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  2. S4 ep5 テキスタイルディレク..
2024-07-30 47:54

S4 ep5 テキスタイルディレクターが駆け抜けた70's - 80's ゲスト:アンファンテリブル・原田晶三(前編)

シーズン4最初のゲスト回でお呼びするのは、番組当初から福原志保が切望してきたゲスト、アンファンテリブルの原田晶三さんです。
テキスタイルディレクターとして長年日本の(だけでなく世界の)ファッション業界を縁の下で支えてきた原田さんの半生から最新の取り組みまでを聞く大変貴重なインタビューとなりました。
初回はテキスタイルディレクターの仕事とは?というところからキャリア前半までのお話。テキスタイル、ファッションに関わる方は必聴の回では!?
原田晶三さんプロフィール
八王子を拠点とするアンファンテリブル(恐るべき子供達)の代表取締役。長年に渡りテキスタイルディレクターとして、ベネトンの企画コンセプトやイタリアンデニム加工大手のMartelli、ヒロコ・コシノや45r(pm)、聖林公司などのテキスタイル企画を手掛ける。現在も息子・原田謙一さんとともに、消えゆく伝統技法を再生し、新しい視点でハイブランドの生地や店舗のテキスタイル開発を手掛け続けている。
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⁠パーソナリティ:岩田篤 蔡海 福原志保

サマリー

CRA出しRADIOは、様々な手法で物を生まれ変わらせるコレクティブです。ConCRAのメンバーは、工芸を軸に物と人との関係、物を作ることについて皆さんと一緒に考えています。 畑屋さんはロンドンの大学で学んでいて、面白い人たちと出会いました。その後、マテリアル専攻の学校ができて、ファッション以外の分野にも使えるようになりました。マテリアル化という考えが生まれました。 アンファンテリブル・原田晶三さんは70年代から80年代にかけてイタリアでテキスタイルディレクターとして活躍し、帰国後に日本でも独立して活動を始めました。当時の渋谷、ファッションの中心地であった頃の雰囲気や、忙しい時代の働き方についても話されています。 70年代から80年代にかけて、激しい時代を駆け抜けたテキスタイルディレクターのエピソードと、アンファンテリブルの名前の由来についても語られています。

CRA出しRADIOの紹介
CRA出しRADIOは、様々な手法で物を生まれ変わらせるコレクティブ。
ConCRAのメンバーが、工芸を軸に物と人との関係、物を作ることについて、
皆さんと一緒に考えていく番組です。
ConCRAのUmiです。
Shihoです。
Iwataです。
よろしくお願いします。
シーズン4では、リアル収録初めてですね。
そうですね。しかも今日はなんと、Iwataさんが、
東京に来てるんです。
これ初めてのパターンですね。
京都から出張したので言うと奈良ぐらいなんで、
確かに。
ちょっと一気に東に。
関東には初めてですね。
で、なんで、どこに今いるかというと、東京は八王子の方に、
八王子、初めて来ました。
それで今日はですね、なんと、私がずっとずっとこのラジオに初めてから、
お呼びしたい、いつかお話聞きたいと思ってた、私の師匠をやっとゲストに呼べる、
結構ね、話題に何度も挙がってますもんね。
ずーっと言ってたんだけど、ちょっとタイミングを逃し、
でも、なかなかこう来て、Iwataさんが関東に来てくれるっていうタイミングもいろいろあるからということで、
本日のゲスト会、すごく楽しみにしてましたということで、
今日のゲストは、
原田翔三です。よろしくお願いします。
よろしくお願いします。
今日は暑いなあかどうも。八王子、またすごく暑いところあって、ありがとうございます。
八王子は暑い。
ゲスト原田晶三の紹介
非常に暑いんですよ。
そうなんですね。
ぼんちっていうのもあって、多分京都が暑い理由と似てそうです。
難しいね。
八王子に住んでたことがある。南口の方に。
難しい。
鎌木の時か。
そうですね。
原田さんの紹介を先月ながら、すごく久々にめっちゃ緊張してる。
めっちゃ緊張してるよ。
めっちゃ緊張してるよ。
八王子を拠点とするアンファンテリビル。
恐るべき子供たちという意味ですね。
の代表取締役。
長年にわたりテキスタイルディレクターとして、
ベネトンの企画コンセプトや、
イタリアンデニム加工大手のマルテリ、
