1. Cra出しRADIO 工芸とカルチャー
  2. S1 ep22 剣の道から靴の道へ ..
京都・西陣で日本の風土に合った独自の革靴を作るオーダーメイドの革靴工房「吉靴房」を営む製靴家・野島孝介さんをゲストにお迎えしてお送りする3回シリーズ。第二回はなぜ野島さんが靴作りの世界を志し、日本の革靴というコンセプトを見出すに至ったのか、その前半生を追いかけます。

今回の話題:
幼少期からやっていた剣道/勝てるようになって面白くなってきた/勝てるようになり過ぎて面白くなくなってきた/苦労も努力もせずに勝ててしまうことで傲慢に/井の中の蛙だったことに気付く/一度剣道をやめファッションに傾倒/ファッションの中で靴の役割が大きいことに気付く/ナイキエアマックスが大流行した時代/イギリスの高級靴を買い漁る/大学卒業後実家に戻りエクササイズ的に剣道を再開/国体予選に誘われ剣道を離れる決心/長く時間を掛けて習得する職を選びたい/ひとりで靴を作っている人は少なそうだった/分解しても分からない靴/分からない自分に苛立ち/職を見つけるより前に浅草に引っ越し/一度落とされた会社にごねて就職/靴磨き〜梱包〜納品〜職人の手伝い、なんでもやる環境で修行/靴作りの仕事をやり続けているのは「難しいから」/長年剣道をやってきたからこそ打ち出せるデザインとは/全部定番にしたい/ずっと定番になっているデザインはなぜ残り続けるのかを考える

野島孝介さんプロフィール
京都西陣で、日本の風土に合った独自の革靴を作るオーダーメイドの革靴工房「吉靴房」を営む製靴家。
1975年愛知県生まれ、静岡県藤枝市育ち。学生時代から剣道に打ち込み、24歳のころに剣道を離れて靴の町・浅草へ。浅草では女性のエレガンス靴を製作するメーカーに勤め、製造企画を担当しながら、手づくり靴の技法を半ば独学で身に付ける。ヨーロッパからの輸入文化としての「靴」ではなく、日本の風土気候や歴史に合わせて独自の靴づくりをしたいという想いから、2006年京都西陣にアトリエ兼ショップ「吉靴房」を開設。以来、伝統的な着物の帯地や、古くからある和のデザインを取り入れながら“吉靴房らしい靴”の製作に励んでいる。

吉靴房
https://kikkabo.info/

ConCraプロジェクトの詳しいコンセプトは公式サイトへ。
https://concra.jp

そしてここに掲げているコンセプトのもと、実際にモノを作っていこう人が集まるオンラインコミュニティであり実験場 ConCra Collective(コンクラコレクティブ)が2022年3月1日にオープンしました!
興味のある方はぜひお気軽に参加してください。
https://basic.motion-gallery.net/community/concra/

#concra(twitter)で感想、質問、リクエストなどお待ちしています!

パーソナリティ:岩田篤 蔡海 福原志保
00:01
CRA出しRADIOは、使わなくなった大切なものを、様々な工芸技術で生まれ変わらせるコレクティブ、ConCRAのメンバーが、
分かりたいけど勉強しにくい工芸について、見たり、調べたり、作り手のお話を聞いて、時に脱線しながら皆さんと一緒に考えていく番組です。
ConCRAの海です。
岩田です。
秀穂です。
はい、そして今回もこの方とご一緒にお話ししていきます。
キッカボーの野島です。よろしくお願いします。
ゲスト回2回目。
いやー、おもろいですね。
靴の話、まだまだそのままできそうな感じではあるんですが。
2エピソードで絶対終わらない気がするね。
もう少し野島さんのパーソナリティに迫りたい。
なんかその、なんか本当に、何だろう、この履物文化への造形の深さみたいなところ。
これが、なんか、聞きましょう。
そこに至るまでの、野島さんのちょっと老いたちが気になりすぎるっていう状態になってまして。
だっていきなり、はい、靴好きだから靴やりますっていうわけでもないじゃん。
いきなり、いかないよね。
いかないよねって。
先の前半のエピソードで、最初にプロフィール部分を紹介させていただいたんですけど、
その中でご紹介したのが、学生時代から剣道に打ち込まれてて、
24歳の頃に剣道を離れて靴の町浅草へっていうことで紹介されているんですけれども、
なんかその辺の、剣道から靴へみたいなところのお話を、まずはお聞きできるかと思うんですけど。
そうですね。剣道自体は6歳からやっていたんですよ。
自分の意思というより、親がやってみるみたいな感じだったと思うんですけど、
もうはっきり覚えてないですね。気が付いたら始めていて、
2年ぐらいは嫌で嫌でしょうがなかったという感じですかね。
痛いしね。だって頭叩かれるとか、なかなかないことじゃない?
