大人になりたい旅がしたい。このポッドキャストでは、旅行とお酒が好きな同級生2人が、大人だからこそ知りたい、ちょっとディープな国内旅行のモデルコースを紹介していきます。
内田です。今回は、ハマには独りでいいじゃない、045-means-only-lonelyの1日目の後編となっております。
前編の方では、横浜の発展の歴史を追うスポットを巡ってまいりました。今回の後編では、横浜の独りでも楽しめるディープなお店たちを巡っていきます。
それでは、後編です。どうぞ。
大体5時頃になってくると思いますので、ここからちょっとね、いわゆる飲みのフェーズに入っていきたいと思うわけです。
そこも、エリア選ばないと大変なことになりそうだね。
なのでね、ちょっと今回はかなり工夫をしながら、ただ横浜の王道を外したくないというところで、初めて横浜に来る方でも是非寄ってほしい場所というのを紹介したいと思います。
氷川丸から降りましたら、山下公園を通って陸地の方に戻ってください。
徒歩5分ほど歩いたところにあるのが、ホテルニューグランドです。
ここは僕も記憶に新しいですよ、割と。
さっきね、大桟橋、僕ら遊びに行ったって言いましたけど、その時に一緒に行ったね。
そうです。ここがね、大好きなんですよ。
いや、もう建物がまずすごいよね。
すごいです、これは本当に。
ちょっとまあ、俺らなんか場違い感がすごいあるんだけど。
そうなんですよ。
なんかもう本当に立派で、上質というかね、重厚感というかね。
ホテルニューグランドね、もう今重厚感って言ってくれましたけど、いわゆるもうね、日本を代表するクラシックホテルです。
これが誕生したのは1927年ですから、あと2年で100年ですね。
やはり関東大震災からの復興期にあたってこれが建てられたわけで。
当時ね、その横浜はそういうわけでやけの原になってしまったので、新しい国内外のそのビップをもてなす横浜の顔となるホテルが必要だろうということで。
既選会社とかが主になってるんですけれども、それがみんなで力を結集してこのニューグランドっていうね、新しいグランドなんですけど。
横浜の新しい顔としてのクラシックホテルを建てたんですね。
もうね、何から話せばいいかという感じなんですけれど。
やっぱり一番有名なのはこの大階段ですかね。
いやー、これすごいよね。
もう入った瞬間に目に入るっていうね。
あの扉入った瞬間のこの空気違う感じあるよね。
そうなんですよ。よく空気違いますよね。
いわゆるニューグランドブルーというね、青い絨毯が階段に張られて、その中に石造りの堅牢な取手と管理団が建ってあって、その先には、これ銀座の和光と同じ人が作ってるんですけれども、時計をね。
建ってあって、その周りに天女が舞っているっていうね、その和洋折衷な感じですよね。
海外の人が来ても違和感なく入れるんだけれども、上がってきてやっぱり日本に来たんだなっていうのがわかるようなね。
そんなすごい巧みなバランスで取られているわけです。
工芸とかインテリアの一つをとっても、本当に超一流の職人たちが総力を結集して作ったもので、本当にこれがね、戦争を乗り越えて残ってるっていうのはすごく大きな意味を持っていると思うんですけど。
今でもね、これは宿泊はもちろんできますし、ただ我々のように場違いな人間であっても、宿泊をしなくても利用することができて、この大階段とかを見学も写真も撮ることができます。
ただね、じゃあ今回泊まりに来るのかと。
それは結構難しいんじゃない?
そうですよ。ましてこのクリスマスのタイミングで泊まってるのはね。
無理でしょ。
もうプロポーズをするんじゃないかというレベルじゃないですか。もはやね、本当に。
予約で聞かれそうよね。お一人ですか?って聞かれそうな感じで。
まさかと思いますけどみたいな。
なのでじゃあ何しに来たんだって話なんですけれども、ここにね、バーがあるんですね。
あれね。
バー、シーガーディアン2。シーガーディアンって読まされて、サザンオールスターズのね、ラブアフェアっていう名曲ありますけれども、あれにも出てくる横浜を代表するバーですね。
僕らはここをめがけて行ったんですよね。
そうです。覚えてますか?シーガーディアンについては。
覚えてますよ。もうこここそ間違い感がすごいんですよ。もう本当に、ゴッドファーサーとかさ、それぐらいの雰囲気。もうちょうど品一つ一つがすごく高級感あって、空気感もね、なんかすごい大人が、いい大人が集まる場所って感じがして、僕らみたいなね、弱い者が行くような場所じゃないなという雰囲気でした。
はい。
まあでも入ってみたらすごい紳士的にね、スタッフの方も接してくださるし、まあドリンクもすごいですから。
はい。
楽しかったよ。
はい。おっしゃる通りですね。もう本当に重厚感というよりもそのままね、正統派を極めたような、いわゆるバーですね。日本の顔となるバーだったわけですよ。
うんうん。
まあここも本当にいろんな物語があるんですけれども、まず言っておくとね、ここ我々はテーブルで通していただいたんですけれども、サヨネレ行ったからかな。
そうですね。
一人でもね、全然カウンターが当然ありますから行けるわけです。
ですからまあニューグランドに泊まるとか、やっぱり雨室とかウェディングとかもありますから。
そうね。
はい、あれなんですけど、このバーに一人で行く分には全然一人でも行きやすいというふうに思います。
特にね、このシーガーディアのあるいは象徴的な話で言うと、このニューグランドですとか、あるいはこの横浜という街でね、生まれたというふうな説を持っているオリジナルカクテルがありますよね。
代表的なもので言うと、その名も横浜。横浜に沈むね、夕日をイメージしたっていうようなショートカクテルだそうですが。
うんうん、オレンジ色のね、綺麗なカクテルですね。
あるいはバンブー、これ竹という意味ですけれども、日本の植物というかその日本の林とした感じっていうものをね、外国の方が見たときにこの竹になぞらえたっていう話もあるそうですが、それがバンブーと言われる、この辺りはもう本当に横浜発祥と言われているカクテルでありますね。
あとはこのニューグランドのオリジナルのもので言うと、フーバーズフィズというね、これいわゆるフィズなわけなんですけれども、フーバーさんっていうのはこれ実在した人物だそうで、一般人だそうなんですね。
イソゴっていうのはこれは要はねぎしのもうちょっと南の方なんですけれども、イソゴ区ってありますけれどもね、三浦半島に行く途中です。
そこから山下町、この辺りですよね、で通っていた一般の人、フーバーさんってお客さんがいたそうなんですが、この人が非常にこのオリジナルブレンドのね、このフィズを飲むのを好んでいたそうで、それがいつしかフーバーさん自体がなくなった後にカクテルになって名前が残ったというオリジナルカクテルがあったりするんですね。
ただの常連ってことだよね。 ただの常連です。
すげえな。 それだけ好きだったんです。
へえ。 だからこのニューグランドはもちろん外国の方がね、たくさん本当にひかわまでやってきたビッパここに泊まるのも多かったわけですけれども、一般の人がバー利用として行っていたっていうのもあるわけですね。
