1. Cra出しRADIO 工芸とカルチャー
  2. S1 ep10 拡張していくアウラ ..

コロタイプ印刷編最終話。複製技術であるコロタイプ印刷で刷られたものであるにも関わらず、クリムトのレプリカにオリジナルが持つ唯一性=アウラを感じたという前回のお話から、アウラってそもそも何のこと?私たちは何にアウラを感じてるんだろう?など、印刷、映画、音楽、工芸など様々な例を挙げながら考察しました。

今回の話題:
ヴァルター・ベンヤミンがアウラ論を発表したのは多くの印刷技術が発明された時代/写真が発明され時間を複製できるようになったことで世界の見え方が変わった?/アウラの凋落=アート作品の神性が剥ぎ取られて民主化する/ゼロ年代のフェス文化の勃興は聴衆が録音物にはないアウラを求めたから?/NFTの登場はデジタルにも唯一性を求める動き?/アウラ=オーラ=息、風、時間とともに過ぎ去るもの/映像のサブスクリプションサービスが充実する中でも映画館に行きたいという感情/映画館の中で複数の人と時間を共有することが重要?/『風の谷のナウシカ』フィルム老朽化による最後の上映会/複製技術の精度が高まり劣化しにくくなると、ひとつ前の時代の複製技術にアウラを感じるようになる?/伸び続けるアナログレコードの売上/可聴領域外の音も再生するアナログレコード/トレーニングすることで細かな差異を知覚する能力が上がる?/AppleMusicのロスレスの音の良さがよく分からない/生々しいものへの渇望=工芸に注目が集まるのも必然?/「手作りの良さ」を謳わずに工芸の魅力を伝えるには?/金属をテキスタイルのような質感に見せる金属工芸の魚子は手でやるからこと出来る?/Big Thiefの新ALとRCサクセション / シングル・マンのジャケが似てる/Big Thiefのジャケイラストの解像度が足りてない/アナログレコードのジャケはブロックノイズでがち/ブロックノイズが後の時代から見るとアウラを感じるものになるかも?/RadioheadのThe Bends〜Kid A時代のデジタルノイズをあえて表現に取り入れたアートワーク/描いた絵をコピー機でコピーして写真を撮って映画にする/その工程で起こるコントロールできない質の変化を求めている?/ConCraでやっていくプロジェクトではモノへの感覚がどう変化したかを語り合っていきたい/その日の湿度などを感じ取って機械の調整を行う職人のすごさ/

参考図書:
ベンヤミン「複製技術時代の芸術作品」精読|多木 浩二  (著)
https://onl.bz/DDYmPza

Big Thief / Dragon New Warm Mountain I Believe in You
https://onl.bz/rAd7CGg

RCサクセション / シングル・マン
https://onl.bz/gXQWuqq

Radiohead / The Bends
https://onl.bz/LskYiez

ConCraプロジェクトの詳しいコンセプトは公式サイトへ。
https://concra.jp

そしてここに掲げているコンセプトのもと、実際にモノを作っていこう人が集まるオンラインコミュニティであり実験場 ConCra Collective(コンクラコレクティブ)が2022年3月1日にオープンしました!
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パーソナリティ:岩田篤 蔡海 福原志保

00:01
CRA出しRADIOは、使わなくなった大切なものを、さまざまな工芸技術で生まれ変わらせるコレクティブ、コンクラのメンバーが、分かりたいけど勉強しにくい工芸について、見たり調べたり、作り手のお話を聞いて、時に脱線しながら、みんなと一緒に考えていく番組です。
コンクラのしほです。
岩田です。
海です。
こんばんは。
何回やっても慣れない。
今の一番スムーズな感じだったような気もします。
私がじゃなくて、自己紹介の時の名前言うのタイミング、順番何も決めてないから、誰が言うのか。
その空間を岩田さんが編集で端折ってるから、この話の意味もわからない可能性はあります。
そのまま、今回残してもいいですけど。
いろいろはみ出しちゃって、第3回となったんですが、コロタイプ印刷編ということで、もともとは1回に収まるつもりで僕、投げたんですけど、到底無理でしたね。
ちょっとおさらいをすると、1回目が印刷の歴史みたいなことをバーッと話して、今に至るオフセット印刷に至る印刷の原理みたいなお話をして、
