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2025-05-11 26:37

第6章「死によって、意志を繋いだ思想家"吉田松陰"」

テーマをいただきましたハリートさん(https://x.com/@haliito_emb )誠にありがとうございました😭


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今回は時代を大きく変えた人物「吉田松陰」で話をしております

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サマリー

吉田松陰は、自らの死を通じて意志を繋げた思想家であり、その評価は時代や立場によって大きく変わります。彼の生涯や教育者としての影響、特に明治維新に果たした役割が考察され、危機感を持って日本の未来を見越した行動を示します。吉田松陰の思想は、死を通じて彼の意志を後世に繋げることに重きを置いています。彼の教えは弟子たちに大きな影響を与え、明治維新の立役者となる人材を育てるきっかけとなりました。吉田松陰は弟子たちを育成し、彼らを通じて国を変えようとした偉人で、その理念は後世にも影響を与えています。

00:01
おはよう、こんにちは、こんばんは。武将について喋るラジオ、略して武将ラジのうっちーです。
この番組では、学生時代に学芸人を目指そうとも考えていた、歴史好きである私、うっちーが、毎月11日、そのポッドキャスターの日に、様々な武将について話をするという番組です。どうぞよろしくお願いしま〜す。
今回のテーマは、ポッドキャスターさんのお呼びいただきました、まことでございます。
今回のテーマをいただきましたのは、前回、包丁ときゆきのテーマをいただきまして、引き続きになりますけど、ジャガジャガラジオのハリートさん、まことでございます。
様々な企画や番組に顔を出されておりまして、ポッドキャスト界を盛り上げていらっしゃる、ジャガジャガラジオ様、肉ザガを家庭料理にできないこと、ニックさん、ハリートさん、サキちゃんさん、エビのしっぽさんの、女性4名でされております、ポッドキャスト番組様でございまして、
様々な話題、キュンキュンするような恋愛話であるとか、日々の出来事の話、漫画の話やどんなグミが好きか、から映画の話など、様々な話題を楽しく明るく好きなものを話す雑談番組でございます。
明るい気分になった時にお勧めしたい番組様でございます。今回テーマ、前回引き続きまして、ニックさんとハリートさんに先日僕のベース番組、マンラジの方でスペース参加いただきまして、その際にテーマをいただきました。
今回テーマはそのマンラジの昨日の配信、5月10日の配信と今日の5月11日部署ラジの話、合わせた配信になっております。
昨日のマンラジと今日の部署ラジでは明治維新頃の話をします。この頃の明治維新の日本というのは幕府側と新政府側で意見が全然変わります。
当時の人物とか地域を語ろうとしますと、例えば長州藩を語ろうとすれば、新政府側からすれば新しい日本を生み出した素晴らしい手段となるんですけども、
幕府側からすればその時の政府に反乱した、いわばテロを起こしたテロリスト集団じゃないかというふうにも捉えられます。
また、いいなおすけという人物、新政府側からすれば日本を弱体化させた超本人だというふうに悪く言われれば、幕府側からすれば誰かがやらなければいけない貧乏居住を引かされた人物といったように評価が分かれます。
どの時代のどの国の偉人でも評価は分かれるものではあるんですけども、この明治維新頃の日本というのはどうしても評価がすごい分かりやすいです。
そういうところもありまして、昨日の5月10日マンラジでは銀玉をどちらかといえば幕府側から、今日の5月11日部署ラジでは新政府側で話ができればちょうどバランスが取れるかなということでここまでテーマを引っ張らせていただきました。
なのでよろしければ昨日のマンラジ、今日の部署ラジ両方聞いていただけるととても嬉しいです。
吉田松陰の紹介
それでは今回話をさせていただきますタイトルはこちら。
地によって意志をつないだ思想家、吉田松陰。
今回部署というよりは教育者思想家と言われます吉田松陰という人物で話をさせていただきます。
この吉田松陰という人物も視点の違いで評価が本当に大きく変わります。
吉田松陰の弟子たちの影響が強い新政府軍が勝利しました。なので明治維新頃は吉田松陰は英雄という立場でありますけども、