で、本当にここを泊まった人はもう毎年泊まらないんですけど、非常に有名なエピソードで言うとね、戦後GHQの司令官としてやってきたマッカーサー・ゲンスイという人いますけれども、彼はですねGHQとして戦後やってきたというのが教科書で語られてますが、結構日にち派だったんですね。
日本に対してすごい結構詳しい人で、彼はね新婚旅行で実は日本を訪れてるんですね。まだその戦争になる前の日本で。その時にもやはり泊まっていたのがこのニューグランドだったんです。
へえ。 うん。そしてまあしかし戦争になってしまって、自分がその敵国のね総司令官となって日本にやってきた。そして横浜は当時空襲でやけの原になってニューグランドはあったんですけど。
マッカーサー・ゲンスイは厚木飛行場に降り立ったわけですが、そしてその厚木から松崎に向かったのがこのニューグランドだったんです。そしてニューグランドに数日滞在して、ここは要は彼にとっての日本の初めての宿になったんです。GHQとしてもね。
だからその考えというのも非常にね、いろんなことを思ったんじゃないかと思います。その平和な時代、良かった時代の新婚旅行で訪れたところに、自分が今ねその日本を訪れる司令官としてやってきてしまったっていうところもね。そして同じホテルに泊まったんです。
なんか複雑そうだな。 複雑ですね。そして彼が泊まった315号室っていうのがあるんですけど、それは今でも現存していて、マッカーサーズスイートっていう名前でね、予約して泊まることもできます。
なのでマッカーサー・ゲンスイが本当に使っていた時のものだったりも残っていますので、そこにもし泊まることができたならね、より彼が何を思ったかというのもね非常に興味深いところ。
やっぱりこのニューグランドのページとかホテルの中にも本当に数多の人生がここを経てね、いろんな考えを持ったはずなので、そのマッカーサー・ゲンスイがねGHQとしてやってきた時に随行してきた兵の一人が後年になっておじいさんになって、どうしてももう1回この景色を見たいって言ってやってきた時のエピソードだったりとか、そんなこともね思い出として書かれたりしてますね。
いろんな人の思い出に残るホテルなわけだね。 そうですそうです。そういう中でやっぱりこのフーバーさんしかりですけれども、いろんな文化、いろんな背景を持った、バックグラウンドを持った人たちがこうやって同じようにお酒を飲んで行ったということで、このバーでしか生まれないカクテルというものがあったわけですね。
そしてね、これは余談ですけれども、このニューグランドっていうのはもちろんホテルとしてもすごいし、バーもすごいんですけど、もう一つ日本の歴史上、特に文化史という意味で絶対に欠かせない功績があるんですね。ある意味これが一番大きな功績かもしれません。
それは1927年にこれができているわけですけれども、この日本における洋食っていうものを本格的に普及させた大功労者なんですね。これどういうことかっていうと、ニューグランドというわけで海外からのビップが止まる日本の顔として立てられましたので、本格的な西洋料理を出せる、海外に引きを取らないものを出さないといけないというわけで、その支配人も料理長も海外の人が最初から就任しました。
特に有名なのが初代料理長サリーワイルという人物です。これは日本の歴史に長残った人物なんですけれども、スイス人なんですねこの人は。
スイスに生まれてフランスとかで当時の西洋料理、フランス料理ですよね、の一流のもうシェフとして、若かったんですけれども将来は職務をされたすごいシェフだったんですけれども、その知り合いがニューグランドの支配に招かれたっていうんで、友達繋がりでお前も日本に来ないかって言われて、
まだ若かったのに初代総料理長としてここに赴任したんですね。それで要は日本の西洋料理って新しいものを持ち込んできた人なんですよ。
ただそれだけなら似たような立場の人っていっぱいいたんだけど、サリーワイルっていうのはおそらく日本に来た国の中で一番有名な人として長残ったんですが、なぜこの人がすごかったかっていうと、
その当時の日本っていうのは1868年の明治時期に始まって、明治政府っていうのは不平等条約改正とかのために、6名間でダンスをとったりとかなんとかって言って、要は形から入ったんですよね。
それで西洋と対等になろうとして外交交渉していったわけですよ。もちろんそれはある意味では文明改革というもので、いろんなものを持ち込んで新しい日本の文化を起こしていくことには非常に大きな利点となったわけなんですけど、
一方で条約交渉無事に済んだ後で見てみると、西洋の人から見ると形だけ真似している感がやっぱりどうしても拭えない。
衛生感がある。 衛生感がある。衛生感があるんですよ。
で、要はその当時の西洋料理っていうのもいろいろあったわけですけど、西洋料理といえば高くて格式張っていて、特別な針の日にしか食べないっていうようなものだったわけですよ。当時まだね。
ですからフルコースが基本。もう本当にスペシャルな料理。ドレスコードもバッチリして、マナーもしっかりしてっていうものをやらなきゃいけないというのが、いわゆる西洋料理っていうもの。日本人の中ではそれだと思ってた。
けどサリー・ワイルは当然それを題材されて本来日本じゃ招いたんだけれど、彼はそれじゃダメだというふうに思ったんですね。
もっと日常的な西洋料理っていうのを望んだんだ。 そう。それなぜかというと、ビジネスの感覚でいうと、
西洋から来る人にとっては、わざわざ日本で西洋料理のフルコースを食べてもいいんだよ、いいんだけどそればっかりじゃやっぱり疲れてしまう。
確かにね。 むしろその西洋の人が本当に日常的に食べている、我々が海外に行ってちょっとラーメン日本食挟むかみたいな言葉ですよね。
ああいったものじゃないと本当の意味での安らぎ、逆にそれを去って出すと日本というのは一つ一つレベルが上がった。
なるほどね。なんかちょっと逆説的な感じもするけど、でも来てくれた人に対して寄り添えるっていうことだよね。
あくまでもゲストを重視しなさい。格式とかマナーとかじゃなくて、ゲストが喜んでこその料理でそのために我々ホテルマントにいるんだっていうのを徹底的に叩き込んだんですね。
だから日本人のコックたちも西洋料理っていうのをイメージを破壊されて、ゲストが食べれるものがこのホテルの正解なんだっていうことを徹底的に追求した人だったんです。
だからフルコースも出せたと思うんですけど、サリエイマイルは料理長になってからやったことというのは、メニューの中にコース料理とかいろいろあらかることもあるんですけど、
このニューグランドの料理長はお客様のあらゆる求めに応じてオーダーメイドで料理を出すってことを宣言してあったんです。
ですから西洋の人たちもこれはなんかなるほどじゃあ俺のふるさとのあの味も出せるのかなみたいな感じで気軽に頼んでいって、
そうするとサリエイマイルは当然それを一流の料理人が知ってるんだけど、そこで学んでいた日本人のコックたちは知らない西洋料理がどんどん出されてくる。
それをサリエイマイルが作る、それを手伝いをするってことでいろんな知らない西洋料理が入ってきたっていうんですよ。
