孤独の受け入れ
この番組は、セイラとジョーカーが、自分たちの思考を整理して、心を抱きしめるためのラジオです。
本日も始まります。よろしくお願いします。
よろしくお願いします。皆さん、いかがお過ごしですか?元気ですかね?
いい感じに、年末に差し向かっておりますね。
俺らはやっぱり、物を作る仕事ですから、年末に物を作りたいみたいなさ、駆け込みが多くないですか?最近。
いや、もうすごい飛び交ってる。いろいろ。
オーダーがめっちゃ来て、なんかバタついてますけど、聞いてくれてるみんなは、ゆっくり過ごせてるのか、
俺らみたいに仕事がバタついてるのかね、分かりませんけど、楽しく過ごしてくれたらと思います。
まあ、俺ららしく、ちょっと駆け抜けていきましょうというところで、
今日はセイラからトークテーマがあるみたいなんで。
はいはいはいはいはい、そうですね。なんかややしっとりする内容なんですけれども、
しっとり。
しっとり、しっとりいこうかなって思ってるんですけど、
何か自分がね、目標があってそれに向かっていくこととかって、
自分とさ、まったくさ、同じ状況の人って世の中にいないじゃないですか。
なんだろう、同じ志を持って目指すっていう相手がいたとしても、自分と状況は全然違うじゃん。
うんうん、そうね。
だからそういう意味では、一番分かりやすいのは学校とかって、
例えば何か専門学校で学ぶとかなんとかってなったら、
それって同じものに向かって学んでるもの同士だけど、
そこに集まってる人たちがみんなそれぞれ育ってるところとか環境とかバックグラウンドも違ければ、
思考も違ったりとか、その後どうなっていきたいのかっていうものも違うけど、
今共通して同じものを目指して頑張ってる。
そこで得たい技能があるっていうので、
集まってる集団だったりすると思うんだけど、
それがより大きな組織になってくるのか、
社会に全体になってくるのかってなってると、
自分と同じ状況の人って人にもいないよね、この世にっていうのを感じると、
なんか人間ってやっぱ孤独だと思ってて、誰しも。
で、何かに向かっていくことって本当自分じゃないと、
自分がそれをやらなきゃいけないじゃないですか。
共感の難しさ
そうだね。
で、何か団体作ったり組織作ったりとかすると、
それに向かっていくっていうのが一人ではないっていうのは確かにあるかもしれないけど、
それをやらなきゃいけないのはやっぱ自分だから、
結局孤独ないよ、どのフェーズにおいてもっていう。
で、その孤独を愛すことで、
なんか私それがすごい20代で得た一つの気づきだったんですけど、
その孤独を愛することがすごく好きになった。
何だろうな、ちょっと言い方はむずいな。
孤独を愛せれるようになったんですよ。
うん、素晴らしい。
その孤独を持ちながら立ち向かっていくことっていうのがすごく楽しくなってきた。
なるほどね、いいね。
果たしてみんなはどういう感覚でその孤独と向き合ってるのっていう話を聞きたかったの。
で、特にジョーカーにはそれを聞きたくて、
なんか競具とかやってることも全く違うのもあるからこそ、
どうやって今まで孤独と向き合ってきたのかなーっていうことをちょっと聞きたいなーなんて思ってさ。
伝わってます?
伝わってる伝わってる。
だからあれだよね、いろいろね、人それぞれセサタクマするものがあるけど、
やっぱりここで寂しいというか、孤独か寂しさじゃないな、
孤独と向き合わないといけない瞬間は必ずあって、そこをどう捉えてるかみたいな話だよね。
うん、私そこに対してなんか自分的に立ち向かうための考え方だったりとか、
こういうふうに変わってったなーとかって思う、なんかその思考の変化みたいなのがあったら、
なんかいろいろ話聞きたいなって感じ。
それでいうと、俺は多分孤独を愛せている方なんじゃないかなと思うかな。
それって今それが確立したってよりかは、徐々にそうなっていったっていう方が表現として新しい?