コロタイプ印刷の話を2回目にしてっていうところまで進みまして、
クリムトのレプリカを見たわけなんですけど、コロタイプ印刷で印刷された。
それに僕が感じたのが、オリジナルな存在感みたいなもので、当時僕がノートに記事を書いたんですけど、そこではAURAっていう風に表現をしたんですが、
単にいわゆるレプリカっていう大量にあるものじゃない、これしかないっていう独特の雰囲気みたいなものを、その時はAURAと表現したんですけど、
よくよくAURAっていう言葉の意味とかを遡ると、僕も全く本とかも読んだことなかったんですけど、どうもバルター・ベンヤミンという人が最初に言ったらしいみたいなことでですね、
ちょっとそんな本とかも読みつつ、ちょうどこのバルター・ベンヤミンっていう人が生きた時代がここまでの2エピソードで話してきたコロタイプ印刷とか、
03:12
アミテンとかオフセット印刷とか、そういうものがわーっと世の中に出だした時代とちょうど重なるんですよね。
だからその時にベンヤミンがそういう技術が世の中にバッと出てきた時に感じていた感覚と、今僕たちがその時代のものを振り返ってみた時に感じる感覚っていうのが同じなのか違うのかとか、
複製技術みたいなことと工芸みたいなこととの何か線を引くものというか、あるいは混じり合うものとか、その辺のことを考察できたらなというのが、このコロタイプ印刷編第3回、ここで終わらせたいですけど。
一番組作れちゃいそうだよ。
なので、コロタイプ印刷僕も全然逆に知らなくて、岩瀬さんの丁寧な解説で、すげーってことがわかったんですけど、
だからどっちかというと、絵の具で絵を描いてた幼少期というか、普通に学校で過ごしている頃と、あと僕は大学以降とか仕事で色を扱うようになって、最終的には入稿物にするっていう色の扱い方について、
常にCMYK化するっていう前提に頭が支配されてるっていうか、それの歴史はどこなのかっていうのが、きっと岩田さんのおっしゃっていたコロタイプ印刷はどっちかというと、
版を作るのも、絵の具を混ぜるような感じで色を出す、あれに近いんだろうなっていうのが、ちょっと前回までのお話で見えてきたなっていうふうには思います。
そうですね、改めてやっぱり印刷の技術から、どういうふうに色の構成とか表現ができてたのかって説明を受けて点でCMYKで、4色で点で表現されてたっていうのって、今でいうモニターも同じ構造だから、
私たちの今の表現っていうのは、モニターで起きる表現っていうのは、やっぱりCMYKに支配、RGB化に支配されているんだっていうのが、改めて考えると、
コロタイプ的な表現って、絵の具もそうだけど、他に何なんだろうとか思ったり、あとコロタイプの構造的なことをちょっと想像したら、まるで植物の日だというか、植物とか、
06:12
顕微鏡で見た植物の、ズームしてみたときに日だとかがあったりして、そういうわりと構造的な形が色とかを作るっていうのって、結構自然界では、例えば、
蝶々とか、青い蝶々で、モルフォ蝶とかって蝶々の羽のところに粉があって、それが光をミラーリングになってそういうふうに見えるとか、そういうの聞いたことあるんですけど、
それに似てるんだなあなんていう感じで、まるでバイオロジカルな構造をしているのかしらっていうのをちょっと妄想しながら聞いてた回でした。
しかもあれなんですよね。卒業アルバムぐらいに適している1000部ぐらいのがちょうどいいんでしたっけ。だから、唯一性っていうのは、大量生産物に触れすぎた我々の感覚で言うと唯一性なんですけど、
中量生産とかぐらいの、ちょうど間ぐらいの複製技術っていうことなんですよね。このタイプ印刷はわからないですけど。一応ショーロットではあるけど、一応複製技術ではあるというところですよね。
そうですね。やっぱり世の中に同じ情報とか同じ絵画なり写真なりっていうのをルフさせようと思ったときに、やっぱり最大1000部とかでは足りなくなってきて、じゃあどうしようって。
たぶんそれは例えば、戦争もいろいろ起こった時代だし、例えばプロパガンダとして何かバーッと発信したいとか、いろんなニーズがあったと思うんですけど、その中でエンジニアリングとして一番ブレずにやりやすい方法っていうのがアミテンっていうものとオフセット印刷っていうものの組み合わせだった。
ひとまずはその時の最適解としてはそれだったっていうことなんだろうと思うんですよね。
今の視点から見ると、海さんおっしゃったように、コロタイプ印刷の1000部ぐらいのロットってギリギリ大量生産とは呼べないぐらいのボリュームに感じるんですけど、
