新入社員の研修における弱者への指示
スピーカー 1
おさに、もっかいって言われたんです。
もっかい。
前回、前々回とだいぶ僕も、社会派な話に盛り上がって話しすぎたかもしれないですけど、
スピーカー 2
基本的に僕、この番組では、人権はあるけど、主導権はないと思ってるので。
人権しかない。最低限。
スピーカー 1
そうそう。生存権はあるけど。
スピーカー 2
最低限すぎる。
スピーカー 1
そうそう。だから、基本的に、おさの命には従わなければならないので。
なかなかない、こんばんは。
冗談ですけどね。
今した話をもう一回してくれて、収録前の話をね。
スピーカー 2
参加したくなかった研修の話。
面白いです。
スピーカー 1
そんなに面白かった?
自分が、もう4月から5年目になるんですけど、社会人になってからね。
1年目、2年目の時って、2020年でコロナ禍ですごく外に出れない状況で、
自分は新入社員の研修っていうのを受けてきた、そういうところで。
それなりに規模のある方の会社なので、研修とかもしっかりしてる方ではあったんですけど、
鳴らす教育がすごい嫌っていう話の流れで。
スピーカー 2
そうそう、鳴らす教育。平均の均と書いて鳴らすですね。
スピーカー 1
社会人になった新入社員を、社会人としてこれができてなければならないみたいな基準が曖昧だけどあって、
スピーカー 2
それを達成させるための教育っていうのが、いわゆる新入社員の研修なわけですよ。
スピーカー 1
その中で自分が鳴らされている感があってすごく嫌だったのが、ムビケーションっていうので、
まず映像が流れるんですよ。その映像をみんなでオンライン研修で参加しているみんなで見ますと。
その映像の中で会社のオフィスが映って、新入社員らしき男性、上司らしき男性が映って、
その仕事のシチュエーションみたいなのが説明されると。正確には覚えてないんだけど、
例えば資料を作ってくれみたいな、来週の何とか定例の会議の資料を作ってくれないかみたいな感じのところで、
映像が一旦ストップして、その講師の研修会社の人が今度はオンラインでしゃべりだして、
この新入社員の男性はみなさんですと。グループを組んでるんだけど、新入社員たちで。
この上司役が私です。研修の講師ね。
今あなたは何とか定例の資料を作ってくれとだけ言われましたと。
こういう情報はあるけれども、資料を作る詳細な情報っていうのは与えられてないですと。
なので今から2分3分与えるので、足りない情報を私に聞いてください。
上司役の私に聞いてください。引き出してくださいっていうのがまず課題としていると。
それでみんな必死に質問をして、それぞれの得た情報をもとにグループワークみたいな感じで資料を作るみたいな。
その資料を最終的にはこんな出来ましたっていうのを講師の人に見せて、レビューをしてもらうみたいな内容で。
それがね、慣らされてるなって思って、自分はすごく嫌だった。
スピーカー 2
嫌ですね。指示しろよって話だし。
スピーカー 1
自分の感覚で言うと、正直言うと自分がそういうのが周りよりもできる人だったら気にならなかったかもしれない。
けど自分はやっぱりできないっていう、そういうのがあんまり得意じゃない。
そんなに容量よくないしとか、だからやるねんっていう話もあるのかもしれないけど、
社会人にとってみんながこれをできなきゃいけないよっていうのが、それかっていうのは思うのね。
その、業種にちゃんと質問ができるとか、なんだろう、そういうことを研修で教え込むっていうのが、
スピーカー 2
社会人の基準としてあるんですよっていうことのメッセージングでもあるじゃないですか。
スピーカー 1
社会人はこれができないといけないんですよっていうメッセージングじゃないですか。
それが違う国って思うし、そういう研修の場だと、できる人とできる他人とできない自分っていうのがはっきりするじゃないですか。
スピーカー 2
それがしんどい。
いやー絶対に嫌。なんだろうな。
なんかその話を聞いて、ふと思い出したのが、大学院行ってた時に緊急室の先生が激怒だった案件があるんですけど、
