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2021-06-15 1:15:56

BC014 『How to Take Smart Notes』

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面白かった本について語るPodcastブックカタリスト。第14回の本日は『How to Take Smart Notes』について語ります。

今回の本は、デジタルガーデン、エバーグリーンノートなど、最近ごりゅごが注目している新しいデジタルノートの手法に大きく影響を与えた、と言われている2017年の書籍。

日本語版がなく、DeepLと一緒になって苦労しながら読んだ本でした。

なぜ書くか どうやって書くか どういう事を書くか

この本を一言で説明するならば「書く」ことについての本。

書くことにどんな効果があるのか。それによってどんなメリットがあるのか。どういうことを書いたらいいのか。

それらについてひたすらに掘り下げた本で、ある意味では前回紹介した『Learn Better』の「ノート特化本」とも言えます。

BC011 『Learn Better ― 頭の使い方が変わり、学びが深まる6つのステップ』 - ブックカタリスト

また、あえて別のタイトルをつけるのならば『ニクラス・ルーマンのノート術』

38冊の本と数百の論文を書いた社会学者ニクラス・ルーマンの「Zettelkasten(本書ではスリップボックスと呼ばれる)」という手法について徹底的に解説した本、という見方もできます。

書くことは「勘違い」されている

本書冒頭では、まず「書く」という行為の前提条件から話が始まります。

世の中は「書く」ということを見下しすぎており、同時に「書く」ということを神聖視しすぎている。

ノートを書くということはスキルが必要な「高度な行為」であるにも関わらず、書くということについて論じた本は少ない。

また、小説や本の書き方などが議論になることはあっても、普段のノートについて書かれた本はほとんどない。

そして、これらの本というのは、いつも必ず「白紙の状態」から本を書く、ということになっている。

まず、この前提条件がおかしい。

書くということは、白紙からスタートするものではない、というところから話が始まります。

その上で、書くということをはどういう効果があるのか、なぜ書くのか。そしてそれを「習慣にする」ことがいかに重要なのか、ということをひたすらに論じているのがこの本のほぼ全て。

本の影響で6章までの読書メモを作り直した

ちなみにごりゅごは、主にこの本の影響を受けて、6章くらいまでの読書メモを一旦放棄。

引用ばかりだった6章までの読書メモは、もう1回その部分を読みなおし、読書メモを「自分の言葉で書きなおす」ということをやりました。

自分の言葉で書くことがいかに重要なのか、という本を読んでいるくせに、ブックカタリストのようの読書メモが「引用」になっていてはなんの意味もないだろう。

そう思ってやり直してみたんですが、改めて「自分の言葉で」「書く」ということがいかに読書や学習で重要なのかということを痛感させられました。

(これだけでも、この本を読んだ価値はあったと言える)

まとめ

ノートの効能などの詳細まではここで触れませんが、ごりゅごが重要だと感じたことは以下の3点。

* 自分の言葉でノートを書く

* それだけ読んでわかるように書く

* ちょっとずつ進める(習慣にする)