そうね、もともと多分、孤独が好きなタイプではあったから、
孤独でいいやって思ってたタイプだから、そこの精度が上がってって感じの方がしっくりくるかな、個人的には。
なんかさ、すごくこれも気になるからちょっと聞いちゃうからあれだけどさ、
ティーネイジャーの時代ってさ、ジョーカーは出役をするとかさ、
結構その人とは違う道を歩んでたりとかしてた部分もあったわけじゃん。
でも、またみんなと共通の集団に戻っていくみたいな感じで、
それを共有できる人っていたりした?当時、自分のその動き方とかっていうのを理解したりとかしてくれる人とかっていたりした?
いなかったっていうか、いなかった。
そう、なんか今セイラが言ってくれたけど、もともと高校の時から大学の時までは、
東京のモデル事務所に入ってモデルなんかしてたりっていう感じで、
本当に出役って言われる仕事をしていた時もあるけど、
やっぱりその学生が本業だったから、やっぱりその学校に戻ると、
仕事の時に見ている世界とは違うし、その世界が違うからさ、
いる人たちの感覚もその年齢とかも全く違うみたいなところがあって、
やっぱりそれをその感覚、見ているものをこの共有、いくらさ言葉で話して、
こういう仕事に行って、こういう人がいてっていうエピソードトークをしたとしても、
やっぱりその学校では、それを100%理解できる人はいないし、
逆も叱りだしっていうところはあったから、
その頃から理解をしてもらおうみたいなところがなかったんだと思う。
どうせわかんない、どうせって言っちゃうとちょっと悲しいけど、
ただ、伝えれるところはもちろん楽しいからしゃべるじゃん、こういうことがあってさ、
ただ、それを理解してもらおうと思ってしゃべってるみたいな感覚はなかったかも。
もう結構その時から、徳島ってこともちゃんとわかってて、
認識して、しかもちゃんと自分の中の心のすみ分けみたいなのは持ってたってことだね。
そうね、なんで理解してくれないのって思ったってしょうがないじゃん、理解できないんだからっていうさ、
その世界を見てないわけだから、いい風景を写真で見るのと、目で見るのと感覚が全く違うのと一緒で、
写真を見て、現実の風景のすべてを理解するのは難しい、体験するのは難しいのと一緒だからって思ってて、
ただ、そのモデルをしている自分と学生をしている自分とのここのギャップっていうか、得意性みたいなところで感覚を養ったというよりかは、
そもそも以前のエピソードでも話してるけど、セイラと俺はバックグラウンドが他の国のミクっていうのもあって、見た目が違うじゃん。
そこからかもしんないけどね、その感覚が。もうそもそも見た目違うっていうところでちょっと苦労したところはあるから、
だから理解してもらえない、そこで苦しんだかも、理解してもらえないなっていうのは。
だから、セイラが言ってくれたその、出役をしているみたいなところの理解してくれるしてくれないの部分では苦しまなかったけど、
ストイックな若手時代
そもそものそこの自分の様子と日本人の様子とのギャップで、もっと小さい頃に苦しんだから、そこからもう諦めたみたいなのがあるかもしんないけど、
そういう部分の苦しみなのかな、どうなんだろう、当時の自分がどう感じてたかあまり鮮明に覚えてないけど、
それを経て、それでさっき言ったその半分ぐらい、その感覚がもともとあったわ、そこなんだけど。
20代、自分でこう仕事をしたり作品を出したりとかをしていく中で、もっと精度が柔らかくなっていった感じかな。
だから多分、今回のこのエピソードでは、この残りの半分をどう培ったかというか感じたかを多分話した方が、みんなとも感覚を共有できる気がするから、そっちを話せればなと思うんですけど、どうでしょう。
いや、いいと思います、いいと思います。そうだね、なるほどなるほど。
ちなみに、せいらは孤独とは向き合えるようになったって話をしてたけど、どこでそれを感じるようになったとか、なんかそのエピソードあったりする?