03:00
あれ、面つけてても結構きついらしいですね。
頭蓋骨のジョイントがビリビリビリってきたのは初めて生まれて。
生まれてない人が痛いみたいですね。
ある時、小学校の3年生ぐらいの時ですけど、急に面白くなってきたんですよ。
簡単に言うと勝てるようになってきたという意味ですね、試合で。
そういうものなんだ。痛くてつらくても勝てるようになると面白みを発見していくという。
アドレナリン出ますしね。
それから剣道中心の生活であったのは確か、中学生の時もそうだし、
高校は勉強じゃなくて剣道の方で大学大学生で行ったので、中心であったことは間違いないです。
ただ、僕の中では面白くなったって言いましたけど、途中から実はそんなに興味がなくなってはいて、
これは表現が難しいですけど、誤解を恐れずに言えば、地元とか同じチームであったり同じ学校とか、
狭いエリアで考えた時に、同レベルが全然いなかったんですよ。
強くなりすぎてしまって、孤高の存在になってしまう。
自分で言うのも変ですが、今靴屋やってますけど、靴を作るっていうこと自体はめちゃくちゃ苦労したんですよ。
全然作れなくて。でも自分にイライラしっぱなしだったんですよね。あまりにもできなくて。
そのイライラする根源の一つが、剣道で全然苦労しなかったんですよね。
苦労しなかったので努力もせず。
ろくに練習もしないのに、常に地元や県大会ぐらいだったらトップクラスにいるみたいな感じだったんです。
なんだか漫画に出てきそうな人ですね。
山田とかですよね。
全国じゃないですよ。全国じゃないので、全然大したことはないんですけど、
中学生の時に個人戦で県で3位だったんですけど、県大会3位って全然すごくないというか、
47都道府県でベスト4って1かける4いるんですよね。
06:00
それが毎年いて、各競技にいると。
めちゃくちゃたくさんいるなぁと思って。
一生懸命やってもなぁみたいな感じで。
非常に傲慢などうしようもない考えなんですけど、そういう感じだったんですよ。
ただ、優越感はとりあえずあると言いますか、それなりに勝てるし。
自分のフィールド感はやっぱあったわけですかね。県道っていうフィールドは。
そうですね。大して練習しないのに勝ててしまうっていうのは良くないですけど、
自分のフィールドっていう言い方がいいんですかね。
でも多分普通に道場に通ってて、とりあえず最強っていう状態ですよね。
道学年で考えたら全くその通りで。
なのでそのライバルがいないということが、興味を失わせる理由の一つだったんですよね。
困ったことに比較的勉強もできる方だったので。
すごい文部領土だっけっていう字で言ってる。
当時の学校の教育のプログラムのことを考えたら、それに向いていたというだけの話なんですけど、
両方ともそんなに苦労しなかったんですよ。
なので非常に傲慢などうしようもない奴がいた。
成績いいから先生も叱りにくいですよね。
でも態度が悪いので。
5教科中4教科満点とっているのにオール4みたいな、そういう奴でしたね。
態度で成績つけられるのか。
そういう奴でした。だから世の中も舐めてるし、
もうわかりやすく胃の中のカワズなんですけど、
努力もしないし適当に過ごしてるし態度も悪いし、
そんな大人にならないなって自分で途中で気づいたというのが最初ですかね。
自分で気づかないよね、でもそういうのって。
でも野島さんみたいな境地に僕は何か幸か不幸が至ったことがないっていう。
自分のダメ感の方が多い人生だったので、10代の頃なんで。
その境地は想像できないな。
09:03
ないですよね。
自分がこのままじゃダメになるとかいまだに考えたことないわ。
自分がすごすぎてダメになるっていうね。
それもないわ。
すごくはないんですよ、全然。勝手にそう思い込んでただけで、
努力もしないので、本当にどうしようもない奴なんですよ。
自分に厳しい点があるからこのままじゃいかんって気づいてるわけですよね。
