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2021-01-22 59:01

BC004『ゲンロン戦記』

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今回は『ゲンロン戦記』について。

『ゲンロン戦記 「知の観客」をつくる (中公新書ラクレ) 』

*書籍のリンクはすべてAmazonアフィリエイトのリンクです。

以下倉下のメモ

東浩紀さんの代表的な著作

* 1998年『存在論的、郵便的―ジャック・デリダについて』(第21回サントリー学芸賞(思想・歴史部門)受賞)

* 2001年『動物化するポストモダン オタクから見た日本社会』

* 2007年『ゲーム的リアリズムの誕生~動物化するポストモダン2』

* 2009年『クォンタム・ファミリーズ 』(第23回三島由紀夫賞)

* 2010年『思想地図β』創刊(3万部を超えるヒット)

* 2011年『一般意志2.0 ルソー、フロイト、グーグル』

* 2015年『弱いつながり 検索ワードを探す旅』(紀伊國屋じんぶん大賞2015「大賞」)

* 2017年『ゲンロン0―観光客の哲学』(ブクログ大賞人文書部門大賞・第71回毎日出版文化賞)

フランス現代思想に興味があり、やや難しい文章でも大丈夫なら『存在論的、郵便的―ジャック・デリダについて』から行きましょう。難しいですが難解ではありませんし、晦渋さもマイルドです。

現代のインターネットと情報環境、それに市民や民主主義について興味があるなら『一般意志2.0 ルソー、フロイト、グーグル』は抜群に面白いです。インターネットに民主主義の未来を期待するその視点は、2021年の私がまだ諦め切れていない希望でもあります。

ちなみに上記二冊は、ジャック・デリダやルソーのまっすぐな(あるいは定番の)解説書を超えて、むしろ「大胆に読み替える」という姿勢があり、それが実にスリリングです。哲学というものが、単に歴史的な研究に留まるものでないことが体感できます。

文章として一番やわらかいのが『弱いつながり』でしょう。これまた現代におけるインターネットとの付き合い方を提示してくれる本だと思います。

むろん、『ゲンロン戦記』から読み始めてもOKです。むしろ、その方がその他の著作に興味を抱きやすいかもしれません。

郵便と誤配

『存在論的、郵便的―ジャック・デリダについて』より。

デリダを読解する軸のひとつとして、以下私たちは「郵便(poste)」の隠喩を選ぶとしよう。

郵便的隠喩に引きつけて整理すれば、「エクリチュール」とは結局、情報の不可避的かつ不完全な媒介のことだと考えられるだろう。情報の伝達が必ず何らかの媒介(ルビ:メディア)を必要とする以上、すべてのコミュニケーションはつねに、自分が発信した情報が誤ったところに伝えられたり、その一部あるいは全部が届かなかったり、逆に自分が受け取っている情報が実は記された差出人とは別の人から発せられたものだったり、そのような自己の可能性に曝されている。

「手紙はつねに宛先に届く」とラカンは述べる。デリダが最も注意する点がそこである。デリダに言わせれば、手紙は「届かないかも知れない」。

(前略)ここで「エクリチュール」とはコミュニケーションの脆弱さ、つまり誤配可能性一般を意味している。他方「多義性」と「散種」は前章で述べたように、特殊性と単独性、確定記述の束とそれを超える剰余に理論的にほぼ等しい。したがってこのデリダの命題は私たちの文脈では、コミュニケーションの失敗こそが固有名の剰余を生じさせると述べたものだと解釈される。

「あてにならない郵便制度」の中で、手紙は届くかもしれないし、届かないかもしれない。誤った手紙の配達(誤配)は、しかし「思いもよらぬ」ことを引き起こす可能性も持つ。

完璧な郵便制度のもとでは、すべての「思い」はそのまま結実し、人は「思い」の中に閉じこもってしまう。「思いもよらぬ」ことは生まれえない。冗長性・余剰(剰余)といった、効率性を考える上でまっさきに削られるものが、しかし可能性の展望を開く。

言葉によるコミュニケーションはその最たるものだが、コミュニケーションを「私と世界の接面」の一つだと捉えれば、他のさまざまな接面においても同じことが言えるだろう。

非クリエイティブな作業の重要性

会社の本体はむしろ事務にあります。研究成果でも作品でもなんでもいいですが、「商品」は事務がしっかりしていないと生み出せません。研究者やクリエーターだけが重要で事務はしょせん補助だというような発想は、結果的に手痛いしっぺ返しを食らうことになります。

たとえば、私はフリーランスですが、「本業」以外のやることがいっぱいあって、それをやらないことには本業は回りません。これは当たり前のことです。

で、セルフパブリッシングは出版にまつわる活動すべてを(出版社ではなく)個人が行うわけですが、たとえどれだけ良い本を作ったとしても、それを売るためのさまざまな活動を手抜きしてしまうと売れる本も売れなくなります。言い換えれば、それが「良い本」だと思ってもらえないのです。

じゃあ、そうした活動を外注すればいいじゃないか、と思うでしょう。しかし、自分が営業やら宣伝活動をやったことがないと、何がよくて何がよくないのかが感覚としてわかりません。「ちょっと炎上することを書けば、PVなんてすぐに集まりますよ」という広告代理店の提案の是非が判断できないのです。

別の視点で言うと、たとえば出版社さんの会議では「営業の意見」が重視される場面も多いようです。これはもう必然的な話で、なんといってもそうしてできた本を「売る」のは彼らなわけで、その意見が重視されるのはむしろ必須ですらあるでしょう。つまり、作ることと売ることはつながっています。あるいは、作られたものの性質と、売りものにもつながりがあります。そうしたものの全体によって、商品を取り巻くコンテキストが成立していくわけです。

よって、本を作ることと、売ることを切り離して考えることはできません。というか、切り離してしまうと途端に有効性が失われてしまう物事なのです。

事務方や営業という基盤や土台がしっかりとしており、それとつながる形で本を書くといったクリエーターの仕事が成立する。そのような見方が大切だと思います。

だからこそ、一時期言われていた「一億総クリエーター」は誤解というかかなり大ざっぱな話でしょう。クリエーターばかりが増えても、それを支える存在がいなければ、活動を続けていくことは困難だからです。

観客の不在

クリエーター以外の存在で言えば、「観客(観光客)」の存在も重要です。現場のど真ん中にいる当事者でもなく、ぜんぜん無関心な第三者でもない、中間的な存在。そうした流動的な存在は、フルでないコミットでも現場に影響を与えられる点で層としての厚みを持ちえますし、無関心な第三者を中間的な存在へ巻き込む可能性を持つ点でも重要です。自由に動き回る電子は、結合する可能性を持つ。

ゲンロンが、観客を必要としていて、観客はまず商品(サービス、作品)に注目するという点も重要でしょう。良い作品が提供されなければ、観客はいずれ去っていってしまう。それがフルでないコミットということですし、それは薄情にも見えますが、だからこそ活動には一定の緊張感が伴います。

