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Dialogue cafe。この番組は、40代で組織を離れ、ワーク&ライフシフト中の田中優子と岡澤陽子の2人が、身近な出来事から社会課題まで、最近気になるあれこれを好奇心のまま働くポッドキャストです。
では今回はですね、福島富士子さんのご自身の歴史を聞いていきたいなと思うんですけれども、まずね、まずですよ。
すごくすごく素敵な。
そう、あの先ほどね、年齢というか生まれ年の話が少し出たんで、あのね、5年齢、女性に5年齢をっていうのもあれなんですけれども、今、66歳です。
私ですね、初めて福島さんにお会いした時に、その年齢を聞いて、えぇーって言っちゃったんですよ。えぇーって。どう、何食べたらこうなるのっていうぐらい、めちゃめちゃお綺麗なんです。
そうね。
あまりに驚いて、なんかすごい衝撃が伝わってくるメッセージを、もうね、驚きって。
信じられない。
メッセージがきました。
あのですね、もう本当に、あの、若くてと言いますか、肌ツヤがね、肌ツヤが全然なんていうか、まあもちろん、雰囲気もね、感も。
なんか、大人の女性なんだけど、可愛らしさもある。
どうやったら福島先生みたいになるのか?
最初ね、福島先生とお話してた時に、なんか孫がとかおっしゃるんで
かなり早い、お若い時にお子さんを産まれて、またそのお子さんも若くて
でも娘も35とかおっしゃったのかな、32ですから
えーって計算して、えーって思ったっていう、すごい驚いたんですけれども
そんなお若いといいますか、すごく生き生きとされた福島さんがですね
キャリアで言えば相当長くね、これまで大学で研究や教えたりされたり
それ以前は、それも研究が中心なんですかね、研究員みたいな感じですかね
という感じのキャリアを歩まれているわけなんですけど
そもそも福島さんの、まあちょっとおそらくそのご年齢からすると
お仕事を始めようかなっていう頃、就職について考え始めた頃って
まだ雇用機会均等法ってなかったんでしょうね
ご出身はどちら?
静岡です
あ、静岡なんですね
静岡の、あの、県立の専門学校、看護の専門学校に卒業して
03:06
それからもう1年同じ学校に行って、4年間静岡で助産師の資格を受けました
なるほど
それから5年間助産師として静岡県で働いていたんです
そうなんですね、実際にお産の
はい、お産600人くらいと
そうなんですね
そうなんですね
そこから、なんかまた学校に戻られたんですか?
えっと、その時、助産師の学校の先生にいろいろとお話しする機会があって
なんか、もう今考えたらとっても偉そうで恥ずかしいんですけど
5年経って、なんか別なことをやりたいみたいな気分があったんですよね
そしたらその先生が、自分が出た東京の公衆衛生の勉強のところに行ってみたらいいんじゃない?って言って
その先生をご紹介いただいたら、東京まで一緒に来てくださってね
その恩師がいらっしゃらなかったら、今の自分はないねって思って
で、またご紹介いただいたその恩師の恩師、亡くなられた先生なんですけども
その先生にやっぱりいろいろとお会いになっていただいて、今があると思っています
その公衆衛生を学びに行って
長い東京に行ってて
長い東京に行ってて
はい、その時もう28になる年齢だったんですけども
はい、その時もう28になる年齢だったんですけども
はい、その時もう28になる年齢だったんですけども
親からは、みんな東京から帰ってくる年なのに、なんで?って言われたんですけど
実は当時、専門学校4年間出ましたけど、これから先はやっぱり大学教育をしっかり、教養をしっかり学ばないとならないというのが来るだろうなって
自分の中にあって
本当に小学校も中学校も、真面目な子じゃなかったというか
いろんな漫画を読んだりとか、大学の教育をしっかり学ばないとならないというのが来るだろうなって
いろんな漫画を読んだりとか、大学の教育をしっかり学ばないとならないというのが来るだろうなって
本を読んだり、外で山に登ったりとかしていて
自分に足りないものって、もっともっとやっぱり大学での教養の部分っていうのをどうやって学べばいいかって
それは独学でされる方もいらっしゃるけれども
やっぱり大学という、ちゃんとマッチピンできてるところで勉強しようって
当時はまだ通信もそんなに盛んじゃなかったんでね
東京に出て4年間勉強しようと
4年間ですけど、親にはそれ言ったら4年間って驚かれちゃうから
1年間だけその学校に行って、また戻ってくるねって言って出たんですよ
そうなんですか
学費とかは?
