抽象画を15分観察する授業
この番組では、Google for Education認定イノベーター、コーチ、トレーナーのKasaharaが、教育にまつわる様々な話を配信していきます。
今日は、国語の授業で絵を15分間見せているという話です。
なんじゃそりゃと思うかもしれませんが、黒と茶色ばかりの抽象的な絵を1枚、ただ黙って眺めてもらうんですけど、
やってみると、自分が事実として見ていたものに、もう自分の解釈が混ざっていたと、生徒の方が気づき始めるんですよ。
国語の授業って、教科書を読んで解説を聞く時間でしょうと思っている方にこそ聞いてもらいたいのが、今日の配信回ですね。
この配信が流れる月曜日は、勤務校の文化祭が終わった直後です。
土日が本番だったので、校内はまだ片付けの最中の人もいるかななんてことを思っています。
自分のクラスの生徒たちのイベントは、かなり盛況でうまくいったみたいですね。
みたいですね、というような一言な言い方してますけれども、まあ担任のイベントじゃないですからね。
自分たちで生徒自身で好きにやってくれるならば、それが一番だろうと思っています。
で、そんな行事で慌ただしい時期なんですが、授業の方では随筆を書くという単元をずっとやっています。
高校の国語は今、科目がいくつかに分かれていて、自分の担当しているのは論理国語という科目なんですが、その中で随筆を扱っています。
今日はその単元で、書き出す手前に何をやっているのかというような、そんな話をしていくことになります。
一つだけお断りをしておくと、途中で教科書についての話を少しします。
まあ新聞で報じられた範囲の話を紹介するだけなので、まあそういうつもりで聞いてもらえればというふうに思います。
それでは今週のデジタル時代の国語教育を語ろうを始めていきましょう。
事実と解釈の境目に気づく
ということで、今やっている単元というのが随筆を書くという単元ではあるんですが、
随筆を書いてもらう前に対象をじっくりと観察する練習をしています。
課題として渡しているのは1枚の絵です。時間としては15分ぐらいじっくりやってますね。
授業の中の15分ってかなり長いんですよね。
50分授業の中の15分ですから、まあだいたい3分の1ぐらいの間隔ですね。
普段の授業だと15分があれば一つの活動がまあ丸ごと終わっちゃうぐらいの時間の長さです。
何かをやらせるでもなく問題を解かせるでもなく、ただ見て言葉をノートに書いていってねというだけで15分使うのは、
まあ授業としては結構むちゃくちゃな時間の使い方なんですよね。
授業の中で一番高くつくものって時間なので、まあ深度の話を出されると結構腹が痛いところがありますね。
それでも時間をとると決めているのは、書けない生徒のつまずきがだいたい書く前のところにあるというのが自分の考えだからです。
で、どの絵を選ぶかということにこの授業がうまくいくかということは結構大きな割合を占めてるなと思いながら選んでいます。
今回使っているのは抽象的なデザインの絵ですね。
何が書かれているのかパッと見ただけではわからないようなタイプの絵です。
丁寧に読み取りをしていかないと意味不明なままのそういうタイプの抽象画ですね。
しかも色がほとんど黒と茶色なので普通に眺めているともう真っ黒な画面に見えちゃうんですよ。
だから色彩の差すらわかんない感じなんです。
でもじっくりと読んでいくと濃淡が実はこっそりあったりするんですね。
そして隣に座っている友達にここが濃くなってるよみたいなことを言われると、
ああ本当だって気づくようなそういうタイプの絵なんですよ。
言われるまで見えなかったものが言われた瞬間に見えるみたいなことが本当によく起きるそういうタイプの絵を選んでいます。
ちなみにその絵についてはよーく見てみると実はドイツ語で小さい字で絵のタイトルが書いてあったりするんですけど、
それに気づけた生徒というのは200人ぐらいに見てもらってるんですが1人くらいしかいないのもまあ面白かったですね。
なかなか見ようとしても見てないものっていっぱいあるんだなという良い証拠になりましたし、
そもそも国語の授業でドイツ語を見つけるなんて誰も思わないでしょうしね。
もう一つの仕掛けについては、描かれている事物が一つ一つ抽象的なことが肝心なんですよ。
同じものを見ているのに人によって違うものとして見える絵を選んでいます。