とある市、行政のパンフレットで、受援力っていうのがすごい取り沙汰されてて、
だから、支援を受ける立場としていい態度でありましょうみたいな話ですね。
スピーカー 1
それは良くないね。
スピーカー 2
そうなんですよ。断るときは、ごめんねみたいな、次はこうしてほしいなみたいなことを言って断るとか、
とりあえず感謝の気持ちを示そうとか、いつもにこやかでいこうみたいな、講義でそういうことが書いてあって、
先生がいつも弱者の方に求めて、それを市がやってるっていうこと自体がグロテスクみたいなことを言ってて、
本当にしんどい人はそんなことができない人じゃないですか。
スピーカー 1
これは当たり前体操ですよ。大切な当たり前体操ですよ。
スピーカー 2
いつもそういうことを弱者の方に求めてくるみたいなことを言ってて、
なんかそういうとこあるよなって思って。
スピーカー 1
これはね、強者と弱者の壁のところなんですよね。
スピーカー 2
それもさっきの玄徳さんの研修の話も、そういうシチュエーションももしかしたらあるし、
そういうことをできたら、できるに越したことはないかもしれない。
できるがあるに越したことはない。
けど、考えるべきはこっちじゃなくてそっちじゃないですか。
上司がいかに指示をわかりやすく伝えるかみたいなところじゃないですか。
それはすごい責任転換してる感じが嫌だなって思って。
弱者に対する支援計画のスキル指導
スピーカー 1
それはそうね。
本当に指示しろよっていう。
スピーカー 2
研修作った会社の人が気づかへんのかなって。
スピーカー 1
どこか突っ込み入んないですかね。
でもやっぱり研修の会社の人は、他の会社に売れる内容を作ろうと思うときに、
スピーカー 2
やっぱりそれが一番顧客の心で響くみたいな感じになるんでしょうね。
スピーカー 1
そもそも責任転換、
スピーカー 2
そういう構造の話がめっちゃ多くないですか。
そっちがやるよみたいなことをスキルにして、
そういうことができる人が偉いみたいにして。
確かにできることは長所ですよ。いいと思うし。
それもスキルっていうものに対する捉え方も結構最近悩んでて。
収録外でも話したんですけど、私仕事が領域。
発達障害ある子供とかに、
訓練の場って言ったらあれですけど、
放課後に通ってソーシャルスキルトレーニングとかを通して、
社会で生きていく上、自立した生活をしていく上で、
必要なスキルを身につけようみたいな感じで、
支援計画っていうのがあって、
その子に必要な支援計画を立てて、
それに沿って支援していくみたいな感じなんですけど、
それも確かにできた方がいいかもしれないぐらいのことを、
そこまで強制的にしなくてもいいなみたいな瞬間とか、
それを求められてるけど、実際は本当に必要かなとか、
教室で座るとか、
座れなくてもいいし。
スピーカー 1
めちゃくちゃ大事。
何だろうな、確かに学校教育そもそもの話になっちゃうからあれだけれども、
そうなのよ。
必ずしも別に教育って座れないと生きれないわけじゃない。
要は周りの人と全く同じ行動を常にできてないといけないとは限らないので、
そこはとても大事な視点ですよね。
スピーカー 2
そうなんですよね。
でもそこをストレートにできる必要はありますか?みたいなことって、
私が伝え方が下手なのもあるんですけど、
言い方を選ばないか言わないになってしまって、
難しいんですけど、ひっくり返す感があって言えない。
スピーカー 1
そこはね、多分ね、自己責任の流れがあると思うんですよ。
国が事情とかそういうふうに言ったりとかするじゃないですか。
やっぱりそこの流れにきっちり乗っかっている人っていうのは、
さっき言ってた、これを無理にやらせる必要あんのかな?みたいなことを、
その人への優しさだと思ってやっちゃう。
それを身に付けさせてあげることが、今はしんどいかもしれないけれども、
将来的にその子のためになるんだっていうふうに、
信じてやっちゃう人は多分いると思うし、
スピーカー 2
でもそれが一番怖くないですか?