ある程度期待を持って向かい入れてくれるだろうという予感と、しかしダメな作品ならダメだと評価されるであろう予感。

その二つの綱引きによって、傲慢や増長は抑制できます。前者だけでも、後者だけでもダメなのです。

しかしながら、そのような観客的態度は、案外現代のインターネット環境では失われつつあるのかもしれません。観客ではなく、傍観者や野次馬的態度が目につきます。観客によって文化や作られ、育まれるのだとしたら、文化の衰退はまさに観客の衰退によって引き起こされるのかもしれません。

おそらくですが、そのような態度は「身銭を切らない」ことによって発生しています。言い換えれば、お金を払うという行為は、ちょうどよいコミットメントのサイズなのでしょう。Googleが広告と引き換えに提供している無料のサービスたち、そしてフリーミアムとして謳われたしかしその裏で単に売り抜けることが目標とされていたサービスたちが、そうしたコミットメントの在り方やそのまっとうな評価を崩してしまいました。

二週目のインターネットについて考える際には、この点にこそ注目すべきでしょう。

▼関連書籍:

* 『遅いインターネット』(宇野常寛)

* 『身銭を切れ――「リスクを生きる」人だけが知っている人生の本質』(ナシーム・ニコラス・タレブ)

倉下の印象に残った文章

本書ではいろいろなことを話しますが、もっとも重要なのは、「なにか新しいことを実現するためには、いっけん本質的でないことこそ本質的で、本質的なことばかりを追求するとむしろ新しいことは実現できなくなる」というこの逆説的なメッセージかもしれません。