正直、1冊の本としての構成は非常にごちゃごちゃでわかりにくいです。

これは、本に書かれていることが難解というわけではなく、ただ単純に構成が悪いとしか思えないもの。

また、書かれている英語も(著者がドイツ圏の人だからか)非常に理解しづらい部分が多く、そういった意味でもなかなかに読むのに骨が折れる本でした。

ただ、ごりゅごは確かに間違いなくこの本からも大きく影響を受けてるんですよね。

『Learn Better』と同じく、読み終えてノートにまとめていくうちに『How to Take Smart Notes』の評価は上がってきています。

この本のおかげで自分がまとめるノートというものは「よくなった」と実感しているし、ノートの書き方というものが1段階上のレベルに到達できたような感じはします。

本当にこの本が素晴らしいのかと言われると悩ましいところで「わかりにくいものを苦労しながら読んだ」おかげで多くのものが得られた、と考えることもできてしまいます。

仮にそうだったとしても、それはそれで「独学テキスト」として素晴らしいものだったということもできるわけで、やっぱりいい本だったという結論になるのかな。

好きか嫌いかの意見は分かれそうですが、たくさんの影響を受けた、ということだけは間違いないものになりそうです。



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面白かった本について語るポッドキャスト、ブックカタリスト、第14回の本日は、How to take smart notesについて語ります。
はい、よろしくお願いします。
はい、よろしくお願いします。
多分、こういうgoryugoクラシタのブログなり何なりというものを見ていていただけると、よく話題になっている本なのではないかなと思うのですが、
なんか、エヴァーグリーノートだとかマメロン文、ノートには一つのことを書く。
なんかそういうようなことを話をするときに、これは2017年に出版された本なんですが、この本が最近引き合いに出されることが多い。
17年って言うと結構最近になりますよね、これ。
そうですね。なので、最近、僕がこういうことを興味持ち始めたのが2020年末とかなので、その段階で2,3年ぐらい経過して、それなりにウェブに知見はたまってきているのかなという印象があって。
逆に言うと、割と最近ではあるんですけど、これがどうやら大変ブームになったことによって、ここから発展させたような概念というのはインターネットなどでもたくさん、主に英語なんですけど、見つけることができるような印象はあります。
いわゆるルーマンの技法っていうのを発掘したのはこの本なんですかね。
どうやらそれっぽい、はっきりした根拠みたいなのはないんですけど、これはいきなり最後の方に書いてあったんですけど、ニクラスルーマンのツェッテルカステンという手法を、要するに現代の人々に素晴らしい方法だぞって説明した本なんですけど、
みんなね、これがすごいということにやっぱりなかなか気づけていない。で、なんで気づけないかって、困って論文書いて終わったらまた忘れちゃうからなんですよね。
もうめっちゃ大変だった、めっちゃ苦労したっていうんだけど、なんかもっといい方法があるよって言われても、この本に書かれている内容というのが、すぐに効果が出るというのとは真逆の方向性なんですよね。
なので、また終わってしまうと、のどもと過ぎれば暑さを忘れる。論文終わったって言って、また放置してしまって、次の論文の時にまためっちゃ大変ってなってしまうことを繰り返すので、ルーマンの方法がいいよって思ってもいいと思えない。
あとは本の中にも書いてあったんですけど、シンプルすぎて、こんなことで効果が出るとは思えないみたいに思われていたっぽいですね。
という印象のものでした。2007年の本で、どうやらドイツに住んでいる人で、作者もドイツ人、ネイティブはドイツ語ネイティブなのかなという印象がありまして。
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たぶん事前にも語っているんですけど、この人の英語すげえわかりにくいよねってお互い言ってたと思うんですけど、一つは構成がわかりにくいということはあったんですが、文章がわかりにくいというのも思ったんですよね。
ひょっとしたらなんだけど、英語ネイティブじゃない人がドイツ語で書いたものが英語に翻訳されている、もしくは非ネイティブが英語で書いたから、なんかこう違和感がある英語になっていたのではないかということをちょっと思っています。
ドイツ人であれば、あんな文章でもそうかなって。
そうなんだ。それはね、ちょっと俺あんまり想像できなくてわかんないんですけど。
例えば、哲学書、西洋の哲学書って、当然フランスとかイギリスとかドイツとかいろいろ国があるわけですけど、ドイツ哲学はやっぱり読みにくいんですよね。
哲学と繋がるんだ。
だからドイツの学術的な文章の書き方が、そういう伝統なのかなという気もせんではないです。
例えばAmazonでも、全世界含めてなんですけど、レビューが1300、現段階で1300何十レビューがついていて、星は平均の評価は4を超えているんですよね。
そのくせに目につくのは、これは全然面白くねえ、役に立たねえ、わかりにくすぎるみたいなレビューばっかりで。
ちょっとね、届かなくていい人に届いてしまっている、売れすぎて人気になって届かなくていい人に届いてしまっている本でもあるのかなというのはちょっと思います。
同じことは独学大全という本にも思うんですけど、あれも確かトップの方にちょっとそれは違うんじゃないかっていう感想が上がってきてたりするんですけど。
たくさん売れるっていうことと、言葉の射程っていうんですかね、独学っていう言葉でイメージするものが人によって違うっていうのと同じで、
How to take smart notesっていうものでイメージされるものとのずれがあるんでしょうね、きっと読み手との間に。
さらに言うと、この本が要するにお手軽ビジネス書と真逆な方向なんですよね。
すぐに成果が出ますっていうことを期待したら、年単位でノートを取りましょうみたいなことが書いてあるし、
どういうやり方を真似したらいいのって思うんだけど、正直すっげー苦労して読んでも細かいやり方とかってすごい理解しづらい部分はあるんですよね。
そうなんですよね、これ現代がHow to take smart notesで副題がOne simple technique to boost writing, learning and thinkingっていうのがついてるんですけど、
One simple techniqueって結局何やったんやろうっていう感じになるんですよ。
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すげー思うんですよ。少なくとも文章はシンプルではなくて。
一応、全力で全位を持って解釈すると、この本にも書かれているし、Learn Betterなどにも書かれているんですけど、
わかりやすく簡単にわかったつもりになってしまったものは身につかないんですよね。
変な言い方をすると難しい本の方が覚えられる。あえて難しいにしているのではないかという印象もあります。
それは多分、かなり好意的な言い方だと思いますけど。
一応全力で褒めておこうと思いまして。
そういうふうに解釈することも、一応本の内容と参照すればそういうこともできるということですね。
もう一個さらに言うと、要するに上っ面だけを真似してほしくないというのはすごい思っているっぽいんですよね。
勘違いしてたくさんメモを取ればいいんでしょって言って、メモをたくさん取るのは失敗の典型なんですよね。
でもその上っ面だけ読むと、確かにたくさんメモを取れとしか書いてないんですよね。
なので、すごくそういう意味で難しいところもある。
ただ、タイトルに関しては、これはHowではないと思いました。
怖いとかワッとなんですよね。
そうか、ノートを取ることはなぜ良いのかみたいなタイトルの方がむしろ内容にしっかりくると。
なので、Howを期待したら、確かにHowを期待すると星4にはならないと思います。
なのでタイトルとしては、このタイトルから期待して文章を読んでしまうと、
確かに星評価2とか1とか何にもHowじゃないじゃんっていう感じましたね。
なるほど。じゃあこの本の全体像っていうのを捉えていきたいんですけども。
はい。
書立が全部で14の書立になっておりまして、最初がイントロダクションがありまして、
ホニャホニャホニャホニャホニャがあって、
The Four Underlying Principlesっていう項目があって、
それが5、6、7、8章を多分含んでるんですけど、
その後にThe Six Steps to Successful Writingっていうのがあって、
その後に90、11、12、13、14ってなってるんですよね。
で、もうこの段階で分かりづらかったんですよ。
僕も個人見たときに。
なんで投資番号を振りながらその前に大カテゴリーがあるのかっていう。
やっぱりそうですよね。
だからこれパッと目次見ただけで全体像がつかみづらいっていうのもあって、
やっぱり読みにくさがそこで出てくるんですよね。
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で、個々の書立で書いてあることはよくわかるんですけど、
全体を見たときにパッと捉えにくさっていうのがやっぱり出てくるんですよね。
ここがこの本の弱点ではあるかなと。
これを悪口を言ってしまうとですね、
この手法で書いた本はこうなりかねない、こうなってしまう危険性があるのではないか。
というのはやっぱりちょっと思ってしまいますね。
そのパーツを組み合わせてボトムアップで本にすると、どうも一貫性が分かりづらい。
だからこれはたくさんゲストにお迎えした回にアウトラインプロセッシングの話が出まして、
形式を整える必要があるんですかと僕は聞いたんですけど、やっぱり形式を整える必要があるんですよね。
上からの構造が適切になってないと、やっぱり見て取ったときに全くわからないんですよね。
だからボトムアップだけでいいじゃんっていう話よりは、
たぶん成り立たないわけじゃないですけど、
本のわかりやすさはボトムアップだけでは生まれないなっていうのは同じように感じましたね。
