編集をするっていうのもあって、その後冊子作ったんですよね。
今ちょうどこれが公演される頃には、
印刷がすり上がっているかも。
なんで皆さんの手元にまだ届かない状況かなと思うんですけど、
今、児玉シーンさんたちにお願いして、
児玉シーンさん、こういう名刺をいきなり言ってもあれなので。
プロデュースをお願いして、かなり濃い内容の冊子が出来上がるんですけど、
その時に翻訳をしたんですよ。話している言葉を抜き出されて。
翻訳している時に気づいた。
翻訳というのは英語に?
英語に、はい。
私には日本語のところと、体験者さんは日本語で語っているんですけど、
それを文字起こししたり、その文字を一部英訳したりしている。
そう。私多分日本語の英語のとか言うじゃないですか、
英訳どうしても出来ない言い方とか、日本語のニュアンスとかいっぱいあるんだけど、
会話が普通の会話じゃなくて、脈絡はあるんだけど、
おしゃべりしている感覚なんですよ、むしろ。
インタビューでAさんが言ったらBさんが答えてとかじゃなくて、
何かをしながら話しているという、
どっちが主役か、絵を描くことが主役なのか、話すことが主役なのかというのが分からない感じで、
それを英語にするって結構チャレンジングなんですよね。
だけどなぜかというと主語がなかったりとか、
その場にいる人の目の対話だけで出来ちゃったりとか、
身振り手振りとかもあって、でも冊子だとその映像はほとんどないから、
言葉でしか分からないので、気づいたのが親子、
娘さんとお母さんと私、3人で話したやつもあって、
3人で絵を描いて、質問を私がこうだったんですねみたいなのをすると、
帰ってくるのが母親が言ったことに対して私が返すじゃないですか。
そういうことだったんですねって聞いたら、
もう一回質問すると娘さんが母親からの質問に対して、母は?って答えるっていう。
母親からの質問だから母親に答えると、お母さんは?って言うじゃないですか。
でも母は?っていう風に言ってるっていうのに、
喋ってる時気づかなかったし、映像の時もそこまで考えなかったけど、
英訳するとめちゃくちゃ変だっていうのが気づいて、
その三角関係じゃないかに気づいたりとかして、
なんでワークショップじゃないよなやっぱりっていう。
ワークショップだったら会話のワークショップみたいになってたら絶対そう、
こういう会話の関係性できないし、なんか面白いなぁと思って。
よく言われるのは日本語の、特にそういう会話になると、
日本語って相互補完的っていうか、
僕が最後まで言い切らないものを引き継いでshowさんが喋り出すみたいなことをするから、
AさんBさんCさんっていうのを文で割っていくと、
三人で一つの文を喋っているみたいな感じになるわけですよね。
そうなんです。
だからそれ、なかなか面白い体験だったなっていうのは。
展覧会終わった後も結局なんだかんだと、
そういう振り返るっていうのとはちょっと違って、
自分の作品が違う風に、もう一回自分の再解釈する風にできたっていうのは、
今回すごい贅沢な体験させてもらったんですよね、フェローシップとして。
普通美術館とかギャラリーとかってなんかやったら、
割と展示終わったらもう撤収終わり、はい次の展示みたいな、
頭切り替えないとやっていけないので、
ですが今回はフェローシップっていうバジェットがあるから、
割と手中終わってもまだ予算の許す限りやりたいことはやり続けられるっていういい点で差し付けたりした。
予算は足りてないんですけど、一部自費で賄って。
よく出るんですよ、結局。
そういうモチベーションができるってなかなかやっぱり、
私たちはなるだけお金を無駄にしないように展示しなきゃって、
いつも常々予算っていうのをやろうっていう癖がついてるから、
自分で足出たとしてもやりたいっていうのは、
時間かけて準備すればするほどそういうのが欲が出てくるっていう。
誰でもそうだよね、形になってきたら足抵抗したい、割れるでしょうし。
かといって、別に倉田社ラジオで喋ることでもないんだけど、
もともと誰からも支援がなかったり仲間がいなくても、
僕らはこれはやろうとしてたから、
やることとかそういうのは大きな軸は変えずに、
その時の環境でやれることをやることも結構大事だよなっていうのはね。
繁語的に思ってたら。
そうですね。
職業的に展覧会をやるって、予算ばっかり頭に考えちゃうけど、
そうじゃない経験って、なかなか普段やることないから。
だから前回か前々回か、
岩田さんが配信の場作りと機材の調整と演者もやられてるようなお話してましたけど、
ライブでね。
基本的には普段僕らはそれとあんまり変わんないんですよね。
場所、場作りがあって、インストールも全部基本的に。
できる範囲でやっとこうとか、予算と自分たちのスキルと時間ですよね。
それにかけられる時間とか。
今回全部が土返しだったから、なかなかいろんな人のサポートしかもめちゃくちゃ受けてるので、
お金だけじゃないんですよね。
むしろお金以上のサポートをCCBTの人たちからもあって、相当すごい知見が。
結構展覧会も、いや無理なんじゃんとかいうのがいろいろあったんですよ。
例えば遠景の超でかいシャーレに映像を撮ってるんですけど、実はあれ水が入ってるんですよ。
シャーレって超でかいシャーレってどのくらいの?
