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2021-07-04 12:24

番外編#12 東海道と中山道<地図を愛でる>

地図を愛でるシリーズ、今回は東海道と中山道について解説していきます。近代的な橋梁技術が確立するまでは、「河川」はものすごく大きな交通障害だったんですね。特にたくさんの人間や物資を移動させる際には、非常に非効率だった。この河川横断を避けるために、山道である中山道が歴史の中で長い間主要交通ルートだったそうです。

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建コンのアレこれの建コンのアレです。よろしくお願いします。
今回はちょっと番外編を撮っていきたいと思います。
題しまして、ちょっと過去2回ほどやったやつなんですけど
地図をめでる、というコーナーで
ちょっとGoogleマップを使いながら遊んでいきたいと思います。
これはちょっと声だけでお届けするには難しいのかもしれないんですけど
ちょっと地図の内容、話したいテーマがあって
今日のエピソードのタイトルにもしてるんですけど
中千道と東海道ということで少し歴史に関する話です。
中山道と書いて中千道と呼びます。
東海道は皆さんご存知だと思うんですけど
これっていうのは何なのかって話をしたいんですけど
早速ですね、お手元に表示できる方は
Googleマップを横にして表示していただいて
ちょっとそれを見ながら話を聞いていただきたいなと思います。
今日題材にするのは
東京-名古屋間のルートの話で
Googleマップを横にして表示できる方は
グーッとちょっと広がって
聞いていただいて
右に東京、左に名古屋
右に東京、左に名古屋
それから上に長野県っていう文字が表示できるぐらい
ちょっと引いていただきたいと思います。
結構引いて、大阪くらいまで入っちゃうかもしれないですけど
入っちゃっても大丈夫です。
こうやって東京から名古屋に行くルートを見ると
表示のモード、地図の種類はデフォルトで表示していただくと
黄色い線で道路のルートが見えてくると思うんですけど
東京から名古屋を結ぶルートっていうのは主に二つあって
一つはこの南側の海沿い、静岡・浜松を通って名古屋に行くルート
これは鉄道で言えば東海道新幹線
高速道路で言うと東名高速道路が通っているルートです。
もう一つは
グーッと斜め上に上がって長野県って書いてあるところで
とんがって、このとんがったやつが左下に降りてくるっていう
この一回とんがるルートですね。上側のルート。
これが今で言うと鉄道で言うと中央本線
それから高速道路で言うと中央自動車道と言われるルートで
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これが大体昔の中線道と言われる道に対応しているルートです。
最初に言った南の方のルートは東海道と言われるルートで
いずれもこれは律令制ができた頃って言うんで
奈良とか奈良時代とか飛鳥時代とかそういう時代からある
昔からあるルートなんですね。東西を、日本の東西を結ぶルートです。
つまり東西を結ぶルートってことだから
大体今で言う京都・大阪から東京に行く間のルートなんですけど
京都から名古屋のルートは一回置いておくとして
一番違いが顕著に現れるのが名古屋東京間。
名古屋東京間なんで、今日ちょっとこれを話しているという感じです。
それでなんで二つあるのかって話と
あともう一つはですね、今で言えば東京から名古屋に行こうと思う人は
特に事情がなければ東海道を使うと思います。
新幹線も東海道新幹線。車で行く場合も
特に寄り道する用事がなければ東名高速道路を通って行くと思うんですけど
実は江戸時代以前ぐらいまでは
逆に長野を通る、山を通る道の方がメインだったそうです。
ちょっとその話をしたいと思います。
今その表示のままで地図のモードを変えれる方は
デフォルトから地形っていうモードに変えていただくと
中線道っていうのが綺麗に地形に沿って道を作ってあるんですね。
それがわかると思います。
ちょっと詳しい方はね、あれなんだけど
あれってのは何かっていうと
さっきの中線道のとんがりの部分
多分Googleマップで長野県って書いてある文字のあたりに水泳みがあるんですよ。
ちょっと寄ってみましょうか。
グーッとズームアップすると
ここに諏訪湖っていう湖があります。
この諏訪湖を通って東京から行く場合は南に下ってくるんですけど
一番広い谷間、幅広い谷間は稲盆地っていう稲を通るルートなんですよ。
いまこまがねって通ってて、いらを通ってくるんですけど
こっちはですね、私の理解が間違ってなければ
これは中線道の本筋ではないんですよ。
なんでかって言うとね、この飯田から先の峠越えがちょっときついんだと思うんですよね。
で、本当の基礎地っていうのは
こっちよりも一本左の基礎町という方を通っていく道
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この細い方の谷筋を通るのが中線道の本流だと思います。
