1. 大人になりたい旅がしたい
  2. #162-2【宮城】みんな、月を見..
#162-2【宮城】みんな、月を見ていた。Part3後編
2026-09-24 1:13:44

#162-2【宮城】みんな、月を見ていた。Part3後編

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海に辿る記憶の手ざわり みんな、月を見ていた。3日目後編


私たちが歴史を考えるとき、大きな手掛かりとなるのが遺物、すなわち”記憶の手ざわり”。先人が、己の手で、想いを込めて象り、今に伝えた”もの”からは、多くの想像と思考がもたらされます。今回は、長らく隠されていながら「世界の記憶」となった遺物を中心に、”もの”の見方、感じ方を問う静かな大人の旅へ。大海原に臨み、月の下に輝いた宮城県の人生の記憶は、いま、私たちに何を語りかけてくるのでしょうか。


【目次】

~ 大変お待たせしました、いよいよ最終回です!

~ 400年を経て語り継がれる遠大な航路と業績 【宮城県慶長使節船ミュージアム(サン・ファン館)】

~ ★歴オタ話★ 慶長遣欧使節の派遣の背景 混沌とした国際情勢と思惑

~ ★さらに歴オタ話★ スペインそしてローマへ 大西洋を渡った初めての日本人たち

~ ★さらにさらに歴オタ話★ 失われた支倉常長の”記憶の手ざわり” 大いなる謎を残して”世界の記憶”へ

~ 支倉常長が7年の航海へ旅立った舞台 【月浦展望台】

~ 霊性を湛える純白のオブジェ その視線は何を見つめているのか? 【White Deer(Oshika)】

~ 1日の振り返り

~ ★旅の終わりに★ 時空を超えて月は輝く ”記憶の手ざわり”が物語る人々の想い

~ ♪エンディングテーマ Mr.children「here comes my love」 記憶を受け継ぐスペインの”Japón”


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サマリー

宮城県石巻を中心とする3日間の旅の最終回として、宮城県慶長使節船ミュージアム(サン・ファン館)を訪れ、伊達政宗が江戸幕府の了解を得て慶長遣欧使節を派遣した背景をたどる。伊達家の貿易構想、ルイス・ソテロの布教目的、支倉常長の使命が交差し、使節は1613年に月浦を出航してメキシコ、スペイン、ローマへ向かったが、貿易とキリスト教布教の計画はいずれも実現せず、7年後に帰国した。支倉常長の帰国後、伊達領ではキリシタン禁制が改めて発布され、常長の肖像やローマ教皇像などの遺物は秘蔵された一方、本人の日記は行方不明のままとされる。関連資料は日本とスペインの共同提案でユネスコの記憶遺産となり、東西交流の証として紹介される。旅の後半では、出航地の月浦と名和晃平の作品「White Deer(Oshika)」を訪れ、震災復興とアート、鹿に込められた「迷い鹿」の意味について語る。最後に、物に残る記憶の手触りや、歴史資料から想像される人々の思いを振り返り、スペインのコリア・デル・リオに残る「Japon(ハポン)」姓の人々と慶長遣欧使節のつながりにも触れる。月を介して過去の人々と現在の旅人がつながる感覚を、Mr.Childrenの「Here Comes My Love」とともに旅の結びとしている。

