面白かった本について語るポッドキャスト、ブックカタリスト。 今回いただいたコメントなどを紹介したいと思います。
前回に続いてなんですけど、 ハマさんがとてもアフタートークが好きみたいですね。
アフタートークが面白いっていうことをたくさん言ってくれておりまして、 最近、今更AIに興味を持っていて、
アフタートークでのお二人のAIの話が本当に面白かった。 他にもノートやサブスタックの話、個人と大きな企業の話、
ラシタさんの昔の話、聞いている1時間、今日があっという間でした。 過去アフタートークの感想ばかりですいません。ということです。
ありがとうございます。 ありがとうございます。ノートの話、そうか、AIと絡んだノートの話ですね。
コンテンツが学習に使われますよということに対してお金が支払われるというような話ですね。 サブスタックの話、割と全般的に
あまりパブリックの場所では話さないような切り口だった気がしますね。 誰もが聞いていることでは言いづらいことを言っていた気がする。
あと、俺個人的にはラシタさんの昔の話とかは、 ひょっとしたらオフィシャルな場で明らかにされるのは初だったのではないか。
コンビニ時代の話ですよね、確かに。 確かにあまりしないというか、誰もこんな話に興味を持たないだろうと思っているので。
まあそこはね、あれですよ。もちろんラシタさんのことを知らない人が興味を持つかって言うとそれはないと思うけど、
ある程度知ってたら、その人の昔の話とかはその繋がりみたいなので、 ああそうですねっていうことはあるような気がしますね。
100回も続いているので、それだけ分ぐらいはやっぱり皆さん興味を持っていただいているのではないかなと思います。
ということで、今回118回なんですけど、
たぶんね、ちょうど1年ぶりぐらいの本を紹介するとは、ちょっと切り口を変えた本の読み方を考えようみたいな言い方をすればいいのかな。
なるほど、ちょっとメタ的な感じですね。 そうですね。で、今自分が凝っているのがですね、
あえてという言い方をあえてつけるんですが、 あえて芥川賞の本を読む。
逆説的に言うと、普段は芥川賞の本なんかは読んでこなかった読書人生だったということですよね。
そうですね。まず、例えば5年前とか10年前とかのレベルの話をすると、芥川賞と直樹賞という2つの賞があります。
なんか有名な賞らしいです。へー。で、止まっていました。 なるほど。
で、そこからもうちょっと理解が進むと芥川賞はいわゆる純文学の賞で、直樹賞はエンターテインメントの賞だということを知りました。
なるほど。 で、どういう機会か覚えてないけど、たまに読んでみたりすると、客観的というか主観的な感想で、直樹賞のやつは面白いけど芥川賞のやつは面白くねえなってずっと思っていたんですよね。
語流語センサー。感覚値として。 語流語であんまりアンテナに引っかからない感じ。
で、そもそも純文学という本に対する解像度が低かったと言ってしまえば、まあそれまでという言い方もできるんですが。
逆に言うと、例えば小説って、ゴリゴさんが小説って言った時にイメージするものってどういうジャンルなんですか?
いわゆる自分が読んできた経験で言うと、例えばミステリーと言われるものだったり、SFと呼ばれるものだったり、そのサスペンスハードボイルドみたいな、なんかこう希少転結物語性があって。
つまりエンタメ要素を多少含んでいる。 そうですね。逆に言うとそのエンタメ要素というか、自分の言語としては物語なんですけども、
物語がない物語の何が面白いんだろう?ぐらいに思っていた。
うーん、なるほど。それはもう国内の純文学だけじゃなくて、国外の海外の純文学もその同じように何が面白いかわからない感じですか?