15分見た後に自分の見たものとそこから考えたことを対話してもらうみたいな感じで授業を設計しています。
で、聞いていて一番面白いのが絵の中に描かれているものの呼び方の差なんですね。
絵の中に人の形をした物らしきものがあるんですが、その同じ一つを指差して、
ある生徒は人間と言ったり、ある生徒は女の人と言ったり、女の子と言ったり、また別の生徒は人形と言ったりするんですよ。
で、生徒同士でそういう話をしていると呼び方の違いが結構みんな綺麗にスルーしていくんですよね。
同じものをお互いに話をしているつもりであって、そういうつもりで話が進むので結構見方がずれていることに気づかないんですよね。
なのでそういう場合は自分が話し合いに割り込んでいくんですよ。
例えば今女の子って言ったけど隣の人は人形って言ってたよねみたいな言い方違うよねみたいなそういう指摘をすると、
ああ本当だみたいな感じになるんですね。
で、割り込むのを何とか繰り返していると、生徒同士の間に話し合っているときに、
え、それってそういうことなの?というふうに自分たちで気づけるようになる瞬間ができてきますね。
自分が当たり前に見ていたものが隣の人には全く違うものとして見えていたとわかるようなそういう瞬間が来るんですよ。
で、授業をやっていて見ていたいのは多分そういう瞬間なんだろうなと自分は思いますね。
自分の見たてが揺さぶられて変わるときって結構知的な刺激があるんですよね。
その刺激を一度味わっておくことは国語の授業に限らず大事なんだろうなと思っています。
呼び方がばらけるのは単なる語彙力の差とかではないんですね。
見たものを言葉にするとき、人形と書いた瞬間に作り物であるというような解釈がそこには入っているわけじゃないですか。
逆に女の子と書けば性別や年齢の解釈が入り込んでいるわけなんです。
つまり自分としては事実を書いたつもりでもそこにはもう解釈が入っているわけなんです。
生徒は自分は事実の方を書いていると思っています。
でも実際に読み返したり対話したりしてみるとほとんどが解釈なんですよね。
で、人間と書いた生徒と人形と書いた生徒ではその後に続くはずの文章が別のものになっていくんですよ。
人間として見た場合はその人物の気持ちや事情の方にやっぱり筆が向いていきますし、
人形として見た生徒はじゃあこれが誰が動かしているのかなみたいなことを考えることになるんですね。
出発点を同じものから始めたはずなのに最初に置いた一部の違いによって文章全体の筋が変わってくるわけなんですね。
国語の授業ってSNS見てるとまた最近作者の気持ちを応えるものだって思われがちになってるんですけど、
でもここでやっていることってむしろ逆ですよね。
作者の主観の話ではなくて自分がどう主観を見たのかというようなことを言葉にして、
その言葉がもう既に主観として解釈を含んでしまっているということに気づいていくということなんですよ。
だから要するに自分のやっている国語というのは自分というフィルターを通して世界を見立てて分かったことにしている、
そういうことに気づいていくってことなんですよ。
絵を1枚15分も眺めてもらっているのはそのフィルターの存在に気づいてもらうような授業をしたかったからなんですね。
ちなみに書く前の段階で何を書くのかを見つけることを国語化では大雑把に言うと思い入れがいっぱいの思うですね。
その漢字でそうというような言い方をして呼んだり、
昔のレトリックの言葉でインベンションなんて呼んだりはしますね。
名前の方は今日深入りしないですけどどうでもいいので深入りしないんですけど、
書き出す手前のところでもう実は結構いろんなものが勝負ついてるんだという感覚は持っておきたいところですね。
論理国語で扱う「ミロのビーナス」
で、ちょっとここで寄り道をしますね。
国語の教科書についての話を少しだけ触れておきます。
今回の単元で学習材に使っているのは教科書のミロのビーナスという文章ですね。
ミロのビーナスについて書かれた随筆です。
国語の定番教材といって良い文章なので、
昔の教科書で読んだ記憶のあるリスナーの方もいるかなと思います。
正直な話、論理国語という科目の立て付けを考えたときに、
随筆が教科書に入っていることの相性の悪さというものは結構感じますね。
論理国語が求めているものは、もっとレポートだとか学術論文だとかの方に近くて、
筋道を立てて読んだり書いたりする力の方なので、
随筆とはやっぱりちょっと毛色は違うだろうと思いますね。
