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2024-09-12 50:01

百年の孤独を語ろうか、百年の孤独を飲みながら【超旅ラジオ #174】

ついに文庫化された、ガルシア・マルケス『百年の孤独』。かねてより本書を愛してやまないというSatoruと、収録前日に読み終えたばかりという岡田がその魅力を語りつくします。麦焼酎『百年の孤独』を飲みながら。

頃に聞こえるアラーム音は、二人がしゃべりすぎて部屋の使用時間をオーバーしたためにかかってきた退室要請の電話です。 百年の孤独 (新潮文庫) https://www.amazon.co.jp/dp/4102052127?tag=chotabiradio-22

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語り手: Satoru、岡田悠 録音&ジングル制作: 石川大樹

題字&イラスト: べつやくれい


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2人への質問、最近読んだ本、今日食べたもの。 あなたの思いつきを、何でも送ってみてください。


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サマリー

ポッドキャストでは、ガルシア・マルケスの名作『百年の孤独』を題材に、作品の背景や影響について話し合っています。岡田さんとSatoruさんが作品を再読した体験や、深化したテーマについて詳しく掘り下げています。このエピソードでは、『百年の孤独』の密度の高い物語と登場人物たちの複雑な関係が考察されています。また、不眠症のエピソードを通じて、物語における人々の孤独や愛の欠如が語られています。ポール・コルネホを舞台に、自然の力と人間の生活についての考察が展開されています。この作品では、家族の歴史や宿命とともに、超常現象が日常的に描かれ、人間の存在や運命を考えることができます。ポーランドのクラコフとコロンビアの古い人々との繋がりについても掘り下げ、ガルシア・マルケスの文学的手法や死者の復活に関するテーマを考察しています。また、作品内の数字の重要性やキャラクターたちの反復する運命についても触れています。このエピソードでは、『百年の孤独』を通じて物語の絶望感やキャラクターの運命について深く掘り下げ、特に作品における暴力的な甘美さや不条理が文学的な主題としてどう表現されているかに焦点を当てています。

百年の孤独の冒頭
岡田さん。何ですか、Satoruさん。長い歳月が流れて、銃殺隊の前に立つ羽目になった時、おそらく、アウレリアのブエンディア大佐は、父親のお供をして初めて氷というものを見た、あの遠い日の午後を思い出したに違いない。
来ましたね。岡田さん。来ましたね、ついに。岡田さん、これは何ですか。ガルシア・マルケス。百年の孤独の冒頭ですね。
いやー、来た!これね。岡田さん読んでくれた。読んでくれた。これね、なんでこんな興奮してるかというとですね。
まずこの回、百年の孤独を語る回をね、もうSatoruさんが熱望をしてたというか、もう。そうそう、一回台風で流れちゃったね。流れた。流れて。
台風の日のコンディションに合わせるようにして、20年ぶりに僕、読み返したんです。僕その時点では、最初しか読めてなかったので、知らない人として聞いて、探しようと思ってて。
そうそう、岡田さんはコロンビアにはいかれたことあるけど。コロンビアに僕、この百年の孤独の文庫が出てない時期なんで、単行本を持ってって、読まないまま持って帰ってきた。
それはね、すごくいい体験。ある意味読んだ人よりもいい体験だと思いつつ、読んでなかったと。
で、今回も改めて文庫版を買って。最後はね、台風で延期になったおかげで、昨日読み終わりました。
コンディションとしてはこれ、岡田さんの方がいい感じになってるかもしれない。昨日読み終わった。あの最後の、あの一文に最後にたどり着いた。
いや僕、昨日ね、夜12時ぐらいにこれ読み終わって、昨日俺、夜なんかうなされました。
ちょっと待って待って待って。これ、ちょっと私ね。
途中気持ち悪くなった。起きて、なんか頭の中ぐるぐる回って。
ちょっと待って待って。これ本当に私ね、始める前にね、あんまり興奮しすぎて僕はね。
そうですね。
喋りが早くなりすぎて失敗すること、今までこのラジオで何回か繰り返してるから。
あんまり、あんまり、あんまり。
どういう本なのかっていう、たぶん説明?
そうそうそうそう、まあ落ち着いて。
さすがさんが見たってどういう本なのか。
一回ちょっと、きつけの深呼吸の、あのいい深呼吸のためのきつけのお水があるから。
百年の孤独っていう名の、これは焦虫ですね。
これが、百年の孤独という小説のタイトルに借りた、でも本当はそれにインスパイアを受けた、
寺山周知の映画から撮ろうとしたけれども、その情報が得られなかったっていうのはちょっと、
ちょっとだけ一拍噛む経緯があるんですけども、いずれにせよ、この百年の孤独という。
これだって焦虫自体も悪い。
そうそう、めちゃめちゃそうだ。逆に、たぶん普通の人にとってはというか、いろんな世間一般にとっては、この焦虫の方が有名ですよね。
ちょっとこぼれちゃった。今手が震えて。
ドボドボ。
ドボドボ。こんなに。
これちょっと石川さんに調達いただいてね。
そうそうそうそう。ちょっとね、これをね。
まずはちょっと、私の心も落ち着けなくちゃいけないので。
孤独を飲みながら。
そうですね。百年の孤独を、焦虫を飲みながら、百年の孤独を語るという。
ありがたいです。
ありがたいですね。ありがとうございます。じゃあちょっと乾杯を。
乾杯。
乾杯ときましょう。ありがとうございます。
琥珀色ですね。
琥珀色ですね。たまんないなあ。
あ、きた。
いやー。
いやー。
うまい。久しぶりに飲んだ。これものすごい、バーとかで飲むと、むちゃくちゃ高いんですよね、これね。
石川さんが見つけてくれて。
うん。
いやー、氷といえばやっぱりね、初めて。
ブエンディア大佐がね、銃殺隊の前に立ったね。
思い出したね。
時に思い出したに違いないって、この語りのこの一行に詰まってるこの時間の長さですよ。
アルカディオブエンディアに見せてもらったジプシーの氷ですね。
ジプシーのメルキアですのね。
だからちょっとどっから話すか。
こんなこういう感じでいくとあれです。
いや、ダメだな。ダメなんで。