サン・ファン館と慶長遣欧使節
大人になりたい旅がしたい。このポッドキャストでは、旅行とお酒が好きな同級生2人が、大人だからこそ知りたい、ちょっとディープな国内旅行のモデルコースを紹介していきます。
内田です。 今回は、海にたどる記憶のお手触り、みんな月を見ていた。というね、宮城コースの3日目の後編となっております。
前編の方ではですね、石巻焼きそば専門店ハセベさんで石巻焼きそばをいただいたところまで進んでおります。
後編の今回は、このコースの大いなる謎である、なぜ伊達藩陵宮城県にキリスト教の遺物が残っているのかというその謎に迫っていきたいと思います。
ぜひ前編、そして1日目からですね、聞いていただけたら嬉しいなと思います。それでは本編です。どうぞ。
そしてですね、ここからがいよいよ本番といいますか、本題になってくるわけです。
なぜ今回この旅行を石巻をメインにしているかというのはですね、今から行く一連の施設によります。
それがですね、石巻焼きそば専門店ハセベさんから、来るまで20分ほど、方角点が東なので最初の埼玉食堂に戻っていくイメージなんですけれども、海沿いを東の方に行きます。
そこにあるのが宮城県県庁施設展ミュージアムサンファン館です。
これすごい大きな施設ですねこれ。
この初日から降っていた県庁施設団のミュージアムってことね。
そうなんですよ。
いよいよ謎解きという感じですね。
そういうわけでね、実は石巻市、雄鹿半島というものがまさに入っているところなんですけれども、
雄鹿半島ってよく間違えるんですけど、秋田の雄鹿半島と宮城の雄鹿半島なわけですけれども、その入り口に佇んでいるのがこのサンファン館になります。
以前、1日目で仙台植物館でこの施設の大使を務めた長谷倉六衛門、長谷倉常仲と言われている人ですけれども、
この人と彼が持ち帰ったとされる謎の肖像画とかいろんなものがあって、それは仙台にもあるという話だったんですけれども、
なぜこのサンファン館は石巻にあるのかということなんですね。
まあ先ほどまでの話を振り返ると、やっぱりここから船が出たのかなっていう感じですよね。
おっしゃる通りです。具体的に言うと、厳密に言うとこのミュージアムの場所ではないんですけれども、
ここから後々話すんですが、車でさらに15分ほどかな、東へ雄鹿半島の方行ったところ、半島の中にね、月野浦というところがあったんですね。
今もあるんですけど、その月野浦という場所から彼らは船出したというふうに伝わっています。
それが1613年の秋だったというふうに伝わっているんですね。
このミュージアムで言いますと、この長谷倉常仲をはじめとする私鉄団が一体何者だったのか、
何を求めて船出したのか、そしてその背景にある正宗の思惑とは何だったのかということだったり、
今の時点で分かっている彼らの研究成果というものを、これねめちゃくちゃ丁寧に解説されています。
ちょっと見てみましょうか、展示ね。
その真ん中に地球儀があって、彼らの航路を光で辿りながら見られるというプラネタリウムみたいなものなんですよ。
ああ、地球儀だけどこれ映像が投影されてるんですね。
その通りです。
ああ、だからこの船の航路とかがめちゃくちゃわかりやすいわけだ。
そうなんですそうなんです。
すごいビジュアル豊かですね。
これね、経ったのは1990年代なんですけれども、
その後実は震災でやはりね、被害を受けたために休館とかもいろいろ経てたんですけれども、
2024年にリニューアルをしたばかりなんですね。
なのでこれすっごい新しい展示館になってて、
内容も今の最新の映像技術とかも存分取り入れた、すごく視覚的にもわかりやすいミュージアムです。
なのでね、これ行っていただくと単純に展示を見るだけではなくて、
実際にそのシアターとかで映画をやっていて、
本当に映画を一本鑑賞する感じでね、体験もできます。
しかもこの上映室、シアターの壁のところには船の造形物があったりとか。
そうですね。当時のガレオン船と言われた防衛地船を模しているという感じですね。
この綱とかがね、張り巡らされてるわけですね。
これはちょっと楽しそうだな。
これはね、ちゃんと上映時間も指定されてますから、
これに合わせて、展示見てる間にどっかしらでは全然当たると思うんですけど、
見てもらえればいいかなと。30分ごとに上映してるのでね。
ちょっとせっかくの予告編を見てみましょうか。
今映像めちゃくちゃ凝ってたよ。
すごいですよね。プロのメカみたいな。
実写もイラストっぽいのもあったし、CGもあったし、すごいな。
鈴木アンさんがね、語りをやったりとか。
こっから本格的な話になっていくわけなんですけれども、
一体この慶長慶応施設とか何だったのかということなんですね。
実はそれもですね、このウェブ上においてもめちゃくちゃ凝ったところになってまして、
デジタル航海というコーナーがあるんですよ。
これをちょっと見てほしいんですね。
旅路を巡ってみようと言いますかね。
はい。慶長慶応施設というのはそもそも何かということなんですけれども、
これは関ヶ原が戦いが終わった13年後、大阪夏野寺に豊臣明が滅亡する2年前。
なのでもう江戸幕府が固まって、もう二代将軍秀田田の時代になってる。
家康まだ生きてるんですけれども。
なのでもう徳川家の天下が万着になりつつあるという時代なんですね。
その時伊達正宗は仙台藩の藩主としてなっていて、
それこそ遂行時に力を入れたり内政をしっかりやっていた時期なんですよ。
あくまでも徳川家の一代名として事業を守っていた。
伊達政宗とルイス・ソテロの思惑
しかしながらですね、この時徳川幕府を巡る国際情勢というのはすごく不穏な情勢でした。
かつ微妙な過渡地だったんですね。
後の話をすると1630年代になると、いわゆる鎖国というものが行われて、
諸外国との付き合い、特にヨーロッパとの付き合いというのはオランダだけに限定される。
それはしかも出島だけに限定されるわけですよね。
しかしながらそれが行われる前のちょっとした時間なんですよ、空白の。
その時どういう状況だったかというと、
織田信長とか秀吉と近づいていた、それこそポルトガルですとかスペインとかっていういわゆるカトリックの旧国ですよね。
オランダ、イギリスという新興国の争いというのが、日本の利益を巡って深刻になっていた時期なんです。
徳川とかっていう権力者の誰とどの国が手を組むかということで、
日本という金が眠っているこの島国というものをどういうふうにアジア世界の貿易で掌握できるかっていうのに、
ヨーロッパの人たちも躍起になっている時代なんです。
だからみんながみんなこの江戸幕府との付き合い方というのを模索している感じで、
一方の江戸幕府としても貿易の利っていうのはめちゃくちゃ感じていますから、うまく貿易はしたい。
だけれどもキニスト教っていうのが入ってくると、いつかの一行一気みたいなことになって大変なことになっちゃうんじゃないかということで、安易は入れたくない。
これは秀吉の姿勢であり、イリアスもそれを踏襲したんですね。
しかしイリアスは結構以前イリアスの時に話しましたけど、彼自身はめちゃくちゃ国際派だったんですよ。
そのためにスペイン国王フェリペ3世から贈られた時計というものが、彼のクノーザントーショフにまだ残ってるって話をしたと思うんです。
ああいう人だったんですよ。
なので後々のイメージの江戸幕府ではなく、イリアス自体はかなり国際派の知識を持っていた人物だった。
そういう背景の中でこの施設を贈られたんですね。
じゃあなぜこれを伊達政宗が贈ったかということなんですね。
正宗はですね、これ勘違いされている方もいるかもしれないんですけれども、決して幕府に無断で勝手に送ったわけではないんですこの施設を。
あくまでも江戸幕府の了解を得て、しかも江戸幕府の船の部長とかも手伝ってもらって船を作って、その上でこの船を出発させたんですね。
で、なんでそんなことをやる必要があったのか。これは正宗がやりたいって言ったからなんですけれども。
これは理由は正直真はわかりません。今でも。わからないんですが、一つ言われているのは、伊達家の仙台藩の経済政策のためだったというふうな説があります。
これどういうことかというと、当時この南蛮貿易がもたらす富っていうのは、西国に集中してたんですね。
つまり九州です。長崎がその筆頭なわけですけれども。
あと平戸っていうのもありましたけど、平戸長崎あたりでみんなヨーロッパの国が植民地にしているフィリピンとかインドネシアとかその辺の国から近い九州に船を渡してくれるわけです。
それ当然メリットを考えればそうなりますよね。
そこで九州の諸大名たちが南蛮のものを手に入れて逆に日本のものを輸出して、それで莫大な富を手にしている。
その筆頭だったのが佐賀藩なべ島。
技術もそこから入ってくる。
そういうことです。
当時江戸幕府も貿易に乗り切れしたから、衆院っていうものを発行して、その衆院をつけた船だったら行ってもいいと。
マニラとかマカオにも行ってもいいっていうことを言い始めて、長崎の商人たちは衆院船幕府のお墨付きをもらって東中井に飛び出していった。
その生き残りが小笠原諸島を唯一公開できた島谷一財門。
これもその時の生き残りだったのが後々になって命令されたって話でした。
ちょうど彼らが生きて若かった時の時代です。
そうすると日本の南蛮貿易の富というのは九州に集中するんですよ。
これがあまりよろしくないと思ったんですね。
特に思っていたのは伊達家なんですよ。
まあ離れてるからね。
自分たちは神殿開発とかで頑張ってるけど、経済効果としてやっぱり南蛮貿易ってのはすごく惹かれるものがある。
なんで船たちは東北に来てくれないんだろうか。
今から考えるとオランダとかポルトガルとかそういう九州方面に召喚を拠点を持ってるところが盛んになってたからなんですよ。