それはもう自分で1年間払いますからね
このきっかけになったのがすごく大きいんですけど
ある時、野球も一緒になっていて
先輩がいて、私東京の大学に行きたいなと思ってるんですけど
普通はだいたいいじゃないとか言ってくれるかなと思ったら
06:03
あ、みんな考えることは同じなのよねって
でも、実行に移すと落ちさないのではすごい差があるって言われて
その時に、ちゃんと実行に移さないとダメだなと思って
やるのダメって出したっていう
かっこいい
いや、かっこよくないんですよ
なんか本当にもう東京に出てきたいっていう
その思いもすごい大きかったし
それが1985年ですね
じゃあ、そこから普通に大学を受験して入学されたんですか?
そうです
じゃあ、働きながらお勉強されたっていうことなんですね
もともと助産師になろうっていうのは、それがなんだったんですか?
それは、小学校の頃とかは
幼稚園の時は幼稚園の先生になりたかったし
小学校の時は小学校の先生になる
自分の目の前にいる人をロールモデルにしていくっていう特性があって
それで、高校生の時にはそこの保健室の先生がとても素敵な若い先生で
その先生いいなって憧れて
その先生が
看護の資格を持った方がいいだよっていう風に言われて
それは養護教員になりたいっていう風になったんです
保健室の先生になりたいって
それで看護の学校に入ったんです
でもそこから看護師っていう枠の中からまた助産師っていうのはちょっと
そうですよね
今度看護学校に入って実習があるんですけど
その時に保健師になりたいなと思ったんですけど
保健師の実習の時のロールモデルがなかなかその時にたまたまいらっしゃらなくて
そして病院で参加に行った時の助産師にすごい素敵な二人がいらっしゃって
私もこうなりたい
それでいつもそんな感じで
だからロールモデルが近くにいたっていうのはすごくありがたいですよね
大きいですよね
なるほど
でも看護師って女性が働く仕事としては一番何というか
結構昔から女性の職場みたいなところはありますけど
働くっていうこと自体
特に当時なんで結婚してもとかそういうことを考えた時に
ずっと働き続けたいなっていう例えば資格を取ってとかそういうお気持ちはあったんですか?
働き続けたいというのはなかったですよ
正直言って3年働いたらやめて結婚して子供を持っている
09:02
人生設計の仕事なんですよ
そうなんですね
小さい頃からお孫ごとがいないですからね
で結婚っていうのが当然あるものだと思っていたし
子供を産んで育てるっていうことは自分の中の本当に必須な出来事だと思っています
でもそういう気持ちを持ってでも助産師になるっていうのは
でもそういう気持ちを持ってでも助産師になるっていうのは
でもそういう気持ちを持ってでも助産師になるっていうのは
結婚してから5年働いてそこからさらに大学へ行くとか
結婚してから5年働いてそこからさらに大学へ行くとか
結婚してから5年働いてそこからさらに大学へ行くとか
ちょっともう結婚焦らなきゃとか
ちょっと世代的にはもうそろそろ親からも言われると思うじゃないですか
自分の親も子供が結婚なかなかしないなんて想像していなかった
ある年齢が来たら子供って自然に結婚相手が見つかるもんだと思ってた
親まで言って
でも何ですかね
勉強とか仕事を探していくのは自分一人でできるけれども
結婚って相手がOKしなかったらできないんですね
だからそういう人に出会うまではやれることをやっておこうと
そういう感じでした
探しながら見つけながら
今だと当たり前
今だとねすごく
みんなそう思ってると思うけど
でも当時でそういうふうに思えたっていうのは
すごく強い芯が
焦りがあったりしなかったんですか?
ありましたね、でもなかなかそれを
外出でも経験して
やっぱりそんな簡単なもんじゃないって
そっか、それでもうどべっかみたいな
そうそうそう
まあね、なるほど
それで、でもまあ
4年間ですか?公衆衛生大学
そうですよ、大学4年間
で、その前に1年間
港区の白金台や
国立公衆衛生院というところで
1年間研修をして
そこで目から鱗だったんですよ
今まで自分の生きていた社会の
世界の狭さっていう
どんなところがカルチャー社会なんですか?