えっとね、このね、百年の孤独という本は、
まあその南米のコロンビアに住むガルシア・マルケスさんが、
まあノーベル賞を取りになったことでも知られて、とても世界的に非常に有名な文学者ではあるんですよね。
日本の小説家にもものすごく影響を与えたし、
なんだろう、もうある意味では語り尽くされた本ではあるんです。
何しろ1972年に日本で翻訳本が出たけれども、
その前に1960年代ぐらいに出た本かな。
だからずいぶんもう出版してから日が経ってるし、
だから真面目に語ると、私は割と文学が好きなものですから、
そのセルバンテスに始まって、ウィリアム・フォークの系譜を受け継いで、
ガルシア・マルケスが20世紀文学における位置づけみたいなことを語ってきた方もいるし、
そういう風に語ることもできるんだけれども、個人的なところからちょっといくと、
この本を僕が読んだのは、19歳か20歳ぐらいだから、
まあ20年以上前なんですよね。
その時も文庫化はとにかく長い間されなかったんですよ。
文庫化されなくて、というのは確かその時の若き担当者の方が、
文庫化をしちゃうと本体の単行本が絶版になっちゃうからっていうことで、
ものすごい単行本の分厚い本でも十分売れてる本だったんだけれども、
しかもその分厚い本のまま何回か表紙を変えたり、役を変えたりとかしながらも、
ずっと文庫が出なくて、そのうち文庫化したら世界が滅びるとか、
よくわからないジンクスがあったりとかしながらも、
この度ようやく、今これ収録してるのが2024年の9月初旬ですけれども、
先月か先々月ぐらいにようやく文庫化されたんですよね。
だから日本でも50年ぶりに文庫化ってあんまないパターンで、
しかも確かNHKとかにもニュースになってましたけど、
文庫化されたらたちまち売れてるんですね。
26万部とかそのぐらい。
それもこの小説のエピソードの一つというか、50年ぶりに出た本がいきなり売れるとか。
世界中的にも5000万部ぐらい売れてるんですよ。
ホットドッグが売れるように売れたみたいな。
そういうぐらい売れるぐらい面白いというか吸引力がある本だったりするんですよね。
私はだからやっぱり19歳20歳で、
もっと早熟な文学青年はもっと若くして読む人が多いんでしょうけど、
私はそのぐらいに読んでもこんなものがあったのかみたいな感じで、
かなり心揺さぶられてですね。
それ以来もう読み返すことがかなわず、読み返してなかったんですよ。
読み返してなかったんだけれども、ずっと私の心の深いところに残り続けて、
さっき岡田さんが意味軸もうなされたって言ってますけど、
ずっと二日酔いが20年間続くような感じで、ずっとうなされてる感じがあって、
もちろん私の人格形成に与えたのはやっぱり親がいたり友達がいたりとかあるんですけども、
20歳を超えてその文衰齢的に大人になってから一番僕の人格形成に影響を与えたのはこれだと思うし、
だから私は今まで多分通算5000冊ぐらいはいろんな本読んできましたけれども、
一番とか言われると、一番って質問自体が愚かなんだけれども、
100年の孤独以外に考えられない、
ドストエフスキーとかいろんなありますけれども、
イロカワタケヒロの本とか30回40回読み返したけど、
この1回しか読んでない、この本がベストでですね、
もうやたら度数の強い酒のようにですね、ずっとずっと僕の心の中に残って、体の中に残ってるんですよ。
で、文庫化になったと。文庫化になってなんか話題になってるから、
まあ私も勢い発売日に手に取って、
池澤夏樹先生のフロックというか何というかその家計図みたいな、
UNDI一族の、あ、岡田さんもだから初版ってことかな。
今それが入手困難らしいんですけども。
あ、これついてたんですね。
ついてた、ついてた。
僕これあのインターネットでダウンロードして、
そうそうPDFからダウンロードできるんですよね。
自分で印刷します。
そう、でも私はねそれをね、20歳ぐらいの時に自分で作ったんですよね。
それよりも詳細な。
出てくる全員の名前を、UNDIわけ関係ない、
ポッドのやつも含めて全部A4一枚に書いて、
だからね、覚えてるんですよ。
何が書いてあるかというと、この家計図が書かれていて。
そう、この本はすごい同じ名前の登場人物がいっぱい出てきて。
あの単行本というかこの文庫にも家計図が一応載ってるんですけど、
これだけじゃ全然足りないんですよね。
足りないし、足りないし、そう。
で、名前が受け継がれていくというか、
アルカディオとかの名前の人がいっぱい出てくるので。
最初に出てくるのが補正アルカディオ・ブエンディアで、
で、その子供が補正アルカディオで、
その子供がアルカディオで、
その子供が補正アルカディオ・セグンドなんですよ。
みたいな感じで。
そう、そう。
作品の魅力
一番極みに至ってはアウレリアノっていうのが出てくるんですけど、
アウレリアノの子供がアウレリアノ補正と、
あとこの文庫でアウレリアノ括弧17人って書いてあって。
17人のアウレリアノがね。
17人のアウレリアノが出てくる。
ちょっとね、わけがわからないと思うんですよ、これ読んでない人は。
これを詳細に、より細かく掛け入れとしてね。
そう。
ちょっと確かに、あんまり本を読み慣れてない人にとっては、
難しい本と思われてしまう可能性もあると思って、
先に僕が申し上げると。
まあ確かにそうかもしれないんですけど、
これは、5000万部何しろ売れたってことはやっぱりね、
吸引力というか、これはね、
ラテンアメリカ文学、私は好きなので色々読めましたけれども、
どちらかというと非常にインテリ層向けの文学的な実験とか、
難しいものもあるんですよ。
だけど、100年の孤独はそれに比すると、
どちらかというと語りというか古典芸能の語りみたいなね。
吸い込まれていくような語りみたいなところもあるから、
意外にストレートなところというかですね。
読んでも確かに色んなやつが出てくるし、
ちょっと難しいんだけど、
なんかエピソードエピソードが面白いのを
どんどん読んでいったりとかしていくような読み方でも、
多分残っていくんですよ。
お酒の飲み方として炭酸割り水割りとか色々あるような感じで、
そういう感じでスッと読んでいってもいいんじゃないかなっていう、
面白さがあるんですよね。
あるんですよねっていうのが、
僕の当時のこの文庫本を買うまでの記憶で、
やっぱり僕不安なのは、
人間ね、私も41か42くらいになりましたけれども、
やっぱりなんか青春時代に読んでよかった本、