でも伊達家は伊達家で東北に生まれたから仕方ないってことを諦めなきゃいけないのかっていうのが諦められなかったんですね。
ということで九州の諸大名たちがやってるような貿易を俺もやりたいというふうに思ったと言われてるのがまず一つ目の動機だとされてます。
しかしこの仙台、とても石巻みたくなるわけなんですけれども、石巻を使って貿易しようとした時にマニラマカオまでどうやって行くんだって話になるわけですよ。
ちょっと遠いですね。
あまりにも遠いじゃないですか。
しかもそれで九州の大名たちに妨害とかされたら結局全然おこぼれをもらえるかどうかみたいな。
そうだね。結局九州を経由することになりそうだし。
そうそうそう。だから中抜きとかされちゃうかもしれないしさ。困るわけですよねそうすると。
って時に正宗は新しい貿易の販路というのを開拓できるんじゃないか、開拓しなければいけないんじゃないかと思ったんです。
そんな時に彼に近づいてきた人物がいたんです。これをルイスソテロという人物がいました。
これはスペイン出身のキリスト教の宣教師です。
彼はなぜここにいたのかというと、当時豊臣秀吉もバテレン追放令とか言って追っ払っちゃったんだけど。
一回宣教師は全部で金教とかしてるんだけど、かなりゆるかったんですよ。
秀吉はミシチシメに殺しちゃったりもしてるんだけれども、なんだかんだ結局グレーゾーンみたいな形で京都とか大阪みたいな目につくところにはいないんだけれども、
九州にはまだ普通にいるし、江戸とかにもまだいるんですよね。徳川家の家康は割と開国派だった。
っていうのでまだ普通に宣教師はいたんですよ。
それを大ぴらに布教するのはやめろって言われてるけど、スペインとかキリスト教会たちは何を考えてたかというと、
日本に再びフランシスコ・ザビエルがやったように、もう一回キリスト教をここで再起を図ろうとしてたんです。
つまりマサムネは新しい国と貿易を、九州の奴らを出し抜く貿易がしたいと。
一方でルイス・ソテロを始めると日本に残ってるわずかな宣教師たちは、もう一回自分たちの近いキリスト教というものを日本に広めたいというのが思っていた。
そんな時にルイス・ソテロがマサムネに近づいていったのは、スペインという国は実はマニラ・マカオだけとかじゃなくて、太平洋の彼方にあるメキシコというところを持っているんです。
メキシコは実はあなた三陸から行くのが日本で一番近いんですよ。
なぜなら太平洋を横断してそのまま横に突っ切れば九州の人たちが行くよりも石巻が一番近いんですよっていうことを言い始めたんです。
大差ない気もするけど、日本の中では近いよね。
ポルトガルとかって九州とガッチリ組んじゃってる人たちじゃない新しいスペインという相手なんですよ。
そして私ルイス・ソテロはそのスペインの国の出身なんですと。
マサムネさん私たちでなんとかお互いのためにしませんかっていうことを言ったと伝わっている。
これは分かんないどうかまだ本当なのか。
その結果マサムネはイエスはそういう冒険理解があったのでイエスにはちゃんと話して私はスペインにちょっとかけてみたいと思う。
幸いソテロが言うにはこの私が持っている石巻から出すと一番近いと言うからその通りにしてみようと思います。
ちょうどあなたイエスあなたのところに最近ナンパして漂着しちゃったスペイン船の船長みたいのがいるでしょう。
あれを送り届けるっていう名目つまり相手に恩を着せるって名目で船を出したいと思うんですよ。
それは私たちの家臣に叱るべきものを選んでその送り返すスペイン人とソテロとその家臣を乗せてメキシコへとりあえずやってみて情勢を探らせたいと思う。
だから船を作っていいですよねっていうことを言った。
イエスはそれよしとしてバックも協力したんですね。
その結果できたのが2本目は分からないんです。
もう今分からなくなっちゃったんですけどスペインの記録にサンファンバウティスタ号という風に残っている。
これが先例者ヨハネという意味らしいんですけれども。
これを月の裏このオシカ半島でのどこかでこれを作った。
日本の財務庫を使ってスペイン人たちが技術を教えて船を作ったと言われてるんです。
だからもう本当いろんな人の伊達政宗と選挙主とイエスの思惑がそれぞれ合致していけることになったんだ。
そういうことなんです。
実際にマサミネが自分の家臣から自分の代弁者として選んだのがハセクラ・ロクウェモンという人物だった。
これが今の世の中にはハセクラ・ツネナガとして伝わっている人物。
ツネナガが本当の名前か分からないんです。
ロクウェモンとしか名乗ってないんで分からないんだけど一応ツネナガと伝わってます。
初日で絵に描かれてた人。 絵に描かれた人です。
しかし彼はなぜ選ばれたのかここも謎なんですけれども。
ちなみに言うと彼はその時まだキリシタンでもなんでもないんですよ。
ただの伊達家の武士なんです。
すごいキリシタンの格好してたけどね。
そう、あれはあっちに行ってからああなったんです。
当時はただの日本人だったんだけどどうも記録を追っていくと
ハセクラ・ツネナガはマサミネに若い頃から疲れていてすごくできる奴だったらしい。
ところがなんでかよく分からないんだけれども
お家が何か家自体がしくじったのか何かの罪に連座して
一度役職を解かれちゃったりして霊遇されてたんですね。
けれどもマサミネはその才能を惜しんだと言われていて
この順位は誰も行きたくないわけですよ、はっきり言ってスペインに。
まあね、怖いよな。
そう、どこかもしれない。たどり着けるのがよく分からない国ね。
だけどあのハセクラ・ヨクエムはできる奴だし
たぶん彼を抜擢してもみんな行きたくないから文句は言われないし
もしかしたら成功したら彼は再び立場を取り戻せるから
っていう親心もあったと言われてるんだけど
それで彼を選んだ。実際すごい有能な人物だったと言われてるんですよ。
ヨクエムもその命令を受けたので仕方なく
ただの先代版の藩主として終わるはずだった人生が
急に太平洋を横断してメキシコへ行けスペインへ行けっていう
匿名宣言に対して任命されてしまったんですよ。
大威張的だね。
しかも別に下級武士だったので。
っていう一生あった。
支倉常長、メキシコからスペイン・ローマへ
そこで結局船ができてこの1613年新暦10月28日
石巻にある月野浦というところから出航をした。
そしてなんと2ヶ月を約かけてアメリカ大陸に着いたんですね無事に。
そしてアメリカ大陸を岸次第に今のアメリカの辺りのロサンゼルスを渡っていって
メキシコへ着きました。
そしてメキシコへ行くとメキシコ総督というのがいるんですね。
スペインをフェリペ3世の部下であるメキシコ総督というのがいて
これに国書を渡したんですね。
何が書いてあったかというと
マサムネとイエスそれぞれの手紙があったんですけれども
親愛なるメキシコさんというふうに言い始めて
フェリペ3世のことを私はめっちゃリスペクトしてるんだと。
なんでかっていうとスペインというものが非常に偉大な国であって
ぜひ私としてはあなた方の教えであるキリスト教というものを
仙台藩の領内、その後マサムネはそこにちゃんと理解がある君主なんですよ。
だから仲良くしたいんです。
その仲良くしたいために
お互いに私の仙台藩領とメキシコで
船のやり取りをするように航路を結びませんかってことを言い始めたんです。
これはたださっき言ったマサムネの親はつまり貿易がしたかったんです。
メキシコというのも金とか銀とかめった取れる国ですから。
それという狙いもあったと思います。
一方でソテロは通訳として来てるわけなんですけれども
彼の狙いはキリスト教の不況にあるんですよ。
しかももっと言うとソテロというのは野心家だったと言われていて
彼は自分がこのキリスト教のもう一回復活というのを日本における
復活というのを成し遂げた見返りとして
自分こそがキリスト教の中の日本のリーダーであるという風に
ローマ教皇とかスペイン王が認めてほしいという下心がある。
それだけで役割を果たすつもりでいたんですね。
実際そういう役割になれそうなわけですね。
成功したらね。だから熱が入るんですよ。
だからそれぞれの思惑でそれぞれのことを
本紙をみんな言わずに手紙に書いて
それをメキシコの総督に渡したんです。
メキシコの総督からすると
何か得体の知れない謎の国の侍が突然やってきて困るわけですよね。
これで奉約書って言われたって話になるし
ことが意外とこれ重大だぞというのが分かってる。
ちなみに大変を横断した人物は田中正介という商人が
徳川家康の名誉で何年か前に初めて横断してるんで
メキシコ人が日本を見るのは初めてじゃなかったんです。
二人目だったと思います。日本人を見たのは。
でもこれは何かいきなり
伊達正宗って誰だよみたいな話になってくれて
これはメキシコ人は判断できねえってなって
悪いんだけど俺じゃ判断できないから
マドリッドへ行ってフェリペ三世と直接話してくれって言ったんですね。
ってことになって当初はメキシコで行って
そこで渡して終わりだったはずなんだけど
いろんな歯車が狂い始めて
なんとマドリッドに行かなきゃいけなくなっちゃった。
すげえ大事になってきたね。 大事になってきた。
でとうとうメキシコの半島西海岸にいたんですけど
渡って東まで行ってそっからメキシコの今度船で持って
フェリペ三世のいるマドリッドまで渡るんですね。
これで航路が書いてあるわけです。
今石巻からメキシコに着きました。
着きました。そして
キューバに行って東に移るわけです。
これちなみにサンファンバウティスタ号はこの時
東側に行けないんだよ大西よこの時まだね。
なので日本に帰ってます一回。
他の商人みたいのもいっぱいいたんですよ。
威嚇戦記を企むいろんな商人とかうぞうぞうの人物が
この船に乗ってたって言われてて
彼らはメキシコでバイバイして
一定の利益を収めてさっさと石巻に帰ったんですね。
