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2023-05-23 1:01:19

BC064 『体はゆく できるを科学する〈テクノロジー×身体〉』

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面白かった本について語るPoadcast、ブックカタリスト。今回は『体はゆく できるを科学する〈テクノロジー×身体〉』について語ります。

前回の「運動することと食べること、痩せること」シリーズに続く「テクノロジー×身体」がテーマになった本です。

今回の本は(今のところ)今年読み終えた中で一番面白かった本でした。

内容は決して難しいというわけでなく、でも同時に読みながら関連した様々な考えを引き出させる。

あらためて自分が好きな本のジャンルは「テクノロジー」を応用してなにか世の中をよくする話なんだな、ということがわかりました。

そして最後の結論。これもまたごりゅごの好みというか、自分が伊藤亜紗さんを好きだなーと思うところは、この結論の落とし込み方。みんなについて優しく、もっとよい世の中になることが期待できるような話で締めてくれるところ。

これもまたこの本が「(今のところ)今年一番よかった」と思った本である理由とも言えるのでしょう。

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「体はゆく、できるを科学する」の紹介とスタンス
面白かった本について語るポッドキャスト、ブックカタリスト、第64回の本日は、体はゆく、できるを科学するについて語ります。
はい、よろしくお願いします。
はい、よろしくお願いします。最初にちょっとご連絡というか、あれなんですが、
ポッドキャストの文字起こしのサービスではないんだけれども、リッスンというやつが始まっていて、
クラシタさんがやっている打ち合わせキャストとか、ゴリゴがやっているゴリゴキャストとか、全部そういうのに登録しておりまして、
非常に文字起こしの精度が高く使いやすい。
そして何より全自動というね。
ブックカタリストの文字起こしを頑張ってやっていたんですが、もうこれに任せてしまえばそれでいいんじゃないかと思いまして、
はい、そうですね。
今後はそっちでやっていこうかなと考えています。
はい、あれはいいですね。しかも出来上がった文字起こしを修正することもできるので、非常に使いやすいですね。
話してたWhisperで、ChatGPTのOpenAIを使ったWhisperで文字起こしをしているっぽいというようなのを調べたらどっかに書いてあって、
元々現状を考える一番精度の高い方法がこれなんじゃないかって言っていた。それがまさにそうなっていて、
俺がローカルでやるよりも楽だし、そっちのほうがいいなっていうことで。
あと僕らだけがやると、僕らのこのPodcastは検索できますけど、Listに登録しているすべてのPodcast内で検索ができるので、ユーザー的にもそっちのほうが嬉しいんじゃないかなという気がしますが。
そうですね。あとそこにコメントを残せるんですよね。
確かに。
Twitterにコメントを残してもらうのは嬉しいことは間違いないんですが、こっちはこっちで持続性のあるやり取りができるっていうのかな。
他の人も巻き込んだやり取りができるという意味で結構いいんじゃないかなと思っていて。これが配信されるときまでには登録しておきます。
了解です。
あとそのページとかをシェアしてコメントとかしてもらうと、手間はかかるけど一番嬉しいかもしれないですね。
確かに。
という感じでよろしくお願いします。
今回紹介する本、体はゆく、できるを科学する。テクノロジー×身体。
伊藤阿佐さんという美学者だったり、ケアみたいな話とかをよく書かれている方って言ったらいいのかな。
その方の本を紹介したいと思います。
文芸春秋から2022年の11月に出てた本で、確か俺は読んだ時期で言うとまあまあ前で年末年始当たらず今年に入って読み終わったぐらいの本なんですけど、今のところ今年一番面白いというか印象に残っている。
多分俺が好きなジャンルは大雑把にいろいろと多分今までのものを聞いていただくとわかると思うんですけど、その中で哲学っぽいものとテクノロジーっぽいものを組み合わせているんですよね。
身体の話でありつつ、さらにそれを哲学とかケアという目線でもテクノロジーをどうやって役立たせることができるのか。
もう一言で言うとドストライクというかこれ以上ないぐらい好みなやつで、想像通りめちゃめちゃ面白かったんですよね。
最初にちょっと読んでいたら、ブックカタリストの第9回で紹介した妄想する頭思考する手というのを書かれているれきもとさん。
この人が考えていることと近いような話だなあっていうふうに思っていたら、れきもとさんも普通に登場しておりまして。
本のスタイルが5章立てになっているんですけど、5人のそういう身体はゆく的なことを研究している研究者のテーマを伊藤阿佐さんが紹介するみたいなイメージと言ったらいいのかな。
同じなんとか研究所みたいなところで一緒に研究している仲間たちという感じで、いろんな切り口で大雑把に言うと5種類のこういうテクノロジーがあって、それが今こんな風になってて、そのおかげで我々にとってどんないいことがあるんだろうかとか、どんなことが考えられるんだろうかっていうことが書かれているという感じです。
なるほど。
簡単に極論を言えばこれは飛ばして読んでもいい系とも言えるのかな、そういう意味で言うと。
好きなとこだけチョイスして読むと。
で、偶然これは図書館に行ったら何か置いてあって、ブックカタリストの読書会で何度か伊藤阿佐さんという名前を聞いていたので、へーと思って手に取ってみたらめっちゃ面白かったという本でもあって。
そうか。結構何回も研究してるつもりでいて、本は一冊も取り上げたことがなかったね、そういえば。
そうですね。で、俺は知ったのはブックカタリスト読書会で何か冊か伊藤阿佐さんという名前を聞いていて、それまで本当に知らなかったんですよね、全く。
で、そういえば名前聞いて面白そうだって思った人の本だなと思って読んでみたらめちゃめちゃ面白かった。
なるほど。
VRで速度を操作した剣玉の練習
で、まずいきなり初めになところですごく持っていかれた感じの話があって、VRの話なんです。
今クリエイト株式会社っていうところが、剣玉できたVRっていうソフトというのかな、ツールというのかな、そういうものを発明して、何かというと名前で大体想像はできると思うんですけど。
VRのゴーグルをはめて剣玉の練習ができます。そこまでは誰でも想像ができる。
で、現実世界にできなくてVRでできること、それ確かまさに妄想する頭でも出てきた話なんですけど、そのすごいところというのは速度を落とせる。
あーはいはいはい、なんか一回聞いたね。
剣玉を普通だと地球の重力下で、地球の重力に合わせたスピードでしか剣玉はプレイできないですよね、現実の剣玉は。
それをVRはシミュレートすることによって、ちょっと速度とかまでは書いてなかったんですけど、例えば振り上げてから半分のスピードで剣玉のボールが上がってくるようになる。
うんうんうんうん。
で、それを半分のスピードで受け止めてあげれば乗っけられる。
なるほどなるほど。
で、それによって1128人が挑戦して、1087人、95%の人がそれで練習したら現実界の剣玉が5分でできるようになった。
でもそれちょっとあれですね、比較対象が欲しいですね。
比較対象?