今年の手帳に書き留めました。



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面白かった本について語るポッドキャスト、ブックカタリスト、第4回の本日は、「言論戦記」について語ります。
はい、よろしくお願いします。 よろしくお願いします。
今回は僕のターンなんですけども、中古新書楽齢っていうレーベルから出ている、
言論戦記で、地の観客を作るというサブタイトルがついてて、
あずまひろきさんが書かれているというか、あずまさんの語りをライターさんの方が文章に起こしたっていう本ですね。
はい、前回もたぶんちょっと聞いたかもしれないんですが、あずまひろきさんっていうのはどういう方なんでしょうか。
まずここを押さえておくのがたぶん大切なんですけども、この本自体が言論っていう株式会社の苦難の歴史を語った本で、
ある一つのテーマについて語ってるというよりは、言論という会社の歴史なんですけども、
そもそもその言論ってどんな会社やねんなんていう話を始める前に、会社を起こした人、あずまさんってどんな人なのかっていう話なんですけども、
批評家とか哲学家とか、あと作家っていう位置づけができると思います。
あのあれですよね。よく、昔よくいた昭和の文豪みたいなのが現代まで残っている知識人の代表格という言い方ではないのか、哲学系の知識人っていう感じなんですかね。
そうですね。しかもどちらかというと、若手の論客としてある時期、マスメディアに注目されていて、たぶん朝まで生テレビとかにも出てたんではないかなと思いますね。
そうですね。たぶん僕もそれで名前とかはなんとなく聞いたことがあるんだけど、この人は何者なんだろうぐらいの認識しかなかったっていう印象で。
一つ、哲学系の若手の論客っていう側面と、いわゆる今で言うとサブカルチャー的な文化を批評する人という位置づけもあって、割にオタクの人たちからも興味を集めている人であったと。
うん。レビューを見るといろんな人がアズマンって書いてますよね。
そうそうそうです。アズマンと呼ばれてて。だからこの人自身も僕らより少し上ぐらいかな。71年生まれと書いてあるんで。だから大橋さんとかあの辺にちょっと近い世代かな、きっと。
要するにインターネットの洗礼を受けた世代ですよね、要するに。
そうですね。俺らよりちょっと上っていうことは、多分社会に出てちょっと経ってからインターネットが一般的になってきた。めっちゃ早い人だと学生時代に体験しているかぐらいですかね。
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で、インターネットに希望を感じてて、ニコニコとかにも結構積極的に参加されている人だったんですよ。ニコニコ生配信とかね。
ああ、そっか。それが一番通じやすいかもしれないですね。ニコ生の有名人の知識人みたいなイメージですかね。
そういう系譜を辿ってこられたんですけど、まずその出発点というか、諸著作っていう言い方は今ちょっと正しいかどうか知りませんが、
一冊目が存在論的・郵便論的という本で、タイトルからどんな本か全くわからないと思うんですけど、
サブタイトルが、ジャック・デリタについてっていうサブタイトルがついていまして、ジャック・デリタっていう哲学者について書いた哲学書なんですね。
パッと聞いた印象で、もう多分何言ってるかよくわからない、わけわからないやつなんだろうなっていう印象を感じる。
近年の哲学書の中ではだいぶずいぶん読みやすい本やと思います。単年に文章を読んでいけるのであれば、一応読解は可能ぐらいの難易度の本です。
哲学っていう本がね、昔のやつですら難しいのに、現代になるともっと難しいというイメージですからね。
昔のやつは確かに難しいんですけど、新しいのも非常に難しい方向もありつつ、もう少しエッセイに近いものもあって、そこは結構幅広いんですよね。
そもそもジャック・デリタって誰なんやっていう話なんですけど、ジャック・デリタって名前聞いたことあります?
完全に初めて聞きました。
脱構築っていう言葉で一番有名になった人なんですよね。
その言葉は聞いたことがあるかもしれない。
この本も脱構築についていろいろ語ってる。脱構築って何かって言い出すとまたこれは一番組になってしまうんで、やめとくんですけど。
この本では脱構築っていう言葉に加えて、もう一個重要なキーワードが郵便っていう言葉が出てくるんですよね。タイトルにも郵便って切ってありますけど。
郵便って普通に聞くとポストに入れるあれっていう。
それであってるんですか?
あってるんですね。コミュニケーションの一つのメタファーとして使われてるんですけど。
あとまた話がどんどん膨らんでいくんですけども。
まずね、ラカンっていう精神分析家がいるんですよ。
それいつぐらいの時代の人?
少し前ですね。デリタより少し前ぐらい。
重なってる部分がありつつ少し前ぐらいの人。
超有名なんですよ、ラカンっていうと。
佐々木翔子さんとかに聞いたらすごい話してくると思うんですが、ラカンっていう人がいまして。
彼が、郵便というかハガキっていうメタファーを出したんですよ。使ったんですよ。
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それはどういうことかっていうと、ハガキは必ず宛先に届くっていう言い方をしたんですよね。
これを哲学的に聞いてほしいんですけど、今すごい当たり前のことを言ったように聞こえるかもしれないけど。
哲学を抜きにすると、もうツッコミどころしかない日本語だったっていう。
手紙は常に宛先に届く。つまり僕が手紙を書く、それが誰かに届く。
つまり自分の伝えたい内容が伝えたいままに、届けたい人に届く完全性があるっていう意味合いですね、ここは。
デリタはそれを批判というか、別ざまに言い直したんですよね。
郵便って届かないことがあるじゃないかと。それはもちろん現実世界でもそうなんですけど、
つまりコミュニケーションっていうのは必ず思った通りにコントロールできる、支配下におけるものではないってデリタは言いたかったんですね。
漫画の開示にも出てきましたね。
伝達という言葉は伝えれば達したんだみたいな感じで、
屋上の鉄筋走って歩いていくやつのところでそういう話が出てきた。
単純に言うと僕が言ったことがそれを届けたい人に別ざまに誤解されて理解されるとか、
僕が届けようと思った人ではない人に届いてしまうことがいつだって可能性としてはあり得るものがコミュニケーションなんだという言い方で
歯書きとか郵便っていう言い方をしたんですよね。
で、その間違って伝わることっていうのを誤配と呼んだんですね。誤りに配達の配です。誤配っていう。
郵便用語ですね。
そうですね。この誤配というのが非常に今回の話で重要になるんで、ちょっとここを説明させていただきました。
言論戦記自体は哲学の本ではないんだけど、読むにあたっての概念としてその郵便と誤配というものを知っておくと良いということですかね。
一応本文でもちらりと解説されてるんですけど、だからここで出てくる誤配の話っていうのは、
彼の存在論的、郵便論的、郵便的っていう本の延長線上にきちんとあるということなんですね。
で、そのコミュニケーションについてっていう話なんですよね。
要するにというか言ってみれば。
人と人との情報のやりとりに関して誤配というのは常にあり得るし、それはむしろ新たなる解釈とかアイディアを生みうるっていう前向きな捉え方が可能だと東さんは言ってるわけですね。
聞き間違えてたけど、結果的にそうしたことで新しいアイディア出てきちゃったみたいな。
逆に言うと、あり得ないんですけど、完璧なコミュニケーションがあったときに、むしろそういうアイディアの広がる可能性とかが狭まってしまう?
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限定されてしまうこともあり得るわけで、だから誤配というのは良いよっていうような誤配が起こるようにした方が良いよとすら言える?
伝わらない前提、間違っている前提で、それは悪いことではない。
し、予期せぬ良いことを連れてくることもある。というような話を理解する上で、この本は触れておきたかったので。
他にも有名な本がいくつもありまして。動物化するポストモダンという、これは新書なんですけど、かなり売れまして。
こっちはどっちかというと、さっき言ったサブカルチャー高校の話で、動物化するポストモダン2というので、ゲーム的リアリズムの誕生という本がありまして、これはちょっと難しいかな。
あのね、それは売れたからなのかね、名前知ってますね。
