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2025-10-07 43:51

第3話 人車鉄道の歴史 いすみ鉄道の元祖 千葉県営大原大多喜人車軌道線

今回、2人同時に接続できるワイヤレスマイクを試験的に使用しているため、音声が聞き取りづらい箇所があります。

申し訳ございませんが、ご了承ください。


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房総文明ラジオ
この番組は、房総半島に新しい文明をつくろうを合言葉に、
房総にまつわる様々な情報を発信するポッドキャスト番組です。
ナビゲーターは、房総文明ミュージアムよりYOSSYがお送りいたします。
まずは、お便りを紹介させてください。
房総民リスナーの京子さんよりお便りをいただきました。
お便り第一号です。本当にありがとうございます。
最近毎日忙しくしていますので、
こういったお便りが、房総文明ラジオを続けるモチベーションになるなと感じています。
もしもお便りがないと、あっという間に更新が止まってしまう気がしているので、
ぜひお便り、リクエストなどをお送りいただければと思っています。
ではメッセージです。
ちょっと途中、個人的なことがあったので、少し省略させてもらいながら、
紹介をさせてもらいます。
メッセージです。
スマホでイヤホンでの視聴をしましたが、
音がSpotifyの方は出た量が少ないのか、音割れが強い感じがします。
この点に関しては本当に申し訳ありません。
まだ僕の方がマイクの扱いだとか、
機器の取扱いに慣れていないところがありまして、
若干お聞き苦しいところが多いと思います。
少しずつマイクだとかなんだとかも改善していくと思いますので、
お付き合いいただければ幸いです。
内容について、第1話の方ですね。
第1話、暴走半島が島だという話ですが、
暴走半島が島だなとは、
311の時の避難ルートを考えた時にも、
東京の真ん中を通行できなかったら、海路しかないなと思いましたし、
野党半島の地震の時にも、ここもきっと同じだなと感じたりしました。
本当にその通りだと思います。
暴走半島はやはり半島なので、
交通いろいろなところで寸断されてしまうとピンチだなと思うところが
結構あるなと思っています。続きます。
クマの問題が秋田などでは生活の身近な課題なのですが、
千葉だけにはクマがいないという話を聞いて、
陸続きの時に人の祖先は大陸から来たのに、
クマの先祖は来なかったんだなと思いました。
とメッセージしてくれています。
確かにクマは千葉県にはいないという話を聞いたことがありまして、
なんでクマがいないのか、ちょっと僕は今わからないんですけど、
いつか調べてみたいテーマだと思いました。
続いて第2話についても京子さんからお送りいただいています。
鉄道についてはわりと好きなので、興味深くイメージを膨らませながら聞きました。
西暦と合わせて和暦を言ってくれるところが私には助かります。
1894年よりも明治27年の方がリアルに感じます。
日清戦争の後だなとか日露だなとか、
大正7年は震災の前だから物価が上がる前だなとか思いながら聞きました。
いずれ元禄の地震とかの話も聞きたいですという風にメッセージを送ってきてくださっています。
03:03
京子さんメッセージありがとうございました。
クロートな聞き方をしてくれているのですごいなと思いましたけども。
そうですね、例えば元禄の大地震ですとか、
これは千葉を襲った大津波があったときのことなんですけども、
これは僕も個人的に調べているテーマではあるので、
いつか必ず取り上げたいなと思っています。
メッセージありがとうございました。
さてここまではメッセージの紹介をさせていただきました。
ということでここからはなんとゲストの紹介です。
暴走文明ラジオ初めてのゲストに玉ちゃんが来てくれています。
玉ちゃんは千葉県出身の鉄道好きな青年です。
では玉ちゃんちょっと自分で自己紹介をお願いします。
はいみなさん初めまして玉ちゃんと申します。
私は某鉄道会社で実際に勤務をしています。
また個人的にも鉄道の写真を撮ったり乗ったりするのが好きです。
また最近はこうした歴史にとても興味があります。
よろしくお願いします。
はい自己紹介ありがとうございます。
みなさん玉ちゃんよろしくお願いします。
実は玉ちゃんにはこの暴走文明ラジオ始まった当初にですね、
この暴走文明ラジオっていうのは初めて見たから聞いてみてっていうのを送っていまして、
初めてのリスナーということでですね、
第2話までしっかり聞いてくれてますので、