じゃあなんでこういう文章、随筆が掲載されているのか、文学国語じゃないのかというと、
まあこれは結構ややこしい事情があると思うんですが、
長く読まれてきた定番だから載ってるんじゃないかというところが自分の見立てです。
論理国語にこれが一番ふさわしいからという積極的な選ばれ方なのかと言われると怪しい気はしますね。
一応教科書なので、教科書検定通ってるので何かしらの論理は学べるだろうというような、
そういうような理屈にはなりますけどね。
定番教材が教科書に載り続ける事情については、
日本経済新聞が昨年の3月に書いた記事があります。
今の高校国語には現代の国語という必修科目があるんですけど、
文科省は当時そこに小説が入る余地はないという立場だったんですね。
ただ最初の検定では小説を載せた教科書を出した出版社が合格してシェア1位になってしまったんですよ。
でその小説というのがもう定番中の定番の芥川龍之介の《羅生門》だとか、
そういうような作品だったんです。
方針に従って小説をしっかり外した会社の方からは、
正直者がバカを見たという声が出ていたみたいな、
そこまで書かれていた、そんな記事があるんですよ。
まあちょっとまあ今日は寄り道なので、本筋にはならないので寄り道はこのくらいにしておきますけど、
教科書に何が載るかって教材としての適切さだけで決まるものではないんだろうな、
みたいなことがこの一見からもう少し見えるところがあるわけです。
なので自分の立場としては掲載されているものに文句を言うというよりは、
もう載ってる以上は随筆を論理国語でどう扱うのか切り口を考える方が建設的なのだろうと、
その切り口としてレトリックの技術を扱うのがいいのだろうと思って、
まあ授業をやっているわけです。
読むだけで終わらせたら完全にどちらかというと文学寄りの授業になっちゃいますからね。
なので書くということで説得の技術として言葉に向き合うみたいなことを大切にしたいなというふうに思ってます。
二郎系ラーメンのパロディ随筆
で今回の単元の最初に自分が実際に書いてみた図筆を生徒の方に読ませています。
学習材のミロのビーナスのパロディーで書いてみた図筆があるんです。
でその題材が何かというと二郎系ラーメンです。
まあウケますよね。
二郎系ってローカルルーがやたら多いので、そこをこと細かに説明していくような図筆になっていると、
まあオタク特有の早口みたいな感じが出て面白いんですよね。
であとは登山家のジョージ・マロリーの有名な言葉をもじって、
そこに野菜の山があるから食べるみたいなことを書いて、野菜増し増しの話にもってったりして、
完全にふざけた文章を生徒に出してます。
例えば一番最後の締めの自分の書いた文章、こんな感じの文章を書いてます。
読んでみますね。
あらゆる困難を乗り越え苦悶すらも飲み干す一杯として、
二郎系ラーメンは野菜ニンニク油からめ増し増しの夢を奏でるのである。
というそういう最後の一文なんですが、
これはミロのビーナスを読んだことがある方なら、もう気づくと思うんですけれどもウケるんですよ。
なんでかっていうと、ミロのビーナスの文章の一番最後の一文のパロディーになってますからね。
ただこれ受け入れ雷のようにしか見えないとは思うんですけど、仕込みはちゃんとあるんですね。
学習剤の方で使われている、知識によって相手を説得するというレトリックと同じ形なんです、実はこれ。
あとそれに資格だけに頼らないで語感を使って書くというような書き方のお手本を示すつもりで、
いろんな書き方レトリック試して生徒の方には示しているわけです。
まあだからラーメンなんですよ。匂いもあるし味もあるし、触覚もかなり刺激されるしという形なので。
だから単元の最初に読んだときは笑っておしまいになるんですけど、
ある程度勉強が進んで自分で随筆書き始めて読み直してもらうと、技術のお手本として読めるようにはなってるはずなんですよね。
まだ書き始めたところなので、生徒が文章書き始めたところなので、ただ笑われてるだけで終わってるところなんですけど、
まあ多分何かしらの役には立つんじゃないかなと思ってます。
で、授業者が自分で書いたものを渡すのは、この課題はちゃんと書けるものなんだよということを反を示すではないですけれども、
自分も楽しくやってるんだよということを、まあ見せるためということもありますし、
どのくらい題材振り切って遊んでいいのかという幅を見せるためでもあります。