09:07
ベンヤミンの話にちょっと戻るというか、話をすると、まずやっぱり写真が発明されて、常に動いているそこの風景の一つのシーンが固定化されて複製されて、
それが現像することで複数枚の写真が作れるっていう風になったっていうことは、やっぱりそれ以前と以後で世界の見え方みたいなものが大きく変わったんだろうなぁと想像するんですけど、
僕がそのコロタイプ印刷を見た時に感じたオリジナルな雰囲気みたいなものについて、アウラっていう言葉を使ったんですけど、
なんかそもそも本当に僕つい最近までだからベンヤミン知らんくて、海さんが僕のノート見てベンヤミンの本読み直しましたって話して、あ、そうなんやベンヤミンって人が言ったんやって、それで知って本読んだって感じのそのぐらいのレベルなんですけど、
そういう僕もなんかさらに要約をした本とかを読んでるんで、
僕も要約した本を読んでるんで、誰もオリジナルに当たってないっていうこの状況ですけど、
私日本語で読んでない。
あ、そうなんですか。
それ一番、
言語に近いですよね。
いやいや、どうだろう。
意外と日本語って割と忠実に、
オリジナルの言葉をちゃんと使おうとしたりとかして、
変に解釈されてなかったりとかするから、
日本語で読む方がはるかに難しいです。
そういう話ではありますよね。
で僕はちょっと要約本を読むっていう。
そう、だって私日本語も持ってるんですけど、読んだらよくわかんなかった。
まあ、あれですよね。
芸術感とか、
唯一性とかその場限りのっていうものに対しての、
何て言うんですかね。
価値っていうところから、
例えば映画とか写真とか、
たくさんのものが、
アートとはいえその唯一性じゃない、
複製できるものに対して、
もうアートって言うとしたら、
人間の価値とか価値観はどういうふうに変わっていったのかっていう話。
だから僕が一番勘違いしてたのは、
12:01
ベニャミンがアウラの調楽っていう言い方で、
表現したのは、
複製技術っていうものが世の中に、
社会にあることで、
人間の世界の見え方が変わるっていう話なんですよね。
多分、要約すると。
そうですね。
だから、
これは複製することができるのであるっていうことを前提としたものの見方っていうのは、
それ以前の見方とは違って、
アウラの調楽っていう言葉で言ったのって、
別にそれを否定的に捉えたわけじゃなくて、
むしろ、
例えば、
1個しかないアートの特権性が失われて、
アートが民主化されるみたいな、
どちらかというと、
ベニャミンの原著の日本語訳とかも読むと、
最初にマルクスの話してたりして、
だから結構、
アートが民主化される神のものみたいな、
芸術が神のものであるみたいなものから、
もっと民衆の手にそれが渡るんだよっていうことを結構言ってたりするので、
ああそうかっていう風に思ったんですけど。
僕らはだってこの時代に生きてて、
映画が芸術じゃないとかって言われても逆にピンとこないですもんね。
そうですね。
普通に芸術じゃないかなとか思うし。
あと、やっぱりそのアウラの話面白いなと思って、
これちょっと脱線しちゃうんですけど、
2000年代以降に、
iPodとかで音楽を聴き出して、
それで、
ジャケットとかに触れる機会がどんどんなくなってたんですよね。
音楽を聴く時に、そもそも物として持ってるってことをなくしてて、
そうなったらどういうことが起こったかっていうと、
フェス文化っていうのがすごい没効してきて、
やっぱりフェスっていうのはライブなので、
ライブの一回生みたいなことに触れに行くっていう、
音楽のライフスタイルみたいなのが聞き手にとってできてきて、
なんていうんですかね、
ちょっとまた音楽に例えても、
もともと録音物は複製芸術だったんですけど、
それの意味の置かれ方がちょっと変わったなっていう気がちょっとしたんですよね。
昔はやっぱり所有欲というかそういうのもあったし、
かといって当然一回生っていうことはあんまり深く考えずに来て、
15:03
好きなアーティストが全国ツアー回って来た時に、
ようやくちょっとそれにタッチできるぐらいな感じだったけど、
なんか別に野外フェスとかだと、
気に入ってるバンドが演奏してるとも限らないけど、
その場の空気感を楽しむし、
その場の空気感っていうのはその一回生みたいな、
その日その場でしかないものっていうような感じが出て、
すごい変わっただろうなっていう気はちょっとしてました。