善意が一番怖いんですよ。
だって善意は疑わないですもん。そこを。
スピーカー 1
だからそういうふうに持ってっちゃってる国やら、社会やらが問題だし、
やっぱりさっきの話に戻ってきて、
結局どっちが頑張るべきなの?っていうそのどっちっていうのは、
発達障害の子供個人ではなくて、社会の側。
スピーカー 2
確かに確かに。今の話広げられますね。
スピーカー 1
だから構造としては、最初に話した自分たちと一緒のことなんだろうなって。
そうですよね。
スピーカー 2
そうなんですよね。
善意と一律の求められる行動の問題
スピーカー 2
でも確かにいる側面はあるなとか、あった方がいきやすいだろうな、そのスキルは。
みたいなのはあったりするので、
善意否定はできないけど、
スピーカー 1
善意否定はできないけど、私が好きじゃないっていう結論で聞いてることが最近多くて。
そこはそれこそ人の感覚にもよるじゃないですか。
でも確かに言う通りで、この訓練は必要だなって思うと、
さすがにこれはいらんじゃんみたいなものとっていうのがあるじゃないですか。
だからそこに関して、言葉で理由を求められたら説明できるようになっとくぐらいは、
もしかするとめちゃくちゃ大事かもしれない。
それは必要だけど、これはそこまでじゃない。
善意の人は多分やった方がいいものを全部詰め込む傾向がありそう。
これ偏見です。
これは偏見ですけど。
なんか支援トッピング盛り盛りみたいな。
だってその人にとっては、やらなくていいものをやらなくていいっていう風に言う人は多分敵だとみなしかねないから。
そりゃそうだよね。
だからそこが危険だよねっていう。
そういう意味で、教育って暴力的な要素、圧倒的な権力的な構造っていうのが必ずあるので、
スピーカー 2
そういうところは意識してやらないといけないですよね。
確かに確かに。
そうなんですよね。
それからその感覚、やっといた方がいいとか、今苦労しているのが将来に役に立つみたいな感覚から解き放たれた方が善意がいいんじゃないかみたいな思った気があって。
善意の人もどっかでしんどいからそれを善意として押し付けてるんじゃないかみたいな感覚があって。
その価値観、やっといた方がいいみたいな価値観から社会を変えるもそうだけど自分も解き放たれた方がいいんじゃないっていう感覚がすごいあって。
だから私はそこから解放される手立てみたいなのを探したいなみたいなのをずっと思ってて。
だからそこから解放されてる団体とか好きでなんですけど、それを押し付ける立場にいることがしんどいんですよ。
スピーカー 1
教育をいわゆるやる立場にある人って多分ほぼほぼ前々からの自分の言葉で言うと乗り越えちゃった人。
学校で勉強できませんでした。あんまりそんな大した大学にも行きませんでした。
でも教育には興味ありますっていう人が、例えば小学校の先生だったりとかっていうのがポンポンポンってやれるかっていうと難しい。
要は一定以上の学力的な、培ってきたスキル、能力、資産的なものっていうのが前提になっているっていうところが一種の矛盾というかズレを生み出しているんだろうなと思っていて、
その乗り越えちゃった人っていうのは前も話した通りやっぱりどうしても人にそれを要求してしまうとか、あるいは乗り越えたっていうところが今の社会の選択肢を持って生きていける人っていうことをよく知っているから、
逆に言うとそのいわゆる社会人として良い社会人としてっていうところ以外の社会っていうものを知らないので、そっちに持っていくっていうことが一番いいという価値観にならざるを得ない。
それはもう仕方がないっていう時にそういう方に何とか持っていく。要はスキルをいかにしてつけさせるかっていうことを考えざるを得なくなってしまう。
スピーカー 2
確かに。その外側の人たちを知らないというか、世界を知らない。確かに思いますね。
スピーカー 1
学校の先生とかってもっと自由な異端な人がなればいいのにって思う時はすごいやってる。
スピーカー 2
異端な人もいればいいのにですね。多様性があればいいのにって思うんですけど。