なのでたぶんここからやはり今現在、
例えばで言うとよく話題に出しているエヴァーグリーンノートって、
この本に影響を受けてもう一段階進化して発展した概念だと思っているんですよね。
なので土台になった本ではあるんだけれども、
この本が言っていることを全部そのまま真似すればいいというわけではないというか、
この本が言っていることだけではやっぱり足りないというのはあるかなと思います。
でも先ほど言われたように、不十分だからこその良さっていうのが逆にあって、
エヴァーグリーンノートのように完成されてしまうと、
やっぱりそれ真似するだけっていうのになりがちっていうのは絶対あるわけで、
どちらが良いのかっていうのはちょっと断定しづらいところは感じますね。
それで同じように、この本を読みながらそんな同じようなことを思っていまして、
ちょっと前にもテキストでも書いたし、ポッドキャストでも喋ってるんですけど、
読書メモというものをですね、今まで楽をすることを求めていて、
楽な手法ということをやたらと考えていたんだけど、
それはダメなんじゃないかと思いまして、
効率が良いとニアリーイコールなんだけどピッタリイコールではなくて楽をするというのは、
効率よく読書メモを取ることはきっと重要なんだけど、
楽をして読書メモを取るというのは多分違うなっていうようなことを思うようになってきていて。
だからそこの差って何なのかって言ったときに、
簡単に言うと物理的な手間というんですかね。
いわゆる機械化できる作業においての効率化っていうのは良いんですけど、
頭を使うっていう部分を端折ってしまう楽さ、効率化っていうのは、
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結局その知的生産的な意味での向上には全く繋がらないっていうことなんですよね。
そこがね、でもねやっぱ難しいですね。
40年生きてきてやっとわかったっていう感じで、
簡単に理解できることではないし、
納得しがたいという意見もわかる気がするし。
なるほど。でも多分この本を読めば、
なぜそうなのか、なぜ頭を使う必要があるのか、楽をしてはいけないのかっていうのは、
ある程度説得的に納得できる話が展開されているのではないかなと思いますね。
そうですね。実際読んで思い返して、
自分は頭を使わずに読書メモを取る。
線を引くというのはやっぱ頭を使わないなっていうのは読んでいて思って、
これ5章まで読んでたんですけどね。
もう一回読み直して、メモを書きながらもう一回読むっていうのをやりましたからね。
最初はコピペだったんですよね。
文章をコピペしてペコペコ貼っていって、
後からもちろんまとめるつもりはあったんですけど、
読んでいて、だんだんまさにこの本で書いてあることのダメな方をまんまやってるじゃんと思って。
なるほど。
確か8か9くらいまで自分で書いて、一番下まで行ってから、
もう一回1から5か6まで書きながら読むということをやりまして。
物理時間はすごいかかったんですけど、
やっぱね、どう言ったらいいんだろう。
書きながら読んでいくことの方がよくわかるようになったんですよね。
もう1個踏まえると、やっぱり書いた読書メモを1個1個のパーツに分ける。
いわゆるエバーグリーノートを作る的なことをして、
アウトラインまでは行かないんですけど、
ただ長いテキストだと全体像が把握しにくくって、
あえて読書メモの中で長い文章を一文に切り出すものを集めていく、
みたいなことを繰り返していくことで、
前回のランベターはそれをやったんですけど、
うまく全体を把握した上で説明をすることができた、
というような実感があって、
今回もできる限りそういうふうにまとめられるように、
読書メモというか、今回の台本みたいなのを作ってみました。
なるほど。
ちなみに僕はこの本は、
複数人で、2,3人で読もうという感じで読んだんですよね。
スクラップボックスに共有のプロジェクトを作って、
それぞれが勝手に読んで、勝手にその章ごとの何が書いてあったかを
持ち寄ろうというような感じで進めていったんですけど、
やっぱり他人がいるんで、読み終えたらまとめなければいけないっていう、
言動力というかモチベーションが生まれるんですよね。
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人に説明しようとして、自分の言葉を使うことになるんで、
当然1回自分の頭をスルー、内容を通り抜けることになって、
理解が深まるっていうのがあって、
1人であるか複数人でやるかの違いはあるんですけど、
結構似た読み方をしてますね、この本は。
そうですね、2人とも要するに書いて読んだんですよね。
この本が進めているまさにその方法で。
ちなみにそのスクラップボックスは春名さんに教えてもらって、
1週間前ぐらいだったかなに見たんですよ。
面白かったのが、俺が印象に残っているところと結構違う。
なるほど。
この本を読んでこういうところが面白いと感じる、
大きな構造として見方として捉え方としてちょっと違うっていう印象があって。
あとはそれは書いてあるんですけど、
同じ本を読んでも人によって感じるものは違って、
それをノートに書いていってまとめていくことで、
あなたなりのボトムアップの本の素材が出来上がるみたいなのは、
そういう部分を見ても思いましたね。
確かにそれはあるかもしれない。
本編の話に入るんですが、
一言で言うと、この本をどういうふうに伝えたらいいのかなと思ったのが、
とにかく書けと。
書くことがどれだけ大事なことで、
書くということが全てだと言っても過言ではないぐらいなまとめをしてもいいのではないかと。
だから書くこと抜きに考えるという行為はできないというふうに明言されてますね。
言ってますね。書くことが。
さらに言うと、書くということを世の中の人間はなめすぎているし、
特別視しすぎているし、
その習慣として書くということをスキルだとも考えていない。
なぜかその学ぶことと書くことが切り離されていて、
それは良くないというようなことも書いてありましたね。
内容自体はやっぱり何て言うんだろう、
すでに書くことに関する前回紹介した、
Learn Betterなのかなっていうような印象で。
この本も現段階でめっちゃすげえって思ったかっていうと、
確かにおっしゃる通りですみたいな印象だったんですけれども、
前回のLearn Betterを踏まえると、
確かにおっしゃる通りですっていうのをまとめればまとめるほど、
めっちゃすげえっていう評価に変わるかもしれないです。
現段階でそこまですごくがっつりまとめたではないので、
今のところ確かにこれは、
世の中にすごくインパクトを与えた本だなっていう印象はあるんですけど、
現状、この点の情報がいっぱいあるので、
絶対読めって言われたらそこまででもないのかなというのも、
ちょっと素直な感想ですかね。
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なるほど、確かに。
本編なんです。
本編というか、要するにあれですね、
あとは簡単に内容を説明すると、
ニクラス・ルーマンというドイツの社会学者の方がいて、
その方が生涯38冊の本と数百冊の論文を書き上げた。
しかも元々その学術系の人でも何でもなかったのに、
とあるノート術、メモ術みたいなものを使ってすざまじい成果を残していると。
この人のやり方っていうのが、
実は今まであんまり研究されてきていなかったんだけど、
このやり方をやれば書くということが劇的にすごいことに変わるぞ。
この人はニクラス・ルーマンがどんなことをやっていたかという、
研究をまとめた本というのかな。
イントロに行くんですが、
イントロでいきなり書くということは白紙からスタートするものではないと。
一般的に書くって言ったら、
覚えておくためのことだよね、みたいな世の中の印象があって、
書くということをちゃんと真正面から論じた本って少ないんじゃないのか。
仮に書くということを論じている本があったとしても、
なぜか真っ白な画面から始まって、
文章を書きましょうみたいな言い方をしているんだけど、
大事なのはそこに至るまでの前段階、
真っ白な画面というものがあったって書けるわけがなくて、
書けるための素材というものを集めておかないといけない。
ちゃんと準備をしてからじゃないと書けるものではない。
どういう準備をしたらいいのかというのを、
この本で語りますよ、みたいなところから始まります。
これって結局、梅沢太郎の知的生産の技術とほとんど同じことが書かれているわけですが。
ほとんどすごいですよね。
紙画家って同じですよね、2人がやっていることは。
両方ともカードを使ってて、ほぼやってることもしてて、
梅沢さんは論文自体はそんなに多くないですけど、
文章自体はたくさん書かれている方で、だから生産性も高い方なんですよね。
だから一緒なんですよ。一緒のことをされてるんですよ。
全然お二人が交流なかったとして同じやり方に誘っていくってことは、
何か原理性というか一般的なものが含まれてるんだろうなということは感じますね。
そうですね。分類をしないみたいなこともお互い言っているし、
カードのサイズ感みたいなのもすごく似てますよね。
大きいものを使えと梅沢さんも言ってますし、ルーマンのカードもデカいですからね。
2人ともサイズまでだいたい同じ。要するに1回で書いていた分量っていうのが、
日本語の文字数で200、400はいかない程度ですよね。
400はちょっと書けなさそうな。
ニクロス・ルーマンのやつも、ドイツ語がどのぐらいに相当するかわからないんですけど、
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イメージとしては日本語の200、300相当のものというのがやっぱり1個のノートで使われていて、
目安、あんまりハウトゥーみたいなことを言ったらよくないのかもしれないけど、
だいたい要するにそのぐらいのサイズ感というものをイメージしてもらうと、
ノートを作るときに参考になるんじゃないのかなというところでもありますね。
ここで言うノートっていうタイトルにあるノートっていうのが、
ノートブックじゃなくてカードなんですね、実際はね。
そうですね。あと謎なのがスリップボックスという用語をやたらと使っているんですけど、
