前日ね、JR西日本夜名護駅近くのホテルに泊まっているということで、どっかしらのビジネスホテルにチェックインしているのかなというふうな想定でおります。
例によって朝ごはんを食べに行けたらいいなと思うんですけれども、夜名護駅近くのホテルを出発してから車で10分ほど、
これね本当にもう夜名護の住宅街の中にあるパン屋さんがね、一つおいしいところがありますのでそこをご紹介したいと思うんですね。
それが麦の屋さんなんですね。
本当にたくさんの種類のパンが並んでますね。
ちょっと気になるキーワードがあるんじゃないかなと思うんですね、どっかにね。
割とハード系というコメントが多いですね。
これか、大千小麦。
そうなんです。
これの麦の屋さんの特色として大きいのは、大千小麦という鳥取県の小麦を使ったパンをいただけるということなんです。
その名の通り、今から我々が訪れる宝起の国の象徴である大千に由来する小麦なんですけれども、
これねもともとは鳥取県って結構小麦の裁判が盛んなった土地らしいんですけれども、
戦後いろんなことがあって、結局あまり小麦を作られるということもなくなってしまって、一度も途絶えてしまった小麦なんですね。
それを改めて復活させようじゃないかっていう風なプロジェクトの発起人になったのが、この麦の屋さんなんですね。
要は麦の屋さんとしてはパン職人なので、いろんな小麦の可能性を試したいというところがモチベーションだったらしいんですけれども、
かつて鳥取では盛んに小麦が作られていたという歴史を踏まえて、大千の山陸の牧場だったりとか畑を持ってる人と連携しながら栽培を始めて、
今では相当量の収穫を得ることができるまでになったというプロジェクトがあって、今もそれを活動続けていらっしゃるんですね。
土地の歴史だったり土壌の魅力っていうものを多くの人に知ってもらいたいということで、
この麦の屋さんではこの大千小麦を使ったパンもありますし、
あとはね、今この大千小麦を使った食パンとかっていうのを、
この宝起の、今夜なごなのかな、ちょっとわかんないんですけれども、
この宝起のあたりの学校給食にどんどん使っていこうっていう動きがあって、
実際もうどんどん今ね、生徒さんたちの口に大千小麦が供給されていると、そういったこともあるんですね。
いいですね、その地域の食育みたいな感じですね。
そういうことです。
実際食べてみると、極端にすごく特別な味わいがあるっていうわけじゃないと思うんだけど、
確かにハード系のやつと相性がいいのかなっていう気がするのと、
そもそもパン作りがめちゃくちゃお上手なので、小麦自体もそもそも美味しいんですけど、
朝ごはんに食べやすいようなお惣菜パンみたいなものもめちゃくちゃ美味しいんですよ。
ツナサラダパンとかね、ベジタブルサンドイッチ、生アンパンとかもね。
美味しそうですね。
甘い系のも結構あるんですね。
いやでも本当ね、この店内の写真ありますけど、種類がすごいよね。
すごいですよね、これね。
でも本当なんか色とりどりな感じもありますしね。
これが住宅街のね、本当にまったく中に、普通に民家の中に現れるんですよね。
やっぱりこれご近所さんは嬉しいだろうなと思いますね。
これはちょっと選ぶの楽しそうだね。
前日結構和食系が多かったのでね。
お野菜とかも当然美味しいものが多いですから、
僕もサンドイッチみたいなの頂きましたからね。
ハード系のね、そんな感じで味わえて。
本当に好みで選んでもらっていいと思いますけど、
やっぱりこのダイセン小麦っていうストーリーセットにはね、
是非注目をしていただけるといいんじゃないかな。
このお店以外にもダイセン小麦を使って出しているお店は多いんですけれども、
やっぱりここがね、本家本元の復活プロジェクトのね、
発起人だということでね、
あえて選ぶならやっぱりここなのかなという気もしますね。
このお店ね、イートインがないんですよ。
あーなるほど。
なので買ったパンについては車の中で食べていただくか、
あるいはどっかこれから行くダイセンの山陸の公園だったり、
海峡温泉に近いので弓ヶ浜の海を見ながらね、
食べていただくなんていうのもいいんじゃないかなという気がしますね。
僕は砂浜で食べました。
ここで軽めにね、パンでね、朝ごはんを済ませていただくというのがまず一つになります。
ここからまあ観光に入っていくわけなんですけれども、
ダイセンにいよいよ向かうわけです。
まずダイセンがどこにあるかというのは、
ちょっと見ておいてもいいかなと思っているんですね。
はいはい。
まあ夜中からすると東に向かっていくっていう感じですね。
そうですそうです。
この宝起の国のね、もう地盤をこうね、かたどっている、
もうこれ全体ダイセンなんですよ。
あー結構だからその裾野が広いですね。
そうなんです。
なんかヒールみたいに言っちゃったけど。
いや、本当に広いんですよね。
裾野が広いですよ。
この地形をよく見ておいてほしいんですね。
はい。
これは宝起の国の宿命だったんですよ。
宝起の国はダイセンによって作られたある意味国なので、
ここで何が起こるかということなんですね。
この状況でね。
っていうのをぜひこの緑と白の割合とかも含めて見ておいてほしいところがあるんですけれども、
いよいよそのダイセンに向かうわけなんですが、
このダイセンはやっぱりね、美しいんですよね。
山が本当に綺麗な山で、
特にこのヨナゴ方面からダイセンへ向かう道筋っていうのは山陸をゆっくりと傾斜で真っ直ぐ行くわけなんですけど、
もう青々としたね、晴天の中にこのいよいよそびえるダイセンってのはやっぱりこれはシンボルだなという風なレベルの巨大な山。
中国地方最高峰ですからね。
っていうレベルのものなんですよ。
我々が本当に富士山に覚えるような象形と似たようなものだと思うんですよね。
そこにあることはやっぱり安心感だったりとか偉大さだったりって思わずやっぱり見とれてしまうようなところなんです。
このダイセンの景観というものをいろいろ楽しめるわけですが、
最近ね、非常にこのフォトスポットとしても非常に人気を集めているところがありまして、
そこに途中寄って行きたいと思うんですね。
それがですね、麦の屋さんから車で25分ほど東側に行っていただいたところにある上田精寺写真美術館です。
この建物の隙間に帽子が浮いてるんですね。
そして今は人が写ってますけれども。
こういうことか。なるほど。
これダイセンが帽子被ってるみたいな写真が撮れるわけね。
これは確かにフォトスポットですよね。
インスタグラム結構見るんじゃないか。これダイセンです。
これは美術館の前から見たダイセン。
こんなところがあるんですよ。
この写真見てさ、やっぱりダイセンが綺麗なのともかくなんだけれども、
やっぱ不思議なのはこの帽子だと思うんですよね。
なんでこの帽子が浮いてるんでしょうかっていうことなんですよね。
ここにちょっとね、一つキーワードがあるんですね。この旅行に関する。
上田精寺さんという方の名前を知っていらっしゃるでしょうか。
いやー、わからない。写真家の方?
そうなんです。
今日資料を持ってきたので。
おだわら市立図書館の。
帽子被ってる。
割とコミカルな写真を撮られるんですかね。
人を撮ってますね。
時が進むとちょっと風景の写真が出てきちゃう。
結構生活感のある写真という感じがしますかね。
この方はね、昭和時代から平成にかけて活躍された写真家さんですよね。
上田精寺さん。植木の上に田んぼに正しい治めると書いてる上田精寺さんなんですけれども。
鳥取県境港市の出身でね。
終戦境港を拠点に活動された写真家さんなんですね。
日本を代表する写真家さんの一人であって。
フランスとかからもね、勲章をさせたことの国際的な評価がすごい高かった写真家さんなんです。
なんだけれどもこの人の面白いところは。
辞書ではあるんですけれども。
純粋ね、アマチュアとして生きたっていうことにすごい誇りを持っていた人なんですよ。
この人の特徴的なワードというのがこの美術館の中にあるんですけれども。
写真するって言うんですよね。
写真する。
これ撮影するだったらわかると思うんですけれども。
写真するっていう動詞を自分で言うんですよ。
どういう意味合いを込めてるんだろう。
これは上田障司さんの言葉ってね。
写真画名の方なので文はあまり多くないんだけど。
一つ一つがね、なんか不思議な意味を持っているね。
キーワードを残される方で結構それがまた面白いところなんですよ。
美術館の話を簡単にしておくと。
そういうわけでこの境港市に生きた上田障司さんなんですけれども。
今この上田障司写真美術館がある邦記町というところがあるんですけれども。
そこにご自身の作品を生前に寄贈されて。
それで生前にこの美術館は建ったんですね。
なのであくまでも個人の写真をテーマにした写真美術館になっていて。
1階が常設展になっていて2階以降は企画展になっています。
常設展ではこの上田さんの生涯とね。
その作品というのがだいたいわかって。
2階以降はその中の一つのテーマに絞ってね。
写真展があるという感じになっています。
さっきの例の帽子が浮いている窓なんですけれども。
あれは2階にあるんですね。
2階から大船を望むとまさにこの帽子が出てくるところになります。
何せよもう本当に大船を一望する畑の中にありますので。
とにかく景色がいいですここは。
青い山並みが本当に見れて。
それの中に帽子が浮かんでるっていう。
ちょっとシルエアリズムを思い出させるような感じがあるので。
インスタグラムとかでご覧になった方も見るんじゃないかなというふうに思います。
あとは大船の景観というものは第一に立地に考えていらっしゃったから。
シアタールームみたいなのがあるんですけれども。
そこには最大直径600ミリという世界最大規模のカメラレンズというものがあって。
そのカメラレンズでもって映像のスクリーンを映写してるんですよね。
どういうことになるかというと。
シアターだから普通に上田さんの映像を見るんですけど。
その映像が終わった後には外の大船を映した60センチの超巨大カメラのライブ映像というのがそこに現れるんです。
カメラっていうのは要は光の光学の問題で逆さに映りますよね。
だから逆さ大船っていうのは現代の逆さ大船がスクリーンで現れる。
そういう特殊な靴つくりになってるんですよ。
ちょっと見てみましょうかね。
そういうことか。
だからライブで流してるってことじゃなくて。
単純にこのレンズを通して大船の景色が映し出されると。
そうそうそうそう。
なるほどね。
だからある意味で言うと我々がカメラの中にいるみたいなそんな感じになる。
っていうのが世界最大規模のカメラレンズを持っているっていう写真美術なんですよね。
カメラの内部で起きてる現象を見れるっていう感じですね。
そうそうそう。そういうことです。
人と並んでる写真があるの?