面白かった漫画、映画、音楽とか、
今になって聞き返すとちょっと失望してしまう、
がっかりしてしまうというかですね、
薄れてしまうことって結構あるんですよね。
こんなんだったら大事な。
記憶が美化して。
人間でもそうで、再開しなきゃよかったなっていうね。
結構人間ってだんだん年を重ねていくと、
失望という彩りがまた新しく深まっていくので、
だから正直選択肢として、
僕はもう読まないまま素敵な思い出として、
残っている二日酔いのこの、
体の中に残っている残死を楽しんだまま、
死んでいくっていうのもあるかもしれないけども、
せっかくこれくらい盛り上がっているから、
不安な気持ちのまま読んでみようと思って、
読んでみたらですね、
いやもうなんかたまらないんですよね、これね。
もうなんかね、面白いんですよ。
で、驚くほど私この中身を覚えててですね、
また来たよこれみたいな感じで来るわけですよ。
だからこの凄さはね、やっぱりね、
ちょっと語らないといけないなっていうことでね、
コンディションを整えていって、
これからちょっとこの話、
岡田さんも読んだということなんで、
ある種、世間一般的な人口に感謝した言葉では、
ネタバレと呼ばれるようなですね、
ストーリーの種を割るような話を
これからするかもしれないんですけど、
でも私は一つね、これは特別な反論というか、
特別なことを申し上げたいのは、
これやっぱり何しろ強い度数の酒みたいなものなんで、
そのウイスキーとかバーボンとか、
ウォッカとか飲むときに、
この酒強いぞとかいうネタバレとかないじゃないですか。
これの作品の魅力っていうのは、
あまりにもこの密度が高く、
修練された特殊性を持つものだから、
なんか一部のストーリーを切り取るとか、
そういうことがネタバレというか、
この作品の魅力を、
百年の孤独の密度
いささかも厳じえない気がするんですよね。
だから、解説でも、
文庫版でこうやって、
最初にこの解説は、
この本を読む前に、
読むものとして書くって言っときながら、
この本のオチを書いてて、
この本にネタバレなんて存在しない、
みたいなこと書いてたか。
そうなんですよ、なんかね、
それをちょっと言いたいので、
置くせずですね、
完璧に何もない情報で、
読みたいっていう方は、
ストップボタンを押していただければと。
私のこの熱量で、
早めにストップボタン押された方が、
いらっしゃるかもしれないんだけれども、
これはすごかったですね。
どこから語ればいいのかわからないですけど、
もう少しだけ概念的な話をすると、
私の印象としては、
すごくいい芸術作品とかいいものっていうのは、
ある種、盆栽みたいな、
一本の木みたいなものが、
すごく姿形が美しい、
このガルシアン・マルケスの100年の孤独は、
それに比べると、
熱帯風鈴みたいな感じで、密度がものすごくて、
次々にものすごい密度の、
エピソードが、
連なりが来るから、
10ページぐらい読んで、
100ページ分ぐらいの出来事が起こるんですよ。
マイページなんかとんでもない。
とんでもないんですよ。
だからね、なんかね、
密度のすごさがね、
圧倒的にむせ返るような気持ちになるし、
6000ページぐらいの本を読んだような、
このページ、タカダガという表現が不正しくないんだけど、
600ページぐらいなんだけど、
戦争と平和2週分ぐらいのですね、
トルストへのね、
なんかそういう密度が、
あるなーっていうね、
ことをね、
私はね、拷問ですよ。
実際、開業もほとんどないんで。
開業はあまりなくて、
30ページ、40ページぐらいの、
1パッセージのロングブレスが、
ブワーッと続いて、
一回ビュッと止まって、
少しだけ移動してっていう、そういう語りなんですよね。
ブレスは確か、
10回ぐらいのロングブレスがあるんだけども、
その一つ一つがまたね、この語りの上手さで、
ちょっとだけその、
20年後ぐらいにこういうことが起きるに違いないとか、
起きたに違いないとか、
予言させるような、
あるいはものすごく昔のエピソードが、
後々になってちょっと登場したりするから、
非常にその、基本的にはクロノロジカルに、
起こったことに沿って、
まさにタイトル通り、100年間、
このブエンディア一族が、
誰もが愛というものを知らないまま生きて、
そして二度と反復しないまま、
この一家が滅びるというか、
共同体そのものが、
滅びていくっていうんですね。
この要約をするだけで、
私の体温がどんどん上がっていくんですけど。
そういう話ですよね。
岡田さんはお嫁になったから。
不眠症の影響
そういう話。
タイトル通りというか、
100年間の孤独を描いた、
そうなんですよ。
で、ガルシア・マルケスさんも確かこの本を書く上で、
2年間ぐらいずっと、
タイトル通りのポツコーションで書き続けて、
そりゃあそうで、
そういう人物がいっぱい出てくるよね。
愛を失ってしまったというか、
非常に。
部屋にこもりきって、
何かに没頭する人たちがすごく多い。
さっき20歳ぐらいで覚えてたシーンとかも、
主人公画の一人が、
兵役を引退して、
金財区みたいな、
お魚の金財区みたいな、
延々と作って、
金をもらうんだけど、
その金貨でまた金財庫を作っていくから、
永久期間みたいな感じで、
ずっと作り続けていくみたいな。
最後はもうそれ売るのも嫌になって、
金財庫を17個か何か作ったら、
それを全部溶かして、
またそこから17個作るってことを、
永遠に繰り返していく。
そういう何か、
ずっと同じことをし続ける人みたいなのが、
たくさん出てくる。
いっぱい出てくるんですよね。
これはランディアンアメリカの特有のあれなのか、
本当なんかね、
育児放棄というか、
言う言葉が生乗りぐらい、
本当にめちゃくちゃになった人とかいるし、
ものすごい自分勝手な人ばかりが出てくるので、
うちの奥さんとか、
ずっと昔読ませたら、
本当にうちの奥さんはこの本が好きになってくれる。
全然共感できない人ばかり出てくる。
それは私は割と喧嘩になったんだけど、
考えてみたらそうだなと。
いう見方もあるし。
ウルスラおばあちゃんがね、
非常に長生きする女性がまた、
150歳ぐらい長生きする女性が2人出てくるからね。
ピラル・テルネラと。
すごいんですよね。
たぶん150から先は数えてないみたいな感じだった。
そうそう。
男性キャラでも200歳超えるやつが出てきて、
序盤に出てくるんですよ。
私が好きなエピソードを一つ語るとですね、
これもその、
10行ぐらいしか出てこないエピソードなんだけど、