それないとやっぱりなかなかそういう第三者的な視点って、
自分に関して持つの難しいじゃないですか。
でも剣道を辞めてみようと思って辞めてみたら、
できることなんでもないんだなっていうことに気づいたという。
その頃ファッションにすごく興味を持っていたので、
洋服屋さんで販売のアルバイトをしていたりとか、
洋服の勉強をたくさんするようになったのが同じぐらいの時期で。
その中で、
いつ頃、その頃も何歳ぐらい?
19、20歳ぐらいですね。
なんか武蔵野剣とかに登場してほしいですよね。
ファッションかぶれの剣道家みたいな人。
あんな天才じゃないので。
剣道をやっていた記憶って自分の中で大きかったんだと思うんですけど、
ファッションに興味を持って、
ファッションの中で靴の役割っていうのが大きいということに気づいたのも
大体そのぐらいの時期ではあったんですけど。
ファッションに興味を持ったきっかけっていうか、
なんかあるんですか?
きっかけは大学の剣道部で、
新人戦って言って1,2年生が出る試合だったかな。
もう忘れましたけど、担当大会のレギュラーを決めるのに、
僕その時、大学は剣道の推薦で行かなかったんですよ。
勧められたんですけど、コーチに。
もうそんな練習したくないなと思ったので、断って。
勉強で普通に大学に行くんですか?
そうですね。勉強で行こうかなと思ったら、
高校の時の担任が、
拠点平均が高いから水泳でどこでも行けるよって言ってくれて、
剣道じゃないほうの水泳?
そうそう。どこでも行ける。
スポーツ専門クラスだったんですけど、
スポーツクラスって成績が異常にいいんですよね。
優遇されてるのか分かんないんですけど。
進路の選択肢の多さヤバいですね。高校時代の。
12:05
でもその時やりたいこと全くなかったので。
でもその前に僕、日大の附属の高校だったんですけど、
日大の附属校から日大に上がるための試験。大学の。
その試験に寝坊したんです。
めちゃめちゃ漫画ですね。
寮生活でしたけど、ガンガン電話が鳴って。
寮生活で。
ほど何か起こりましたね。
数学が得意だったんですけど、1時間目が数学のテストで、
残り10分くらいで到着して、
なのでいつもより何点くらい低かったんだったかな。
結構結果見てクスクス笑ってたというか、
すごい点になっちゃったなって言って。
で日大に行くのはやめて、
推薦でいろいろ行けるぞって言われたんですけど、
大学行きたくありませんと言ったんですよね。
働きたいですと。
早く稼ぎたかったんですよ。
ただ当時、今から25年以上前なので、
大学に行くのが当たり前みたいな。
そういう風潮の時代で、
親の方から大学だけはもう出ておいてくれみたいな。
母親の方からそんなこと言われて。
で妥協案で、夜間だったら行くと。
普通、働きながらでいいんだったら、
仕方なしに行くよみたいな。
ちょっと今喋ってておかしいですね。
なかなかでも進路の確かに、
自分が同じ場に立った時にいろんな大学に行けるのに、
全部選択肢を捨てるっていう勇気があるかどうか、聞いてて僕だったら。
興味がないものやってもしょうがないっていう感じなんだろうね。
だってほら、剣道もすごいハマったけど、やっぱり違う。
もうその時点でかなりの選択をしてるじゃない。
やっぱりそれ以上興味持ってるもんじゃないとっていうのは。
何事にも熱中ができなくて、ファッションは面白いって思ってた。
実際のところ、今は割とニコニコしてる方ですけど、
昔全然笑わない奴だったんですよね。
誰もが思春期ぐらいに直面する人間とは何ぞやとか、
15:01
自分とは何ぞやみたいな、そういうのあるじゃないですか。
あれの答えを知りたいなと思って、
歴史と哲学と宗教学にハマったんですよ。
それが17歳ぐらいの時。
そういうのを読みながらも、生きている意味ってあんまりないよな、
と思っていたのがそのくらいだったんで、
何に関してもやる気がないし、面白くもないという学生時代ではあったんですよね。