ああ、やっぱり。これは新書で結構売れた本で、読むと面白いんですけど、私たちの物語っていうのがある種のデータベース的に生まれてくるっていうような話で、そこはもう込められないですけど。
で、2009年にQuantum Familiesっていうこれはね、小説を書かれてるんですよ。
で、これ確か三島由紀夫賞やったかな、とりあえず結構有名な賞も受賞されてるんですよ。
哲学の人が小説を書いて結構評価された?売れてもいるんですか?
売れてもいますね。今、確か何かの文庫になってますね。何とか文庫になってますね、記憶が。
Googleって書いてあるQuantum Families。Quantumって漁師って言うんですよ。漁師的な漁師っていうことですね。
まあ、哲学っぽいタイトルですよね。
で、それが2009年で、つまり存在論的郵便的っていうのもその界隈ではめちゃくちゃ有名になりまして。
で、動物化するポストボタンっていうのも新書で、結構広く一般に内緒なオタク向けで売れたと。
小説Quantum Familiesっていうのも出して人気になったと。
だから、批評家としても哲学家としても小説家としてもそれなりの実績を出されたんですよ、2009年までに。
もうめっちゃ上手くいってるって感じなんですね。
そうですね。テレビもこの頃時代に多分出ておられたし、言ったらそこのままいけいけでいけたはずなのに、
2010年に言論という会社の、一つ前は別の名前だったんですけど、自分たちで立ち上げ張ったんですよね。
大学の職務自作だったのかな、その時に、確か。
大学の先生とかにもなったりして、知識人かつ売れてる知識人で、世の春を奥義しているな勢いだったのに、
今度は会社経営をやろうと思い立ってしまったっていう言い方は違うのか。
なぜ思い立ったのかっていうところから書かれてるって感じなんですかね。
もちろん書かれてますね。
彼が会社を作ろうと求めていたっていうのが、多分動機としては大きく2つあって、最初に提示されているのがオルタナティブ。
オルタナティブを求めていたということなんですね。オルタナティブっていうのは、代替とか次のものとかそういう感じですね。
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代わりのやつですよね。ロックももう全部オルタナティブロックになってしまって。
だから、いわゆるその既存の出版業界とかテレビ業界とかで展開されている言論空間じゃなくて、それの次を担うものを作りたかったということで、
その新しい会社を複数人で立てられたんですよ。結構厚いビジョンがそこにあったわけなんですね。
で、この本はその会社がいかに失敗してきたかっていうことを節々と語ってる本なんですけども。
なんかウェブ記事とかでも結構インタビューとか上がってて、本自体もすごい売れてるみたいですよね。
人気も結構あるみたいですけど、とりあえずね、本当に途中で読んでると心が苦しくなってくるような、
特に自営業とかをしてると、これは大変やなって思うことがワンサかあるんですよ。
社長業だけど自営業者でもめっちゃ共感できる。
だから、社長って言ったって大企業の社長とかではなくて、小さい出版社みたいなもんなんで。
弱小出版っていう分類になるのかな、きっと。
我々もそうですけど、大体、例えば僕やったら本を執筆することが仕事ですけど、それ以外の仕事も大量にあるじゃないですか。仕事というか作業ですよね。
で、それらも基本的に自分たちで引き受けるのが会社の仕事なんですけども、彼はね、それが面倒くさかったんですよ。
そこインタビューにも載ってましたね、確か。
そういうのは得意やからやろうっていう人が出てくるんですけど、
最初の人なんか、お金を持ち逃げされるんですよね。そういう経理を任した人に。
ありがちなんだけど、やっぱ本当にあるんですね。
あるんですね、これはね。やっぱり。
ちょっと使い込みがあったりとか、企画を任してた人が再三土産市でどんどん企画を立てたりとか。
あと、経理の人が途中で辞めて、必死に自分で領収書を育成とかに打ち込まなあかんようになったとか。
いろいろ地味な。
そのレベルのちっちゃい話とかも書いてあるんだ。
そういう話が大量に書いてあるんですよ。
言ったら、それって本質的な仕事じゃないですか、さっきから言うと。
思想的でもないし、哲学的でもないじゃないですか。
非常に実務的な話ですよね。
多分言ったら、俺はそんなことをやりたくって会社を作ったんじゃないって思いそうなやつ。
まさにそれ。だから彼は他の人に投げてたんですよね。
でも結局、経営は上手いこといかないっていうことに、かなりの挫折を経て退官するというか、悟りを開くというか。
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そこに至るまでのルートが書かれてるんですよ。
その現象を説明するのって結構難しいんですけど。
哲学的な表現でいうと、経営の身体。身体って体ですよね。経営の身体を身につけるっていうような言い方をされてたんですけど。
例えば、事務所があって、事務所でどこにどんなケーブルが走っているのかを自分で繋げて知るとか、
領収書の流れがどうなっているのかとかっていうことを、自分が一遍きちんとやってみて理解したら、その後は他の人に仕事を任せることはできるけども、
そういうことを一切せずに他人に任すと、結局何を任せたらいいのかもわからないし、どうしてるかをこっちが判断もできない。
よく仕事できてるかできてないかも、自分がやったことがないからわからない。
だから、そういうふうに丸投げしてると、経営者として、小さな会社を営む経営者としては全然足りてないかったんだなと。
自分っていうのは、いわゆる本質的な仕事っていうものばっかり、つまり哲学書を書くとかをばっかりした挙句反面、経営の関する本質的なことは、たぶんまるで何もしてなかったという気づき。
めっちゃ普通のことやんっていうのがわかったっていう。確かインタビューにも、30から40を新入社員でやるようなことを経験したって書いてあったんだけど、本当にそうなんですね。
これくらい頭の良い人でも、やっぱりそれは気づかないもんやし、僕たちどちらかというとクリエーションというか作ることを主にしてるじゃないですか。どっちかっていうとその方が楽しいじゃないですか。
でもやっぱり自営業者としてそういう経理とか事務っていうのを軽んじてはいけないっていうのは、僕たちにとってはある種当たり前ですけど、これからフリーランスになりたいとか自営で頑張りたいっていう人には、実はそこを抑えておくことが大切だよっていうのは伝えていかないと。
そうか、そうですね。確かにめっちゃ普通なことやんって言うけど、大企業に入って経費生産は経理の人に丸投げして、給料は勝手に振り込まれていてっていうことを前提に生きてきたら当たり前だと思ってるけど、全然当たり前じゃないかもしれないですね。
だから本を書くにしても、僕らは普段原稿さえ書けば、あとは製本から配本まで全部他の人がやってくれるわけじゃないですか。
うん。かつてはプロモーションすら全部任せていればよかった。
そうするとやっぱり、自分の仕事の方が偉く感じてしまうというか、その他の事務とか営業とかを過論してしまうような、そういう過ちがあるんですけど。
18:10
いっぺんそこから開放されて、全部自分でやる。例えばセルフアプリシングをやるようになると、すごいありがたいなって思うんですよね、出版社の存在って。だからそういうことに気づけた。つまり、ある種、哲学の抽象的な方ばっかり考えてた人が、より実務の方の哲学も身につけたっていうことなんですよね。
たぶん、そのぐらい賢い人がそういうことを経験したらめっちゃ強いですよね。
めっちゃ強いと思います、これは。
なんか次元の違うすごさにいけそうな気がする。
それでもやっぱりね、同じような間違いを3回も4回もして、そこに気づかはるんですよ。だからね、なかなか人間って変わるのは難しいなと思いますね、これを読んでて。
あと、賢い人もやっぱりアホなんだってことですよね。
この会社は本作りをしてるんですよね。どっちかというと雑誌とかに近いような本とかが出てるんですけど、木本とか。
ある企画の1冊目の本が2万部売れたと。
結構いい。
直販してるんで、ここ出版社、ここ出版社だから。すごい儲かったらしいんですけど。
儲かってしまい編みたいな本をより豪華に作って、部数も増やしたんですって。
全くコケたらしくて。
ちょうど3千万ぐらいのロスが出たらしいんですよ。
3千万って?とか思って。