ただこの人の考えたこととかを考えると幕府側からするとこの人って危険人物だよねというふうにも捉えられます。
そういった意味で評価がわかりやすいという人物ではあるんですけどもまたこの方。
自分自身吉田松陰自身で国を変えたというよりは吉田松陰自分自身の死後によって大きく国が変わりましたしそして国を変えるには吉田松陰という人物の死が強い不可欠だったとも言えます。
とてつもない影響力を持っていました。でもなぜ死が必要だったのかといった話を今回させていただきます。
吉田松陰という方の人生というか生涯をざっと話させていただきますと、
西暦で言いますと1830年吉田松陰は元々は杉家、杉という家の下級武士の家なんですけどもここの次男として生まれます。
当時はどうしても家を継ぐというのは長男ということもありまして次男とかは他のところへ後継いないところ養子へ出るというのがよくありました。
ただこれ養子へ出すには優秀な子でなければ養子になれないよとかはありました。
優秀でない子は言い方悪いんですけども家族を継ぐことができないで財産とかもあまり残されないという。
長男とはかなり身分が違うという形で育てられたりしましたし、家によっては長男に何かあった時の代理というかスペアのような育てられ方をしたそんな家もあります。
松陰の場合はおじにあたりまして山賀流兵学師範という兵学兵についてとかそういったのを教えている吉田大介という方の養子となります。
これも松陰氏が優秀だったのでいいところに養子になれたというイメージで聞いていただければなと思います。
ただこの吉田大介氏が早くいなくなります。5歳で松陰氏は養子に入ったんですけども6歳の時にはその義理の父である吉田大介氏が亡くなったという状況です。
山賀流という人にものを教える立場にかからず6歳でその家を継がなければいけなくなったという状況になりました。
でもそういったところ助け合いということもありましてまた別のおじにあたります玉城文之進という方に吉田松陰は色々と教えをこうことになります。
この文之進さんが開いていた塾がありましてそこで吉田松陰も学ぶことになるんですけどもこの塾の名前が松下尊塾と言います。
よく松下尊塾は吉田松陰が行っていた私塾、自分の費用とかを使って行われて塾であるということで有名ですけどもこの松下尊塾の設立者は
吉田松陰のおじにあたる玉城文之進という方だったりします。 その松下尊塾で吉田松陰は厳しく学びを受けたと言われておりまして
その階もあってか9歳の時には人に兵学とかを教える立場になっていたということもあります。
また11歳の時には藩主である毛利忠勝に講義をしてその講義の内容をとても評価されたと言われております。
そして若くして様々なことを学び習得している神道、神の道児、神のわらべとかも言いますけども神道と呼ばれるようになりました。
それまでは13歳の時には長州藩内の艦隊よく海とかをで戦う船の舞台ですね
こういった艦隊の実習にも参加する立場にもなっていましたし藩の中でも期待されていました。
また山賀流以外にも他の学問も学んだ方がいいよねというふうに藩からも期待されまして
長沼流というまた別の兵学も学んだりしておりました。 そして山賀流、長沼流という様々な学問を収める方となりました。
このように様々な学問を収めまして今後の藩を背負っていくんじゃないかと期待感も持たれたんですけども
1850年吉田松陰が20歳の時にアヘン戦争というものが過去に中国であった。そしてイギリスによって中国がボロボロにされたということを知ります。
アヘン戦争自体は1839年から1842年頃のものなんですけどもどうしても当時は今のようにインターネットとかニュースメディアとかもないので
情報、特に海外の情報が入りにくいということもありました。 なのでそれぐらい時差があったんですけどもただ
アヘン戦争後にどれだけ中国がボロボロになっているかそういった情報も1850年の時に吉田松陰は知ることになります。
これによりまして吉田松陰としては中国の次は日本が危ないのかもしれないという危機感を感じます。
そして自分自身で情報を集めることにします。 当時は1850年江戸時代
江戸時代と言うと鎖国をしていたということでよく教科書とか載っていますけども 鎖国をしていても当時4箇所海外と貿易をしていたところが日本にもあります。
例えば有名なところで長崎の出島、他にも薩摩や津島、松前藩は他国との貿易をしておりました。
こういった貿易をしているところとかでは海外の船とかを見るチャンスがあるんだということで吉田松陰としましてはそういった海外と貿易をしているところに自分の目で見てみようというふうに考えました。