すごいですね。
ただ早く働きたいとは思ったと。
そうですね。取り急ぎ自由に使えるお金がないと何もできないなと思ったので。
大学生の時に今で言う転売を駆使して、
かなりお金儲けしていたのは確かになったんですけど。
そういったことはあまり大きらに言わないほうがいいのかもしれないですけど。
事故ですね。
そんなことをしていましたね。
ハーシャルに突然興味を持ったのは、
剣道を辞めて急に暇になったので、大学の剣道も辞めて、
暇になってうろうろしていたら、
たまたまあるお店の店長さんに、
なんで声をかけてもらったのかわからないんですけど、
アルバイトしないって突然言われたんですよ。
これ憂鬱。
お客さんですよね。
そうです。お客どころか、ただ本当にうろうろしてただけです。
すくどころか、うろうろ。
何を感じたんだろう。
笑ってないですよね、しかも。
今思えば、ファッションの業界に入れてくれた一言なので、
大きな一言だったと思うんですけど、
大学は夜だけだし、
じゃあ行きますって。
アルバイトさせてくださいって。
どんなお店だったんですか。
スーツもカジュアルもやってるようなお店だったんですよ。
DCブランドで。
スーツにも興味あったし、
ちょっと綺麗めなモード寄りのカジュアルをやってるようなとこだったので、
ちょうどその頃はそういうのが好きだったので、
ぜひお願いしますということで、
協会に入ってその店長さんにいろいろ教えてもらったという感じですかね、最初は。
いきなり。
そうですね、いきなり。
90年代ぐらいですかね。
そうですね、それが19歳の時になって。
その頃ってどんなのが流行ってたんだ。
その頃?
DCでいうと何が流行ってたんですかね。
18:03
やってるものって何ですかね。
でも一番流行ってて、僕が転売してたのは、
ナイキのエアマックスとG-SHOCKですね。
分かってきた。
その時代ね。
靴が靴本社に襲われちゃったりとか。
そうそう、その時代です。
それは高く売れたでしょうね。
めちゃくちゃ高く売れましたね。
その頃日本にいなかったのね。
やっぱり日本の人がイギリスに住んでたんですけど、
来て靴めっちゃ買ってってましたもん。
友達スニーカー屋さんで働いてたんだけど、
エアマックスとかめっちゃ買って帰ってきました。
スニーカーだとエアマックスが流行ってて、
革靴の方だとレッドウィングのブーツが流行ってるみたいな、
そういう感じ。
で、ヴィンテージのジーン、デニムが
すごく高額に取引される。
その時代だったね、確かに。
棚木剛史さんとかが熱く語ってましたよね、当時。
そうですね。
原宿のベルベルジーンとかそういうとこ行って、
ヴィンテージの何百万とかするようなデニムを見て、
買えないから、はーってため息つくやつ。
そうですね、ウラハラとかそういう言葉が出始めてた時代ですかね。
そのファッションの中の靴っていうところに
焦点が当たり始めたのは野島さんの中で、
どういうきっかけがあったのか。
まさにその頃で、レッドウィングのブーツと
デニムのセットで普段はいるんだけど、
アルバイトですけど、仕事上スーツも着たりするので、
それが三つボタンとか細身のとかモッドスーツとか、
いくつかの種類のものを着てて、
それに合わせる靴が欲しいなというので調べ始めた
というところが最初のきっかけですかね。
そこでイギリスの高級靴ですね。
6万円とか7万円以上する靴を何足か欲しいなと思って
調べてお金も稼ぎつつ、たくさん買い漁ったみたいな、
そういった時期。
モッドスーツにはイギリスの靴なんですかね。
そうですね。モッドスーツに合わせるのは
白黒の靴だったりとかしましたけど、
ラバーソールのやつとかね。懐かしいですね。
そのプロフィールでは24歳で浅草絵ってあるんですけど、
21:04
その靴絵のあくまでファッションとして
身につけるものとしての靴と、
作るっていうところまでいくまでって何か。