この言葉ってなんでこのスリップボックスにしたんだろうってよくわかんなくて、
ニクロス・ルーマンはドイツ語でZettelkastenって呼んでいたんですよね。
それをわざわざスリップボックスという言葉に変えた意味というのは、
ドイツ語だと伝わりにくいと思ったっていうそれだけのことなんですかね。
おそらくはそうじゃないですかね。いまだにだって語感が英語ではわからないですからね。
Zettelkastenとか言われてもインデックスカードっていうイメージがそれでは出てこないんですけど、
スリップボックスって言うと英語系の人には多分ああいうもんやなっていうふうにイメージしやすかったんじゃないですか。
それだけなのかな。特にチェっていう音とかは英語系の人嫌いっていうか使わなさそうですからね。
響かないから使わなかっただけなのかな。
逆にスリップボックスって言った方が身近には感じられる分、かっこよさが多分なくなるんですよ。
それはあるかもしれないですね。
だからそこにちょっと違いはあるかもしれない。
だから日本で広めるならきっとZettelkastenの方がいいですよね。
そうそうそういうこと。
じゃあ今後はこの話に関しては本ではスリップボックスと書かれているんですが、Zettelkastenの話ですと。
でも個人的なスリップボックスが好きですよ、僕は。
そうなんですか。
だからそれが指しているものが箱っていうことだから。
あれ、ZettelkastenはZettelの箱でしたよね。確か書類箱。
あれそうやったっけ。あれカードって意味じゃなかったっけ。違うんか。
勘違いしたな。
違ったかな。
いや、わからん。
ちょっと確認してみないとですね。
箱っていうイメージがあるんやったら別にそっちでもいいんですけど、結局その一枚一枚のカードが重要じゃなくて、そこにある箱のカード群であるボックスと対話することが重要やというのがこの本のコンセプトなんで。
だからそっちの言葉にちゃんと箱っていう意味があるんやったら僕は全然問題ないです。
確かそのkastenという言葉に棚みたいな意味があったと思うんですよね。
なるほど。
いきなりゼロから始めるというのは難しく、そのための準備をしましょうと。
どういう準備をしたらいいのかっていうことが一応主に第1章じゃない1から7ぐらいまでの塊で語られていて、っていう感じですね。
いきなり言ってるのが学習というのは研究や計画を立てられないと。
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学習や研究というのはそれに必要な時間というものが見えなくて、新しい発見があるたびに今まで考えてきたことを戻ったり考え直したり、また調べ直したりまた考えたりということを繰り返していくものなので、いわゆるお仕事みたいに計画を立てられるものではないと。
どういうことをするのかって言ったら計画を立てるんじゃなくて、ワークフローというものを作って日常の習慣にして常に学んで考えるということをやりましょう。
意外と多分Webなんかで書かれてはいないんですけど、一番大事なのはそれなんですよね。
毎日やること、習慣としてとにかく書くこと。
テスト前にノートを作ればいいものでもなくて、発表があるからノートを作るのではなくて、毎日の習慣としてとにかくワークフローとして日常に組み込める。
いきなり余談なんですけど、この研究や計画っていう話を見て、結構今時の仕事ってほとんどの仕事って計画立てられないんじゃないのかなっていうことを思ったんですよね。
精度の高い計画は無理でしょうね。大雑把な方向性しか決められないっていう仕事が多いでしょうね。
結局ほとんどの仕事ってやっぱそのデッドラインを決めてしまって、そのデッドラインで無理やり終わったことにすることしかできないんじゃないのかと、今時のいわゆるナレッジワークと呼ばれるものというのは。
それでちょっと思い出したのが、タスクシュートという毎日やることを記録して、それを元に行動しましょうっていう話をするんですけど、タスクシュートの話をするとやっぱり計画が立てられないから不安ですっていう意見を言う人がすごく多いんですよね。
それに対して、佐々木さん記録って何の役に立つんですかっていう本でも、佐々木さんに対して聞いてみると、佐々木さんはやっぱり計画なんていらないと、計画なんてできるものではないと。
毎日やることを決めて、その毎日をやっていくしかなくて、どうせ計画なんて役に立たないし、計画立てるつもりがあったら、計画立ててる暇があったら、毎日やることをやれぐらいのことを言っているんですよね。
これってすごく繋がるなっていうことを思って、いきなり余談なんですけど、この余談というのが、このスリップボックス、テッテルカステンについての本質なのではないかということを思っておりまして。
大雑把にこの本に書いてあることをまとめると、本を読んで、面白いなと思ったことをあなたの言葉で書きなさいと。
あなたの言葉で本を読んで書いたら、それについてよく考えてみましょう。そこで疑問だとか繋がることだとか気になることというものが出てくるはずです。
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それをあなただけのスリップボックス、テッテルカステンの中にメモをしておくんだ。
今、この学習って研究や計画を立てられないよねっていうことがこの本に書いてあって、僕は実はほとんどの仕事って計画って立てられないんじゃないっていうことを思って、そのことをノートに書いた。
さらに言うと、そういえば仕事と計画というものに関して、俺は以前、本を作った時に同じようなことを考えていたぞ。これって繋がるなっていうことに気が付いた。
こういうことをノートに書いていきましょうというのが、その一番の本質。
これを毎日の習慣としてやっていけというのが、この本で伝えたいことだったのではないかと。
なので、今回も大体言いたいことは一つこれだけですね。
この本に書かれていることと佐々木さんが提唱しているようなタスク仕事の考え方に共通点があるっていう着眼点から、そもそも例えば計画っていうものの概念が人間の社会生活に合ってないのではないかみたいな話を、
ゴリコさんの視点で論じられるいくつかのパーツが集まったということですね。
そうですね。これをやりましょうと。極論を言ってしまえば、今回の本はここだけ覚えておけば大丈夫だと僕は思っています。
Learn Betterと同じく、人は短期記憶が少ないので、一つだけ覚えておいてくださいって言ったらこれなのではないかと。
確かにその通りというか、それが多分おそらく知的生産っていう行為の本質というか、それをしないものって知的生産じゃないんですよね。
だからただ記事をたくさんスクラップしてそれ寄せ集めてなんかっていうことではなくて、それぞれに対して自分なりの考えをぶつけていって、
そこから生み出される新しい、これまで誰も見出していなかった情報の繋がりを生み出すっていうことが知的生産なんですけども。
だから逆に言うと、それはこの本の一番大切なことなんですけど、それこの本じゃなくてもいいよねっていう感があって。
それはそうかもしれない。
でもやっぱりその中でもこの本の中でも、さっき言われたようにワークフローにすることが重要だっていうのが多分その他のノウハウ本との一番の大きな違いでしょうね、きっと。
そうですね、シンプルにしろというノート、習慣にしろということは結構何回も何回も書いてあって、
結果的に一番言いたいことはそれなのかなっていうか、ほとんどそればっかりを手を変え品を変え、そのことに関して語っているという印象があって。
全編を通してカードを使うノートじゃなくてカード的に書くっていうことって、行動とか思考の範囲を小さくするっていうことなんですね。
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小さくたくさんするとフィードバックが増えるから少しずつ向上していくよっていう、そういう物事の進め方かな。
それが多分このノート術の一番コアのコンセプトなんですよね。
そうですね、フィードバックというか何回も何回もちょっとずつちょっとずつ繰り返してやるっていうことの方が熟達が早いよっていう話で、
だからノートを書きましょうって言ってる本は割に多いんですけど、小さく考えましょう、小さく切り出して進めていきましょうっていう本は案外少ないですね。
そうか、確かに知的生産の技術とこの本ぐらいにしかそういうことは書かれていないのかもしれないですね。
もっとだから普通の本はまとめましょうみたいな話にいきなりになるんですよ。
ノートに情報をまとめましょう、集めましょうみたいな話になってきて、それはそれで重要やけど、そうやって結局大掛かりな仕事やからあざまわしになるよねっていう話で、
日々の小さな実行を積み重ねられることがカードの良さですよっていう話で、やっぱりそれはめさお本以降実はねほとんど語られてないですね。
よく言うんですけどカードについて語った本ってあれ以降ほとんど出てないんですよ。そこに近代に至るまで全く出てないと言ってもいい。
さらに言うとこれは僕の個人的な意見なんですが、これがデジタルになったことでもっと小さくというのが手軽になったと思っていて、
そのいわゆる梅さおさんのカードとかゼッテルカステンとかでケチらずに書けばいいって言ってるんですけど、10文字書いておしまいにするということはやっぱりカードがもったいない感が出てしまうのではないかと思うんですよね。
だとかちょっと書いたんだけどちょっとここが気になるからもう1回書き直そうっていう場合に手書きで全コピペをするよりもその修正というかちょっと変更を加えるということが
アナログの紙に書いたものに比べてデジタルのいわゆるノート系のツールというものはそこも心理的障壁が少なくてちょっと変えるということがやりやすい。
毎日のフィードバックを繰り返していくということがやりやすい。そのあたりもやっぱり現代になってもう1段階便利になったことなんじゃないのかなって思いますね。
はい、それはもう間違いなくそう思いますし、多分それを一番体現しているのが僕はスクラップボックスだと個人的には思っていて、もちろんどのノートリンクツールも素晴らしいんですけど、スクラップボックスの一番いいところってページの高さが入力によって変わるんですよね。
その広大なフィールドを与えられないってことですよね。