そこで長崎出島であるとか津島に足を運んだと言われますし津軽海峡、青森あたりですねここにロシアの船が通るかもという話を聞くと実際に津軽海峡の方まで行ったと言われます。
またそういった海外の船のことだけでなくて日本国内の状況も見ようということでその後合図など様々なところで足を運んだと言われます。
そうやって各地の情報自分の目で確かめた結果吉田松陰は今後の日本は危ないと感じるようになります。
このままでは西欧諸国に日本はボロボロにされると考えました。
そして1853年裏側にペリー来航が起きます。
この頃吉田松陰と同様に江戸幕府のお偉いさんたちもアヘン戦争などによって中国がボロボロになっているという情報をキャッチしておりました。
そして幕府としても西欧諸国が自分たち日本のところに来た時どう対応するかということで意見が分かれておりました。
列強諸国と戦おうにも列強諸国と戦うだけの兵力があるのかそして戦った結果中国のようにボロボロにされるかもしれないという結果も感じますし
また西欧諸国から日本に不利な条件での貿易を迫られる可能性が高かった。
でもこれを断ることができるのか断ったらやはり中国のようにボロボロにされるのではないか。
アヘンとかを日本に蔓延されるのではないか。そんな危機感を感じておりました。
ただ実際じゃあ不平等な貿易の条約飲むのかよ飲んだらそれこそ日本という国の資材を海外へ売り渡すことになるじゃないかということでやはりは意見が割れておりました。
それで幕府としての対応をどうしようかどうしようかと悩んでいた時吉田松陰自身としてはペリーの黒船を実際に見に行き乗り込んだと言われております。
そして黒船を実際に見てそこで話を聞いた時にやはり西洋と日本では力の差が歴然であるということを実感いたします。
そして吉田松陰氏は藩に戻りまして藩主に対して意見書を提出します。
海外への知識と密港
西洋諸国と日本では力の差がありすぎる。このままでは日本という国が危機に陥る。
だからこそ日本中の諸国がみんな一致して幕府を助けるしかない。
西洋諸国の脅威に対処すべきだということを説きます。
日本中みんな意見が分かれているんじゃなくてみんなで一緒の意見にしましょう。それで幕府を支えましょうね。
それで日本という国がまとまって西洋諸国に対抗するしかないよねと意見書を出します。
ただこの時吉田松陰は私責剥奪という処分を受けまして武士の身分を剥奪されておりました。
と言いますのも吉田松陰は日本各地を回る際に藩からの許しを得ないで他の藩へ行ったりしました。
いわゆる脱藩をしておりました。当時としては日本の国内でも藩と藩が違うと国が違うというようなものなので他の藩に許しも得ないで行くというのは今の国で行けばビザとかパスポートそんなのもないのに他の国へ行くようなものです。
それは罪となります。また吉田松陰黒船に乗り込んだと言いましたけれども
黒船に乗り込んでその乗っている人々の話をしたと言いますけれども幕府を通さずに勝手に海外と交渉を試みたというふうにも捉えられましてこれもまた罪に当たりました。
なので私責剥奪浪人となりまして藩に戻っても以前のように藩に対して意見をまともに出せる状態ではないし
意見を出しても藩としてはまともに取り扱われることはなかったです。
そんな状況でも吉田松陰としてはさらに海外を知る必要がある。それで日本を守る必要があるんだということで海外の情報を知るため海外への留学を決意します。
これも特に許可を得ないままに海外へ行こうとしました。いわゆる密港をしようとしました。
ただ乗り込もうとしたアメリカの船から密港に乗せていくのを拒否されまして吉田松陰としては密港に失敗します。
その結果吉田松陰は盗獄、牢屋に入ることになります。
この時に吉田松陰とかその死にあたる佐久間松山とかを処刑しようという動きもありましたけども幕府内としても死刑はダメだよねという反対する方もいまして死刑を免れます。
ただその後吉田松陰は様々なところで遊兵されることになります。
吉田松陰の教育と昇華尊塾
ただ遊兵される牢屋に入れられる先々で囚人であるとか看守に対して論語とか申しそういった様々な学問を教えたり
そして今の日本がどうなっているのかこのままでは日本がどうなのかといった議論を囚人や看守ともに行っていたと言われます。
その結果遊兵される先々でその場にいる囚人や看守に学ぶ楽しさそして学んだことを議論しさらに意見をより良いものに昇華させていくこの楽しさをいろんな方に教えていったと言われます。