ヒロココシノや、
45R、
セーリンコーシなどのテキスタイル企画を手掛けていらっしゃいました。
現在も八王子でご子息の原田健一さんと、
綺麗ゆく伝統技法を再生し、
新しいスタイルで、
ハイブランドの生地やテキスタイルのテキスタイル開発を手掛けていらっしゃいます。
ということです。
はい。
もう読み方から、
塩さんの緊張が伝わってきましたね。
初緊張。
初緊張というか、
普段緊張してる。
多分、
塩さんがどういうとこから原田さんと知り合ったのか。
そうですね。
私と原田さんの初めての出会いって、
もう10年ですね。
ファッション100人大会議っていう名前だったかな。
っていうイベントがあって、
本当に100人呼ばれて、
ファッションの現在と未来の課題について、
いろんな方向から、
デザインから、
記事からもちろんだし、
あとはデザインとかの問題の法令とか法についてとか、
いろんなブランドのあり方とか、
私みたいにファッションとかからはかなり外の人間だけど、
そもそもテキスタイルっていうものは、
もうちょっと使い方拡張してもいいんじゃないかって思う人間も来てたりしたりしてて、
そこで初めましてで、
そうですね。
お話ししてて、
簡単に言うと一気投合というか、
盛り上がりましたね。
盛り上がりましたね、かなり。
最初から。
最初から。
その日飲みに行きました。
そうですね。
居酒屋に。
お酒好きでも払えるという。
その時から私はバイオテクノロジーとか、
早稲田大学の岩崎県でリハイルして、
そのバクテリアの研究所にいたので、
バクテリアで染めることもテキスタイルだったらできるよねみたいな、
お話をした記憶があって。
そうですね。
原田さんも今日もお話聞いたら、
どんどん引き出しがいっぱい出てくるんですけど、
そういった自然の素材の染め技法とかを長年やってらっしゃったので、
私の想像を絶するぐらい、
テキスタイルってこんなに染めの方法ってあるんだって話を聞いて、
とにかくちょっと感銘を受けて、
まさかお仕事を一緒にするかなんて、
その時は思ってなかったんですよ。
私がちょっとやっぱりテキスタイル専門家ではないから。
ただこういったちょっと今日、
お話聞いて、
先に言っちゃうとあれなんですけど、
ついにお仕事を一緒にすることがきっかけがありまして、
そこから9年、
9年ですね。
お仕事をさせていただいております。
なので、私のテキスタイルの知識っていうのも、
ほぼ原田さん間の受け売りで、
舌がぶって言ってるだけなので、
ここから来てますという。
原田さんってどんな人っていうのがめちゃめちゃ気になる。
僕多分一番文外観って感じなんで、
まず最初にご紹介のあった中で言うと、
テキスタイルディレクターっていう職業って何?
みたいなところからなんですけど。
ディレクターというのはちょっと難しい表現で、
僕たちの時代だと、
記事のデザインをする、
図案を書くとか、
そういうところから始まってて、
それで折り物に行ったりプリントに行ったりっていうのが、
大体テキスタイルの仕事なんですよね。
それがいろいろなものづくりをする方たちが、
結構表に出始める時代が出てきて、
そのあたりから、
じゃあこういうふうにものを作りましょうとかっていう形で、
僕らがディレクションしていくっていう、
そういう形にはなってきてるんですね。
それがちょうど東京デザイナーズブランドとか、
東コレって言われるものが出てきた時期で、
それ以前は、
トン屋さんが記事を作って売るという形態から、
そのデザイナーが自分が作りたい記事を作って、
洋服に仕立てる。
その時にテキスタイルの知識という面で、
僕らが中間に入って、
いろんなディレクションをするっていう形なんですね。
もともとあるものからの限られた選択肢の中から、
服を作るんじゃなくて、
ファッションデザイナーそのものの素材から考えて、
新しい表現をしたいっていうふうに、
広がりができたけど、
やっぱり洋服づくりと記事づくりって、
似てるようで、全然工程が違うというか、
とにかく全部できる人とかって、
相当時間かかるので、
糸づくりから、染めから、加工から、
ちょっと今日お話いただくと思うんですけど、
皆さんが多分普通に着ている服、
とっても手が込んだ工程を得て、
記事になっているわけなので、
そういうことを専門でやられている仕様ですね。
ちょっと日本の特殊性もあって、
その辺も面白いのかなと思うんですけど、
特殊なんですね。
やっぱり特殊ですね、日本。
特殊っていうのは、産業構造的なところですか?