だから本来のマサムネの使いとかソテロだけが
東へ行くことになった。
また別の船に乗ってマドリッドに向かう。
そうそうスペインが用意した船に乗っていくんです。
着くんですよとうとうスペイン。
この時の航路というのが一応記録上に残っている限り
初めて大西洋を温暖した日本人とされてます。
そしてスペインはソテロのまあふるさとでもありますので
いろんな仲介書とかもいてくれてスペインでは歓迎されました。
当時スペインというのはフェリペ3世がいて
沈まぬ王国帝国だったわけでね
その無敵艦隊は最近も強さを発揮したわけですけれども
ああいう国なわけです。
ところがこの時実は結構イギリスとかオランダっていう
プロテスタントの国に押され始めていて
若干経済状況に限りがあったんですね。
だから貿易というのはある意味いいかもしれないけど
それに匹敵するだけの富がちゃんと得られるのかっていうのは怪しいと思う。
なるほどね。
英帯の知れない日本なんていう国と
貿易して利益が得られるのかと。
ただ上手い話かもしれないと同時に思うわけですよ。
賭けだよね。
そうだってオランダとかは長崎で上手くやっちゃってるんだもん。
そうだね。
この時見てほしいんですけど日付を。
これ1614年12月についてるんですね。
つまり月の裏を出発してもう1年経ってるんですよ。
ようやくマドリトに着いたんですね。
マドリトに着くとフェリペ3世というのは非常にこれを歓迎したんですね。
アローコとか国王隣接とかっていう超特別待遇で
ハセクラ・ツンナガをもてなしてあげて
さらにハセクラ・ツンナガはこの時何を思ったかわからないんだけど
自分はキリシタンになりたいって言い始めたんですよ。
それを受けてスペインというのはカトリックのリーダーだと思ってますから
素晴らしいとお前の心を行けばってことになって
特別に私たちの前で一緒に式をあげてやろうってことで
なんとスペイン国王フェリペ3世のプロデュースによって
その国王のいる前で抽選したんですね。
ハセクラ・ツンナガっていうのは。
異常なんですよ。
これヨーロッパでも普通ありえないことだと思うんですよ。
すごいね。下級武士だったのにね。
なんでこの時ハセクラがキリシタンになりたいと思ったかはもうわからないんです。
もう誰もわからない今これはもう。
そのやり取りをうまくするために言ってるのか。
その説もあります。
でもこの1年の間で宣教師と触れ合って
もう完全に心から信仰してたかもしれないし。
かもしれない。これはわかりません。
ただわかってる事実としては
この時スペイン国王もその周りの議会とか宣教師たちも
めちゃくちゃ悩んで議論したんですね。
それなぜかっていうと
おかしな情報が方々から入ってきて
この施設は一体何者なんだってことがわかんなくなってきたんです。
国書はちゃんとあって金箔のめっちゃゴージャスな手紙
これスペインに残ってるんですね手紙がまだね。
っていうものがあって
これはすげえ日本ただならぬ者から来たのは間違いない。
これはすげえんだなと思った。
確かにこいつはキリスト教に理解がある。
マジでこのハセクラという男はすごく頭がいいし
キリスト教も受宣したってのは本気なんだろうと。
これはただ追い返すのかわいそうだし
あるいはスペインのためにもなるかもと思った。
ところが一方で別のルートから変な話が聞こえてくるんですね。
日本は大樹徳川家康の名前で
キリスト教を全面金鏡にしたそうですよ。
っていうのが情報として入ってくる。
え?みたいな。
だって今こいつ
今キリスト教に仙台に広めたいとか言ってるやつがいるんだよ。
俺の国手元に。
いやでも別ルート確かな筋から
今日本は金鏡令を発布したっていう形が入ってきてるんです。
どういうことってなって
そもそもこの伊達正宗って何なのこいつは?ってことになって
これちょっと分かんねえなって
ちょっと分かんねえから
キリスト教のことはやっぱり一番トップで決めてもらおうとなって
ちょっと悪いんだけど
俺でも判断がつかないから
ローマに行ってくれないか。
すごいね。
ローマ教皇がそこにいるから
その人がキリスト教の最高位の人なんだと。
ということでローマへ行ってほしいと。
船は俺たちが用意するからってことで
フェリペ三世をスペイン船で地中海を渡らせて
なんと施設をローマへ運んだんですね。
これがその模様です。
一旦フランスに寄って
イタリアローマに。
またこの時スペインマドリットについてからもう1年また経ってるんですよ。
本当だ出発から2年経ってるね。
そうなんです。
彼らはもともとローマ教皇と会うということも想定していたんですね。
そうなんだ。
意外と伊達正宗とかイエスっていうのは国際秩序をちゃんと認識しているので
どういう権力構造になっているかってある程度知ってるんですよ。
メキシコ総督っていうのをまず絶対言うだろう。
メキシコ総督がオーケーって言ってくれれば話は楽だったんだけど
それがダメな可能性も考えられる。
フェリペ三世に多分答せることもあり得るだろう。
だからフェリペ三世用の手紙も持ってるんですね。
その上で万が一ダメだったらローマに行くことも考えられるから
予め用意してたんですよ。
すごいね。周到だね。
この時代の日本人は意外と世界のことがわかってるんですよ。
なので彼らも想定内ではあったんだけれども
本当はフェリペ三世あたりで貿易OKって言ってほしかったのが本心だと思いますよ。
だって貿易はスペインの取り分なわけだからさ。
そうだね。
けど結局ローマに行かされちゃって
ローマ行ったんですね。
そうするとローマ教皇パウロ5世という人物がこの時の教皇なんですけれども
サンピエトロ大聖堂ですよ。今で言うね。
大歓迎を受けるんですよ。
東の国からもう2年かけてクリスト教のためにやってきた人たちがいるんだと。
確かにね。
なぜそれが熱狂を呼んだかっていうと
これの時から30年前の少年たちのことを思い出していた人がいたはずなんです。
それは文後の大名大友宗林という人物が送ってきた伊東満所以下4名の少年たち。
天宗建王施設という九州の大名が30年くらい前に送った施設がいるんですよ。
大友宗林の親戚なんですけど。
これはインド洋ルートで東から行ったんですよ。
これがおそらく日本人が初めてヨーロッパに行った日本人なんですけど。
彼らも大歓迎を受けるんですよね。
でもその時のことを長谷倉津長が知ってたかは知りません。
けれどもローマ人たちはその日本という国があって
彼らの中にはキリスト教に本気で命を懸けている人たちがいるっていうのを知ってた。
それはすごく日本人との知性があって常識があってすごく付き合うに足る相手だというのも知ってた。
そしてまた30年の時を経て再び日本人がやってきたっていうので大歓迎になります。
でもイタリアの記録にめっちゃ公害みたいになって
日本から施設到来っていうので長谷倉津長は馬に乗ってパレードをして
帽子を取ってみんなに挨拶をしてたという。
そういう記録が残ってるんですローマの市内に。
そしてついにローマ教皇パウロ5世と直接会って
そこでいたわりの言葉とか応答をするんですね。
これがローマでの一見という旅のハイライトです。
すごいことになってるね。
そうなんですよ。ところがローマ教皇もローマ教皇でまた迷うんですね。
この時何が起こってるかというとやっぱり確かな筋から
日本はどうやらキリスト教を禁止したらしいという話が入ってくる。
そしてもう一つ悪かったのは
このソテロという宣教者大丈夫なのかってことになってくるんですよ。
これはソテロの悪口が言いふらされて始めたんですね。
ソテロは野心家ですと。
全然その気もない日本人を騙して
自分の野心のために多くの人を犠牲にしようとしている。
それをなぜ始めたかというと
そもそもキリスト教の会派の中でも対立があって
誰が日本の利権を獲得するかっていう暗党があるわけですよ。
それにソテロに出し抜かれたって焦った奴らが悪口を言い始めた。
でも言われるソテロにも問題があって
ソテロはいろんな記録に言うと巨型兵器があったんじゃないかって言われてるようなことを言って
ちょっと怪しいね。
何を言ったかっていうと手紙にこそ書いてないんだけれども
当時のローマ記録とかによると
伊達正宗は次の将軍になるって言いふらしたらしいんですよ。
今の日本しかありえないんですよ。
ちょっと虚言だねそれは。
徳川はいずれ倒れる。
二代将軍秀田だというのはいるけれども
そうじゃなくて正宗こそが日本を支配する時が必ず来る。
だからこの仙台という国とやっていくとこが
めちゃくちゃ将来のためになるんだって言い始めたらしい。
けどイタリア人もさすがにそこまでどこが本当かわからないから
よくわかんないけど怪しいと。
確かなことは下せない。
けどこの長谷倉積中というのがガチなキリスト教徒だから
とりあえずこいつの宗教意志は取り残なってあげようと。
いうふうにしてローマ教皇と会うことができて歓迎もされたんですよ。
けれども貿易云々とか
日本が引き続き復活するとこれ本当か怪しいぞってなって
とりあえず少なくとも貿易のことっていうのは
そもそもローマ教皇云々じゃなくて
フェリペ3世が判断すべきものだから。
スペインとの貿易だからそもそも。
国の話だからね。
宗教とは違いますから。
また別だからね。
そもそもアカプルコってメキシコの港と仙台との付き合いの問題にターンを走っているので
これをフェリペ3世が判断すべきだろうっていう風にローマ議会も言い始めて
私鉄は再びマドリードに返されるんですね。
スペインに返されて
ここでもスペインでもなかなかやっぱり怪しいという風になってきている。
現にどんどん情報が集まってきたら
どうやら徳川というのはもうとっくにキリスト禁止してるらしい。
そもそもイエスというのは死んでるらしいぞもうすでに。
実際に徳川幕府はもう全領内日本に禁経令を全部敷いてるんですね。