VRと身体能力の開発
VRを使わないで1000人に練習してもらって何パーが成功するかが、ちょっと知りたいですけど。
えーと、俺のイメージ半分いかないと思うんですけどね。
おそらくそうだと思うけどね、もちろん。比較対象がデータがないと、実はVRつけない方が上手かったみたいなこともありえるわけやから、ちょっと思っただけ。でも9割はすごいね、確かに。
95ですからね。
ほぼ100やもんね、それは。
もうほぼ100に近いんじゃないかな。で、そのことに対しての伊藤阿佐さんのコメントというか発言というのがすごく面白くて、人間にはすごく良い意味で許さを持っている生き物だっていう。
ほう。
VRって要するに嘘の世界じゃないですか。
現実ではないという意味ではね。
哲学の話をするとそうではないみたいなことを言ってたりする人もいるんですけれども。
大雑把な話をすると嘘の話なのに、その嘘の世界でのありえなかった経験を体は経験値として習得することができて、それを現実に適応することができてしまう。
すごく感覚的にはそりゃそうだよねっていうことのような気もするけれども、逆に言語にされると本当だな確かにそうだなすげえなってまず思ったんですよね。
で、さらにそれがこれまだオープニングなんですけれども。
例えばで言うとケアの観点でもすごく実際に役に立っているらしくて。
現実っていう手がなくなった人とか足がなくなった人が、そのなくなった手が痛いと感じてしまう。
そういうので悩まされている人ってすげえいっぱいいるみたいなんですよね。
そういう人にそのVRのゴーグルをはめてもらって、腕があるように見えるようにする。
仕組みとして、例えば左腕がない人は右手の動きと鏡の対称、鏡面対称な動きをするっていうのかな。
そういうふうに自分の手があるように見せてあげると、痛みが消える人が割合とかはわからなかったんですけど、それによって痛みが消える人がいる。
永遠にその効果があるわけじゃないんだけど、それを体験しておくとしばらくの間痛みがなくなるらしいんですよね、人間の体の。
それってなんていうんだろう、なんでそんなことできるのっていうかすげえことだよねっていうか。
そうか。それ、幻の腕を手術するっていうような話で、誰の本やったかな、誰の本やったか忘れてたけど、
鏡を使って同じ治療っていうのかな、治療って言うのが難しい。鏡を使って同じことをされて、同じような効果が上がってるっていう話があって、それをVRに応用したという感じなんでしょうけど。
だから、目に見えるからの話をね、きっと。
目に見えるから。
自分の目に見えるからそこに世界が構築される。だから、僕らが現実と言ってるものだって、結局僕らが視覚して得たものを脳内でシミュレートしてるわけじゃないですか、結局のところは。
だから別のシミュレートが入り込む余地があるというような感じだと、なんか僕は思いますけども。
ちょうどそれで言うと、デビッド・チャーマーズがリアリティプラスっていう本を出していて、VRは現実だっていうことを言っていて、何言ってんだっていうクソ難しい本なんですけれども。
ちょうどそれとかを読んでいると、もうちょっと繋がってくるところはあるんですけど、人間の脳がいかに、伊藤浅さんは緩い、いい意味での緩さがあるっていう言い方を言っているし。
伊藤 拡張性があるということでね、この場合の緩いということは。
テクノロジーを使って、結構思いもよらなかった身体への、身体能力の開発、それはいろんな観点があると思うんですけど、この人の場合、ケアというものが主力ではあるので、ケアみたいな話でもできるし、
もっと他にもいろんなことでもトレーニングができるぞっていう感じのことが、順番に紹介されていく感じなんですよね。
ピアノ演奏のトレーニング
1個目がピアノ、エクソスケルトンという名前の。
まがまがしいね。
エクソは拡張ですね、EXの。
そっちか、なるほどね。
この人は実際、自分もピアノを弾いていた研究者の方、古谷真一さんという方なんですけど、その人が研究しているものというのが、指にマシーンをはめ込むというのかな。
ピアノ操作マシーンみたいなやつを指につけてあげて、ピアノを演奏すると、できないことができるようになるという仕組みで。
これもまた、へーっていう面白さなんですけど、人間って新しい動きができるまでできないんですよね。
できるまでできないってすごく難しくて、できるを偶然見つけたら、できたって言って、その動きを覚えて今後に活かすことができるんだけれども、
1回目のできるって、できるまでできないんですよね。
いろんなパターンをひたすらひたすら試してみて、初めてたまたまうまくいったやつというのを見て、こうやってやればいいんだということを覚えることによって、その動きをマスターすることができる。
エクソスケルトンというテクノロジーを使ってあげると、技能獲得のパラドクスという名前で呼ばれているらしいんですけども、それをかなり解消できるようになるんじゃないか。
一気に、第1級目からできるにたどり着けると。
そう、厳密に言うと完全にできるではないっていう書き方はもちろんされていて、できるへの入り口がものすごく楽になるというのか。
ピアノなんかだと、トリルみたいなやつをね、特に薬指とか小指とかを絡めるとめちゃめちゃ高度で難しいんですよね。
そういうものをテクノロジー、そういう機械を使ってやってあげると、自分の娘がそれを使ってピアノの練習をしていて、できた時っていうのがあったらしくて。
その時の感想っていうのがすごい面白くて、ああこういうことかっていう感想だったらしいですよね。
スキル習得の発見の連続
一般的にできたとかやったとかそういうことじゃなくて、なんかエクソスケルトンによってなぜかできてしまって、それに対して後からこれかっていうふうに分かった。
体が先に動かしてから意識が後から追いついてくる。
だから習得というより発見に近い感じなのかな。
おそらくスキルの習得というのは発見の連続なんじゃないかと思うんですよね。
俺が思うところなんですけど、その細かな発見を繰り返して、それを失敗と成功の発見をひたすら試行錯誤することによって発見というものができるんだけれども、そこの試行錯誤のある程度いいとこまでいく回数を圧倒的に短くしてくれる。
だからその試行錯誤は避けられないけど、その範囲をだいぶ狭いところに押し留めてくれる。
全ての行動の可能性からやるんじゃなくて、おおむねこの辺で行きましょうみたいなところから始められるってことですよね、これは。