今話してた大学の頃って東京にいたんですけど、
僕は高校から家を出てたので、
15歳から16から家を出てたから、
大学卒業してしばらく東京にいましたけど、
1回ぐらい親と一緒に住む時間を作った方がいいのかなとか、
なんとなく思って東京で仕事を続けずに辞めて、
静岡の実家の方に2年ぐらいだったかな。
戻った時期があったんですよ。
その頃、剣道もう1回エクササイズ的な感じでやり始めたら、
地元の道場の先生が、
今国体の教科選手のメンバーがやってるからそこで稽古しろって言われて。
エクササイズレベルだなって。
いきなりガチですね。
復帰後いきなりガチですね。
だいたい強い人って昔から強いですから、
だいたい知ってる人ばっかりなんですよ。
なので割と楽しい練習というか、
久しぶりだねみたいな感じのとこに顔を出してて、
全日本選手権と国体の予選、
静岡県の予選の要項に名前かけって言われて、
これなんとなく適当にエクササイズ的な感じでやってるだけなのに、
みんな周りはね、真剣に警察の方もいるし、実業団でやってる方もいるし、
勝てるわけないと、その上の方でね。
ギリギリのところで勝てるわけない。
勝てるわけないのが分かっているところに出る必要ないよなと思って、
これはもう縁を切ろうと。
中途半端に関わってるぐらいだったら縁を切った方が、
ちゃんと自分のことを考えるだろうなと思って、
それで出ませんと言って離れたんですよね、そこでもう一回。
もうその時23だったので、
25ぐらいまでに生涯かけて追求するような何かを見つけないと、
ちょっと手遅れになるかもしれないと。
そういう危機感を持ったのがその時で、2回目の剣道から離れた時。
個人と自分の性格上、大きな組織に入っても問題を起こしそうだなという感じ。
24:06
何でもできるけど態度が悪いやつ。
そうなんです。黙ってられないタイプなので、
ちょっと不正みたいなのを見たらもうすぐ暴こうとしてしまうので、
問題を起こしそうだから個人でできそうということと、
長く時間をかけて技術を習得するもの。
それで、ジャンルがそんなに多くないものって何だろうと思って、
ものづくりの中から選ぼうと決めたんですね、その時。
それでファッションのデザイナーか、スーツの仕立て屋か、
家具屋か靴屋の4択の中から靴屋を選んだという感じです。
結構それで靴を選んだっていうのも面白いですよね。
ファッションは好きだからっていうのが分かるから、
ファッションにじゃあ行くんかなっていう。
むしろだってお洋服を買う方が仕事として多かったはずだけど、商品としては。
ちょうどミラノコレクションとかニューヨークコレクションもそうだし、
ロンドンコレクションとかもそうですけど、
日常で着れなさそうなものがコレクションに出て、
言い方悪いですけどちょっと笑ってしまうようなものがあったりするじゃないですか。
あれがなんだかなと思って見てたのと、
僕ね、たくさん人がいるところに行けないんですよね。
いわゆるレッドオーシャンのところに突っ込んでって頑張るっていうことができないんですよ。
怖がりといえば怖がりだし、失敗をしたくないという弱いところがあるっていうのもそうなんですけど、
それで誰もいなさそうなところ、
人が少ないだろうなと思うところをキョロキョロ見てたら、
一人で靴作る人ってあんまり多くないよなと思ったという感じですね。
服ってチームワークじゃチームワークですからね。
ファッションの専門学校に行ったわけでもないですし、
大学は結局聞こえがいいからっていう理由だけで法学部に行ったので。
あと親も納得させるっていうミッションがたぶんあったと思います。
聞き出し取ってもいけないんだよね、普通はね。
なので、全く関係ないことをやってたので、
とりあえず靴の作り方がわからんと。
靴屋やろうと先に決めたけど、
その順番がすごいけど。
27:01
どういうふうにできてるのか全くわからないので、
自分の履いてる靴でボロボロのやつを分解してみたんですよね。
