すげー思うんですよ。少なくとも文章はシンプルではなくて。
一応、全力で全位を持って解釈すると、この本にも書かれているし、Learn Betterなどにも書かれているんですけど、
わかりやすく簡単にわかったつもりになってしまったものは身につかないんですよね。
変な言い方をすると難しい本の方が覚えられる。あえて難しいにしているのではないかという印象もあります。
それは多分、かなり好意的な言い方だと思いますけど。
一応全力で褒めておこうと思いまして。
そういうふうに解釈することも、一応本の内容と参照すればそういうこともできるということですね。
もう一個さらに言うと、要するに上っ面だけを真似してほしくないというのはすごい思っているっぽいんですよね。
勘違いしてたくさんメモを取ればいいんでしょって言って、メモをたくさん取るのは失敗の典型なんですよね。
でもその上っ面だけ読むと、確かにたくさんメモを取れとしか書いてないんですよね。
なので、すごくそういう意味で難しいところもある。
ただ、タイトルに関しては、これはHowではないと思いました。
怖いとかワッとなんですよね。
そうか、ノートを取ることはなぜ良いのかみたいなタイトルの方がむしろ内容にしっかりくると。
なので、Howを期待したら、確かにHowを期待すると星4にはならないと思います。
なのでタイトルとしては、このタイトルから期待して文章を読んでしまうと、
確かに星評価2とか1とか何にもHowじゃないじゃんっていう感じましたね。
なるほど。じゃあこの本の全体像っていうのを捉えていきたいんですけども。
はい。
書立が全部で14の書立になっておりまして、最初がイントロダクションがありまして、
ホニャホニャホニャホニャホニャがあって、
The Four Underlying Principlesっていう項目があって、
それが5、6、7、8章を多分含んでるんですけど、
その後にThe Six Steps to Successful Writingっていうのがあって、
その後に90、11、12、13、14ってなってるんですよね。
で、もうこの段階で分かりづらかったんですよ。
僕も個人見たときに。
なんで投資番号を振りながらその前に大カテゴリーがあるのかっていう。
やっぱりそうですよね。
だからこれパッと目次見ただけで全体像がつかみづらいっていうのもあって、
やっぱり読みにくさがそこで出てくるんですよね。
で、個々の書立で書いてあることはよくわかるんですけど、
全体を見たときにパッと捉えにくさっていうのがやっぱり出てくるんですよね。
ここがこの本の弱点ではあるかなと。
これを悪口を言ってしまうとですね、
この手法で書いた本はこうなりかねない、こうなってしまう危険性があるのではないか。
というのはやっぱりちょっと思ってしまいますね。
そのパーツを組み合わせてボトムアップで本にすると、どうも一貫性が分かりづらい。
だからこれはたくさんゲストにお迎えした回にアウトラインプロセッシングの話が出まして、
形式を整える必要があるんですかと僕は聞いたんですけど、やっぱり形式を整える必要があるんですよね。
上からの構造が適切になってないと、やっぱり見て取ったときに全くわからないんですよね。
だからボトムアップだけでいいじゃんっていう話よりは、
たぶん成り立たないわけじゃないですけど、
本のわかりやすさはボトムアップだけでは生まれないなっていうのは同じように感じましたね。
なのでたぶんここからやはり今現在、
例えばで言うとよく話題に出しているエヴァーグリーンノートって、
この本に影響を受けてもう一段階進化して発展した概念だと思っているんですよね。
なので土台になった本ではあるんだけれども、
この本が言っていることを全部そのまま真似すればいいというわけではないというか、
この本が言っていることだけではやっぱり足りないというのはあるかなと思います。
でも先ほど言われたように、不十分だからこその良さっていうのが逆にあって、
エヴァーグリーンノートのように完成されてしまうと、
やっぱりそれ真似するだけっていうのになりがちっていうのは絶対あるわけで、
どちらが良いのかっていうのはちょっと断定しづらいところは感じますね。
それで同じように、この本を読みながらそんな同じようなことを思っていまして、