なんか思い返してみたらなんだけど、私、ちっちゃい頃からずっと習い事ずっと一つのことやってて、
で、それもちょっと出役っぽい感じのこともしたりとか、結構特殊な幼少期を過ごしてるのね。
で、しかもそれが仕事にもちゃんとなってて、お金もらったりとかもそれでしてたから、小学校通ってるんだけど、学校終わったらすぐオーディション行ったりとか、ダンスの練習しに行ったりとか、
で、なんなら新幹線乗って現場来てくださいみたいな感じで、行かなきゃいけないみたいな感じで、東海行って、お母さんに駅まで送ってもらって、
あとは切符持ったみたいな、持ったよ、帰り何時だからね、みたいな、お母さんマネージャーみたいな感じで、行ってきますみたいな感じで、
で、学校とかにも結構派手な格好して行かなきゃいけない時も多少あったの、この後仕事だからさ、みたいな感じで、はいはいはい、学生だね。
で、みんなになんか、なんでセイラちゃんあんな髪の毛なんですか、みたいな、でも先生とかに説明しなきゃいけないから連絡帳に、あの今週こういうこうこうこうこういう理由があるので、髪の毛このままで行かせます、すみません、みたいな感じで伝えたりとかしてっていう幼少期があったわけですよ、
で、今思えばそれは私は、私的には当たり前だったわけ、うん、なんなら好きなことだったから当たり前にそれをやっていたけど、確かに周りにそれやってる子はいなかったけど、ダンスのその環境に行ったりすると、同じように特殊な感じでそれを一緒に頑張ってる子がいたから、うん、その子たちも学校とか自分たちのコミュニティに戻れる場所はまああったというか、はいはいはい、そうだよね、うん、うん、その時あんまり孤独は感じてなかったんだけど、
どちらかというと中高生とかになってくるにつれて、うん、自分の中まで何かずっと突き詰めてやってくるのが当たり前だったから、それをまあ部活中学校とか入ってから部活頑張ってたんだけど、その部活にそのエネルギーを注ぐってことに対して結構躊躇なかったわけ、うんうん、でもそしたら急にみんなに真面目だねって言われ始めるみたいな、ほう、うん、で、その時にえ、みたいな、でもさ、これ部活で自分でやりたくて入ってるからさ、
みんなそうじゃない?みたいな、うんうん、え、なんかそこに差はあるの?みたいな、でもさ、部活とかってさ、順位がついたりするじゃない、大会とかで、そうだね、で、その結果ってまあ頑張ったから1位になれる人もいれば、頑張ったとしてもなれない人もいるっていうさ、世界じゃん、そうね厳しい世界ですね、そう、で、そうなった時になんか自分が頑張ることが正義ではないっていうのを知るタイミング、うん、
で、しかもそれが順位とか競争に反映されるっていうのがまあ違う意味で楽しさを感じてしまって、ああ、やったろけーみたいな感じのテンション感で、
当時に火がついて、私だったらここ絶対こうしたいとかっていう考え方のもと、すごいまあそれはそれは今思えば確かにストイックだなそれはって感じだけど、もう中学生ぐらいから体作ってたわけよ、なんか食べ物とかも気にしながら、うんうん、じゃないと1位なんてなれないみたいなふうに思ってて、それをすごい部活の子とかに突きつけちゃってたから、すごい裏で悪口言われてたと思うの、
まあ友達からしたらちょっとしんどいしね、そうそうそう、なんであいつそんな頑張ってんのをみんなに押しつけんだよみたいな、で、若干そう言われてるのも知ってて嫌われ役だっていうのは、なんかみんなの尻めちゃたばいてたし、うんうん、すげー怖い先輩みたいな感じようだから要するに、っていう時にすごい孤独は確かに感じてたなと思った、なんかみんなそこまで目指したくないってことって思って、私からしてみたら結構、みんなだってできるのになんでやらないのみたいな感じだったのね、
競争と孤独の意識
なんか周りが求めてるというか目標にしている点と自分が見ているもののギャップがすごくてっていうところだよね、そうである程度うちの学校って強かったのよそこそこね、でももっと頑張れたよねっていうところがあって、でみんなそのさ考え方とかさスタンスがさバラバラだからさ統一はやっぱできないけど、でもある程度強いっていう自負はみんなあったりとかするけどそこにそんな腰据えちゃっていいのみたいな考え方だったの、