ラーメンの話でいいんだとか、こんなりパロディーでふざけてもいいんだみたいなことがわかるだけで、
生徒にとって題材選びのハードルは下がりますし、文章を書くときの遊び心みたいなところも結構ハードル下がるはずなんですよね。
そういうところを大切にしたいなと思ってます。
型・手本・生成AIと作文の均質化
で、その上でまだ悩みどころが結構あるんです。
何かというと、書くことの指導をするときに、ワークシートを用意して一つずつ穴を埋めていく形にすると、生徒は書きやすいんですね。
書くときの指導をするときには鉄板の方法です。
ただ、同じ手順を指定してしまえば、出てくる文章も大体同じところで収まってしまうわけです。
判で押したような作文が並ぶわけです。
まあそういう文章を読んでると結構苦痛ですよ。
ただ、観察のところをしっかりとやれていた生徒を見ていると、型にあんまり振り回されないんですよね。
自分のこだわりが見えてくると、こういう順番で書きたいという形が生徒の中に立ち上がってくるんですよね。
その上でワークシートがうまく使われるので、型というものが足場になって、書きたかったものが文章としてしっかりと骨が骨格が通るわけなんですよ。
逆に型に振り回されている生徒はどうなっているかというと、書くことが見つからないままワークシートの穴埋めから作文を始めちゃうんですね。
要するに足場掛けの記入例が聞きすぎちゃってるみたいなそんな感じです。
だから自分の言葉が出てくるよりも先に型に自分の考えが引きずられちゃってる感じですね。
だからお手本に出したような例になってしまうので、まさに金太郎雨みたいな感じになっちゃうんです。
国語の授業でどこまでお手本を出すのかということの問題にも近いですね。
だから結構自分は毎回お手本の出し方悩むんですよ。
で、原因の方は生徒にはないかなと思ってます。
授業で観察の時間だとかじっくりと層を練る時間が取れてないんですよ。
授業の回数がクラスによって違うので、観察とした書きに時間を割けないクラスが出てきてしまってます。
言い訳みたいな感じなんですけど、まあ頭痛いところですね。
だから手応えを持たせることと苦しんで自分の表現を探すことは綱引きだと思ってるんですけど、
多分順序の問題でもあるんですよね。
型を先に渡すと振り回されるし、観察の後に渡すと足場になるんですが、
ただまあこれに関してもどちらの方が効果的かということに関してはやってみないとやっぱりわかんないところありますね。
で、なんで変わるのかというと、型って書きたいことがある生徒には整理の道具になる部分もありますが、
書きたいことがない生徒にとっては書きたいことの代わりになってしまうこともあるんですよ。
穴が空いてると人は埋めたくなりますから、埋めてるところが目的になってしまった時点で文章というものが本人から離れてってしまう部分もあるし、
逆にそれによって自分が文章をもしかしたら書けるかもしれないという手応えにもつながる部分ではあるので、
どの順番でどう示すのがいいかなというのは悩ましいですね。
で、同じような作文が並ぶ場面というのがもう一つあって、
それがどこかというと生徒が安全柵に置きに行くみたいな時ですね。
間違ってもいないし形も整ってるんです。
でも本人が書いたっていうそういうものがどこにも感じられないような文章があるんです。
それっぽい難しい表現を並べるけれども中身は全然ない。
うまく難しい言葉は書いてあるのだけれども、具体的な体験や観察がないせいか、
誰にでも書けそうな名前を他の人に変えても全然意味が通じちゃうみたいな文章なわけです。
で、生成AIがその安全柵をかなり拡足させている側面はあるかなぁとは思いますね。
随筆を書くような書くことの指導だと、やっぱり言い換え表現を多く探してみるということが
語彙の指導としても大切だし、意味があることだと思ってるんです。
だからその意味だとAIを使って豊富な言い換えを出してもらうことも試してみたんですけど、
まぁこれはイマイチでしたね。
言い換えを探すときにAIに聞くと、提案に引っ張られがちになるんですよ。
しかもその出てくる言葉、生徒が選びがちな言葉の傾向がやっぱりちょっとあって、
結果的に金太郎雨になるんです。
プロンプトで細かく指定すればもう少しマシな使い方になるとはいえ、結構言葉を探す道具としては
むきにくいのかもしれないなぁ、うまく使うの難しいのかもしれないなぁみたいなことをちょっと思っています。