さっきずっと3号経路の話をさせてきたように
地に足をつけて
自分が生きてなかったことに気が付いた
世の中の仕組みって
こんなふうになってたんだけど
それまでは実家暮らしですか?
それまでは実家に暮らして2年間だけ
一人暮らしをしましたけれども
一人暮らしをしたからって
やっぱり世界観なんていうのは
広がらないなっていうのが
自分の実感ですね、やっぱり
東京に来たのが大きかったんですか?
その公衆衛生院での学びですね
はい
いろんな
人たち
他職種と一緒に
ドクターもいて
栄養士さんもいて
いろんな保健師さんたちが
地域について学ぶわけですよ
世界について学ぶ
12:00
ちょうど自分が学生だった時に
厚労省も
当時厚生省もエイズのような
いろんな問題もその時に起きて
世の中がすごく移り変わっていく時だったんですよ
そこでやっぱり学んだ
助産師の仕事のすごい深さだったりとか
すごさだったりとか
先生から学んでいくっていうことが
自分にとっては1年間が
ものすごく価値観が大きな転換でしたね
そっかー
で、そこに
その後大学に行かれて
そうですよ、9年から
で、4年間
そこからだと28歳で入って?
卒業の時にもう30人とか
そうなんですよ
またこれが静岡で出会った
その方は専業主婦だったんですけど
すごい面白い方で
京都の方だったんですけどね
ゆりさんっていう私のやっぱり
モールモデルなんですけど
専業主婦で
例えば子どもたちを
幼稚園とか小学校に行ってらっしゃいって
おくんじゃないですか
それから自転車に乗って
静岡の駅まで行って
駅から新幹線に乗って
東京の美術館回ってきて
やーって新幹線に帰ってきて
おかえりなさいって家でお料理して
すごい
そういう方に出会った時に
あ、そうか
これ一つしかできないなんてことは
自分がなんか決めてたことだったんだな
っていうことをやってやって
それからそう
学校で学んだり働いたりすることと同時に
人とお付き合いしたり結構
結婚することっていうのもできるんだって
それまではどっちかだって思ってたってことですよ
やっぱりそういうもんだと思ってたからね
それをやってから次をやるってこと
でもまあ確かに
そういう話も聞きますね
もうなんか仕事続けるってことは
結婚を諦めなきゃいけないとか
当時はね
そういう価値観があったって
ロールモデルってすごい大きいですね
大きいですね
なんかその実際に実現してる人たちを
目の当たりにする
一つの役割じゃなくて
複数の役割を
こうやって転がしながら
楽しんでるような
すごかったですね
そのやっぱり刺激は
静岡の田舎にいた私が
京都の部会から来られて
英語ちょっとの期間教えていただいてた
先生でもあったので
英語を学ぶような
生き方そのもの
楽しみ方
人生の楽しみ方を教えてもらったので
そういうのがあったから
なるほど
それで
恋愛もするぞと
そうですね
で
出会いがあったんですか
恋愛っていうよりも
結婚するっていう感じで
だから
もう最初の今の夫と出会った時も
15:01
自分は結婚は望んでない人間だっていう風に
最初から言ってた
もうこの人は私のリストからいない人
すごい
そんな感じで
でも結構いろんな
それはいろんな形で出会う方と
最初の段階でスクリーニングするってことですか
そうですね
スクリーニングってそうですよね
結婚をやっぱり考えてない人とは
お付き合いはしないっていう
それがいいんじゃないかと思ってたんですけど
結局ずるずると3年間くらい
そういう人と
友達関係が続いて
結局結婚することに
そうなんですね
それが旦那さん
他に現れなかった
そうなんですね
じゃあ旦那さんは
どこで出会われたんですか
その研修の1年間が
研修で
その時は
友達としてです
同僚
同僚一緒に遊ぶみんなと
そうなんですね
でも
友達関係が続きながら
どっかから付き合いをするような
仕事になって
みんな地元に帰って行かれたので
1年になっては
東京に残ったチームという感じになった
あー
なるほどなるほど
そっか
で、大学に
卒業してから
欲しいことは
それで
同時にも