まあ正直、そのいわゆる有名なやつっていっぱいあるじゃないですか。そういう有名な作品。
えっと、まあ何一つ面白いと思ったことないなぐらいかなぁと。 なるほど。その、なんて言うんだろう、あらすじを聞いてあらすじに書かれている話以上のことが何も起こらず。
ははは、まあそうやな。 じゃあ、これは一体何なのかと。これを読むという行為、価値、意味、何なのかみたいなぐらいのことを思っていた。
これでも面白いですよね。例えば、世間一般で本を読まない人がいたとして、その人が誰か、趣味は読書ですっていう人を見かけたとするじゃないですか。
その人を多分イメージとして、文学を楽しむ人っていうイメージを抱くと思うんですけど、今まで基本的にゴルゴさんの読書人生においてそのようなものはだいぶ狭い。
そうですね。エンターテイメントの物語を読む。 さらに言うと図書館でいうと、やっぱり圧倒的多数派はそのエンターテイメントの文字を読む人だと思うんですよね。
なるほどね。 最近、例えばこういう本とかって、多くが図書館で借りて読んでいるんですけど、直木賞の本は、うちの図書館だと予約待ち100人とかになるんですよ。
ほう。 図書館4箇所ぐらい全てに1冊ずつ置かれて、1人2週間借りられて、取り置き期間が1週間あるので、予約待ち100人だと1年で終わんないんですよね。
単純計算すると。 なるほど。
対して、芥川賞は受賞直後こそ3、4件になるんですけど、次の賞が発表されるはるか前から余裕で借りられるようになってしまう。
へー。僕個人的にその2つにそんなに違いがあるというのを体感的に初めて知りましたね。
うん。少なくとも自分が住んでいる市に限っての、さらに言うともちろん作品によって違いはあるので、100%割り切れるわけではないんですが、そのぐらい印象が違うし、
おそらくラスタさんのいう本を読むというのは、本を読んでいる人が本を読むと言った時のイメージなんじゃないかと思う。
あー、なるほど。
本を読まない人の本を読む人というのは、活字であればどんなものであろうが読んでいたら、本を読む人になるんじゃないのかなと。
あー、どうなのね。一般の人が読書家というイメージって、より文学的なものを親しんでいるというステレオタイプを持ってそうなというステレオタイプを僕は持ってますけど。
まあ、わかんないんですけど、少なくとも人口で言えば、自分の感覚…感覚じゃないな、図書館データを元にするとそのぐらい違う。
うーん。ちなみに直樹翔の小説とかは比較的読んでこられた?
ものすごく意識して読んでいるわけではないんですけど、芥川氏はたぶんゼロに等しい。に比べればある程度読んだことはあったと思います。
なるほど。
で、たぶん大きな契機が、一つは大きな意味でのブックカタリストなんですけど、もう一個が千葉雅也さんのセンスの哲学。
うんうん。はいはいはい。
あれがおそらくすごく影響が大きくて、初めて物語なんてなくていいということを思い知ったというのかな。娯楽に対して。
この前、映画の見方が変わったという話をされましたが、もっと普遍的に、ある情報と接する時の考え方、全般にそれが及んでいる。
そうですね。特に文学というものが、例えば映画で言うと物語なくても映像がかっこよければそれでいいとか、美しい色使いであればそれでいいとか。
文学にも同じことが言えるんだと、40いくつにして初めてわかった。感じることができた。
物語がうんうんじゃなくて、それは芥川賞の作品によって、このうんうんっていうところの部分はいろいろ変わるんですけど、
その観点で読んでみると、一応この約1年ちょっとぐらいで、7冊読んで、今もう1冊読んでいるところ。芥川賞は半期に0から2冊選ばれているシステムなので、
ここ数年レベルのやつは、だいたい読んだ感じにはなりました。
ほー、なるほど。
最初に、まず、ざっと自分が読んだ作品名だけ挙げておくと、まず一つ目はちょっと昔のものなんですけども、
はい。