そうそうそうそう。
めちゃめちゃでかいわ。
これが世界最大のカメラレンズと言われている。
だって膝からみぞうちぐらいまであるね。
そうですね。
すげーな。
本当に写真美術館っていうコアなテーマのものであるだけに、
こうやってかなり尖った専門的な展示を用意されてるってことなんですね。
これわかる人はわかるかもしれないけど、
焦点距離8400ミリだって信じられないんだけど。
そうなんですよ。
F値32ってちょっと信じられない数値になってますね。
そうなんです。
なんでこんなすごい美術館が立つほどの上田翔二さんなのかということなんですけれども、
簡単にこの人の人生というものを話しておきたいわけなんですが、
この方が生まれたのは鳥取県境港市1913年ですから、
大正2年のことになりますね。
2000年までご存命だったのですごい長生きされた方ですね。
そういうわけで生涯アマチュアとして生きたということを誇りにしていて、
境港を離れなかったんですね。
どれだけ国際的に評価が高まるか。
この方は実家は履物屋さんだったんですね。
境港というのは非常に港町として栄えて、
かつこの履物屋さんもすごい繁盛した、
裕福な商人の息子としてこの方が生まれたんですね。
最初はこの鳥取息子として大事に大事に育てられていて、
絵とかがすごい好きだったと。
学校の授業も美術、図工ですね、めちゃくちゃいいみたいな話で、
漫画を描くのとかがすごい好きだった方だった。
ところがお父さんからしてみるとですね、
その代々続いているこの履物屋さんというものを
ついてもらわなきゃ困るんですよ、この商人に。
にもかかわらず、この商人はなんとね、
今でいう高校を卒業したときに、
今でいう美大に行きたいと言い始める。
ありがちな話じゃないですかね。
今でもあるよね。
ありますよね。
で、困るわけですよね。
この人に出ていかれると。
お父さんとお母さんは必死に説得をするんですよ。
めちゃくちゃコンコンと解いて、
仕方なく上田商人はそこで折れるんですね。
で、折れて分かった。
じゃあいいよ、美大は諦めると。
だけどその代わりに一つ買ってほしいものがあるって言い始めた。
でもお父さんもようやくこいつ諦めたよみたいな。
よかったら何ですかって言ったら、
カメラ欲しいと言い始めたんですね。
このとき第一次世界大戦が終わって、
ドイツの経済とかも結構復興し始めているので、
ドイツ製のカメラとかが、
だんだん日本にも入り始めてきている時期なんですよ。
米子の街にも、坂井美人の街にも、
徐々にこの小さなミニチュアカメラみたいのを持って歩いている、
ハイカラな人が現れていて、
上田商人自身の回想によると、
あるとき学校の先輩の家に行ったら、
その人のカメラを持っていて、
写真を現像する焼き付けの作業に立っちゃったことがある。
その焼き付けの作業を見ていたら、
現像液みたいに浸してやっていくわけですけど、
何にもなかったはずの画面に、
薄ぼんやりと人が現れてくるという、
そのミステリアスな現象に、
異常な興味を覚えたっていうんですね。
まあちょっと不思議だよね。
なかなか今のデジタルのあれだと、
ないかもしれないんですけれども、
当時の状況とかを考えると、
すごい衝撃だったんだと思うんですね。
魔法に見えるよね。
そういった魔法に見えるという風に興味を持って、
お父さんにちっちゃいカメラを買ってもらってたんだけど、
さらにそれを諦める見返りとして、
めちゃくちゃいいドイツのカメラを買ってほしいという風に言って、
当時のサラリーマンの月給の2倍以上もするような、
スペシャルなカメラ、裕福の家だったので、
買ってもらったそうなんですね。
そうすると今度はね、写真にハマっちゃうんですよ。
結局もう絶対そういうことになるんですけど。
ヨナゴがやっぱりホウキの中心でしたので、
ヨナゴのほうに行って、
当時まだそんなに写真も普及してるわけじゃないから、
数少ない写真友達みたいなもので、
組合みたいなのを組んで、いろいろ検証みたいなのをお互い仲持ちでやっていて、
東京の写真雑誌に応募してみたりみたいなことをやっていた。
そういうことをしているうちに、
自分にとって写真の表現体は何なのか模索し始めて、
またお父さんに買ってもらった、
イギリスのすげえ写真雑誌みたいなものも読み始めて、
どんどん写真というものが趣味になっていっちゃうんですね。
上田翔二の写真っていうのが特徴的なところは、
たぶん我々、ほとんどこのリスナーの方も含めて、
一般的に写真を今撮るって考えると、
何かを記録しておくっていうことに意味があると思うんですよね。
旅行のすごい綺麗な写真を思い出に残しておこう、
友達と飲んでいるいい写真を撮っておこう、
何かのセレモニー撮っておこうとか、
ほとんど今写真の人ってそういうふうにやってると思う。
一般の人はね。
だけど、上田翔二はそういうわけで、
写真を撮るということ自体、
あとは現像するということ自体に興味を覚えているので、
写真というものを最初からね、
芸術と思っちゃってるんですね。
要は記録して今を留めるというよりも、
写真は作っていいものだって思ってたらしいんですよ。
それをそういったイギリスの写真雑誌とか、
前衛アートとして見る写真というものの写真家の影響を強く受けて、
この人の写真というのは若い時からそうなんですけれども、
演出写真と言われるものを作ってるんですね。
つまり、いい写真の定義は一つ一つだと思うんですけれども、
何となく自然体の写真とかっていうのも結構いいみたいな話っていうのはあると思うんで、
撮りたくなる感じあると思うんですけど、
上田翔二の写真というのはまさにこれがそうなんですけれども、
あらかじめ小道具とかもめっちゃ作り込むんですよね。
だから自分の中で撮りたい前衛的なアートの絵があって、
これを撮るための写真というのを使うんですよ。
こういう自分も登場人物になってますけど、
ミニチュアみたいなのをいっぱい置いて、
めちゃくちゃ構造を決めるっていう、
芸術写真、演出写真を最初から撮るべきだ、
それを楽しいと思った人なんですよ。
なのでこの人の出世作として非常に有名なものがあるんですけれども、
少女4体、少女死体っていうのかな、
4人の少女、これが例の世の子のユミガハマなんですけれども、
撮った4人の少女に無理矢理モデルをさせて、
ポーズを固定させて、
これを砂漠、ユミガハマっていう砂丘みたいなもんですけれども、
の中でまっさらなスクリーンの中でこれを写す、
ちょっと前衛アートを思わせるような、
こういったものを撮り始めるんですよね。
これが上田翔二の写真の持ち味だったんですよ。
なるほどね。
だから画家が絵を描くように写真を撮ってた。
そうそうそうそう。
当時は写真というもの自体が新しいものなわけで、
みんな風景が現実的に出てくるとか、
写真に映るってこと自体が珍しいにも関わらず、
この人は最初からドイツのすごいカメラを持ってたり、
イギリスのすげえ雑誌をお父さんが買ってもらったりするから、
もう飛び越えちゃってるんですよね。
なんかもうその辺の。
最初から遊びとしてやり始めるんですよ。
遊び始めるんですよ。
これが彼にとってのアマチュアであることの楽しさである誇りだったんです。
結局この人の写真道楽に付き合わされるのはまた家族なわけなんですよ。
さっき美大に行くっていうのを諦める代わりに、
お父さんにドイツのカメラを買ってもらって、
それで写真に熱中してるって話はしたと思うんですよね。
結局美大に行きたいのは諦めたんだけれども、
今度は写真をやっぱり東京で学びたいって言い始めちゃったんだよね。
最新の理論だったり技術というのが東京に集まっているわけで、
日本の中でもね。
当然その親からしたらさ、
美大諦めたと思ったら今度は写真かよみたいになるわけじゃないですか。
ところが今度はこの障子のことをバックアップした人がいたんですよ。
それが障子さんの実のお母さん方の親戚にあたる人なんだけれども、
この人が実は映画の東宝ってあるじゃないですか。
これの創業者が親戚なんですよ。
この人は境港の人なんですね。
知らなかったわ。
東宝って今はすごい映画なんだけれども、
正式に言うと東宝の前身となる一部の会社、
現像とかそういった技術部門の立ち上げた創業者が、
この上田障子さんの親戚で境港の出身の人だったんですよ。
その人が現像っていうかなりマニアックな分野じゃないですか。
それに自分の親戚が興味を持って東京で学びたいと言っているってことを息に感じたらしくて、
東京出すことは決して無理的なことじゃないし、悪くないことだと思うよっていうのを、
親戚からの忠告として親に言ってあげたんですね。
それでそこまで言うならってことになって東京へ行くことを許してもらえたんですよ。
親からもとうとうね。
それで東京で住み込みで写真館で働いたりとか、
あるいは写真の専門学校みたいに通ったりして、
短期間で終わったんだけれどもその写真術っていうのを収めたわけなんですよね。
それで結局本当に日本の最新の理論っていうのをちゃんと学んだ障子は、
けれどやっぱり東京じゃなくて境港に帰ってきたんですよね。
戻りたかったんだね。
結局境港は実家は履物屋さんなわけなんですけれども、
その一角に写真館っていうものを作らせてもらったんですよ。
なるほど。お店の中の一角を写真店みたいな写真館か。
そうだね。撮影館。
街の中にもたまにも今あると思うんですけど、
ゲストの方の家族写真だったりとか小僧写真をプロが撮りますよっていう写真館ですよね。
これを作ったんですね。
これが流行ったんですよ結構。
やっぱり当時いくら同一製のカメラが入ってきてるとはいえ、
写真技術をちゃんと東京の専門学校とかで学んできているって人はなかなか珍しいわけで、
そういう人がプロとして撮ってくれるっていうのはね、
結構この輝かな世の中を境目だと受けて、
これはなかなか結構流行っていくってことになったんですよ。
やっぱり珍しいんだろうね。
そうそうそう、そういうことですね。
で、そこに奥さんが来るわけですね。
その方がこのね、のりえさんっていう方なんですけれども、
すごい美人な人ですね。今を見てもめちゃくちゃ美人。
綺麗ですね。
この人の写真に対する理解ってのはかなりあった人だと思うんですよ、奥さんもね。
で、その次のページ、新婚旅行とかでまさに箱根小田原に来てるんですけれども、
それを普通に家族の写真を撮っているわけなんですが、
この奥さんはそういうわけで、その謎の写真館をやらなきゃいけないことになってしまって、
ただこの人の写真はただの写真じゃないから、
そういうわけで演出写真なわけですよね。
っていうので、これがすごい一番有名な写真って言ってもいいのかな。
パパとママと子供たちというね、
これもね、やっぱり夜長の弓河浜で撮った写真なんですね。
自分の家族写真なんですけど、
自分たちもなんか登場人物とか、
あと無理矢理子供にもなんかいろんなものを持たせたりポーズを取らせたりして、
家族をみんな被写体に付き合わせるんですよね。
自転車に乗ってたりとか、
花を持ってるのかな?