ちょっと前にもテキストでも書いたし、ポッドキャストでも喋ってるんですけど、
読書メモというものをですね、今まで楽をすることを求めていて、
楽な手法ということをやたらと考えていたんだけど、
それはダメなんじゃないかと思いまして、
効率が良いとニアリーイコールなんだけどピッタリイコールではなくて楽をするというのは、
効率よく読書メモを取ることはきっと重要なんだけど、
楽をして読書メモを取るというのは多分違うなっていうようなことを思うようになってきていて。
だからそこの差って何なのかって言ったときに、
簡単に言うと物理的な手間というんですかね。
いわゆる機械化できる作業においての効率化っていうのは良いんですけど、
頭を使うっていう部分を端折ってしまう楽さ、効率化っていうのは、
人に説明しようとして、自分の言葉を使うことになるんで、
当然1回自分の頭をスルー、内容を通り抜けることになって、
理解が深まるっていうのがあって、
1人であるか複数人でやるかの違いはあるんですけど、
結構似た読み方をしてますね、この本は。
そうですね、2人とも要するに書いて読んだんですよね。
この本が進めているまさにその方法で。
ちなみにそのスクラップボックスは春名さんに教えてもらって、
1週間前ぐらいだったかなに見たんですよ。
面白かったのが、俺が印象に残っているところと結構違う。
なるほど。
この本を読んでこういうところが面白いと感じる、
大きな構造として見方として捉え方としてちょっと違うっていう印象があって。
あとはそれは書いてあるんですけど、
同じ本を読んでも人によって感じるものは違って、
それをノートに書いていってまとめていくことで、
あなたなりのボトムアップの本の素材が出来上がるみたいなのは、
そういう部分を見ても思いましたね。
確かにそれはあるかもしれない。
本編の話に入るんですが、
一言で言うと、この本をどういうふうに伝えたらいいのかなと思ったのが、
とにかく書けと。
書くことがどれだけ大事なことで、
書くということが全てだと言っても過言ではないぐらいなまとめをしてもいいのではないかと。
だから書くこと抜きに考えるという行為はできないというふうに明言されてますね。
言ってますね。書くことが。
さらに言うと、書くということを世の中の人間はなめすぎているし、
特別視しすぎているし、
その習慣として書くということをスキルだとも考えていない。
なぜかその学ぶことと書くことが切り離されていて、
それは良くないというようなことも書いてありましたね。
内容自体はやっぱり何て言うんだろう、
すでに書くことに関する前回紹介した、
Learn Betterなのかなっていうような印象で。
この本も現段階でめっちゃすげえって思ったかっていうと、
確かにおっしゃる通りですみたいな印象だったんですけれども、
前回のLearn Betterを踏まえると、
確かにおっしゃる通りですっていうのをまとめればまとめるほど、
めっちゃすげえっていう評価に変わるかもしれないです。
現段階でそこまですごくがっつりまとめたではないので、
今のところ確かにこれは、
世の中にすごくインパクトを与えた本だなっていう印象はあるんですけど、
現状、この点の情報がいっぱいあるので、
絶対読めって言われたらそこまででもないのかなというのも、
ちょっと素直な感想ですかね。
なるほど、確かに。
本編なんです。
本編というか、要するにあれですね、
あとは簡単に内容を説明すると、
ニクラス・ルーマンというドイツの社会学者の方がいて、
その方が生涯38冊の本と数百冊の論文を書き上げた。
しかも元々その学術系の人でも何でもなかったのに、
とあるノート術、メモ術みたいなものを使ってすざまじい成果を残していると。
この人のやり方っていうのが、
実は今まであんまり研究されてきていなかったんだけど、
このやり方をやれば書くということが劇的にすごいことに変わるぞ。
この人はニクラス・ルーマンがどんなことをやっていたかという、
研究をまとめた本というのかな。
イントロに行くんですが、
イントロでいきなり書くということは白紙からスタートするものではないと。
一般的に書くって言ったら、
覚えておくためのことだよね、みたいな世の中の印象があって、