当然、企画を考えるときに経費とか売れない可能性みたいなのをあまり考えない人なんですよね。
なんか、坊やだからさっていう感じの言葉が思い浮かぶ。
でもね、気持ちはわかるんですよ、やっぱり。
1個売れたら次も売れるだろうって気持ち抱くのは。
それはね、なってしまうと思う、自分でも。
だからそういう急、何ていうかさっき言ったように、
会社自体を経験することなく急に社長とかトップになって、お金が随分動かせるようになったら、
そうなってしまうんでしょうね。
自分の裁量を最大限に使うというか、リスク計算をしないというか。
ある程度お金が動かせるようになってしまったから、動く規模がでかくて、失敗も成功もでかいんですよね。
だから早めにやっとくっていうのは結構で、小さいうちにやっとくっていうのは結構重要なんですけども。
ここで誤廃の話が出てくるんですけど、
仕事を任せてた人のいろんな企画を思いつく人の中に、
出版社じゃなくてカフェをやろうっていうことを言い出す人がいたんですよね。
普通に考えたら変だし、お前何言ってんだってことですよね。
21:00
ちゃんとしたメニューも、食品のメニューも充実させて、
なんかDJしながらいい音楽もかけてっていうような構想ばっかりがあって、
結局それもオープンはしたんですけど、経費が加算で利益にならなかったっていう失敗があったんですけど、
さっき言った数々の本の出版の失敗を補ってた、売上的に補ってたのが、実はそのカフェなんですよね。
言論カフェっていうのがあるんですよ、今。言論カフェってどういうとこかっていうと、
イベントスペースかな、どっちかっていうと、前で登壇者が喋って、
それを閲覧するのにチケットを払って入るみたいな、そういう空間ですね。
その動画の配信も販売するっていうようなことをしてて、
それが出版が振るわないときでも着実に確実に売上を作ってくれてたと。
他にも言論カフェが受けている理由はいろいろあると思うんですけど、まず、構想自体が失敗なんですよね。失敗から生まれてるんですよね。
思ってたことをやっていったわけではない。
しかも、当初はちゃんとしたカフェとして始めたんやけど、今はイベントスペースになってるわけですよね。
元カフェなのに、今はイベントスペースって、なんかありそうだけどまさにってやつですね。
しかも出版社としての本筋の本作るということが収益の要として想定してたのに、むしろカフェの方がやや優位になっているようなところもあると。
だから、想定外のことが起こってるね。たまたまそうなったっていうものが、実は大きな力を持ってるっていうことの文脈で誤廃っていうのが出てくるんですよ。
これだから、初めから逆にオンライン対談するブースとしてカフェを作ってたら今のようにはならなかっただろうって書いておられるんですよ。
めっちゃわかるというかありそう。
カフェとして設計して、それが対談のためのスペースとして変身したから、おそらくうまくいっている。なんか良いものがそこにあるっていうようなこと。
思い通りにすることだけが必ずしもいいことじゃないっていうことはまず一つ言えますよね。
そうか。それは自営業にも通じるところはありそうですね。
これは大いにあると思います。
思いも言わぬことって言うと、この言論カフェって登壇者が出てきて対談するんですけど、制限時間がないらしい。
普通19時から21時って書いてあるやつが。
だいたい2時間くらいが一応書いてあるんですけど、話が終わるまで終わらないらしいんですよ。
24:01
自社運営だからできる強みですね。
スタッフはもちろんしんどいわけですけど。
スタッフはブラックですね。
でもそれによって何が起きるかっていうと、まず話し足りないってことがなくなるんですよね。
このうちのセキャストでも普通のポッドキャストに比べると1時間ってかなり長いわけですが、やっぱり15分で一冊の本も紹介できますけど、かなりはしょることになりますよね。
良いことでもあるし、良くないとも言えるし。
で、はしょってしまうのは良くないですけど、それに例えば1時間っていう長いやつを話してると、ついでにとかたまたま思い出したこととかも喋り出すじゃないですか。
そういえばそれはねってやつですよね。さっきカイジの話したりとか。
そうそう、まさにそれそれそれ。これも時間の余裕がないと絶対できないことなんですよね。
このたまたまって5杯なんですよ。
だって初めから考えてなかったことだから、それを喋ろうなんて。
まあ、俺今日カイジの鉄骨渡りの話するとは思わなかったですね。
で、例えばこの今のカイジの鉄骨渡りの話って実は強力なフックになるんですよね。聞いてる人にとって。
だって例えば、あずまさん全然興味なくてもカイジ知ってる人やったら、へーってなるかもしれないですか。
それと同じこと考えて、福本信之と同じだったのかってなるんですよね。
で、そういういわゆる雑談っていう言い方しやがりますけど、雑談が実はその自分の未知なるもの、哲学とかとその監修等を引きつける一つのフックになると。
で、こういうのって絶対たまたまでしか出てこないと。まあおもそらくそうでしょうね。
いやだからその長い時間を喋ることによって話が豊かになっていく、広がりを持っていく。
で、喋り手も十分喋れると。あれ例えば本当に対談とかで1時間ぐらいとかやったら、お互いのどんな意見持ってますかっていうのを紹介しちゃってもう終わっちゃうんですよね。
そっから始まらないんですよ。その意見と意見との盛り上がりみたいなの手前で終わってしまうんで。
だからその自社スペースで人を読んで話すことによっていろんな広がりが生まれていくっていうことがたまたま実現されている。で、話の中身もたまたま起こることが重視されているっていう風に。
で、それをどう生かせるのかがある種生き残りというか、この場合経営を成功させるんですけど、個人事業主でもそうなんですけど、計画は計画を立ててその通り進めるのは重要としても、そこの中で起きるそのたまたま性をいかに排除しないか。
いかに活かしていくかっていうことが多分ね重要だってことをこの本を読むことで学べると思います。
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これからの時代においてそういう偶然というか誤配なのか。誤配をちゃんと発生させることがこそが重要なのではないか。
そういうふうにデザイン、システムとかツールとかを作っていくっていうこと。そこがたぶん、世の中にある可能性をうまく生かすための考え方であり、姿勢であるだろうなっていうのが、たぶん一番この本の学び。
3番目はジムって大切だよなっていうごく普通な話。ジムって大切だよなに関連するんですけど、この本では心の中で一応出てるんですけど、やっぱりオンラインオフラインって重要だよねっていう話なんですよね。
まあ、わかります。そうなんです。こうやって今こう喋ってるのは一応オンラインですけど、オフラインにちょっと近いやり取りじゃないですか。
1対1なら近いことは結構できますね。
これってやっぱり普通にやってるのとは、普通っておかしいな。オンラインとかでブログ書いてるのとやっぱりちょっと違いがあるんですよね。
リアルタイムであること?
もありますし、語りであること、喋りであることっていうことも重要なんですよ。オンラインであったら絶対喋るじゃないですか。オンラインでチャットし合い。飲み屋で2人でチャットし合うってことはまあないじゃないですか。別にしてもいいけど。
普通は今の時代はしない。
喋るじゃないですか。喋るっていうことにあるたまたま性?だからさっき言ったようなたまたま性っていうのがあって、ことを文章化するとやっぱり端的にまとめようとしすぎてしまう?
それは良いことでもあるし、そうか。だからこそ逆にこういうポッドキャストみたいな音声メディアはまとまることを目指さない方がいい。
だと思います。せっかくこうやって喋りっていうものの豊かさっていうのはたぶんね、まとまらないからこそ広がるっていうところにあって、これを台本的にやってしまうと途端につまらなくなると思いますね。
それはもちろん台本通りにしたらつまらなくなってしまうし、なのであれか、ブックカタリストを褒める話で言うと、テキストと音声を両方同時に配信できるという、どちらのメリットも出せるところが実は素晴らしいかもしれない。
あとからテキスト。だから聞くときはリアルタイムで良くて、資料としてはテキストで欲しいっていうのは確かにありますね、それは。
もう一回聞き直すのはね、よっぽどのファンじゃなかったら2回も聞いてくれないですからね。