そうなんですよね。はじめは小さくすごく狭い窓で、テキストを入力していると下に広がっていくんですけど、ということは1行2行書いても、なんかもったいない感がないんですよね。
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例えば普通のテキストエディターを開いて全画面とかで、1行だけ書いてセーブするのってちょっと抵抗があるんですよね、不思議と。別に無駄遣いしてるわけじゃないんですけど。
スクラップボックスは言われてみると、200字ぐらいを書く用のサイズにあらかじめなってますね。
書けば書くほど拡張していく形になってて、これはそういう心理的な消費を照らすためにああいうデザインになってるんだろうなと思うんですけど、
スクラップボックスの場合はもうページしか作れませんし、上部構造を作ることもできないので、この本とか知的精査の技術が否定している分類から入らないということが、
分類を作れないから、分類から入りようがないようになってて、徹底的にユーザーが小さいベースで物事を考えるように設計されてるんですよね。
こうしたリンクベース、小さいベースで進めていく上で、一番始めやすいのはやっぱりスクラップボックスだと個人的には思う次第です。
そうですね。それに関して同じようなことで言うと、やっぱりできることが多くない方がいいということはこの本にも書かれていて、
ちょっと違う概念で言うと、選ぶ決断というのはMPを消費する行為で、選ぶということは疲労するんですよね。そこにエネルギーを使ってしまうということはもったいなくて、
この本の主張で言うならば、とにかく全てのエネルギーは書くことに費やすべきで、どういう手法を使おうかということにエネルギーを使ってしまうのはもったいないんですよね。
そういう意味でも確かにスクラップボックスは一番わかりやすいですね。選べないので選ばなくていい。
そう、だからカードとかページを書くことしかできないっていうそれだけの、そこが多分物足りなさにつながるんですけど、長期的に考えてやっぱり余計なものがない方が、5年10年使っていくと圧倒的にその認知資源のお手遣いは小さいでしょうね。
しかもスクラップボックスもやっぱり長く書くとわかりにくいっていうのが体感的に、なんでなんだろうあれは、長く書くと使いづらいですよね。
あれは見出しが作れないからですよ。
見出しすらも作れないようにしていることにやっぱり価値はあるんですね。
そうです。折り畳めないし、Notionとかロームリサーチみたいに他のページをエンベッドするみたいなこともできないんで、とにかく短くまとめろっていう圧力がツール側から働いてるんですね、あれは。
だから一番入門としては確かにおっしゃる通り一番いいかもしれないですね、それは。
だからもうちょっと自分なりにコードなとか装飾画とかいう場合はその拡張性のあるツールを選択してもいいですし、スクラップボックスで自分でCSSを書いてもいいんですけど、何も考えずにいきなりツールを使い始めて迷子にならないのはやっぱりスクラップボックスでしょうね、きっと。
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個人的にはObsidianが今一番いいと思っているし、実際使ってはいるんですけど、その話を聞くともう勝ちようがないですね。勝ち負けじゃないんだけど。
勝ち負けじゃないけど、だからObsidianはある種の拡張性が意識されてるじゃないですか、いろいろできるように。それはだからユーザーが使いやすくて便利なんですけど、スクラップボックスはもう始めからそういう用途でデザインされてるんで。
それ以外の使い方がしにくい分、その使い方に関してはもう間違いなく抜きんでた存在っていう感じですね。
そうですね、その短いというのはいいですね。見出しできない、見出しかけないということも忘れていたかもしれない。
やっぱり見出しを書くと膨れ上がるんですよね。だからMarkdownとか使う時でもあんまり二段階以上の見出しはページに入れないほうがおそらくいいでしょうね、きっと。
最終成果物ではいるかもしれないけれども、ここで提唱されているTetelkasten、Sleepboxみたいなノートは結局、数字の目安を出すのは正しくないけど、やっぱり2、300文字ぐらい、それより多いものは多分使い回せないですからね。他と繋がらないっていうのかな。
だから、短く書けないということは、自分でそれを分かってないっていうことに等しいんで、きっと。短く言えるってことは、自分がその概念を適切に表現できるぐらい理解してるってことなんで。だから、他のページで使い回せるっていうことは、その概念を自分が一言で言えるっていうことと非ゴールなんで。
自分の持ちネタになるってことですよね。
そうそうそういうことです。それって結局、上手く言おうと努力しない限りはそうならないんですよね。短くまとめようと頭を働かすから理解が進むっていうのがあるんで。だから、長くなっても適当に膨らんでもいいよってやって適当にメモしてると、やっぱりそれは頭の中ではまとまらないんですね。
だから持ちネタを作るためにはやっぱ苦労をして持ちネタを厳選して、さらにその持ちネタを何回も見たり使ったりしないと忘れちゃうんですよね。
間違いない。
この手のツールを使って、今とにかく何回もいろんなノートを見返すようなツールを使っている実感として思うのが、第2のノーっていう言い方をするんだけど、やっぱり自分が覚えている量が増えてるんですよね、ちゃんと。
この人に覚えておいてもらうんではなくて、感覚が違うんですよね。
かつてEvernoteを使っていたときは、この人に覚えておいてもらおうとしていたんですよ。
ただ、このスリップボックス・デッテルカステンというのは、この人に覚えておいてもらうものではなくて、この人と一緒に考えるものっていう言い方になるのかな。
分かる。本の中でも対話すると書いてますからね。スリップボックスと対話すると書いてあるので、自分の思考をボックスの方に丸投げするという感じではないですね。
そう、丸投げしたらダメなんですよね。丸投げって要するにコピペなんですよね。
確かに。
だから自分でもう1回書いて、書いたものをさらに、これはあれですね、脳は視覚的なものだから、やっぱり書いたものを見るというのは、たぶん頭の中で考えるものとは違うんですよね。
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実際に本にも書かれていたのが、細かい違いを見つけるということは、やっぱり書き出さないと絶対にできない。
本を書く作業というのは、その大きな想像的な全体を組み立てるという部分と細い、細かな細いをきちんと見極めて見つめていくという、いろんな種類のことをやらないといけない。
本編の話とつながっていくんですが、本を書くのがなんで難しいのかって言われると、いろんな種類のことを全部やろうとしないといけないのに、なぜか世の中ではそれを書くという一言にまとめられてしまっているから。
ライトって言うけど、違うんですよね。正しい意味からしたエディットもあるし、シンキングもあるし、オーガナイズもあるし、英語にすると何があるのかパッと出てこないんですけど、もっとすごくいろんな作業があって、それを全部いきなりやろうとしたら、それは普通の人は無理でしょうっていう。
常軌を超えたすごい人というのが、なぜか脳内だけでまとめていることができてしまっていたかもしれないけど、でもそのすごい人たちの仕事術とかは結構残ってなかったり、わからなかったり、公開されてなかったりですからね。
そうですね。たぶん苦労してたけど、苦労してたって言うとカッコ悪いから、苦労してなかったって言ってるだけな気がしますが。
その可能性すらあるかも。ニクロス・ルーマンがすごいのは、「俺は簡単なことしかやらない。」って言ってるんですよね。たくさんの本も同時進行ですごく一緒に書いていたらしくて、一つのことをずっとやるよりもたくさんのことを順番にやればいい、みたいなこともよく書かれていて。
この本の中で一番感心したのはその部分なんですけど、好きなことだけやるって言って。結局、今日の自分の脳が、例えば今やっているプロジェクトAについて意欲的かどうかっていうのはもう自分の意思の外なんで。
自分次第ですよね。
だからその時、自分がプロジェクトCやりたかったら、Cについて考えたらいいじゃないかってかなりはっきり書いてて、「うん、そうだ。」って僕は思ったんですけど。
すごいのが、そう言い張っていて、たぶん実際にそうしていたニクラス・ルーマンさんはすざまじい量の本を書いていて、すざまじい論文もたくさん書いていて、やっていたことは好きなことについて考えていただけだという言い方をしているんですよね、この人は。
実際これは当たり前の話で、自分の脳がプロジェクトAに向いていないとその作業にやった時に、例えば2時間やったって生産性はほぼゼロに近いんですけど、その時に自分が脳がやりたいことを分散してやれば、その分確実に進捗が生まれるわけですから、止まってないんですよね、だから基本的には。
そう、これもね、いろんなこととつながるなと思っていて、そのLearn Betterで言っていた分散学習みたいな話でもあるし、興味があることしかやれないという話でもあるし、倉下さんがバザール執筆法という名前で一回書けっていうのも、なんか一回気になることを全部文字にしてみて、言ってみたらスリップボックスで本を書くということと同じようなことをやっていると言えるんじゃないかって思うんですよね。
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あれは短期決戦版ですから。
もうちょっと締め切りがあるスリップボックスですよね、やっていることはきっと。
さっきのルーマン日々好き勝手方式の場合の最大の問題って言って、それぞれがいつ完成するのかがわからないっていうことなんですよね。なんせ、昨日もなんせ。その場合は論文みたいな、ある種自分で提出期限を決められるようなものの場合はいいんですけど、明確な締め切りがあるプロダクトの場合はそれはいかんので、どっかセッチューバーみたいなのが必要になってくるわけですね。
で、それの代替というのが僕の方式で、だからさっき言われた書くっていうものに含まれている複数の工程を分解しているんですよね。で、一番最初にやる書き下ろしっていうのは、自分がそれについて何が書けるのかをまず確認すると。で、それを見た上で次にどんな順番に並べたらいいのかっていうのを確かめると。で、その確かめ方も結局アウトラインで並べただけではわからないんですよね。