なんかいろいろめいめいの服着て、ポーズを取ってっていう感じだよね。
で、上田翔二は何を持ってるかということなんですよね。
帽子と傘ですね。
そういうふうにして、鳥取県の何もない茫漠とした砂漠、砂丘の背景というものを、
あえてスクリーンに見立てて、
そこに自分の演出の劇場をね、やっていくんですよ。
これが非常に面白いという話になってくるんですよ。
で、すごい評価が高まってきて、東京の方でも有名になってくる。
アマチュア写真家としても。
やっぱなんかすごい、本当スタジオみたいに真っ白ですよね。
これが夜長の弓河浜なんですよ。
遠くから見れば浮いてるように見える感じですよね。
ちょっとやっぱり、それまでのいわゆる日本の写真家にはいないタイプの写真家だったわけですよね。
やっぱ絵画っぽいですよね。
やっぱりその絵画的な感性にこの人の芸術派してるんだと思うんですよね。
この人はプロの写真家、ドモンケンさんとかね、この時活躍した写真家さんいっぱいいますけれども、
とかもこういうもありつつ、
その人たちはね、絶対的リアリズムっていうのがその当時の戦後の写真の風潮になっていて、
こんな演出写真なんてダメなんだという話もあったんだけど、
この人はあくまでもアマチュアです私はっていう話になったり、
自分が楽しみでやっている。
写真を撮影するというその行為自体が楽しいんだというのを、
自分で好きなようにやり続けた人なんですよね。
こうやって先にこうやってモデルを置いてとか、
っていうのをずっとやってた人なんですよ。
徐々にただね、やっぱり写真家としての名声が高まっていくにつれて、
風景写真の依頼だったりとか、
こういったドキュメンタリーみたいなものを撮っていくんですけれども、
結局はやっぱりこのサンインというものをずっと離れなかったんですね。
この人のとある原稿に、
サンインに写真する心っていう原稿があるんですけれども、
その中に話を読んでみると、
サンインの自然の中にいることが、
たとえそれが吹雪の海に向かっている時でも、
私には一番安心して写真することができるのです。
あいつべく美しいサンインの自然は、
私にとって生涯の写真の対象であり、
サンインを離れて私の写真は存在しえないのです。
というふうに言い切ったほど、
このサンインというものの光の加減だったり、
インパクトを中心にしたサンイン地方の子どもたちだったり、
風景というものを記録するっていうものが、
非常に彼自身のミッションだったんですね。
ただ、そういう名声が徐々に高まっていくにつれて、
海外からも注目される演出写真として、
というふうになっていって、
ついにいろいろな写真集も出版したり、
だからアマチュアなのかというのは謎なんだけど、
ただ本人はいわくアマチュア。
心持ちはアマチュアで、写真をすることが大事なんだと。
商業写真じゃなくて、写真をするの延長にお金が入ってくるみたいなね。
そういった心構えでいたようなんですね。
ただこの方も残念ながら、奥様が先に亡くなってしまうんですよね。
亡くなってしまうとやっぱりこうやって、
ずっとみんなで家族写真を撮っていたような家族ですから、
すごい仲が良かった。
夫婦仲も良かったし、家族も仲もすごい良かった人たち。
みんな幸い無事に育ったというところもあって、
この家族が非常に大切だった。
一番大切な奥さんが亡くなってしまったっていうので、
すごく精神的にどん底になってしまって、
写真をするのももうできなくなっちゃった時期があるんですよね。
ところが、そういったのを見兼ねて声をかけたのが、
次男だったんですね。
この次男は東京にいたんですけれども、
やっぱりもうお父さんとかの芸術的感性を引き継いでいて、
なんとね、広告のディレクターになってたんですよ。
相当な地位を持ってた人なんですけど。
ていうので、お父さん、お母さん亡くなってしまうのは辛いんだけれども、
そっからでも写真をやっぱりもう一回やりましょうよって話を声をかけてくれて、
新しい境地を開くんですね。
それがファッションデザイナーのピクチー・タケオさんっていう方ね、
ご存知だと思うんですけど、
今ファッションブランドの名前にも変わってますけどね、
まだ出たてのピクチー・タケオさんのアパレルのグラフィック写真っていうのを手掛け始めるんですよ。
でもやっぱりこの人はサインで撮りたいって言ったんですね。
それがシリーズサキューモードっていう。
帽子が浮いてる。
これタキシードかな?
を着てお面をつけている男性の上に帽子が浮いてますね。
これを再現してるんですか?
そうですね。
背景は鳥取佐郷です。
非常に斬新なわけですよ。
いわば主役はタキシードなわけなんですけれども。
本当その服を見せるための写真なんですね。
要はファッション誌とかに急にこの写真が現れると、
これはなんだってことになるわけなんですよ。
なんだってなるね。
だから非常にこの写真との評判を呼んで、これでフランスとかに呼ばれることになるんですよ。
菊池武夫さんご自身の服というのももちろん素晴らしいものですから。
それとこの異常な写真という、とわりながった芸術的なセンスというのが鳥取佐郷というところで出会ったんです。
面白いな。
どういう発想でやってるんだろう。
面白いですよね。
結局遊び心なんですよね。
写真をするという子供の心を忘れないで、ずっと彼は趣味でやり続けた延長にあったっていうのが結局これだったんですね。
残念ながら奥さんは亡くなられてしまったけれども、写真をやっぱり生涯やり続けて、
特に有名なのはデビュー当時の福山正春さんのジャケットを撮影したことがきっかけで、
福山正春さんはご自身も写真メーカーのCMとか出てますけど、
福山正春さんの写真展とかも上田さんと一緒に二人展みたいなのをやったっていう、
福山正春さんはこの人のことをすごい最後までリスペクトしていた人なんですよ。
福山さんのジャケットをこの人が撮ってるんです。
面白いですね。遊び心を持ち続けて写真を撮ってるっていうのは。
そしてその舞台は常に鳥取の大地だったんですよね。
だからこういう遊び心っていうのは確かに前衛的で、理解されない時代もあったと思うんですよ。
絶対リアリズムの間では極めて風評だった。
だけど今のこの美術館はいつも見ていろいろ思うところあると思うんですよね。
逆にこういう遊び心っていうのは今こうやって人を惹きつけている部分もあって、
まさにインスタ映えみたいなのもね、それこそももはや遊び心だったかもしれないし。
そういう業績を持っている人なんです。
何が言いたいかっていうと、僕はこの人はいずれ浅沢になると思うんですよ。
非常にこの家族の話っていうのがめちゃくちゃなり得ると思うんですよね。
それが言いたいことだったのね。
まあまあまあね。そうなんですよ。
多分なると思います。いずれ絶対。
この美術館に行っていただくとね、その写真するとは何か、
天地渡ることは何かっていうのがいろいろな言葉とともに書いてあって、
その上で2階に上がるとさっきの帽子が浮いている。
ステッキは隣に小道具の置き場があって、自由に使っていいですよって言われてるんです。
なるほどね。
だから上田さんのこういった写真を見た上で自分たちの遊び心で、
ぜひこの鳥取の大地とともに風景というものを作っていく。
それがこの写真美術館の伝えたかったことなのか。
上田さん自身もね、普通写真家さんって自分の見つけた絶好の写真スポットは、
自分のものと一緒に秘密にしておくらしいんですけれども、
上田さんはアマチュアなので、写真友達と遊ぶことが楽しかった方なんですよ。
だからみんなでこの砂丘に行ったりとかっていうんで、
撮影スポットとかも全部公開した人なんですよね。
ていうので、この彼が愛してやまなかった鳥取の大仙というものをバックに、
今改めて我々がその遊びの中に入っていくようなね、そんな美術館だったりするんですね。
というね、この上田翔二写真美術館。
これね、ぜひ結構目玉のスポットになるかなと思うのでね、
注目してもらうといいかなというふうに思います。
ここからね、車でさらに大仙の方へ向かうわけですが、
写真美術館から車で15分ほど行っていただいたところにあるのが、
大仙自然歴史館です。
綺麗な写真だ。
これはもう名の通りという感じですよね。
そうですね。
この大仙というね、日本を代表する山の一つなわけですけれども、
この山の自然あるいは歴史文化、
その両面からこの山の魅力というのを考えるというものになっていて、
入場無料なんですよ。
すごいな。
まずね、この自然の話をしておくと、
大仙というのはね、
本当に日本の鉱山の原生林というのが非常に残っていて、
もちろんその生態系ですね、
それこそ小笠原じゃないですけれども、
生態系だったりとか地質という意味においても非常に大事なものを持っています。
大仙というのはこの山の歴史を話しますと、
これはもともと火山なんですよね。
古代においてはすごい活発な火山活動を繰り広げていて、
しかもこの火山の特徴的なところは、
一つの火口に何回も何回も続けて同じところから吹き出るんですよ。
富士山とかだといろんな火口があるんですけれども、
公営大噴火のところとか色々ありますけれども、
ここも一つの箇所がずっと同じようになるので、
形が一つの頂点ずっと同じところから吹き出てくるから、
自然と自然と山ありになっていく。
で、だんだん周りが崩れていくみたいなね。
ただ厄介なところがありまして、
これが大仙のこの火山の直筆というのは、
極めて脆い安山岩質の岩石なんですよ。
安山岩が何が起こるかというと、
要は固まる前にポロポロポロポロ溢れていっちゃって、
粒子が溢れていっちゃうので、
驚くべきことにですね、
大仙の写真をちょっと見て欲しいんですけれども、
これ見て何かに気づきますでしょうか?