そう、だからそこが結構重要なところでもあるとは思っていて、そのまんま真似したってその人のものにはならないんですよね、当然。
結構重要なところで、それでできると思ってしまうとやっぱその勘違いをしてしまって、おそらくその人は努力もしなくなるし、実際にそれはちょうど2章ともつながる話なんですけど、
人間の体って誰一人全く同じ体を持っている人は存在していない。
ということは誰かのやり方を100%そっくり真似することって不可能なんですよね、原理的に。
ということはエクソスケルトンで仮にそれができたとしても、そうじゃない細かな調整というのは結局最終的には自分でやって体で覚えるしかないんですけど、
テクノロジーを使うことでそうやって無理をせずというか、できる限り無駄なことをせずっていう言い方をするとちょっと誤解をされてしまうんですけれども、
その良いことに使える。この人が言っている言葉としてかっこいいなと思ったのが、無駄な無理を防ぐことで才能の限界まで挑戦できるようになる。
特にピアノ業界とかって音楽とかが例えばで言うと強烈なところなんですけど、音楽って究極の目的は良い音が出せることなんですよね。
だから自分の肉体にとってどれだけ無茶なことをしていようが良い音が出せてしまえば、人間というか音楽家というものはそのために体を壊してしまうようなことでもやってしまう。
そういうものをテクノロジーによって挫折してしまう人、しかも不本意な挫折をしてしまう人を減らすことによって、より多くの人が才能の限界まで挑戦できるようになる。
そういうふうにテクノロジーを使ってやろうって言っているっていう、その姿勢というか発言のかっこよさ、素晴らしさみたいなのもあって、いきなりここで強烈に面白かったんですよね。
確かに。
身体の個性と最適化
ピアノがいかに本番みたいなやつが面白いかみたいな話とかも出てきていたりだとか。
なるほど。
これはどっちかというとテクノロジーというか技術者、技術論、なんとか論みたいな話になってくると思うんですけど、練習で同じことしかしてない人、いつも同じ演奏しかしていない人は本番が怖いらしいんですよね。
なるほどね。
本番ってさらに言うと、本番と全く同じ環境でプレイできる人なんて同じく誰一人存在しないんですよね。
そうやな。
ということは、我々が目指すべきは、本番で最も良い演奏ができるようになることで、その辺りも意識を変えてやらないといけないというか、結構違う。
なるほどね。
著者の場合で言うと、研究の者ですね、古谷さんっていう方が、人生で一番うまく演奏ができた時っていうのが、会場間違えて時間に間に合わない、やべえってなってダッシュして、その30分後ぐらいに演奏したっていう、いつもより圧倒的にハードな環境での演奏というものが人生最高の演奏になってしまった。
なので、そのコンディショニングというものから、練習の仕方というものから、結構一流のプロが考えていることと素人が考えていることの違いみたいな話ももうちょっと詳しく書かれていたりして、そういう観点で見てもかなり面白かったですね。
なるほど。
古谷さんはやっぱ本番が怖いって言っていて、だからお前は同じことしかしてねえから怖いって思うんだよっていう。
なるほど。
その一流の人はすげえ面白いらしいんですよね、やっぱ。
いつもとはできないことが本番だとできてしまって、超楽しいっていう。
なるほど。
そういうマインドなんかの点でも、この辺の一生とかはすごい面白く。
で、その話と大体の話がちゃんと裏でつながっているというか。
ほうほうほう。
いろんな人にいろんな意見を聞くんですけど、その共通点がやっぱすごくいっぱいあって。
ピッチングフォームの研究
次の第2章が柏の牧夫さんという方で、プロ野球の桑田投手。
巨人軍?
巨人軍、俺たちの世代なら多分知ってますよね。
その方のピッチングフォームを研究して、体というものがいかに面白いのか、不思議なものなのかっていうことについて研究している話で。
この人が言ってるのが、さっき言った一人一人、背の高さから手足の長さから何もかもがめっちゃ違うので、
一般論というものがスポーツに関してもそうだし、あらゆることに関して自分の体の特性と折り合いをつける場合に、一般論はあまり役に立たない。
一人一人に最適な投げ方があるっていうことを前提にした上で、いろんなことを研究していて。
プロ野球の桑田投手に協力してもらいながら、いろんなことを研究しているんですよね。
という話が紹介されていて、超面白いんですけど、桑田投手って、野球のことは俺はあまり知らなかったんですけれども、
一般的に非常にコントロールがいいピッチャー。狙ったところにめっちゃきちんと投げられるタイプのピッチャーなんですけど、
30回、桑田さんに同じフォームで投げてくださいねって言ってたら、毎回毎回違ってるらしいんですよ。
さらに言うと、最初と最後で比べたら、ボールのリリースポイント、ボールが手から離れるところっていうのが、14センチもずれてた。
だいぶ違うね。
そのベースまでの距離と角度とかっていうのを計算してみると、大雑把に言うと、1センチずれたらベースの上で何十センチずれるらしいんですよ。
14センチずれるということは単純計算したら1メーターずれる。
のに、同じ場所にちゃんと行けるらしいんですよね。
すごいね、それは確かに。
それってすごく不思議なことだよね。
なんでなんだろうっていうのを考えているのが、その第2章の話なんですけど。
異なる環境での同じ結果と土地観について
まず、これもさっきのピアノの話と一緒なんですけど、ピッチャーというものは100%同じ環境で投げられる人なんてまた誰一人いないんですよね。
天気も違うし、気温も違うし、ピッチャーマウンドって確か球場によって高さが変わったりするらしいんですよね。
高さから傾斜から。
土なんで踏んだらだんだんぐちゃぐちゃになるじゃないですか。
足とかでピッチャー鳴らしてるけど、そんなことをやったって当然限界はありますよね。
なので結局、ほとんどの人間はというのか、少なくとも野球というスポーツにおいては、
唯一絶対の環境というものは存在しなくって、唯一絶対の環境へ最適化してしまうと環境の変化に対応できなくなってしまう。
確かに。
で、それが誤差になって修正できなくなってしまっていて、
そうであると、おそらく少なくともプロ野球の選手、ピッチャーという職業でいうと、
やっぱりそれだとむしろスランプに陥りやすいというか、
なるほど。
さっきの練習の話とも一緒なんですけど、やっぱり全く同じことをやっていると、逆に全く同じことができなくなってしまう。