文章になってみないと。だから結局僕はアルファ母校っていうのを最初書いた次にベータ校を書いて、ベータ校を書いてまた読んでさらにアウトラインを整えてっていうことを何回もやるんですけど、これ非常にめんどくさそうなことをしてるんですけど、さっき言った脳外一つの作業、複数の作業を一回でやろうとしないんですごく楽なんですよ。
そう、これもまんまね、やっぱね、一つのことしかできないとかマルチタスクはできないっていうこともこの本に書いてあるし、まあやっぱシンプルに一つのことをやれなんですよね。このここでも書かれているその難しいことを考えたらいけないシンプルなことをやれ。
これはもちろんその完全にゼロにはできないんですけど、やっぱりさっき言ったように、例えば十万字の本の全体構成を考えつつ目の前の文章を書くっていう知的作業はあまりにもアクロバティックと言うんかな。
綱渡りしながら逆立ちしてその足で輪っかを回すような作業をしていられるんで、その綱渡るときは綱渡りましょうみたいなことに分けたほうがはるかに進めやすいですね、やっぱり。
うーん、まああのアウトラインの通りに書けない問題という、まあそれの答えがこの本だとも言えますもんね。
答えの半分側なんですよ、残念ながら。さっき一番最初に言いましたけど、この本を読んでて一番実体験として感じたのは、ボトムアップで書くのは楽ではいいやろうけども、読むほうの身にもなってくれよ問題が半分残ってるんですよ。
そうですね、これは読むほうの身になれば本当に確かにそう思う。
だからそのたくさんのアウトラインプロセッシングがしていくっていう概念のその有用性の高さっていうのは、あれを行ったり来たりすることなんですよね。
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ボトムからアップするだけで終わりではなくて、トップダウンとボトムアップを両方やりましょうって言ってて、そうすることで初めてその整いが出てくる。
だから計画っていうのが、もちろん立てられないし、その計画の正確性っていうのはあの著しく低いでしょうけど、全く無意味ってわけでもないんですよね。
こういう形であった方が良いだろうっていう目算を立てて、それに向かって整えていく作業っていうのは、プロダクトとして見た時にやっぱり必要なんですよ。
ルーマンって一般社会システム論っていうので大変有名な方なんですよ。
ものすごく分厚い本なんですけど、めっちゃわかりにくいです。
こんなにわかりにくく書いて良いのかっていうぐらいわかりにくいです。
そうか、じゃあひょっとしたらなんですけど、そうなる危険性はやっぱりはらんでいる。
だからボトムアップだけからすると結局それは自分の脳内の繋がりを可視化して繋げただけであって、読む人のネットワークにそういう形には全然なってないんですよね。
だから読みやすいかどうかはその運次第っていう感じなので、だからこの話は僕は非常に有用で毎日小さくやる進め方で少しずつ蓄えていくっていうことは欠かせないと思うんですけど、
一方でトップダウンの視点でまとめるっていうものも組み合わさないと、一人よがりになりかねないっていうか、まあ多分なるでしょう。
一人よがりになると思います、これは。
そこは実際、自分が今追求してやろうとしていることとほぼイコールでもあるんですけど、
この本にしても、そのエバーグリーンノートの話にしても、やっぱりその工程についてはまだあんまり言語化されてないんですよね。
その素材を集めて組み合わせるまではあるんですけど、少なくとも自分の実力でウェブで調べる限り、その次のことはこの人が言っているように、あとは書くだけでしょって言ってくるんですよ。
はい、わかります。
だから散々書くことはあとは書くだけでしょ、書けないって言ってるのに、そこからはあとは書くだけでしょになっているっていう。
ああ、そうか。だから十分な量のカードが集まったら書けるはずなんですよ。実際この本もそうやって書かれてるはずなんで。
で、やっぱりそれは書けるけどのけどが残るんですよね。
その整い方についての考慮がない、考慮しなくてもいいっていう感じ。だから素材はたっぷり揃うけども、どう調理していいかはその人の持ち前の腕次第で、それをこういう技法で整いましょうみたいな話は出てこないんですよね。
それってね、できる人やからできたっていう可能性もあるんですけど、たぶん人は1000とか2000のノート作れたら本は書けると思うんですよ。順番をむちゃくちゃにしても。
だからプロダクトとしてそれは成り立たないんですけど、例えばその最終成果物がスクラップボックスやったらいいんですよ。本じゃなくて、私こういうスクラップボックスを作りましたっていう。
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ネットワークでいい状態ですよね。
やったら別にその僕が言うようなトップダウンの思考って一切いらないですね。ただやっぱりそれはね、読みにメッセージがないんですよね、そこには。だから全体としての。
その情報のリンクをたどっていって知識は得られますけど、結局その全体で著者が何を言いたいのかはないんですよね、そこには。別になくてもいいんですけど。
それを作りたいにやったら、その作るためのコンセプトメイキングの技法が別軸でやっぱり必要になってきて、それはだからそれを書くとその本が提唱していることと逆のことを言わなければならないわけで、この話題はまた別のとこで語られるんやと思いますけども。
まあそうか、あえてそこは触れていないというか、触れることができなかったというか、この人はそこまで考えていない可能性もあるというか。
まあそうかな、だからそれもあるかもしれない。だから、埋めそうなカード法はカード法っていうのと加えた小座寝法っていうのをまた別軸であったり、あれは構成を整えるための方法なんですよね。だからあれ実は真逆の方法が語られてるんですよね、あれ面白いのは。そこはやっぱ知識生産の技術のほうが若干実践的やなという気はしますね。
まあ人によってはそれってお前矛盾しとるやんっていうふうに感じるかもしれないけれども、やっぱりその両方の目線はいるってことなんですよね。
だから、とりあえず文章が書けたらいいっていうレベルであれば別にいらないと思いますよ。実際こうやって本できてるわけですから。ただでも、僕はそれをプロダクトとしてはやっぱりちょっと弱い。
というか、伝えたいことを本当にリーチさせられるかどうかで言うと、もうちょっとメッセージ性においてコンテンツを整えるっていう考え方がないとリーチは弱い。この本すごく売れてるから僕のこの発言に説得力はないんですけど、やっぱりリーチは弱いかなという気がしますね。
でもちょっと思うのが、やっていたらそれってできることだと思うんだけどなとちょっと思ったりもするんですけど。
ネットワークでボトムアップで育てるだけでは、いわゆる構造、トップダウンの構造というか綺麗にリュードが整った構造にはならないですね。ならない実感があります。
その素材が十分に集まったとして、大雑把なアウトラインを作ったとして、そこから描くだけでは、その大雑把なアウトラインでは足りない。
この本みたいに特定の章がやたらボリュームがあってっていうことに必然的になるよ、それは。
それを整える作業はいわゆるスリープボックスでやっぱり不可能だっていうのはわかるんですよね。
アウトライナー的なものがいるでしょうね、きっと。
でもそこに素材さえあればすごく綺麗にまとめられるような気がして、個人的にはやっぱりこれからもっといけると思うんですよね。
これを話をベースにして日頃カードを作った後でどうするかっていうところが多分、現代のデジタルノーティングの次の一歩でしょうね、きっと。
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そこを実際に自分も真似してやろうとしたら、次の一歩がなかなか進まなくて難しいなっていうのはすごい思っていたんですけど、
今のところの切り口としては、まずアトミックなノートを作ります。
アトミックなノートが集まったアトミックなアウトラインというものが重要なのではないか。
アトミックなアウトライン。
それも一言で説明できるアウトライン。
そのアトミックなアウトラインを複数集めれば、アトミックな衝立てができるのではないか。
それはね、その後の展開を見ますけど、それは語尾ですよ。その推論は語尾を含んでますね。
ダメなのかな?そこだと何がちなみにダメなんですかね。
だからね、変質するんですよ。だからそれを踏まえてたらいい。
集めると変わってくるっていうことが分かってたらいいです。
でもそこは思っているのは、もう一回変える前提ではあると思います。
アトミックなアウトラインをまとめたら、多分やっぱおかしくなるとは思います。
ただそれによって構成案というものがすごく作りやすくなるのではないかっていうのは思っていて、
以前の自分だったら、やっぱりないところからアウトラインを作っていたと思うんですよね。
それが一個一個のパーツについて、すごくよく考えられている項目がいっぱい集まっているわけじゃないですか。
そこで考えるということは、例えば1アウトラインというものに、今まで10奪われていたものが思考力1で考えることができるようになる。
そうすると全体を見渡して、より大きなアウトラインを作るときに、
自分の100の思考力だったら、100項目ぐらいならうまく並べることがしやすくなるのではないかというのはちょっと思っているんですよね。
例えば100ぐらい、1000ぐらいアトミックなノートがあるとするじゃないですか。
そのうち全部使うわけじゃないんで、例えばそのうちの10個を集めたアトミックなアウトラインというのを仮に作ったとするじゃないですか。
それと同じ作業を繰り返して7個ぐらいのアトミックなアウトラインを作って、
その7個のアウトラインがいわゆる章立ての章ぐらいになるから、それを1つより大きなアウトラインにまとめることで、本のコンセプトになるのではないかという流れだと僕は予想するんですけども。
大雑把にはそうイメージしています。
なるほど、これってKJ法っていう名前があるんですよね。
まあじゃあやっぱりそういうことなんですね。