よかったらちょっと感想を聞かせてください。
はい第1話の放送版とか島だったところは、
僕柏出身で住んでる当時は全然正直この島だっていうのはあんまり感じたことなかったんですけど、
でも確かに言われてみれば地元の常磐線とかも都会に入るときに大きな川を渡ったりだとか、
っていうところで確かに島だなって改めて気づかされました。
あと参考文献で言っていたこの地図で楽しむ本当にすごい市場っていうところの本も最近僕も自身読んだばっかりで、
その復讐の意味も兼ねて楽しく聞けました。
あと第2話の人車軌道のところですね、
これも仕事柄、最近その歴史を調べるところがあって、
ちょうどこれもまさに自分の興味があったところで、
これも馬車鉄道のところか、
特にこれも知らなかったところだったので本当に勉強になりました。
第3話 人車鉄道の歴史
磯見鉄道の元祖 千葉県営大原大滝人車軌道線
今回のあらすじです。今回は第2話からの続きになります。
2話から聞いた方が面白いと思いますので、もしまだ聞いてない方は第2話から聞き直してみてください。
06:05
ざっと前回のあらすじを確認します。
前回は日本における鉄道の歴史を簡単に振り返りました。
1872年、明治5年に新橋・横浜を結ぶ蒸気機関車が走る鉄道が日本で初めて運行を開始しました。
その後、日本の各地で鉄道を施設する動きが高まり、そのための資本を集める株式会社が設立されていきました。
蒸気機関車は初期投資とランニングコストどちらも膨大になるため、
そのコストを集められないエリアは、まず馬車鉄道という線路の上を馬を走らせる鉄道が引かれました。
そしてさらにその馬車鉄道もちょっと無理だというエリアには、人が車両を推す人車軌道が誕生したのでした。
大原、大滝、人車軌道線の誕生の歴史が始まります。
ネタ本の紹介をさせてください。
前回同様に人が汽車を押した頃、千葉県における人車鉄道の話という本がまずメインのネタ本になっています。
佐藤信行長論書簿出版ですね。
これにプラスして今回は資料集的な位置づけで、まず大原町市編参部というところが編参した大原町市の通知編と資料編を使わせてもらっています。
また郷土出版社が出版されている長生一味の歴史という分厚い本を資料集として使わせてもらっています。ネタ本の紹介でした。
早速大原、大滝、人車軌道線の話したいなというところなんですけども、
ちょっとその話をする前に、この主人公登場の前にですね、その当時の状況と背景の話っていうのをしてみたいと思っています。
前回ですね千葉県に初めて鉄道が敷かれたのは明治27年、1894年、総武鉄道が市川、桜間を結んだものという話をしました。
もしかしたらこれを聞かれた人の中であれと思われた方がいたかもしれません。
なんでかというと明治5年、1872年に日本の鉄道が初めて新橋と横浜間をつないだという話をして、
その後明治27年、1894年に千葉が初めて鉄道が敷かれたという話をしたんですね。
つまり千葉県に鉄道が走ったのは日本で初めて鉄道が走った年から22年後になるわけです。
この22年という年はですね、実はこの年数にかかっているのは関東では一番鉄道が走った県としては遅い県という歴史を持っています。
これをなぜなのかっていうのを考えるだけでも、暴走の地理だとか交通の歴史と深く関係していると考えています。
09:02
まずはですね、このラジオの第1話を思い出してみてください。千葉県は巨大な島であるという話をしたんですが、
これは現在も地理的な条件で変わりありません。千葉県は江戸川と利川という大きな河川に隔てられています。
また千葉県は半島なので行き先がおのずと袋小路みたいになってしまって、
例えばですね、埼玉県、栃木県、群馬県、茨城県、神奈川県のように別の地域の経由地になることができなかったんですね。
つまり東京から千葉に行くっていうのはもう完全に千葉に行くだけが目的になってしまって、
他のところを目指すということがなかったということが挙げられるかなと思っています。
その結果としてですね、鉄道を東京出発点として敷くことができなかった歴史があります。
先ほど千葉県で初めて施設された総武鉄道を話しましたけども、実は市川と桜館ということで東京と桜館ではないんですよね。
この辺りが関係してくるかなという感じになっています。
今でも京王線だとか総武線、序盤線というのは大きな橋っていうのを渡って東京に行くというようなことになってしまっています。
なので現在もですね、例えば千葉県では雨風が強い日っていうのはよく電車が止まってしまったりします。
ちなみに柏の方とかは玉ちゃんどうですか?雨風で電車止まったりします?