しかし常永はそれを知らずに出発してからその禁経令を発表された。
なるほどね。
ちょっと雲行き怪しくなってくるね。
そうなんですよ。
そしてスペインでも彼は貿易の実現のためにすごいいろんな粘り強い交渉をするんですけれども
やっぱスペインはさすがにそこまでバカではなくて
やっぱこれは怪しい。やめたほうがいいってことになって
最後はもう国を追うようにしてメキシコへ返して
おとなしく仙台に帰れというふうになる。
しかしそれでも諦められなかったソテローと常永は
いろんな格索というか交渉するんだけどメキシコはメキシコで。
さらにメキシコは返されて月の裏に直接帰らないで
マニラに行くんですね今度ね。
フィリピンに前線地がそういう貿易の基地がありますから
ここへ行ってここでいろいろまた活動するんですよ。
ここの総督とかに頼み込んで
なんとかフェリペ3世の気を変えようとするんだけれども
さすがにヨーロッパもそこをちゃんとしてるから
それはやっぱりダメだということになって
マニラに2年近くいるんですねこの後。
なんとかそのマサムリの言われた使命である
貿易実現というのを目指そうとしたんですよ。
その2年の間ずっと交渉をしてたんだ。
なるほど。
この時すでに私鉄が経ってから5年以上経ってるんですよ。
ソテロはソテロでやっぱりちょっと日本は厳しいかもって思ったけれども諦められない。
せめてこのフィリピンの先頭地として認められたい
功績がありたいということでそこは認められたんですね。
だからソテロはフィリピンに1回落ち着くんですよ。
常長はしかしどうしてもやっぱり了解得られないって風になって
やむを得ずもうマサムネのお土産とかだけ買って
失意のうちに月野浦へ帰ってくるんですね。
帰国後の禁教と失われた日記
そして1620年9月20日月野浦を出発してから
もう7年が経った時に帰ってきた。
そして仙台にマサムネに呼び出されて越見しに行くんです。
そしてマサムネはその報告を諸々聞いたわけですよ。
もちろん彼はもう7年前のことだからどこまで本気に思ってたかわからないけれども
少なくとも枷から繋がったのが自分の使命を果たそうとして
7年かけて帰ってきたっていうのは驚いたと思います。
もう帰ってこないとも思ってたかもしれない。
私が帰ってきちゃったんですよ。
しかし帰ってきた服装を見て愕然とするんですね。
それはなぜか霧下になってたんですよ。
もう日本で禁拠されてるはずの霧下。
この時二代将軍秀田というのはかなりの保守的な立場の人間なんです。
なんでイエスと違って結構この人は禁拠令を徹底しろって言うんですよ。
この時まだ潜伏キリシタンみたいな人がいっぱいいるところにいたんですけれども
もう絶対ダメ。先頭者残らず追い出せ。
追い出せないなら殺せって言うんですよ。
っていう時に常永が帰ってきてしまったんですよ。
正宗はさすがにどうしようと思ったと思う。
もうこの辺りはわかりません。
しかし事実としてわかっている範囲で言うと
正宗が常永の報告を受けたその直後に
伊達領内に改めてキリシタンの禁制というのを大々的に発布したんです。
そして常永はその後どうなったかはもうわからないんですけれども
一節にはその2年後にひと知れずひっそりと仙台で亡くなったと言われています。
ただお墓もいくつもあって
結局常永はいつ亡くなったかもよくわからないんですね。
っていうことがあったんです。
これが慶長憲法説というものだったんです。
結果だけ見ると残念な感じではあるけれども。
でもすごいよく頑張ったなあ。
そうなんですよ。
多くの謎があるんですよね。
結局タイミングが悪かったっていうのは本当にそうだと思うんです。
この7年の間の日本の動きがいい方向に動かなかったってことだね。
そうですね。
でも1613年の出航時点で近郷令というのは引かれるってのはわかっていたはずなので
正宗としては多分だよ。
僕が推測するんですけど正宗としては上手くソテルを利用して
キリスト教に寛容な姿勢を見せつつ
いずれ日本ではキリスト教はN字になっちゃうから
実際には頑張ったけどできなかった体位にして
なんとか貿易の利があるということだけを
メキシコにわからせろっていうことが真意だったと思う。
そのために正宗も私はキリスト教に寛容です。
理解もありますみたいなことを書いてるけど
自分がキリシタになりますと書かなかったんですね。
ローマ教皇はそこをついて
そう思ってるんだったらまずあなたが受宣してからまた話に来てください
っていうふうに返したとも言われてる。
ソテルはソテルで逆だと思う。
キリスト教がやばくなるのはわかんないけれども
マサムネみたいな野心家がスペインとの貿易を優先するために
キリスト教を妥協する感じもあるんじゃないかと思う。
だから自分の宗教的な使命をさせるために
マサムネと貿易の利というものを利用したと思うんですよ。
しようと思った。
しかしそれはいろんな交渉がうまくいかなくて
結局2つともとんざした。
どっちもうまくいかなくなって
帰ってきてみたらキリスト教に禁止されてた。
だからこの人たちにとっては
うまく時代ではまらなかったっていう感じなのかな。
そうですね。
ちなみに言うとこのソテルというのは
それでもなお諦められなくて
長谷倉常長が月の裏へ帰ってから4年後くらいかな。
もう完全に禁止されている日本に
なんと密入国したんですね。
そして九州で最期を図ろうとしたんだけど
もちろんそんなのを見逃すはずもなく幕府が。
最終的には今の長崎空港がある大村で処刑された。
という殉教してしまったんですね。
そして長谷倉家というものも
常長はそのままひっそりと亡くなったと言われているんだけれども
長谷倉常長の息子の代になってくると
家人、つまり家来に飯使いとかに
キリシタンがいるっていうことが急問されて
何と長谷倉常長の子供は処刑されてしまって
長谷倉家は断絶してしまったんです。
まあまあでも当時の情勢からするとしょうがないことなのかな。
絶対ダメなんだもんね。
そうなんです。そしてキリシタンというのはもちろん禁止になって
後々ね潜伏キリシタンが実は残ってたことは後でわかるわけですけれども
一応名目上はもうこの世から日本にはいなくなったということになるんです。
ここがうまくいってたらまた違う文化になってただろうね。
今のが歴史の事実としての顕著検証施設の終わりなんです。
しかしここでやっぱり謎なのは
今まで見てきたものが一つ一つなんですよね。
正宗の墓には何が入ってたか。
その金のブローチロザリオが入ってたわけです。
そして正宗の孫のお陽には
謎のバラの花が描かれていたりした。
これはだからもう間接証拠でしかないんだけれども
あるいは長谷倉常長がもたらしたものっていうのは
絶対幕府にバレちゃヤバいんだけれども
西洋の文物っていうものを持ち帰ってきたのが事実なんですよ。
それは幕府にバレないように伊達家に秘蔵されて
エッセンスをところどころにバレないように残してあった。
キリスト教は広まらなかったけれども
そういったものがバラの花と金のブローチとか
その他諸々の証なんじゃないかという風に考えられてもいるわけですね。
もしかしたらだけど
正宗自身も表向きはキリスト教徒では言わないけれども
ちょっと興味があったりとかしてた可能性はあるよね。
大いにあると思いますね。
彼の趣味思考を言っても。
そしてやっぱりこれもいろんな考えがあるんですけれども
その最たるものというのが最初に見た絵なんですよね。
あれローマ教皇の絵なんてのを持ってるってことが
幕府にバレたら大変なことになるような要因相続がつくはずなんですよ。
大問題ですよキリスト禁止されてるのにさ。
それが残ってるっていうことなんですよ。
さっきの長谷倉津長の絵を見てほしいんですけれども
これすごいシワがついてるのわかります?
十字に折ったみたいなシワが残ってますね。
そうなんです。
これは長谷倉家から募集したと伝わってるんですね。
仙台藩が。
長谷倉家が断絶してその後実は復活するんだけど
一回断絶して息子は殺されちゃってるんで
その時に長谷倉家にあったものを募集したって言うんですよ仙台藩が。
長谷倉津長のキリシタになった時におそらくスペインで描かれたと思うんですけど
っていう絵も募集されて折り畳まれていた。
しかしながら仙台藩はこれを秘蔵したんですね。
取得したんですよ。
そして仙台藩のわずかの記録には
この藩の御用医者みたいな学者みたいな御用学者みたいなのがいるんですけれども
その人は長谷倉津長の絵を見たっていう記録が書いてあるんです江戸時代に。
藩の極秘の金庫でこれが見てびっくりしたっていうことを記録してるんです。
その時に見たものっていうのはこの長谷の絵と
それと剣とかローマとか持ち帰ってきちゃったいろんなものと
長谷倉津長の日記ってものを見たって書いてあるんです。
その時仙台藩にそれがあったって書いてあるんですよ。
その学者の記録によって。
世界の記憶となった遺物
で、この慶長県の施設の異物たちはどういう運命をたどって
今ここにあるのかっていうことも不思議なんですけれども。
その後ですね。
この施設の存在は誰にも明かされないまま
200以上年以上は過ぎていくわけなんですけど。
明治維新が起こった後に
ようやく日本も不平等条約改正だって言って
まさにさっき言った岩倉施設団が派遣されるんです。
彼らはもちろん明治政府からちゃんと使命を持って
ヨーロッパへ渡ったわけなんですけれども。
その途中に欧米の醸成したっていうのも兼ねていましたから
イタリアによるんですよ。
で、その時ベネジアに行った時に
岩倉はとんでもないものを見るんですね。
そこにあったのは
名の知れないハセクラ・ロクエモンなる人物が
残した手紙
250年前の手紙ってものが
目の前に現れたんですね。
これはお前たち日本人が残していたものだっていうのを見て