そしてさらにすごかったのはサリエイマイルというのはそういうわけでお客様重視なので、お客さんが西洋料理であったとしてもいろいろな中で、
ある時ねとあるお客さんが体調があまり良くなかったんですって、でちょっと肉とかステーキとかそういうとこ食べらんないと言いもたりしてて、
ときにそういう私にもボリュームは欲しいんだけれども柔らかくて優しくてクリーミーでなんとか食べられるものないだろうかっていう、今の私の体調合わせもないだろうかっていうものを頼まれたの。
ところがそんなメニューがなかったんですね、でサリエイマイルもそれを知らなかった。
でも彼はすごかったのはそれを即興で作ったんですよ。
すごいね。
何をしたかというとその場にありあわせのものだったんですけど、ご飯は日本にはたくさんありましたから、ご飯を敷いてそこにお客さんがトマトソースが辛いもん食べらんないって言うから、
クリームソースにエビをあえてそれを塗ってそれをオーブンで焼いたクリームソースとご飯を合わせたちょっとした柔らかめのものを出したんです。
これ何だと思いますかね。
ドリアですよね。
ドリアっていうのはこのサリエイマイルが日本で作った料理なんです。
あれは海外の料理じゃないんですよ。
完全に養殖だと思ってるけど。
そうなんです。違うんです。
日本で生まれてるんだ。
このニューグランドの厨房においてサリエイマイルがその時作ったのが世界で初めてのドリアなんです。
へえ。増水的なことで出したわけね。
そういうことなんですよ。だからミラノ風ドリアなんですよ。
風ね。
ミラノにはないんですよ。海外にドリアを知らない人はいると思います。
あれは日本で生まれた養殖なんです。
なるほど。対応力がすごいな。
そうそう。すごいんですよ。この料理というのも。
それでだから料理ってまで広がっていったし、当然だからいろんな国の人がいろんな自分の日常食を頼んでいくわけだから、
今までフルコースしかないと思っていた日本人のコックたちにとってすごい新鮮な驚き、ただそれが全部おいしくて、しかも簡単に作れる。
これならば専用料理ってもっと日本にとって身近になれるんじゃないかって気づいたんですね。
そしてどんどんどんどんこの中部で学んだ人たちが日本の西洋料理を変えていった。
それがホテルニューヨークラーの総料理長になり、帝国ホテルの総料理長になり、東京オリンピックの総料理長になりっていうのがこれみんなサリー・ワイルドの弟子なんです。
人たちになって、そして野下とかの方にもいわゆる西洋料理、グリルってものを出していったのは彼の弟子たちなんです。
だから今我々が一般的に食べている西洋料理っていうのはこの人がいなかったら、もしかしたらその時期だったのに全然遅かったかもしれない。
っていう人たちなんです。これ戦前の話です。
なるほどね。
その中で生まれたものが、サリー・ワイルドはドリアを担ったんですけど、やっぱりそのお客様大地の精神というのはそのニューグランドに伝統として引き継がれました。
サリー・ワイルドが去った後も、彼を後を継いだ日本人の総料理長たちは、その場の求めに応じて新しいものを生み出していくっていうのがポリシーを感じている。
そういうわけで若くして将来は職務をされていたにも関わらず日本にやってきたんですけど、
そこで本当に多くの洋人を育てました。
彼の教育は徹底したのはホスピタリティなんですけど、やっぱり料理だけにとらわれてるとかじゃダメなんだと。
あくまでも人としての人間力を磨かないと料理にはダメだってのをすごいちゃんと言ったので、
当時の日本っていうのは、徹地忘光みたいな世界ですから、
もう本当に厳しい修道をガンガンやれ、覚えろっていうのが一般的だったのに、
彼の指導方針はそうじゃなくて、料理以外のことの勉強のためだったら別に料理を休んでもいいっていうのが基本だったんです。
だから彼は料理を学ぶため、いずれ君たちも留学をするときが来ると思うからって言って、
語学勉強とかをむしろそっちに行かせたんですね。
料理は後でいいから、語学のためだったら料理は休んでいいっていうぐらいの教育をして、
それによってその弟子たちは語学を学んで、
西洋の本当の中の部分で培われた本当の西洋料理を学んで、
やがてそれが日本に多く普及していった。
っていうので、すごくその独特の教育方針、ただゲストに喜ばれるっていうふうに評判を読んで、
非常にこの人は慕われた。
しかしそれを許さなかったのが時代だったんですね。
スイス人っていうことだったんだけれども、太陽戦争が起こってしまうと、
西洋人というのは後々もうスパイ扱いをされてしまって、
彼は国の命令によって、失意の中でニューグランドの厨房を追い出されてしまった。
強制的に軽井沢に閉じ込められてしまって、
そのままニューグランドに復帰できないまま日本を追放されてしまったんですね、実質的に。
しかも彼にとって不幸だったのは、まだ20代の時とかに日本に来てしまっていたんですね。
彼が帰ったのも50くらいになってたわけなんですけれども、
そうしてみると、当時若い時に技術を磨いていた西洋料理っていうのは、
その当時の主流ではあったんだけれども、
帰ってきてみたら、もう西洋料理のトレンドっていうのは全く変わっていて、
自分が日本に持ち込んだ最新の料理はもはや最新の料理じゃなくなってたんです。
つまり彼の技術とか考えとか磨いてきたものっていうのは、
日本にとってはすごいものだったんだけれども、
戦後の世界にとっては一つではない前のものっていうふうに見なされてしまって、
その活躍の場はほとんどなかった。
本国へ帰っていってみたら。
切ないな。 そうなんですよ。
そういうことを後で日本が戦争に負けた後に、
その弟子たちはあるとき知ったんですね。
そのサリー・ワイルは引き裂かれてしまった彼の弟子たち。
そしたら実はワイルは故郷ですごい不遇の人生になっている。
っていうんで、そのサリー・ワイルの弟子たちはみんなで有志で募金とかをして、
サリー・ワイルを日本に招いて、
1950年でも日本が独立した後ですけれども、
に再び来日をして、そこでその弟子たちに求められるままにいろんなところを回って、
テレビにも出演したり、料理とかホスペラン教育などいろいろして、
それで日本に大歓迎を受けて、
日本のちゃんとしたそういった機関からも功績を認められた。
だから結局彼はそれでまた本国に帰ったんですけど、
本国でやっぱり料理人として生きる道はほぼほぼなかったんです、結果的には。
ただその後は日本人が戦後の新しい日本の文化を作っていく若い料理人たちにいない人たちが、
要はサリー・ワイルの孫弟子とかになるような人物になるわけですけど、
彼らがフランスとかそういった食の王道のところに留学をしたいって言った時の支援をすることとかを事業としてやって、
多くの日本人の料理人たちが彼のお世話になってレストランに働かせてもらう。
つまり日本は敗戦国ですから、フランスとかも敵国ですから昔はね。
非常に難しかったんですよ、その国際的な立場を日本の敗戦国のよくわからない身分の人がホテルに働かせても無理だったんです。