さらに言うとなんか面白いなと思うのは、
デジタルのJPEGとか動画ファイルとか、
そういう複製可能なもののアートに対して、
逆になんかこう優異性をつけるためにNFTを付与するっていう、
昨今の流れとかを見ると、
結局ベイヤミンが言ってた意味が変わってくるっていうところが、
その優異性にまた戻るのか戻らない。
僕らはなんか失われてそうな気がするんですけど、
なんか優異性っていうことに結構こう、
また執着しだす時代が来るのか来ないのかっていうのは、
なんかこれはちょっとNFTの話は別の回でもやりたいなとも言ってるんですけど、
ちょっとそんなことを考えるベイヤミンでした。
なんかフェスの風景が、
ちょうどベイヤミンがアウラについて言った描写とすごい重なるんですけど、
今手元にあるやつで、
ベイヤミンが写真少子の中で言ってたところの引用なんですけど、
一体アウラとは何か。
時間と空間とが独特にもつれ合って一つになったものであって、
どんなに近くにあっても遥かな一階限りの現象である。
ある夏の午後ゆったりと憩いながら地平に横たわる山脈なり、
憩う者に影を投げかけてくる木の枝なりを目で追うこと。
これがその山脈なり枝なりのアウラを呼吸することにほかならない。
完全に朝霧ジャムの風景が浮かんだんですかね。
完全にフェスの風景ですね。
もともとアウラって日本語だとオーラって言われるから、
ドイツ語を読みしてアウラって言ってるんだけど、
息とか風とかそういう意味なので、
時間と共に過ぎ去っていくっていう意味では、
そこに留めることができないっていう意味でもあるから、
なんでその弁護民楽、その作品っていうものが、
18:03
例えば常に見られる状態であるのか、
いつでもどこでも見られる状態であるのか、
それともある一定の条件において展示をするっていうことをすると、
価値があるっていうのかっていうのがまた違う差を言ってたと思う。
確かに岩田さんは京都の近代美術館で見たんですけど、
結構美術館を一つの神殿みたいな施設と例えたときに、
やっぱりこのタイプ印刷の栗本が、
やっぱり高豪しくちゃんと見えるかどうかみたいな、
その場にあって、その空間と物との掛け合わせで、
一回戦みたいなアウラっていうものが、
複製芸術にもかかわらずそれを発してたのかも、
そんなことはあるかもしれないですよね。
栗本自体はやっぱり壁画をやったりですよ、
文部二派の展覧会の時の壁に。
壁でも結構天井にすごく近くて、
青いで見るみたいな形なんですよね、空間に。
それがすごい神殿的で、
モザイク風な感じにも見えるから、
多分私全然そんなに詳しくないですけど、
勝手なイメージで言うと、
教会の窓のモザイクアートを見ているような感じを、
イメージとして持つので、
そういう意味では今ここっていうところで、
それを見て感じるっていうことに、
すごい価値というか何かを感じるのが、
アウラだって言ってるんだろうなっていうふうに。
家に帰っても見れるとか、
そういうのだとまたちょっと違うんかなっていうのはあったんで、
だから別に印刷画、映画画っていうよりは、
今そこで今見れるものっていう理解ですね。
なんかヒアデアって、
ナウデンっていう、
よくドイツ系の美術界の人たち大好きなコンテストなんですけど、
多分今話聞いてて、
あ、そっかベニヤミンの方から来てたんだっていうのを、
今もやっとわかった。
今頃になってわかった。
なるほどですね。
ちょっとでも僕なんか若干わかんなくなってきたのは、
21:00
今コロナで自宅でいることが増えて、
サブスクリプションの映像配信もすごい発達してる中で、
わざわざ映画館に行かなくても見れるっていう状況の中で、
映画館にやっぱり見に来たいっていう人の話を聞いたときに、
それはやっぱり複製芸術の一種のアウラっていう感じなんですかね。
やっぱり音、映画館って、
音とか、隣の人たちの空気感っていうのが、
やっぱり大事だから、映画っていうのは、
四角い箱の中で複数の人間と同じ時間軸をもとに、
経験を共有するものであるっていうふうなことで、
映画館の黒い箱の外で、
例えば戦争が起きてようが何をしてようが、
その瞬間、その日常を忘れて、
自分の今置かれている環境、
この映画をみんなで共有して見てるっていう中で、
一瞬ちょっと日常を忘れるような非日常感を味わえるっていうのが、
映画の特徴。
映画館で見る映画の特徴であるっていうふうに言われてますね。
なんで、そういう意味では、
映画の素材そのものはコピーできるけど、