序盤で、
マコンドっていう、
実際には存在しないけれども非常に存在するだろう、
コロンビアの、
どういう田舎みたいな、
新たに開拓された、
主人公の一番最初の初代の人が開拓した土地が、
そこが基本的に物体なんですけども、
そこにフラッとね、
フランシスコ・エル・オンブレっていう老人が出てきて、
200歳を言うに超えているとかいきなり出てきて。
いきなり。
そういうね、
さらっと、
一単語とかで、
え?みたいなやつが出てくるんですよね。
普通のことが書いてあると思ったところに、
いきなり出てくるんですよね。
普通のことが書いてあると思ったところに、
いきなり200歳とかが、
普通に書いてあって、
何これ。
ジャーナリズムの語り口というか、
本当にとうとうと語られてくるんだけども、
その老人は、
自分が作ったような歌を、
ファーっと歌ってやってくるといきなり。
狂人、狂った人なのかなと思ったらそうじゃなくて、
その歌が実は、
遠くに住んでいる村の、
起こった出来事を伝えるっていう、
いわばまだ郵便制度とかない、
その村に住んでいる人は、
その200歳の老人に、
1千ターボくらいだったかな。
めちゃめちゃ小銭を払うと、
またその老人がそれを歌にして伝達して、
老人をあちこち徘徊してるわけですよ。
200歳の老人が。
その老人自体がある種のインフラみたいになってて、
その主人公の一人の母親が死んだっていう、
衝撃的なことがその老人の歌によって、
知らされるっていう、
短いエピソードが。
一切その老人は登場しない。
どうですか。
その後、20年後か、
あるいは100年後くらいのところに、
2回だけこの老人の歌だけが、
引き継がれていくっていうのが、
またそれぞれ半行くらいだけ出てくるんですよ。
フランシスコ・エル・オンブレ。
どうですか。
そういうのが10行くらい。
普通の人だったら、
もっとそんなに色濃いエピソードは、
もっともっと語りうるけど、
パッと出てくるだけで終わりなんですよ。
急な登場人物が出てきて、
急に死んでいなくなったりとか。
急に死んでいなくなっちゃうんですよ。
そういうのがいっぱい出てきますよね。
いっぱい出てくるんですよ。
いっぱい出てくるから、
その背景に無数の広がりがあるような、
凝縮されてる感じがあって、
そういうのが出てくるんですよね。
岡田さんの気になった人物とか、
エピソードとかってありますか。
ちょっと私が今また喋りすぎてるので。
コロンビアに行った時に、
そもそも読めなかった。
最初、ペラペラと機内でめくったけど、
なんか結構重そうだから、
ちょっと後で読もうって思ってて、
つんどくしちゃって。
僕は基本的に海外の名作文学みたいなものは、
ちょっとあんまり得意じゃなくて。
なんとなく賢ぶって感じありますもんね。
若干、この本もシャに構えてた部分があったんですけど、
これがやっぱ3ページくらい読むと。
聞きが早いんですよ。
ウォッカと同じで。
聞きが早いんですよ。ちょっと読むと。
本当に蒸留紙の原集音出るみたいな。
だから一気には読めないというか、
一気に読むと吸収アルコール中毒になる。
これね、命とかに関わるんですよ。一気に読むと。
結構20ページずつくらい一晩で、
1ヶ月半とかけて、
いい読み方。
毎晩寝る前にね、読んで。
昨日ちょっと最後の晩だったから、
一気に結構100ページ近くバーって読んじゃったから、
うなされてしまったんです。
豚のしっぽ。
豚のしっぽ。
予言されていた。
最後の目、どんどんどんどん滅んでいく。
あそこ100ページ一気に読むのはやばい。
そう。
やばい。むせ返りますよ、それは。
だから僕も結論としてはすごく、
すごい本だったと思う。
好きなエピソードって結構バーって書いて、
そこを読み上げてもいいし。
最初になんだこれって一番思ったのが、
最初の方のエピソード、不眠症の話?
あ、それね。
そうそうそうそう。
外から来た人が最初来るんですよね。
ここまではまだ現実世界の話だなって感じがあったんですけど、
そっからなんでだっけ、レベイカか。
そう、父を食べるレベイカね。
父を食べるレベイカって少女が家族に迎え入れるんですけど、
レベイカが不眠症なんですよね。
夜寝れないみたいな。
そうするとどんどん不眠症が感染していくんですよね。
不眠症が転生していくっていうことなんですね。
今度の街の人々がみんな眠れなくなるんですよね。
映っていくんですよね、どんどん不眠症が。
寝たいからみんなどうにかして心身を消耗させようと
いろんな手を尽くすから、みんなで深夜に集まって、
ずっと中身のないおしゃべりをしますと。
特に、もう何時間も朝まで、
きんぬき鳥の話をしたっていう人があって、
鶏みたいなやつかな、きんぬき鳥。
まず語り手が、きんぬき鳥の話を聞きたいかと尋ねる。
みんなが聞きたいと答えると、語り手は、
聞きたいと答えてくれと、頼んだ覚えはない。
ただ、きんぬき鳥の話を聞きたいかと尋ねただけだ。
と言い、みんなが今度は聞きたくないと答えると、
語り手は、聞きたくないと答えてくれと頼んだ覚えはない。
ただ、きんぬき鳥の話を聞きたいかと尋ねただけだ。
と言い、っていうのがずっと続いて、
それをきんぬき鳥、聞きたいか聞きたくない、聞きたくないと尋ねた覚えはない、
みたいな話を一晩だけだと、ずっと街全体で全員し続けるっていうエピソードが。
これは1、2ページでこのエピソード終わるんですけど、
突然こういうおかしな風になって、なんだこれは。
不眠症の後に物忘れみたいなものにまた発展していくんですよね。
だから誰もが全てのものが分かんなくなって。
物語の連続性
不眠症の、そうだそうだ、症状の続きとして物忘れになって、
みんな名前を書いてあらゆるものに貼り付ける。
牛に対してこれは牛だっていうのがみんな分かんなくなるから、
牛ってちょうどメメントって映画がありましたけども、
ああいう感じでみんなが分かんなくなるから。
みんなが全てのものの名前を忘れる。
その不眠症の病気だってことをやってきた瞬間にそれを察知して逃げた、
別の千年王国かなんかの末裔の方みたいな人がいて、
その人が一回逃げた後に何十年後かなんかにまた出てくるんですよね。
それがまたもう一つの重要なシーンを繋がっていくっていう、
熱帯雨林の連なりみたいな。
でもその異常なシーン、ちょっと前くらいに出てきた異変は確か何だっけ、
熱帯雨林の中に突然ヨーロッパの船みたいなのが出てくるシーンがありましたよね。
自然と人間の関係