けどそれにサリー・ワイルが口ずぶしたおかげで、敗戦国のよくわからない日本人の若手の名もないシェフでも学ばせてもらうことができたんです。
そして彼らがまた日本に戻ってきて、西洋料理を届けていった。
っていうのがこのサリー・ワイルの人生で、結局そういうわけで彼の運命と人生っていうのは非常に色々考えさせられる部分はあるんだけど、
だからもし本当にスイスとかフランスに残ってれば、その道で西洋料理の領域として長残ったはずなんですけど、
今もう本国ではその名は忘れ去られていて、日本にだけこの名前残ってる。
ただこの功績というのはもう日本の文化を語る上で絶対欠かせない人物なんですね。
ということで、ニューグランドにももちろんあるんだけれども、弟去年かな、
ニューグランドの裏手に新しいショップができました。
今回ちょっとここには入れてないんですけれども、サリー・ワイル・バイ・ホテル・ニューグランドっていう、ニューグランドが手掛けているパティスリーでね、
ここでコーヒーとかも定価できますし、伝統のロールケーキとかをね、販売しています。
この窓に描かれているコックの横顔がありますけれども、これがサリー・ワイルですね。
ここもね、クリスマスにサメになったかもしれないけど、
もしお土産とか買っていくことがあれば、ぜひ行っていただけるといいかなと思いますし、本当おいしいですこのロールケーキね。
2024年にできたばかりです。
というね、教科書に載らないんだけどね、本当に今の日本の我々の幸せにね、非常に大きな貢献をしたね、絶対忘れてはいけない功績を持っている人ですね、この人は。
そうですね。なんかそのシェフとしてだけじゃなくて、なんか人間としてすごくできた方なんだなって感じるよね。
当時の日本の本当に課題とか問題点ってものを鋭く監督して、それをみんなが幸せになる形で変えていったっていうね、すごい一人の偉人だと思います、この人は本当に。
すごい好きな外国人の一人ですね、日本に。
そうですね。いや、やってることも本当人のためにっていうのが、運命にあるのがよくわかるからね。
いや、すごい人だ。
はい、こんな人もね、ニューグラウンドにはちょっと増しておいたらいいかなと思います。
かっこいいな。
で、そしたらね、満を持して食事と飲みを行きたいわけですけれども、バーを一回挟んではいるんですけれども。
そうか、このホテルニューグラウンドはこのコース的にはシーガーディアンを目指していく感じですね。
そうですそうです、シーガーディアンでゼロ仕替えをするというね。
もったいねえなあなんか。
はい。なので、もっとちゃんと大切な人と行く時とかは泊まっていただいてもいいですし、
ここにザカフェっていうレストランがあって、そこではそのニューグラウンドのオリジナルのね、ドリア、ナポリタン、アラモードとか全部出してくれますから、
今回ね、そっちの間で紹介したいと思うんです。
それがどこかというと、野毛都橋商店街というところです。
うーん。
いやーなんかよりディープな感じだな。
はい。
ちょっと写真調べてみましょうか。
おー、なんか昔ながらの感じがすごいあるね。
はい。
不思議ですよね、これね。
すごいな、まあスナックとか個人居酒屋みたいなのが本当に連なっている感じの通りですよね。
うん。これね、通りではないんです。
え?
ビルなんですこれ。
え、どうなってんのこれじゃあ。
そう、どうなってんのって話ですよね。
うん。
これね、ちょっとね非常に説明が難しいんですけれども、まず概論を言うと、野毛都橋商店街というのは一つのビルであって、そのビル2階だけのビルなんですよ。
うん。
その2階だけのビルの中に1階2階合わせて60店舗ほどの商店舗が集中して入っているっていう謎のビルなんですね。
はあ。
じゃあこれ1個の建物なのか。
そうです。
ええ?
1個の建物がビューンて謎のカーブを描いて立っているっていうその中なんですよ。
ですから、あ、そうそうそう、この写真わかりますよね。
ああ、なんかこれ海?川かな?
川ですねこれ。
川側からね、似てる写真出てますけど。
うん。
すげえな。
うん。
まあでもこっちから見るとアパートみたいな感じだね。
そうそうそうそうそうそうそう。
じゃあそこに一室一室にお店が入っているわけだ。
そう、おっしゃる通りアパートが一番わかりやすいかも。
本当アパートに室レベルの規模のものがいっぱい入ってるんですよ。
へえ。
約60件かな。
うわこれ1個の建物だと思えないわ。
うん、これ日本でもなかなかないと思いますよこの場所は。
すごいな。
はい。
あのこれねなんでこんなものがあるかって話なんですけど。
はい。
えっとね結論から言うと今ではこれねもう違法建築らしいですこれ。
うん。
なんか駄目そうだね。
駄目そうだね一回も駄目そうだね。
うん。
だから今からはこれと同じものは建てられない。
ええ。
ただもうそういうのが制定される前に建てるんで残ってるわけなんですけど。
はいはい。
できたのは1964年の東京オリンピックの時らしいです。
ほう。
で実は野外というのはね今もなんとなく言ってもらうとわかると思うんですけど。
うん。
太陽戦争中に空襲にあって横浜の街というのは壊滅してしまいました。
うん。
ところがまあ人多く住んでいたわけで戦後まもなくその復興にあたってですね。
闇市というものがこの野外一帯にたくさんできたんですね。
うん。
つまりまあ非合法ではあるんですけれども。
はいはい。
その当時の食料不足の醸成化においていろんな売買をするお店がいっぱいできていて。
うん。
それの集中したのがこの野外一帯だったんですね。
なるほどね。
うん。
それはそれである程度の時代の事情にも応えたんだけれども。
はい。
一方でまあ高度経済成長という風になっていく中でそういうのはちょっとどうなんだと。
まあね。
闇市延長みたいなものが延々と続いているのはね。
はい。
っていうんで区画整理を行いますと。
うん。
その要は60年って外国の人もいっぱい来るわけだからっていうこともあってね。
うん。
それでその闇市の要はちっちゃなお店みたいなのをもう路上にいっぱい展開してるとまずいからさすがに見た目としても。
うん。
雰囲気としても。
っていうんで一つのビルを作るからそこに全員集まれと。
はあ。
ここにまとめますってできたのがこれだったんですね。
はあなるほど。
うん。
ですからこの大岡川っていう川沿いにもう無理矢理このカーブに沿って一つのビルをこしらえてそれに山道みたいなちっちゃなお店がいっぱいあったからそれをもうまとめてちょっと道路からどいてこっちに来てくれと。
はあ。
いうのがそもそも起こりだったと。
へえ。
うん。
まあちょっと怪しい感じであるもんね。
怪しいよこれは。
ははは。
これはなかなかですよ。
正直。
ああいやでも納得の雰囲気ですよ。
はい。なのでそういう歴史を持っているからちょっとゴールデン街にも近いような見た目というか雰囲気でありますけれども。
ですからそれぞれのお店多くても10席程度なんですよ。
はいはいはい。
当然ね一人で来るわけですよね皆さん。
まあカップルは来ないだろうな。
ほぼ来ないと思います。もう行ったことありますけど彼女と。
ははは。