だからその言論カフェで行われてるトークも、やっぱりその一回性っていうのがたぶん重要で、聞くほうも熱量上がって聞けますし、真剣に聞けますし、喋るほうも一回性だからこそ出てくる言葉っていうのがたぶんあると思うんで。
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喋りが持つ雑さ?良い意味での雑さっていうのは、やっぱりそのリアルタイム的なコミュニケーションによって発揮されるというか。だから最近僕、ポッドキャストをたくさん収録してますけど、やっぱり面白いですね。
ある意味その影響があるかもしれない。
非常に面白いですよね、これ。自分の知らない引き出しがどんどん開けられていくような感じがあるんで。
まあ一人でね、なかなか自分が知っているところしか一人だと考えないですからね。
だから文章で書くとやっぱり自分が知っているところだけ書いて終わりっていうので、それはそれで端的な情報になるんですけど、聞く人にとってのさっき言ったフックが増えにくいというか。
ああ、そうか。ラシタさんのことをよく知らない人だとしても、俺のことをまあよく知っていて、俺が知っていることと同じことを知っていれば、そういう開示の話が出てきてフックになるかもしれない。
で、やっぱりブログで書いたこととかをこうやってポッドキャストで喋ると、たまに感想で見かけるんですけど、「ちょっと違った印象を覚えました?」みたいなのがあって、やっぱり聞いても違うんでしょうね。
僕としては同じことを伝えているつもりでも、僕の声の強弱とか、そういったものによって情報の受け取り方も変わってくると。
僕はテキストかなり大好き人間ですけど、そればっかりでは弱いし、こうやって2人で喋ったりとか、オンラインで3人以上って結構難しいんですけど、集まってなんかやるっていうのって、コミュニケーションの広がりとしてはいいんだろうなっていうのも感じましたね。
あれかもですね。フックカタリストをどうやってうまくやるかっていうので、言論カフェをだいたい真似すればいいんだ。
でもね、結構参考になるとは思いますよ。
うまくできるようにしたいよねって考えていて、それは言ったらそういう、例えば集まれる場を作ることもいいかもしれないし、
ディスコードで例えばそういうグループ作ってもいいんじゃないかって思ったんですよね。会員制グループみたいなやつ。
わかります。
で、その言論のセミナーじゃないけど、そういう話すやつみたいなのっていうのも、そういうグループを作ってその中で話ができるとか、
良くも悪くも閉じているので、閉じているからこそできることっていうのはやっぱそういうところでないとできない気もするし。
僕も結構同じようなことを考えるんですよ。
例えば今ここで2人で喋ってますけど、視聴してる人が50人くらいいたら、5人くらいちょっとその中から私も喋りたいって人を集めて、
後退制で喋っていく形って面白そうだなーみたいなことをよく考えるんですよね。インターネット世代って。
インターネット世代ってそういうのが当たり前に感じるというか、よく言われる1億層クリエイターみたいな感じですよね。
33:06
そこにいる人たち、僕みたいな人間が発信してるんだから、それ以外の人たちも発信したらいいじゃないって、結構純粋というかイノセントにそう思うんですけど、
この本を読むと、それは結構単純すぎたかなってちょっと反省が起こるんですよ。
たんじゅんすぎた。
例えばですけど、このさっき言った言論カフェの長いトークの説明の前段に、最初2時間くらい前で人が喋って、その後交流会みたいな感じにして。
よくある感じっすね、それは。
で、喋ったら、より奇跡な交流が深まるんじゃないかっていうふうに回をデザインされてたんですけど、実際やってみると、終わった後でも登壇者が前で喋ってて、それを遠巻きで見てる人たちっていう構図が生まれるらしいんですよ。
で、よくよく考えたら、僕もこれまでセミナー出て、その後に交流会があったとするじゃないですか。そうすると、やっぱり喋ってる人は一緒なんですよね。
で、それを交流会から喋り出す人もいるんですけど、10人いたら5人くらいは聞いてる人なんですよ。
そのまま聞いてるイメージはあるかも。
それが退屈かっていうと別にそうでもないんですよね、そういう人たちは。
飲み会で喋らなくてもOKな人はいますよね。
言ったら、その人たちに喋れっていうのはむしろ強制じゃないかと思う。
だから、一応クリエイターっていう話で見逃してるのは、クリエイトしなくても楽しめる人たちがいっぱいいるよねっていう話なんですよね。
これは生産には事務方が必要っていう話ともリンクするんですけど、全員が登壇したらいいじゃないかっていうのは、実は人間の性別性質の違いを単純に捉えすぎてたなって僕はちょっと今思ってるんですよ、この本を読んで。
あれか、よくあるみんなブログ書けばいいのにっていう言葉は正しくなかったかもしれない。
そういうことを僕今ちょっと反省してて。この本にも関係しますし、あずまさんの大きな仕事の後半かな。
さっき言った2010年に会社を立ち上げ張って、2011年に出た本で一般医師2.0っていう本がありまして、一般医師っていう用語知ってます?
用語として存在しているんですか、それは。じゃあ知らないかな。
ルソーっていう方は知ってます?
ルソーはわかります。
ルソーが言った言葉なんですね、一般医師っていうのは。ちょっと最大多数の最大幸福にちょっと似ているかな感じで言うと。
業産の人がいたときにその人たちがだいたい偉大であろう考え方とかいうものが一般医師なんですよ。
36:07
一般医師って、例えば今日本で言うと人殺しとはいけないみたいなことって感覚としてあるじゃないですか。
ごく一部違うことを思っている人もいるかもしれないけど、なんとなく一般的にそう思われてますよね。そういうのを政治に反映させるのがいいんじゃないかっていう話なんですけど、ごく簡単に言うと。
でもその当時はある種の概念だけだったんですよね。
なので例えば1,000,000人の人にこれってどう思ってますかって聞いて回ることって不可能じゃないですか。
おおむね。できたかもしれないけど、数年かかりますよね、そういう仕事って。
でも今インターネットっていうのがありますよね。
そしてSNSがある。
Googleっていうのがあって、で、アゾンさんが思い描いたのはニコニコ生放送に流れてくるコメントやったらしいんですけど、コメントを。
ああ、あれは一番わかりやすいかもしれない。
例えばそれまでの民主主義の考え方っていうのは、対話とか議論なんですね。議論ベースで話を進めるっていう。
これは暴力によらないという意味では素晴らしいと思うんですよ。
でもきちんと論理だった言葉で喋れるっていうことは一つのスキルじゃないですか。
運動でいうと速く走れる人みたいな感じですよね。
だから民主主義の議論を前提とした場合に、そこの土台に乗れない人たちが実は大量にいるんじゃないかっていう反論があり得るんですよね。
そうした時に、でもニコニコのコメントに何かを書き込むことぐらいなら、大体誰でもできるだろうって言われるわけですよ。
まあ、言いたいことはわかる気がする。
それらを一つ一つのコメントを、いわゆるビッグデータ的に処理して、それを一般意志2.0とみなして政治に反映するようなことはどうだろうって提案したのが、一般意志2.0っていう本なんですね。
これの本は難しくもないし、さっきみたいな話に興味を持つ方なら多分読める難易度だと思うので、ぜひ読んでください。
これ文庫でも出てますんで、これ非常に面白い本です。
で、その一般意志2.0っていう本があって、あともう一個何やったかな。
えーとね、言論ゼロっていう本がありまして、観光客の哲学やったかなっていう本を出してあるんですよ。
で、この本が重要なんですね。観光客。
観光客っていう言い方って何となくですけど、通り過ぎていくもの、見せ物として見るものっていうようなイメージで、言ったら当事者意識とか現場っていう感覚からちょっと遠い感じじゃないですか。
あ、現場当事者意識とは違うか。
だから観光客ってどっちかっていうと問題解決に対して若干ネガティブな印象があるんですよね。
言ったらコミットしてない。本格的にコミットして、その問題に対してコミットしていない人たちっていうニュアンスなんですけども、実はそういう人たちの方が大切ではないかっていう転換を提示する本なんですよ。
39:09
政治的な意味でってことですか?
そういうことですね。例えば福島を復興しようって言った時に、もちろん政府の力で復興するのもいいんですけど、
観光客がそこに行くことによって、言ったら地元の商業が活発になるってことはあるじゃないですか。