ああ、そうか。体の動かし方が同一でもパフォーマンスの方が変わってしまうと。
そう、全く同じ環境でプレイできる。
コンピューターゲームの野球の中のピッチャーであれば、理論上は同じことはできるんですよね。
でも私たち人間は求められるのは、ちょっと異なった環境でも同じ結果を出すこと。
ちょっと異なった環境で同じ結果を出すためには、逆にいろんな環境で求めるものは結果であって、
そのための体の動きというものは変わってしまってもいいという言い方をしてもいいのかな。
環境変化に対応し、揺らぎを引き受けることの重要性
そうですね、確かに。
なので、それっぽい用語で書かれている話で言うと、
クワタという島州はパフォーマンスが毎回同じでの機械的な再現性が高いというものではなくて、
結果を同じにするためにパフォーマンスを変えることができる。
そうか。コントロールがうまいって聞くと、体の動かし方が毎回同じような機械的だというイメージがあるけど、むしろ逆だということなんだね、これは。
そう、結構不思議なことというか考えさせられる。どんなことに関しても言えることなのかな。
これは結構、話を聞いていて、最近読んでいる人を賢くする道具という本に、
ハードサイエンスとソフトサイエンスという話があって、
ハードサイエンスというのは測定できる、実験室の中で行われるような環境を揃えて、毎回同じ結果を出すものを扱う科学。
ソフトというのはそうじゃない、人間的なものを扱うということで、
僕らが基本的にハードサイエンスに寄りすぎているものに対して、ソフトサイエンスというのを著者のノーマンは言っているわけですけど、
同じような観点を感じますね、これは。
おそらくそうなんでしょうね。だから、裏テーマ的な話で言うと、やっぱりそういう現代のハードサイエンス的なものへの継承をならしているような本だという印象もあって、この本で言うと。
さっきの面白いのが、この研究者の柏野さんは、異なった環境で同じ結果を出せるようなことっていうのを、土地観という言葉で表現している。
土地観、その土地に通じているという意味?
土地観が高いということが、様々なやり方を結局試していないとダメで、
いろんな環境での同じ結果を出すことを経験していないといけない。
それによって、異なった要求に応えることができるようになる。これ、生き方にもやっぱり通じると思うんですよね。
そうですね、それはそう思います。
毎日、例えば人生をルーチンワークで埋め尽くすと楽で良いことではあるんだけれども、
ルーチンワークを何が何でも変えないように埋め尽くしてしまった場合においては、少しでも環境が異なったら、いきなり全てのルーチンが崩れてしまう。
そうですね。
というものを、ある程度、やはり結果が同じものができるように、様々な揺らぎの中で対応できるようにしておかないといけない。
そうですね。だからハードサイエンスは、その揺らぎっていうのを無視するかゼロに抑えることでパフォーマンスを安定化させるけど、
プロとアマの違い、イメージと回転の一致について
リアルに生きる僕たちは、むしろその揺らぎをどう引き受けるのかっていう観点が、その実生活では重要になってくる。
そうですね。この揺らぎを、しかもおそらく必要なものだし重要なもので、それがやっぱり現代社会では全般的に軽視されているのではないか。
間違いないですね。
っていうのは、やっぱり読んでいて感じたところでもあって。
面白いのが、さらに言うと、本人は言ってることとやってることとか、だいぶそういう意味で言うと違うらしくって。
本人は毎回同じフォームで投げてるような感覚があるってことかな。
そう。本人は同じフォームで投げてるつもりなのに、14センチずれて見せられて、「え?マジ?」みたいなことを言っている。
でも逆に、そうやって意識すると次から投げられるようになるよね。
多分このレベルの人ならそんなことはないと思うんですけど。
カーブってどうやって投げるんですか?って桑田さんに聞いてみると、中指をひねってどうのこうのみたいな説明をするんだけど、それも解析してみると違うらしいんですよね。
口では人差し指って持って中指でひねるみたいに言ってるんだけど、違う動作をしている。
これがプロに教わるのとプロのコーチに教わることの違いみたいなのが多分感じられますよね。
上手い人は自分のやり方を上手く言語化できている可能性があるわけではないっていうことをちょっと意識した方がいいですね。
そう。やっぱプロというのは、これも言い方がすごいなと思うんですけど、手の動きとイメージを一致させるんじゃなくて、回転をイメージと一致させようとしている。
それができてしまっていて、それによって人一倍自分の体について繊細なタイプの人なのに、無意識はとてつもなく由来でいる。
体の優位性と無意識的な学習
これも意識無意識の話ともつながってくるんですけど、体というものが意識より上位に来てるんですよね。上位という言い方でいいかな。
本源やね。一個手前より下部構造というか、基礎的なものを要するに。
そこの上に意識が、意識はあくまでも添え物でしかなくて、根本にあるのは土台なんだっていう。
これもやっぱりいろんなことに、現実界のいろんなことにもおける重要なことなんじゃないかな。
何かを特に体を使った何かを学ぶっていう時なんかにも、そのあたりのことを知っておくことで、すごくこれから例えば子どもたちがスポーツを学ぶ上でも変わるんじゃないかなっていうふうに思って。
体の話やけど、結局例えばその学問的なもの、知識的なものもある部分何かを動かすわけやから、根源としては一緒なんじゃないかなと思う。
これは私たちがいかに学んでるかの本で、結局言葉だけでは伝わらないっていうことの裏側の説明になってるなっていう気がしますね。
そうですね、だからやっぱり俺たちが例えば何か掛け算を理解したという場合は、無意識で理解をしているはずで、その上に乗ってくる言語は間違っている可能性があるっていうか、間違っているじゃないんだけど言い方は。
一部分は正しいかもしれないけど、全体を描写できているとは限らないってことだよね。
結局多分根底にあるのは言語じゃない体で、意識はその上に乗っかっているだけ。
なんか言われてみると例えば足し算をすること一つとっても割と自分の場合そういう感覚はあるかもなと思うし。
間違いないですね。
その言語を喋るの場合はちょっとどこまでそれが言えるのかちょっとまだわかんない感じではあるんですけど。
言語を喋る場合でもそうやと思いますよ。文法は結局後から添えるもんでしょ。