そうですね。
もともと問屋さんがいて、
記事を折っているところにこんなものを折って、
っていうので頼んで、
問屋の中で企画して、
それを売ってた時代があるんですけど、
国ももうちょっと現場が表に出た方がいいだろうということで、
国もバックアップして、表に出してきたと。
ちょうど旗屋さんたちの中にも、
俺はできるんだよみたいなね、
そういう人たちもいっぱいいるんで、
自分をどんどん打ち出すみたいな時代に入ってたんですよ。
そうすると、ただ規模がみんな小さくて、
日本の旗屋さん、大きいところもありますけど、
ほとんどが家内工業的なところがやってるんですよ。
イタリアの場合はやはり規模が大きくて、
イタリアも1960年代ぐらいから、
フランスの下床から抜けて、
自分たちの国のブランドを作ろうということで、
ブランドビジネスを1960年代にイタリア政府が考えて、
今の時代でイタリアのブランドが出てきた。
イタリアは政府主導でイタリアブランドを作られていったんですか?
そうですね。半世紀ぐらいですね。
そうですね。意外と歴史が浅いというか、最近の話なんですね。
素人のイメージからすると、
旗スタイルといえばイタリアか日本かって言われるんですけど、
それでも60年代?
日本は日本で各地方で、
例えばシルクだったりコットンだったりとか、
化繊系とかも後から出てますけど、
面白いのが、地方で全然得意不得意というか、
その特技が違うっていうのと、
分業しているっていうスタイルが日本。
イタリアは大きく政府がまとめてやっているので、
工場も割と一貫して全部自分でやるっていうスタイルの方が
多いというイメージです。
だからこそ原田さんみたいな人がいないと、
デザイナーと現場が結びつかないみたいな。
デザイナーの方はこんな服が欲しいんだとかということで、
ヨーロッパに行って、
飲みの石とかで古いヨーロッパの服とか、
アメリカに行っちゃそういうものを買ってきて、
それを復刻したいとか、
そういう服のイメージは持っているんですけど、
じゃあどういう風にテキスタイルを作るのっていうと、
要はどこの産地でやったらいいとか、
どういう加工方法でどうやっていったらいいかっていうことが
よく分からない。
そっち専門じゃない。
洋服の形の方が専門。
どうやってデザイナーが欲しいイメージの基地を作るのかっていうのが
僕らの仕事で、
そういう意味でいろんな産地をまたいで仕事をする。
その産地にはそれぞれ特色のある、
面白い開発をする、
畑屋さんだ、染め屋さんだ、
いろいろな加工屋さんがいるっていうのが
日本の形態なんですね。
やっぱりちょっと違うんですよ。
イギリスとかもあるんだけど、
イギリスは毎年、
イギリスの記者さんが来ると、
毎年同じコレクションを持ってくるんですよ。
去年見たのと同じじゃないみたいな。
変わらないことがする。
そういうのがイギリスの面白さで、
イギリスはそれに反発して、
若い人たちが自分で基地を作っちゃうとか、
そういうのが、
テキスタイル学校の設立
畑屋さんが学んだロンドンの大学とかね、
そういうところに面白い人たちがいっぱいいて。
確かに。
卒業した後に、
マテリアル専攻の学校ができました。
ファッションじゃなくて、
ファッション以外にも使えるように。
普通だとファッションの中から
テキスタイル化って出るんですけど、
ファッション化から抜けて、
マテリアル化っていうのができましたね。
マテリアル化。
珍しい。
セントラル・セント・マーチェン。
ファッション強い学校なんですけど。
そこが僕らが一番影響を、
多分そのテキスタイルのほうで
一番影響を受けているのが、
イギリス・ロンドンなんです。
そうなんですね。
全然知らなかった。
それは私の初耳だった。
僕も一番影響を受けているところで、
イタリアには行ってたけど、
実際自分が新しいことを始めるときは、
イギリスの人に相当影響を受けたという状態で、
やっぱりベルトンの企画の中にいると、
ふくらさんと同じ学校を出たイギリスの人とか、
フランスの人とか、
ロンドンのファッション学校の影響
半分近くはそうなんですね。
そんな集まっているところなんだ。
ファッションが強い学校で、
イギリスってその2校ですね。
圧倒的に、
セントマって大体言ってますけど、
あそこの出身の人をめちゃめちゃ聞きますよね。
先立ってますから、卒業典が。
そうなんですね。
もう人混みもすごいし、
早く才能を見抜こうという、
ジャーナリストたちもめちゃくちゃ来るし、
学生自体も先立ってるし。
ロイヤルカレッジオブアートですよね。
と、セントラルセントマーチンズっていう。
私は大学院はRCAで、
大学はセントマーだったので、
そっちがファッション関係が多い。
両方ともそうなんです。
どっちともやっぱり、
イギリスといえばこのブランドっていうのは、
皆さんそこに出てることが多い。
卒業典で全部完売しちゃう。
ファッションと機械の組み合わせ
そこからいきなりブランドができるっていう人もいたりしましたね。
原田さんがその影響を受けてるっていう、
影響っていうのはどういった面?