で、あれでその土地に最初に切り開いた補正アルカディオブエンディアが、
要するに近親相関みたいな形で元の村から放築された感じで出てくるんだけれども、
その人が非常に好奇心が強くてですね、地球が丸いっていうことを何らの他の情報なしに
自分で計算して発見するみたいなとんでもない人で、
その天才みたいな人が海がどこかにあるとか言ってどんどん行くっていうシーンがあって、
その人たちが軍隊みたいな自分たちの隊列かなんかを組んでいくんだけども、
自然を何しろ獣道どころか何も道がないようなものだから、
どんどん刀が切っていくんだけれども、切った瞬間にまた草が再生したみたいなシーンがあって、
そこら辺からマジカルな感じがあって、そんなことないやろと思うけど、
でもその後、私が思ったとき、これを思い出した。
一つ注釈は、私がこれを19歳、20歳になったときは、一回も海外に行ったことがなくて、
一回も外国ってまだ何だかわからなかったから、
わりと変なことが起こることに笑ってたんだけど、
その後私はこの20年間くらい色んなありがたいことに職業的な幸運をもえて、
アフリカとか中南米とか色んなところに行ったことがあるから、
確かにそういう自然の力が、守るべき自然じゃなくて、
人間の住むところを侵してくる敵としての自然みたいなのは、まだ残っているようになると、
もう切った瞬間に再生していく、なんか頂上的な植物ってこれあるなっていう感じで。
そうですね。この屋敷を常に、
メンテを一日中かけて草を切って、アリを追い払わないと、
常にその自然が侵食されるんですよね。
そうそうそう。すごい勢いになってるから。
その超人的な働き者のウルスラとか、
ウルスラおばあちゃんね。
そういう女性たちが、何とかその自然に侵食される屋敷を守るっていう日々が。
そう。ウルスラおばあちゃんが死んだ瞬間にグワッて、
自然が人間との力バランスが変わるみたいなシーンとかもすごかったですよね。
そういうとんでもないことが起こるってところに、私は初読の時は結構フォーカスをして、
やっぱり多分それってこの本を紹介する人もキャッチーに紹介するとしたら、
やっぱりこのチョコレートを食べて空中浮遊する神父登場みたいなこと言って、
そんなことないやろみたいなことを思ったりとか、
マジカルな。
あるいはものすごく美しい、誰の男性の心も奪ってしまう美しい少女が、
ある日突然洗濯物の布に包まれて、そのまま天に昇って昇天してしまって、
全くいなくなっちゃったみたいなシーンとかも、なんだこれとか思うんだけれども。
でもそのシーンはすごい印象的でした。
すごいですよね。僕もそれを覚えてます。
女の、みんな結構ね、ネタバレの上で言うと、
割と悲惨な死を遂げる人が多い中で、
このレイメイディオスという少女だけは空に昇っていくんですよね。
無垢なまま。
そう、死ぬとかじゃなくて。
何の別に伏線とかもなくて、
急に空に。
急に洗濯物に包まれて。
浮遊び上がって。
で終わりに。
そのまま消えていって。
出てこないんですね。
そのあと1個も出てこないっていう。
でもそのぐらいまで読み進めている読者は、
ああそういうもんだなみたいな感じになって。
そういうなんかその超常現象みたいなことが、
普通のように語られるっていうのを、
マジックリアリズムなんてもう語られ尽くされた、
手垢のついた言葉だけど、
そういう文学用語で呼ばれたりするんだけども。
もう1回こう読み返してみると、
なんかそういう安易なって言ったらあれだけども、
なんか文学的なターミノロジーというか定義付けをすることで、
かえってこの小説のね、
本質に奥深く入り込んでいく可能性を阻害してるんじゃないかっていうね、
気持ちに私はなるんですよね。
だからそういう変なことが起こるのも確かに面白いんだけども、
でも実は数を数え上げてみると、
実はそんなこの600何ページぐらいの本に筆すると、
そんなに多くはないですよね。
超常現象的なことが起こる。
そうでいろんなその、
40何歳でいろんな社会経験をしていくと、
いや土を食べる病気というかそういう人も、
いや少数だけどいるんですよね。
だからそのなんか、
ありえねえだろという人も結構いたりするんですよ。
でも私も不眠症の前線病は聞いたことないけど、
なんかそのぐらいの前の戦死時代とかって、
心のバランスとかいろんなので、
なんかあったんじゃないのっていう。
だからあったよりてか、
変なことが起こるから面白いみたいな、
ところとはちょっと違うことだなっていうね。
超現実みたいなところとはちょっと違うえぐみというか、
その良さがあって。
で、さらに思ったのはすごいやっぱり、
この人もともとジャーナリストというか、
非常にコロンビアってもともと政治的に非常に悲惨な歴史を辿ってたところで、
で、このマルケスさん自身が、
ガルシアマルケスさん自身が結構ヨーロッパをあちこち旅してですね。
30代ぐらいの時のこの人の旅日記とか読むと非常に面白いんですけれども、
そういう西欧のこと、いろんなもののよしなしを知ってるから、
結構西欧文化がポコポコところどころに出てきたりするんですよね。
で、そういうジャーナリスティックに書かれてるから、
なんか考えてみると、
チョコレート食べたら浮かぶとか、
ずっと雨が降り続けるとか、
その訳の分からないところの中にも、
もっとインパクトがある出来事っていうのはこの小説の中にはあって、
それは保守党とそうじゃないものすごい虐殺をされるとか、
労働者が騙されて資本主義の人たちに集められて、
ものすごい大虐殺をされて、
だけどそれがなかったことになるとか、
そっちの方がすごい驚異的なショックなことで、
でも考えてみると、
それって今もこの世の中にどこかで起きてるし、
かつてあったことだし、
そういうことがすごい、
こういう語られ口で初めて、
そのとんでもなさらに改めて気づくっていうか、
これはもちろんフィクションで、
マコンドなんていうものは世の中にはどこにもないかもしれないけども、
マコンドダッシュというか、
マコンドセカンドというか、
そういうものってもしかしたら古い日本にもあったし、
他のところにもこういうことがあったし、
だけどそれは語られ継ぐ人がいなかったから、
超常現象と人間の宿命
反復性ないまま消滅してしまった自治体があったかもしれないけど、
共同体があったかもしれないけど、
こういう悲惨なことがあったんだなっていうことを、
2回目に読んで非常に感じたし、
でも逆にそれだけを真面目に語ると、
多分こんなに読者は得られない。