山肌が結構見えてますよね。
そうなんです。
白い山肌が結構見えてますね。
はい、その通りなんですよ。
これつまり、なんと今この今日においてもですよ、
大仙というのはもう噴火活動終わっているのに、
毎年7万立方メートルの斜面が崩落していく山なんですね。
もう砂利がポロポロポロポロ細かすぎて、
留めないんですって形を。
だから大仙が汚いと見る人もいるかもしれないけれども、
崩落面が特徴的なんですよ。
そうか、だからこの上に今雪が被ってるみたいに白い場所があるんですけど、
これは崩落して山肌が見えてるんだ。
そうなんですよ。
じゃあもう日々この形が変わってきてるわけだ。
そういうことです。
これが大仙という山なんですね。
こういう地層が起こると何が起こるかということなんですけれども、
要は山からポロポロポロポロ土がこぼれていってしまうので、
山陸のあたりもその地層というのがどんどん進出してくるわけですよね。
砂利のこの細やかな粒子の土というのは、
どういった特質を持っているかわかりますか?
水はけがいいってやつ。
そうです。
水はけがいいと何が起こるかということなんですよ。
稲作とかはしづらいっていう話。
そういうことなんです。
水田ができないんです。
これが大きな宝起の国の課題なんです。
さっき地図を見てもらったわけですけれども、
大仙を中心に、
この大仙の山端のところが茶色くなってますけれども、
そこを中心に本当に東神谷を描くように、
緑の裾が広がってますよね。
これが全部大仙がこぼしていった、
その石つぶてなんですよ。
地層の上に成り立っているのが宝起の国なんですよね。
だから非常に水田という意味においては、
生産力の低い国だったんですよ、古来から。
だから巨大勢力が育ちにくかったというのも正直あると思うんですよね。
これが大きな課題なんです、宝起の国。
見た目には大仙はすごく綺麗で、
シンボルな感じはあるけれども、
それによってちょっと苦労もあるという感じですよね。
特に米というものをね、
あれがもう通貨みたいになっていた日本の昔の話からすると、
米を持たない国というのは非常に困るんですよ、農民たちもね。
だから宝起の国というのはそういったのもあって、
なかなかバックに甘んじていたというのは結構あると思うんです。
私はやっぱりこの範囲を見ると、
逃れられない感じがすごくあるね。
そうです、もう逃れられないんですよ。
一方でもう海の方に行ってしまうと、
こっちはこっちでさっきの砂丘モードですから、
砂浜なわけですよね。
そんなところに水田ができるわけもなくて、
じゃあどうするのって言ってから、
みんな商業で何とかしようという話をやっぱり聞いたわけですよね。
という難しい国だったんですよね、宝起の非常に。
大仙のおかげもあって、政務でもあってっていう。
なるほど。
ところが逆に大仙には別の側面がこれで現れてくるんですよ。
この自然が形を変える山だったり、
そもそも中国地方の最高峰というのもあるんですけれども、
そもそも論で言うと、
大仙っていう読み方に違和感を覚える人も多いと思うんですよね。
大山が普通かなとは思うよね。
そうですよね。
少なくとも大山じゃないですか。
山ってさ。
仙ってなかなか珍しいですよね。
日本の有名な山で、
山を仙とか禅とかって読む山って他に何か思いつくでしょうか?
雲禅。
あれは仙人の仙だけどね。
そうか。
同じこの中国地方とかに。
何禅焼きそばっていうの。
昼禅か。
岡山県の昼禅。
あれは昼の山で昼禅ですよ。
山の名前なのね。
あとは我々が修学旅行でも行った五福島神社。
あれの山覚えてますかね。
何仙老夫会だったか。
全然覚えてないわ。
御仙ですよね。
御仙老夫会。
仙という読み方をするのは、
中国地方にめちゃくちゃ多いんですよ。
これなぜでしょうか。
なんで仙って読むんでしょう。
恥ずかしいな。
だって九州とかまで行っちゃうと、
山なわけでしょ。
そう山とかね。
そうだよね。
特に山陰なんですけどね。
これは語音なんです。
我々が普段使ってる漢字というのは、
基本的に漢字の漢の漢音という読み方が当てられてるんですけども、
この中国地方の一帯には語音の読み方が残ってるんです。
語というのは義語色の語の国のことですね。
要は中国江南地方のことなんですけれども、
あそこの発音、方言みたいなもんですけれども、
この辺には影響が残ってるんですね。
なんでそれが残ってるかっていうと、
仙とかっていうのは、
一番有名な仙はおそらく趣味仙とかなんですよ。
これは仏教の用語なんですね。
つまり仙っていう語音は、
仏教とともに伝来したっていうふうに言われてるんです。
つまり古代仏教の姿というのを留めている地域というのに、
仙という名前を当てられることが多いんです。
これが大仙なんですよ。
何が一体かというと、
この大仙というのは、
極めて早い時代から神功の山になってるんですね。
偉大な自然神功というものと、
中国は最大近いですからめちゃくちゃ。
そこの文化が濃厚に入ってきて、
それで古代仏教の聖地みたいなふうに、
だんだんブランディングされていったっていうのが、
この大仙なんだというふうに言われてるんですね。
一般的に大仙は718年、
奈良に平城局ができてから8年後ですけれども、
金蓮聖人という人物が開いた山だというふうに言われています。
金蓮はもともと漁師だったらしいんですけれども、
ある時この辺り潤ついてたら、
海から狼が突然現れて、
その狼を追っていったら、
大仙にいつの間にか入ってしまって、
何かどうしようと思ってたら、
その狼が去った後に、
突然その山頂から地蔵菩薩が現れて、
金蓮に仏の道を解いて、
金蓮はその漁師だったから摂取をしていたんだけれども、
これをやめて、
そして自分で出家して仏道修行に入った。
そして大仙という山を開いたというんですね。
そういった言い伝えが残ってるんです。
そういう山だというふうに言われてるんですね。
ここで地蔵が出てくるんですよ、まず一つ。
そういうわけで奈良時代の金蓮はともかくとしても、
早い時代からかなり自然信仰が集まっていて、
主原者たちがいっぱい山に登っていくわけですよね。
そうするとここに神社が建てられて、
お寺が建てられてというふうに、
神仏集合になっていくわけで、
この大仙には大仙寺っていうお寺、
大山であれば大仙寺ですね。
っていうお寺とかも築かれていくんですね。
最盛期にはここは100の僧帽を山の中に持って、
僧兵も何千人っていたっていうような、
超巨大勢力になっていくんですよ、軍事的にも。
一方でその勢力を支えたっていうのは、
当然民衆とかから支援がないとダメなわけですよね。
その支援をするためにどういうことがあったかっていうと、
平安時代の終わりに貴公商人というのが、
この大仙寺に会われたと言うんですけれども、
貴公商人は平安の終わりから鎌倉時代にかけての人なんですけれども、
この人は大仙の山っそに住んでいる宝珠の国の民衆たちに、
牛や馬を牧畜することというのを勧めたって言うんですね。
それなぜかというと、
さっき言ったより大仙のこの麓っていうのは、
作物が育たないんですよ、特に稲がね。
そこに生産力が飛ばしに行って、
民の貧しさもになっちゃうわけですよね。
っていうんで、それに代わり産業を持った方がいいっていう風に彼は言ったというんですね。
ただとはいえ、じゃあ稲が育たないとどうしたらいいって話になって、
まだ20世紀な人もないですから、
どうするんだってことになって、
今時代は武士の時代になりつつあると。
要は鎌倉時代になって、馬とかがすごく大事な時代になって、
特に武士ももちろん馬を使うんだけれども、
この時、鎌倉時代になると、
銭っていうものを用いた貨幣通貨っていうのが急激に発達する時代になってるんですよ。
ってなってくると、物流っていうものはめちゃくちゃ大事になってくるよということを言った。
当時の物流で一番いいのは、船はありますけれども、
陸路においては牛か馬なんですよね。
っていうことを終わって、逆にこんな広い原野を残しているんだから、
ここに牛や馬を育てることを産業にしたら良いんじゃないか、
そうしなさいってことを進めたと言うんですよね。
そうすると、大戦の民衆たちはそれだって風になって、
この山祖で牛や馬を飼い始める。
いう風になってくるんですね。
貴公商人は後々この銀材書の英才がこれに支持したっていうぐらい高層なんですけれども、
なかなか僕から見ては商売系のあるやつで、
みんなが山祖に牛や馬を飼い始めたっていうのを見たらどうなるかというと、
この牛や馬が豊かに育っていくのは、
全てはこの大戦のおかげなんだという風に言い始めて、
大戦のおかげってのはどういうことかと言うと、
地蔵菩薩さんのおかげなんだと。
地蔵菩薩さんがそもそも大戦に降臨したことが大戦の始まりだからね。
の始まりだからと言うんで、
地蔵菩薩の力を持っているお札っていうのを今からあげるから、
これを山に取りに来なさいという風に言った。
あるいはその大戦の沸き水っていうのがあるから、
それを牛や馬に飲ませると寿命が伸びるんですよということを言い始めて、
そういう風に言うと既行商人がいてから、
このみんなが豊かになっているのが事実なので、
みんなはその山裾の民たちは、
この自分の飼っている牛や馬を引いて、
その山道をゆっくりゆっくり登って、
この大戦時まで行くんですね。
そこでお札とかお水とかをもらって、
自分の家に飾ったり牛に飲ませたりするんですよ。
なんか大坊さんなのにそういうことをするんですね。
そうですね。ある意味商売上手な気もしますけどね。
けど前日見たいろんな要素がちょっと揃ってきた感じはありますね。
そうなんです。決定的だったのは、
旅人たちも鎌倉市だと多くなってくるんですけども、
みんな大戦だ大戦だって言って拝みに来るわけなんですよね。