柏はそこまで感じなかったんですけども、やっぱり京王線とかは最近普段よく使うので、また止まっちゃったかみたいな台風の時にはよく感じます。
これ千葉県民あるあるですよね。
あと武蔵野線なんかもね、結構止まってしまうというのがあるあるなんですけども、ちょっと他の方にはわからないかもしれないですけどこれ結構千葉県あるあるです。
もう一つ千葉県の鉄道が遅れた理由に、海運と船運、御読みして修運と読むんですけども、ちょっと修運だとわかりづらいのでまとめて水運と話をさせてもらいます。
水の運びで水運ですね。
例えば松戸の矢切りの渡しなんかのも有名なんですけども、千葉県はですね、周りを海と川に囲まれていることから非常に水運、つまり船の移動だとか船の輸送っていうのが盛んな地域でした。
これは江戸時代が終わった後に、実は明治時代もまだまだ続いていて、実はそれが故に鉄道だとか幹線道路の発達が遅れたっていう歴史があったりします。
このあたりは実は、幹線道路や鉄道が轢かれる時の反対運動の契機になったりとかもしてたんですが、それはまた別の機会に話をしてみたいと思っています。
時代の契機、変わるきっかけですね、になったのは明治後期の日清日露戦争の頃だったと考えています。
軍事産業ですね。
まず結構この軍っていうのが大きくて、千葉県はその練兵場、駐屯地だとか練習するところがたくさん置かれたところでありましたし、物資もたくさん運ばなくちゃいけなかったっていうのがあったので、まずこのあたりが契機になってきたかなと。
12:07
あと東京がどんどん大都市圏になっていって、ここに食料を供給しなくちゃいけないっていうニーズが発生してきたので、そういったものをたくさん運ぶ必要が出てきたっていうところがこの鉄道のモチベーションになっていたのかなというところです。
明治27年、1894年に総武鉄道が市川桜館を開業したという話をしましたが、明治32年、1899年、ついに暴走鉄道がですね、市宮と大原駅を結びます。
この暴走鉄道の話もいつかしたいと思っているんですが、ちょっと今回は省略させていただきます。
前回はですね、人社起動の登場までの歴史っていうのを話をしたんですが、ここからは千葉県の話にしたいと思っています。
実は千葉県でも民間のですね、事業者さんたちが主導して人社起動が増えていったっていう面白い歴史があります。
その筆頭が野田人社起動と長志人社起動です。
野田と長志という名前が出てきたので、ピンと来た方もいらっしゃるかもしれません。
どちらも千葉県の面白い歴史の筆頭候補に挙がる醤油の名産地ですね。
醤油の話っていうのはもう本当に一大テーマなので、絶対にどこかで取り上げたいと思っているんですが、
醤油醸造業者さんですとか卸業者さんが中心になって施設したのが野田人社起動と長志人社起動です。
他にも統括人社起動であったりだとか、茂原長南人社起動といった人社起動が千葉県には走っていた歴史があります。
地域の交通ニーズに合わせですね、人社起動っていうのが作られて千葉県を走っていたという風な歴史が残っています。
ちなみにこの茂原長南人社起動で当時走ってた客車っていうのは今でも茂原市の私立美術館に保存されていて見ることができます。
僕もこれ見に行ったことがあるんですけど、こんなのが走ってたのかっていうのを見たことがあります。
今、玉ちゃんには写真でそれを見てもらってるんですが、どうですか見てみて、こんなのが走ってたんだなっていうのを。
まず可愛いですよね。見た目がすごい小さくて。
8人乗りとかだったって言うんだけど、人がこれをしてたっていうのは本当なんかすごくない?
あとこのホームで座って待ってる写真。普通の鉄道だとホームって傘上げされてるじゃないですか。
なるほど。
ホームと線路がほぼ同じ高さっていうのがまた人社起動らしいなって感じられますね。
15:00
今ラジオだと伝わらないと思うんですけど、写真見ながら話をしていまして、
これは茂原長南線の軌道列車の話なんですけど、駅のホームがですね、ないに等しい。
同じ地平で鉄道が走ってるっていうちょっと面白い絵面になっていまして、そうですね確かにそういえばそうだね。
椅子に座って待ってるおじさんもこのホームギリギリで待ってるのが今じゃ絶対見られない光景だから下がってくださいって言っちゃうね。
いろいろ突っ込みの満載なのが見てて面白いですね。
本当にね。なんかちょっと今走ってたら逆に新鮮ぐらいな感じだよね。
お待たせいたしました。ここからようやく大原大滝人社軌道線の紹介になっていきます。
ただ話が長くなってしまって申し訳ないのですが、まだまだちょっと背景的な情報が続いていきます。
というのは、なぜ大原大滝人社軌道線の前にですね、千葉県営というのがついているのか。
これ民間じゃないってことなんですよね。要するに千葉県が運営している大原大滝人社軌道線ですよっていうことなので、
なぜそういうふうになったのかっていうのをもうちょっと掘り下げたいなというふうに思っています。
今度はですね、悪露と戦い続けた暴走の歴史っていうのを知っておかなくてはいけないんじゃないかなと僕は考えています。
道路の発達の歴史っていうのは、日本のですね、いろんな歴史と密接に関わっているっていうことが、
この辞書でもわかるんじゃないかなということで、ちょっとご紹介させていただきますね。
例えば、今の日本の政令指定都市、ちょっと思い浮かべてみてください。
東京だとか大阪だとか京都だとかっていう政令指定都市は、ちょっと今回政治経済の中心地は除いて、
地方で成立している政令指定都市、もしくは中核都市っていうのを考えてみてほしいんですね。
名前を挙げていきますと、例えば仙台、名古屋、静岡、浜松、金沢、松本、岡山、広島、福岡、熊本、鹿児島、
なんかが、こういった政令指定都市、中核都市に挙げられます。
玉ちゃんどうですか?この都市、聞いてみて、何か思い浮かべたことありますか?