トントン連れてこないと多分思っちゃいますけど。
ははは。
まあでも普通の一人ですよ。
うん。
うん。
まあまあ友達同士もいいんだけど僕オノとも行ってますけど。
うんうんうん。
でも要は大人数絶対来ないですこれ。
まあ入れないね。
入れないそもそもね。
そもそもね。
で今はもちろんその当時からやってるお店というよりはいろいろねこのディープな雰囲気楽しむ新しいお店もたくさんできていますから。
うん。
60あるわけですけれども特にちょっとオススメのいくつかをねお話したいと思うんですね。
はい。
まず一つがねもう象徴的なお店なんですけれどものげハイボールというお店です。
へえ。店名がハイボールなんだね。
そうのげハイボールってお店なの。
へえ。
これがハイボールなんですよ。
うんもう普通の感じじゃないですか。
これね本当に普通だと思いますか。よーく見てくださいこれ。
ああ氷がないのか。
そうなんです。のげハイボールのハイボールの一番の特徴は氷を入れないことなんです。
へえ。
ハイボールって普通まあウイスキーにソーダ割りなわけですよね。
そうね。
でまあ氷を入れてそれで混ぜるわけじゃないですか。
うん。
でそれキンキンに冷やしたんでまあおいしいっていうふうになるわけでそこにトリスのあの人がいるわけですけども。
そうね。
ここのハイボールはね氷入れないんですね。
へえ。
ですから氷で薄まるということもないんです。
はーい。濃いまま飲めと。
そう。ウイスキーのソーダ割り。
ただしこのグラスがねまあすごいグラスを使ってて。
はい。
キンキンに冷やしたグラスで薄いグラスを使ってるんですね。
へえ。
そのグラスを使ってるもんだからひんやり感を保ったままただしお酒の味わいと濃さも保ったままっていうねスペシャルなねハイボールなんですよ。
へえ。
うん。これがおいしいんですよ。
へえ面白い。確かにお店で飲むハイボール絶対氷入ってる。
まあ普通のそうですよ。
ね。
だからここあくまでバーなのでなんかガーってあーいっぱい目立ってるよりも味わいを楽しむハイボールのイメージが強いと思いますね。
なるほど。はいはい。
同士で出てくるカレー味のカッパエビセンみたいなのがあるんですけど、それで持ってこう食べるっていう感じでね。
このハイボールねなんかね一度飲んだら忘れられない味ですよ。
へえ。
やっぱりハイボールって聞いて飲むとおいしいんだけど気づいてみるとなんかいつもと違う。
へえ。
っていうのに気づくと思うんですよ。
へえ。
だからコインでこのカレー味の感じとエビセンとねすごい合うんですよね。余計ね。
はあーなるほど。
うん。そしてちょっとメニューをね見てもらうとねもうカクテルメニューもね5個ぐらいしかないんですけれども。
へえ。
ちょっとね面白いのがあると思いませんか。
へえ。モヒート自作体験式?
そうです。これどういうことなんでしょうか。
自分で作るってこと?
はい。なんとですね。
へえ。
ここのモヒートは自分で席で自分が頑張って作るっていうすげえやつ。
なにそれ。
はい。どういうことかというと当然割り剤とかそのカクテルいける人たちはちゃんと用意してくるんですよ。
はいはいはい。
で要はモヒートってミントのカクテルですからベースとそのミントねコップに入れて出してくれるんですね。
はいはい。
ではい出しますねって出してくれてそしたらプレスするねゴムの機械みたいなのも持たされて。
うん。
じゃああとはしっかり何十回くらいでもやってくださいねって言われて。
はいはい。
そして自分でそのミントをこう潰して混ぜるっていう作業を結構な労働をねカウンターでやるんですね。
はいはいはい。
でそれでどうですかって言ったらうーんもうちょっととか言われてまたやるみたいなことをやって合格が出ると完成するっていうね面白い体験ができるんですね。
なんかこの間のさワインつけるやつみたいな感じ。
そうですそうですそうです。モヒート限定のバーテンダー体験じゃないですよ。
はーい。
そういうのができるんです。
へえ。
だからもちろんそのちゃんと見てくれてますから味は必ずおいしくなるんですよ。
ああなるほど。
はい。だったらねちょっとこういうのができるって面白いんですよ。
へえ。面白いな。それがこの数少ないメニューに入ってるのすごいな。
そうなんですよ。4個しかないドリンクメニューの中のね一つがモヒート自作体験式なんですよ。
へえ。
はい。
いやだからかこのね写真でモヒートすごい上げてる人いっぱいあるんですよね。
はい人気メニューですね。
ああ。
そうそうそうこんな感じでプレスするんですよね。これプレス途中の下にゴムがあるのかな。
ああ。だからこうミント潰して香りをどんどん出してくるって感じですよね。
そうそう。だから自分がこう体重を加えることによって香りが立ってくるねその過程も楽しめるというねちょっとやっぱりディープなところならではのね。
へえ。
でこれ客席も本当に数席まあ6、7、8人かなしか入れないと思うんで。
うんうん。
だからまあバーのもちろんお一人でやってるんですけどあの目の届くところでみんなでやるっていうねそういった面白い体験ができるんですね。
へえ面白いなあ。
はい。なのでね入れないことも多々ありますから何回かチャレンジしてもらったらいいと思いますね。
はいはい。
なのでまあまずこれが一つ。
はい。
あとお料理もちゃんと食べたいというなった時にはたくさんオススメあるんですけど一個選べるとしたらコッコ堂っていうね焼き鳥屋があるんですね。
おおうまそうだなあ。
はい。ここはね立食のたちのみ焼き鳥屋でね。
へえ。
へえ。
なので入門編に僕はここいいかなって思います。都橋の。
なるほどね。
焼き鳥で美味しいっていうのもあるしね。
はいはいはい。
飲み物ももちろん美味しくて、自家製のねジャムを使ったサワーなんてのもあってね。その日の旬のフルーツのジャムをご自身で作ってるそうなんですけど、それを使ったサワーなのでね結構女性客もいいし、なんか僕彼女とここに行ったんですよ。
へえ。
なんかお酒そんなに特地なくても楽しめる。野外の雰囲気を楽しめるっていうのでいいと思います。
へえ。
あとは最後に締めもここで食べたいなって思った方はですね、ちょっとニューフェイスのお店も紹介しておきたいと思うんですが、60ヘルツというお店です。バー60ヘルツ。ここがまたディープでね、これは上級者向けですね正直。
へえ。
うん。
黄芋カレーですかこれ。
そうです。
へえ。
ここはね何がいいかってね、もちろんいろいろおいしいんだけどカレーが絶品なんですよ。
へえ。
めちゃくちゃうまいですここのカレー。
ほうほう。
うん。
いやなんかうまそうだな。
多分日によって変わるのでどれのカレーって言いづらいんですけれども、ちょっとお米もねややこう白米じゃないようはターメリックっていうものがあったりで黄芋だったりとか、僕の時はチキンのカレーだったりもしたんですけれども、その時々によってこのシメのカレーがほんとにうめえんだよね。
へえ。
サイズもちょうどやっぱり宮古橋を飲んできた人が最後に食べるっていうくらいのサイズにしてくれるので、シメにぴったりの一品。
へえ。
うん。
なんかこれたこ焼きもあんの?