4年生ぐらいの時に結婚しました
あー学生の頃にもう
学生といってもねもうね
まあまあそうですよね
31とか
うん
うん
なるほど
でもまあ
ご自身も
その
どっちも
仕事も
結婚も
両方だって
もともと決めてらっしゃったから
まあ特に迷いはなく続けて
で、ご主人も
それは
賛成してくれたっていう感じなんですか
いやもう子供はいらないって言ってた人なので
そうなんですか
結婚したくないし子供はいらないって
今の時代の最先端を当時やってたから
本当ですね
ねえ
私の顔を自ら
本当ですね
確かに
確かに
そうなんですね
そうなんですね
そうなんですね
でも結婚すると
だからお礼の中に土足で入ってきやがってみたいな
そういうこと言われてましたけど
えー
でもまあその主義を変えるぐらい
結婚したかったってことなんですか
結婚するしかないって思ったんでしょうね
じゃあなかったらさよなら
あー
なるほど
結婚というよりは別とは言わないですけど
やっぱり自分はしっかり結婚して子供で家庭を持ちたいっていうのは
もう持ちたいっていうか
それが当たり前っていうのは
ありましたもんね
で、今みたいに
男子凍結とかいう時代でもないので
18:01
やっぱり年齢制限っていうのがあったし
うん
やっぱりそれは結構強くありましたね
うん
結婚してから子供が生まれるまでは割と早かったんですか
それはなかなか2年ぐらいかかりました
やっぱりその時は不倫事情とかにも特にないかな
うん
まあでもね
うん
私としては自分の歴史の段階を見て
うん
でもあの当時って3級はありました
ですから私はその仕事を辞めました
あ、一回辞めたんですね
そうなんですね
そうなんですね
その代わりその時には
学校、看護学校にも教育してたりして
それを一旦辞めましたね
で、非常勤でつなぎました
あー
なるほど
やっぱりそういう
もう辞めるしか選択肢ってなかったってことですか
そんなことないですよ
そんなことないです
辞めてる人もいましたけど
やっぱりいろんな意味で自分の中では一つの職業というのは
なるほどなるほど
そういう意味でご自身の
あの3号の状況っていうことでいうと
東京でご主人もお忙しく働かれていて
まぁ仕事は辞めたかもしれないけど
結構一人で育てるみたいな感じがあったんですか
そうですね
でもやっぱり
自殺手だったし
ほし…すごく欲しいと思っていたから
色んな事は苦ではなかったですね
うん
それでやっぱり静岡から両親に助けに来てくれてましたよね
うーん
常に思ってたのは、やっぱりすごい宝物が来たって感じだったから。
それはもう、じゃあ子育ては喜びだったんですね。
そうですね。
で、お子さん、お二人ですよね。
はい。
はすめさん。
で、その妊娠している時、妊娠する前に、
さっき言ってた学校の一つ上のクラスというか、
家庭に入ってたんですけど、4年間かかりました。
もうね、妊娠・出産している時は、さっきの1年じゃないですけど、
こういうものってやっぱりあるんじゃないかなと。
お産した後は全然回らなかった。
何にも文章を書けないです。
もともとで優秀じゃないのに、そんなのが来ちゃったから、
一回も大変でしたもんね。
でも本当に頭が回らないんだなっていうのを感じているから、
そんなふうに体ができてるんじゃないかなってちょっと思いますね。
あと、すごくこう、妊娠中に眠くなったりとか、
そうです、そうです、そうです。
あのー、なのでこう、物理的に労働できる時間も、
やっぱり違いますよね。
違いますよね。
あと、起きてられないっていうか、
そう、そうだよね。
そうですよ。
そうです、そうです。
そうです。
そうですよね。
うん、本当に、違うでしょうね。
体の構造っていうか、働き方がね。
なるほど。
っていうのはすごく体験しましたね。
うーん、まあ確かにね、なんか抗えないね、もう。
21:02
女性としてというか、生き物としてもね、本能的なものがありますからね。
ここで一緒に寝た方がいいって思ったり、確かに。
なるほど。
じゃあ、お仕事、非常勤でかなりセーブされた状態がどれぐらいの期間だったんですか?