これやっぱり悲惨な話なんだよね。
時々爆笑するけど、
面白いんだけど、
やっぱり人間世界の悲惨の線で紡がれた物語だと私は思っていて、
悲惨な悲惨な話をこういう語り口で、
だからこそ読めるし、
だからそこのすごい悲惨なことが、
面白い語り口で語られてから、
だからこの胸焼けというか、
なんか度数の強い酒に例えるのは、
そこにあるなって僕は思いました。
バナナ工場の話とか、
戦争の反乱の話とかも、
結構史実にあった近いようなことを書いているのかなと思いつつ、
でもそこに政治的な匂いを感じないというか、
純粋にフィクションとして、
なんか読んでて、
たまにそういうのって、
そもそもノンフィクションを読んでいるのか、
メッセージを受け取ろうとしているのか、
みたいなことを感じる場合って結構多いと思うんですけど、
割とすごい悲惨なことを書いているのに、
ただのフィクションとして、物語として楽しめる。
めめめは娘森を迎えつつあった。
昔のアマランタと同じで、
どう見ても美人とは言えないが、
そのかわり、感じがよくと。
なにこれ。
わんじ。
そうちょく。
感じがよくて、
さくしつべ。
今この焼酎のつまみとしてバナナを持ってきたので、
このバナナは複雑な気持ちで。
アメリカ人のバナナ工場を作るんですよね。
グローバルサウスなんて言葉は最近出てきた言葉だけど、
それ自体は昔からあって、
北側の持っている人から資本的に搾取されて、
本来あったものが潰されていく。
その象徴としてバナナがあるので、
このバナナを食べながら、
僕らにとっていろんな後味を、
バナナで焼酎を飲んでいくということを、
一回やっていこうと思った。
それが私の感想でしたね。
思ったより、ガルシアマルクスが
すごい教養が深くあられるなって非常に感じたのは、
一つ一つに古代文明とかスペインの話とか、
ヨーロッパの話とかが、
ところどころふらふらっと出てくるんですよね。
それが南米だけで終わっているのではなくて、
突然、主要人物でもイタリア人の人がね、
可哀そうな人がいたじゃないですか。
いましたね。
ピアノを修理する人ね。
あの人一生懸命ね、
一人の女性を愛そうと頑張ったのにね。
私でも世界中あちこちを旅して、
実際に行ったことのある場所とかが出てくるから、
そういうところの楽しみ方は、
2回目に20何年ぶりに読んで、
初めて分かったようなところってのはありますね。
例えば、
私が結構心震えたシーンの一つは、
中盤から後の方で、
フェルナンダ・デル・カルピオって人いましたよね。
覚えてますか?
この人はどうですか?
フェルナンダ・デル・カルピオですか、これは。
フェルナンダね。
フェルナンダ、なかなか酷い人ですよね。
あんまりこれを最初に読んで、
この人を好きになる人はいないんでしょうけども。
でもなんか、すごい可哀そうな。
そう、可哀そうなんですよ、この人ね。
異常な家系で、異常なところで生まれてるんですよね。
女王になる人として育てられて。
でも本当はむちゃくちゃ貧乏な貴族なんだけど。
女王の証として、
金のお丸だけを持って、
私はこの金のお丸で世を出したと。
こんな人は今度はいないだろうって、
そこだけで自分の境地を保ってるという。
いきなりコロンピアのこんなとこ来ちゃうっての。
明らかに何かがあったからこうなってるんだけど、
頑張って順応しようとするけど、やっぱり順応できない。
しかも最後の方で、
実はその金のお丸は、
金のお丸ってずっと書いてたけど、
ただ紋章に金がちょっと使われてるだけだったみたいな。
めっちゃサラッと書いてあって、
悲しいと思って。
重大な事実がシラッと書かれるんですよね。
これまたケレン見なんですよ。
文学と歴史の交差点
この小説の。
この金のお丸だけがフェルナンダーの唯一の証って書かれてたのに、
そんなしょぼいお丸だった。
残酷なんですよ、このガルシア・マルゲスの視線はあくまでも。
そのフェルナンダーも非常に癖のある人で、
娘さんとうまくいかないんですよね。
レネーター・レメディオスっていう若い女性が、
ある若い若者と別の若者と恋をするんだけれども、
何かひとつの不幸な事故があって、
結果的には殺されるみたいな感じになっちゃうんですよね。
このフェルナンダーのせいで、間接的に。
それ以来、レネーター・レメディオスは口を聞かなくなっちゃって、
それでどっかに行きましょうとか言って、
フェルナンダーがメメと呼ばれる人を連れて行くんですよ。
連れて行って、そのまま捨てるんですよね。
いきなり修道院というか、2層のところに行って、
ここら辺のちょっと私も短いシーンですけども、
読み上げてきますけれども、
さあいらっしゃい、レナーター。
メメはその手を握り、言われるままに後について行った。
見習い2層に足を合わせようとしている姿を、
最後にちらっとフェルナンダーに見せて、鉄格子の奥に消えた。
そうなってもまだ、メメの心は、
マウリシオ・バビロニアの上に、
その身辺から離れないがの上にあった。
遠い先のことだが、様々な変名を使ったあげく、
クラコーの暗い病院の片隅で、
一言も口を聞かずに浪水で息を引き取ることになる、
クラコフとガルシア・マルケスの繋がり
あの秋の朝まで、
彼女は一日も欠かさず、彼のことを思い続けたに違いない。
これで終わりになるんですよ。
この人は数行前までは、多分10代後半ぐらいの女性が、
いきなり死んでしまって、
それまで一言も口を聞かないとかいう、
ちょっと普通では考えられないことで終わって、
それ以来もメメは登場しないっていうですね。
さらに言うと、このクラコーっていうのは、
ポーランドのクラコフっていうですね、
ポーランドで言う京都みたいなことなんですよね。
当時30何歳の頃、ガルシア・マルケスは、
実際にポーランドのクラコフを訪れているんですよ。
私もそこを行ったから、
あの空気の感じとか、
ヨーロッパって50年経っても、
意外に空気変わらないところがあったりするので、
特に古い年は。
ここに1回目読んだ時には気づかなかったけれども、
ガルシア・マルケスが実際にヨーロッパとも繋がりつつ、
コロンビアのこういう昔の人たちからも繋がっているってところが、
急にこういうところでさりげなく、
いきなりクラコフの暗い病院の片隅でって言われると、
そこに込み入るものもあるし、
死者の復活のテーマ
それをこれ以上言葉を費やさずに、
すぐまた次の衝撃的なシーンに続いていくんですよ。
だから上流誌なんですよ。
上流誌なんですよ。
メメもそうですけど、
メメの場合は、
