただってあれでしょうと、子供がいざ落ちそうになったらパッてワイワイってなるわけでしょうとか、
引かれる牛を見たら可哀想だと思うんでしょう。
親の死体が溝に打ち捨てられて腐ってるのを見たらですね、もうドキドキちょっと顎覚めるんでしょうと。
それはもう陣を持ってるじゃんと。
だったらもう何をするべきかっていうことは分かってるんでしょうっていう感じなんですよね。
もうそれは自然と湧き上がってきてるからもう分かってるでしょみたいな感じなんですよね。
だからそれをそこに寄り添えばいいというか、それと自分を一体化させればいいだけだよみたいな。
ことさらに良いことしようとか何か目指そうとかしなくていいんだよみたいな感じなんですよね。
なのでちょっとこれが西洋哲学的なアプローチとか考え方とか言い方だと原則を作ったりするわけなんですよね。
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つまり前後なすとはつまり何々のことであるとかですね。
定義付けたりとかして原則を作ったりするんですけど、
もうこのですね、もうあなたに備わってるから分かってるでしょっていうのは原則すらないんですよね。
でですね、ここで申し上げた何人か偉人を挙げて比較してるんですけど、
一人は博威って人で、
それはですね、その人は自分が認める王にしか勤めなかったと。
自分が認めない王になった時が国に着いた時には隠遁したと。
で、委員って人はですね、どんな王の下でも頑張って職務を果たしたと言ってるわけですよね。
これそれぞれに対して申し上げてですね、ディス入れててですね、
博威の方はですね、つまり自分が認める王にしか勤めなかった方はですね、
己の純粋さを守ろうとして自分勝手であるって言ってるんですよね。
まあそうでしょうね、その自分が認めるやつにしか勤めなくてですね。
じゃあ自分が認めなかったやつだったら、
じゃあ俺は山にこもってるわ、もう国がどんなに乱れても知らんわみたいなね。
で、それはちょっと自分勝手でしょうと。
しかもその理由は自分が純粋でいたいからでしょうみたいな。
って言ってるんですよね。
じゃあ委員っていう人、どんな王の下でも職務を果たしたっていうのに関してはですね、
なんとか思考停止してるみたいなことを言っててですね。
これはわかりやすいですよね。
ナチスのアイヒマンに近いわけですよね。
上からユダヤ人いっぱい殺せって言われたら、
分かりました、って職務を果たすのがアイヒマンなわけなんで。
そういう危険性あるし、それが善を成してるかって言ったら違うよねって言ってたりする。
じゃあ、こういう善を成すっていうのはどういうことなのかって言ったらですね。
孔子の言葉、論語から引いてきてですね。
孔子は使えるべき、王様とかですね。
使えるべき時には使え、自すべき時には自施と言ってるんですよね。
でですね、つまり原則がないんですよね。
使いは俺が認めるやつにつく。
因はどんな状況であれ職務を果たす。
孔子は使えるべき時は使え、自すべき時は自すと言って原則がないと。
つまり先入観からも規則からも自由で、状況に完全に調和してるって言うんですよね。
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ここまで聞いたら当然のツッコミとしてですね。
べきってなんだよっていうことになるわけですよね。
使えるべき時は使え、自すべき時は自施と。
じゃあ、使えるべき時、自すべき時ってどうやったらわかるの?
というふうなことが当然疑問として湧いてくるんですけど。
これはですね、あなたは生まれながらに人間ですから人を持ってるんですよね。
人を持ってるってことはもうそれはわかってるでしょっていうのが孟子のスタンスなんですよね。
だからですね、それがすごい面白いし僕は結構納得いくんですよね。
なのでですね、孟子は割と始終そのスタンスなんで。
西洋哲学にはですね、悪っていう概念があるんですよね。
それはキリスト教からやっぱり来ててですね。
なんで神が作った人間が悪をなせるのかっていうのは昔からの哲学的なテーマなんで。
じゃあ悪っていうのは何なんだ?なぜ悪っていうのが発生するんだ?みたいなことはですね。
その後の哲学でもテーマとして取り上げられるんですけど。
孟子にはですね、悪っていうテーマはないんですよね、概念は。
何があるかというと、当然のようにみんながわかっている善っていうのがあって、
それがなされてない状態の不善っていうのがあるだけなんだと。
悪というのはないっていうのが孟子の立場なんですよね。
孟子はもう何度も言うように、みんな何をなすべきで何をなさないべきかっていうのはもうわかっていると。
人が備わっているから、嫌がおにも忍びざる反応によって常にそれに気づかされるんだと。
ただ人間がそれで良くなくなるってことは、本当に一パターンしかないんだと。
その忍びざる反応によって気づかされているのに、それを無視してしまうとか気づかないことなんだと。
そうすると、ずっと通ってた道はですね、どんどん山道でも通れて道ができていくわけですけど、
そこを通らなくなるとどんどん草に覆われていくと。
そしてついに道が塞がれてしまうと、心が塞がれてしまうって言ってるんですよね。
なので本当にもうわかってるでしょ。やりなよっていうのが申しの立場なんですよね。
ここで才能とかできるできないを持ち出すと、もう本当に申し切れるみたいなね。
だからできるできないじゃないんだと。やるかやらないかなんだみたいなことを言ってるわけですけど。
これはですね、めちゃくちゃシンプルな論なんですけど、すごくわかるんですよね。
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例えば自分はですね、もうちょっとどうやったらもっと良くなれるだろうみたいなことを思うんですけど、
もうお前わかってるでしょって言われたらですね、わかってるなと思ったんですよね。
そしてそれやってないなと思ったんですよね。
っていうめちゃくちゃシンプルなことだなと思ってですね。
ということで、これからはなるべくわかってる、これをやった方がいいんだろうなっていうこととか、
これやっちゃダメだよなっていうことをやっていこうと思いましたね。
というわけで長くなりましたが、道徳を基礎付けるの本のようやくでした。
以上となります。ありがとうございました。
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