分解してもわからない。
スーツとかTシャツとかは、ズボンとかは分解するとだいたいわかるのに、
靴はわからないんですよ。
そこで興味は湧いたっていうのもありますけど、
イラッとしたんですよ。
わからない自分に。
それで浅草が有名なのは東京に住んでたから知ってたので、
浅草に引っ越しをすぐするという。
わかんないし、わかるためにそういうエリアに引っ越したんですね。
千葉産業があるところに。
僕全然知らなかったんですけど、浅草っていうのは靴作りで有名なんですか?
そうですね。千葉産業で職業訓練校もあります。
もともとトン屋さん外だから、やっぱりそういうカバンだったり靴屋だったりとかすごい多いですよね。
そうですね。比較産業っていうのが、これは言い方を結構…
説明難しいですね。
気をつけないといけないですけど、
ざっくり言うと意味嫌われる職業の一つだったので、
そういう差別された人たちが集まるようなエリアっていうのが大きい都市にはいくつかあって、
そういうところで比較産業がまとまっている、発展したというかまとまっていると。
そういった場所があるんですね。
東京だと浅草周辺だし、大阪だと大曽根の方もいるかもしれないですけど、
今も福町とか西成とか、その辺りっていうのは今もそういう比較産業とかが残ってるエリアで、
当時はそんなことももちろん知らずに、革製品が有名なのは浅草だから浅草に行こうと。
そういう本当に単純な理由で行って、就職できないかなと。
学校に行くのもいいんだけど、働きながら覚えられたらその方がいいかなと思って。
効率いいですよね、稼ぎながら。
はい、それでいくつかの会社を面接を受けに行って、
当然門前払いと言いますか、地元の人間でもないし、
それまでの経緯でものづくりに関わったこともないし、比較産業に関わったこともないし、
30:02
やりたい理由がわからん。
動機を突かれるわけですね。
はい、もうごもっともですという理由で。
イエンディブライザーを作っている人の目の前で。
そうですね、何社かそういうふうに落ちて、
最後に受けたところで落とされる結果の電話をもらった時に、
ちょっと困りますと、僕の方から。
靴の勉強したくて浅草に来て面接に行って、電話一本で断られるっていうのは、
もう引っ越しをしてきてるので困りますと。
食い下がったんですね。
食い下がった、いい言い方すれば食い下がったんですね。
悪い言い方すると、
ごねた。
ごねたですね。
はい、それでごねて、じゃあもう一回連絡すると。
ちょっと待ってろって言われて、
当時の専務だったんですけど、
専務が創業者に聞いてくれて、面接してくれると創業者が。
行きまして、僕のことを面白がってくれて、
何でもやるって言うんだったら雇ってやると。
ということで雇っていただきました、そこで。
何でもやる一つ。
なのでその時は本当に何でもやってましたね。
靴磨きもそうだし、箱に入れるとか梱包納品、そういった作業もそうだし、
いわゆる職人さんの手伝いもやるし、
祭壇関係のところでの下請けさんに持って行ったり取り行ったりっていうこともそうだし。
何でもやるってめちゃくちゃ野島さんにとっては最高の環境だったんですね。
何でも覚えられるっていう。
僕の中では独立前提で入ってたので会社に言わなかったですけど、
全部のことができるっていうのはこんなに楽しいことはないというか、
実践で覚えられるので、非常にいい経験をさせていただきましたね。
何でもできる、そういう言葉ですけど、天才少年が次の道を探すという時に、
習得が難しそうなのを選ぶっていうのがまず面白いですね。
時間がかかりそうなものを。
なんかわかるの、結局何をやっても上手くいっちゃってたから、
面白みっていうところが、自分でできないことを克服する時だったりとかするじゃない。
33:06
最初の剣道が面白くなったら勝てるようになったっていうところもそうだったと思うんだけど、