ショックな出来事があって、
それ以降、死ぬまで一言も喋れなかったみたいな。
急にそういう、死ぬまでどうだったみたいなのが、
次の行に出てくるから。
そのやつがね、一緒なんですよ。
死ぬまでみたいな。
全く同じことをやらせるんですよ。
ずっと心の力が強すぎて、
一回死んだけどもう一回戻ってくるやつがいるんですよね。
一回死んだのにもう一回生き返ってきたとか言って。
なんか、あれ?みたいな感じで。
そういうこともありながら、
さらに言うと、
この岡田さん気づいたかどうか分からないけど、
ガルシアマルケスが気づいてなくて、
なんか蘇ってくるやついるじゃないですか。
あれ分からない。
なんか殺されたって出てきてるのに、
何の注釈もなくいきなり出てくるやつがいるんですよ。
ニカノルシンプってやつがいて、
ニカノルシンプは、
それがもしかしたら、
謝りがあるみたいな、
役で書いてあった。
決定的にニカノルシンプってのは、
死んでるんですよ。
銃殺されたって書いてあって。
かなり後のシーンで、
いきなり話しかけてくるんですよ。
主人公に。
それは、
作画ミスじゃなくて、文章ミス。
それとは別に、
一回死んだけど、
シンガポールから死んだんだけど、
もう一回戻ってきたとかいうやつがいて、
そいつがまた死ぬメルキアデスとかは、
これはもう一回来たってことになってて。
普通に帰ってきますよね。
普通に帰ってくるし、
序盤でこの、
補正アルカディオブエンディアが、
森かなんかで突き殺したやつがいるじゃないですか。
村のやつ。
そいつは死ぬんだけど、
幽霊のままもう一回歳を取って、
歳を取って、100歳以上を超えた
ボケになっちゃった人の前に現れて、
それで和解するんですよ。
なんかその、
意図せざるのが、
ガルシアマルケスがこういう風になったってことで書いて、
死者からの復活と、
ガルシアマルケスが、
季節してそうなってしまった死者からの復活みたいのがあって、
そこがまたね、
さらに高次元に行くっていうかね、
これは文学テクニックとかじゃなくて、
普通にミスで、そのニカドル神父がまた死ぬんですよ。
その後もまたね、
刺して銃じゃないけれども、
街をあるし守る、
つまりキリスト教って僕らが思ってるよりも、
すごく深く南米の人たちにとっては、
要するに自分たちは元からそういうことは、
そういう土着的な宗教しか持ってなかったはずなのに、
なんかおじいきせられて、
なんとなくその調和を、
かつての調和を乱してくる存在として、
キリスト教って多分あると思うんですね。
だから神父が来るって結構大きなことなんだけども、
繰り返し来るとまた神父が、
いろんなことをしてくるんですよね。
最後の最後の滅びの地獄のところでも確か神父、
いましたよね。
どうですか岡田さんこれは。
つい語ってしまってしょうがないんだけども、
そこは私は気づきの点でしたね。
数字の重要性とキャラクターの運命
そうですね。
普通に印象的だったエピソードみたいな話で言うと、
なんかやっぱり、
さっきの、
現実的なとこだけを見るのは、
ちょっと表層かもみたいな話ではあったものの、
やっぱり、
数字。
数字の徹底的な。
過剰ぶりというか、
一番メインキャラクターの一人である、
アウレラの大佐が、
アウレラのブエンディア大佐ね。
が、32回反乱を起こして、
32回敗北するみたいな。
32という数字がめちゃめちゃ、
すごいですよね。
頭に残るとか、
とにかくこの屋敷で、
敵的にバカ騒ぎが、
徹底的な。
勝負の館っていうか、
誠意欲がみんな強すぎる。
本当に屋敷むちゃくちゃにして、
遊ぶと。
サスタバカなんかを火に放り込んで、
爆笑するみたいなシーンがあって。
ありましたね。
むちゃくちゃなんですよね。
一番数字的に多かったのが、
メメが友達をいっぱい連れてくるみたいな。
合計72人連れてきて、
72人が暴れまわる。
その辺のものを食い散らかして、
その辺でクソを押しまくって、
そのクソしたのを天外のカーテンで、
尻を拭くみたいな。
そのために、
ウルスラーか誰かが、
72個のオマルっていうのを用意して、
オマル全員分用意して、
そのバカ騒ぎ終わったら、
72個のオマルが全部、
部屋に閉じられる、
みたいなエピソードが。
数字の過剰っぷりみたいなのが、
一緒に残らざるを得ない。
要因に浸る間もなく、
次々に新しいエピソードが出てくるから。
だけど、全部を通してみると、
一本数字が通ってるか、
最初と最後が、
つながっているのねという、
アメルキアですが、
全部分かってたの?
え?っていうことになりますよね。
300ページとかそこら辺しか読んでなかったら、
そんなに最初に出てくる人に、
思い入れなんてないはずなのに、
これもテクニックなんだろうと、
語りのテクニックだと思うけど、
すごく懐かしく思えてくるんですよね。
アルカディオブウェンディアとか、
ウルスラーイグアランとかが、
わーってやってた時期が、
時々出てきたそういうのを思い出したりとかして、
息子さんのアブリレイの体操とかは、
かなり心がもう、
情緒がなくなってしまって、
最後の最後で、
ちょっと特殊な人がいるんだけど、
昔のことを時々思い出すエピソードとかには、
読み手である私なんかは、
あの時は本当に心がギュッと掴まれるような、
昔は良かったんだなーって思いを見て、
もう一回読み返すと、全然良いこと起きてないんですよね。
めちゃくちゃ、昔も昔でめちゃくちゃで、
ノスタルジックになることによる、
後半になると、
前半のことを知っている登場人物が、
現れなくなるから、
読者である我々しか分からない状態になる。
だからそういう、
ノスタルジックで昔は良かったと思ってしまって、
補正されちゃうようなところも、
この本をただ一冊読むだけで、
なんか次々に押し寄せる、
波濤のような群れに、
前半だけあるじゃん。
とんでもない無茶苦茶。
昔は良くないんですよ。
めちゃくちゃですよ、これ。
そういうこともそうだし、
だから一つ一つの土地にこういうことが、
切り去らないだけでやっぱり無数に起きてるんだと思うし、
だからこれはコロンビアの片田舎の話だけじゃ、
たぶん終わらない、
逆説的に言えば辺境だからこそ、
誰にも何かね、
侵されないような、
そういう人類の共通するような、
何かものがここに集まってんだなと思って、
全然古びない感じの、
アクチュアルなものとして、
僕の心にこの小説が迫ってきましたね。
これは凄かったですよ。
石川さん。
石川さん読んでない?
石川さんはどう思いました?