多分フィルムも何だかんだ言って、
何回も映写を聞きかけてたらダメージが起きるので、
一回生とまで言わないけど、
デジタルみたいにいつでも同じクオリティで見えるってわけではないかなって。
どっかの東京の映画祭で、
風の種のナウシカのフィルム老朽化による最後の映写ですって、
見に行った気がしますけど、
そういう意味で言うと、
そういうやれた感じは一種のアウラだったかもしれないですね。
ジャギってるなみたいな。
劣化したみたいな。
確かにな。
やっぱりアウラ自体の意味は変わってるんですかね、今とかって。
ベイヤミンがそうやって言うと。
そう言われるとあんまり変わってないかもですね。
だって別に生きてりゃ時間流れてくわけやし、
一回生のものだらけですもんね。
そうなんですよね。
Netflixで動画見てようが、
Spotifyで音楽聴いてようが、
それは何回も再生できたとしても、
その時に見る映像とか音楽なりのシチュエーションはその一回きりっていうのでいくと。
だから複製技術っていうのが、
24:00
どんどんその複製の精度が高まって、
さらに何回それを再生したりコピーしても、
劣化しないみたいな状況になりつつある、
ほぼなってる時に、
一個前の時代の複製物により一回性を感じるみたいなところってあるような気がして。
例えば、かなり世界的に音楽がストリーミングサービスでもほとんど聴かれるようになった中で、
アナログレコードの売り上げってずっとここ数年右肩上がりで。
でもCDはそうはなってなくて、
あくまでアナログレコードとか、
あと一部カセットテープとかね。
さっきのしほさんのおっしゃったのとまさに同じなんですけど、
フィルムと同じで、聴きまくったらどんどん劣化していきますよね。
カセットテープもアナログレコードも。
それらが社会に登場した時はもうすごくハイクオリティな複製物だったわけですけど、
今のデジタルコピーで劣化しない時代から見ると、
やっぱり自分が聴いた後が残るものみたいな風に見える。
そこがオフセット印刷時代に見るコロタイプみたいな視点ともちょっと違うんですけど、
それはまた別の文脈が、コロタイプの方が高精細だったみたいなそういう話もあるんで、
ちょっとイコールではないんですけど、
今の技術をベースに見た時に過去の技術を見ると、
何か一回性みたいなものをより強く感じるみたいなのって結構ある気がするなと思ったんですよね。
たぶん、レコードとかって人間の過聴領域っていうんですっけ?
聞こえる範囲っていう以外の音も入ってるって聞いたことがあって、
デジタルってそういうのがちょっと抜け落ちちゃっているっていうのも聞いたことがあって、
あんま原理的なこと詳しくないからわからないんだけど、そういうふうに。
レコードを聞いてる時に、やっぱりレコードっていいなっていう人に、
なんでいいと思うの?とか聞いて回ってた時期があったんですけど、
その時に過聴領域以外の音も実は音として認識してなくて、
他の感覚的に認識してるから深みがあるんだみたいな説明を受けたんですね。
27:01
コロタイプ印刷もたぶん、自分が見える範囲っていうのを超えた何かすごい詳細なものがあって、
それが深みを求めた。
確かにそこは似てるかも。
それ自体ってたぶんアウラだと思うんですよ。
その一回性だけっていうよりはどちらかというと、人間が言語化できなかったりとか、
何か複雑な環境下において、空気感、見ている状態とか、
物としての一個とかオリジナリティっていうよりは、
展示されている状態を見て、そこで何を感じるかっていうことだったと思うので、
そういう意味では情報量がすごく複雑なマトリックスになってある状態をアウラっていうふうに言ってるのは、
それだとすごく私、クリムトンのコールタイプインサート見てないから本当に想像で言ってるんですけど、
何か自分が今まで見てきたものと違うものだっていう感じだけれど、説明できなかったみたいな。
あと岩田さん絶対、そうは言ってもそこそこ性能のいいオフセットの擦り上がりとかも仕事柄を見てた上で、
おそらくCMYKとかの4半には収まらんだろう、半で擦った、
しかもその色も多分人間の目で合わせてやったっていうようなコールタイプの色の出方とか、
発色みたいなところで感じるところもきっとあるんだろうなとは思いますけどね。
多分トレーニングかなりされてるから気づきやすいんじゃないですかね。
それはそうだと思いますね。
音だって音楽だってやっぱり聞いてたりとか、スポーツ選手もボールの球が止まって見えてるみたいなのってやっぱりトレーニングして培われるものだから、