村田沙耶香さんのコンビニ人間という本。
ほうほうほう、はいはいはい。
で、次がですね、いちかわさおさんでいいんだっけ、ハンチバック。
はい。
で、読んだ順に紹介しますが、安藤補瀬さんのデイトピア。
うん。
で、九段理恵さんの東京都道場島。
はい。
で、朝日奈秀かなさんの山椒魚の四十九日。
うん。
で、松永慶三蔵さんのバリー参考。
はい。
で、高瀬潤子さんのおいしいご飯が食べられますように。
ほう。
で、今読んでる最中のやつが、鈴木、これもわかんないや、雄王さんかなの芸手はすべてを言った。
はいはいはいはい、なるほど。
というので、ここ2、3年だけで言うなら、たぶん一通り読んだと言えるかなと。
そうですね、僕今ちょっと受賞のやつ見てますけど、168回の2作、この世の喜びよと荒野の家族を覗けば、だいたい近年のは全部読まれてる感じですね。
そうですね。で、これが読み方というか、大雑把にそもそも自分みたいに直木賞、芥川賞の区別がつかない人もたぶんいるだろうし。
思います、はい。
まずざっとそれがどういうものなのか。
はい。
直木賞と芥川賞、どっちも菊池勘という文芸界にものすごく多大な功績を残したと、特に出版系の人はその感覚がものすごく強くあるみたいで、どっちも人間の名前から取っています。
菊池勘さんのお友達だった芥川龍之介さんと直木三十五さんという方が仲良しで、菊池勘の考え方っていうのが割と面白いなと思うんですけど、文芸を食える仕事にしなければならない。
当人は文筆家であると同時に実業家でもあったりして、少なくともその頃世界では文芸をやっている人というのはそもそも豊かであるとか、食いつめてバイトしながら何とか本を書くみたいな生き方しか、少なくとも世界ではそういう傾向が強かったらしい。
特に新人作家を中心にして、食えない人をスターダムに乗し上げる道のりにしたというテーマで2つの章を作ろうと。
一応ルールがありまして、芥川章はまずどちらも公募作品ではないです。
芥川章は雑誌に発表されたもの限定で、新人という定義はちょっとあるかどうか不明なんですが、純文学の中編と短編作品の中から選ばれる。
直木章は新人と中堅作家によるエンターテイメントの単行本が対象になる。
という意味で、まず現代と違うのは、ゼロからは乗し上がれないんですよね。
そうだね。本を出すか雑誌に載らないと、そもそもこの章に引っかからないということですね。
そこは時代の違いではあるので、今だったらウェブから雑誌だとか本というのは乗り切るというか、そこまでステップアップはできるとは思うので。
そういう特徴、そういう縛りがあった上で、上半期と下半期、7月と1月に2回行われて、対象期間、確かね、どっちも1月のやつはちょっと1ヶ月ぐらいずれるんだったかな。
12月から5月というのと、6月から11月という範囲で、ゼロ冊から2冊まで選ばれる。
基本的には1冊であることが多いんですけど、直近の芥川が2冊あったかな。
最近はないけど、該当なしということもちょいちょいあったりしました。
もう一個これはライフハック的なテクニックなんですけど、芥川賞を受賞した本って、イメージなんですけど1冊1500円で単行本になっているんですよね。
これね、文芸春秋買うと全部載ってるんですよ。しかもね、1500円より安いんですよ。
っていうものだったり、芥川賞の場合は雑誌限定なので、そのオリジナルの雑誌を入手すれば、芥川賞の本が読めない場合でもですね、図書館でその該当の雑誌を探せばそれが読める。
なるほど。ちなみに、確か雑誌の使命って二段組でしたよね。ちょっと読みづらい人によって。
ちなみになんですけど同じくそれで言うとデートピアはまあまあ人気だったので、そのテクニックを使ってですね、雑誌を借りて読むということをしてみました。
読みづらいです。進まん感じがする。
そうだよね。二段組ってちょっと慣れないとね、ちょっとヘビーだよね。
そうヘビー。なんか重々しい。読み字も小さくて当然読みづらい。