書くということをちゃんと真正面から論じた本って少ないんじゃないのか。
仮に書くということを論じている本があったとしても、
なぜか真っ白な画面から始まって、
文章を書きましょうみたいな言い方をしているんだけど、
大事なのはそこに至るまでの前段階、
真っ白な画面というものがあったって書けるわけがなくて、
書けるための素材というものを集めておかないといけない。
ちゃんと準備をしてからじゃないと書けるものではない。
どういう準備をしたらいいのかというのを、
この本で語りますよ、みたいなところから始まります。
これって結局、梅沢太郎の知的生産の技術とほとんど同じことが書かれているわけですが。
ほとんどすごいですよね。
紙画家って同じですよね、2人がやっていることは。
両方ともカードを使ってて、ほぼやってることもしてて、
梅沢さんは論文自体はそんなに多くないですけど、
文章自体はたくさん書かれている方で、だから生産性も高い方なんですよね。
だから一緒なんですよ。一緒のことをされてるんですよ。
全然お二人が交流なかったとして同じやり方に誘っていくってことは、
何か原理性というか一般的なものが含まれてるんだろうなということは感じますね。
そうですね。分類をしないみたいなこともお互い言っているし、
カードのサイズ感みたいなのもすごく似てますよね。
大きいものを使えと梅沢さんも言ってますし、ルーマンのカードもデカいですからね。
2人ともサイズまでだいたい同じ。要するに1回で書いていた分量っていうのが、
日本語の文字数で200、400はいかない程度ですよね。
400はちょっと書けなさそうな。
ニクロス・ルーマンのやつも、ドイツ語がどのぐらいに相当するかわからないんですけど、
イメージとしては日本語の200、300相当のものというのがやっぱり1個のノートで使われていて、
目安、あんまりハウトゥーみたいなことを言ったらよくないのかもしれないけど、
だいたい要するにそのぐらいのサイズ感というものをイメージしてもらうと、
ノートを作るときに参考になるんじゃないのかなというところでもありますね。
ここで言うノートっていうタイトルにあるノートっていうのが、
ノートブックじゃなくてカードなんですね、実際はね。
そうですね。あと謎なのがスリップボックスという用語をやたらと使っているんですけど、
この言葉ってなんでこのスリップボックスにしたんだろうってよくわかんなくて、
ニクロス・ルーマンはドイツ語でZettelkastenって呼んでいたんですよね。
それをわざわざスリップボックスという言葉に変えた意味というのは、
ドイツ語だと伝わりにくいと思ったっていうそれだけのことなんですかね。
おそらくはそうじゃないですかね。いまだにだって語感が英語ではわからないですからね。
Zettelkastenとか言われてもインデックスカードっていうイメージがそれでは出てこないんですけど、
スリップボックスって言うと英語系の人には多分ああいうもんやなっていうふうにイメージしやすかったんじゃないですか。
それだけなのかな。特にチェっていう音とかは英語系の人嫌いっていうか使わなさそうですからね。
響かないから使わなかっただけなのかな。
逆にスリップボックスって言った方が身近には感じられる分、かっこよさが多分なくなるんですよ。
それはあるかもしれないですね。
だからそこにちょっと違いはあるかもしれない。
だから日本で広めるならきっとZettelkastenの方がいいですよね。
そうそうそういうこと。
じゃあ今後はこの話に関しては本ではスリップボックスと書かれているんですが、Zettelkastenの話ですと。
でも個人的なスリップボックスが好きですよ、僕は。
そうなんですか。
だからそれが指しているものが箱っていうことだから。
あれ、ZettelkastenはZettelの箱でしたよね。確か書類箱。
あれそうやったっけ。あれカードって意味じゃなかったっけ。違うんか。
勘違いしたな。
違ったかな。
いや、わからん。
ちょっと確認してみないとですね。
箱っていうイメージがあるんやったら別にそっちでもいいんですけど、結局その一枚一枚のカードが重要じゃなくて、そこにある箱のカード群であるボックスと対話することが重要やというのがこの本のコンセプトなんで。