それでもやっぱり4年ぐらいですね。
そこから、もう一回フルタイムで復帰するとっていう。
3歳と2歳になる年でした。
でもまだ小さい。
もう家族会議やってましたけど、主人に実家の兄たちと一緒に。
この子はやっぱりすごく繊細だから、
あんたがないほうがいいんじゃないかとか、いろんなことも考えながら。
当時、保育園は、もちろん今ほど多くはなかったとは思うんですけど、
でも保育園に預けることに。
保育園に預けることにして、やっぱりちょっとボケてたりするから、
保育園の時間があって気がついたら、もう時間が過ぎてたって。
もう泣きながら泣いて、園長先生に叱られて、
ここで働いている保育士たちも家庭があるんですよって。
そうですよって、泣きながら謝ったりとかして、
いろいろそんなこともしながらやってきましたと。
なるほどね。そうか。
うん。
旦那さんは子供はいらないみたいに、もともとおっしゃってましたけど、
実際生まれたらどうだったんですか?
もうやっぱりすごくかわいがりますけど、でもやっぱり小さいうちはね、
自分のことで精一杯で。
あんまり育児に旦那さんがやってくれるって感じではなかった?
そうです。いるときはそうだけども、やっぱり単身で転勤とか。
そうか、単身赴任をされた。
じゃあもう本当、いわゆるワンオペな状態だったんですね。
そうですね。大変でした。
ワンオペもある中で、大変だからもう一回セーブしようとか、
そういう迷ったりとか悩んだりとかはあったんですか?
おかげさまで研究所に勤めたんですよ、さっきは。
自分が出た研究所に、先生のおかげで。
そしてそこの先生たちもやっぱりすごくサポーティブだったし、
やっぱり研究所だったから、やっぱり時間に使い方みたいなものに。
少し映像を聞かせてもらえたりとかはしたっていうのもありますよね。
なるほど。
当時だと、どうですか、お仕事をしながら子育てもしてみたいな状況。
ロールモデルっていうね、これまでの人生の中にはロールモデルになる方が出てきてましたけども、
そのときっていうのは、横だったり上だったりとかにロールモデルになるような方っていらっしゃいましたか?
さっきの静岡の友人というか先輩ですが、
やっぱり働いていないっていうのは、やっぱり海外館の奥様だったり、
24:05
途中から待って、お仕事をしながらとか、
映画をしていながら子育てをしているっていうところを見て、
本当にちょっとしたことなんですけども、
自分が例えば何か電話で話していても、子供がママ、これ針通して、とか言って、
お財布をやってて来たら、「はいはい。」って言って、
すぐそっちに向かっていく、その姿勢っていうのは。
ちょっと待っててって言わない。その感覚とか、
ちょっとしたことですけど、すごくやっぱり自分の子育てには参考になりましたね。
耳が痛い。
そうそう、言ってる。
自分もそうですよ。
なるほど。
でもね、今みたいにリモートワークみたいなのが、
あるわけでなし、なんか。
そうですね。
で、子供を連れて近くの、それこそ児童館に入れて、
遊んでてもらったりとか、
お世話になりました、兼用部でも。
当時、まだ電話交換手さんがいらした時に、
そこでちょっとだけ見てて、見てるわよ、とか言ってくださったりとか、
もう本当にそういう意味では、
なんか周り、自分自身も、
子供を連れて行く仲間の人たち、若い人たちにも、
どうやって一緒で働けるようになれるのかなっていうのを考えますよね。
なるほど。
ちょうどそれこそ、皆さんご存知かな、
林真理子さんと、それからアフネスちゃんさん。
そういうのありましたよね。
子供連れて行くかどうかとかね。
職場に連れて行くっていう話ですよね。
あれもだから、どっちもどっちだし、
そのね、
どっちがどっちって言えないですけど、
もうそんな時代でしたね。
なるほど。
確かに。
なんかすごくその、プライベートと職場っていうのが、
融合してないっていうか、別物だし、
例えばその、プライベートで仕事を休んだり、
なんか職場に迷惑、迷惑っていうか、
影響することが、迷惑ってなんか感じちゃうようなのは、
そういうこと私たちの時代でも、
私結構、初期の頃とかあった。
なんかその、子供を理由に、例えば休む時に、
すいませんって、もちろん言うし、
申し訳ない気持ちもあったし、
でもなんかその辺が、やっぱりどんどんどんどん変わってきて、
あの、今はね、だいぶ変わってきてるとは思うけれども、
だからその辺のなんかこう、線引きみたいなのが、
昔の方、昔ほど、なんかこう、ピッと、あった気が。
あった気がします。
なんか家族、家庭、職場みたいな。
確かにね。
そういう意味では、すごいその研究所は、
かなりこう、なんかこう、みんなで助け合うような雰囲気。
27:00
そうですね。
あの、もともと昭和13年にロコ・フェラー財団がお金を出して、
作ったその、アメリカが日本に、
こう、精神の熱火を送るっていうところで作られてるから、
考え方が結構、その、
大事なのですね。
そうですね。
多分、一人ずつの研究室だし、とかね。
へー。
それ、その組織が、大学のような、こう、ピチッとした、
球体全とした組織と、
逆に違っているムードはありましたよね。
それは大きいかもしれないですね。
比較的、その働き方のフレキシビリティが、
ある職場だったんですね。
そうだったんですね。
うーん。
ありがたいですよね。
なるほど。
なるほど。
じゃあ、ご自宅で仕事をする、みたいなこともあったんですか?