まあなのでその単行本というのはやはりあの形というのは優しいんだな。
そうだよね。
補完には優しくないけれども、やっぱさっと読むには優しいんだなということは思ったりはしますかね。
1935年から始まっているのかな。賞金額がすごくてですね、2024年になっても100万円にしかならん。
笑い事ではないか。
当時は多分すごかったんでしょうね。
そうだよね。もちろんね。その何十年前の100万というのは相当のお金だったんだけど。
今だと多分1000万に相当するのかなという気はするんですが。
まあでも少なくとも100万円もらっても1年生活はできないよね。
しかも芥川賞、長木賞はおそらく1人1回だと思うので、賞金は現代ではやっぱただのその栄誉にしかなっていない。
賞金そのものはそうでも、特に芥川賞の方は雑誌に載って賞を取った、まあ間違いなく単行本化される。
そこの印税を紙で考えてねっていう金額やな、きっと。
まあでもその例えばやっぱ芥川賞を取っても100万部なんて遠く及ばないですからね、大抵が。
菊地勘さんが実業家でもあったからというので。
あともう一つ調べていて面白かったのが、基本的にこういった賞は日本にしかない。
あ、そうなんや。
まず例えばで言う、いわゆる純文学を評価するような賞みたいなものはなかない。
ただ直樹賞みたいな大衆を特に大衆小説と文学、いわゆる純文学の両方を対象にした賞というものがそもそも珍しいし、
新人発掘とかを目的にした賞というのもめちゃくちゃ珍しい。
さらにそれを民間がやっているというのもまた非常に珍しい。
基本的には出版業界のプロモーションとしての賞なので、文学的権威というのは本来あまり関係がないはずですけど、
芥川賞についてはその権威性も多少育っている側面はあるんですかね。
書店よく行くと思うんですけど、独自の本屋大賞みたいな話だったり、メフィスト賞みたいな話だったり、
これは想像なんですけど芥川賞、直木賞というものが一定程度うまくいっているおかげで、
書店の生き残り作としてのいろんな賞みたいなのっていっぱい増えてきていて、
言ったら初心者、俺は初心者枠なんですけど、知らん本を見つけるのにこういう賞みたいなものは一定程度便利なものではあるよなっていうのは思ったりするかなと。
おそらくどうやら欧米圏の賞って、ノーベル賞に方向が近い。ノーベル文学賞とかに。
基本的に中堅以上の作家を中心にしていて、商業効果が目的とされているわけではない。
グレートなノベルを歴史に刻むという意義を実行してある気がする。
フランスの以前、ゴンクール賞っていうのは比較的商業効果が高かったりするような賞も存在はしているんだけれども、基本的にはやっぱり珍しい。
あと、当時東系の新興国なんかは国家の権威を挙げるために、そういういわゆる純文学的なものに賞を与えたりしているみたいなんですけど、そんなものはその国の中の誰も知らない人しか誰も知らないっていう。
そういうもので、新人発掘の登竜門であり商業と一体化しているというのはとても珍しいものだったらしい。
少なくとも今までは機能してきたということだよね。
そうですね。少なくともニュースになるイメージですもんね。今でもテレビとかでもまだニュースになっていて。
その賞を受けるかどうかもやっぱり作家の今後の未来設計に大きくかかってくるんで、たとえ100万といっても受賞と受賞しないの差は大きい。
賞金は本当におまけですよね。それよりもそこから得られるステータスとか。
今夜行って意識してみるとすげえ面白いのが、直木賞作家初の作品とか言っていて、直木賞を受賞した後の初の作品っていうのをすげえ省略されていたりだとか。
なるほど。
なんかそのやっぱ一回売れれば、そこでそれをつけて何とかしようというのはあるなと。
しやすいよね。プロモーションしやすいのは間違いない。
あとこれが成立し得る背景っていうので、日本と欧米の違いというのが、新聞と雑誌の違いみたいなのもあったんじゃないかっていう話もあったりして。