だからそっちの言葉にちゃんと箱っていう意味があるんやったら僕は全然問題ないです。
確かそのkastenという言葉に棚みたいな意味があったと思うんですよね。
なるほど。
いきなりゼロから始めるというのは難しく、そのための準備をしましょうと。
どういう準備をしたらいいのかっていうことが一応主に第1章じゃない1から7ぐらいまでの塊で語られていて、っていう感じですね。
いきなり言ってるのが学習というのは研究や計画を立てられないと。
そこを実際に自分も真似してやろうとしたら、次の一歩がなかなか進まなくて難しいなっていうのはすごい思っていたんですけど、
今のところの切り口としては、まずアトミックなノートを作ります。
アトミックなノートが集まったアトミックなアウトラインというものが重要なのではないか。
アトミックなアウトライン。
それも一言で説明できるアウトライン。
そのアトミックなアウトラインを複数集めれば、アトミックな衝立てができるのではないか。
それはね、その後の展開を見ますけど、それは語尾ですよ。その推論は語尾を含んでますね。
ダメなのかな?そこだと何がちなみにダメなんですかね。
だからね、変質するんですよ。だからそれを踏まえてたらいい。
集めると変わってくるっていうことが分かってたらいいです。
でもそこは思っているのは、もう一回変える前提ではあると思います。
アトミックなアウトラインをまとめたら、多分やっぱおかしくなるとは思います。
ただそれによって構成案というものがすごく作りやすくなるのではないかっていうのは思っていて、
以前の自分だったら、やっぱりないところからアウトラインを作っていたと思うんですよね。
それが一個一個のパーツについて、すごくよく考えられている項目がいっぱい集まっているわけじゃないですか。
そこで考えるということは、例えば1アウトラインというものに、今まで10奪われていたものが思考力1で考えることができるようになる。
そうすると全体を見渡して、より大きなアウトラインを作るときに、
自分の100の思考力だったら、100項目ぐらいならうまく並べることがしやすくなるのではないかというのはちょっと思っているんですよね。
例えば100ぐらい、1000ぐらいアトミックなノートがあるとするじゃないですか。
そのうち全部使うわけじゃないんで、例えばそのうちの10個を集めたアトミックなアウトラインというのを仮に作ったとするじゃないですか。
それと同じ作業を繰り返して7個ぐらいのアトミックなアウトラインを作って、
その7個のアウトラインがいわゆる章立ての章ぐらいになるから、それを1つより大きなアウトラインにまとめることで、本のコンセプトになるのではないかという流れだと僕は予想するんですけども。
大雑把にはそうイメージしています。
なるほど、これってKJ法っていう名前があるんですよね。
まあじゃあやっぱりそういうことなんですね。
ただ、そこのパーツの違いというか、そこが自分の今までのアウトラインの作り方だと、1個のアウトラインがすげえ弱かったんですよね。
だから途中経過も含めて自分の思考っていうその道のりを足跡として残していくっていう意味での書くっていう行為。
それを日々やっとくと、より大きな本を書くとか論文を書くとか何でもいいんですけど何かを書くっていうときに、
今まで書いてきたことの足跡がすべて味方になってくれるから、すげー楽だよっていう話ですね。
でもね、ここがやっぱり言ったら発想の転換に近いレベルのことなんではないかと思ったりもして。
ノートは綺麗じゃないといけないとか、まとまった考えを書くものだみたいなイメージっていうのは、
日本に限ったものなのかどうなのかわかんないんですけど、蔓延しているようなイメージはあって。
ノートの使い方なんて版書ノート以外に教えてもらわないですかね、基本的には。
しかも版書ってコピペですからね、やってることは、手動コピペ。
PDFを加えるよりは文字を書き写してるから記憶に残る率は何パーセントか上がってますけど、
あれよりは先生が言ったことを自分の言葉でメモし直す方が遥かに記憶に転着するでしょうね、きっと。
例えばそれで言うと先生は版書に何を書いたらいいんですかね。
問題じゃないかな、キーワードだけかな。
キーワードだけだとね、生徒はキーワードしかコピらない気がするんですよ。