うーん。
まあ、そこまでは、あれでしたけどね。
うーん。
なるほど。
家から近くに越しても来ました。
そうですよね。
そうですよね。
職場の近くに越しても来ました。
なるほど。
なるほど。
移動時間を、極力短くしたいですもんね。
そうです。そうです。
なるほど。
そこの研究所から、大学っていう場に、
自分自身が教える側というか、
として、大学に移れて、
これは何か、きっかけがあったんですか?
それは、私の前任の教授が、
声をかけてくださった。
うーん。
そうなんですけどね。
うーん。
やっぱり、自分自身が、
いろいろ、制作で出来上がったものを、
今度やっぱり、実行していくには、
やっぱり、お金と人です。
場とね。
やっぱり、人がいなかったら、できない。
そうですね。
で、やっぱり、人材規制みたいな、
基礎のところを、しっかり見てみたい、
というものもありましたし、
もう、自分にできるかなっていう、
いろんな思いもありましたけど、
その先生の人柄でいったっていう。
うーん。
なるほど。
そっか。
で、大学で、
まあ、結構、
何でしょう、その、
教えるっていう立場になると、
まあ、自分自身と同じような、
あの、ね、
助産師を目指すような方っていうのも、
生徒さんも、結構いらっしゃったりするわけですよね。
そう。
なかなかね、
そういうことばっかりじゃないですけど、
やっぱり、その、いた、あの、東北大学っていうのは、
本当に、あの、
いろんな大学がある中で、
ものすごく、それこそ、
文化や、教養っていうのを、
土台を置くっていうふうにして、
作った大学なんですよね。
亡くなられた、あの、先生が、
助手さんだったんですけども、
その先生が、しっかり作られた大学で、
それこそ、入っていくと、
絵画があって、飾ってある。
小さな、あの、大学ですけどね。
そういう意味で、本当に、
教養とか、それから、その、文化とか、
そういうものが、すごく大事だっていうふうに思っていた、
30:00
自分の看護学校から、大学に移ったのと、
時期が同じく、1985年に大学化した、
短大化した大学で、
すごく、その、思い出もありましたね。
うーん。
だから、その、学生たちの、
人たちに、あの、基本的な絵画をしっかり見て、
で、これと同じものを、デプリカ、もちろんデプリカなんですけど、
これと同じものの本物に、入り口にするとか、
そういうふうに考えられた、
先生の、あの、大学なんで、
うーん。
あの、看護の学部でしたけれども、
あ、こういう大学で働きたいっていう、
思いもありましたね。
うーん。
そう、あの、1年生には、あの、本当に、
えっと、絵画や、それから、文学、
それから、あの、演劇、
それから、音楽、
いろいろなものを、基本的なことを、
看護大学なのに、まずそこは、学ぶんです。
へぇー。
珍しい、ですよね。
ね。
へぇー。
そうなんですよ。
へぇー。
なるほどー。
なんか、院校、看護学を、大学で学ぶ?
まあ、あの、なんでしょう、
まあ、看護師さんを、あの、
出す方、まあ、助産師さんを出す方、
まあ、あの、今でも、やっぱり、専門学校とか、
あの、短大とかで、比較的、こう、
早く、現場に、出て行きたいな、方の方が、
まあ、多いのかなーって気もするんですけど、
大学まで学びたい、みたいな、方っていうのは、
なんか、どういう意識を持ってらっしゃる方か、
思うんですか?