なんだこれはっていうふうになるんですよ。
どういうことってなって急いで日本に帰った時に
先代藩は何をしてたんだっていうことになってくるんです。
これ何ですかこの話になってきたら
実は蔵の中に秘蔵していたものがあるんです。
という中でこの絵が出てきたんです。
ローマ教皇でも出てきちゃうわけなんですよ。
っていう隠してた先代藩のものが出てきて
当時は逆に文明開化の世の中で
もうキリスト教はいろいろ禁制されたりしたんですけれども
すぐんとも諸罰とかはないわけで
とうとう超ビッグニュースになって
明治天皇がそれをご覧になるっていう話になって
明治9年秘蔵が帰ってきてから数年後に
先代で博覧会みたいなのをやるっていう時に
明治天皇がすごい来るっていうことになって
明治天皇はこれを見るんですね。
なった時にみんな大ニュースになるから記録をつけてた。
長瀬倉常永肖像がローマ教皇パウロを教えて帰ったんだ。
その中に一個だけなかったものがある。
長瀬倉常永の日記だけはそこになかった。
なくなってしまったんです。
江戸時代には先代版の学者が見たって書いてある
その日記だけがなぜかないんですよ。
これは今も見つかってないんです。
なぜなくなったのかわかんない。
そこに何が書いてあったかもわかんないんです。
けどこれがおそらく常永本人が書いた
本当の生に何がこの施設に起こってたのかってことを
伝える一番の資料だったのに
これだけがなくなってたんです。
おもしろいミステリーだなこれ。
単純に散逸してしまったのか
あるいは先代版が見られたら
まずいものが書いてあった何か
っていうので慌てて処分してしまったかわからないけど
いずれにしろ今のように伝わることはなかった。
これは幕府的にはあんまり公にしてなかったってこと?
そういうことなんですね。
これもよくわからないんですよ僕もなんですけれども
しかもいわくら友人たちは知らなかった
これがこんなことがあったことを。
でもそうだよね幕府的にも
これからキリスト教禁止してこって向きなのに
そういう施設団を送ってるっていうのは
矛盾する行為だから。
あんまり公にはできなかった。
先代版はもっとできなかった。
今更しかもキリストになって帰ってきてるしみたいな。
みんなして隠すしかなかった。
日記どっかに出てこないのかな?
わかんないですねこればっかりは。
僕も生きてる間にこれが見つかる日が来るのかわからないです。
最悪燃やしたりとかもあり得るからね。
っていう慶長建物施設というものの
一連のミュージアムがここなんですね。
大井の謎を残したまま今これはね
ユネスコの分解者に指定されてるんですけど。
これは世界的に見ても
価値ある歴史の遺物だと。
そういうことです。
東洋と西洋の交流の証だった。
そしてもっと言うと
慶長建物施設関連資料というのは
実際に歴史資料で初めて国宝にされたのがこれなんですけれども。
イノーズとかにも前なんですよ。
実はこれがユネスコに登録されるに至った経緯としては
日本とスペインの共同提案という立ちを取ったんです。
なぜかというと
このユネスコに登録されてる資料というのはいくつかあるんですけれども
日本で登録されてるのはこの3つなんですね。
長谷倉常長像、ローマ教皇像、そして
長谷倉常長に渡されたローマ市民権の住民票みたいなもの。
一方でスペインに残っていたのは
彼らが持ってきた手紙なんですよね。
当時の日本の権力者の手紙の生のものが
スペインの図書館に保存されてたんです。
これらをまとめて
この東西交流の証としてユネスコの記憶遺産になった。
やっぱりそういう話聞くと
その交流がうまくいってた時のことを妄想しちゃうよね。
そうですね。
どういう世界線があったのかはもう分からないですけど。
面白いミステリーとロマンと
って感じだなぁ。
そうですね。
日記が出て真相が明かされるのも楽しみだし
でもこれを元にしたフィクションとかも
すごく生まれそうな感じもするよね。
もちろんもちろん。
有名なところで言うと遠藤周作さんっていうね。
芥川賞作家で
『沈黙サイレンス』ですよね。
キリスト教徒信仰とか
潜伏キリシタの話というのも
書いた世界的な作家いますけれども
彼もやっぱり長谷倉常長を主人公にした
サムライっていう小説を書いてます。
この中では常長は
やむを得ず正宗の使命を全うするために
やむを得ずキリシタになったってことになってる。
だから日記を見たら
なぜ彼がキリシタに突然なったのかも分かるはずなんですよ。
面白いねこれ。
なのでね、ここのミュージアム
ちょっと今話が長くなりすぎちゃいましたけれども
こういった実際に何が起こったのかというのを
推測もいろいろあるんですけれども
あるのと同時に
サンファン艦っていうのは
これ要は船の名前から取ってるわけですよ。
実はこのサンファン号っていうのは
実寸大と考えられる模型っていうのが
このミュージアムの外に
屋外展示されてたんですよ。
ところがですね
これがまた震災でダメージを食らってしまったんですね。
当時は
50何メートルの実寸模型というのを
ここに展示して中にも入れたそうなんですけど
震災の被害で津波が押し落ちてしまって
それを破壊してしまった。
その結果
再建されることになったんだけれども
当時は50何メートルなものが
さすがに作れないってなって
今はその4分の1スケールの新しい模型が
このミュージアムの前に立たずに
この資料館は
すごく見応えがある
すごくロマンを感じる
面白い展示だなって感じがしますね。
今もスペインとの交流が続いてるんですよ。
石巻は非常にね。
なのでスペインをテーマにしたフェスティバルとかも
ここでやったりしてるそうなんで。
飲食のフェスティバルとか。
そういう時に行ってもらったら
なおさら面白いかもしれません。
月浦とWhite Deer(Oshika)
そしてですね。
このミュージアムもたっぷり見ていただいたと思いますので
最後のスポットに行きたいという風に思います。
サンファン間から車で15分ほど
さらにオシカ半島を東へ行きます。
そうするとね
途中15分ほど行ったところに
月の裏があるんですね。
長谷倉常長が出港した
その場所が月の裏で。
ここは今ね。
本当に静かな漁村になっていて。
ここから世界的な船が飛び立ったとは
とても思えないような静かな
小さな港なんですけれども。
常長の銅像が丘の上に立って
無意の方を見ているという風な感じになっていますね。
なのでここは特別何かミュージアムがあるわけじゃないんですけれども
その常長の像と石巻は
ぜひ見てもらっていいんじゃないかなという風に思います。
そして次が最後のスポットです。
月の裏を経由して車で10分ほど
行っていただいたところにあるのが
ホワイトディアオシカです。
これは施設とかではなくて
作品?
はい。
この白い鹿の
もう名前の通りですよね。
白い鹿の像がありますね。
これは一体何なんでしょうか。
何なんでしょう。
まあそのオシカ半島っていうね
名前に由来もしてるんだろうな
と思いますけど。
何の象徴なんだろう
これは。
これはオシカ半島の
本当にまたこれも柿の養殖場とかがある
漁村の中の本当に一角
森の中を抜けた先に
突然これが出現する。
この鹿の像は約6メートルあるという
像なんですね。
真っ白なんですよ。
この海に佇んでいて
なぜか空を見上げているっていうね。
何をこの写真ですね。
この星空でね。
ちょっとこれあれだね。
ハリーポッターにも見える。
水辺でね白い鹿がいて
エクスペクトパトローナム
な感じもありますけど。
この体にある
溝もね陰影がついてて
すごい印象的
ですよ。
これを作ったのは
縄公平さんという方です。
なんだっけ。どこで出てきたんだっけ。
めちゃくちゃ聞き覚え
あるぞ。
あれか。
禅のミュージアムか。
正解です。
禅のミュージアムの皇帝
っていう謎のUFOみたいな建築
があったと思うんですけど。
あれを作った方です。
アーティストは建築家でもあるんですけど
その方が作ったアートが
このホワイトディアなんです。
ちなみに縄公平さんは
鹿をモチーフにした作品が
結構多かったりします。
ちょっとね下に説明書いてある
わけなんですけれども
ご本人のお得だと思うんですが
鹿は古来から神の使いとして
アニミズムや神道などの
信仰の中で親しまれてきました。
近年日本では鹿が増え続けており
人里に時々現れる鹿は
迷い鹿と呼ばれます。
ホワイトディアお鹿は
インターネット上に現れた迷い鹿
鹿の発生を取り寄せ
3Dスキャンして得たデータを元に
制作されました。お鹿半島
荻浜に立つその姿は遠くの空を見上げ
旅の原点である
瀬戸内海犬島の方を向いています。
これは神の使い
確かに鹿ってそういう神聖な
動物というのはあると思うんですけれども
神の使いとしての
鹿を迷っている
迷い鹿として見立てて
やったというものになっている。
ウェブ上の迷い鹿ということになる
わけなんですけれども
それが犬島というのはいずれやりたいな
と思ってるんですけれども
瀬戸内海の島に
岡山県の島なんですけれども
ナオ島とかテ島とか
一連のベネッセアートサイトの中の
一つでめちゃくちゃアートの島として
有名なところで、縄公平さんは
ここの制作に携わったことで
自分のアートの方向性を見出したと
言ってるんです。だから自分にとっての
創作の原点にあるのが犬島
その方を空を見上げて
迷いながらも旅の原点を
見上げている鹿なんですね。
ちょっとまあやっぱりその
意図というか
そこはちょっとまだ掴みかねるけれども
いやでもなんかすごく
凛としててずっと見てられる
感じだな。そうですね。
これ本当にね
結構見てられます。
やっぱり謎めいてる感じとあとはちょっと
儚い感じもあってね。空をずっと
見上げているこの姿勢の
美しさも含めて。
周りで波音がザーッて
弾いてる感じ。
これは本当に