元々は藩で物を教えている仕事をしておりました。
この遊兵の経験もありましてさらに教えを説くことの重要性に目覚めていったと言われます。
その後吉田松陰は自分の生まれである杉県遊兵という処分自宅禁止という言い方でもいいかもしれませんけどもそういった形になります。
そこで吉田松陰はお地が開いていた昇華尊塾の名を引き継ぎまして杉県の敷地で塾を開きます。これが一般的に言われる昇華尊塾でございます。
その昇華尊塾には様々な方が学びに来ます。生まれを問わず様々な人物が学びましてそこで学んだ人々が明治維新において活躍をします。
数々の偉人がいますけども例えば有名なところでも久坂玄瑞、高杉晋作、伊藤博文、吉田利物など他にも数々の長州藩士を育てることになります。
また昇華尊塾に入塾はしてなくても山形有友や桂心などにも影響を与えていたと言われます。
実際桂心も別の形で吉田松陰の教えを受けていたと言われます。
その後1858年に日本とアメリカで日米就効通商条約という日本にとって不利な条約を結ばせられます。
それを知った吉田松陰は激動します。これこそ日本の様々な資材を海外に持ってかれるじゃないか。
日本という国を危機に陥るじゃないかということで激動します。
そして老中、朱座という今の大臣の所でも朱座トップに当たる真鍋昭勝に条約破棄と上位の実行を迫りましてそれが受け入れなければ打ち取るという策を考えます。
もう少し紙くらいで話しますと大臣のトップに直接意見を言います。海外との不平等な条約を取り下げろとその上でこんな条約を結んだ今の権力者は
情けない日本にとって申し訳ない。だから権力から下りますということを約束させるということを考えます。
もしもそれを受け入れないのであればその大臣のトップを処刑するということです。
吉田松陰はこの計画を実行するためにも藩に対して大砲とか武器弾薬とかを貸してくれということを願いでますけども
藩としてはそんなこと許可できないよということで拒絶されます。その後吉田松陰は参勤交代で江戸へ行く予定の藩主
毛利孝子を待ち受けて江戸に行かずに京に入らせようとしました。 当時京都には幕府を倒そうという考えの方が多く集まっておりまして
そこに藩主を強制的に加わらせて長州藩を江戸幕府と対立させるという案を考えました。
幕府への反対と投獄
不死身洋画作と言われたりもします。ただこの不死身洋画作は草賀玄瑞や高杉晋作、桂心などの弟子や友人の多くが反対をしたりしますし
さらに先生今ちょっと落ち着いてください。辞聴してくださいということを唱えられます。それに対して吉田松陰はひどく失望したと言われます。
自分の意見を知ってくれている弟子や友人がなぜ自分の意見を反対するのかということで失望したと言われます。
その後も吉田松陰は幕府が日本最大障害になっていると、こんな不平等な条約を結ぶなんて幕府が悪いよね。
日本にとって江戸幕府ってのはもうダメだよねというふうに考えます。それで様々な形で倒幕を持ちかけます。
ただその結果長州藩の中でも危険視されまして野山国というところに遊兵されることになります。
その後1859年梅田雲平が幕府に捕獲されます。 当時日米就効通商条約を結んだことに対して幕府に対して反対を意見を述べる方は吉田松陰以外にも数々いました。
その反対意見を述べる人々を幕府が捕まえていました。 幕府に対して反対意見を述べる人をどんどんどんどん捕まえていきまして結果100人以上が幕府に捉えられます。
有名な安政の大国というものでございます。 この梅田雲平は安政の大国に起きる最初に捕らわれた人です。
この梅田雲平は捕らえられてどれだけ拷問されても自分の仲間であるとか同じような考えを持っている人物たちの名を挙げなかった。
吐かなかったと言われました。 その後捕らわれている最中に病気によって亡くなったと言われております。
その梅田雲平が萩に滞在した際に吉田松陰とも面会をしているとか。 また伏見陽賀作を立案した人々が雲平の文化性であったことがありまして
吉田松陰も幕府から要注意人物だよねということで捉えられます。 そして江戸に搬送されまして江戸において投獄されます。
その後江戸におきまして幕府は松陰に問い垂らします。 評定所とか裁判のようなものですね。
そこで雲平が萩に滞在した際松陰とどんな会話をしましたか。 その確認のために投獄したんですけども松陰はその場で老獣暗殺計画である
真鍋あひかつ陽撃作を自ら進んで告白してしまいます。 これは特に拷問とかをされたのではなく自ら話をしたと言われております。