しかも俺、発言とかよく間違えるんだ。
間違える発言の揺らぎの中で自分が言いたいことを見つけていくみたいな感じじゃないですか、結局。
俺、しかもよく真逆のこと言うんですよね。
言うよ、普通に言う。
その右行けばいいっていうのを左行けばいいっていうことが言いたいのにそこ右右とかって言っていたりして、後からそれ逆じゃねえって言われてああそうだったっていう。
だからやっぱりある概念をそのまま言葉的に当てはまるものを押し替えているっていうような発言の仕方は僕らはしてなくて、もっと身体的に発言していると思いますよ、これは。
言語と身体的な表現
なんでしょうね、きっと。
この辺りもね、やっぱり面白かったという大雑把な言い方になってしまうんですけど。
スポーツの話からスポーツじゃないところが取り出せる面白さ。
さらにテクノロジー、これはテクノロジーとは言えないのかな。
テクノロジーがないとこのレベルの研究は多分なかなかできないんですよね。
でしょうね、きっと。
っていう点でも、やっぱり常識をちゃんとサイエンスでひっくり返そうとしてくれている面白さ。
確かに。
つい、例えば桑田はコントロールがいいって言ったら全く同じ動きをするんだろうって思ってしまうのを、
研究したらちゃんと違って、ちゃんとじゃないか、違っていたということが分かって、
悪い研究者はこれは何かの間違いだっていうことにしてしまうんだけれども。
そうだよね、確かに。
そうしないような時代になってきている、ちゃんと。
桑田さん本人も自分は毎回ちゃんと体を動かしていると思っているところがこれ面白いよね。
本人はちゃんと動かしている、14センチ違うって言われて、本人も驚いたって言っていて。
当人が解説するノウハウとか技能の話、やっぱり話半分以下に聞いた方がいいなと思うね。
当人というか、そうですね、そういうふうに言えるのかな。
だから行為の主体者が見ているのは本当に側面ある一部分でしかなくて、
やっぱり観察者の方がより当たり前だけど、観察者の方がよく分かっていることが多いってことだよね、これは。
それと関連した話で、その章で似たようなところと、これと繋がるところなんですけど、
技能を他人に伝えるための技言語。
技言語、テクニカルランゲージみたいな感じ?
多分これは英語にしない方がいい系の言語ですね。
本の中でも技というものがあえてひらがなで書かれていたので、
例えば有名なやつが、明日天気になれっていうゴルフの漫画。
あの中でドライバーを振りかぶる時に、チャーシューメーンで打てばいい。
これって非常に主観的で個人的なものではあるんですけど、
言葉では伝えられないものがこれによって伝わっているんですよね。
確かにリズムの取り方とか、スイングの勢いの出し方は言語的に説明しても無理だろうね、きっと。
むしろ言語で説明してしまった方が、ほとんどの人にとっては伝わりにくくなってしまう。
のが、チャーシューメンっていう言葉によって全てそこに押し込めることができる。
言語による抽象化の限界
これは最後のれきもとさんの話とかとも、ちょっとつながっているようなところだったりするんですけど、
言語というものが、そういうのってやっぱり我々はバカにしてしまいますよね。
バカにするっていう言い方はあれなのか。
現代人であればそうだよね。まず正確な定義がないという段階で、B級を危機に扱えないよね、きっと。
貝のものに持っていこうとしてしまうけれども、その方が優れていることって大いにあるよなって思うし、
長島茂雄さんとかがよくネタにされるじゃないですか。ぐっと来たら、スッと打つだったっけ、なんか。
あれも、ある意味、それの方が伝わる人というのはきっといっぱいいるはずで。
うん、そうか。そうやな、確かに。
さっきの桑田さんの話でいうと、攻撃者が言語化したところで適切とは限らないわけで、
むしろだから抽象化した方が、抽象化と言っていいのかどうかわからないけど、何かの変換をかました方が実は伝わり、よく伝わるとは違うか。
そうすることによって、聞いた人が実行しやすくなるってことなのかな。
どっちかっていうとね、なんかもっと大きな意味で、現代の科学とか工学というものが、いろんなものをやっぱり見落としてないかってことをこの人は言いたいんじゃないかと思っていて。
普通の文章的な説明とチャーシュー麺は何が違うんでしょうね。
何が違うのか。
何が、受け取った人にとって何が違うんかなと思って。
文字ではダメなんですよね、あれって。
ツイングと共にチャーシュー麺が示されることによって、体の動きとその言葉のシンボルが結びつく感じなのかな。
さらに言うとリズムとか強弱がすごく重要で、チャーシュー麺じゃないと多分ダメで。
チャーシュー麺ではダメなんですよね。
発される言葉と身体的な感覚のリンクがそこにあるわけか。
なるほど。
そこはだから文字を書く我々にとっては大いなる挑戦というかすごく深いものがあって。
ハンディキャップがあるね、これは。
これちょうどまさについ最近体験した出来事があって。
今年からは近所の神社委員というもので、神社の祭辞みたいなやつに毎月2回、2,3回参加させられているんですけども。
その祭辞の時に太鼓を叩くんですよね。
画学的なやつかな。
神社委員って毎年素人なので、誰かその辺のやつがちょっと太鼓やってっていう感じでやるんですよね。
その人って楽譜読める確率なんて低いですよね。
そこにあったカンペがめちゃめちゃ面白くって。
文字の大きさと空間によってどうやって叩けばいいかが示されていた。
なるほど。
どん、どん、どん、どんっていうのが1個目が大きくて、ちょっと空白が空いてちっちゃいどんが4個書いてあってとか。
それもコンピューターの陶複フォントでは表現ができない行為。
確かにそれはそうやな。
それとかにしても音で教えられたら多くの人はやっぱり一発で覚えられるはずなんですよね。
確かに。
それを例えば西洋音楽の譜面に起こそうとすると、
人間の直感から外れたことを法式にのっとって紙に記述した上に、誰もが読めるものでは、理解できるものではないものに変えてなってしまう。
原とその楽譜っていうプロトコルが通じる人には通じるけど、そうじゃない人には通じないものになってしまう。
だからプロトコルというものが難しいというか。
だから人間の感覚っていうプロトコルがあるやったらそれを使った方が早いねっていうことですね。
そうですね。残すためにはテキスト化というのはすごく重要で、それを否定してしまうことはもちろん全くもって正しくはないんですけども、