いやー、まずなんか、鉄道でいうと、だいたい路面電車が走ってるなっていうのを、なんとなくパッとイメージがあった。
なるほどね。路面電車か。はいはいはいはい。確かに路面電車走ってるとこ多いですね。
広島とか熊本とか、あとはどこが走ってますか?
地下鉄も結構走ってると思うんですね。
そうですね。はい。
ちょっとそれはですね、正解というか、意図したところではないんですが、確かにそうですね。
そういった都市交通が発達してるっていうところでもあるんですが、実は正解は、この今挙げてた都市っていうのは、江戸時代から続く大きなお城があるっていうことなんです。
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つまり江戸時代に大名、特にこういったところは大大名と呼ばれる大名だったんですけど、大きな、要するに藩があったっていうことです。
で、こうした大大名、藩があった、大きな藩があったところっていうのはですね、政治上、経済上、あるいは軍事上の理由から、幹線道路の発達っていうのが史上名台になっていました。
例えばもう軍、わかりやすく軍ですね、戦争の時には軍を移動させなくちゃいけない、素早く移動させなくちゃいけないんですけども、そのためには道を普段から整備しておかなくちゃいけなかったっていうことが挙げられます。
江戸時代になって平和になってからも、例えば参勤交代だったりだとか、あとは早馬っていう馬をですね、通すために駅制度っていうのがあったんですけども、そういったもののために街道を整備し続ける必要があったということなんですね。
なので基本的に江戸時代から続いたこういう大大名がいたところっていうのは、今でも幹線道路になっているところが非常に多い。
例えば仙台なんかだとか名古屋だとか金沢だとか、もう大きなメインストリートみたいなところがすぐに思い浮かべるようなところがあると思います。
で、切り替えて我が暴走半島の千葉県です。
千葉県っていうのはですね、実は一番大きな藩でも桜藩の11万石程度なんですね。
で、つまり大きな大名っていうのが江戸時代にはいなかった地域になります。
じゃあ何がいたのって話なんですけど、この辺りにはですね、江戸時代の不大大名だとか旗本だとかよりきって呼ばれた江戸幕府の中心ですね。
中心っていうのは江戸幕府に働いている人たちの人たちが治めていた幕僚と呼ばれた地域になっていました。
そのために細かく地域が分かれていて、そんなに大きくまとまらなかった地域になっています。
で、そのためにですね、大きな藩が必要としていた、さっき挙げたようなですね、政治上経済上軍事上のニーズっていうのが成立しなかった。
で、あとはですね、江戸時代に盛んなった、さっき言った水運だとか、あと馬で運ぶ荷だとかですね。
そういったものが発達したために、その街道をですね、大きく太く整備するっていう、なんていうんですかね、動機づけが弱かったっていうのがあります。
で、その江戸時代が終わって明治時代が来るわけですけども、鉄道輸送だとか大正期にはですね、自動車の輸送まで加わってくるんですが、
こういった大量輸送のための道路の整備、施設っていうのが千葉県はめちゃくちゃ遅れていた地域になっちゃったという、その歴史的な背景があったということです。
で、このことは先ほどの第2話でですね、話してた鉄道が通るための株式会社の成立にも関係してきます。
千葉県には大大名っていうのがいなかったがゆえに、大資本っていうのが成立しづらかった。商業もあんまり大きく発達しなかったっていうのがあります。
21:09
で、このために資本主義っていうのの力もうまく働かなくて、鉄道を作るためにですね、いろんな人から莫大な初期費用、初期投資を必要とする鉄道のために、いろんな人たちから大きなお金を集めなくてはいけなかったんですけども、
そういった力が千葉県は弱くなってしまったという歴史がありました。で、それがゆえに千葉県では鉄道あるいは道路ってこういう道ですよね。鉄道の道も道ですし、道路の道も道です。
民間の力ではなくて政治の力を使うしかなかったっていう背景があったりします。大きな資本主義っていうのが駆動しないがゆえに政治主導でやるしかなかったと。
こんな感じなんですね。で、これが千葉県営大原大滝人社起動線っていうのにつながってくるわけです。
なんとその人社起動なのに千葉県営なんですよね。他の地域は民間の力があって、省油だとかそういったものがあって人社起動つなげられたっていうのがあったんですけども、
大原大滝は残念ながらそういう力もなかなか働かなかったので千葉県営。
これは余談なんですけども、千葉県っていうのはですね、今でも自民党の力っていうのがものすごい強いところで、自民党王国と呼ばれる県になっています。
これは実はこの道路の歴史とも密接に関係してくるなと思っていまして、道路族と呼ばれた政治家さんたちにたくさんいますけども、