そうなんかたこ焼きのこの辺ここねもうメニューがないんですよあんまりちゃんと。たこ焼きもね昔はたこ焼きだったから僕ねカレーしか食べたことないんですよ。
へえ。じゃあちょっと行ってみてのお楽しみみたいな感じがあるんだよね。
うん。でねこのマスターがまたすげえ面白い人で、このすごい気さくでね陽気なマスターがクリエイティブな感じのね方なわけなんですけれども、この人がねもうほんとにここもみんなを巻き込んでくれる感じで。
へえ。
独りでいても全く寂しくない。あの僕はよくいじられますけど、だから要はあのいじられるとか平気であればなんでクリスマスに一人来てんのみたいな話になるわけですけども、たぶんその辺ね仲間いっぱいいると思うので仲間感がすごくね醸成されるんじゃないかというふうに思いますね。
へえ。
でちょうどこの写真の角度もねリバーサイド側なので、背中にね川の風を受けながらねカレーとハイボールを決めるっていう。
へえ。
ものでね。
ちょうどやっぱクリスマスの横浜っていうの忘れそうな雰囲気すごいあるね。
そうなんです忘れていいんです。ここ行くとね自然とね孤独な楽しみもあるけれどもみんなと仲良くなれる。やっぱり結局一人で孤独ってそれだけじゃないなって。振られた後とかでもいいんじゃないですか。
確かにね。
クリスマスデートに振られた大学生とかでも全然いいと思いますよ。安いし。
いいかもね。
2千円くらいですからどこの店も。でちなみにね僕ねこれ先月行ったんですけどまた。その時ちょうどだから川床感覚で出れないですけど後ろ窓は網戸になってて川の風を受けながらこう飲めて。で後ろ振り返るとね大岡川って桜の名所ですので4月になるとね夜桜がその川の対岸になるんですよ。だからまあその楽しみもあると思いますね。
なるほど。
意外といい雰囲気だね。
そうなんですよ。というねこの都橋商店街。まあね入るのに最初は勇気いると思います。それはわかります。ですが一人でそもそもクリスマスに横巻きすること自体立派な勇気ですからそれは誇るべきことですのでぜひね突き詰めてほしいなと。
ちょっと注意点としてはねこういうビルなので各お店にトイレはありません。どういう形なのかというとお店それぞれのお店でカリが用意されてます。そのカリをねトイレ行く時持ってこのビルの中のトイレありますのでそのトイレね関係ない人入ってきて汚すとダメだからこのビルのお客さんしか使えないようにカリを持っていてカリ開けてそれで用を足してカリを閉めて戻ってそのカリをお店に返すという方式だったりしますのでそういうのも含めてね雰囲気楽しめる方はねいいと思います。
うちだもん絶対好きだと思いますこの宮古橋は。
今紹介したやつに入れなくても多分お店いっぱいあるから。
いっぱいあります本当にもっと有名なお店めちゃくちゃあるんですよ。いいお店たくさんありますのでもっと女性向けのお店もありますよ。
女性のバーテンダーさんがやってる最近できたね日本茶とかウーロン茶とかお茶ってもののカクテルにこだわったね。
すっげーオシャレな柔らかい店があってそこは60hzさんみたいにみんなでわーっていう感じよりも女性一人でもゆっくり飲めるタイプの店もありますから必ずどこかにお気に入りがあると思いますので。
ちょっと調べてもらうと楽しいね。
ということでねここで料理とお酒を大体いただきました。
そして最後にねこの歴史旅という側面においてはねちょっとここを欠かすことができないというバーが最後にここあるんですね。
まさかのまたバーなんですけれども。
宮古橋商店街から徒歩15分ほどのげを抜けて館内の方に戻ります。
カクテルバーネマニャさんです。
これが歴史に関わるんですか。
はい。
なぜそうなのかということなんですね。
見た目は普通にオーセンティックバーでオシャレでね。
いわゆるバーとしてすごそうだなって思うんだけどなぜ歴史に関わるのか。
僕ね実はねこのお店に何気なく入ったんですけどすっげー僕刺さってその場で取材交渉して街取りに乗せてもらったんですよ。
っていうぐらいなんですけど。
この実はバーテンダーさんがすげー人でどういうことかというともちろんバーテンダーさんとしての技量も素晴らしいすごい方なんだけど。
この人はね同時にね日本とか横浜におけるバーとかカクテルの成立史ってもののねすごい研究者なんですね。
で要は横浜ってさっきのニューグラウンドでいただいたような横浜ってカクテルだったりとかバンブーとかっていうのは発祥したって言われてるんですけど。
それだけなのかそして本当にそれそうなのかっていうことをいわゆる横浜って伝説に彩られたものもいっぱいあるんですけど。
一時資料つまり当時の居留民たち外国の居留してた人たちの残した日記とかまで遡って一時資料をもとに本当に歴史交渉をしてる人なんですよ。
っていうね横浜の歴史の知られざる横浜の歴史っていうのをね知ってるねすごい人なんですよね。
この人との話はめちゃくちゃ面白いです。
その方はそのバーについての歴史を研究してる。
そうです。
あの日本酒とかよりもバーとかカクテルの歴史を研究してる人なんですよ。
横浜ベストカクテルっていうねメニューに欄がありまして横浜にゆかりがあったり横浜で生まれたとされているカクテルというものを出してくださってるわけですね。
その中には当然横浜さっきニューグランドありましたよねとかバンブーもありますよね。
そういったものもあるんですけれども実はそれだけじゃなくて戦後にもう今はなき横浜のバーで生まれていたオリジナルカクテルとか。
もう要は今店がないのでオリジナルカクテルってそのバーテンダーさんだったりお店がなくなってしまうとこの世から消えていく運命にあったわけなんですけど。
その記憶とか記録というものを遡ってこの店で復刻してるんですね。
だからこの店でしか飲めないけど昔の横浜に確かにあったお酒というものがここに行くと飲めるんですよ。
横浜ケンタウロス壊したカクテル、日本最古のモーターサイクルクラブのカクテルとかねありますけれども。
そうね一個一個のカクテルに説明があってどこのお店で出されてたかとかっていうのがちゃんと記載してあるんだね。
そう1990年かな石川町にあったお店のカクテルとか。
だから何が言いたいかというとカクテルの横浜とかバンブーとかっていうのはニューグランドっていうもうずっと生き続けている遺産ですからもうね生き生人ですから。