読んでいて思ったのが啓蒙主義的なものにいかに我々は読されすぎているのか。
それはそう思う。
それが正しいとか唯一で最も良い方法だということを思ってしまうのは非常に危険なことなんじゃないか。
太鼓の叩き方なんて確かに音の方がずっといいし。
そうよね。
ドン、ドン、ドン、ドン、ドンってコンでわかるし。
今やったら別に動画とか録音で残せるわけだから、テクノロジーによって別に無理して楽譜とか文章にする必要はない。
体験そのものを録音できる、なんていうのかな、残しておけるわけで、結局VRの話にも通じるよね、きっと。
うん。でね、言っているのがね、テクノロジーで実現したいものというのが、この技言語に近いものなんじゃないかなっていう感じのことを、さっきの桑田の研究をしている方が言っていて。
チャーシュー麺的な。
そう、さっき言った、だって動画だってまんまそうじゃないですか。
まあ、そうやね、確かに。
ドン、ドン、ドン、ドンを楽譜にするのは難しいから動画撮ればいい。
動画によって技言語そのまんま伝えること、結構できるよねっていう。
そうだね。例えば、手首どう叩いているのかズームしてみるみたいなことができるわけだからね、言うたら。
まあ、やろうと思えば。
で、同時にそれを絶対の教師としてしまうこともまた危険だっていう、その難しさ。
うん、そうやな。リアルに見えるからこそ、そこからの逸脱が難しくなるということ。
抽象的なものであれば、逸脱、つまりチャーシュー麺って解釈結構自由じゃないですか。
解釈に開かれてるけど、その動きそのものがそこにあったとき、でも結局同じ、さっき言ったように体格は同じでも、その人の体格が違うわけで。
そうそう、それです、それです。
だから音の再現が重要であって、体の動かし方はその後についてくるものやな、結局。
そう、なのでテクノロジーで動画を撮ることで、で、かなり情報度の高い技言語として残せるんだけれども、技言語はその絶対のものではないっていうのかな。
個々人の違いを尊重することの重要性
なるほど。
それを絶対にしてしまうと、また結局個々の身体的特徴を無視してしまって、もともとやろうとしていたっていうか、もともとやりたかったその、何て言うんだろう。
より伝わるものというものが間違って解釈されたら、それはそれでまたあかんよっていう。
そうやね、だからその個々人で違う、でその個々人の違いを本人が試行錯誤で吸収していくものっていう考え方ではあればいいけど、その原理主義的に一つのやり方があって、その個々人はそれに合わせなければならないっていう考え方を強化してしまうのはちょっと怖いよね。
人間が真似をしてそれをカタクナに守るというのが他の動物にできない得意なところらしくって、そこで言うとやっぱり人類の本能的な難しさであるような気がするんですけど。
なんかね、それは別の本に書いてあったやつなんですけど、猿に木の実を割ってその中身を食べるみたいなことを例えば真似させようとする間に、意味もなく途中で頭を叩くみたいな動作を混ぜ込むと、猿はそれを無視して真似するらしいんだけど、人間の赤ちゃんはその意味もなく頭を叩くっていうところまで真似するらしいんですよね。
判断を交えずに真似ができるというのは、人間が結構優秀なところらしくって。
オーストラリアが発見された時に、探検隊みたいな人が道に迷い込んで、食料がなくなってしまった時にその辺の野草とかを食べていたんだったかな。
中毒にかかってその人は結局死んでしまうんだけれども、現地の住民たちはその食べ方というものを先祖伝来のやり方で守っていて、なんかすっげえめんどくさいことをするんですよ。
ゴリゴリすりおろすまではいいんだけれども、そこに例えば土に埋めて3日間置いておいて、何十分茹でた後、骨くり回してなんとかしないと食べてはいけないって先祖代々教えられていて、現代の科学で調べてみると、そうすることによってちゃんと毒が抜けているらしくって。
言われたことを堅くなり守るということは、それはそれでやっぱり人類の能力でもあって。
それがカルト的な極端な信仰で形骸化を生んでしまうデメリットでもあると。
人類が行くところに行ってきたので、そこから新たな進化のバグが生まれ始めているんだなっていう。
なるほどね。
でも、たぶん現代で言えることは、何も考えずに真似するということをあまりよろしくなく、ちゃんとその人に合わせていろんなことを考えていきましょうというのは、これからのテーマなんじゃないかなっていうのは、読んでいて思ったところですね。
これは、ノウハウを提供している人間からすると、危機意識というか、やり方を考えなあかんなとは思いますね。
多くの人間は言われたことを割と無意識に真似してしまうんだけれども、全員の身体的特徴は必ず違うので、その人に合ったやり方というものは、教師とは同じにはなれない方が正しい。原理的には。
だから、ゴリラさんがたまにオブシリアンとかのセミナーやっておられるじゃないですか。だからあれは正しいなという感じを聞いてて思いましたね。
正しい。
おそらくそうでないとダメっていう感じすらする。その実際にやり方を見せて質問を受けて、ゴリラさんの知識の中で答えを返すということの中で、それぞれの人のノートの使い方が確立されていくっていうルートでない限り、ノウハウの本で示したらもうその通りやればいいってなりがちだし、
説明している本人が本当にうまく説明できているかもわからないことも考えたら、やっぱりインタラクションの中で発見してもらうというのが一番最適かなという感じがしますね。
そうですね。それで言うと、ナレッジスタックとかは他の人にも書いてもらっていて、そこもやっぱり重要だなと思っていて。
なるほど。
一番、次回公開される記事とかは、じゅん先生が書いてくれたやつでめっちゃいいなと思ったのが、ゴリゴさんがこういうふうにやるって言ってたから、真似してみたけど、全然真似合わんくって放置しているみたいなこともちゃんと書いてくれていて、
これが人に書いてほしいと思っていた一番の理由だっていうのをすごく思って。
そうだよね。それで情報全体が立体的になるというか、より受け取る人にとって、自分はこれを採用したらいいし、これを採用しなければいいっていう判断が働かせやすくなる気がしますな。
あと何よりも、やっぱり一回いいと思ったから試してみたっていうのはやっぱりすごいなと思って、結構重要なことだと思うんですよね。
確かに。
すぐに直せるからちょっと試して、ちょっとダメだったらやめればよくって、合わんかったっていうのが堂々と言えることもやっぱり大事で。