ちょうどですね、
東京コレクションとかそういうのをやってる時期なんですけど、
ロンドンで工房化現象っていうんですかね。
工房化っていうのは、
自分が作りたい生地とかを、
お店の後ろで自分で作って、
それで服を作る、帽子を作る、
いろんなものを作って前で売るっていうようなね。
そういうようなことを始めてる小さなブランドがいっぱいできてきたんですよ。
あと極めつけは、
小さなプリント工場をお店の後ろに作って、
お客さんが来るとインテリア用のカーテンのプリントとかをそこで注文して、
そこで吸ってくれて、
何週間かお借りもらえるっていうようなね。
そういうシステムができたんですね。
それ見ててすごく面白いなって思ったことと、
ちょうどポストモナジウムっていうか、
そういう動きがイタリアでもいろいろ出てる。
特にデザイン部分で出てた時なんですけど、
やはり今まで工業生産ベースということで、
オートメッションの中に全部閉じ込められてた機械とか、
それを部分部分取り出して、
その機械の前に人間がついて、
自分で操作して、
アートと機械で生産するものと混ぜるみたいなね。
そんな動きを多分セント・マーチンとかがやってた。
そこに僕らも影響を受けて、
同じようなことを日本で始めたのが、
ちょうどこれとかやってる時期ですね。
年代でいうと、80年代?
そうですね、80年代ですね。
80年ですね、入った頃です。
知らなかった。今初めて聞いた。
めちゃめちゃ勉強になった。
10年間出てこなかった話です、今。
限られますからね、仕事の関係上の話とか。
そんなの聞けて嬉しいですけど。
それは結構そういうことをやったことで、
初めて見る記事とか、初めてのものに、
いろいろファッション系のジャーナリストたちも反応して、
一挙に流行るみたいなね、そんな動きがあったんですよ。
80年代ですね。
例えばどういう記事?
ニードルパンチっていうものが一つあって、
これは絨毯を作る、貼り先に細かい棘が出てて、
それでポリエステルでも、どんな製品でもできるんですけど、
糸を荒らしてくっつける、結局フェルト化するんですけど。
複数のやつが重なってて、針でぶっ刺して絡めるんです。
それでリベット状に留める技術ですね。
そこにデザインをやりたいアーティストが目の前について、
自分で柄を並べたりして、打って柄を作るとか。
そういうのを最初に導入してみたんですけど、
大元はロンドンで見つけたストールだったんですけど、
これどうやって作ったんだろうなと思うようなストールで、
ストールの上に花柄がフェルトで打たれてるんですよね。
よくよく考えたらそういう手法だろうなということで、
山梨にある工場で同じような機械を、日本にもいっぱいあるんで、
1台中古を入れてもらってやり始めたっていうのが80年代で。
機械自体はもともとあったのに、
そういう使われ方がされてなかったってこと?
してなかったんですよね。
お話を始めてるかけてるんですけど、
原田さんはどうしてテキスタへの業界に行くのか?
私は原田さんと仕事してて気づいたことがあるんですけど、
もともとある機械とか、もともとある伝統手法とかを、
全く新しいことに組み合わせる発想。
これだったらこういうの使い方できるかもねっていうのがすごい抱負なんですよ。
これって別にテキスタへの特有なのかなと思ってたんですけど、
やっぱり10年間テキスタ関連のお仕事をしてて、
原田さんほど新しいアイディアがポンポコポンポコ出てくる可能はまだいない。
なぜかそれは昔の機械とか本当に詳しいし、
っていうのが強いなっていうところだったんですね。
だから私前のお話聞いたことなくて、
原田さんがどうしてテキスタへの世界に入ったかっていうのはぜひ聞きたいです。
もともと高校時代から美術系の方に何か突然なんですけど、
ちょうど学生運動がすごい時で荒れてて、
そういう時期でやっぱり方向転換してデザインの方がいいかなって思い始めた時期だったんですね。
美大に行って一番入りやすかったのかな工芸の方に入って、
テキスタへやったことがきっかけですね。
そこからもうそのままずっと来てるっていう状態で。
その時はもうテキスタ入るかっていう形で、
そのテキスタ入ることをどう作っていくかってことを学ぶ?