だからニューグランドと共にこの世の中に存在多分永遠にし続けるわけなんですけれども横浜っていうのはそういうわけでさっきのサリーワイルもしかりなんだけど。
あまたの本当にいろんな外国の人も日本の人もオリジナルで自分たちのこの得意な文化の中で自分たちのものを創作していったっていう歴史があったはずだと。
だからこそ横浜においていろんなカクテルが生まれたわけですよね。さっきのフーバーズフィズだってフーバーさんあのフィズ飲んでなかったら歴史に生が残らなかったりとか。
っていうようなそういう奇跡みたいなものがいっぱいあるわけですよ。
それをこの人はその横浜の今はなき横浜の店をねこの中に閉じ込めてあるんですねその記録というものは。
だからすっげー貴重な店なんですよここ。
結構感動します一個一個の話を聞いてると。
大学とかで研究されてないよね多分ね。
それをちゃんとバーテンダーさん本人っていうか当事者がちゃんと研究されてるっていうのがすごいね。
だから歴史交渉家としても素晴らしい業績を残されている方。
もちろんあくまでプライベートでやってるだけだと思うんですよ。
ただし本業はバーテンダーなのでそのかすかな記録。
こんなものを材料にしてこんなの作ったっていうわずかな記録から自分なりにそれを再現してるんです。
っていうその歴史のね知られざる横浜の今残らなかった人々の記憶と喜びをここに閉じ込めてあるんです。
しかしこの人がもっとすごいのはその残らなかった人たちの記録喜びお酒っていうのを
今新しい形で残そうとして世に発信してる人なんですね。
それは当然このネーマニアさんに行って飲めるカクテルももちろんなんですけれども
実は横浜にはクラフトビールの会社がいくつかあるんですが
そのうちの一つである横浜ベイブルーイングさんっていう会社があるんですけれども
そこが新しい事業としてオリジナルのクラフトジンを出したんですね。
このクラフトジンはいろいろ飲めるんですよ。
実は日の出町っていうところにはこのクラフトジンの上流商店バーもあって
そこ行くと全部飲めるんですけどそのジンを監修してるのがこのネーマニアさんなんですね。
それは当然バーテンダーさんたちのお仕事なんだろうと思ってるんですけど
これちょっと調べていただきたいのが横浜クラフトジンって言ってそのラベルを見てほしいんですね。
このブロンコっていうものなんですけれどもこれ何が書いてありますかね。
暴れ馬に乗ってるホテルマンみたいな服着てる人の絵ですねこれ。
そうです。これが幕末の日本のネギシの方にあったネギシ競馬場っていう海外の方が楽しむための競馬場があって
そこですごい人気を博したカクテルがあったと言うんでそれが横浜におけるお酒のある意味すごい短所になったそうなんですけれども
その知られざる歴史をブロンコ暴れ馬っていうことでラベルの中にその歴史を想像して残したんです。
これめちゃくちゃ美味いんですよこのジン。ただすげー美味しいジンだと思うんだけど
僕最初この横浜ジンを飲んでめっちゃうまいと思ってすっごい好きで宅飲みとかで持ってたりしたんだけど
裏を見たら全部ネマニャっていうバーがやってんだと思ってネマニャなんだろうって見て
行ったらそのこの一つ一つのラベルがなんでこんなラベルでこの人は全部実在した人物だったっていう話を
イラストの人? 想像したいの。要はこの暴れ馬がいてそれが横浜のお酒の歴史に実は関わってるっていう話とか
っていうのも全部教えてもらってめちゃくちゃ感動したんですよ。
なるほど。パッと見はただ美味しいクラフトジンをたくさん作ってるんだけど
ちゃんとその歴史の裏付けがあってそのラベルだったり味を作ってらっしゃる。 そうなんです。
あとはねこれネマニャさんのブログにはその当時の幕末の資料とか読んでる過程が書かれてるんですけれども
その日本初めてのバーの様子とかが当時の外国の新聞に載ってたんですね。
このジャパンパンチってやつですけれどもその中にこれです。
当時27歳イギリス国籍のジャマイカ人ジェームス・B・マコーレこれが日本で初めてのバーテンダーだったと言われてるんですね。
よく探してくるな。
でそれをオマージュして横浜ベイブルイングさんから出されたジンの一つがロイヤルブリティッシュコーヒージンということでね。
これがそのマコーレが務めていたロイヤルブリティッシュホテルっていうホテルが昔あったそうなんですよ。
共有地にね。その中で日本初のコーヒー店もここにあったんですって。
そういう感じでそのバーの始めコーヒー店の始まり共にここにあったっていうことですのでこれをイメージしたジンを作ったりとかしていると。
コーヒーを使ってるってことだよね。
そういうことですそういうことです。
ボタニカルはジョニカーベリーの他にコーヒー、ライムリーフ、ローズなど8種類を使用。
そうそうそう。本当にこれすごくて。
だからちゃんとその歴史を踏襲したお酒をいろいろ作ってるんですね。
そうでだから本当に多分これなかったら忘れ去られていってしまったはずの日本のお酒の黎明史っていうものをね。
この新しいクラフトシーンによって今このラベルにその人たち新しい命を与えられて今我々の前に現れたんです。
いやーなんか偉大だな。
すごいと思います本当に。このネマニアさんはちょっとただのバーではない。
今回歴史旅っていう意味ではもう周りの状況なんて何も良くなるくらい興奮感動を歴史的にこの人の反応を覚えると思います。
すっごい特別なバーだと思います。
いやーすごい。バーテンダーであり学者でありみたいな感じだよね。
すげー。
独自で研究されてるだけなんだけどね。あくまでも。
でそれをちゃんと商品化もしてくれてる。
そういうことなんです。それがすごいんですよね。
ということでねここでねぜひねそういった歴史をね知りながら最後お締めの一杯飲んでいただいて、
ホテルの話してなかったんですけれども、もう正直横浜のホテルはいくらでもあるんで、近い場所で言うならば桜木町とか館内のあたりがいいと思いますが、
暮れなかったら横浜駅周辺のホテルでもいいと思いますし、多少ちょっと郊外でもいくらでもあると思いますから、
ここからはもう特に言いませんけれども、別に桜木町館内あたりにあると一番楽かなという気がします。
まあ東京の方とか帰ってもいいしね。
帰っていいし、うんそうですそうです。
それでは1日目を振り返っていきましょう。