この本について。
集まってはない。
音声のフェーダーを、
途中でちょっと。
音量調整した。
その場で調整する。
ちょっと読んでみたいと思いました。
石川さんって民族音楽とか好きだから、
南米とか音楽好きだから。
でも難しくないですよ。
難しくないですよ、これ。
難しくて長いイメージ。
長いし密度があるのはそうだけど、
マルケスも、
エンタメ要素の作品全部読んでるんですよ。
小説は全部読んでるし。
確かに難しいのはあるんですよ。
エンタメ要素があるから、
5千万部で読めるんですから。
小市はそんなに小説なんて読んだことない人とかも、
含めてバンバン売れてるので。
そういう意味で、
面白さの吸引力が半端なく
消化されたっていう作品。
マルケスの初期の方とか、
文学的に非常に難しさというか、
ある程度かなり小説を読み慣れてないと、
読み下せないような。
文学的というか、
ぐわーっと来てますよね。
本人は本当か嘘かわかんないけど、
おばあちゃん、彼のお母さんから聞いてきた話を
そのまま書いただけだと。
実際にあったことを書いただけだと。
いや、そりゃないだろ。
さすがにそりゃないよね。
と思うんだけど、
フォークルは頭では言わないけれども、
そういうアレとしてなんで。
コロンビアに住んでる友人とか、
その人はスペイン語の翻訳の仕事をしてるんですけど、
原著とかで読むと、
より簡潔な表現というのが、
かなり日本語よりもさらに特徴的らしくて、
そういう面白い民話と、
マルケスのジャーナリストとして、
新聞記者として培った簡潔な文体みたいなのが、
悪魔合体したから、
それが売れたんじゃないかと、
その人は言ってますけど。
そうだと思いますね。
すごい読みやすく面白い。
私もスペイン語勉強してたんですよ、
でもダメでしたね。
さらにすごい読みやすいらしいですよ、
スペイン語。
スペイン語か。
でもよかった、岡田さん。
昨日の夜読んだ。
12時間前に読んだ。
見なされたわ。
誰が気に入りました?
キャラクター?
最後にその話をしましょう。
そういうものでもない。
でもやっぱウルスラ、
女性かな?
ウルスラおばあちゃんが最後に、
子供とかにいたずらされるシーンとか、
胸が痛みますよね。
ウルスラの台詞で、
時は少しも流れず、
ただ堂々巡りをしている、
みたいな台詞があって。
そうやってこの本を象徴するような、
言葉の人じゃん。
ずっと同じことをし続けるとか。
これ散々評論とかされてるかもしれないけど、
そういうシーンがいっぱいあったけど、
最後は反復の可能性がない。
思い出したから。
我々のリスナーの会員の中に、
最初の文と最後の文だけを読むっていう、
特殊な性癖の方がいらっしゃってて、
その方が、
100年のことかまだ読んでないんだけども、
最初の文か、
最初のセンテンスと最後のセンテンスだけ、
読むって方が、
今まで読んだ中で、
一番最後のセンテンスでしたとか言い方があって。
え?え?とか思って。
それはそう。
ぐるぐる巻きながらも、
反復の可能性がない。
物語の絶望感
この絶望感。
この絶望感足りやですよね。
破滅みたいなのも結構急速に
破滅味が増していくんですよね。
途中まではまだまだまだみたいな感じで、
テンションは高いままの、
上げ上げな感じでいくんだけれども、
古本屋さんとかね、結構いい感じの味わいが出てくるんだけど、
だんだんだんだん故郷を捨てるっていうか、
やっぱりヨーロッパに戻っていくか、
みんな見捨てていって、
なんかだんだん誰もいなくなって、
なんかトルコ人だから何かだけは商売やってるけど、
何も売るものがないんだけどお店をやってるとか、
あんなシーンがあって、
そんなそりゃ、みたいな思いながらいるんだけど、
最後滅びちゃうんですよね。
最後滅びちゃうんだよな。
禁心相関に始まって最後も、
この本人が分からない禁心相関で
終わってしまうんですよね。
文学的な甘美さ
最後の方に出てくるやつも、
結構いいやつなんですよね。
愛すべきやつなんですよ。
最後に愛が。
気配としてのメルキアレスが登場するんですよね。
だんだんだんだんその、
これとかも今、
今日的な漫画の表現とかですよね。
気配がだんだんなくなっていって、
幽霊なんだけど、幽霊の中でも死っていうのがあって、
その消滅に近づいていくみたいな表現が。
なんかマイページに
その山があるみたいなのは、
ちょっと現代的というか、
少年ジャンプっぽいですよね。
5行くらいだって開けられる。
どれ開いたら面白いっていうのは、
だから文庫版もそれくらい売れてるのかもしれないですね。
そうかもしれないですね。
なんかね、たまらないですよね。
時間があれですよね。
最後にさとるさんがなんか、
語る。
じゃ、ありがとうございました。
これで終わりにしましょうか。
超たべラジオ、
最後の言葉は、
つい安貴さん。
解説から
一つ
パッセージを
読み上げようと思います。
小生
この作品を読んで感じたのは、
一種のやりきれなさだった。
なんと
4年と11ヶ月と2日
雨が降り続けるのだ。
着物に苔が生え、
家に水が入り、
朝目覚めると背中一面に
ヒルがくっついて血を吸っている。
アウレレのセグンドの妻、
フェルナンダは、
次第に怒りが募って、
夫や家族への不満や
悪態を本流のように吐き、
それは、ある朝から始まって
一日中続き、
翌朝になってもまだ続いている。
これが原稿用紙にして、
約10枚分開業なしで続く。
これにじっと耐えていた
夫はついに爆発する。
ゆっくりと立ち上がってから、
まずはベゴニアやシダやランの蜂を
一つずつ床へ投げつけ、
瀬戸物を粉々に砕く。
さらにボヘミアングラスや手書きの花瓶や
金メッキの枠の鏡などを割り、
広間から穀物部屋まで壊れやすいものを
すべて手にかけ、最後に台所の水亀を
中庭の真ん中に投げつけて砕くのだが、
この描写がすべて重厚的な
ゴチック調で描いているものだから、
やりきれなさが募り、
しかも雨が止んだ後は感抜が10年続くのである。
ここまでくれば、
やりきれなさの爆発だ。
こうした不条理は文学的主題であり、
文学として消化されているからこそ、
一種の甘美さを伴っている。
暴力的な甘美さである。
あの、お断りしておきますが、
引用している文章は、
すべて小生の文章として書いておりますので、
原文通りではありません。
原文はもっと修念深いのです。
お覚悟を。
その通りだ。
ということでございました。
50:01

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