だから本当に私は中でも突き詰めてるタイプだったっていうか、結果的にそうすごいって見られるならいいけど言われることに酔ってるのダサくねみたいな、それはそう感じだった、そういう人もいたのよ、だから陸上部入ります、言っちゃった、陸上部だったんですね、陸上部だったんです、私陸上部だったんですけど、いたんですよそういう子が、そうすれば強い学校だって見られるから、一つのブランディングにそれを使ってたやつがいたんですよ、
それはちゃうくねーかというのがあって、もう誰にも何も言われないけど淡々とやろうって思ってたし、同世代でもすごいセンスのある男の子がいたんだけど、その子は必死になって練習しないで強くなる方法を考えてたのね、
なんか面白いなその視点も、相反してるよね、でも私からしたら練習って一番失敗できる場所だから失敗したくないんだこの人たちって思ってて、
あーそういうことね、まあそうとも言えるね、そう私からしてみたら失敗してなんぼじゃないみたいな、練習でいかに失敗してで本番でいかにそれをアベレージを出すかだから、あー多分この人たちそんなに強くなんないんだろうなみたいな感じで正直思っちゃってた部分もあった、
だからもう私は私の理論で行くしかないわと思って、とりあえずやれることを全部まんべんなくやろうって言って結構苦手なこともそれなりにいっぱいあったんだけど泣きながら練習してた結構、でしかもみんなに強いって思われたかったから隠れてこそれんとかめちゃくちゃしまくってて怪我するみたいなのとかもあったし、
でもそれ口避けても絶対にみんなに言わないみたいなところがあったりとか、でもそれで高校上がったりとかしたのがあって結構そういうのがもう本当根性論みたいなところよね、もうマジで、できちゃってたからなんか頑張れない人との向き合い方とかもちょっとわかんない時がたまにあって、
まあそうね、自分とのギャップがあるとあんまりね、まあしかも当時学生だからさ、まだまだその相手を理解するというか相手の視点を見るみたいな多分発想もなかったと思うからあんまり、ってなってくるとやっぱり向き合わざるを得ないよね、孤独と。
で、なんかさ、みんなさ、いろいろさ、まあ結果を見てさ、ああこいつ何番だったんだ、こっちの大会にも出てるんだ、なんとかってさ、まあ人は言うじゃん、でもなんか私からしたらさ、目指したい記録があるとかさ、なんか自分のあれを達成できないと意味ないんだよ、どんなに何をもらったってみたいなのがあったから、なんかあんまりそこにもこうあんまあぐらかいてなかったっていうか、
まあそれがあって、高校でもそれを続けようって思って、行きたい学校に行ったんだけど、その時もどうせあいつ裏入試みたいな感じだろ、みたいな感じで言われたけど、私勉強も頑張ったからね、みたいな、で、悔しすぎて私テストとか食べてたもん、で、それで先生に、萌実さん、みたいな感じで言われた。
いや本当に悔しすぎて、もうあれ絶対の先生のせいだとか言ったりとかして、そういうエピソードがあってテスト食べちゃった事件っていうのがあって、結構それは友達はみんな知ってる話なんだけどさ、とかなんとかいろいろあって、もう悔しい思いはそこそこさ、いろいろさ、もうかみしめながらやってたっていうのがあるからさ、
その時は子供の放出の仕方があんまりよくわかってなかったんだけど、だんだんその大人になるにつれて、これを共有できる人っていないんだなっていうのに感じ始めてくるからさ、だからそれなりに自分がちゃんと納得しないとダメなんだなって思ったりとかして、で、あとリスペクトを持つ他の何か分野だったりとか頑張り方が違う人も世の中にはいっぱいいるから、そういう人たちも等しくちゃんと見ましょうっていうのとかが養われた気がして、
だからなんかその幼少期の自分の、まあなんだろうね、頑張り方の形成だったり行動起点みたいなのが出来上がったのはよかったけど、それが首しめちゃってた時期もあったんだよね、なんか頑張ることが全てみたいな感じになっちゃってた時、全然なんかフレキシブルじゃないみたいな、で、それを当たり前にしないといけないみたいな、ワンマン社長みたいな感じだよね。