それはやっぱりないけれど、見つけたっていう感じなんだろうね、自分がチャレンジングで。
お話を伺う限り、靴を分解しても分かんなかったっていうストレスがそのまま反動になってるような、
そんな感じも分かんないことが許せないっていう、次の極端な衝動もすごいなっていう話として伺いました。
今でも、なんで靴を続けてるんですか、靴作りをなんで続けてるんですかっていう質問をされることがちょくちょくあるんですけど、
その時に答えるのは難しいからですって答えますよね。
なんかいい、かっこいい答えですね。
言ってみたいな、なんか。
言ってよ。
そのメーカーに勤めてる時も、その不人物のメーカーですけど、
人が、他の上司も先輩も同僚もそうですけど、ちょっと手間だなとかめんどくさいなとか難しいなって思うことを基本的に受けようっていうスタンスでやってて、
時間がかかるものを僕がやるから、それ以外のことを全部進めちゃってくださいっていうふうに周りに振るという仕事のやり方をしてました。
僕にとっては全部勉強になると思ったので、そういうやり方で。
今はもうなくなってしまったんですけど、そこでその創業者の相談役が入れてくださらなかったら、今みたいな形で靴作りをしてるってことはなかったんじゃないかなと思うので、
本当に感謝してるというか。
あのきっかけがなかったら何してたでしょうね、本当に。
何だろう、出会いももちろんあったと思うんですけど、何か面白いじゃんっていうふうに、面白いから入んなよっていうのってやっぱりその人のアンテナという感覚があった。
あるし相性もあったと思うんですよね。
しかもですね、これは辞める直前に知ったことなんですけど、6年半伝えて。
本当に辞める直前に知ったことが、最初社長で途中から相談役になった創業者の息子さんが僕と同じ名前だったらしいんですよ。
しかも、もちろん後を継がせる気持ちはあったんでしょうけど、亡くなってるんですよ。
亡くなった年が僕が面接に行った年だったみたいで、年齢が。
36:00
それを後から聞いてもうびっくりして。
そんなことがあるんだって。
そうなんです。
聞いてて鳥肌立ちますね、今。
僕もだから本当に辞める直前だったらね、なんで今そんなこと言うんだろうって。
今のタイミングで。
言い方も分からんかったんかなという。
お前を息子のように思っとるぞーとか言いたくても言えないようなセリフなんじゃないですか。
分かんないですけど。
辞める時に相談役もそうだしジョンもそうですけど、お前は幹部にするつもりでいろんなことやらしてたのにって言われて、
本当に申し訳ないなと思いながらもちょっとやりたいことを優先しますって言って、
背中を押してくれたので。
本当にあれがなかったら今靴屋になってなかったなと本当に思いますね。
僕もその会社を辞められるタイミングではもうすでに今のキッカボーさんのコンセプトとかデザインとかっていうのも
かなりご自分の中で固められてたんですか。
そうですね。
入社してというか業界に入って1年ぐらいいろんな仕事をしてみて勉強、いろんな靴のことも勉強してみて、
そもそもテーマにしているブランドが一つもないなと思って。
なので、そういうテーマにしようかなっていうのはもうだいぶ初期の頃から思っていて。
理由の一つは僕デザインの勉強とか全くしてないので、それこそケンドーしか知らない小僧だったので。
だからデザインを考えるっていうこと自体、そもそもデザインって一体何なんだろうこの言葉はっていうところからのスタートだったんで。
デザインを考える、だけどそれって自分の中に培ってきたものからじゃないと形にならないとか出てこないから
そうなるとケンドーを生かす以外に方法がないなぁと思ったんですね。
なので日本で生まれ育ち、国技とも言えるような代表する武道であるケンドーを20年以上やっていて
突然靴を作るという方向になったということはこのコンセプトでやるべきだというか。
外国人が日本をテーマにシーズンでデザインイメージを作る人もあったりするでしょうけど