私高校の時に世界史の先生めっちゃ好きだったんですけど、その先生も一回教員になって、でも生徒に進路相談とかしてるうちに、そのまま自分が学生から教員になったら自分が言えることなんて何もないんじゃないかみたいな思って。
その人はカメラが好きで、カメラマンだったんですけど、世界一周して、写真撮って記事とか書いてたんですよ。
結局そこから子供とか生まれて、その後もう一回教員になったっていう人なんですけど、めちゃくちゃ良くて、話すことがすごい良いなと思ってて。
中古軍隊みたいで地獄みたいなところだったんですけど、その中のすごい良心みたいな人だなって思ってて。
スピーカー 1
いろんなところを見てきたから、そうじゃなくてもいいんじゃないかみたいなあり方の幅がすごい広いなと思ってて。
自分もそうだけど、今の自分会社員やってますけど、そういうところを例えばポンって辞める。
例えば半年フリーターでもしながらブラブラしたりとする。
いわゆる自分の今周りにパッといる人にそういうことを言ったら、多分絶対辞めろと言われる。
半年も仕事辞めてブラブラしてたら、もう就職先はないぞと言われるだろうと。
まあ多分母親とかに言っても同じようなこと言われるだろうと。
でもなんとなく多分何かしらは、父は死ぬことはないやろと。
生きていきますよ。生きていくし、多分そういう人いっぱいいるし。
もちろん幸福度の比較はできないじゃないですか。どっちが幸せかっていうものがね。
っていうものがやっぱりその結局その個人のアレになるから、人が参考にしきれるわけじゃないし、
そういうところでテタスコ勝負になるわけで、やっぱり難しいなどうしようかなというふうに最終的にはなっていくわけなんだけれども、
でもやっぱりなんだろうな、そういうのが少なくとも頭でわかるというか、
自分はやっぱりそれなりに年になってからそういうことを考え出すようになったという意味で遅かったので、
そういうのが義務教育の中でいろんな世界を、いろんな生き方を見せられて、
社会人としての選択肢
スピーカー 1
全てをやっぱり肯定できるようなっていうような方向になっていけば、それはやっぱり多様性の肯定になると思うよね。
スピーカー 2
いやそうですよね。本当にそもそもあれじゃないですか、
例えばフリーターになってふらふらしてたら就職先ないぞみたいなのとかも、
そもそもこの空白何ですか?って聞いてくるような面接先が最悪じゃないですか。
何なん?って感じじゃないですか。
スピーカー 1
面白がって聞いてくれる分にはいい。
スピーカー 2
それはいいんですけど、それをジャッジする履歴書に気づかない方がいいみたいな考え方ですよね。
そういう風潮自体そのものがどうやねんって言ってくれるような人も必要だし。
スピーカー 1
なんかすごい逃れられないとしんどいし。
スピーカー 2
なんか私の職場で仲良い先輩で、今のところ5月末で仕事辞めたいって言ってる人がいるんですけど、
年末にインドに旅行に行ったんですよね。一人で。
砂漠で年越しツアーしようみたいなところで、いろんな人と知り合って、すごい楽しそうに帰ってきたんですよね。
そこから仕事辞めたいみたいに言ってて、そこで知り合った人と、
この間、ノトの災害ボランティアに行ったらしくて、
数日後に話を詳しく聞く約束があるんですけど、
そこの人が、割と3年間災害ボランティア拠点みたいなの開いてる。
廃校になった小学校で泊まりしてるみたいな感じで、そこにめっちゃ旅人とかがいっぱい集まってて、
世界一周したよ、俺も俺もみたいな人たちがいっぱいいるらしくて、
その人は、次の仕事も何も考えてないけど、割といろんな人がいて、それこそ季節労働で働いてる人がいたりとか、
あとは食べ物とかさえもらえれば生きていけるし、住居は無料でもらえるし、
とりあえず次の仕事とか決めてないけど行こうかな、みたいな言ってて、
なんかすごいなぁと思って、なんかすごいいろんな人に会って、生き方が広がったんやろうなぁ、みたいな思ってて、
なんかすごいいろんな人に会うことというか、そういう人もいるのね、みたいな、広げられることって大事じゃないですか。
大人になってもできるし、子供の間にも絶対必要って思うんですよ。
スピーカー 1
いや、それは思うな。今の話聞いて、坂口さん?坂口強兵さんだっけ?