ちょうどここにステンの輪っかがあるんですけど、ここに入る1メーター。
一応シャーレのつもりなんですけど、
デカすぎてフレーム作らないとダメだったからフレーム作ったんですけど、
意外とみんな水が入ってて気づかず、シリコンですか?とか言われて。
どう見えるかさておき、ここに全部水が入ると厚みが100ミリぐらいで、
径が1000ミリぐらいになると、どれくらい重さになるんですよね。
100キロ近く。
ダクトレールにワイヤーでつるえる重さを余裕で超えてくるんで、これどうするのって話になって。
現場で普通はちょっと無理ですよねって言ってNGになることが多いんですよね。
そこCCBTの方が、たべさんって言うんですけど、ずっとそこで展覧会の設定をセッティングしてるから、
分かってるんですよ。いろんな強度とか、できる、できないとか。
だからジグ作ってみてくれたりとかね。
いろいろやって何とか無理かもとか言ってたんだけど、つるすことができてとか。
そんなん普通ないからね。
クラガシュラジオ的な話をすると、いろんなところにいろんな専門の技術とか知見とかに携わること。
重さレベルの人がいるんですよ。
いるもんだな。
CCBTっていう団体。
シビッククリエイトベーススペースです。
スペースの名前。
あとプログラムの名前でもある。
それは東京都がやってます。
そうです。
多分岩田さんが聞かれたいのは、職人さんたちがいっぱいいる話をしてるけど、
これは誰から雇われてるんだみたいなことが聞かれたい。
東京都の文化事業ですね。
東京の街をもっとクリエイティブにすることで、
新しい都市っていう中で体験を作るっていうのを目的としてて、
歴史文化財団っていう、歴文ってみんな呼んでるんだけど、
が持っているスペースとプログラムです。
ベースって地下だからベースっていうのと、
基地っていう意味もあれば、
本当に文化の基礎っていう意味もあるんだろうなと、
多分そういう説明してたと思うし。
地下じゃなくなったからベース辞めるってわけではないんだけど、
シビックに広く開かれているってことが一条件なんですよ。
シシビティスターの話は何回もする話でもないから、
別にいいんですけど、
倉田斜ラジオ的に言うとシーズン4とかが、
例えば常くんとか、いわゆる広重の絵を表現するために、
名前は出ないけどすごい技術を持っている人がいるとか、
春田さんとか、ファッションデザイナーの名前に隠れているけど、
その脇にはすごいテキスタイルディレクターがいるとか、
そういう話はあったと思うんですけど、
そういうことがアートワークの世界にもあるんだなと思って。
銃器の作りとか、その見せ方一つとってもびっくりするぐらい技術を持たれた方と、
ガチでお仕事する機会だったので、いろいろと発見がありましたという感じですかね。
グッドジョブセンター柏さんたちがCCBTで2回ぐらいに会ったなと思った。
モイサさんもおられたですよね。
僕らの回帰中じゃないな。
グッドジョブセンターさんも何かされたんでしょうか。
やってますやってます。
フェローシップという言い方なのかわからないんだけど、
そういう意味では全然アートだけでなくて、いろんな福祉的な、
シビックに関わるものだったらね。
その一方で、これ本当に余談なんですけど、
アートが広くあまねく老若男女に開かれなきゃいけない健全性を
課されなきゃいけないっていうことは僕は絶対ないと思うので、
もっといかがわしい部分とか、表に出てこないスレ、
というような話です。
ちょっと余談になっちゃったね。
シビッククリエイティブなあり方についてしゃべっちゃったね。
いい名前だなと思う反面、やっぱりちゃんと考えていろんな多角的に見ないと、
便利だからシビックでクリエイティブって言ったらいいことに聞こえて、
予算取りやすそうじゃないですか。そこが要注意ではあるよなと思ったよ。
便利さにかまけて、みんなそれを使ったらとりあえずいいだろうみたいにならないといいなというのはある。