何を思うかはそれぞれ
ということですよね。
なんでこんなものがこの鹿ハントに
あるかということなんですけれども
これは実はリボンアートフェスティバル
というアートフェスティバルの
時に制作されたものなんです。
これは東日本大震災で
石巻というのは本当に大きな被害を受けてしまった
ということもあってその復興の
後押しになるように国内の
いろんなアーティストの方とかが
共同でこのアートで盛り上げようと
音楽のライブとかもして
芸術とかもあってそういった文化的な
授業でもって石巻の復興を
図ろうという風なものがあって
定期的にこれが行われているんですね。
ちなみにこのホッキーの
主要のメンバーには小林
武さんという
ミスチルとかサザンとかの音楽プロデューサー
すごい有名な方いますけれどもあの方も
東北の方でその方が声を
かけたりもいろいろ音楽の方に
関してはね。なのでミスチルの
桜井さんとかが結構ライブで石巻に
いらっしゃったりしたり、実際このホワイト
ディアの前でね歌っている姿というのも
残ってたりします。
これは多分生で
見るとやっぱ圧巻なんだろうね。
すごいですねこれ。
なのでまあいろんなね
この3日間旅があってね
さっきの慶長研修施設もそうですけれども
本当に
謎を多く残したままこの宮城の
石巻推し家ハンターとかに
辿り着いたわけで、ある意味
我々もその迷いの中にあるわと思う
わけですよね。そこを見てね
最後にこの迷い石巻を見た時にね
どんな気持ちになるのかっていうのは
もちろん人それぞれだと思うんですけれども
一つやっぱりこのルートというのは辿った
終着点に彼がいるっていうのはね
意味を持ってるんじゃないかなという風に思っています。
まあまあもう本当なんか
いろんな思いは生まれる
とは思うんですけど、まあそれ抜きにしても
すごく絶景ですよねこれは。
絶景です絶景です。
綺麗ですね。
SNSから見たことある人も多いんじゃないかと思います。
いやーなんかすごく余韻の残る
終わりですねこれ。
そしてまあね、このホワイトディアに
別れを告げて仙台までね
帰らなきゃいけないんですねので
もう推し家ハンターの結構真ん中ぐらいまで来ちゃってますから
車ちょっと長いです。
だいたい1時間半ぐらい
仙台までかかると思いますので
それで最後18時ごろに仙台駅で
車を返して
この旅を終えたいという風に思います。
3日目の旅程を振り返る
それでは3日目を振り返っていきましょう。
前日は石巻市の
宿に泊まっている
ということですので
そちらを朝8時50分ごろ
チェックアウトします。
そこから車で10分ほど
石巻市水産総合振興センター
というところに向かいます。
そちらの中にある
斎太郎食堂で
朝食をいただきます。
海鮮丼とか海産物を
使ったメニューももちろん
ございますし、ここで働いている職員の
方向けのいろんな
リーズナブルなメニューもあったりもしますので
観光的にはやっぱり
海鮮丼を
召し上がるのがいいかなと思いますが
他に目を引くものがあればそちらを
朝食にいただくと。
このセンターの中には
食堂の他にも情報資料室が
あって漁業の
メカニズムであったりとか
その後の水産加工だったり経済についての
展示もされているということですので
こちらの展示も
ぜひご覧になっていただければと思います。
そこから来るまで
10分ほど石巻市博物館
こちらは
震災後にまたリニューアル
をされた博物館ということで
市の歴史だったり
文化っていうのを展示をされていると
そして春矢の目を引いたのは
この博物館に併設されている
高橋英吉さんの
彫刻を飾られている
専用室ですね
彫刻が展示されてますので
前日見た彫刻とまた対比をして
見ていただけると
いいのかなと思います。
そこから来るまで
15分ほど
宮城東日本大震災津波伝承館
ですね
こちらは東日本大震災の
玄関口の役割を果たすという
資料館ですね
皆さんの記憶にもあるかもしれませんが
この東日本大震災で
何があったのかということを
後世に伝えるための
資料館ということですね
せっかく宮城に行きましたので
こちらも記憶に留めて
いただければなと思います。
そこから来るまで15分ほど
石巻焼きそば専門店
羽瀬部さんですね。石巻市の
B級グルメ石巻焼きそばを
いただくことができる
焼きそば専門店でありつつ
カフェらしさもあるという
お店ですね。
ソースではないまた別の焼きそば
ということですので
この土地の味をぜひ堪能して
いただければと思います。
そこから来るまで
20分ほど宮城県
慶長施設線ミュージアム
三藩館ですね
初日から拾ってきた
この伏線を
こちらのミュージアムで拾っていく
という感じですね。
伊達正宗のために
7年もの歳月を
渡って
海を股にかけてきた
この施設団の
資料とか
何が起きたのかというのを
こちらで見ることができると。
すごくビジュアルも豊かに
展示されてますので
いろいろな想像も書き立てられながら
楽しむことができるのかなと
思いますので
いろんなロマンを感じながら
見ていただければなと思いますね。
そこから来るまで
15分ほど月野浦を
一旦立ち寄っていただければ
いいかなと思いますね。
長谷倉常長の銅像と
出航の記念碑も
ございます。施設団がね
出航した場所ですので
この三藩館を
見た後だとまた
考えが出てくるのかなと
思いますね。
この月野浦を
通過いたしまして
さらに来るまで10分ほど
ホワイトディアを鹿に迎えます。
こちらは長谷さんが
作られた白い鹿の
オブジェですね。
こちらはもう本当に正解のない
アートですので
この三藩館の旅をね
振り返りながら何を思うのか
というのを楽しんでいただければな
と思いますね。
そこから来るまで
90分ほど仙台駅の方に
戻りまして車を返して
ご自宅へというところで
このコースが終了ということですね。
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物に宿る記憶の手触り
うーん
やっぱこの施設談の話は
ちょっと面白かったなぁ。
波乱万丈とはこのことだよね。
そうですね。
話聞いていて
どんどん話が大きくなっていく様が
面白かったなぁ。
フィクション味もあるよね。
そうなんですよ。ただやっぱりこれはね
西洋の方の記録にもちゃんと残っている
事実なんですよね。むしろ
向こうの方の資料が多いんですよ。
やっぱ日本国外だと表には
できないからね。そう出せなかった。
隠さなきゃいけない内容だったんですよね。彼らの
存在をね。
今の教科書にも
割と大きめに取り上げてもいいような
話な気もするけれども。
載ってはいるんだけどね。
ただまあ功績というものは何だったのか
というのは結構難しくてやっぱりね。
まあそうだね。成し遂げたことが
結果としてはなかったと
言っていいもんね。
大政を横断したということは事実として
日本人初めてなんですけれども
それ以外の正宗だったり
ソテロだったりとかっていう
宗教なり政治なりでできたことは結局
なかったんですよね。
だから持ち帰ってきたものは持ち帰ってきたんだけれども
彼らの使命を果たせなかったというのが
この施設だった。
これはちょっと
得意な、数奇な歴史だな
という感じがしますね。
数奇な運命ですね。
あとは震災の
名残も
少し見つつという感じ
ですかね。
これは宮城
特に石巻に
行ったからには
触れざるを得ないところでもあるし
触れなきゃいけないところでもあるしね。
だからちょっといろいろ
歴史の面白みも
悲しみも
感じるコースという感じ
なのかな。
三日間通してというと
やっぱり今回のテーマ一つ
慶長建物施設の話というのはあるわけなんですけれども
あと同時に
僕がやっぱりこの宮城
これも何回か旅行を組み合わせてるんですけれども
思ったのは
杉村淳さんの美術館もそうだし
あるいは高橋英吉が
残した不動明王の彫刻も
そうだったんですけれども
芸術家とか人が残した
異物ですよね。
物というものにどういう魂とか
霊性が宿っているのかということを
一つ考えるのがきっかけになったような
気がしていて。それはもちろん
スピリチュアな話とかではなくて
やっぱり作った人
それを残そうとした人、持ち替えた人
っていうのはやっぱりそれぞれに必ずいたから
我々が目にしているわけであって
その一つのものだけが
知っている時間とか変遷とか
記憶っていうものがどういったもの
だったのかっていうのを考える
楽しみももちろんあるし
怖さもちょっとあるし
そういうものがやっぱり触れる機会が
多いんだ。それが一つは
長谷倉常長の折りたたまれた肖像が
隠さなきゃいけないはずだったのに
残っていたっていう事実もいろんなことを
考えさせる。先代版もどういう
気持ちであれを秘蔵していたのかっていう
こともね
今回タイトルの話っていうと
記憶の手触り
というのがいろんな
この旅で出てきた異物だと思っているんですよね
長谷倉常長なんていう
遠い時代の人もいれば
震災という
我々も知っている時代のもの
そこの記憶の
手触りっていうのも特に
伝承館とかでは実際にあるわけなんですけど
そういった
いろんな悲しい歴史だったり
もちろん喜ばしい歴史だったり
そういったものも含めてそのものというものが
持っている
その先の
世界とか想像できるっていうのが
やっぱり
なんていうかな
すごくこう
大切に考えないといけないものなんだろうなっていう気は
しているんですよ特に最近ね
彫刻とかも含めてなんですけれども
だからなんかこういったものを
見ていった時にやっぱり
僕も宮城に借り立つんですけど
いろんな美術館とかで見ていく
歴史の考古資料とか
っていうものもなんかよりこう注意深く
ちゃんと見て解釈をする必要があるし
それをする楽しみをやっぱり感じたり
をしますよ
やっぱこのもの
残されたものから想像する
その裏側のストーリーみたいな