自分としては類義語辞典を生徒に眺めてもらうのがいいなぁと感じてますね。
紙の類義語辞典はさすがに準備できなかったのでオンラインのものなんですけど、
それでも一覧となっている普通の辞書とは違う配列の並び方を、そういう一覧を眺めてもらうと、
違う、これも違うみたいな感じで探していく時間が、
自分が言葉と向き合うみたいな感じになって身体的な感覚に残っていくようなそんな感じがあるんですね。
難しい言い方をするとある意味で記号設置と呼ばれるようなそういうところにも関わる話なのかなと思いますが、
まあ要するに言葉と自分の実感がつながるきっかけになるかどうかみたいなところで、
結構遠回りして探すみたいなことは大切なんだなぁと感じています。
授業でAIを散々使っている人間が言うのもあれなんですが、
言葉を探す場面に関しては遠回りの方が良いような場合もあるんじゃないかなというのが最近の実感ですね。
ICTや生成AIを授業で使うこと自体はこれからも増やしていくことだし、やらなきゃいけないことだと自分は思っています。
ただ早く形になる道具が増えるほど、書く手前で立ち止まって考える時間というのを、
わざわざ授業で作る必要があるんだろうなと思いますし、
逆に言うと書くという行為自体が早くなるのであれば、その手前のところに時間も割けるようになるんじゃないかなと、
絵を15分見るだけに時間を取ったのも半分は期間から来ていることではありますし、
逆に言うとAIだとかで最後の書くところのスピードがアップできているからこそ、
読むということ、見るということに時間を割けるようになったのかなぁなんてことは思います。
手引きを選び、観察と執筆を往復する
で、今授業がどうなっているかというと、ちょうど生徒に最終課題の図筆を書くための手引きを渡したところですね。
で、手引きに関しては自分はとりあえず自分の知っている書くことのコツは基本的にもう包み隠さず全部入れちゃいますね。
後出しはしないっていうそういうつもりでやってます。
ただ、生徒はその自分が出したアドバイスだとか手引きに関して全部が全部使う必要はないよというようなそういう形式でやっています。
ホテルの朝食バイキングみたいな感じですよ。
どのテクニックを使うのかみたいなところは手引きを使うのかというのは選ぶ本人でいいでしょう。
目標に照らして目標に近いものをどう選ぶかというところが本人にとっての学びのポイントかなと思います。
そして今は行事が立て込む時期で授業が飛び椅子になっているんですよ。
観察と下書きの時間を授業の中でたっぷり取れないのが辛いところなので、
休みの多いこの時期に自分でじっくり考えて書いてきてくれたら嬉しいなぁなんてことを思っています。
本当にやってほしいのは行ったり来たりなんですよね。
一旦書いてみて行き詰まったなぁと思ったら観察に戻ってまた書くというそういう往復です。
一つ一つの流れが短くなってもいいので戻るという経験をまあしてほしいなぁと思ってます。
書いてみないとわからないことがいっぱいあるのでまずは書かせてみるというところをやってみたいなと思ってます。
ただまあうまくいくかまだ全然わからないのでこの後どうなったかはまた機会があったら話してみようと思います。
ここまでお聞きくださりありがとうございました。
先週も少し触れましたが10月の教育系ポッドキャストの日は絶対やります。
まだ何やるか全然決めてないんですけど細かい告知は改めてしますので少しお待ちください。
テーマとしてはまあリクエストみたいなものがちょっと来てたらーっていう気もするのでそのあたりに関して拾って調整していければ嬉しいなというふうに思っています。
ぜひ多くの方に参加していただけたら嬉しいなというふうに思ってます。
ただやっぱり困ったことにダイレクトメッセージだとかがちゃんと通知来ないんですよねー。
でなんか送ったものもうまく同期されないのでXの仕様を自分がちゃんと把握してないのが原因な気がするんですがまあ何かあったらちょっと個別にホームラとかでも教えてもらえばというふうに思います。
ここまでお聞きくださりありがとうございました。
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ではまた。
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