そういう意味では本当に人間の可能性っていうのってまだまだ全部分かりきってない中で、
見たり感じたりするものっていうのをどうやって他の人にまた同じように伝えるんだっけみたいな、
なんかクオリアみたいな話になってきちゃったけど。
農家学的なもの。
でもその再現性っていう話で言うとやっぱりそこも疑わしいじゃんって思う。
めっちゃ思いますね。
ちょっとこの間この3人でも話したんですけど、僕Apple MusicのLosslessっていうのが出てきた時に、
30:03
SNSでAppleの音の良さがやばいみたいなのがすごい語られてて、
聞いて俺もやばいくなった気がしたって本当は言いたいんですけど、
ぶっちゃけ分かんない。
そこまで良くなったかどうかすら僕分かんないことを言うと、
そんなに大したことない耳なんじゃないか自分はっていうのはちょっとあるはありましたね。
だからレコードの過剰領域の、
コロタイプが目に見える以上の精度によって印象が違うっていうのは、
僕はそれは体感としてあったんで、かなり納得なんですけど、
ただ僕はさっき塩さんおっしゃったように訓練されてるんで、
アミテを見たりっていうことに対して、
だからそこに対しての感覚が鋭敏なんで多分そうだんですけど、
僕耳はあんまり良い自覚ないんで、
レコードの過剰領域の外の感じみたいなことはよく分からんのですよね。
トリビアとしては知ってるけど。
全く僕も一緒ですね。
カッコつけてはやっぱりレコードいいなとか言いたいんですけど、
それで買って聞いててやってるんですけど。
話ちょっと変わっちゃうかもしれないんですけど、
ネズミとかを追い出すための、
すごい高音の音を発するやつとか、
よくビルとかの入り口とか、
ゴミ捨て場とかに置いてあるの、あれ聞こえるんですよ。
そうなんですね。
すごい痛いっていうか、
針で耳の中トントンされてるみたいな感じで。
めちゃめちゃ過剰領域広いじゃないですか。
高いのだけだと思うんですね。
お気の毒に。
そうですよね。
銀座とかも結構しんどくて、歩いてると。
結構あるんですか。
あります、かなり。
ビルの下とかについてるんですよね。
銀座は宝石屋さんの前とか通ると、
しかも聞こえるって感覚より、
フィジカルに耳の中にトントンされてるような感じもするし、
それ自体が前を通るから、
自分の耳も通り過ぎるんですけど、
すごく立体的な感じがするんですよ。
レンダリング、空間性を感じるから。
言ってることはわかるんですよね。
でも僕そうなるのって、
ハイの刑事さんとかのノイズのライブとかに行った時に味わうやつなんで、
鼓膜がトントンされてるような感じですよね。
これは日常的には僕はないですね。
私、アルセレクトロニカとか行って、
33:01
やっぱり耳栓してます、そういう系の。
ノイズ系。
ノイズ系、しんどすぎて。
わかりますよ。
それは日常に別にいらないと思います。
街中歩いてる時とか。
それは聞こえたからって言って、
じゃあ聞こえ方がCD-ROMとレコード違うの?って言っても、
ちょっと違う感じするけど、
正直そんなにコーツ付けがたいというか、
ただやっぱりコンサートとかって皮膚でも音の振動を感じたりとかするから、
そういう意味ではもっとリアルスペースで音楽をしてもらった方が全然違うなっていうのは。
でも何かいずれにしてもやっぱり、
生々しいものとかそういうものっていうのは、
僕らは今の時代にすごい、
特に人と会うのもなくなって収録すら画面を見てやってますけど、
どんどん生々しいものに対する渇望感っていうのはすごいあるなっていう気はしていて、
生々しいものはやっぱりその場の空気感とか常に同じでないものとか、
一回生とかそういうような捉え方になってくる気はするんで、
工芸とかに注目が集まっていくのも必然ちゃ必然なような気がするんですけど、
いずれちゃんと調べたいとは思ってるんですけど、
工芸の良さを言うときに、
手作りの良さとかそういう売り文句を使わずに説明するにはどうしたらいいんだろうってずっとずっとずっと考えてるタイプ。
なんかめんどくさいタイプの僕なんですけど。
どこだっけ、鳥取の渡辺美術館、刀とかを持たせてもらったときに、
ものすごいちっちゃな、
点々で覆われて、
七甲タカネの。
七甲タカネで、それがびっしり並んでるからまるで鉄器スタイルの、
ひもで、ひら組ひもで結んだような感じになるんですよね。
見えたんですよね。
須藤さんとかもそういうの作られてて、まるでぱっと見鉄器スタイルが貼ってあるような一瞬、