そうですね。それはそう思います。
できないじゃない言い方だったんですよね。ちょっと厳密な文章まで覚えてないけど。できなかったではなく、自分には趣味が合わなかった。
合わなかったって感じだよね。Not for meってことだよね。
それがやっぱり言語化できることは、おそらくこれから個人による多様化がより進んでいく中では重要なことなんじゃないかなっていうのは思いますね。
VRの画像処理技術の応用
あと3章、4章、5章なんですけども、一番面白かったのはこの桑田なので、あとはもうちょっとサラッとっていう感じなんですが、
3章はリアルタイムの画像処理をVRに生かすとすごいよっていうような話があって、一番すごかったのは、剣玉で大体想像がつくと思うんですけど、卓球にもすごく応用ができて、
卓球でその打たれた瞬間に、卓球って俺すごく高度にやっていないんでわかんないんですけど、回転を読んだ上でどう返すかということがすごく大事なスポーツで、
温泉卓球ではそんなレベルには到達しないんですが、どう回転してくるからそれに対してどう打ち返せばいいということがリアルタイムにVRのゴーグルをつけて処理ができる。
こう回転してるのでっていうのを教えてくれて、おそらくこっちに飛んでくるからこうやるといいよ。
さらに言うと、今の技術を使うと、サーバーとかのサーブを打つ人の画像処理、解析してみると、やっぱね、打つ前に方向わかるらしいんですよね。
さらにすごいのが、それを人間は言語化できない感とか雰囲気というもので理解ができていて、こっちに飛んできそうというものが一流の選手であればあるほど読めている。
これも読みみたいな言語とか直感と言われていたものがもっとテクノロジーでちょっと解明されつつあるみたいな話でもあるのかなっていう印象ですね。
もう4章がバーチャルシッポ。
VR的な感じだね。
バーチャルシッポとは別の話で、ヘッドマウントディスプレイをつけて景色が見えるみたいなことをやって、あの木を指さしてくださいって言うと、最初は正確に指させるんですよね。
見える世界というものを角度1度ずつぐらいずらしていくと、だんだん最初は1度ずらしてあの木指さしてくださいって言うと、その木の方向を指せるんですけど、
どんどんずれていって、あの木指さしてくださいって言うことをやると、40度ぐらい角度ずれちゃっても、そのVRで見えている世界のそっちの木の方を指さすようになる。
自分が指さすと思っている方向と本当に指さしている角度というのが40度ぐらいずれても気づかない。
その無意識のレベルで誤差あり学習をして体の動きを調節してしまっている。
身体の錯覚を利用したリハビリ技術
目つぶるとまっすぐ歩けないとかってよくあるじゃないですか。それをその見事ちゃんとテクノロジーというかサイエンスで研究しているというのか。
おー結局その視覚によるフィードバックで微妙に調整し続けているわけですね僕たちは。
それが本当に無意識のレベルなので、それを無意識で騙してやると騙されるという言い方もできるし、そういうふうに変わってしまう。
あと環境が変わると治らないみたいな話。週刊課の本でも出てきた。そんなような話も同じようなことが言えていて。
そこがさっきの手があるみたいなリハビリなんかでも問題になりやすかったりして、できるだけ環境を同じにしてあげないと効果が長持ちしないというか効果が出にくい。
そのあたりはひょっとしたらVRの技術というか再現度が高まることによってもっと良くなるのかもしれないですね。
現実とVRが首つかなかったらVR上の訓練が現実にも適用できるようになると。
ですね。やっぱVRは現実だという説も分かるような気がするっていうのをこの本とかを読んでいるとちょっと思えてくる。
究極チャーマズの意見に賛成するかどうかは別として、僕らは世界そのものを感じているわけではない。
世界そのものを受け取っているわけではない。だからもうそれはバーチャルだと言われたらそれはそうだよねっていう気がしますけど。
面玉VRを脳CPUが処理しているわけですもんね。
だからそれは別のVRが入ってきても一緒でしょって言われたらまあそうですよねっていう感じかな。
もう一個がその4章だと尻尾の振り方というものをつけてみて、脳の特定のその場所に反応して尻尾が動くようにしてみて、
人がどういうふうに尻尾の振り方を覚えていくのかっていうのを研究したりしているエピソードとしてもあって、
これも面白いのがやっぱりコツみたいなことが答えが一つにならないんですよね。
人によってそのお尻をキュッてするっていう感じみたいな言い方だったりとか、いろんな表現があるっていう話だったり、
あとさらに慣れてくると身体化ということがやっぱり起こるらしくて、尻尾を踏もうとするとびっくりして避けようとするとか。
いやーすごいね。それは面白いね。
それが自分の体の一部だと簡単に脳が騙されてしまう。
これがどのぐらいの時間スパンだったのかわかんないんですけど、たぶん1日未満のレベルだと思うんですよね。
そのレベルでも自分の脳の脳波から物が動いていると認識していると、それが自分の体の一部だと感じるようにもなってしまう。
いかに脳がフィードバックを元にして行動しているかというのを反対側の側面からのものとも言えるのかな。
これもリハビリ的なものに使えるみたいで、脳波を使って例えば手がなくなった人に指がなくなった人に指が動かせるような機械をつけるとしますよね。
脳波から一定の信号を送ってあげると指が動かすことができるようになれば、原理的には筋肉と同じことが機械でも再現できる。
そのあたりのこともこういうテクノロジーを応用していけば、よりリアルなことができるようになってくるんじゃないのか。
というような話が書かれていたのが第4章。
音声認識技術の進化と応用
最後が第5章がれきもとさんの話で、れきもとさんの研究はいろいろあるんですけど、ここで話されていたのは主に声に関する話。
一番面白かったのが、例えば音声入力あるじゃないですか。
あれってまだ進歩できるんじゃね?っていうことを言っていて、その進歩の仕方の一つとして、
ウィスパーボイス、ささやき声。これをシフトキー的な使い方できるんじゃないっていう言い方をしているんですよ。
例えば、俺たちが今音声入力で文章を書くとき、私たちはどのように考えているか。
○開行を私たちはこう考えています。点でも、みたいな言い方をするじゃないですか。
この機能操作と機能的なものをウィスパーボイスにしたら、すげーうまくいくんじゃね?
点とか○をわざわざ言わないでいいってこと?
