善意と現金の心理
さて、今回あなたが共有してくださった資料ですが、「プチメタ3.0」というブログの記事ですね。
はい。
善意に対価を払われると損した気分になる不思議と、いやーこれなんかわかりますよね。
ええ。非常にこう日常的なでも説明しづらい感覚ですね。
誰かの手伝いをして、お礼にいってポンと100円玉とか渡されると。
うん。
何ももらわないよりは得してるはずなのになぜかがっかりしちゃう。
この記事はそのなんでっていうところに切り込んでるんですね。
そうなんです。この記事が指摘してるのは、まず善意でやったことが、例えば100円っていう具体的な金額に換算された瞬間に、なんかこう気持ちが冷めちゃう感じ。
あー冷める。わかります。
それともう一つは、その金額、まあ100円なら100円が自分のやったことに対して、ちょっといやかなり見合わない安いって感じちゃう点。この2つですね。
冷める思いがするってまさにその表現ですね。せっかくの善意が急に金銭価値に、しかもその100円っていう額が自分の労力とか気持ちに釣り合ってないって感じちゃうわけか。
そうなんです。そこがすごく重要で、提供した善意の主観的な価値と、提示されたその100円という金銭的価値の間にギャップを感じるわけです。
本来は人間関係ベースのやり取りだったはずが、急になんか取引みたいな、そういう性質を帯びちゃうんですね。
でも、この記事で面白いのがここからですよね。筆者は同じ100円ぐらいの価値だとしても、缶コーヒーとか、あれはチョコレートとか、そういう飲食品だったら不思議と悪い気はしないって書いてる。
そうなんです。これ何でしょうね。現金はちょっとってなるのに、物なら大丈夫。
ここがすごく重要な観察点だと思うんです。
飲食物っていうのは、お金と違って、なんていうか、社会的な感謝の印として機能しやすいんですね。
なるほど。感謝の印?
その行為に対して、はっきりと100円みたいに低い金銭的価値を割り当てる感じにならない。
感謝の気持ちを伝えつつも、その取引的な感覚を避けやすい、社会的な関係性を保ったままお礼ができるっていう。
飲食品による感謝の表現
だから、缶コーヒーの値段自体が問題じゃないんです、きっと。
ということは、こういうシチュエーションだと、金額そのものっていうよりは、お礼の形?形が重要ってことですか?
そういうことだと思います。
お金っていう媒体が、場合によっては、善意の行為を言ってしまえば、安っぽい取引みたいに変えちゃう可能性がある。
まさに。金銭にはどうしても、ご体的な取引の重みみたいなものが伴いますからね。
確かに。
缶コーヒーみたいなちょっとした贈り物っていうのは、社会的な文脈の中ではまた違う意味を持つことが多いんです。
その返礼の形にどういう意味が込められているか、あるいは受け取られるか、そこがポイントなんですね。
なるほどな。確かに缶コーヒーもらって、これ120円か、俺の親切は120円の価値かなんて、普通は考えないですもんね。
ですよね。
この短いブログ記事、すごく日常的なところから、感謝と報酬の繊細な心理をうまく捉えてますね。
本当に。奨学のお金っていうのは、意図せずとも親切な行為の価値をある意味下げてしまうことがあるかもしれない。
でも一方で、お金以外の些細な贈り物、例えば飲食物みたいな形なら、その善意の精神を保ちやすいと。
感謝の示し方って、結構デリケートなんだなって改めて考えさせられますね。
そうですね。筆者も、じゃあなんで飲食物なら問題ないのか、その理由までははっきりとは書いてないんですよね。
あ、そうでしたね。
でも、事実としてそう感じるって述べてる。その感覚が、ある意味真実をついてるのかもしれない。
本当にそうですね。お金ってすごく便利だけど、こういう人間関係の機微においては、ちょっと不器用な面もあるのかも。
さて、じゃあこれを聞いているあなたが最後にちょっと考えてみるのはどうでしょう。
もし、飲食物以外で相手になんか安く見られたなって感じさせずに、スマートに善意への感謝を伝えられるような、非金銭的なちょっとしたお返し、他にどんなものが考えられるでしょうか。
それは面白い問いですね。
次に誰かにありがとうって伝えたい時、少しだけこういう視点で考えてみるのも面白いかもしれませんね。