こういったのはですね、実は地元の住民の人たちから要請を受けて道路を作るっていうことが、逆に地元のためになってたわけですよね。
で、地元のために、で、あるいは逆にそれを利用して自分の政治力を増やしていったという、こういうような関係性があるので、千葉県をですね、自民党王国になっていったという歴史もこういうところから紐解けるのかなと思っています。
で、話を元に戻して、明治43年に軽便鉄道法っていう法律が施行されます。
これによって、この軽便っていうのは軽いっていう字を書くんですけど、軽い便ですね。軽い便の鉄道。
何かっていうと地域事情によって鉄道のいろんな規制をですね、ちょっと柔軟に、ライトに運用できるよっていう法律になっています。
例えばだから鉄道で蒸気機関車が走るときにはこんな重さがあるから、この重さに耐えられるような線路だとか枕木だとか森戸だとか、
ちゃんとしてくださいねっていうのをいくらかですね柔らかくすることができるっていうような法律になっています。
要するにコストが抑えられるというようなやり方で鉄道を敷くことができるようになったというわけですね。
で、もう明治も終わりの方ですけど、明治41年にようやく大原大田区間では公共交通として乗り合い馬車っていうのが登場してくるんですけども、
24:02
その当時大原大田区の道路っていうのはもうめちゃくちゃ貧弱だったという風な歴史が残っています。
例えば雨が降るとですね、もう地元の小学生たちが学校に行けないので、板をですね道路に渡して小学生たちを渡らせてたなんていう歴史が残ったりしています。
で、まあそういった悪路を何とかしてほしいっていうので、当時の千葉県知事のですね小積森良さんっていう、小積森良さんか、小積森良さんっていうのに陳情が上がっていって警備員鉄道を走らせるっていう計画がどんどん進行していったわけです。
ただこれも乗車機関車ではなくてですね、全車起動っていうのの選択になっていっちゃったという歴史がありました。
で、なんでかっていうと、これが先ほどの株式会社ともつながってくるんですけども、この千葉県営で走らせるっていうのはですね、要するに千葉県が借金をしてこの鉄道を築くっていうことになったということなんですね。
株式会社であれば株式っていうのを募集して、配当を見込んだですね資本主義パワーでですね、それを金をガッと集めるってことができたんですけども、
この千葉県営大原大渡人車起動は千葉県が借金をして作るっていうことなんで、全部千葉県のある意味コストになってしまうんですね。
なのでコストをできるだけかけないようにっていう力学が働いた結果、人車起動が選ばれていったというような形になっています。
こんな感じで何とか何とか地元の人々の切実な思いと政治家とか官僚の人たちの思惑が張り巡らされて大正元年、1912年になってようやく千葉県営大原大渡人車起動線が開通することになりました。
どうですか、玉ちゃん、このあたりの歴史。だいぶ時間がかかった感じがありますけど、もう大正元年ですからね。
そうですね、ちょっと全然関係ないかもしれないんですけど、僕の友達で、昔無人島に行った子がいるんですね。
その子がまず無人島に行ったら何を作らないといけないかって質問をしてきて、わかんないなって言ったらやっぱり道って言ったんですね。
それだけ道をうまく整備するってめちゃめちゃやっぱり大事なことなんだなって、改めて大正元年の話なんですけど、ちょっとその話がエピソードが思い出しました。
ありがとうございます。いいエピソードですね。
案外僕らはもう道がすでに敷かれている状態だから全然意識しないけども、当時は多分頼むから道作ってくれっていうような状況だったのかなって思っています。
こうしてやっと開通した、大正元年に開通した大原大渡人車起動線です。
この人車起動線の詳細を見ていきたいと思っています。
27:01
これはいろんな資料に載っていまして、その資料をいろんな結び合わせて構成しています。
まずですね、何で大原と大竹を結ぶ必要があったのかっていうのを見ていきたいと思っています。
まず暴走鉄道との関係です。
先ほど何回か言いましたけど、明治32年、1899年に実は暴走鉄道は大原までつながっていました。
つまり大原まで鉄道が来てたってことですね。
この後は勝浦まで行くんですけども、当時大原がどうだったかっていうとですね、この辺りはものすごい漁業が盛んな地域。
特に地引き網漁の本場だったので、もう本当にすごかったらしいです。
明治時代には漁業の最盛期を迎えて大原の街の活気は空前絶後だったと聞いています。
面白くて、この昔の盛り上がりっていうのはいかにすごかったっていうのは地元の人たちが時々言ってくれることで、
その辺りの歴史っていうのも本当に面白いので、この辺りの大原の漁業の歴史っていうのは、いつかまたどこかで取り上げたいなと思っています。
たまちゃんは大原すごかったって話聞いたことある?