うん。というか、私たちは点、どのように考えているでしょう。
なるほどね。
そうすると戻るができる。先頭に行くができる。
はいはいはい。
だとか、さらに言うと、人混みの中でウィスパーボイスのみ、シリを呼び出すコマンドにできる可能性もある。
ヘイって呼びかけるんじゃなくて、iPhoneに向かってウィスパーボイスで喋ったときだけ、あなたに向かって囁いていますよっていう意思表示だと判断してくれて、
それをやってくれたら、人混みの中でも気にせずに誰々に電話かけてっていうのをこっそり言ったら、周りの邪魔にもならずに、さらにシリが反応してくれて、コマンドを入力することができるんじゃないか。
だから普通の音声入力の場合は、命令の文とテキストの中身が全く同時に扱われているけど、ウィスパーボイスをコマンド側に寄せることで、もっと便利になると。
うん、っていうことができるんじゃないかっていうことを言っていて、音ってすごいよねっていう話をしているんですよね。
言葉や音についての高次元な理解
これってスポーツとか楽器とかにもおそらく応用できるんじゃないのか。ここでも長島さんの話が出てきて、うーんと溜めてパッと開くみたいな言い方をしているんだけれども、
それってもっと情報量を上げていくとすごいことができるかもしれない。口真似で身体的な理解ができること。
さっきの太鼓を叩く時のどんどんみたいな話でもそうだし、オノマトペとかでもそういうのがもっと解像度を高めることができるかもしれない。
うーん、なるほど。
なんか書かれてたのが、例えばひらひらとひひららとひららひとひひららとひひららで、全部同じ言葉なんだけど伝わるニュアンスは違うんですよね。
そうですね、確かに。
ちょっと前に見て面白いなと思ったのが、音楽の8分音符のアクセントをどこに置くかみたいな話で、日本語の言葉に当てはめて説明していたり、野球だったり探検だとけにアクセントがあるんですよね。
3拍目にアクセントがあるっていうのは探検っていう言葉で覚えればいいとか、そんなような言い方もできるし、声というものがもっといろんな使い方がきっとできるはずで、それを思った以上に俺たちはさっきの話と同じなんですけど、ついバカにしてしまう。
うん、確かにね。
オープニングに伊藤阿佐さんが目が見えない人と一緒にたこ焼きパーティーをしたっていうエピソードがあって、その時にその見えない人が俺もやってみたいって言ったらしいんですよね。
みんなが声で支援するんですよ。もうちょっと右、待って待って待ってみたいなことを言っていたんだけれども、最終的に生き残ったやり方っていうのが、あーって言って止めたところで止めろっていうすごく原始的な方法というか、音がオンオフだけで伝わった。
それもやっぱり音というもののもっと深い可能性というのか。
だから僕らが思ってる以上にそこに込められてる情報量とか表現力があるということだよね。
相当あるんじゃないか。
なるほど。
っていうのもやっぱ文字こそ思考という文字を書いている人は一般的にやっぱそう考える傾向があると思うので、そこもやっぱ考えないといけないような、いろんな考えることはいっぱいあるよなっていう。
僕らがこうやってポッドキャストでわざと喋りことをしているのも、その文字の限界があるからですよね、きっと。
そうですね。これは文字でやっぱ同じ表現をしたって強弱とかそういうところで糸を分けているし、わざとゆっくり言うだとか早く言うだとか。
音楽がかっこよくなるのも結局その楽譜にかけないところがかける、が込められているところが音楽のかっこよさでもあるし。
で、そのやっぱれきもつさんが考えていること、こういうのが人生で1個か2個ぐらいなら思いつくかもしれないけど、何十個も出てくるというのがやっぱとんでもねえなっていうことを思うし。
実現されるかはさておき、なんかすごいね、結構感動したんですよね。そんなふうに考えたことなかったって思って。
だから常にUIの可能性を研究してあるんでしょうね。
うん、だろうなっていう。確かに声すげえよな、声でしかできないこととかいろんな口、目と口ばっかりになってしまう。
特に現代だと目が一番重視されてしまうというのかな。
それで言うと、ポッドキャストとかが言ったら余っている耳を使おうみたいな考え方に変わってきたりだとか、いろんな可能性は開けているのかもですね。
やっぱり言葉、書き言葉じゃない話し言葉の緩さっていうのが、このポッドキャストの良さだと思いますね、きっと。
うん、そうですね。これは効率の真逆を言っているものですからね。この内容テキストで読んだら多分10分か15分ぐらい。もっと短いかな。
多分ね。
が、その密度が低いことによる良さがおそらくあるはずで。
ありますな。
あとあんま情報量が多くても結局処理しきれないですからね。
あとその情報に関連する枝葉をつけることで逆に覚えやすくなることもあるので。
単的に情報だけ出したらいいってもんでは多分ないでしょうね。
そうですね。それは本でもきっと言えることなんだろうなっていう。エピソードがやたら長いのうっとうしいなって思うことは半分事実なんだけれども、それがやっぱり重要なんだろうし。
ゼロやったら逆にダメなんでしょ。だから適度な分量がきっとどこかにある。
適切な比率が。それはさらに人によって違うだろうから。
そうでしょうね。きっと。
まったく同じにはできない。
できるとできないを能力主義的な価値観から取り戻す
最後にまとめ的なことで伊藤旭さんが言っていた話っていうのが、できるとできないを能力主義的な価値観から取り戻したい。
そういうふうに思ってこの本を書こうと思ったという感じのことを言っていて。
できるっていうことが優れていて、できないということが劣っているという考え方をやめようぜっていう。
目が見えないというのは能力主義的な価値観だとやっぱり劣ることになってしまうけれども、それがやっぱりそんな小さいものではないですよね。人間という存在の価値というか。
何よりもできるようになっていくという過程というのが、人を小さな科学者だとか文学者にするんだから、できるようになっていく過程というものを楽しむというか、よりもっと豊かに生きていこうみたいなメッセージが最後に書かれていて。
ちょっと心が温かくなるね、それは。
やっぱりこの辺りがらしいなというか、すごいなというか、らしいというほど詳しくは知らないんですけれども、俺は。
好きだなって思う由来、ゆえんですね。この人の書いている本が。
全体的に、そういう温かさ、優しさみたいなのがすごくいっぱいあって、テクノロジーな観点ではなく、俺はテクノロジーが好きなので、そこに寄った方で読んでいるんだけれども。
もっとそのケアみたいな観点とか、そういう観点で読んでも十分すぎるぐらい面白い本だったのではないかと思います。
ということで、今回はこれぐらいにしておきたいと思います。
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それでは今回もお聞きいただきありがとうございました。
ありがとうございます。
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