この結果吉田松陰は危険人物だとみなされまして死刑を宣告されます。 そしてその後死刑が執行されまして去年29歳で亡くなります。
松陰の死と弟子たちの覚醒
ただこの吉田松陰の死が弟子たちに大きな影響があります。 死ぬ間際まで吉田松陰は自分の考えを曲げなかった。
自分の思うことははっきりという吉田松陰の姿を知っていた弟子たちは改めて 吉田松陰という人物がどれだけすごい人だったのか
どれだけ自分の意志を持っていた人物なのかを認識しまして 自分たちも奮い立つべきだと考えまして弟子たちが立ち上がります。それが明治維新につながります。
神道とも呼ばれまして様々な知識を持ちながら行動力や意志の強さを持ちまして そして自分が学んだことを人々に伝えていった吉田松陰によりまして
日本という国は大きな変化を迎えることになります。 といったところが吉田松陰という人物でございます。
この吉田松陰は国の偉い人への暗殺計画など幕府側からすれば今で言うテロリストではあるんですけども
ただ本気で国のことを憂いそして実際に国を変えるきっかけを作ったということで 新政府側からすれば英雄でございます。
正義とか悪で世の中語れないことはとても多いですけども 視点が違えばここまで評価が違うという人物もほんと珍しいと思います。
この吉田松陰という人物すごいところはたくさんあるんですけども 実際に自分の目で見て学ぶここが本当すごいなと思います。
自分のおじたちとかから兵学とかある意味教科書通りのことは知識を膨大に詰め込まれました。
そこからさらにこの意見は正しいのか自分の考えが正しいのかこれを実際に見てみるためにも様々なところに自分の足で出向かなければいけないよねという意志が強かったです。
そして実際に自分の足で出向いて考えを深めていったと言われます。 自分の考えを深めるためには脱犯を犯してでも実際に自分の目で見たかったというのはこれはなかなかできることではないと思います。
また罪に囚われるのを覚悟しながらも実際に黒船に乗ってその生員たちを反省するこれもとてつもないことだと思います。
実際この黒船に乗ったという話は海外アメリカから見てもすごいことだと思われたということでして
吉田松陰の乗船を聞いたペリー提督は江戸幕府に対して吉田松陰が犯した罪をあまり重くしないでくれと言ったとも言われます。
また吉田松陰、投獄された先々で様々な人に対して物事を教えていたという話をしましたけどもこの時もちろん論言とか文章とか他の人が知らないことを教科書の内容通りに教えたという部分もあるんですけども基本的には吉田松陰は教える際に議論を重視しておりました。
何かを学んだ際に質問をするそしてその質問を受けた吉田松陰がそれを返しまた返された意見に対して質問者もいろいろ意見を言っていくこういった議論を繰り返していました。
こういった議論を深めながら学んだことで様々な人たちが吉田松陰の教えに対して影響を受けたと言われます。
そしてその議論の中で吉田松陰に対して松陰よりも素晴らしい意見をいただきその時は吉田松陰は素晴らしく褒めたと言われます。
自分にはその考えはなかったありがとう教えてもらえて助かったといったことを話したと言われます。
そうやって教えている側が自分の意見を認めてくれるさらには自分の意見に負けたとまで言ってくれるとなるとやはり教えを受ける側としてもより自分を頑張っていこう学んでいこうというふうに意欲が出やすいと言われます。
そういった教え方が後に昇華尊塾でも様々な話たちに影響を与えたと言われております。
吉田松陰なんですけどもさらに人の特性と言いますか長所とかを見極めるのが素晴らしく上手かったと言われます。
吉田松陰の元に学ぶ生徒がたくさんいましたけどもその生徒一人一人に君がどういう特性があるよとかこういったことを学んだらいいんじゃないかというのを一人一人に特徴など話していたと言われますし
後に日本国の初代首相になります伊藤博文には君は将来政治家になるべきだというのを若い時に伝えていたと言われます。
それで一人一人の特徴に合わせた教えをすることで教わる側も皆が自分に合った成長の仕方をできたと言われます。
吉田松陰という人物を芸術、吉田松陰は詩を持って完成しているという人もいます。
吉田松陰最終的に処刑された理由としましては他で捕まった人がいました。でその捕まった人と何話したとという問いに対して
わざわざ自分で、いや自分はその人と話しただけじゃないよ。その犯罪者と話した以外にも老中朱田という国のトップに当たるような人