最近大原裸祭りを見る機会が初めて見たんですけど、
どっからこんなに集まってくるんだろうって思うぐらい、やっぱりみんな祭りに命をかけてる感じが今でも伝わってきて、
昔はもっとすごかったんだろうなって思います。
本当に大原裸祭りは見越しが大きいんですよね。
あんな大きな見越しを作れるっていうのは、それだけの地元の人たちの力があったっていうことなので、本当にすごいなと思います。
本当に大原裸祭りの地域なので、ぜひ大原裸祭りなんかをみなさん見てもらえればと思います。
そして大滝町ですね。伊住市のお隣の大滝町なんですけども、
こちらの方は他の大大名とかに比べたらお城は幾分小さいんですけども、
実は千葉県の中では輝かしい歴史を持っている大滝城っていうお城を持っている町になっています。
ちなみに大滝城があったときには2万7千石程度なので、
加賀百万石とか比べたらだいぶ小さいんですけども、やっぱり城は城なので、政治の中心都市になっていたわけですね。
明治時代になっても軍役所というかですね、伊住軍という軍の役所がこの大滝町に置かれていたという歴史があります。
外房地域の政治の中心だったっていうのが大滝町ですね。
経済だとかの中心地だったのが大原ということで、
この2社間を結ぶ地域のニーズがあったというわけです。
防装鉄道でもって大原は駅まで来れます。
この大原大滝、人社軌道線に乗って大滝駅まで行くことができますというこのルートが出来上がったわけです。
30:05
ちなみにこれは今の泉鉄道もある意味同じニーズになってますね。
人社軌道の詳しい内容です。
まず大原をスタート地点にしてます。
本社も大原にありました。
大原から大滝まで7つの停留場が設けられてスタートしていくっていう感じになってます。
ちなみに今終点が大滝駅って言ったんですけども、実は大滝駅の船小と呼ばれるエリアになっています。
今の泉鉄道の本社は大滝駅っていうところなんですけども、この船小よりもだいぶ先に行ったエリアになってます。
船小はだいぶ泉寄りのエリアですね。
なので大原大滝って言っても当時はだいぶ手前のところで作られてたっていう形になっています。
驚くべき内容は次からですね。
まず機関と呼ばれる鉄道のレールとレールの間の距離ですね。
なんて言ったらいいのかな。
鉄道って2本走ってますよね。
その鉄道2本走ってるところの間の距離のことです。
この距離がなんと60センチに設定されてたという話です。
JRの在来線は今1067ミリなので1メーターちょっとですね。
そこから考えてもだいぶ短い。
どうですかこの機関の短さは。
いや怖いですね。
本当に大丈夫なのかなって思っちゃう。
でも例えば枕木とか敷地で考えると60センチだとだいぶ枕木とかが短くできるよね。
確かにそうです。
場所は取らない。
コストダウンっていう意味では多分すごいと思うんですけども。
この機関60センチは僕も初めて見た時にびっくりしましたね。
安全性が心配です。
鉄道と呼んでいいのかという。
多分鉄道好きな人ほどこの機関60センチはやばいなと思うと思うんですけど。
まあ多分ゆっくり走るっていうのもあってこういった機関になったと思うんですけど。
先ほど言った警備員鉄道法っていうのはこういうのに関係してくるわけです。
規制緩和がされて機関が60センチでも鉄道として作っていいよっていうような法律ができて初めてこういったことができたということですね。
走行距離です。
走行距離は16キロになってます。
7つの駅で全部合わせると9つの駅ですね。
始発が大原、終点が大滝で7つの駅があってそれを16キロで繋いでた。
この機関を2時間半で走ってた。
1時間ごとに8から9往復していたというふうに伝えられています。
16キロを2時間半だとたまったらどうですか?