十分ある。
それが例え1回しか旅行に行かないとしても、1回は行ってるわけですよね。
よくこの手の話で言うと、当事者にならないと行けないみたいな発言がよくあるんですよ。
いつまでもお客様でいるなっていう感じのやつですよね。
つまり福島に引っ越さなければならないってことなんですよね。それでなければ救済にならないとしたら、それができる人ってめっちゃ少なくなってしまうんですよ。
住める人に対して観光に行ける人なら100倍どころではないだろう。
だから、その層の厚さって実ははるかに分厚いんですよね。
完全に見知らぬ人でもないし、かといって完全な中心人物でもない、その中間地点にある人たち、観光客っていうのを育んでいくっていうことの持つ可能性みたいな話なんですけど、
それと同じ話なんですよ。さっきの。
言ったら、僕は全員当事者になったらいいとずっと思ってたんですよ。全員ブログを書いたらいいと思ってたんですよ。
それは結局、それは無理なんだよ、言ってるなと思ったんですよ。
【佐藤】裾野が広がらない。結局、言ったらやる人10人に1人もいないだろうなと思うからね。
結局、文化っていうものは、お金の流れによって成立するじゃないですか。どんだけ文化的意義があっても、観客がいないものは廃れていくわけですよね。
観光客から工を取ったら観客っていう言葉になるんですけど、この本では観客っていう、地の観客って言ってますけど、
全員がパブリッシング発信することによって地を盛り上げていくっていうのが一つの在り方ですけど、
地を正しくっていうと、適切に鑑賞できる人、地の観客をもちろん育てていく方が良いのではないかと。
意義があるのではないかっていう話なんです。
【佐藤】意義があるっていうのは、社会的な、哲学的な意味で、社会に良い。
そういう地を残していったり、広げていったり、啓蒙していったりする上で、観客の存在が重要なのではないかということで。
だから、言論カフェでも、登壇者と見てる人の垣根をなくすわけではない。
42:00
良質なコンテンツを展開して、それをお金を払って楽しむっていう立場。
動画を見てお金を払って見るっていう立場。
それでも別に楽しいと。
僕みたいな発信させてくれっていう方なんですけど、むしろそれはレアケースなのかもしれないなと。
【佐藤】そうか。俺もそれ、すげえ似たようなことで今思っていたのが、
自分が本を読んだことをポッドキャストで語りますよね。
これが、喋ろうと思って本を読むっていうのが今までにない体験で、
これはめっちゃ面白かったことで、きっともっと多くの人が体験したらいいんじゃないかって思っていた真っ最中なんですけど、
そうじゃないかもしれない。
少なくとも例えば会話するにしても、こうやってオンラインでダダ流しするんじゃなくて、
ちょっとしたコミュニティでオフラインで集まるのは難しいにしても、
Zoomとかのクローズドな場で喋る具合がギリギリ精一杯な場合も全然普通にあるよなと思って。
そこが一歩遅れてる人たちって見てしまってはダメなんだなと。
そういう人たちの在り方で、しかも多分そっちの方がそうは全然熱いと。
そういう人たちが楽しめるコンテンツを自分たちが作って、お金を払ってもらって、
良いコンテンツを作るふうにマネーを回していくみたいな感じのスタンスの方が、
実はより知的な面白さを広めることに役立つのではないかと。
これは結構考えさせてもらいました。
僕もずっとね、やっぱりみんなで発信しようぜ、イエーイ!っていう立場だったんですけど、
それはいかにも浅はかだったかなっていうのを読みながら思い返してました。
まあそうですね。単純にブログを書いている人が無数にいるって言ったって、どんだけいるんだって話だしね。
そう。
1億人から比べたら1%にもなんないですよね、当然。
うん。それを無理に底上げすることではないやり方がきっとあるんだろうなと。
そう。身の回りで仲がいい人がそういうことをやる人ばかりになってしまうので、自然とそうなってしまいますよね。
それが普通ぐらいの感覚には。
だからこの本の最後に自分が言論って一体何やったのかっていうのを自身で振り返ってあるんですけど、書きカッコつきで僕みたいなやつを集めようとしてた仲間ですね。
自分と同じような人たちを集めようとしてた。でもなかなこそ言論はうまくいかなかったって書いてあるんですよ。
みんなブロガーばっかり、ポッドキャスターばっかり集めてもうまくいかない。
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結局だから、いわゆるドラクベでいうと戦士ばっかりのパーティーみたいなことになってしまうわけですよね。
僧侶がいないと回復できないし。
会社っていうものの中にも当然その営業とか事務とか総務とかいろいろな複数の役割があって一つの組織体が出来上がるわけですね。
だからある行動を起こそうと思った時に、例えば同じ趣味のメンバーだけ集めても能力にすごく偏りが生まれてしまうし、立ち位置のバッティングが起こるんですよね。
これは基本的によろしくないと。
だからその考え方を捨てられたのが大きいと書いてあって。
言ったら僕らって会社と違って自由にメンバーを集められるじゃないですか。極端に言えば。
メンバーを集められるというか、気が合わない人と一緒にやらなくていいからやらないってなりますよね。
そうした時にどうしても同じ人たちと集まってしまう傾向はやっぱり自然とあるなと。
同じ人じゃないと集まんないですよね、自然には。
でもだからそれだけだとやっぱり弱い。それは結局僕が人を集めるからそうなるんだよって。
ある場っていうのを設定してそこに人が集まってくるような感じすると、そこに興味を持つ人っていろいろじゃないですか。
ライフワークが好きでそれを読む人と書く人と実践する人みたいな集まり方をするじゃないですか。
だからそっちの方が良いんだと思いますよ。
その場の提供というか場を作るということを考える。
その方がより機能する、いろんなことができるものが生まれる。
少なくとも書き手ばっかり集まって誰も編集しないとか、メンテナンスができてないとか、
執筆の遅れを誰も採測しないとか、そういうありがちなボロがあるみたいなことが多分避けられるんだろうなと。
だから出版社にはきっと編集がいるんですよね。
おそらくね。だからその当たり前のことを再確認される本。
当たり前といっても、僕たちの2010年からこっちのインターネットが啓示してきたもの。
全てデジタルでオンラインでやった方が効率的でいいんじゃないだろうっていうことに対するアンチテーゼなんですよね。
つまり効率的って何かっていうと、誤配がないってことなんですよ。誤配可能性がないってことなんですよ。
これが一番大きい話で。
それってだから本当にそのものにはいいけど、全く広がらない。誤配がないから。
こういうことが多分あるんだなと。
一番悲しい話なんですけど、ついちょっと前かな。
48:01
ずっと東さんがこの言論って会社の代表をされてたんですけど、ちょっといろいろあって疲れたと。
会社には残るけど、代表じゃなくなる決断をされたんですよ。
で、それまでずっと一緒にやってこれた相方みたいな人がトップになられたと。
で、それ以降、すごく利益が良くなったって話があって。
向いてなかったんですよね。
そうそう。まさにそれ。自分は何をしてたんだと。ただ経費を無駄に使ってただけなのかっていうこと。
本当にそうだったってことなんですよね。
そうなんやろな。最終的なムキフムキっていうのは、ある程度はカバーできて、やっぱり拭いきれないものはあるんやなっていうのが。
この話のオチでもあって。でもね、そうなんやろなと。
でも悲しかったんやろなと思うんですけどね。
自分が会社辞めてその後営業利益良くなってるのを見たら結構ショックだと思いますけど。
ある意味、自分をより知ることができたっていうか。
そういうことでしょうね。きっと。
優秀な人もいかに適材適所が大事かってことですよね。
言ったらお金産む人なんてね。この人に上手にお金を産んでもらえば、もっといくらでも儲かるはずですからね。
そうそう。そういうのがあって。だから、さっき言ったようにいろんな分野で若い頃活躍されてたんですけど。
逆に自分はこれだっていうのがなかなか見つからなかったって書かれてて。
まあでもそれはあるんやろうなと。いろんなことが得意やと逆に絞りにくいとこってあるじゃないですか。何でもできるような気がして。
そこがこの苦い経験によって自分はこれだっていうことがはっきり分かったっていうその道のりなんでしょうね。おそらくは。