分かりやすく今、属者のプロジェクトを僕らやっているから、目の前に何か変わるところがあるしね。
そういう分かりやすい話じゃなくて、スーパーセルズインフィニットのもう一個のプロジェクトで、
細胞を移設して培養するっていう試みがあるんですけど、
それって結構難しくない、難しいことは前回も言ったんですけど、
法律による正義と研究倫理による正義っていうのが必ずしもシンクロしてるわけじゃないので、
シチュエーションによってどっちが優先されるかっていうのはグレーゾーンなんですよね。
あとその医療倫理、倫理でも医療の倫理。
医療の倫理っていうのは患者さんとお医者さんを守るっていう医療の倫理と、
あと研究倫理って言って、研究だから何でもしていいってわけでもないし、
研究というものはっていうものもあるし、お金もでももらったりとかするんで、
いろんな意味の倫理、研究に関わる倫理っていうのと、
医療倫理と研究倫理は主軸が違うから違うんですよ。
いいってこととダメってことがどうしても全部一緒ってわけにはならないので、
そこの私たちは橋渡しをどうしてもしちゃうんですよね。
なぜなら私は患者であって匿名性を守らないといけないという立場にありながら、
研究の方では匿名で皆さんがドネーションされたバイオバンクにある細胞を使ったりとかしてるけど、
私はそれだけじゃ考えられないものがいっぱいあるでしょっていう主張があって、
それ自体は研究なんですよ。
個人っていうものの所有、自分の細胞っていうのは自分のものだっていう所有はどこに寄贈になるんだと、
どうしても匿名じゃなきゃ扱ってもらえないっていうんだったら、
何もできなくなっちゃうんですよね。私はその時点、自分の細胞だって言えなくなっちゃうんで。
なぜそんな自分自分って言ってるかっていうと、自己、自分セルフですよね。
自分っていうものがどこから自分になるのかっていうのが概念的なのか物質的なのかっていうので、
結構概念的なことってすごい考えられて語られてるけど、物質的な細胞としての自己っていうのって、
髪の毛が落ちててそれも自分なのかとか、切った爪は自分なのかとか言ったら切れないぐらいあるんでしょう。
それが移設ってなると、体から切り離された時点で私じゃないっていう風になるんだったら、
それって匿名性も何も関係ないじゃんって言いたいんだけど、実は遺伝子っていうデータがあるので、
私っていう個人は頑張ったら特定できるわけですね。
超機密データですよね。
超機密データです。超個人データなんで、その取扱いも難しいみたいな。
そういうことを会話していくっていうのが研究でもあるし。
もちろん移設先の公開情報だから言っていいと思うんですけど、
京都大学のiPS細胞研究所のサイラっていうところがあるんですけど、
わかりやすくその研究員とかがアルファードを盗んでるとかそういうことはするわけないじゃないですか。
でもやろうとしてることは、脱法すれすれのところを本当にギリギリのところを守りながらやっていこうとしてるんですよね。
だから実は法律にすれすれのところをやっていくっていう意味においては、別に全然無関係な話ではないというか。
法に外れてるっていうわけじゃなくて、法がないんですよ。そこに対する。
だから脱法という言い方はちょっと語弊あるなと思うんだけど、
法が整備がされきれてないから倫理的に判断するしかないっていうことをやらなきゃいけない。
それが結局私たちのエラーってどこからエラーなんだっけっていうのにも繋がるから、
倫理ってすごくエラーって概念と繋がりがあって、
なので今回のプロジェクトもヒューマン・オフサム・エラーとしてやっているんですよ。
あれ、こんな話の終わりでいいんだけどね。
そうだけどね、長くなるなと思って。
一応、これを読んだら大体プロジェクトがわかるっていう冊子を配信ぐらいのときにはアクセスできるようにしておくので。
アクセスできるって、どこかで変えるってこと?