そうですね。ただもう学校もロックアウトされてたりして、
時代的に。68年、69年とか。
あんまりなんかアルバイトばっかりしてたみたいな。
で、出てもちょっとやっぱり荒れてたし、いろんなことで。
ただそんなに状況が悪いかっていうと、少し経済は上向きにいくような時代ではあったんですね。
で、出た後に、結局テキスタでお金を儲けなきゃいけない、生活しなきゃいけないと思って、
その当時、横浜のスカーフの業界がすごく盛況で、
もうそのプリント工場もものすごい数があって、
経済的にも横浜市もすごくそれで潤ってたみたいな時代がね、あるんですよ。
非常に技術も高くて、良かったんですけど、
そこである程度自分でデザインを描いてプリントの柄を売るみたいなことでね、やってたんですけど、
このままやっててもと思って、なんか理由はわかんないんですけど、
イタリアに行くかっていう感じで。
横浜かイタリアか突然。
学校出られてから、もう最初からフリーでというか。
1年間だけ就職したんですけど、すぐに辞めちゃったんですね。
それで、というのが給料安すぎると思って、これじゃイタリア行けないぞと思って。
なんか頭ん中あったんですね、イタリアが。
それで、やっぱり横浜がそんなことで忙しかったんで、
僕らみたいな大した技術もない人間でも仕事があったということなんですよね。
実際に就職してもらったお金の5、6倍の収入が得られたんで、
そこでイタリア文化会館というところで唯一イタリア語を教えてたんで、
そこに通ってイタリア語を勉強して、
イタリアの会社といろいろコンタクトして、
で、就職できたんで。
そういうことを言ってますけど、そんな簡単じゃないと思って。
普通に。
就職を決めて向こうに立ったって感じですか?
そうです。
いかがにして就職するという、すごいコントホリオとか送ったりとかしたんですか?
恵まれてはいたんですよね。
横浜の会社の社長の息子さんが、
この会社もすごく儲かってた会社なんですけど、
息子さんがジバンシーに就職してて、
彼が日本にちょうど帰ってきた時で話をしたら、
僕はサポートしてあげるよみたいな形で助けてくれて、
生きるようになったんですよ。
ちょうどその時にイタリア関連の仕事をされている建設会社のまだ若い社長さんの息子さんなんですけど、
イタリアに行って帰ってこられて、
行くのはいいけど、4年で必ず帰ってこないとダメだよって言われて、
4年以上いると帰れなくなるって言われたんですよ。
でも僕はまともにそれを言うのを信じちゃうもんだから、
4年間だけということで、
確かに4年くらいいたら住みやすくなっちゃうんですね。
もう日本に帰りたくなくなるって意味ですね。
分かります。
なくなっちゃうんです。
知り合いもいっぱいできるし、仕事もできるようになるし。
そんなんで戻ってきたんですけどね。
ほぼ修行するつもりで行って、
だからイタリアで働いて、
そのまま日本から出て続けるっていう目的ではなかったってことですか?
違いますね。
どうせ苦労するんだったら20代だし、
20代はそうやって過ごせばいいかなと思って、
20代はどちらにしろ苦労するし、
日本にいても同じじゃないかなって思って。
一応言うと電子メールもないし、
格安航空券とかがない時代ですからね。
円が360円って時ですからね。
あったそういう時。
イタリアでの生活と仕事
だから向こう渡ったら一時局とかもなし、ずっと4年間いたってことですか?