うん、そうだね、ちょっとワンマンで舌を苦しめてる人と同じ構図にはなってるよね。
そう、で、それに気づいて、あ、違うじゃんみたいな、全然ありたい自分じゃないし、それをどう頑張るかは別に私が決めることじゃなくて、みんなが自分で決めていくことだから、私は私なりのスタイルだったり、目的のために頑張るでいいんだなって思って、なんかそういう人の話とかを聞くようになったの、それで。
結構多分それが25歳ぐらいの時だと思うんだよね、その時点で気づいてるの遅いんだけどね、なんか社会でそこをさ、行うはずだったのに、なんか結構受け入れる時期、時間かかっちゃって、それ。
あの、40、50でも全然できてない人いるから、だから25で気づけたっていうのはまあいいことよ、全然。
うん、まあ挫折したからね、その時にね、うん、あ、自分が言ってたことって別になんだろう、が正しいわけじゃないんだなみたいな、そこでなんか向き合い方もちょっとわかってきたっていうか、自分は自分の孤独があるけど相手にも相手の孤独があるから、そこをちゃんと受け入れられる人間でありたいって思って。
うんうんうん。
なんかそことかが向き合えるきっかけになってきたのかなーって思って、でもなんか今まだそれの練習中って気がする、5年経ってるけどそこから。
まあそうね、孤独で、まあ孤独、まあ向き合えてるのかなって思う瞬間としては、まあ俺もね、さっき学生の時に同校でみたいな話して、で、そっから20代どう過ごしてきたかのところで感じるようになったポイントとしては、
なんかもう自分は自分であることで、それを理解してもらおう、100%理解してもらおうっていうのを、なんかできないの、だからそのさっき言ったエピソードで感じたから、もうそもそもしない、理解してもらおうとしない。
で、多分言葉を変えると、まああんま期待しないっていう人にね、っていうところに多分つながっていったんだと思うんだけど、
自分は自分だし、人は人みたいなところを、その孤独を通して学んだ結果、あんまり人の行動とかに自分の感情が左右されなくなったんだけど、
いろいろさ、生きてるとさ、仕事の上司に指摘されるんだけど、分かってくれないよとかさ、自分のことね、とか、あと恋人とか、恋愛の話に行ったらさ、恋人が全然会ってくれないとか、全然連絡を豆に返してくれないとか、いろんな不満点みたいなのはあると思うんだけど、世の中。
そういうところって、相手に求めてるものが高かったりとか、相手への期待が高かったりするからこそだと思うんだけど、なんて言ったらいいんだろうな、うまく説明できないけど、
孤独の受け入れ
自分は自分で成り立つっていうことを知ってるから、別に相手に何かしてほしいみたいなことを思わなくなったっていう表現がすっきりするのかな。これって伝わんのかな、この表現。
うん、伝わる、伝わる。
ちょっとなんかうまく言語化できてる気がしませんけど、でもなんか、そうね、自分は、そう自分が理解してあげれればっていう感じ。難しいなぁ。
もっとこれが年重ねてけば重ねてくほど、その孤独の種類も変わってくるのかなって思ってて、なんか、なんだろうな、いろいろさ、たぶんそれってなんだろう、自分が勝手に感じちゃってる壁だったりとか、
そこに対して寂しさを覚えちゃったりしちゃうとかって、ほんといろんなことであると思うんだけど、例えばなんか組織の中で浮いちゃってたりとかさ、なんかあれ?みたいな、なんかなじんでる?大丈夫そう?みたいな感じとかさ。
そういう孤独の感じ方もあるよね。
あとは、単純に自分が目指していることが他と違いすぎて感じちゃう孤独だったり、なんか悩みとかをシェアしづらいとか。
さっきの学生時代のせいらと同じ感じだね。
私はそこに対する向き合い方は、なんか自分の中ではさ、もう出来上がってるからさ、それでいいっていうやり方になってるけど、なんか対人間関係においての孤独みたいなところの対処の仕方って、今さ、自分の仕事がさ、フリーランスだからさ、いろんなとこにさ、私はスポットで入ることが多いわけよ。