ちょっと私の理解が間違ってなければそうだったはず。
中央本線もそっちを通っているんですよね。
そう、中央本線もそっちを通っている。
基礎町の方を通っています。
で、なんで東海道がメインじゃなかったかっていうと
これはですね、川の横断なんですよ。
いまは橋がいっぱいかかっていて、大きな河川にも橋がかかっていて
車も鉄道も行き来できるんですけど
昔この大きな川を渡るっていうのが非常に難しかったってことなんですよね。
で、東京の方から行くと多摩川、相模川、それから静岡に入って藤川、それから天竜川、それと大井川か。
ちょっと順番が逆かもしれないです。
それで名古屋の方に行ったら行ったで、基礎川、基礎山川ですね。
永良川とか忌日川とかあって、川を越えるのが大変だった。
だから川を越えなくても済む中銭湯、山の道を通ったっていう歴史があるみたいです。
それで、これはまず橋を架ける技術がなかったっていうのが一つと
橋を架ける技術がなかったんで、昔は勝渡しとか船渡しとかっていって
人が肩車して渡してあげる、そういう勝ちっていう肩車係の人とかいたらしいです。
あと船に乗って渡してあげるとか、川を渡るのに船を使ってたっていうことなんですよね。
ですんで江戸時代くらいになると、もっと前からのかな、ちょっと詳しい時代は分からないですけど
人一人が行く分には構わないと思うんですよ。東海道も別に使えたと思うし、使ってたと思うんです。
で、問題なのは馬とかを運ぶの大変ですよね。
あとたくさんの物資を運ぶの大変ですよね。
どうなのかな、多分東西の物流の往流ってあったはずなんですよね。
朝廷、京都に鎌倉の武士が御門に見継ぎ物とかしてたとするじゃないですか。
ちょっとわからないけど、年が収めたりとかね。
そういう時にたくさんの荷物を運ぼうと思ったら、この船とかいろいろ使って川を渡るのは非常に大変だったそうです。
なんでこの基礎寺、中仙堂を使ったと。
逆に江戸時代になったら、西側にある戸様の大名が参勤交代っていって、いろいろお荷物持って移動するっていう時にも、この陸路を使いたいんで中仙堂をとった。
そういう平和の話だけじゃなくて、軍事的な戦国の戦の時も兵隊と一緒に兵牢、食べ物をたくさん運ばなきゃいけないんで、この中仙堂を使った。
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ということでやっぱり物量のメインっていうのは陸で行ける中仙堂がメインだったっていうことみたいです。
もう一つ理由があるらしくって、東海道の大きい河川に橋を渡すっていうのは、どうも江戸幕府は禁止をしてたらしいです。
なんでかっていうと、江戸時代っていうのは今と違って各藩が軍事力を持ってましたよね。
今、佐賀県が武力を持つってことは都道府県レベルで軍を持つことってないわけですけど、江戸時代っていうのは各藩が、そもそもお侍さんが統治してたわけですから各藩を。
島津市とか毛利市とか細川市とかね、そういうところが統治してたわけなんで、その配下の人たちっていうのは政治家でもあり行政官でもありかつ兵士なわけですよね。
軍隊なわけですよね。お侍さんだっていうことで。
実際に鹿児島薩摩藩が戦艦買ったりとか、そんな話とか幕末話でありますけど、そういうように江戸幕府が武力を集中的に保有してコントロールしてたわけじゃないので、幕府と藩の関係ってそういう関係じゃないんで。
防衛を常に意識してたってことみたいなんですよね、江戸幕府は。そのために東海道に橋を架けることを禁止していたっていう、なんかそういう流れもあるみたいです。
禁止しないでいいよって言ったら架けられる技術があったのかって言うとちょっと私よくわかんないですけど、とにかく東海道はそういうふうに川が障壁になっていて、たくさんの人や物を運ぶのは難しかったので、中銭道がメインだったというのが、この地図の谷筋の形を見てもわかるっていうのは面白いし、
今日ちょっと順番にアップして話したりしませんけど、東京から東海道線をこうずーっと見ていくと確かに大きい橋を渡るんですよ。さっき言いましたけどね、多摩川とか佐川川とか渡るんですよ。
これが障壁、一つ一つが障壁だったんだなーとかって思いながら見ると、道路を走ったり地図を眺めるのが楽しくなるんじゃないかと思います。
という東海道と中銭道の話でした。
あと最後に一つ追加すると、未来の交通、リニア、中央リニア新幹線は今度この中銭道に近い陸路ルートを通るんですね。
これがどれくらい今の東海道の人間の交通の代替になるのか気になるところですけど、また再び時代がこの内陸のルートに戻ってくっていう感じも、時代の奇妙を感じて面白いですよね。
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とか思いながら地図を眺めると面白いんじゃないでしょうか。
ということで地図を眺める中銭道東海道編でした。どうもありがとうございました。
ありがとうございました。
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