礼山だって言うから。
ところが山道を通っていると、
みんな牛とか馬を引いた農民たちが通っていくわけですよ。
なんなんだこれはって風になって、
そしたら山裾にめっちゃ牛とか馬がいるっていう風になって、
すげえ数いるな。
今でいうと物流倉庫みたいなのすごいあるじゃんって話になって、
これはすげえってなって、
宝起の大戦にもすげえ良質な牛山がいるらしいぞっていうのが、
全国に口コミ広まっていくんですよね。
そうすると、いわゆる暴露と言われた、
牛や馬たちを飽きないする業者たちも集まってくるんですよ。
仕入れのためにね。
だったらここで市場をやっちゃえばいいじゃないかと。
牛や馬のモーターショーですよね。
牛や馬を売る市場をやる。
そういうことです。
農民たちの稼ぎにもなるわけですよ。
なるほど。
自分たちが育てた牛や馬を爆弾で買いに行って、
それでモーターショーでやって、競りで落としていくと。
彼らは物流の担い手として旅立っていくわけなんですね。
っていうのが農民たちの、
米が取れない宝起の国の農民たちの重要な産業になっていったんですよ。
これが大戦のふもとで牛売地っていうのをやり始めて、
江戸時代になってくると、
大戦時代自体が牛売地を管理してるようになってくるんですよ。
すごい元締め感がある。
元締めです。
ってなってきて、
結局最盛期は明治の初期までが最盛期だったんですけれども、
何回も位置が立つわけですけれども、
合計すると一万頭にも及ぶ牛や馬の取引があったっていう、
日本最大の牛売地というのが、
この大戦時代のあたりに開かれるんですね。
これなんですよ。
それもそもそもは、
貴公商人が何を言ったかって思い出してほしいんですけれども、
牛や馬みたいな、悪い言葉でいう、
昔でいう畜生の類なわけですよね。
人間じゃない命に対しても、
地蔵菩薩は常に寄り添ってくれるから、
一切の生命を寄り添ってくれるから、
地蔵菩薩はありがたいんだと。
それで牛や馬の延命にも地蔵菩薩の力が使えるんですよって言い始めたっていうので、
この牛売地の広がりとともに、
後期の国には地蔵信仰というのが一斉に広まっていったんですよ。
それが夕凪の街にも名残としてある。
つながったな。
ちょっと感動があるわ。
伏線回収の。
そして大戦時というのは、
神仏の国とかでいろいろダメになっちゃうんですけれども、
牛売地というのも、もちろん車とかでできたら、
重要なくなるわけで、
実際大戦の言っていただくと、
今は乳牛ですね。
たくさん飼われていて、
大戦のほうは非常に有名な乳牛メーカーがあったり、
ソフトクリームがめちゃくちゃ美味しかったりするんですけれども、
今は乳牛が飼われていて、
物流の避難地はないんですけどね。
ただそういった文化では残っている。
この牛売地と地蔵信仰というセットで、
この大戦を取り巻く日本遺産として登録されてるんです。
日本遺産って、
世界遺産とかよりももっとストーリー仕立てで登録されてるっていう。
そういうことです。
そういう歴史的な流れがあって、
登録されてるということですね。
そうです。
それこそ水木紗友子さんと普及されているわけですけれども。
面白いですね。
すべてはそのお坊さんの言ったことが始まってるわけですね。
あとはそもそものフードとして、
米が取れないっていうのが大前提としてある。
大戦のおかげでそうなっちゃってるんです。
はいはいはい。
っていう得意な歴史を得意できたんですね。
それで結局今は地蔵信仰もあれば、
そういったフードを元に牛骨ラーメンもできてるわけですよ。
だから牛や馬っていうのは極めて身近にあったんですよ。
宝家の国の人たちに。
一人の発言でこんなに文化が生まれるの面白いね。
という感じです。
こうした日本遺産がこの霊場としてあって、
そういった解説もこの大戦自然歴史館では、
すごい近いされてるわけなんですね。
ここで大戦のあらましを知っていただきました。
となったらちょっとお昼を食べてなかったので、
お昼を食べに行きたいと思うんですね。
それが大戦自然歴史館から車で3分ほど、
歩いても行ける距離なんですけれども、
行っていただいたところにある宿望館長院三楽倉さんです。
宿望ってことはもうお宿ではあるんですよね。
そこをランチ利用するっていう感じ?
精進料理って出てきますね。
これは内田にもいろいろ語るところがあるんじゃないかなと思うんですけども。
そんなないよ。
精進料理とは何でしょうか?
修行僧の方が食べるお料理ですよね。
どんな特色を持ってるかって覚えてますかね?
肉、魚が入ってないということですよね。
動物性の食料というのは一切使ってないということですね。
原料を使ってないという料理なわけで。
摂取しちゃいけないからね。
お野菜が基本中心になっているというものだったわけですよね。
大戦というのは霊場なので、
昔は100ぐらいの僧帽があったと言われてるんですけれども、
後々は神仏分離霊とかの事情によって、
ほとんどは廃絶してしまっていて、
宿望として残っているのもここしかないという状況なんですね。
ただ、館長院三落僧さんは、
非常に個性的な創作精進料理を出す親として非常に有名なんですね。
僕はここに泊まるのを目的に先月行ってきたんですよ。
僕はここに泊まりました。
いただいてたんですけど、ランチ料もできるので、
コースではランチとしてご紹介したいと思うんですね。
どんなものが食べれるのかということなんですけれども、
ちょっと精進料理を見てみましょう。
品数がすごいですね。
食前酒があるね。
そうなんです。
黒文字っていう和菓子の用事によく使われるものですけれども、
大盛にはこれがよくとれるんですね。
僕の時はちなみに猿梨っていう梨の、
古代的な梨の品種のお酒でした。
吹きのとお味噌、よもぎ風、
コシ油黒ゴマとかね、いろいろ。
植物のお料理がたくさんあるって感じですね。
例えばね、作りのところを見てもらうと、
山いか刺し、
生湯葉、大葉、
しらが、わらび、
あと炊き合わせのところの一番最後見てもらうと、
豚角煮もどき。
こういう独自の精進料理出されてるんですよ。
もちろんゴマ豆腐とかもあるんですけれども、
ゴマ豆腐ね。
これは我々も永平寺さんでよく食べました。
すごい工夫されてるんですよ。
もちろん豚角煮もどきという豚肉を使ってるわけではなくて、
大豆とかそういったものを使ってらっしゃるんですけど、
味とかはうまく豚角煮に寄せたりするんですよ。
山いか刺しっていうのは別のこんにゃく的なやつなんですけれども、
それもイカ刺しみたいに確かに見えるんです。
ミクレツが食べるんですよ。
なるほどね。
大豆ミートじゃないけど、
なんかそんな感じのね。
湯豆腐とかも徹底していて、
もちろん湯豆腐が美味しいのはもちろんなんですけれども、
ポン酢をつけるじゃないですか。
ポン酢って原料に鰹節とか入ってるわけでしょ。
それもだから一切使ってないんです。
精進ポン酢って言って、味はポン酢なんだけれども、
山菜とか果汁とかそういったもので、
うまくね、大豆の醤油とかで使って、
ポン酢らしい調味料を植物だけで作ってる。
それで食べるので徹底した精進料理なんだけど、
めちゃくちゃ手の込んだ工夫されてるものなんですよね。
これが本当に非常に精進料理界のレジェンドという、
すごい有名なお宿なんです。
こんな華やかな精進料理だったらね、
めちゃくちゃテンション上がったよな。
そうですよね。
これだからお客さん用の醤油のようなかもしれないですけどね。
あとはこの大仙おこわというね、
おこわが最後に出てくる。
これも美味しいんですよ、もち米でね。
山菜の出汁、山菜出汁みたいなのがすごい塩気と一緒にあって、
これシメとしてあったかくて美味しいんですよね。
いいな、あの子これすごい満足できそうな感じだね。
いや、ボリュームもすごいですしね。
これを宿泊プランと一緒に合わせられるわけですね。
ただランチ用の場合はもちろんこれ事前予約が必要なんですよ。
なので事前予約はしていただかなければいけないんですけれども、
宿泊で普段食べられるようなものっていうのを、
ランチでいただくことができる。
中もすごいしっかりとした昔ながらの宿泊で、
400年以上の歴史があるお寺なのでね。
だから座禅体験とかもできるし、
そういったお参りとかもできますので、
そういった大仙の信仰文化っていうものをね、
五感で感じることができる、いいお宿だと思います。
お宿としてもめちゃくちゃ良かったです。
大浴場もついてるし。
僕らはちょっと経験をしてるんですけど、
今になってこれだけ料理が充実してたら、
ちょっとやってみたいなって気持ちでもなりますよね。
すごく美味しいですよ。
健康的にたまにはこういうのもね。
面白い。
なので是非ちょっと予約をしていただかなければいけないんですけれども、
やっぱりここでしか絶対食べられないものなので、
あとお花の天ぷらとかも僕のときにあってね。
藤の花の天ぷらとかっていうのもあったりして、
やっぱり独創的なのでね。
ですが美味しいので、
是非食べていただければいいんじゃないかなと思います。
この観鳥院三楽祖さんも山道の中腹にありますので、
だんだんあとは歩いて神社とお寺にお参りしたいというふうに思うんですね。
三楽祖さんから徒歩15分ほど山を登ったところにあるのが、
大神山神社です。
この大神山神社というのは、
大仙がさっき神仏集合があったとしましたけれども、
神仏集合、つまり神社とお寺さん、
神道と仏教が合体して信仰されていたっていう、
日本のならではのものになるわけで、
大仙というのはそれが非常に強かったところなんですよね。
こっちは神仏の神の方なわけです。
ここに祀られているのは大名主の神というものになるんですけれども、
これは大国主の御事の別の呼び名なんですね。
大国主って何でしたっけ?