この人殺そうとしたんだよ。なんてことを話しました。 暗殺計画あっての危険人物ということで処刑をされます。
なんでわざわざそんなことを幕府に言ったんだ。わざわざ自分の罪を告白するなんてなんて愚かなんだという人もいますけども
吉田松陰としましては様々な策を考えても自分の弟子や友人たちに反対されて失望しておりました。
そんな吉田松陰は自分の意見を本気で考えていたんだ。自分は死を恐れないほどに国のためを思っていたんだ。
国を変えたいと思っていたんだ。このことを示すためにもわざわざ自分の罪を告白したと言われます。
そして自身の死によって弟子たちが本気で国のために働いてほしい。そんなことを考えていたのではないかなと思われます。
吉田松陰、昇華尊塾を開く頃には自分一人はもう繁華な仕事もまともにない。だから国を変える力なんてない。
でもこの国を変えたいという思いを弟子や友人たちに託した。だからこそ死を選んだんじゃないかと言われます。
事実、吉田松陰の処刑後、かつて吉田松陰が考えた策に反対をしていた弟子たちは
なぜかつて自分は吉田先生の考えに賛同できなかったんだ。吉田先生ほど国を思うことができなかったんだということで過去の判断を悔やんでいた弟子たちが多かったと言われます。
吉田松陰の死によって自分たちは本当に国のことを考えなければいけない。松陰の意思を継がなければいけないという思いが芽生えたと言われております。
人間一人の力ではなかなか変えられないこともあります。そんな中本当に世の中を変えたいという思いがあるのであれば命を懸けてでも世の中を変えるために動く、その志を持っていたのが吉田松陰ではないかと言われております。
吉田松陰の弟子たち、弟子たちも多くは下級武士というなかなか評価がされない立ち位置の人たちも多かったです。
高杉晋作のようにエリートもいますけども伊藤博文のように農民の生まれで貧しい人もいました。
そういった弟子たちであるとか様々な遊兵先において多くの人を学問に目覚めさせた。これは吉田松陰という人物の教えが素晴らしいものだったから違いないと思われます。
どの時代におきましても英雄たちというのはなぜか同じような場所に集まるそんなことはあります。
例えば有名なところでは江戸竜峰の漢帝国を築いた竜峰。竜峰は拝県というところ出身でしてそこから後に天下に届かせような英雄たちが何人も一緒にいました。
そして竜峰を支えて漢帝国を築くことになります。 その英雄竜峰がすごいから仲間たちもすごいのか逆に仲間たちがすごいからこそ英雄竜峰が生まれたのか。
ここは確かに難しいところでありますけども英雄のところには英雄が集まるというのは歴史でもいくつでもあります。
吉田松陰の思想と影響
ただ吉田松陰の場合は吉田松陰自身で英雄たちを育て上げたりまたは生み出してそしてその英雄たちが羽ばたけるように己の命を費やしました。
自分自身が英雄にならなくてもいい。弟子たちが羽ばたき国が変わればいい。 そんな人物吉田松陰間違いなく歴史上でも偉人の一人だと思われます。
といったところが今回のテーマ吉田松陰でございました。
今回はここまでです。改めましてハリータさんテーマいただきまして誠にありがとうございました。
ここらへんの明治維新は本当に色々と面白い視点があるのでどの作品もなんというか厚い作品が多いですよね。
新戦組視点のものであるとか愛図版や江戸幕府の視点であるとか 坂本龍馬や土佐版長州版や薩摩版の視点であるとか
様々な視点が楽しめますし残っている資料も比較的多いので 実際にこういったことがあったんだろうなというのがイメージしやすいので
やはり面白い時代だと思います。 最近でも箱詰めという警察漫画を書かれておりました作者様が
ダッドーンという薩摩版から見た明治維新の漫画を描かれております。 こちらも非常に面白い作品ですのでこういった明治維新とかが気になっている方もぜひとも
お読みいただければなぁと思っております。 次回ブシラジオにおきましてはまだ自分の中でどう話すかがまとまりきってないんですけども
話すテーマの形をいただいておりますのでそれで話をさせていただこうかなと思っております。 次回のブシラジオは中国におけるある天才たちの系譜で話をしようかなと思っております。
ざっとですけども大工房と呼ばれる漁商という人物から孫子へ繋がる系譜の話こんなのしてみようかなと思っておりますので
次回もよろしくお聞きくださいませ。 今回も最後までお聞きいただきまして誠にありがとうございました。
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