生徒にキーワードだけまず書かせて、ノートに。
で、自分は喋るだけ。
ああ、そうか。
メモしないと知らないよみたいな感じだとめっちゃ集中して聞く気がしますが。
歴史なんかでも例えば使えるかもしれないですね。
そもそも黒板スタイルが本当に正しいのかっていう時点からちょっと考え直す必要はあるでしょうね、きっと。
結局、今の教育、この本とかいろんなものに書かれていれば教育の流れというものが受動的なものじゃなくて、問題を解くというか自分でやるという方向に成果が出るものだって変わってきてますからね。
その講義というもの自体が本質的に学ぶということと相性が悪い。
悪いとまでは言わないか。
効率は良くないよね。あんだけの人数を集めて、それぞれの知的理解の仕方が異なる人たちを同じ教え方で教えるっていうのはどうやっても効率が良いものではないので。
結局、後で参照したい情報はネットでとかデジタルで共有して、あとはその対話型で進めていくっていうのが多分一番良くて、その対話も先生と生徒が対話するというよりは、あるテーマにおいて生徒同士が話し合うっていうようなグループを作るっていう方がより良いよなと。
探求型授業っていうのが最近高校で始まるらしいんですけど、大体そういうふうな感じで進めるのが良いよと言われているらしいです。
そうやって考えるとあれですね、学校教育も何て言うんだろう、俺割と絶望しかないみたいに思っていたけど、全然そんなことはなく。
これは普通に一般的に見られるバイアスで、そこを抜けてる人の方が少ないんじゃないですか、きっと。
過大評価してしまうというのは、やっぱり学べば学ぶほど偉大な人ほど謙虚だというのは、まさにこういうことなんだなとも思うし、できないことを知るということをまず認知しておくというのかな。
そこがすごく大事なことだとかいうか、やっとこの言葉がちゃんと理解できるようになったというか。なので、極論を言ってしまえば、能力が低い人はこんなノートを書こうなんてことに当然思い至らないわけで。
ただ、能力が高い人はできないと悩んでしまうという悩みもあって、適切な評価というものがいかに難しいかというのと、逆に言えば、自分は能力が低いと思っている人がいたら、あなたはきっと能力が高いですよとも言えるし。
まあ、そこは認知的に広さを持ってますよね。
自分が能力、俺は賢いと思っている人がいたら、それは早く直した方がいいよとも思うし。
思うだけで言わないですけど。
大人になっても中二病ってこういうことなんだろうなって思うんですよ。
そういう人たちは僕らみたいに、直接あの人とは関わらないとこっていう感じで沈黙が発生すると。
沈黙が発生するってことは、つまりフィードバックがゼロになるってことなんですね。
だから、その状態から抜け出す情報がもう得られなくなってしまうんですよ。
だから、これは注意しすぎることはないものの一つですね。
人はすぐに過信するっていうのは、ラーメンターにも出てきているし、一瞬油断したらこうなると思うんですよ。
また、俺は勉強して賢くなったと簡単に思いそうなので、俺は。
それはあると思いますよ、普通にみんな。
こういうのも概念として、やっぱり名前を覚えておくとすごく認知がしやすくなるので、
この勉強するにあたってダニング・クルーガー効果という、名前を覚えなくてもいいんだけど、こういう現象というものがあるぞっていうことは、ぜひ知っておくべきなのではないかなと。
実践面でいうと、定期的に知らない分野の本を読むというのが、その効果を抑制するんではないかという仮説を僕は持っていまして。
やっぱり知ってるものばっかり読むと、俺ってわかってるって感じが強まってしまうんで、
知らない分野、自分はこんなの全然わかってないなっていう分野を定期的に摂取しておくことが健全さにおいて有用ではないかと思う次第です。
それで言うと、あとは異業種の人と話すとかもですよね。
確かに。
自分が知っていると思っていたことが、いかに全然知らないことだったというか、常識ではなかった。
特に今、人と会うことが難しくなってしまうと、余計そういうことは陥りやすくなってしまいますからね。
ランダムな出会いというのがすごく難しい。
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