そもそも欧米圏っていわゆるメディアが発達したのって最初期に新聞がすごい発達していて、カフェと新聞みたいなのが密接に結びついていたりして。
雑誌というものが日本ほど強くはなかったみたいなんですよね。
なるほど。
逆に日本は江戸時代から識字率が高かったという特徴があり、それがゆえに語学として活字が何なら欧米よりも進んでいた時代的には。
早い時代から活字が語学になっていた。
そういう意味でニュースうんぬんよりも、いわゆる河原版みたいなものだったり、東海道中ひざくり家とかあんな時代に出てたりするのも案外珍しかったりもするみたいで。
そこから雑誌と書店とコンビを組んで盛り上げていこうみたいなところでうまくいったんじゃないのかなという予想なんかがされていたりします。
なかなか面白い。
菊地川は文学は産業でもあるっていう考え方をした上で、そのそういう芥川賞、直樹賞という独自の非常に特殊な雑誌自体がそもそもやっぱ世界ではどうやら特殊っぽいし。
小説とかは基本的に新聞に掲載されていることが多いからね。
そうですね。新聞中心だったりしてますもんね、それで言うと。
あと面白いのは、日本だと別の業界で自分の新聞を買ってもらうために、囲碁とか将棋の大会とかランク戦を作ったりとか、そういう方向でいろいろとやってたり。
同じく小説連載で方向を進んだり。
その良くも悪くもやはりエンタメ要素がないと新聞も売れないっていう印象はかつてからそうだったのかもしれないですね。
そうですね。夏目漱石も新聞で連載小説書いてましたし、その頃の一つのプラットフォームであり、それを新しく雑誌で開拓したっていうところはすごいんですが、
僕この時点で思うのは、この章が結構よくできていたおかげで、出版業界が新しいプラットフォームとかあるいはプロモーションの開拓するのを怠ってきたのではないかという。
同じようなことは思います。
つき口感の姿勢、ビジネスマンとしての考え方を引き継ぐのであれば、ここの2025年に至るまでにもっと考えられたことはいっぱいあったはずですけど、
僕の印象で言うと、文学というのは高尚なものだというような路線で続いてきたような気がして、やっぱりそこのギャップが今、余実に出てきてるんじゃないかなとちょっと思ってますけど。
ちょっとね、かつての芥川賞とかがどういう感じだったのかみたいなことを自分は実際知らなくて、イメージだけでしか語られないんですけど、やっぱり語学が少なければ、芥川賞だろうが直樹賞だろうが何でも読めるんだろうけど、
たくさん語学がある中で、確かに一見つまらん芥川賞とかっていうのはね、やっぱり相当厳しいんだろうなと、狙っていくところが違うんじゃないのかなみたいなことは感じたりもするかな。
もっと見せ方とか売り出し方があると思うんですよね。芥川賞にする直樹賞にする芥川賞も単純に盛り上がったりはしないですけど、
例えば、なんか著名人が面白いよというだけで読もうと思う人も多分普通に色発で、もっと単純と短いので芥川賞の小説。
むしろこういうものに触れる一番異動線かなと思うんで、この超受賞した作品って。だからもっと広い見せ方があるんじゃないか。
賞は賞といいとしても、もうちょっと反路というかプロモーションのルートを考えた方がいいってだいぶ偉そうなこと言ってますけど。
同じく芥川賞が今回シリーズとしてお勧めをしている理由の一つが短いなんですよ。
価格対時間費で言うと高い、割高にはなるんですけれども、そこは図書館使えばいいと思っていて、実際図書館に直樹賞はないけど芥川賞あるんですよ。
そして短いから、ある程度集中して読めば1日で読み終わります。
1日15分読んだとしても1週間ぐらいで読めるかなというイメージがあるかな。
少なくとも時間の長さ、かかる時間に関して言えば非常に短い。
根性を出したら芥川賞全作品を読むって簡単なんですよ。
今が172回あって、超単純に計算すると172冊。なんなら1年で読めなくはない。そんなことはせんでもいいと思うけど。