何の会で出てきましたか?
あれ?出雲じゃなかった?
そうですそうです。
たぶん移し世、隔離世の話の中で出てきたよね?
そうです。
それの結果どっちを治めたのかが、
もともと移し世を治めていて、結局隔離世に移された方か。
そうです。
国譲りですよね。
それで出雲の大社、出雲大社に宿って、
隔離世の神になったと。
そしてそれが有名な境という話で、
以前出雲と話しました。
あれなんですよ。
あれの別名がこの大名主の神なんですね。
大名主の神こと大国主は、
一節には大仙の山頂で出雲とか宝起の平和を望んで、
どういうふうに国を作っていこうかって相談をしたとも言われてるんですよ。
だからやっぱり中国地方で今も一番高い山なので、
一番良い展望台だったわけですよ。
だから神も地蔵菩薩もいずれ降り立つんですけれども、
それぞれに神もいた山だというので、
非常に霊地として崇められたものになるんですね。
この神社自体は創建年代は明らかじゃないんですけれども、
神仏集合の中では大名主が神様として祀っていて、
一方で大仙寺の由来にさっき話した通りで、
地蔵菩薩というものを仏教の信仰代償として祀ったんですね。
これは本寺、水寺とかいろいろあるんですけれども、
つまりその2つが合体して大神山神社というもので祀っていたと。
大神山神社と大仙寺もほぼほぼ一体化していたっていうのが、
最盛期の大仙の様子だったんです。
ところが神仏集合というのはそういうわけで、
明治時代に入ってくる、これダメだと言われちゃったんですね。
明治になってくると神仏分離礼というものが出されてしまって、
神は神で国家神道という風になっていっちゃって、
仏はもうダメだという風になっていっちゃうわけですよ。
なので神仏を集合している大仙なんてのは、
最もダメなところになってしまって、
これを分離して変なこと言うなと、
もう神は神なんだと、仏はあまりダメだけど仏なんだという風に、
勝手にもう分離されちゃったんですね。
というんで結局大仙寺と大神山神社は一体で共に栄えていたわけなんだけれども、
全然それが勢力が差がついてしまって、
大仙寺は非常に急傍してしまうし、
大神山神社も結局神社にされてしまって、
元々の神仏集合の独自の文化を保っていたのも引き剥がされてしまったんですよね。
ただこの大神山神社は面白いのは、
神仏集合時代のものって基本的に、
全時代のNGになってしまうんですけれども、
仏を祀ってるんじゃないのかって言いがかりを作られた時に、
とはいえここはそもそも神様大国主なわけですからって言って、
建物は一つしかないけど、
地蔵菩薩も確かにやっちゃってたけれども、
この建物破壊されてしまったら、
地蔵菩薩じゃなくて大国主神様、
今から明治政府が大戦しようとしている神様も、
居所を失ってしまうことになるんですよっていうことを言い始めて、
建物の破却とかを間抜かれたっていうエピソードがあるんですよ。
なので江戸時代の時の神仏集合時代の建物とは残ってる、
めちゃくちゃ貴重なものがあるんですよ。
実際に有料になるんですけれども、
500円だったかな、配管料払うと、
この中に入ることもできます。
現在の本殿は江戸時代のものなんですけれども、
日本最大級の権限作りの舎殿です。
これが参道ですね。
こんな感じで大正の山の中を歩いて、
すごい新緑の雰囲気が気持ちいいわけですよ。
これが舎殿ですね。
これがすごいんですよね。
これ中ですね。
江戸時代に描かれた天井画っていうのがめっちゃ残ってるんですよ。
周りの朱色もすごくちゃんと木彩色が残っていて、
こういう仏教時代の思想っていうのもまだ留めてあるんですよ。
あとは、これなんで撮ってるかっていうと、
この下に柱があるじゃないですか。
柱これ何製だかわかりますか?
そんな見てわかんない。
どんな色してますか?
ちょっと漆っぽい色してますよね。
これ漆だと思うじゃないですか。
あるいは見方によっては金属にすら見えるかもしれないんですけど、
ちょっと銅っぽい。
これ白断なんですね。
めちゃくちゃ日本で珍しい白断塗りの柱が残ってるんですよ。
本当に漆っぽいんだけど、
白断を木に塗った白断塗りっていうのがあるらしくて、
これが残ってるんです。
白断ってお香とかに使われるやつよね。
仏教でも統一されてる鉱木ですね。
だからめちゃくちゃ経済力のある人じゃないから、
これできなかったと思うんですよ。
それが江戸時代に、
鳥取藩の彦とかもちろんあったんですけれども、
いろんな猿女も集まってこれを作ったと。
思いっきり仏教の始祖もあるんだけれども、
そういうわけで神仏宗をうまく言い逃れて、
今に残っている。
これすごい特徴な建築なんですね。
うまく言い逃れてくれてよかったですね。
そうですね。
大神山神社に行っていただくと、
そういった非常に貴重なものがあります。
山道を歩くだけでもすごく気持ちいいんですけれども、
やっぱり500円払ってでも、
さっきの御元作りの中を見るっていうのは、
すごい良い経験になると思うので、
ぜひこちらの中も見ていただけるといいんじゃないかなと思います。
大神山神社を見ましたら、
ある意味かつては一体となっていた大仙寺も見に行きたいと思うわけです。
大神山神社と山道も近いんですけれども、
大体15分ほど降りたところに大仙寺があります。
やっぱり作りが似てる感じはありますね。
大仙寺に関して言えば、
さっき結構説明しちゃったんで省くんですけれども、
そういうわけで718年ごろに、
金蓮松林という地蔵菩薩に大仙であった漁師が、
僧侶になってここを開いたと言われてるんですね。
地蔵神皇、
例の牧畜を住んだ貴公松林というのもこの人ですから、
三六の民たちが牛場を買い始めて、
そこに地蔵の力が付与されてっていう時になると、
もうめちゃくちゃ栄えたわけですよね、ここはね。
だから大仙寺っていう勢力は、
そういうわけで総兵を抱えるような巨大勢力になってますから、
南北朝時代の戦いとかにもおいても、
この大仙寺が出てきたりするんですよね。
総兵とか繰り出して、
軍事勢力としても侮れない存在になっている。
っていうぐらい映画を誇った。
ただそういうわけで、戦争がなくなっていった時に、
あとは戦火とかに色々焼かれてしまったりもして、
江戸時代だいたいそれが衰微していって、
鳥取藩の管轄家に置かれたわけですね。
自分たちもなかなか事業をやらなきゃいけないっていうので、
牛梅町を模様をしたりもしてた。
今はそういうわけで、
本堂というのはだいぶもう、
最晟期に比べると小さいものになってしまっていて、
その百和田という荘厳もほとんどが残ってないんですけれども、
礼宝閣っていう宝物館も残っています。
こっちに行っていただくと、
鎌倉時代とかに伝わっている最晟期の大仙を知っている、
めちゃくちゃ貴重な仏像だったり、
奈良時代とか仏教伝来の頃の古代の仏像とかもあったりしますので、
やっぱりこの大仙というのが非常に古代仏教とも
綿密なつながりを持っていたんだろうなっていうのを
伺い知れるところではあるんです。
大仙寺の本堂自体はこういう感じなんですけれども、
一個ポイントがありまして、
これが僕が言った理由の一つなんですけれども、
これなかなか僕みたいな解釈してないからっていうのもあるんですけれども、
毎月18日にだけ見られる仏像というのがあって、
開くお堂があるんですよ。
これが大仙寺の本堂からちょっと離れてるんですけれども、
阿弥陀堂というものがありまして、
これを見に行こうと思ったんですね。
これは初めて今回見てきたんですけれども、
毎月、もう曜日関わらず18日にだけ開くんですね。
中に写真撮ってきましたので、
これはもう、もともとこうやったわけじゃないらしいんですけれども、
平安時代から伝わっているすごい貴重な仏像の作例の阿弥陀堂雷像で、
だいたい12世紀の前半かと言いますから、
いよいよ平安時代が終わりに差し掛かってくるぐらいの時期なんですけれども、
阿弥陀信仰というのはこの時代にすごく栄えた信仰でありましたので、
その時に作られたものが、
廃仏希釈とか神仏分離っていうものを何とか免れて残っている。
っていうのが今地元の人たちの手によって守られ続けていて、
月に1回だけ開くんですね。
これもなかなか迫力もすごいです。
すごく大きな仏像なので。
大きいよね。
やっぱり室内にあるから余計に圧迫感がある。
そうですね。
これ写真撮っていいんですよね。
あとこれも阿弥陀堂の近くにある縁竜院。
縁徳院の縁に流れる縁竜院さんっていうところがあるんですけれども、
これも大戦時の寝院の一つだったところなんですけれども、
ここはもともと古くある寝院ではあるんですけれども、
この宝起の国出身の水木茂さんの妖怪の天井画というものをね、
ためられているというものになってまして、これ見ていただくとね。
あ、目玉の親父がいるわ。
えーすごいね。
こんな感じでね、天井をみんな寝そべってみられる。
これなかなか爽快ですね。
やっぱなんかすごく取っ付けやすいよね。