ただ、そこのパーツの違いというか、そこが自分の今までのアウトラインの作り方だと、1個のアウトラインがすげえ弱かったんですよね。
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それがこのエバーグリーンノートというか、1ノート、アトミックなノートというものを自分で作ることによってその認知資源がやっぱり減るってことなんじゃないかと思うんですけど。
実際、だからさっき言われたように、頭で作った要素出しっていう、ブレストした後に作るKJ法の1つ1つの項目ってめっちゃ弱いんですよ。
中身がないというか、フレーズだけのこととかって結構多いんで、アトミックなノートから作るやつはより強固でしょうね。
あれ実際、KJ法っていうのは1人のブレストじゃなくて、その研究に関わってる人が集まって、それについて2時間ぐらい1枚1枚のカード、意見、言い合って作っていくっていう工程で、結構中身があるものができるんですよね、本来は。
それが後でできるKJ法のアプローチだと、だいぶしっかりした形になるんですけど、1人の人間が2、30分でブレストしたものを並べても弱いのは確かなんで。
アトミックからスタートするKJ法っていうのは、より進めやすいし、身のあるものができるでしょうね、きっと。
そうか、じゃあ多分あれですね、今の話を踏まえて言うと、俺が今までやろうとしていた本の目次案というのは、やっぱり2、30分のブレストから作られたアウトラインだったんですよね。
そんなものを元に本を書いたら、余計苦労するのは明白じゃないですか。
だってスカスカですからね、実際。
まず自分がこれについてどんな考えを持っているのかっていうのを集めきった後で、その集めきったものから何が言えるのかを考えるっていうやり方が今言われているもので、
それを超短縮したのが、いわゆる僕がやってるバザール実筆法なんですけど、短期間でやったものが。
それをもっと緩やかに長くやっていけば、負荷も小さくて、多分土俵も広いものになると思いますよ、きっと。
てことはそうですね、その部分についてはやっぱりもうちょっと考えて研究して、まだ多分あんまりきっちりと言語化されて確立されていない。
でもKJ法って言えばそれでいいのか。
KJ法のデジタル版というか、KJ法プラスアトミックノートみたいな感じかな。
KJ法の場合はフィールドワークっていうのに行って、皆さんが情報を集めてきて、その情報を一つの一つのカードにしてっていうことなんです。
そのフィールドワークっていうのを日常のノート取りに置き換えるっていうことですね。
でもそういう言い方が現在ではできると思いますよ。
そうか、だからKJ法の捉え方の要素というものをこのZettelkastenスリープボックスから考えていけば、すごくうまくまとまって整ったものができる可能性はなんか高まってきますね。
だから新しいものを発明するというよりは、結構再発掘でデジタルに置き換えるみたいな感じでしょうね。現段階で見えるところは。
本編について詳しく説明していたというよりは、いろいろと思っていることを話していたという感じではあるんですが、
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でもやっぱりそうなんですよね。なぜ書くかということと、どのように書くかということを。
あとはもう一個個人的にはこれは良いなと思ったのが、きっと一つ重要なのが何を書くかということ。
ノートを書けばいいじゃんってノートを書きましょう書きましょうって書いてはあるんだけど、多分あんまり他のことではなかったんじゃないかというのは、何を書くかみたいなことっていうのは他の本ではあまり見ていないような印象があって。
この本に書いたのはちょっと抽象的なんですけど、読んで書くに値すると思ったものを自分で書けばいい。自分が興味があると思ったことを書けばいい。
ヒントとしては、読んで書くに値すると思うので、何らかのインプットがないと書けるわけじゃないよっていうことを言っていると思うんですよね。
いきなり何かアイデアを出しなさい、何かノートを書きなさいと言われて、そんなことは無理だよっていうことを意外と世の中は言っていないと思うんですよ。
なので、考えようと思ったら考える前段階のものとして、何らかのものがないといけない。自分の頭の中でそれをやるというのは、たぶん一般人には無理で、そのためにはやっぱり刺激となる前提というか考える前提となるノートというものがやっぱり必要になる。
どうするかって言ったら、結局現状の一番簡単な答えというのは、やっぱり本を読めと。読んで書かないといけないんですよね。それが普通と言うとあれだけど、できないなーっていうのはすごい思うんですよね。
もうそういう生活を長年してるから、逆にそれがないことが僕は想像しにくいですけど、でもうちの妻とかも見てても、それっぽい本をノートを取ることはないので、それが一般的なんだろうなと思いますが。
10年以上ちょっとずつ読書メモをやろうとしては上手くいかず、やろうとしても上手くいかず、でもすっげー真面目に読書メモを取るということを数冊やっただけで、今までの何百冊分以上の得られるものはあったと、実感でしか言えないんですけど、あるんですよね。
ま、でもこれは面倒くさいというのはやっぱり間違いないことだと思うんですよ。
そりゃそうや。先ほど言ったように、面倒くさくないと意味がないわけで。
だから、それを分かれっていう本なんですよね。面倒くさいことを面倒くさいと思ってやらないんじゃなくて、やれっていう。
時代、世界の流れ的に、いわゆる効率化という言葉ではなくて、やっぱり手をかけるという言い方も正しくないな、なんていう言い方をしたらいいんだっけ。やっぱり頭を使えなのか。
頭を使うには、結局手を動かすことが最も良い方法というか、なので結局手を動かして頭を使いになってくるっていう感じですかね。
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そういうことだと思います。この考えるために書かなければならないっていうのは、もう極めて普遍的な話で、読書とか関係なくて、何か考えるときにはとりあえず書けっていうのは、
脳のメモリーから考えても必須な行為なんで、だからアカデミックなものを目指さない人でも書いて考える習慣っていうのは身につけておくと損はないかなと思いますね。
そうなんですよね。この本に関してネガティブな話として出てくるところでも、やっぱりアカデミックな論文書く人、学術関係者にしか役に立たない的な言い方をしているのもあって、
でもそうじゃないと思うんですよね。
一生頭を使わなくて生きていけるって言ったらともかくとして、そうでなければ考える能力を磨くというか、補佐するっていう意味でノートを取りながら考えるっていうことは割に一般的な感じですね。
あとこれで書いてあって、それで言うと良かったなと思うのは、作るべきものっていうのは思い出すものではなくて考えたもののメモを書けと。
まとまっていなくてもいいという言い方になるのかな。いいと思うんですけど、考えをまとめたものを書くんじゃなくて、考えをまとめるために書くんだっていうちょっとした言葉の言い回しの違いなんだけど、
そこの重要さというのはもっと強調すべきなのではないかと、世の中全体として。
それはまあそうでしょうね。だからスクラップボックスもリファクタリングが重要だと僕は言いますけども、だから中途半端でいいんですよね、あれ。
でも考えて書かないといけないんですよね。
できてなくていいっていう。
できてなさ具合から逆に考えるっていうのが起こるんですよね。
中途半端に考えたものが書かれてると、より考えたくなるんですよ。
そうですね。途中に置いておく効果的なやつ、なんて名前だったっけ。
あれね、中断。
最軽肉効果。
最軽肉効果っていうやつに近いかな、だから。
だから半可なものを書き残しておくことっていうのは、全く書き起こさないことに比べると大きなメリットがあるんですよね。
やっぱり綺麗なノート、つまりノートって日本人の場合って版書ノートがノートのイメージなんですよ。
で、版書ノートって完成された図面じゃないですか。
綺麗にまとまったものですよね、あれは。
結果なんですよ、アウトプットとしてのノートをコピーしてるっていう感じ、模写してるっていう感じなんですけど。
ノートって本来は数学の計算式のようなものなんですよね、あれ。
そうやって考えると、そうですね。数学を学ばせるということの本質がそこにあるみたいなのはちょっと感じますね。
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だから途中経過も含めて自分の思考っていうその道のりを足跡として残していくっていう意味での書くっていう行為。
それを日々やっとくと、より大きな本を書くとか論文を書くとか何でもいいんですけど何かを書くっていうときに、
今まで書いてきたことの足跡がすべて味方になってくれるから、すげー楽だよっていう話ですね。
でもね、ここがやっぱり言ったら発想の転換に近いレベルのことなんではないかと思ったりもして。
ノートは綺麗じゃないといけないとか、まとまった考えを書くものだみたいなイメージっていうのは、
日本に限ったものなのかどうなのかわかんないんですけど、蔓延しているようなイメージはあって。
ノートの使い方なんて版書ノート以外に教えてもらわないですかね、基本的には。
しかも版書ってコピペですからね、やってることは、手動コピペ。
PDFを加えるよりは文字を書き写してるから記憶に残る率は何パーセントか上がってますけど、
あれよりは先生が言ったことを自分の言葉でメモし直す方が遥かに記憶に転着するでしょうね、きっと。
例えばそれで言うと先生は版書に何を書いたらいいんですかね。
問題じゃないかな、キーワードだけかな。
キーワードだけだとね、生徒はキーワードしかコピらない気がするんですよ。
生徒にキーワードだけまず書かせて、ノートに。
で、自分は喋るだけ。
ああ、そうか。
メモしないと知らないよみたいな感じだとめっちゃ集中して聞く気がしますが。
歴史なんかでも例えば使えるかもしれないですね。
そもそも黒板スタイルが本当に正しいのかっていう時点からちょっと考え直す必要はあるでしょうね、きっと。