今後はきっとその経営者的なことをやるわけじゃなくて、そうじゃない方向に力を入れていくってことなんですね。
おそらくそうですね。で、しかもそのプラットフォーム自身も、別にあずまさんの名前がなくても、彼の看板で客が集まるんじゃなくて、言論が提供するコンテンツでお客が集まる。
今ニコニコ動画で、ニコニコ動画で動画販売されてたんですけど、新しくその販売プラットフォームシラスっていうのを作られて、自分のプラットフォームでも販売できるように形を整えられてるんですよね。
当然その方がリリース高いですからね。しかもそこに、いろんな人に動画を販売できるようなプラットフォームにしていこうって一応計画されてるらしいんですよね。
Youtubeのオルタナティブが出るかもしれない。
可能性としては、もちろんそれはある程度面白いコンテンツであることは必須でしょうけど、お金さえ払えば1時間とか2時間とか3時間の濃密な脱線だらけのコンテンツが味わえる場が新しくオルタナティブで生まれるかもしれないっていうところらへんが最後ですね。
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個人的にはYoutubeの対抗馬が出てくるっていうのは、これからの時代を良くするためには一番重要なことなんじゃないかと思っていて。
結局言論のコンテンツって大体全部有料なんですよ。本も動画も。そこやなと。
人をたくさん集めて広告量でヤッホーっていうモデルはダメじゃないんですけど、オルタナティブではないなと。
絶対オルタナティブではない。完全にメインストリームですよね。
結局インターネットが広告まみれになってきたPV思考って何かって言ったら、結局テレビと同じなんですよね。視聴率っていうのと広告量の関係と全く変わってないんですよね。
それは結局新聞モデルも一緒で、発行部数が多いと広告量が高く、広告掲載量が高くなるからビジネスとして成長するっていう。
だからインターネットがGoogleアドセンスによって導かれた道って、オルタナティブじゃなくて、むしろメインストリームへの接続やったんですよね。
でも最近テレビがインターネットの動画を紹介して、動画がテレビのメディアみたいなことをして、全然相互循環みたいになってて、オルタナティブさはゼロなんですよね、今。
そう、俺たちの好きだったインターネットはこれじゃないっていうのは、インターネットがメインストリームになってしまったから。
だからアズマさんは今でもオルタナティブを求めてはって、結局かつて俺たちが好きだったインターネットって、希望をまだ抱いておられるというか。
違う形があるはずだと、多分まだ思っておられるんではないかと、個人的には推測しますけども。
うーん。単純に、やっぱでも、みんなが来てしまったらもうオルタナティブにならないですからね。
だから無料PVモデルはもうそうなってしまったんで、やっぱりお金課金型モデルというべきなのかどうかわからないですけど、お金を払ってもらう形で広告を集めるために、あえて過激なことをせずに済む。
書き手がSEOを配慮して、その記事にとって適切な文章だけを配置するんじゃなくて、こうやって雑談をどんどん交えていくような、その人の語り入れないと触れられないようなコンテンツを提供していくっていう形が求められるというか、インターネットらしいあり方やなと個人的には思う昨今です。
あれですね、本当、誰も彼もというか、多くの人が再びそういう流れになってきてるんですよね。新聞社もようやくそれに気づいてインターネットで無料記事とかもやめてきているし、個人レベルでも無料でブログを書くんじゃなくて、アメリカでニュースレターが流行っているぞっていう話が出てきたりだとか。
54:02
ポッドキャスタージャンル自体がそもそもオルタナティブか、でもアメリカでは普通に広告モデルのポッドキャストとか無数にあったりして。 そうなったらまた崩れるでしょうね、そこは。
そこも言ってみれば、有料で聞けるポッドキャストがあればいいし、例えばサブスターが普通にできるからね、それを。 結局無料で云々っていうのは結局幻想でしかなくて、ビジネスモデルが隠されているだけであって、結局どこかでお金を儲けなあかんっていうことなんですよね。
それをメディアとしてやっていく場合は、個人の趣味の日記の公開じゃなくて、メディアとしてやっていく場合はお金が必要で、お金のためにPVが必要で、PVのために過剰な表現が必要でっていう、あるいはSEO最適が必要でっていう、そのコンテンツとしての質をトレードフとしてPVはせずっていう悲惨な状況が生まれてしまったので。
それを抜きにして、じゃあ継続できるメディアのビジネスモデルって何かって言ったら、もう悲しいぐらいに古典的なコンテンツにお金を払ってもらうっていう形なんですよね。
特に2010年代が新しいサービスというものが買収してもらう前提で無料でやっていたので、余計誤解してしまうんですよね。なんでこれ無料なんだろうって考えたけど、誰かが買収されようと狙っているから無料だったっていう。
だからあれで価値観が金銭とツールとコンテンツに対する僕たちの考え方がちょっと歪んでしまった感はありますよね、きっと。
そういう意味でGoogleフォトの無料にしますっていうのが一番良いニュースだったっすね、ある意味で。
Googleでも無料になるんやっていう。
Googleも結局ユーザーのデータを買っていただけで、もういらなくなったって言ったらこんな簡単に捨てられるんだっていう。
そこからその理解を踏まえてインターネット2周目はどう走っていくかって話ですよね。
そうですね。ここから2周目はいろいろ楽しみで、何がやれるだろうっていうのは楽しみではあるんだけど。
あとはインターネット上でお金をどうやり取りするかっていうのが、まだ日本ではそれほど、563クラスになると別にごく普通にネットで決済するでしょうけど、
まだ世間一般で言うとネットでお金払う仕組みってやっぱクレジットカード限定ですし、クレジットカードって登録するのにハードルがあるんで、心理的な。
そう、だから携帯支払いが強いんですよね、今の時代でも。
ああいうことがもっと普通になってきたら、なんか面白い記事読むのに150円とか普通に払うみたいなことは起こりうるし、
そうなってきたら、やっぱPVよりもそっちの方がいいよねっていう話は出てくると思いますけど。
期待できそうな本でもあるんですね、それは、なんとなく。
そうですね。だからこうやって、やっぱりちゃんと別の方向で頑張ってる人がいるんやなって思うのはありがたいことですね。
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いやまあ、あずまさんは批判、結構政治的な発言もされるんで、批判されてることもあるんですけど、
見据えてるところが、やっぱり常にオルタナティブを軸にしてるってところは僕は共感できますね。
多分、俺もそうだし、きっとらしたさんもそうなんだけど、オルタナティブの方が好きなんですよね。
そうですね、それはもう間違いない。
それはね、もはや性質ですからね、好きとか嫌いとかっていう。
ここはもうどうしようもない。動かしようがない。
どうしてもメインストリームにはなかなか乗っかりきれない自分がいて。
ところはある。ちょっとそこは悲しい。悲しくはないけど、まあしゃあないよなと。
もうもう、受け入れるよ。受け入れるというか、そこはやっぱこの10年ですごい考えたことっすね。
まあ本の内容と僕が考えたことはだいたいそんなもんですかね。
とりあえず本当に面白いんで、自分でインターネットでメディアを展開してる方は多分何かしら思うことがあると思いますよ、この方は。
ちょうど俺も前回話を聞いて買って20ページぐらいは読んだのかな。
なんかその一番最初のプロフィールの前前ぐらいのところまでは読んでいます。
なるほど。
これは僕も買ったので読んで、独学大全はだいぶ読み終わりました。
あー良かった良かった良かった。
というところまで進みました。今回はこんな感じですかね。
はい。
はい、では感想や質問などがあればツイッターのハッシュタグ、カタカナでブックカタリストをつけてつぶやいていただけるとありがたいです。
サブスタックでこのポートキャストとメールニュースレターを配信しておりまして、そちらにコメントなどもいただければありがたいです。
ということでブックカタリスト第4回、本日は言論選挙についてお話をしました。
お聞きいただきありがとうございました。
ありがとうございます。
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