そういった錯覚を得るんだけど、
質感で触ると、あれ、これ違うなみたいな。
そのときのなんか、ん?っていうのはやっぱり、
機械ができるからとか、手ができるからっていうのとちょっと違った話な気がしますね。
36:07
機械だとどうしても均等的にしかプログラミングできないから、そのセッティング。
わざとちょっとずらすことで、その鉄器スタイルとかオーガニックさが、どうしても鉄器スタイルってずれるので、
あとシュリンクするんですよ。
湿度とか乾燥って縮んじゃったりするんですよ。置いといているだけで。
だから作った後も生きて呼吸しているみたいな感じなんですけど、
金属ってそういうふうになり得るんだ。
感覚としてなれるんだっていうのは気持ち悪い感じは見てするから、
そういうのを工芸で見ると、そういう欲望。
本来だったら素材としてできないはずなのに、
存在しないような存在感を作りたいという作り手の欲望を感じるっていう。
それを本当に工芸で見つけると、いいもの見つけたみたいな。
ゾッとする瞬間っていう感じですよね。
昔デッサンとか勉強していた時も、
工業製品をデッサンで描くから相当まっすぐなんですけど、
定規使うと怒られたんですよね。
絶対リアルにならないからっていう理由なんですけど。
なるんじゃないかなっていう気も僕もするんですけど、
それはそういう意味があるかもしれないですね。
頭で一回認識して手を動かしたまっすぐっていうものが、
人と共有するまっすぐなのかもしれないですよね。
まっすぐな線っていう。
それはちょっと思ったりはします。
完全な複製とかのまっすぐな線とか、
今でもだいぶ手描き風の線とかも進化してますからね。
もはや一概にもいないですけど。
アップルペンとかのアプリとかでうまく線描くとまっすぐに直してくれるやつとかあるよね。
そういう人が意図したラフさとか正確さみたいなのと、
別のロジックで起きたエラーみたいなものが、
ちょっとアウラっぽく感じる、この後アウラっぽく感じるかもしれないなって思った最近のものがあるんですけど、
これレコードジャケットですけど、音声には乗らないですけど、
ビッグシーフっていうバンドの、
今年の2月に出たドラゴンニューワームマウンテンアイビリーブインニューっていうアルバムのジャケットなんですけど、
39:01
真っ白のジャケットに鉛筆で描いた動物とか恐竜とかがギター持って宴会してるみたいなジャケで、
これ見た時にこれを思い出したんですけど、
RCサクセッションのシングルマンっていうアルバムなんですけどね。
同じ白いジャケットで猫の家族が。
これ音声で伝えられないのがもったいないですけど、すごいシナプスが繋がりましたねっていう。
猫じゃなくてリス?
リスかな?わかんないけど。
イタチかな?
イタチかも。
そうって思ったんですけどね。
シングルマンは割とどうでもいいっていうか、本題ではないんですけど、
僕、これも職業病なんですけどね。
やっぱり印刷物で作られたもののアミテン見ちゃうんですけど、
アミテンというよりは、これって明らかに鉛筆で描かれた線をスキャンして、
それをデータにしてるんですけど、
それがどのくらいの精度で再現されてるかっていうことはやっぱり見ちゃうんですけど、
解像度低いんですよ、これジャケの絵が。
これ結構、割とある話で、デジタルで配信されるように作られたアルバムがレコード出た時に、
レコードのジャケ大きいんで、解像度が足りなくてちょっとブロックノイズが出てるみたいなことってあるんですけど、
ブロックノイズってわかりますかね?
タイリングしたみたいなノイズのこと?
引き伸ばしちゃうからってことですよね。
ブロックノイズってJPEG圧縮に独特のノイズの出方なんですけど、
JPEG圧縮っていうフォーマット自体が未来英語を続くとも思えないので、
このノイズの出方って、例えばこの2022年に出たアルバムですけど、
この時代のアナログレコードのジャケってこういうブロックノイズ出がちだったよねみたいなものが、
ある種のアウラっていうか、
エモい?
として、後の時代から振り返ると、すごくアナログなものとして感じられるかもなみたいなことを思って、
そういう意味で言って、やっぱりこのRCサクセションのシングルマン70年代に出たレコードですけど、
当然そういうノイズの出方っていうのはあり得ない。
まだデジタルの画像データっていうのはない時代の。
引き延ばしを想定してない。
そのRCサクセションのやつって何印刷なんですか?