はい、そうですね。
これ2階にも上がれますので、2階からさらにね、
妖怪の天井画が近くに見えたりもします。
あとこのあたりもね、これ阿弥陀堂の近くの山道なんですけど、
この右左に石垣があると思うんですが、
これも全部ね、昔の寺院の跡なんですね。
神仏分離とかで失われてしまった寺院の遺跡だけが残ってるんですよ。
だからこれ今はすごい杉並木、すごい新緑の青々とした綺麗なところなんですけれども、
昔の寺院がここにたくさんあったっていうね、山の中のある意味異空間だったわけなんですよ。
そういった面影もね、忍ぶことができると。
というのがね、この大仙というものの一体なんですね。
いろいろ言ってしまいましたけれども、結局のところ、
この大仙というものが火山活動によって撒き散らした岩土のために、
水はけが良すぎて稲が育たない。
だからどうしようかってなった時に、大仙寺、自然信仰を集めていた大仙寺が、
地蔵信仰と流馬というものを吸着させて、それで広まっていった。
そしてそれは民衆たちを助けることになって、産業として広がっていったっていうので、
大仙流媒地というのが開かれて、それが日本有数の規模まで成長している。
そういった国が宝起の国だったんです。
だからもうここら辺の文化を作ったお寺っていうことですね。
そういうことです。
すべてやっぱりこの大仙に始まってるんですよ。
はい。
結構やっぱり仏像とかもしっかり見ているとかなり時間がなくなってくると思いますので、
大体もうこれで夕方になってるんじゃないかなというふうに思います。
今日は倉吉まで行きたいと思うんですね。
なるほど。
場所はどこかって言うとですね、
大仙のこの上の方の日本海側の道路をね、
大仙をへめぐるようにして進みます。
そしてその大仙の東側の裾にあたるのが倉吉なんですね。
大仙を跨ぐと西に女子、東に倉吉なんで。
なのでこの日本海を通っているルートっていうのをドライブしたいと。
このドライブめっちゃ気持ちいいんですね。
ずっと海沿いってことだもんね。
その途中にね、ちょっと夕方になって夕焼けを合わせて行ってほしいんですけれども、
ここにまた一つ絶景スポットがあるんですね。
それが成石の浜です。
大体大仙寺からは車で30分ほどというふうに考えてください。
なんかエモ系の写真が載ってますね。
演技のいいパワースポットって書いてありますね。
これちょっとね、とある動画を見ていただきたいんですけれども、
三陰四景って入れてもいい?
その上のやつを大画面で見てみましょう。
今ね、これ三陰のね、ちょっと見ましたけど、
成石の浜のイメージがああいう感じなんですよ。
なんかこう、すごく丸い石がたくさんある浜っていう感じなんですね。
そうなんですよ。
これね、ちょっとどことなく三陰の浜にもやや近いものを感じるんですけれども。
要は成石っていうのは、
本当に三陰の浜でも起こる現象ですけれども、
波が石に被った時に、
その引く際にカラカラカラカラカラカラって音がするじゃないですか。
あれがここにも起こることなんですね。
それがより浜辺に密着している絶景スポットっていうのは成石の浜で、
ここも夕日が非常に綺麗なんですね。
この成石の浜は場所もまた良くてね、
琴浦っていうんですね。
琴浦っていうのもやっぱりこういうところから発祥してるらしいんですけれども。
要は琴のような音が鳴る浦という琴浦。
琴浦町というところなんですけれども。
これはね、もともとは普通に自然にもちろんできているもの。
これもやっぱり大洗の山から流れ出たものっていうのが、
日本海に現れて丸くなったっていうのがこの岩田祖なんです。
これも大洗の産物なんですよね。
成石の浜プロジェクトっていうのがあって、
当初はもともとこの辺りね、
高速道路が走るとかっていろんな問題があって、
開発でこの浜はなくなっちゃう予定だったらしいんですよ。
だけど、この浜をずっと成石の浜って名付けていた人、
名付けて掃除していたおじいさんが一人いたらしいんですけれども、
その方がやっぱりここを守りたいんだっていう話をして、
いろいろ行政とかに掛け合った結果、
ここはこのままにしましょうということになって、
その代わりに地域の人たちが常に清掃をして、
綺麗にして観光客が来てもいいようにするっていうプロジェクトが起こって、
そのためにこの成石の浜守られたんですね。
そもそも成石の浜っていうのは、
このおじいさんが名付けていた愛称だった。
これがいつの間にか本当に正式名として登録されたんですよ。
やっぱなんかいろんなところにこういうね、
住民の方が自主的にこの土地を守りたいみたいなのがあるんですね。
そうなんですそうなんです。
秩父川浜か。
我々も行きまして。
三豊のね。
あれもそういう感じでしたもんね。
そうですそうです。
あそこは砂浜のね、非常に綺麗なところですけど、
こちらは石浜になるわけですけれども、
非常にこれはこれでやっぱり景色承知としても優れたものだなと思いますし、
やっぱりこの夕方行っていただくとね、
このちょっと寂しい感じもやっぱりするんですけど、
これでもすごい旅場があっていいなっていうね。
まさかこんな絵ですよね。
いやーいいね。
なのでタイミング的には一番いいタイミングで、
多分これルート上行けるんじゃないかなと思いますので、
ちょっとその途中で成西の浜で休憩をしてもらって、
夕焼けを見て、
そしてそっから車で30分ほど行ったところで、
倉吉に着くと。
今日はこの倉吉に泊まりたいというふうに思うんですね。
倉吉というのも結構ね栄えた町ではあります。
おりんかいっぺんになりすぎないようにね、
気をつけていただいて。
鳥取神さんの目の前なんですけれども、
道路を挟んで向かうところにあるのが、
天ぷらとお酒の店、日比野さんです。
天ぷら屋さんね。
はい。
ここがめちゃくちゃ美味しかったんですよ、
この天ぷら屋さん。
かつね、一人で行きやすくてよかったんだよね。
天ぷら屋さんって若干ちょっとハードル高いですよね。
けどここはすごく天ぷら居酒屋みたいな、
小料理屋さんみたいな感じだから、
そんなに隠しきばった感じではなくて、
一元の一人客でも全然入り切れてくださいましたね。
いいね。
エビ天とかね。
しいたけとかね。
何がいいかっていうと、
こちらのお店はね、
さっきの鳥取神さんがもうすごい大の老舗だったのと反対に、
ここはね、2024年の11月にオープンしたばかりの、
割と新しいお店でね。
すごい小ぶりなんだけれども洗練されていて、
綺麗なお店でした。
カウンターがメインのお店ですね。
なので一人でも全然行けます。
すごくよかったのが、
一人で当日オーダー可能な、
四季のおまかせコースっていうのがあったんですよ。
天ぷらその日の旬の食材、
5本くらいだったかな、5,6本を、
1,800円くらいで出していただけるという、
ショートコースみたいになっていて、
これが美味しかったです。
特にお魚系の鳥取の白岸とかが美味しかったんですけど、
ってこともあれば、
夏野菜ですよね。
山菜とかダイセンとかホウキの国で出てきた野菜っていうものも、
たくさんあって、
それが非常にいいバランスで、
お腹に負担なくね、
ショートコースがめちゃくちゃいいんですよ。
一個一個にちゃんと食材の解説もしてくださって、
鳥取県産っていうのにすごいこだわっていらっしゃるので、
鳥取の味覚を楽しむというよりはすごくおすすめです。
それとは別に、
お刺身とかもちゃんとあって、
ここで僕が感動したのは、
境港サーモンっていうものを食べたんですよ。
これちょっと出てきますかね、境港サーモン。
これですね。
これ銀じゃけなんですけれども、
境港で養殖されてるんです。
これが大体5月から6月くらいが一番旬らしくて、
そのお刺身というのをいただいたんですけれども、
めちゃくちゃ美味しかった、このサーモン。
もう覚えました、名前一発で。
すっごい脂が上品で、
全然サーモンの旨味はあるのに脂の負担がなくて、
すっごい美味しかったです、これ。
これさ、身もだいぶ太ってますよね。
そうですそうです。
これをほうきの境港で養殖してるって言うんですね。
ちょっと切り身になっちゃうとね、
普通にサーモンなんですけど。
美味しいんですね。
初めていただいて知ったんですけど、
これは覚えましたね、名前。
っていうのもあって、
これはその一瞬だけから出してもらったんですけども、
その後もちろん天然の日本海のお魚というのがいっぱいあったので、
やっぱりその時一番いい鳥取の食材というのをすごくリーズナブルに、
負担なく出してもらえるっていうのが、
すっごく僕こういうお店好きだなと思いました。
あといっぴんぴんコースの間に出てくるようにも美味しくてね。
冷製スープとかね。
ちょっと洋の洋酢も入ってて、
これもすっごい美味しかったです。
そして、忘れちゃいけないのが、
この店名にもちゃんと書いてある通りなんですけれども、
お酒なんですよね。
これがね、鳥取の日本酒が美味しいんですよ。
特に飲み比べもできるんで、