そうですそうです。
行って、日本から持ってきたお金がその当時、
パスポートに銀行が反抗するみたいな感じで、
10万か15万かしか持ち出せなかったんですね。
そんなリミッターがあるんですね。
しかも向こうからしてみたら1円360円の。
360円の定率ですね。
10万の価値もないやん。
そんな中ね、ゴルゴ13はスイスに持ってたわけですけど。
当時から連載してるから。
すごいなと思って。
お仕事がまだあったからまだ。
そうですね。
何もなくいったら無謀に聞こえるけど、
すごい計画性を持たれていかれてるね。
中田秀俊の話を聞いてるような感覚に近いですね。
イタリアっていうのがあって、
狙崎高校でサッカーやってる時から、
イタリア語勉強してて、
ペルージャとかに行ったような話に近い感覚。
中田の方が後だしね。
それよりも前に原田さんがおられる。
でもなんか変な共感。
乗っかってるわけじゃないけど、
高校の時にフランス語勉強して、
フランス渡ってっていうところまでは一緒だけど、
4年で帰ってくる私にはなかった。
私はもうずっと日本に帰る気全然なかったので、
分かりますね。
楽だんですよ。
とにかく。
楽ですね。
やりやすい。
ちなみにイタリアでのお仕事っていうのは、
それまで横浜でやってたのの延長というか、
同じような。
テキスタイルディレクターの役割の変化
そうですね。最初はプリントデザイン学部の
デザインスタジオに就職して、
そこにいたんですけど、
その後、実際の生地を作る会社の方が面白いなと思って、
そこから生地メーカーさんに移ったんですね。
で、移ったところで、
やっぱりフランスから来たりイタリアから来る
デザイナーたちが生地屋さんに来て、
自分が作りたい生地をオーダーしていくっていうか、
そういうのを見てて、
古い絨毯持ってきたりして、
これを生地にしてくれとか、
そういうのを見てて、
これはちょっと日本にはないなと思ったのが一つと、
その工場のオーナーも、
オーナー自体は生地が好きなんですよ。
生地が好きで、
もう出来上がってくると、
自分が鏡の前に立って生地をつけて、
どうかな、綺麗かなみたいなことをする。
日本のプリント工場とかそういうところの社長が
そんなことやらないなと思って見てて、
歴史が違うから、
やっぱり日本だと、
例えば京都だったら、
着物を作っている生地屋さんだと、
単物を持ってきて自分で合わせると思うんですね。
着物をね。
それと同じ感覚で洋服を作っているんだなと思って、
服に対する美意識が日本はなかったから、
やりようがなかったのかなという気がしますね。
ちょうどそんなことが、
先ほど話したデザイナーと僕らの関係というか、
そこに結びついているんだろうなと思って、
日本に帰ったらそういう仕事をしたいな、
もう少しデザイナーと一緒にやるような仕事をしたいなと思っていたら、
戻ってきたら、
状況が少しそういうことになっていたと。
東京コレクションを始めた初期の、
TD6と言われている6人衆ぐらいのデザイナーたちがいて、
伊勢さんとか、陽次さんとか、
腰野潤子とか、そういう人がいて、
僕もその中の一人の人と仕事を始めるんですけど、
思っていたような仕事ができるようになったんですね。
あんまりテキスタイルの開発ができる人も、
それほどいなかった時代だったので、
そういう意味ではラッキーだったのかな、
時代が良かったかなという。
じゃあイタリア帰りだったからこそ、
テキスタイルディレクターみたいな役割を持ち帰ってこれたみたいな。
そのまま日本でずっとお仕事をしていたら、
そっちに移らなかったかもしれない。
プリントの巨匠になった。
スカーフの巨匠。
そうですね、そうだと思います。
お話で面白いなと思ったのが、
デザインの仕事をしていて、
記事の方が面白いなと思ってそっちに移られた。
多分そこは結構別れる気がして、
デザインが楽しくてずっとデザインをやるという人と、
そこから記事の方が面白いという視点が、
多分原田さんの中にあったからそちらに移られたんだろうなと思ったんですけど、
デザインよりも記事の方が面白いなと思ったポイントは何ですかね。
記事作りの方が面白いなと思ったのは、
やはり紙の上の仕事じゃないというのが一つあって、
やはり染めたりいろいろする時の素材の方もすごく興味があったんですよ。
なんで、それがないと、
今はやっている泥染めだったりいろんなものもありますけど、
ただ、染めの技術と記事とのマッチングというか、
それがないと思ったようにならないんだなということは感じていたんですね。
それはイタリア…
イタリアにいた時も感じました、それは。
4年後に東京に帰って、状況が変わっていたんですけど、