うんうん、そうなるね。
そう、だからもう孤独前提っていうところだなって思って、なんかそれは結構割り切ってるよね。
割り切るっていうのが大事かもね。
そう、割り切るっていうのが大切で、で、なんかうまく踏み込みすぎも注意というか、別に友達じゃないじゃん、そうやって一緒に仕事していく人たちって。
だからある程度距離感が全然あっていいけど、リスペクトを持って接しようねっていうところだったりとか、なるべくそこのなんか空気感みたいなのも理解しつつ、気持ちよく自分なりに自分の色出していくみたいなのでいいかなみたいな。
逆になんか自分がそのアウトサイダーであることが、その組織の中でいい意味で浮かせる要因になってる。
うんうん。
もしくは浮かせたいっていう、そこが仕事になってる時もあるから、そういう時にそういうので差し出せばいいのかなと思ってるから、染まりすぎ注意って思いながら結構付き合うようになり始めて。
それもすごい最近だけどね、なんかそういうので割り切るようになったのって、ほんとそれは多分27歳ぐらい過ぎてからぐらい、それが結構板につき始めたのが。
で今みたいな感じだから、まだもうちょっとご作できるかなって気はするけど、なんかいろいろその孤独の抱き方みたいなのがわかってき始めてるなーって思って。
うんうんうん。
孤独を感じることがもうさ、通常になっちゃってるっていうかさ、まあ人生スタイルもそんな感じだし、仕事スタイルもそうだし、ってなってくると、結構なんかそこに慣れすぎてる自分の大丈夫そうっていうところもちょっと出てくる。
みんなとなんか仲良くなるとか距離感近く持つとかっていうところを同じ熱量で体感しづらい、そういうのがあってもいいと思ってるんだけど、そこに興味もいろいろいろいろ広い分、これっていうものでつながれる人ってそんなにいないなっていう。
だから本当に私の中でのせんべきで、そうやって思考系共有できるかどうかとか、本当になんか良くない排他的になっちゃってるんだよね、ある意味で。
だからちょっとその自分が怖くなったりもする。なんかちゃんと私はみんなの話を聞ける人であれるのかっていう。
なんか聞いてみたけど、あんまりなんか悪いと思わないけどな、排他的に。だって排他的って言うとすごいなんか悪い言葉だけど、けど自分が生きやすいように選択してるだけだから、だから一種のセルフラブじゃんっていう感じですごいラフに捉えちゃうんだけど。
あとなんかここまで聞いてくれてる人がめちゃくちゃすごいシリアスなトーンで喋ってるけど、全然ネガティブな話じゃないんで、そこだけ。
そうそうそうそう、これネガティブじゃないよ。
フラットに孤独について振り返ってるだけだから、病んでるとかではないってことだけはまずちょっと言わないとと思った今。
確かにね、これどんなテンション感みたいなね。
いやでも本当にそう、真面目に考察してみたみたいなやつだから、ワニ受け過ぎ注意って感じなんで。
全然あの、我々は、ちょっとイントネーションおかしかったけど、我々は別に面白がってるだけだから、ただね、真面目にちょっとトークしちゃう癖があるんであれですけど、
けどまぁなんか、あんまりなんかその排他的だとか思わない方が生きやすそうじゃないって思ったけどね、俺は今の話を聞いて、どうなんだろう。
もう人の話もちゃんと聞こうでいいかもって思って、今のこの話聞いてたら。
なんかそこさえ忘れなければ、私は大丈夫なんじゃないかなと思った。
そこに自分の感情とかが乗ってきちゃうとまた別の話になってきちゃって、すっごいなんか論争になりそうだけど、そうじゃなくて、なんかそういう考え方も一つあるよね。
孤独とその受容
で、それで幸せな人たちもいる。で、いいじゃんっていうのに、ちゃんとなんか切り替えというか、でも自分はこうするっていうのがあれば別にそれでいいんだなっていうリマインダーというか、そうだなーって思った。
そのジョーカーの今の話聞いてたら、考えすぎなくていいのかもみたいな思って。
出会った意見に対して、なんか私は違うからって、切り捨ててこう進むのは言ったと多分排他的な多分行動だと思うけど、