やっぱり、今、看護学自体、
それから、助産もそうですけども、
こう、学歴化してきていて、
やっぱり、しっかり、その、
アカデミアの世界を学んで、
そして、あの、
いろんな技術を、もちろん持ちながら、
科学的な思考ができる、
いろいろな、そういう、
人材を育てたい、ということで、
看護も大学科になっています。
それから、助産も大学院で、
教える時代になってきて、
そうなんですか?
そうです。
保健師も、
そうなんですか。
はい、徒歩大学が、
特に、その一つを、しっかりして、
しっかりしています。
すごいですね。
大学歴な、
助産師さん。
でも、その土台には、しっかり、
作業の許容もあるっていうところをね、
とても大事にしている、
徒歩大学の看護学部で、
9年間、
働かせていただきました。
なるほど。
9年。
はい。
そうですね。
で、まあ、定年退職っていう形で、
退職されて、
で、まあ、
3月に退職されたばかりですよね。
そこからも、
まあ、大学で教えてたりも、
されてますけど、
はい。
新しく、会社を作られたりも、
そうなんですよ。
はい。
素敵な。
それは、さっきの、
サゴケアの施設、
もちろん、アウトリーチというか、
33:00
訪問型の、
まあ、ベースでもいいんですけど、
やっぱり、夜泣きの問題だとか、
その、ナイトケア、
うん。
それが、すごく大事だと思うので、
施設型が、もっと増えたらいいな、
っていうのに、すごく、
思いがあってですね。
へえ。
うん。
それに、例えば、
どういう形で、
アドバイザーとして入りたいのか、
うん。
今までは、大学の教員っていう形で、
もう、なかなかやれなかったことを、
委託契約みたいな形で、
うん。
やっていけば、
アドバイザーとして、
うん。
できるんじゃないかな、
うん。
という風に思って、
会社を作ることがしたんですけど、
うん。
うん。
結構、会社作られてから、
新しい出会いとか、
新しいチャレンジとか、
増えてますか?
まさしく、
この出会いも、
そうですよね。
そうですよね。
本当。
ね。
本当に、
今までの大学でだけだったら、
広がらない出会いですよね。
うん。
そうですね。
こんな、
確かに。
来ていただいて、
ね。
いえいえ。
本当に、
こんな、
自分の話、
ベラベラしてた。
いえいえ。
本当に、
うん。
そうか。
じゃあ、
まあ、ね。
まあ、これが、
本当は、
あの、
私たちがお呼びして、
なんか、
そのね、
ご自分が、
あの、
学んでこられたこととか、
研究されてきたことを、
何らかの、
こう、
サービスだったり、
商品だったり、
うーん、
実際の、
こう、
お母さんに届く、
何かサービスとして、
うん。
あの、
アドバイスをしたりとか、
なんか、
そういうことを、
あの、
ね。
そうですね。
あの、
ここでも、
何ヶ月かしか、
まだやってないですけど、
うん。
実践的に、
何かをやるってなってきたときに、
だから、
それは、
あの、
何か授業とかやる場合は、
儲けて、
お金をしっかり、
うん。
稼いで、
それを、
税金として、
国に納めるっていうことも、
すごく大事な役割なんですよ、
っていう話を聞いたときに、
あー、
今まで、
公務員生活長いし、
大学の教員だったら、
うん。
お金儲けすることって、
うん。
ちょっと、
後、
後ろ向いてるみたいな、
あー、
なるほどね。
そういうのが、
すごくあったんですけど、
はいはいはい。
お金儲けって、
してもいいんだって、
はいはいはい。
この年になって、
なるほど。
それがね、
結構、
ストンと落ちて、
はいはいはい。
それだったら、
行政に、
もう、
産後金を作ってください、
作ってくださいばっかりでも、
なかなかもう、
アホ呼びしちゃうんですよ。
あー。
そしたら、
民間企業とか、
うん。
大手の企業とか、
もっとそこに、
参入してもらうような、
なるほど。
仕組みがあってもいいのかな、
うんうんうん。
って、
言うことにも気づいたんですよ。
うん、
なるほどね。
あー。
そう、
あのー、
えーと、
ある大学の先生から、
マーケティングを、
やられてる、
教授に出会って、
その、
社会活動と、
民間の、
うん。
えっと、
企業、
うん。
の、
その、