結局、今の教育、この本とかいろんなものに書かれていれば教育の流れというものが受動的なものじゃなくて、問題を解くというか自分でやるという方向に成果が出るものだって変わってきてますからね。
その講義というもの自体が本質的に学ぶということと相性が悪い。
悪いとまでは言わないか。
効率は良くないよね。あんだけの人数を集めて、それぞれの知的理解の仕方が異なる人たちを同じ教え方で教えるっていうのはどうやっても効率が良いものではないので。
結局、後で参照したい情報はネットでとかデジタルで共有して、あとはその対話型で進めていくっていうのが多分一番良くて、その対話も先生と生徒が対話するというよりは、あるテーマにおいて生徒同士が話し合うっていうようなグループを作るっていう方がより良いよなと。
探求型授業っていうのが最近高校で始まるらしいんですけど、大体そういうふうな感じで進めるのが良いよと言われているらしいです。
そうやって考えるとあれですね、学校教育も何て言うんだろう、俺割と絶望しかないみたいに思っていたけど、全然そんなことはなく。
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少なくとも、自分は20世紀の学校教育を受けて今がありますからね。それを否定してしまったら、自分の存在と在り方を全部否定することにもなってしまうと言えるので。
基礎的な最低限の言語能力とか記号を扱う力っていうのは身に付けさせてもらったけど、勉学に対する意欲性というか面白さを開発してくれたかどうかで言うと、それはかなり微妙だけどという気がするから、そこは一応行ったんですよね。
まあそこはね、例えばでいう当たり前のことに一回ならないといけないので、そのために学ばないといけないとかっていう意味では、少なくとも小学校はそのレベルしかできないと思いますからね。
だから授業の半分ぐらいは強制的に知識を叩き込むっていうことは避けられないでしょうけどね。だから中から高とかに、特に高校生なんていうのは大学生のリーチとして存在する場所なはずなのに、大学生になったら自主的に研究しましょうと急に言われるのに、高校生まで詰め込み教育でよろいっていうことは多分ないでしょうから、その辺のギアチェンジが必要なんですね、その年代で。
おだしょー 俺、まんまね、そこでギアチェンジできなくて大学を挫折しているので、まさになんですよね、言ってみれば詰め込まれるところまではできたけど、自分で考えろって言われて、どうやって考えたらいいのかわかんなくって、ようやく40にして惑わずぐらいになってきたっていう。
おだしょー いやー、でもいいんじゃないですかね、これは。だから結局こういうのって、頭が良くなるとか利益が上がるとかいう以前に、面白いんですよね、こういうことっていう相対が。だからその面白さ、娯楽としての学問っていう言い方をしてもいいんですけど、が、どの年代であってもそこにたどり着いたっていうのは祝福すべきことだと思いますね。
おだしょー うーん、そう。でね、あのすごくね、俺全く知らなかった言葉なんですけど、ダニング・クルーガー効果。これを読んでですね、お、俺これだったわーっていうことをすげー思って。
ダニング・クルーガー効果ってどういうものかっていうと、能力が低い人は自分の能力を過大評価して、能力が高い人っていうのは自分の能力を過小評価してしまうという認知のバイアス。
で、能力が低い人っていうのは、まずそのレベルでしかものが見られないので、周りの人も同じようなもんだろうと思ってしまって、それと比べると自分は能力が高いというふうに、能力が不足しているということを分かることができないぐらい能力が低い。
とか、自分の不十分さというものを理解できないという能力の低さ。で、他人の能力の高さを正確にも推定できないだとか。まあ、自分結構あったなと思って。
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これは普通に一般的に見られるバイアスで、そこを抜けてる人の方が少ないんじゃないですか、きっと。
過大評価してしまうというのは、やっぱり学べば学ぶほど偉大な人ほど謙虚だというのは、まさにこういうことなんだなとも思うし、できないことを知るということをまず認知しておくというのかな。
そこがすごく大事なことだとかいうか、やっとこの言葉がちゃんと理解できるようになったというか。なので、極論を言ってしまえば、能力が低い人はこんなノートを書こうなんてことに当然思い至らないわけで。
ただ、能力が高い人はできないと悩んでしまうという悩みもあって、適切な評価というものがいかに難しいかというのと、逆に言えば、自分は能力が低いと思っている人がいたら、あなたはきっと能力が高いですよとも言えるし。
まあ、そこは認知的に広さを持ってますよね。
自分が能力、俺は賢いと思っている人がいたら、それは早く直した方がいいよとも思うし。
思うだけで言わないですけど。
大人になっても中二病ってこういうことなんだろうなって思うんですよ。
そういう人たちは僕らみたいに、直接あの人とは関わらないとこっていう感じで沈黙が発生すると。
沈黙が発生するってことは、つまりフィードバックがゼロになるってことなんですね。
だから、その状態から抜け出す情報がもう得られなくなってしまうんですよ。
だから、これは注意しすぎることはないものの一つですね。
人はすぐに過信するっていうのは、ラーメンターにも出てきているし、一瞬油断したらこうなると思うんですよ。
また、俺は勉強して賢くなったと簡単に思いそうなので、俺は。
それはあると思いますよ、普通にみんな。
こういうのも概念として、やっぱり名前を覚えておくとすごく認知がしやすくなるので、
この勉強するにあたってダニング・クルーガー効果という、名前を覚えなくてもいいんだけど、こういう現象というものがあるぞっていうことは、ぜひ知っておくべきなのではないかなと。
実践面でいうと、定期的に知らない分野の本を読むというのが、その効果を抑制するんではないかという仮説を僕は持っていまして。
やっぱり知ってるものばっかり読むと、俺ってわかってるって感じが強まってしまうんで、
知らない分野、自分はこんなの全然わかってないなっていう分野を定期的に摂取しておくことが健全さにおいて有用ではないかと思う次第です。
それで言うと、あとは異業種の人と話すとかもですよね。
確かに。
自分が知っていると思っていたことが、いかに全然知らないことだったというか、常識ではなかった。
特に今、人と会うことが難しくなってしまうと、余計そういうことは陥りやすくなってしまいますからね。
ランダムな出会いというのがすごく難しい。
ツイッターはツイッターでね。
ツイッターはフォローをするバズルという時点で、全然ランダムじゃないですからね。
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もう自分の見たいものしか見えないやつになっている。
なので、何らかのそういうことも考えていかねばというのを発信するは、特に自分はそうだと、そういう傾向がすごくあると思うので、そこは注意しないといけないなということは思いました。
なるほど。
でもそれを思うだけでね、多分全然思わないよりは遥かに抑制される気はしますね。
そう、でも思っている俺偉いって思ってしまうとダメだっていう、その難しいところなんですよ。
定期的に自分を疑うという習慣がね、難しいんですけど。
それもまた。
それが要するに哲学の仕事なんですけど、哲学書を読んでいるとだいたいそういう考え方が身につきますね。
あの一つじゃなくて、徹底的に疑うところから始めるんで。
哲学の概念を自分の中に取り入れていくというところは確かに、人文学が結構人格形成にいいんじゃないかという感じですかね、それでいうと。
まあ、人格形成かどうかはしないんですよ。
すごい疑い深いおかげで人間関係が破綻している人もいるんで。
ただ、そういう知識の傲慢さには至らないでしょうね、きっと。
うーん、まあでもね、傲慢な人間って最も簡単に嫌われるタイプですからね。
そうですね。
ちょっとぐらい馬鹿な人というか、失敗が多い人というよりも、やっぱりその傲慢な人間の方が嫌われると思うので。
あれは別に他人を見下すからなんですね、基本的に。
そこはやっぱり、この本に書いてある内容ではないんですけど、そこは本当に肝に、特に俺は勉強をし始めて簡単に調子に乗りそうだと思うので。
いや、だからもう考えて勉強したことは、その本とかパブリッシュするんですよ。で、けちょんけちょんに言われてください。
そういうことでしょうね。
そういうことだと思います。
大雑把にまとめると、とにかく書くということをいろいろと今までの世の中の風潮としては勘違いしているようなものが多くて、書くという行為の意識革命が必要だ、みたいなことですかね、言い方としては、趣旨としては。
そうやと思います。もっとみんな書こうよっていうことですね、とりあえず。
で、書く時に重要なのはコピペしてはダメだと、自分の文章を書かないといけない。
で、今回はあんまり触れてないんですけど、人は簡単に忘れるので、後からそれだけを読んだ時にわかるように書きましょうということもすごく、日記なんかを書いていると特に実感しやすいことなんですが、それも重要だよ。
そうですね、未来の他人は自分であると。だから梅沢がマメ論文を書くっていう風に言ったのも、論文っていうパブリッシュな他の人に向けた文章のように書けと言ったのも同じ話ですね。
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うん、っていうところで、あとそれを習慣にしていくことが最も重要なことでありますという感じですかね。
はい、それが一番難しいわけですけど、それができたら日々のアウトプットは随分楽になるでしょうね、きっと。
簡単に真似できることではないというのは間違いないと思うんですが、簡単に真似できることではないことだからやっぱり身につくという、もう一回そういうぐるりとループしてくる話ですね。
そうですね。
はい、ということで今回はHow to take smart notesについてお話をしました。
番組の感想などがあれば、ハッシュタグ、シャープ、ブック型リストをつけてツイッターなどでつぶやいていただけると大変嬉しいです。
それではまた次回。ありがとうございました。
ありがとうございます。
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