1時間半か。
まあもちろんゆっくりではあるんだけど。
人が押してたと考えるとだいぶね。
まあでも早い方ですかね。
33:02
人が押してればまあまあ許せるかな。
実際のところは人が歩いてもちろんその当時の人たちは大原から大滝まで行ってたらしいんですけども。
鉄道の方がゆっくりだったそうです。
楽は楽なんだけどもゆっくりはゆっくりということでですね。
こんな感じだったらようですね。
当時作られた客車は12両。
この当時は貨物も運んでたらしくてですね。
24両貨物が作られたという話になっています。
客車の大きさは2m15cm。
で8人乗りという設定なんですけども。
2m15cmで8人が乗るっていうのはだいぶ狭いような気がします。
当時の人はその子まで大柄な人はいなかったとしても
8人乗ったら2m15cmだとかなりぎゅうぎゅうなサイズだっただろうなという感じです。
で客車には2人。
あのお主婦と呼ばれたみたいなんですけども。
この車両を押す人たちがついてた。
で貨物の場合には1人だったようです。
まあね押す人が2人いて
ブレーキがかりも多分いたと思うんだけども。
それでもやっぱりね8人乗ってたら2人だとかなり押してたら
辛いような気がするんですが。
どうですか?
いやでもこれあの上り坂より下り坂の方が
どんどんどんどんスピードが出ちゃうから
上り坂の方が大変だろうなって思いますね。
ですよね。
基本的に僕らは泉に住んでるんで地理に詳しいんですが
大原から大滝に向けて行く方はずっと
徐々に登っていくっていう方ですよね。
途中もちろん上り坂下り坂あるんですけども
大滝の方が標高が高いのでだんだん
登っていくっていうようなラインになってくるかなと思います。
逆に大滝から大原に向かう方は
下り坂が多いっていうような関係性にはあるかなと思うんですけど
それでもねやっぱり結構アップダウンは激しいところではあるので
大変だっただろうなという感じです。
実際に3箇所かなり坂がきついっていうところがあって
そこには信号手と呼ばれる人がいて
車両の前方に縄をくくりつけて
その縄を引いてお主婦を助けたという記録が残っています。
なので2人と1人、2人は後ろから押して
1人は前から縄で引っ張るっていうような形で
どうも運んだようです。
本当に大変だっただろうなという感じですね。
ちなみにこの車両を押していたお主婦の賃金というのは
日給40銭だったと伝わっています。
1年勤務するごとに3銭追加されて
休みは月に2日だけだったようです。
その当時の労働基準なので
2日休みがあるっていうのは良かったのかもしれないんですけども
この日給40銭というのは当時ですね
36:00
例えば米1.5kgが16銭で買えてた時代ということなので
当時としては結構高級取りだったという風な記録が残っています。
このお主婦の人たちは約30名在籍してたということです。
30人も押してた人がいたと思うと
なんかちょっとすごいなぁと思う。
でも休み月2日はちょっとブラックですね。
この辺りが。
当時の運賃ですね。今度は乗る人の方です。
乗る人の方は46銭払うというような形になっていまして
これはかなり当時の人たちにとっては割高だったと。
今の北総鉄道ですかが初乗り運賃でだいぶ高いというようなことは
いろんな人が言ったりとかしますけど
その当時では伊住の大原大滝人車軌道がかなり高い。
初乗りが高かったということになりますね。
なので正直なところあまり乗る人がいなくて
経営はずっと赤字続きだったと記録されています。
そのため大正元年に運行が開始してますので
ちょうど10年目に当たるときに
土屋弁次郎社長が人車軌道をやめて
ディーゼルエンジンを乗せたディーゼル車を運行できるように
働きかけを千葉県に行ったというふうな記録が残っています。
千葉県も財政的な負担とかいろんな理由があったと思うんですけども
千葉県営をやめて経営権を伊住軌道株式会社に譲って
人車軌道からディーゼル車を運行させる鉄道に変わっていった
というふうな歴史になります。
つまりわずか10年で大正元年から大正10年までの間
大原大滝人車軌道線という人が車両をして
大原から大滝まで行ったという歴史が閉じるわけです。
10年間が長いと感じるか短いと感じるかは
人それぞれだと思うんですけど
僕はこの10年間にちょっとしたロマンを感じたりします。
人が車両を押す時代があったと。
しかも割と最近大正の時代ということで