まずスタートは11時に桜木町の駅です。桜木町の駅から徒歩5分ほど。
横浜港博物館、この横浜の発展のスタートである横浜の港というところに焦点を当てて歴史を展示している博物館という感じですね。
その中にはイラストレーターの柳原良平さんの特設展示もあるということなので、この横浜にゆかりのあるイラストレーターの方ですからね、
可愛らしいイラストなんかも見ていくのがいいかなと。
そこから徒歩10分ほど、バンリさんですね。横浜で中華っていうと中華街がイメージされるかもしれませんが、
こちらはマチ中華のお店であると。一説には焼き餃子発祥のお店なんじゃないかということなので、ぜひ焼き餃子とね。
あとマチ中華ですからお好きな中華のメニューあると思いますので、そちらをランチにいただきますと。
まあねお昼から飲んじゃってもいいんですね。
そこから徒歩5分ほど、桜木町の駅に戻ります。そこからJR根岸線で3分ほど、石川町元町中華街の駅で降ります。
そこから徒歩15分ほど、元町公園ですね。
ここはね、結構メインどころのスポットになるので、時期によってはね、ちょっと窮屈な思いをするかもしれませんね、一人で行くと。
ただここにはエリスマンテだったりベイリックホールなど、本当に多国籍な建物がありますので、そこを見比べて大きく西洋っていう括りよりもっと解像度を上げてね、建築を見ることができると。
そしてあとは横浜の港を山の方から一望することもできると。
そうですね。港の見える丘公園に行ってもらうとね。
そうか。
隣の公園まで行ってもらうと。
そこから徒歩15分ほど、日本郵船ひかわ丸に行きます。
こちらは原宗の貨客船として唯一の重要文化財であると。
横浜の発展から戦争を乗り越えて、また民間の豪華客船としてね、舞い戻ってきたという感じのひかわ丸がここに停泊しておりますので、この横浜の歴史を船から知れるっていう感じですかね。
そしてこの港ミライオンのUグレード級を船の上から眺めることができると。
そこから徒歩5分ほど、ホテルニューグランドですね。横浜の発展に大きく寄与したホテルを見学をまずするっていう感じですかね。
そしてその中にあるバーシーガーディアンでちょっと一杯目をね、ちょっと豪華な一杯目になりそうな感じがしますけど。
そうだね。結構いいのみたいなのもするので。
ですので、その建物の雰囲気、調度品、そしてお酒をここで感じると。
場合によってはね、こちらで晩御飯食べたりもね、時期によっては厳しいかもしれないけどね。
一人って感じらないな。
一人はそうか。
あとね、予約で結構いっぱいあると思います。
そこから徒歩15分ほど石川町の駅に戻ります。
そこからJRねぎし線に乗って、また桜木町の駅で降ります。
そこから徒歩10分ほど野毛宮古橋商店街。
商店街と言いつつね、一つの建物であるっていうね、まずその佇まいがね、すごいなっていうインパクトがありますけれども。
ちょっとアパート的に飲食店が連なっていると。
ここで心力まで飲み食いをするという感じですね。
コースの中でご紹介したのは野毛ハイウォール、国庫堂、60ヘルツですね。
それぞれ本当に個性が立っているようなお店がたくさん集まってますので、
おすすめとしてはこちらですけど、ぜひ皆さん調べていただいてね。
とか現地に行って気になるお店に入ってみたりとかするといいのかなと思いますね。
現地の人に聞いて連れてもらうのもあれだと。
そうだね。それで全然興味のなかったところに飛び込んでみるっていうのがね、楽しいかもしれませんね。
もしかしたらいい出会いもあるかもしれない。
そこから等15分ほど、カクテルバーネマニアさんですね。
お店としてはすごく雰囲気のあるバーになっておりますが、
このバーテンダーの方がすごい方だと。
バーとかお酒の歴史をすごく研究されているバーテンダーさんですので、
この歴史の中で消えてしまったオリジナルカクテルをここで復刻して出してくださるというのもありますし、
歴史を踏まえたクラフト人だったりっていうのを監修をされていて、
それをこちらでいただくこともできるという感じですね。
ですので、このお酒の歴史を感じながらお酒を楽しむことができると。
そこから等15分ほど、ホテルに着きまして1日目が終了ということですね。
この番組ではお便りを募集しています。
番組の感想・質問・リクエスト・旅の情報・普通だなど何でも結構です。
番組概要欄に記載しているお便りフォームのURLから投稿お願いします。
また各プラットフォームのフォロー・レビュー・コメント、
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ハッシュタグおとたびポッドキャストをつけてぜひ投稿してください。
そして我々のマイマップ・年表・ノートありますので、それぞれご参考にしてみてください。
なんかやっぱ今回横浜のスタートって言っていいんですかね。
発展のスタートの歴史をメインに見てきた感じですけど、なんか前向きな感じがすごくするね。
そうですね。あると思いますね。
確かに戦争とか大震災とか悲しいことはもちろんあるんだけど、
それを感じさせないっていうとちょっとあれだけど、落ち込みすぎない、
前向きに新しいものをどんどん取り入れて進んでいくっていう、
なんかそういうパワーを感じた1日目かなっていう気がしますね。
確かにそれは今でもね、今の横浜の気風とか街の雰囲気というのもね、
よく現れてるんじゃないかと思いますね。
いや面白いですね。私どこも一人でも全然楽しめそう。
全然行けますね。今回カウンター席の店しかもう行ってないんで。
確かに。
スポットもそんなに大きく人がいっぱいいるみたいなことはないはずなので。
そうですね。全然楽しめそうですね。
ぜひね、一人だからといって横浜にちょっと萎縮してこないとかはもったいない。横浜のためにも良くないと思うんですけど。
次回は2日目ということですけど、似た感じにはなるんですかね。
今回行ったのは結構実は王道的なエリア、中区西区行ってるんですけれども、
次はちょっと郊外の方に別の観点で横浜を見た時に、アートっていうものを切り口にね、今の横浜のことを置いたいと思うんですよね。
なるほどなるほど。じゃあちょっと違う観点から横浜を見つめ直す感じですね。楽しみですね。
ということで今回はこの辺でありがとうございました。
ありがとうございました。