変わっていたとはいえ、いきなりポンと…
業界の一線に踊り出るようなものなのかという言い方が変ですけど。
ちょうど今話した通りに、テキスタイルのディレクションをやる職業もあまりなかったんですね。
医者さんのところには一人いらっしゃってやっていた時代で、
そのところはあまりなくて、服を作るデザイナー自身が直接生地を作っていくというか、
そういう形で、すごい強い思いでこんな生地が作りたいというデザイナーがいたんですね。
だから、それの動きを結構やっていたのが、ビギとかそういうブランドで、
それを真似してマンションメーカーとか言われるようなところの人たちも、
少しずつそういう生地作りを始めている時代だった。
ただ、専門にやっている人はあまりいなかったんですね。
それで、こしのひろこさんもそうなんですけど、彼女も特注でやられていて、
いときんという会社と契約して、デザイナーズブランドでやるという時に、
生地をそのテキスタで作れる人がいないということで、
呼ばれて一緒に仕事をすることになったんですけど、
そういう時代だったんですね。
めちゃめちゃ多分日本が景気良かった時代というのもありますし、
めちゃめちゃ忙しかったんじゃないですか、80年代は。
今はインターネットがあるから、検索すると人が出てくるじゃん。
この分野の人を探したいとか、イエローページみたいな。
その当時って本当に多分噂というか、紹介でしか多分情報が得られないから、
よく原田さんっていう方がいるんだよっていうのは、業界狭いわけではないんですよね。
狭かったと思いますね。今みたいな広さはなかったと思う。
東京でやってても、それからしばらくすると、
いろいろ面白い生地を作る小さい会社も出始めて、
大体みんな知り合いみたいな感覚ね。
コミュニティーがあるような雰囲気ですね、今のお話を聞くと。
勢いを感じるね、やっぱり時代のね。
そうです。1986年から91年という間ですね。
バブルとちょうどみんな黒とかカタパッドみたいな、すごいデザイナーズブランド。
景気的にはバブルでファッションにお金を使える、
多くの人が潤沢にそこにお金を使えるみたいな、
時代の環境はあったんだろうなって想像するんですけど、
そういうデザイナーが一気にそのタイミングにたくさん出だしたっていうのは、
なんかその時代的な流れとしては何かあったんですか?
国もやはり日本の繊維業界を変えていこうという意識はすごく持ってたと思います。
経産省とかが力を入れて、構造改革的な形で変えようとしてたと思いますね。
メディアもファッションに向かってたんで。
雑誌もそんなに出てなかったけど、それなりに当時名前が出てくる雑誌がいっぱいあって。
ただどうですかね、今なんて考えられないけど、
だいたい名前知ってるんですよね、この雑誌、この雑誌、この雑誌ぐらいには。
宝島アシャとかですかね。
総演科ですね。
あと森花井のところの出版関係とか、そういう感じですよね。
そこに乗ってる服が着たくてみんな頑張って働いてたっていう時代。
そうですよね。
ソアラとかに乗ってる人が着てる服のイメージですね。
何となく車でいうか。
その勢いがあった時代ですけど、原田さんが日本を帰ってきて、
自分で独立される時に会社名は作られたんですか。
独立させた時からしばらくしてなんですけど、
渋谷のファッション業界と働き方
最初個人でやってて、それから独立しようということで渋谷に事務所を構えて。
すごいとこですね。80年代の渋谷ってすごい。
想像つかないですよ。
だって大海山とか渋谷ってその頃ブランドの中心地、青い山もそうか。
今でもあるのかな。八幡通りの方ですよね。
結局あの頃打ち合わせするから、四字に来てとかっていう。
四字って言うんですよね。
夕方の四時じゃないんですよ。朝の四時。
みんな帰らないで仕事してる。
令和の人がピンとこない話ですよ。
電車が動いてない時間にパッと動ける場所にいないと仕事にならない。
タクシー止まらないのよ、その頃の時代って。
都市伝説かわかんないけど、札束をひらひらして止めるみたいな。
で、お釣りいらないよみたいな時代とか。
極大利点なんかもっとひどかったと思うんですけど。
朝5時に帰って9時には出勤みたいな。
最悪すぎる。
リゲインのネットウォーズのCM思い出しますけどね。
24時間戦えますか。戦わねえよみたいな。
寝るよみたいな。そんな今の時代ですけど。
そういう時代でしたね。
朝の4時に呼ばれてしまうから仕方なくブランドさんがある付近に
いないといけないっていうね。
渋谷近辺にいないと仕事にならない。
夜中に電話かかってきたりするし、そういう時代で。
それに必ず対応していかなきゃいけないっていうか。
その頃のはいくつぐらいだった?