そういうのも含めて
このローカルトレジャーなのかな
っていう感じがあるね
そこには妄想ももちろん含まれるけど
でもそれも旅の
体験にもなるだろうし
その時の本当に気分だったり天気によっても
感じ方特に最後のホワイトディアが
変わるわけですし
月とスペインのJapon
あとはねこの一応タイトルの話で
言うとね最後みんな月を
見ていたって話はしてるんですけれども
これ歴史好きな方は気づくかもしれませんが
星野ひろみさん
という有名なノンフィクション作家
肖像とかよく撮ってる方ですけれども
ルイスソテロとかも交えた
この空白の20年間くらいのキリシタン史
というものをね
自分の記憶から辿っていく
この人のご先祖が実は
スペイン人を千葉に助けたことがある
っていう先祖の
言い伝えから自分の
キリシタンとの関わりを辿っていく
旅をするノンフィクションがあるんですけど
それがみんな彗星を見ていた
っていうタイトルのこれすごいいい本です
名作なんですけど
それにかけたところを割って
伊達正宗が背負っていたのも
三日月だったし
高橋英吉さんがガダルカナル島へ行く
船の中から望んだのもきっと
不動明王図を照らしていたのも多分月だった
と思うんですよね
長谷倉常長が出航した月の裏
それから7年にわたる世界への
旅を行ったわけですけれども
彼らも結局同じ月というものに
多分いろんなことを思ったと思います
常長自身も正宗が月の兜を
持ってたぶん知ってたと思いますから
月を見るたび三日月を見るたび
何を思ったのかっていうのも
ちょっと考えたいところでもありますし
いろんな時代
僕らも含めてあらゆる時代に
あらゆる世界にいた人も結局
一つの太陽と月を見ていたっていう
そういったその月も
ある意味残された記憶の手触りなのかな
っていうのも思ったりもして
彗星を見ていたのも多分そういった
文脈だったかなと思うんですけれども
それは宮城県バージョンで今回月にさせてもらった
という感じですね
まあ月はね
一つですからね
そうある意味光のね
もちろん速度もあれで
ありますけど
羽生倉常長伊達正宗が見てた月を
僕たちも見ているわけで
それって非常に奇跡的なことなんだなというふうに
思ったりもします
常長とかは果たして自分の見ているスペインの月が
仙台で
殿さんが見ている月と同じなのかっていうのは
分かってたんですかねその辺ももう分からないですけど
どういう考えでその月を
見ていたのかっていうのはね
うん
いやーこれはちょっと
面白いね
自分の中でのストーリーを
作れる感じの
なんか面白い
旅だったな
旅のエンディング
今回も最後にね
エンディングテーマを用意しておりまして
これを聞いて
閉じたいというふうに思うわけですが
Mr.Childrenで
Here Comes My Love
うん
まあやっぱこの
詩説版のストーリーが
思い浮かぶ歌詞というか
歌ですね
うん
この歌詞に照らし合わせるならやっぱ
伊達正宗への
思い
胸に7年
後悔をし続けた
姿っていうのが
イメージされますね
そうですね
確かにね結局
何かを成し遂げた
というわけではなかったわけなんですよね
この詩説版は歴史上を見ればね
なので教科書的には
載ってはいるんだけれども
なかなか今のように
どういった領域で残したのか考えるのは難しいし
あるいはそんなになかったのかもしれない
やっぱりね
ところがですね
これはね本当に不思議な話だな
と思うんですけれども
長谷倉常永の詩説には
彼らだけじゃなくて
もっと多くの日本人が載ってたはずなんですよ
商人だったり
あと常永の手紙にもね
自分が連れてきた召使いみたいな人たちが
何人か逃げちゃったって書いてあるんですね
子供だったりだよね
だから歴史に名前が残らなかった詩説団の
一員もいっぱいいたはずなんですよね
みんながみんな月の裏に帰ってきたわけじゃなくて
途中で亡くなった人もいるし
なぜか帰ってこれなかった
あるいは帰ってこなかった人もいたわけなんですよね
でもその人たちは
何も記録は残ってなくて
正直わからないです全く
しかしながらですね
常永長く身を負いたスペインにおいて
不思議な
事実が明らかになりました
それはセビリアという
スペインの都市があるわけなんですけれども
その南西12キロのところに
人口約
3万人の村があると言うんですね
その名前を
コリアデルリオというそうなんです
その3万人のうちの
およそ630人の方が
ハポンという姓を
持っている
これ表記で書くと
JAPONなんですね
これ日本のことなんですよ
これがね
明らかに
最近なってるんですけれども
この言い伝えによれば
このハポン姓の皆さんというのは
やはり慶長建法施設
の生き残りだと
言われてるんです
14代前の
祖先が日本人で
自分は侍の子孫だと
いう風に考えている方が
やっぱりいた
実際町には橋
わらじ病武
といった昔の
日本の用語じゃないですけれどもね
わらじ病武って今使わないじゃないですか
といった日本語が実は伝来している
という風にも言われている
ただこのことを裏付ける主要は一切残ってない
んですね
ただ
何かのやっぱり痕跡が
残っているというのは事実で
これが本当にどこまでかは分からないんですけれども
こういった村が
彼らが留まったスペインの地にはあるんですね
そして
そういったスペインから
密かに日本に心寄せる人たちがいる
小さな村があって
実はそこにもハセクラ爪長蔵が
混流されてるんですね
そして2011年東日本大震災の
知らせがスペインに伝わってくる
わけですね
そうするとこのコリアの方々というのは
この爪長の蔵がある
下半にあるそうなんですけれども
川のほとりで木刀を捧げたと
そして2年後
2013年の3月11日に
ここに1人の女の子が
生まれたそうなんですね
その子にカルメンという
名付けを付けたと
これが最も
この町においては
敬愛されているキリスト教の
聖女の名前だそうです
それは名付けた親の方は
この
震災のちょうど2年後
ということであって
被災した日本との縁を思い
運命の日に生まれた娘に特別な名を与えようと思ったと
いうふうにして
今ひそかにこの慶長健夫施設の
寺席に心を捨てる人たちが
スペインにいるっていうんですね
これが
そのハポンさんたちなんですけれども
へえ
不思議な話だな
でも
狩猟的な裏付けは科学的な裏付けは何もないんですよ
でもこの名前には
明らかに何かの痕跡が
あるよね そうですね
だから慶長とともにスペインまで来て
なぜかそこに帰らなかった
人なのか
スペインの人との間に出てきた
子供がいた人がいたのか
これは分からないですけれども
なぜかこの村にだけは
ハポンさんがいる
常長蔵もあると
それは
後からそのことが分かって
ハポンさんのことが分かって
日本との交流が進んだ時に建てられた
常長蔵なんですけど
繋がりはあるってことだよね
これが何かの
成果なのかもしれないですね
そうですね ただ少なくとも
こういった彼ら施設が
何を成し遂げたかという解釈が難しいんですけど
この世界史上という
世界規模で地球規模において
こういった不思議な因果の
きっかけになったのは間違いなくて
ハポンさんが本当に彼らの血を
引いているのか分かりませんけれども
少なくとも東日本大震災の時に
こうやって何のゆかりもない
スペインから心を捨て
祈って名前をつけるにあたっても
日本との縁を持ってつける
というようなそういう人が生んだのは
彼らの本当に微かな小さな
功績なのかもしれないなとも思うんですよね
もちろんね
長谷倉常長をはじめとする施設も
そうですし
あるいはね
これは海と
多分愛情とかをね
テーマにした歌なのかなというふうには思うんですけれども
やっぱりその
高橋恵吉さんの無念なところというのも
多分重なる部分はあるかなという気も
ちょっとしますしね
うん
この途中にある
数えきれない偶然が重なって今の君と
僕がいるっていうのは
このコースを通して
言ってた
自分とその
目の前にあるものとの
関係性のようにも感じるし
そうですねそこは結構思いましたね
やっぱり冷静に
考えて400年前のもの
長谷倉常長たちがね
あるっていうのはすごいことだと思うし
やっぱそれって本当に
数えきれない次が重なってたと思うんですよね
一方でその日記みたいになぜか
なくなってしまったものもあるわけ
一方で高橋恵吉さんの
他のものにしてもですけど
震災というね
本当に大きな被害を受けた石巻においても
そういったいろんな
奇跡もありそういったいろんな人の
協力だったり愛情があった末に
今我々はこうやって旅人として
行った時に見させていただけるというのも
本当に
なんかね必然なんだけど
単純な
必然はやっぱりないだろうなっていうね
そういったことの
大事さとか大切さっていうのは改めて
宮城いろんなこの3日間
考えてるきっかけになると思うんですよ
まあ多分基本的にはすごく
恵まれた土地ではあるんだけど
やっぱりその戦争だったり
震災みたいな
難しい大きな困難も
ありつつ今の姿が
あるんだろうなという
気がしますね
そうですね
これを歌った桜井一俊さんもね
小林武さんの呼びかけによって
石巻には非常に縁のある
方になっていますので
この曲自体は石巻で歌ったか
僕は分からないんですけど
石巻でライブをされてホワイトディアの前で
歌唱されてるというのも映像も残っています
うん
これは結構このコースをまとめる
良いテーマな気がするな
良かったです
ということで
次回は雑談会ということで
まだ途中でねお酒の予告が
ありましたけど
日本酒をねいただこうかなと
思います
ということで今回はこの辺でありがとうございました
ありがとうございました
01:13:44

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