スピーカー 2
え?私ノートフォローしてるかもしんない。
スピーカー 1
本で言うと確か創鬱大学とか、いろいろ本書いたりとか、作曲とかアートとかいろいろされてる、
創鬱大学書いてる通り、すごい創鬱の持ちの方なんですけど、
その方の生き方が多分今の話に近くて、やっぱりツイッターとかで坂口さんのツイートとか見てると、
こういう生き方の方が人間本来的だなっていうのは思ったし、
自分は千葉雅也さんの繋がりから知ったんだけど、千葉さんも指摘してたけど、
坂口さんの経済への向き合い方みたいなのは、ちょっと細かく言ってないけど、
良いと。それを自分なりに坂口さんのツイートとか見てて、話聞いてて思うのは、
いい意味で昔的なんだろうなと思う。
例えば江戸時代ぐらいだったりとか、そういう人間関係と商業経済っていうのが結びついてるような感覚。
もちろんお金のやりとりっていうのがあるわけだけれども、そこに人間関係っていうのもしっかりとあって、
コミュニケーションとしてそれが存在していて、困ったときはお互い様であったりとか、
そういったものがあると。実際坂口さんも困ったら困ってるっていう風に言うだけで、無料でものが集まるっていうことをはっきり言っていて、
スピーカー 2
そういうような関係性こそがもしかすると、人間のための経済なのかもしれない。
どんどんバーチャル化してる感はありますよね。
スピーカー 1
人間と社会の話で前の時に、社会のための人間になってるみたいな話をしたので言えば、
お金のための経済になってるっていう感じね。ある意味それは資本主義とイコールの説明かもしれないけれども、
お金も結局のところ人間がうまく生きていくためのもので本来あるのであって、
お金のための人間ではないし、お金のための経済ではないんだけど、事実上今多分そういう風になりつつある。
お金と関係性
スピーカー 1
要はお金さえ払ってるから黙って働いてみたいな、そういうような取引が状態化している。
要はお金だけの関係っていうのが今すごく当たり前になってるっていうのが、
坂口さんの経済と今自分とかがいる会社員としての経済の大きく違う部分かなって思う。
そういう場にいると自分も感じるけど、やっぱドライになっちゃうところがある。
坂口さんみたいなそういう風に困ったら困ったといえば無料でいろんなものが集まるっていうのは、
それなりのコミュニケーションを坂口さんが取ってるっていうことの裏返しじゃないですか。
それができる気がしないって思っちゃうわけですよ。
でも坂口さんに言わせれば人間は本来誰でもちょっと慣れればできるよっていうのかもしれないなって思ったりする。
スピーカー 2
確かに確かに。
自然にそういう生活をしていれば、今はできないのは必要がないから。
だって喋らずにやる方法があるし、必然性がないじゃないですか。
必然性がないとやらなくて済むから。
例えばドア開けて人がいたら挨拶するし、それぐらいはできるじゃないですか。
多分それで成り立つ関係じゃないですか。
別に特別な何かをしなくてもいいし、
あと水を汲んで運んでくるっていう作業が必要ならば、先に来てた人に先どうぞとか言うじゃないですか。
それが発生する条件があるじゃないですか。
それがないからできないのは当然かなって思う。
ご近所さん付き合いの必然性
スピーカー 1
やっぱりそうやって聞くと、ローカル性?
いわゆる昔のご近所さん付き合いみたいな、そういうものの大事さっていうか、
そういうものの必然性というか、やっぱりそうだよなって思うよね。
そうですよね。確かに。
スピーカー 2
だって必然だから、そもそも交換可能じゃないじゃないですか、ご近所さんって。
なんて言うんだろうな。
それこそ同期とか会社にいる人とかもそうなんですけど、
一緒のコミュニティにいる人って、一緒にいてしまったから作業をする上で協力するじゃないですか。
だからより良い人がいたんじゃないかという考えにならないじゃないですか。
そこにいるから必然性に駆られて会話をするみたいな。
それだけの話な気がしてて。
特別良い人じゃなくても関係性を結んでいけるというか、
そこにいるだけで、特に得意があるとか優しいとか与えられなくても、
スピーカー 1
そこにいるだけで関係性を結んでいける。
それいい話だと思うな。
だからそれが会社によっては、そういうご近所さん付き合い的なとこにならないところもあるだろうなと。
成果主義のディストピア
スピーカー 1
極端に成果主義な会社。
だからあいつとは同じ部署のやつやけど、
あいつは成果を出せないからやってられないみたいなのが公然と言われるような社会になったら、
それは結構やっぱりディストピア的だよなって聞きながら思いました。
スピーカー 2
そうですね。
スピーカー 1
確かに。
うちの会社もそれにちょっと近づいてる感じするんよなっていうのが僕の最近の違和感ですけど。
スピーカー 2
なるほど。めっちゃ面白い。
よかったです。自分の話し出して。
いやーちょっと予想外の方向にいろいろ行きましたけど面白かったです。
スピーカー 1
いいえいいえ。よかったよかった。
別に一貫して話す決まりはないので。
スピーカー 2
いやもうここは心のままに広げたりとか深めたりする場なので、
全然一貫しなくて大丈夫です。
スピーカー 1
じゃあまあまあいい時間なんで。
そうだよね。一旦切りますか。