もうそれぞれ飲み比べていただいてね。
お刺身だったり天ぷらと合わせてっていう、
しっぽりでやっていただくのがいいんですけれども、
僕が知って、今回このお店初めて教えてもらったのは、
ゴーリキっていう魚のことを教えてもらったんですね。
鳥取県オリジナル魚のゴーリキ。
これね、鳥取にしかない魚、
強い力とかでゴーリキなんですけれども、
昔は結構魚育てられてたらしいんですけれども、
昭和30年代に一回ね、消えてしまったらしいんですよ。
もう栽培やめちゃったんだってみんなが。
なんだけれども、
その幻のゴーリキというのをもう一回復活させようといったプロジェクトが起こって、
鳥取大学と連携をして、これを復活させた。
そして今、鳥取県内、稲葉の方も含めてね、
インパク両国の鳥取県内の酒蔵さんは、
このゴーリキを使った銘柄というのをすごい作っていて、
いろんな酒蔵さんのゴーリキを飲ませていただいたんですよね。
酒前縛りで飲み比べたことないかもしれない。
でもやっぱりこれオリジナルだからね、
そういうのでやると面白いよね。
私やっぱり鳥取じゃないとなかなかこれ見られないと思うんですよね。
日置桜とかね、この辺は有名な酒蔵さんではありますけれども、
ゴーリキはちょっとどこまで東京とか神奈川の方にあるかって言われるとね。
酒蔵さんは違うんで一概にその味がどうかっていうのは言えないんですけれども、
やっぱり僕鳥取のお酒って飲んでて思うのは、
本当に上品な米の旨み。
結構お米を感じるお酒は僕多いなって印象なんですけど、
それが何だろう、穀物感とか、
あるいは結構お酒お酒してるみたいな感じではなくて、
上品なお米の旨みっていうのがすごい良いなって思うんですよ。
ちゃんとお米のお酒を飲んでるって感じはするんだけど、
それが行き過ぎない良い塩梅だなっていうのが多かったような印象を受けて、
それとやっぱり食中止としても全然いけて、
例のサーモンだったりとか、
お野菜の天ぷらでちょっと抹茶醤をつけて食べるとかね、
そういったものと日本酒をチョコでしっぽりやるっていうのが、
もうすっごい美味しかったんですよ、このお店。
いやーいいですね。
すっごい美味しかったです。
これはまだ新しいお店ですけど、今後すごく注目されるんじゃないかなと。
いいね、なんかちょっと大人気分な感じ。
大人気分ですね。
あと鳥取の食材の豊かさというのも教えてもらえますしね。
キツツとかも柔らかくて美味しかったなー。
えーいいなー。
なのでちょっとね、
それぞれメインにどっちもなり得るぐらい美味しいしボリュームもあるんですけれども、
それぞれちょっと腹5分目くらいで留めておいていただいて、
タイプが全然ガッと飲んでワッという感じの賑やかな鳥取人さんと、
こっちの日比野さんはすっごい上品にね、しっぽり飲むっていうね、
この順番がだからいいんじゃないかなというふうに気がしますね。
ただいずれにせどちらもすごく美味しかったので、
倉吉というのはすごいグルメタウンだなというふうに思いました。
はい。
これも心ゆくまで飲んでいただいたらね、
倉吉駅の近くならでも歩いてすぐの距離にあると思いますから、
3分から5分くらいで帰れると思いますので、
これで2日目が終わりにしたいというふうに思います。
それでは2日目を振り返っていきましょう。
前日は米子駅周辺のホテルに泊まっておりまして、
朝食はつけずにね、朝9時15分ごろホテルをチェックアウトします。
そこから来るまで10分ほど麦の屋さんですね。
夜なごしの住宅街の中にあるベーカリーということで、
この地元の大千小麦を使ったパンを置いてらっしゃると。
すごくパンの種類も豊富ですのでね、
朝ごはんに自分の好きなパンを選んで食べると。
イートインがないということなのでね、
車内だったりとか海辺だったりとかね、朝食をいただくということですね。
そこから来るまで25分ほど上田翔二写真美術館ですね。
演出写真を撮り続けたという上田翔二さんの写真の美術館ですね。
常設のスペースと2階に企画展のスペースがあると。
で、その2階には展望フロアがありまして、
この上田翔二さんの写真を模したね、帽子が浮いているという写真スポットもありますので、
こちらで写真撮ったりとか、帽子越しの大戦を眺めたりとかということができると。
そこから来るまで15分ほど大戦自然歴史館ですね。
こちらでは大戦の自然という側面と、大戦周辺の歴史だったり文化っていうものを展示をしているという感じですね。
ですので前日見た地蔵だったり牛や馬というね、そういう文化がこの大戦をきっかけに生まれたということがこの展示でよくわかるかなというふうに思いますね。
そこから来るまで3分ほど宿望館長院三楽倉さんですね。
こちら宿望ということで、まあお宿ではあるんですけれども、こちらでランチをいただくということですね。
すごく創作的な精進料理を出してくださるということなので、ちょっと一味も二味も違う精進料理がいただけるかなと思います。
これはランチをいただくには予約が入るんですね。
必ず事前予約が必要です。
ですのでこちらは事前に予約をしていただいてランチをいただくということですね。
当然泊まることもできるので、泊まりたいという方はそちらで利用していただければと。
そこから徒歩で15分ほど大神山神社ですね。
こちらは大戦の神仏集合の面影を残した神社となっておりますね。
神社でありながらちょっとお寺の雰囲気も感じられるというすごく貴重な神社になっておりますので、ぜひこの中も拝観をしていただければというふうに思いますね。
そこから徒歩15分ほど大仙寺ですね。
こちらがこの大仙を取り巻く歴史だったり文化を作り出していった中心地という感じですね。
この地蔵菩薩を祀っていて、周辺には阿弥陀堂もありますので、見どころたくさんという感じですかね。
そうですね。阿弥陀堂は毎月18日だけ開くだけで。
この近くにある縁流院さんには水木茂さんが描いた天井絵が公開されてますので、こちらも気になるスポットではありますよね。
この大仙という山と周辺の文化、歴史というのを感じながら拝観をするという感じですね。
そこから来るまで30分ほど、倉吉に向かう途中という感じですね。
成石の浜に立ち寄ります。
こちらは石がたくさんある浜という風になっているので、波が引いていく際の音だったりとか、
あとはこの時間帯的に夕日が暮れていく様をこの浜で見ていくという感じですね。
ちょっとドライブの休憩みたいな感じですかね。
そこから来るまでまた30分ほど、倉吉駅の近くのホテルにチェックインをすると。
この夜に向けてはこの倉吉駅近くがいいということですね。
チェックインをしまして、そこから徒歩で3分ほど、鳥神さんですね。鳥取県の名物である大仙鳥を使った焼き鳥ということで、
一つ一つが結構大振りな感じの焼き鳥になっていますので、こちらをメインでということも全然可能なお店となっておりますので、
豊富な焼き鳥を楽しんでいただくと。
そこから徒歩2分ほど、天ぷらとお酒の店日比野さんですね。
こちらは割と最近オープンした天ぷら屋さんで、四季のおまかせコースとかを一人で当日オーダーも可能ですのでね。
これがいいですよね、やっぱり。
だと思いますね。
旬のものを出していただけたりとかもするので、こちらのコースがおすすめと。
あとお酒としては鳥取県オリジナル酒米の合力を使ったお酒など、結構地元産というものに注目しているお店になっておりますので、地元の味を堪能していただければと思いますね。
そこから徒歩3分ほどホテルに戻りまして、この2日目が終了という感じですね。
この番組ではお便りを募集しています。
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こちらも旅の参考になるかなというサービスを用意しておりますので、ぜひぜひそれぞれ見ていただければなと思います。
よろしくお願いします。
やっぱりこの歴史を見ていきましたけど、得意な感じというか、文化が生まれていく流れが特殊な感じがすごくしますね。
そのすべてはこの大戦があるということに起因しているという感じですよね。
そうですね。大戦の土壌があって、それの不利な条件をうまく活かした、別の産業と時代の中でうまく繁殖した人がいたということで、それが今の鳥取の宝器の国の文化にもつながっているというのがよくわかるんじゃないかな。
でも実際それで繁盛したよね。うまくいってるからね。
そういうことなんですよ。
じゃあ3日目は、暗吉を巡っていくという感じですかね。
暗吉を巡って最終日になるわけなんですけれども、大戦というものが育んだ古代から中世、近世の文化というのを見てきましたが、それが近現代になってどういったものを鳥取の力で生み出していったのかというと考えてみたいなというふうに思います。
もっと最近の歴史を見ていって。
最近の、今に続く鳥取の話です。
また違った面が見えそうですね。
ということで今回はこの辺でありがとうございました。
ありがとうございました。