42:02
これは普通にオフセット印刷です。
点々ではなくて、
編み点ですよ。
編み点で一色ずりですね。
編み点としては荒目ではあるけど、
ちょっとこれ編み点の形が変わってるな。
よしときましょう、この辺の話は。
いくらでも続けられた話なんですけど、
よく友達のプログラマーがレディオヘッドのアルバムジャケの話をしてて、
ザ・ベンズとか、デジカメが出かけた頃のやつ。
確かに、ベンズからOKコンピューター、KIT-Aの、
あの時代のレディオヘッドのアートワークは、
グリッチノイズですよね。
もはや今やってもこの感じはノノスイっていう。
前にオーストリアの作家で、
映画監督だったかな。
自分がまず一枚一枚絵を描いて、映画なのにアニメーション的に絵を描いて、
またそれをコピー機でコピーして、
さらにそれを写真撮るっていう手法をやってた。
それで全部映画ができてるみたいな、
恐ろしい工程でできてる、
狂った作品があったんですよ。
わざわざ今の時代にそんなやり方しなくてもいいのに、
そんな遠回りなことをやるっていうのは、
やっぱりそこの工程にできる何か、
自分がコントロールできない質量の変化、質の変化みたいなのを、
アウラなのか味なのかっていうところを思ってやったのかなっていう風に。
コンクラ的な話に戻していくと、
例えば岩瀬さんのストラップがあったと思うんですけど、
あれこそアルバムジャケじゃないですけど、
複製、芸術っていうかロックTシャツ、複製物をもう一回砕いて、
跡形もないぐらい組紐でやり直して再構築したんですけど、
唯一性っていう意味で言うと旗から見たらとんでもない唯一性は帯びつつ、
ただ僕はそのTシャツを買った時の軸も知らないし、
結果を写真もしくは見せていただいているような状況なので、
45:05
そこの一回性のものから感じる岩瀬さんのアウラめいたものを感覚として聞けたらなと思う。
Tシャツはもう工業製品ですけど、それが一回性を帯びたものになったっていうことの感覚の違いっていうか。
そうですね。今の話の流れで言うと、どっちかっていうとプロセスの中で完成されたところまでを見てきたので、
出来上がって手元に着ておうっていうことよりは、もっと流れで見てるので、
アウラといえばだから全部の工程っていうことになるのかな。
だから物として手元にあってああーっていうことではちょっと違う、それではない気がする。
しかもTシャツ見慣れたTシャツだしっていう、もうちょっとエイジングがされちゃってるのも自分で見てるから。
もともと持ってて新しくて忘れてて、誰かの手に渡って、それが違う形で戻ってきた時とはまた違う感覚なのかもしれないですよね。
そうですよね。僕らコンクラとかリクラフトっていうことが絶対面白いだろうっていうことが立ち上げてはいるわけなんですけど、
そういう人によっての感覚とか感情の変化みたいなのを、全員が一緒とは思わないんですけど、
そういう感覚を言い合って話を交換したいっていう欲求がすごいあるんで。
そういうのを個人のアウラめいたものにするために工業製品が改造されていくとか、
そういう感覚を当事者としても傍観者としてもずっと味わい続けたいみたいな。
いいですね。僕がコロタイプ印刷の話を投げた回もありますね。
ちょっとこのアウラっていうテーマが引き出されたのが一つ発見ですね。
私はやっぱり今回の話で思ったのは、自分が工芸に持つ興味ってどこからなんだろうっていう。
別に手仕事だからすごいとかそういうわけでもないし、
伝統工芸師の方たちとテキスタイル作ってて、機械工芸なんで手仕事なんだっけこれって思うんですけど、
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すごいなと思う瞬間って、その人たちがその日の湿度とか空気とかを入ってきて、
今日はこんな感じだって調整してたりとか、
その調整してるのが全部釘とかでアナログでやってて絶対に再現性ないんじゃないかと思ってたのに、
アウトプットがめちゃくちゃ再現性が高いとか、
そういったなんか超越したその人の技術、人間として超越した感覚を垣間見たりとか、
あとあのそうですね、昔のその須藤さんとか昔のものを直すって時に、
これってどうやって作られたかわかんないぞっていうのを、
やっぱりこう改造したりとか直したりとかする時も、どっちにしてもその作られた工程をわからないから、
やっぱりすごいサイエンティフィックな目線で解析してる、こうやったらやれるんじゃないかみたいな、
完全になんかこれバイオの実験に近いとか思って、面白って思ったっていう、
自分がこう実感の流れもあるし、そのものがどういうふうに複雑な構造でできたかがわからないけど、
逆行するっていうのってすごくこう生命の活動ではものすごい難しいことなので、
それが物質としてこうできるっていうのは楽しいなって、
そういうことをなんかこれってこういうので作られてたんですよねって話聞くとすごいワクワクするので、
それがやっぱりコンクラで面白いんじゃないかなっていう思ってるポイント。
プロセスも共有する、あるいは自分もなんか意見を出し合ったりコミュニケーションするっていう。
あとはその時代に、だからコロタイプだったらこの時代だからこういうふうに作られてただろうみたいな、
その探偵じゃないけど謎解きみたいなのが面白いなって思うんですよね。
いいですね。じゃあ結構どんな話投げてもなんかコンクラにつながるし。
相当。
相当もかけられないかもしれないですけど、とりあえず今のところは。
なのでいろんなフリーなテーマでお話ししていきましょう。
どんなテーマもどんと来いっていうことで。
そんなところでコロタイプ編はこの3回目の編結を。
以上ということで多分ここまでのエピソードで最長の回になるかなって感じですけど。
いやでも収穫がありました。
収穫がありましたね。よかったです。
よかったです。
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51:04
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そうですよね。そういうの大事。
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反応しようと思います。
というわけでどうもありがとうございました。
ありがとうございました。
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