組み合わせを、
どんなふうに、
考えたらいいか、
36:00
ちょっと、
教えてもらえる機会が、
できたりとか、
おー、
なるほどー。
これからの、
うん。
その、
私たちがやっている、
うん。
社会的な活動、
うん。
やってきたんですけど、
うん。
できない。
いや、
社会活動家っていう、
ものだけじゃない、
うん。
そんな、
そんな大事なことは、
言えないんですけど、
うん。
やっぱり、
もっと民間企業が、
うん。
参入してくれて、
うん。
日本が変えられていく、
うん。
仕組みって、
あるんじゃないか、
うん。
っていうのが、
今、
勉強の途中なんです。
へー。
なるほどー。
本当に。
ね、
でも、
そういうのもあって、
いかない、
あの、
持続性がないというか、
そうですね。
そうですね。
うん。
なんか、
でも、
そこをすごくこう、
しかも、
こう、
民間企業で、
やっぱりこう、
それなりにこう、
あの、
余剰がね、
我々の出身母体もそうだけど、
そうねー。
余剰があるところは、
やっぱりあるところに、
その、
何に対して使ってもらうか、
みたいなのを、
うまく繋げていくのとかは、
うん。
すごく、
なんかこう、
未来がね、
想像できて、
いいですね。
働き方も、
女性の働き方も、
さっきも、
ずっと話すように、
今、
自宅で、
ワークができる時代に、
なりましたけど、
とは言いながら、
会議の時は、
鍵を閉めないと、
子供が、
入らない、
みたいな。
余計、
ママはお家にいるのに、
なんで私、
お世話してくれないの、
みたいな。
はい。
そこの、
ところの、
工夫も、
もっと必要になってくるんだし、
うん。
まだまだ、
なんか、
楽しく工夫できることが、
いっぱいあるんじゃないかな、
と思いますね。
うん。
でも、
やっぱり、
この、
先生の魅力は、
何だっつう、
常に学んでる、
感じとか、
ありがたいです。
確かに。
うん。
失敗も、
いっぱいあって、
本当に、
申し訳ないことも、
いっぱいしてきたけど、
ごめんなさいって、
これ、
そこを直してきますって、
反省も、
いっぱいしてきたけど、
そのためには、
他の人に、
役に立つことで、
なんか、
解消できることも、
あるかもしれないですよね。
うん。
みんなに、
どうでもなんか、
そうやって、
人に助けてもらっちゃおう、
とか、
なんか、
まあ、
失敗もしちゃうんだけど、
ごめんなさい、
みたいな感じで、
なんかこう、
チャーミングにね、
あの、
どんどん、
でも、
そういう、
こう、
あの、
ある意味、
なんていうか、
明るさというか、
がないと、
なんか、
一個一個ね、
ごめんなさい、
ごめんなさい、
みたいな気持ちだとね、
何にもできないから、
確かに、
確かに。
でも、
その、
だから、
なんか、
それが、
なんていうのかな、
ちょっとこう、
言い方悪いですけど、
なんか、
少女のような、
といいますか、
なんか、
そういう、
そういう部分が、
やっぱり、
あの、
人も引き付けるしね、
先生にいろいろ、
なんか、
お話聞いてみたいな、
39:00
とか、
なんか、
一緒に何かやりたいな、
っていう方が、
集まってくる、
そういう、
からなってるんじゃないかな、
って感じます。
なんか、
そんな風に言っていただいたら、
先輩にも、
ほんとに、
まだまだ、
70代、
80代、
90代で輝いてる人たちも、
多いんで、
で、
いろんなことを、
教えてきてくださった方々も、
やっぱり、
それを、
こう、
自分の糧に、
乗せるっていうのを、
やりたいですよね。
うん。
いや、
ほんと、
そうですね。
なんか、
先生が、
ほんと、
すごく素敵な、
なんか、
こう、
一つのロールモデル、
になってる感じが、
すごくします。
あー、
すごい。
あの、
いろいろ、
お話を、
お伺いしました。
ねー、
ほんとに。
いやー、
なんか、
あの、
これから、
なんか、
ますます楽しみなんですけども、
なんかね、
あのー、
これからの展開で、
また、
お話を、
お伺いする機会が、
あったりすると、
いいなー、
と思ったりしております。
はい。
じゃあ、
今日は、
どうも、
ありがとうございました。
ありがとうございました。