ちょっとそれを見てみたかったなという気分があったりします。
たまちゃんはどうですか?この話を聞いてみて。
いやでもこれも
今でもこの人車軌道の跡が残っている場所があるみたいで
大滝の最後の停車場のところが
いまだにこの船小の近くにあっていたことがあるんですけど
39:03
やっぱり見てみたかったなって僕もすごい思うし
回転台?転車台みたいなのがいまだに見れるらしいんですよね。
どこにあるんだ?それはちょっと調べてないけど。
そんなのもちょっともし見てみるといいのかなと思います。
調べると出てきます。
ちなみに押し幅としてはどうですか?大原から大滝まで。
押し幅は…いやー一駅だけだったな。
大原から大滝まで押していくのはかなり大変だっただろうなっていうのが
調べてて思うことですよね。
その当時の人たちのパワーたるやすごかったんだろうなっていう。
そんな話でした。
以上が大原大滝人車軌道の歴史になってきます。
ご清聴ありがとうございます。
ありがとうございました。
ここからはお知らせやイベントのご案内になります。
まずは伊鉄ブックスのご紹介です。
伊鉄ブックスは廃線の危機にある泉鉄道を
ご扶養になった本を寄贈していただくことで
応援しようというプロジェクトになっております。
皆様からの寄贈本を使って収益を上げ
泉鉄道の売上アップに貢献したり
地域の企業化応援や地域イベントの活性化に使わせてもらっています。
今日も寄贈本を大募集中です。
詳しくは概要欄のリンクか伊鉄ブックスでご検索ください。
イベントの告知です。
伊鉄ブックスが主催するイベント
大原ブックパークが10月4日土曜日
JR大原駅、泉鉄道大原駅から歩いて1分の
泉イベントスペースナルセで開催されます。
絵本や自動書、文庫や単行本、雑誌まで
いろいろなジャンルの本をお持ちします。
読書の秋ということで本を愛する人はぜひお越しください。
10月12日は大滝町のお城祭りにブース出展させていただきます。
大滝城は徳川始天皇の一人本田忠勝が開いた城になります。
それにあやかって本田忠勝に扮した武者を筆頭に
武者行列がある盛大なお祭りです。
こちらの方でフロンヤとしてブース出展させていただきます。
続いておすすめの地域イベントのご紹介です。
10月18日、19日の2日間
千葉県九十九里町菅原工芸ガラス工房敷地内にて
思いを込めた手仕事と職、作り手と使い手が出会える
クラフトマーケットクラシズク2025が開催されます。
スタルトも裏方でこのイベントをサポートしております。
日本全国からこだわりのあるクラフト品を作っている方々が集まっていて
非常に楽しいイベントです。
また会場である菅原工芸ガラスさんの工房を見学させていただいたり
42:06
ガラス作り体験なんかもありますので
もしよければこちらの方もぜひご参加ください。
続いて10月19日、日曜日です。
北斗車特別展、竜化寺というイベントが
泉市のJR大原駅、泉鉄道大原駅、すぐ目の前の北斗車の近辺で開催されます。
1日限定の沖縄をテーマにしたお祭りです。
単身ライブあり、沖縄の民芸のワークショップあり
沖縄のおいしい食べ物が勢ぞろいのイベントになっております。
琉球、沖縄大好きな人はぜひこちらの方のイベントに参加してみてください。
さらに続きまして11月8日、9日、今度は勝浦市の市民ホールキュステというところで
アートとクラフトをテーマにしたステラ百貨店というイベントが開催されます。
こちらの方もこだわりの作り手さんたちがたくさん集結した
第1回のイベントになりますが、本当に面白そうなイベントになっております。
おいしい食べ物もたくさん集まってくるようなイベントです。
こちらの方のイベントでも、市民ホール巨大な階段があるところで有名なところなんですが
その階段を使って本を並べてみたいと思っています。
クラフトですとかアートのものを興味がある方はぜひお越しいただければと思っています。
エンディングです。
ここまでお聞きいただきましてありがとうございました。
放送文明ラジオでは皆様からのメッセージをお待ちしております。
感想やご意見、取り扱ってほしいテーマや耳寄り情報など何でも結構です。
概要欄のフォームよりお送りください。
それではここまでお聞きいただきましてありがとうございました。
43:51

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