今セイラが言ったみたいに、こういう意見もあるんだ、面白いねっていう、なんか新しい視点を得れたっていう感じで捉えて、
ただちょっと自分に合わないかな、ちょっと教えてくれてありがとうございますみたいな感じで、こう進むのは別に排他的ではないと思うから。
候補者をセイラはやってると思うから、別にっていう意味でね、深く別に考えなくていいんじゃないっていう意見でした。
うん、なるほど、なるほど。
違うレイヤーでそれをやってるジョーカーを知ってるから、この話どういうふうに思うのかなーと思って話してみたけど、結構なんか、確かになって思う点があったわ。
まあちょっと、孤独の愛し方はこうですとか、そういうレクチャーをするようなレベルには全然ね、俺はいないしね。
まあみんなそれぞれ違うだよね、そしたら教えるものでもないのに、体験しないといけない、自分たちで。
俺らはこういうことで孤独を感じて、それをこう向き合ってるよみたいな、それを通してこういうことを感じたよっていうのを今伝えるっていうか残すっていうのができてればもうめちゃくちゃ満足だし、
参考程度に本当に聞いてくれてる人は捉えてほしいかな、ジョーカーとセイラの考え方はこうなんだ。
もし会わない人がいれば別に会わなくていいし、さっきも言ったけどさ、理解できないじゃん、相手のことをすべて。
家族であろうとさ、恋人であろうとできないと俺は思ってるから、その理解をする努力はできるじゃん。
だからそれだけ忘れなければいいんじゃないっていう。
そうだと思う。常に成長もするし、思考も変わってアップデートもされてったりとか、時にちょっと縮こまっちゃったりとかもいろいろあるからさ人間って。
だからその人のことをすべて知るのは多分誰も無理、その人本人ですら無理だと思ってる。
誰が言ってたかちょっとわかんないし、あれなんだけど、人生は自分を知るためにあるみたいなことを言ってる人もいて、
確かにそういう考え方もできるなと思ってるから、だから本人も知りながら生きてるから、それは他人がわかるわけないよねっていう。
俺はあくまでそういう感覚を持ちながらいるだけで、理解をしてほしくないとか、理解どうせできねえだろうって思いながら人と接してるとかそういう意味ではないことだけは伝えとくね、危ないから。
それはもう。
理解してくれたら嬉しいし、感覚が共有できたら超ハッピーだから、それはそれであれなんだけどっていうね。
それはそうかも。
それは間違いない。
これはどうだろうね、今話してみて、なるほどって思う部分もあるけど、めちゃくちゃ成長とか時間経ってから考えてみて、ここを振り返ってみたらめちゃくちゃ面白いだろうなっていう気もする。
確かにね、1年後に同じ話をしても多分違うことになってるだろうしね。
いやー全然違うだろうね、きっと。
って思ってる。
そういう着地点、明確な着地点みたいなのは提示できないけど、こんな感じでしたっていう回です。
ポッドキャストの振り返り
いやー間違いないわー、てかそろそろ1年経つからなんか振り返り会もやってみたいね、改めて1年経ってみてみたいな。
あ、そうね、なんかその、2024年がどうこうっていう意味じゃなくて、このポッドキャストをやって再開して、1年もうすぐ経つので、その1年を通してどういうふうな変化があったのかっていうのをそれぞれで言語化して整理するのは面白そう。
ね、なんかちょっとやりたいなーなんて思っちゃった。
やりましょう、それはちょっとおいおい、12月ぐらいのエピソードにするのがきれいだね。
いいですね、いいと思います、いいと思います、賛成です。
はい、じゃあ今日はこのぐらいにして、
うん、いいと思います。
はい、じゃあここまでね、聞いてくれた皆様ありがとうございます。
ありがとうございました。また来週ね、お会いしましょう。
はい、ではまた来週バイバイ。
番組への感想や話してほしいテーマ、2人に聞いてほしい悩みなど、どんなことでも構いませんので、概要欄にありますフォームからメッセージをお送りください。
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では次週またお会いしましょう、バイバイ。
バイバイ。