その当時が30前半ですね。
バキバキですね。
知識と体力がバキバキで。
知識がここからまた上がってくる。
あとは日本の景気もバキバキの。
すごい組み合わせだね。
すごい重なってる状態ですね。
寝なくても平気みたい。
テキスタイルディレクターの駆け抜けた時代
確かに。
いいかどうかは分からないですけど、僕もだって当時
春田さんが今おっしゃってたくらいの頃は
このプロジェクトとか仕事に徹すればいけるなとか
そういう換算で自分のことを考えちゃってたのを思い出しました。
良くないですけどね。
全然良くないですね。脳が縮小してしまう。
そうなんですよ。だからコレクションの前に
生地が間に合わない、縫えないって
縫うのを1日で縫ってもらうとかっていうので
デザイナーとかパターンの人たちがギリギリしてて
テキスタイル担当のお前のせいだっていう
最初から忙しくて最後まで忙しいんですよ。
テキスタイル担当としては。
一番長く仕事してる。
最後ギリギリになってるんで大変なの。
テキスタイル作ってはいお渡しで
じゃああとはパターンの人にお願いとか言うんではないってことなんですね。
そうですね。
またデザイナーが見てこれじゃ気に入らないとか
ちょっと上手くないよみたいな話とか出てくると
そしぶやからキリュウまで飛んでって
キリュウってどこですか?
群馬県。
飛んでって作ってもらって
1週間で何とか生地作り上げてみたいな
むちゃくちゃなことをするんですけど
それで1日に最高3回往復したことは絶対起きる
結構かかりますよね。
車で1回?
東京滞在時間
片道その当時で東京から3時間くらいかかるから
3往復って走り続けてますよね。
行ってもいないですよね。
ただ頼みに行って
博屋さんも俺は持っていけないからと僕は言って
別のとこ持って行ったりしてぐるぐる回して
最後の最後もギリ間に合わないもん。
徹夜してて車運転して一睡もしてないみたいな。
危ない。
群馬はキリュウが多かったんですか?
キリュウと八王子もあったんですけど
キリュウが意外にその当時は多かったですね。
関東地域の産地で。
想像以上で言葉を失ったんですけど
私さっきからずっとアンファンテリブルっていう
名前がどうしてついたのか聞きたいなって
思ってたんだけど
激しすぎてその状況が
そりゃつけるなとかちょっと勝手に
馴染みのあるフレーズで言うと
映画祭とかでこの若手がやばいっていうので
使う言葉だよね。もともと。
元々はイタリアの映画でアンファンテリブル。
あるんですね。僕知らないですけど。
ジャン・コクトの
イタリアじゃなくてフランスだよね。
そこから撮ってるのも一つあったんですけど
いつまで経っても
馬鹿げたことやってるみたいなね。
そういうイメージもあって
ジョン・カリアーノなのか
そういうデザイナーたちの中で
呼ばれてる人たちがいたりして
いくつになっても
新しいこと、おかしなことやってこうみたいな
そういう見合いで思ってたんです。
それが東京のめちゃくちゃ忙しいときに
勢いが自分も体力もあるし
周りも狂っているしみたいな
仕事がね。利用が狂ってますよね。
アンファンテリブルの名前の由来
初めてお会いした時、すごい穏やかな方で
会社名がアンファンテリブル。
ちょっと尖ったね。
だいぶ尖った名前だなと思って
ギャップを感じたんだけど
今の話したら、そりゃ
その時代の原田さんと今は
ギラギラさが違うではないかと。
この野郷はいつ頃から?
80年代ですね。
渋谷で事務所を開いた頃ですね。
つけてました。
相変わらずそういう形ではいたいなと思って
新しいことをやり続けたいなと思って。
昨日か何か知り合いと話してたら
脱皮しないヘビは死ぬんだぞって言われて
どういう意味なんだろう。
どういう意味でおっしゃられてるんですか。
あともう一個聞きたいのは
イタリアに行かれてたけど
4年間で帰られたので
またでもイタリアと仕事をすることはあった?
その後はやっぱり関係は持ちたいなっていうのがあったので
毎年行くようにはしてたんです。
それは2話目でちゃんとしっかり聞いた方が
時間的にはどんな感じ?
そろそろ2エピソード目に
ハーダさんのバッキバッキの時代からの2話目みたいな
そうですね。
今のお話だとまだ
例えば産地のことでいうとキリュウと八王子しか
まだキーワードができてないので
それ以外の産地のお話とか
その後広がっていくところを
伺っていきたいなとは思いますね。
というわけで来週も
ハーダさんゲストに引き続きお話をお聞きしていきますので
倉田紫ラジオは来週も火曜日に配信しますので
ぜひお聞きください。
ハッシュタグCONCRAで感想など絡んでください。
拷問もあります。
ハーダさんへのご質問とか投げていただければ
いいチャンスで
こっそり聞いておきます。
というわけで来週もよろしくお願いします。
47:54

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