39:03
ずっと一貫してやるにはバックボーンとしては6以上の人に出会わないんじゃないかなと思ったんですよねこのテーマであれば。
なのでその1年目、2年目になってなかったと思うんですけど、1年過ぎた頃にそれに気づいた時にそのテーマを出す人が出てこないか。
その後の5年半ぐらい出てこないか。ずっとビクビクしながら自分のデザインをコツコツ作っていったので
今でもたくさん作っている革の造りとかそういったものはもうその当時から作り始めていて
長いですね。息が長い。
全部定番にしたいっていうのがあったんですよ。
ファッションのサイクルって早いので。
ステープル化したいってことですよね。
早いくせに10年ごとぐらいまた戻ってくるじゃないですか。
確かに。
だったらそのまま留まってて選ばれる定番になった方がいいんじゃないかって思ったんですよね。
それは素晴らしい視点ですよ。今やっとみんなそれに気づいてきてステープル化することが大事だっていうように言ってますね。
ステープルって定番って意味なんですけど
なんでそれ大事かっていうとやっぱり売れなくなっちゃうとストックで残っちゃうし
それをセールで安くして売るっていう方法もあるんですけど
ハイファッションだったりとかブランドってブランドの価値を守らなきゃいけないから
セールとかやってしまうとブランド価値下げちゃう可能性もあるじゃないですか。
だからすごいハイファッションだとこれ一時すごく問題になったんだけど
なんかこっそり燃やしたりとか
セールをしないがゆえに
あとラベルを切って売ったりとか
なんかとにかく裏で、全部のブランドがそうしてるとは言ってないけど
映像として残っちゃってたりとかしてそれも問題になって
それはやっぱり定番というか
サイクルとしてこのスタイルだともう来期10年も売れないんだったらどうするの
このストックっていう状況
資本の原理でとブランドの戦略としてそうなる
ハイブランドに関しては
常産のブランドに関してはそんな長く
もっとハイサイクルで買っては捨てて
買っては捨ててってやってほしいわけだから
42:01
もちろんその中でも定番っていうのはあるけど
ずっと同じTシャツを買い続ける人は
スティーブ・ジョブスみたいな人とかいるだろうけど
それもノームコアみたいなのが一時に流行ったけど
やっぱりそれとまた違う定番性っていうものっていうのが
本当に大事なんだよねっていうのは
ここ数年みんなで話している内容ですよね
たまたま革靴を勉強したので
革靴のスタイルというか
基本的な形っていうのはほんのいくつかに集約されてるんですよね
例えばストレートチップっていうものであったりとか
内バネとか外バネっていうものであったりとか
パンプスっていうものであったりとか
それこそゾーリもそうですけど
ほんのいくつかのデザインのジャンルといいますか
フォーマルだったらこうとかカジュアルだったらこうとか
それにはどういう理由があるかっていうのが決まっていて
その中で生き残っているずっと定番になっている
デザインというか商品ってあるので
それはなぜ残っているのかっていうのを
自分なりに考えるようになったというか
ちょっとそのあたり深掘りしたいんですけど
そろそろお時間でして
さすがです
ずっと聞いてられるし
これ私お酒飲んでたら何時間でも聞いておしゃべりしたいなって感じですけれど
じゃあ次のエピソードでちょっと深掘りさせていただいてもよろしいでしょうか
やっぱり2エピソードじゃ無理だった
ということで野島さんゲスト回はまだまだ続きます
ということで番組の感想は
質問なども受け付けております
コンクラコレクティブもよろしくお願いします
というわけで引き続き野島さんよろしくお願いします
よろしくお願いします
ありがとうございました
44:36

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