音に対する感受性
こんにちは。さて今回は、あなたが共有してくれたブログ記事、DIKUSHIMAさんがプチメタ3.0に書かれたものですね。
足音や話し声がうるさい人が嫌だ、というなかなかストレートなタイトルの投稿について、ちょっと掘り下げてみたいと思います。
日常にあふれる音、これがなぜこれほどフラストレーションの種になるのか、
特にこの記事で挙げられている足音と話し声に焦点を当てて、その感覚を探っていきましょう。
で、早速ですが、まず著者が気にしているのは、歩くときの足音なんですよね。
ええ、そうですね。興味深いのは、靴の素材とか床の問題とか、そういうことよりも、むしろ歩き方そのもの、そこに原因があるんじゃないかと感じている点ですね。
ああ、歩き方ですか。
はい。ドシドシと床を踏み込むとか、カツカツと音を鳴らして床を蹴る、それからジャリジャリと靴底をこする、みたいなかなり具体的な描写で、その何というか不快な音の質感を伝えようとしてますよね。
うーん、パンなる音量じゃないんだっていう感覚がすごく伝わってきます。
そうなんです。本人はね、もしかしたら無意識なのかもしれないけど、でも聞いている側としては、無駄に注意を惹かれて疲れる。
それに、その音から受けるガサツな感じにストレスを感じるって書いてますね。うーん、これは個人的にもなんかわかる気がします。
ええ、音そのものというより、そこから何か透けて見えるものに引っかかっちゃう感じ。あなたはどうでしょう?
まさにそこがポイントだと思いますね。単に物理的な音が大きいっていうこと以上に、その音を発している人の、まあ言ってみれば他者への配慮の欠如とか。
ああ、配慮。
あるいは無心経差みたいな内面を著者は感じ取ってしまっているということなんですよね。
なるほど。
だからノイズへの、まあ生理的な不快感と、そこから推測される人格へのちょっと否定的な感情が分かちがたく結びついちゃってる。
これもしかするとですけど、私たちが無意識のうきに他者の行動の原因をその場の状況とかじゃなくて、その人の性格に求めがちな心理ってありますよね。
はいはい。
いわゆる対応バイアスみたいな、そういうのが働いているのかもしれないなと。
ええ。
もちろん断定はできませんけど、まあ著者の感じ方の一つの解釈としてはあり得るかなと思いますね。
なるほど。不快ですね。
音を通して無意識に相手の性格まで判断しちゃってるかもしれないと。
それはうーん、考えさせられますね。
そして足音へのフラストレーションもそうなんですけど、著者は次に必要以上に声が大きい人。
デリカシーと音量
これにも同じようなかなり強い経営感を抱いているんですよね。
ええ。
ここでも単にうるさいってだけじゃない理由があるみたいですね。
そうですね。会話の相手に届けばまあ十分なはずなのに、周りにまで響き渡るような声量。
これをボリューム調整ができていない証拠だってかなり厳しく指摘していますね。
うーん。
さらにその会話の内容が周囲につつむげであること、それを意に返さない態度にデリカシーの無さを感じて、もう心底うんざりすると。
デリカシーの無さですか。
ええ。ここでもやっぱり音量っていう物理的な側面も去ることながら、それ以上に他者への配慮とかデリカシーですね。
つまり状況に応じた適切な振る舞いができるかどうか、それが不快感の根源として問題視されているわけです。
なるほど。
このデリカシーっていう感覚自体も結構人によって捉え方が違いそうで、それもまた興味深い点だなとは思いますけどね。
確かにデリカシーの基準って難しいですよね。人それぞれかもしれないです。
この記事を読むと、普段私たちが何気なく発している生活音、特に足音とか話し声みたいなものが、人によってはこれほどまでに注意力を削いでストレスの原因になりうるんだなーって、非常に個人的で率直な視点から改めて気づかされますね。
まさにこの記事をきっかけにして、じゃあ自分自身が発している音についてはどうだろうって、そういうふうに考えてみるのは面白いかもしれないですね。
普段自分の歩く音とか、誰かと話しているときの声の大きさとかが、もしかしたら周りの人にこう意図せず影響を与えちゃってる可能性はないだろうかって、ちょっと意識を向けてみるだけでも何か発見があるかもしれない。
そしてもう一つ、こういう音に対する感受性の違いって、一体どこからくるんでしょうね。
個人の性格なのか、育った環境なのか、それともまた何か別の要因があるのか、あなたはどう思われますか。