ちょっとやり方は一回考えるんですけど、
例えばヒューマン・オフサム・エラーのフォローしてもらい、DMを送ってもらったらお金と引き換えにお送りするとか、
そんな仕組みは用意しようと思ってます。
コメントくれた人。
お茶用意したみたいな。
何その家。
授業出席はいらんからツイートしてくれみたいな。
出席票とツイートが兼ねられてるとか。
ツイートなんだけど、20何回しないと出席と見なさないっていう授業に私、ギストとして出たことがあって。
筑波台?
筑波台で、みんなハッシュタグで、いやでも絶対ツイートしなきゃいけないんですよ。
お茶用意さんの名前付きで。授業のお茶用意件だから。
ってことは、マーケティングになってるわけですよ。
そうですね。
よく考えられた仕組みだな、学生使われとるなって思ったりして、もやもやは。
だから今のコメントくれたら本をあげますっていう、どういう仕組みなのかなって考え込んじゃったから。
ダメとも言わないですけど。
数限られてるからね。早物勝ちとしか言わない。
反響は正直わかんないですけど、新聞社さんとかがね、記事化してくれたりしてるから、
それを見て、ああそれ読んだことあるっていう人はちょいちょいね、おられるから。
もうちょっと知りたい人向けに、その道筋は用意しようかなと。
僕も普通に朝から日経新聞読んでたら、松尾さんが載ってて。
私たちもいつ出るとか知らなくて、そもそも記事にしてもらえるかっていうのも知らなかったから、
記事になるかもぐらいしか知らなかったんで、そのタイミングでって言って教えてもらったと。
ああいう報道系は記事チェックないらしいからね。
あといちいち言う義務もないらしいですよ、今日出しますとか。
でもあんなに書いてもらえると思わず。
いや、その時思ったのが、岩田さんからこの記事読みましたは何回か今までもあるんだけど、
京都新聞だったり日経だったりとか、何番いたい読んでるのかなって。
いや、その一つだけですよ。京都新聞と日経だけ。
京都新聞と日経はフィジカルで読む方なんだなって改めて思いました。
紙ゴミがすぐ溜まりますね。
私たち捨てられないよね、その新聞はね。
いや、正確に言うと、僕ら日経を紙で撮ってないから、バックナンバーとかを譲ってもらっている感じだから。
ちなみに、倉田市ラジオというか工芸ウォッチャー的には、
日経新聞の日曜版の真ん中あたりのページ、ちょっと紙質がいいところがあるんですけど、8ページくらい。
そこはね、結構読み応えがあるんですよね、毎週。
週末ですか?
うん、日曜。
日曜版って言ったじゃないですか。
うちのかえちゃんも確かそんなこと言ってたわ。経済だけじゃないからね。
あと、スポンサードされているわけじゃないから、結構いろんな視点で書けるって言ってたのと、日経読者なんだけど。
そういうことか。
よくも悪くも、朝日新聞とか毎日新聞って自分たちも企画するもんね、展示とかさ、美術展とかもさ。
だから、ちょっと偏りは少なめというか、書かなきゃいけないってこともないしね。
報道寄りであるってことですかね。
うん、そう。
なるほど。
そんなメディアの特性喋っててもしょうがないんだけど。
はい、そんなんで2回にわたって、ちょっと恥ずかしながら、
自分らの話をするというか。
自分たちの話をするのがね、難しいね。
いやいやいや、面白かった。
もうちょっと作品の説明までできたらよかったかもしれないけど、
散々冊子でしてるので、冊子読んでほしいと。