制覇はしやすいよね。
半年にマックス2冊しか増えていかないので、今後新作が出ても余裕で追いつける。
コンプリート癖が強い人にはいいんじゃないかなと思って。
過去の本とかも図書館の一般的に文学的に価値あるものじゃないですか。
古いやつもちゃんと閉科図書とかでは残っているんですよね。
いわゆる芥川賞全集みたいなやつとかも出てたりするので、そこで自分が確認したもので135回まではその全集というのが載っていました。
タイトルから想像する部分が多いんですけど、直木賞よりもむしろ世相を反映している本が選ばれる傾向があるなと。
そんな感じはするね。
直木賞はエンタメなので問題意識だったりなんだったりっていうのも当たり前なんだけど、そういうものは基本的にあんまりない。
芥川賞というか文学というものが、すごい大きな意味でいうと学問と共通しているところがあるなという感じがして、
そしてその著者が感じる疑問点だとか社会への批判だとか問題提起みたいなものというものがやはり傾向として作品の中に含まれているものが多い。
例えばコンビニ人間とかって2018年なんですけど、タイトルからもある程度想像できるんじゃないかと思うんですが、
まずそもそも芥川賞直木賞ができた頃コンビニなんてないし、コンビニという文化も存在していないし、コンビニという概念がなかった中で、
この著者はこの話で言うとコンビニで働くことが生き甲斐で、そこにしか事故を見出せないという感じみたいなこととか、
この本もそうだったんですけど、やっぱ普通と言われるやつが自分は一般的に嫌いなんですよ。
おそらく芥川賞の作品の結構多くの部分が、この普通みたいなやつが嫌いで、それを作品に消化させているものが多いという印象があって。
単純に言うとそれを文学と呼ぶ。
でも自分はそういう概念がなかった。
エンターテイメントというものは、読者を楽しませることで、楽しませるというよりももうちょっと社会派だったり問題提起だったり、
あと自分が感じていた不満みたいなものが、こうやって言語化されるんだなっていうのがやっとわかるようになってきた。
一番最近読んだ、おいしいご飯が食べられますように、タイトルからしたらスーパーウルトラミラクルほのぼの系に見えるじゃないですか。
日常エッセイな感じ。
超真逆でめっちゃよかったですよ。
おいしいご飯が食べられますようにっていう名前なんですけど、食べることが正義であることが一気に食わんという言い方になるのかな。
大雑把に人が3人出てきてメインとなる人。
2人主人公というのが、主人公の男性は腹が減ることが不快な人で、生きるために食べないといけないということが嫌で、
ただその価値観というものがすごく世間一般には受け入れられず、健康なものを食べろと言われることだったり、
食べ物に関しては粗末にすると、その粗末にした人は絶対悪であり、そうじゃない側が絶対的な正義になってしまう。
あと会社でお菓子とか振る舞われたりすると、「うわー、おいしい!」って言わないといけないみたいなやつ。
あー、俺そういうのめっちゃ嫌だわ、すげー嫌いだったわっていうことをめちゃめちゃ共感できて。
そういうね、やっぱり世間に対してひねった見方を言語化できるようになってきたから楽しめるようになったと言えるのかな。
どうなんでしょうね。そういう側面もあるでしょうし、文学じゃない、いわゆる社会学とかの本を読んできたおかげで、
本とそういう感覚の結びつき、結局こういう社会学的とか文化人類学的な観点の小説が多いと思いますけど、
私たちの当たり前っていうのを繰り返すとか、だからそういう感覚が育ってきたのか、理由はわかりませんけど。
でもどうなんですかね。多分若い頃でも何かピンと合う小説と出会ってたら普通に楽しめていたような気はしますけどね。
出会いとタイミングの問題という気はしますけど。
そうか、出会いのタイミング。そうですね、自分の場合で言うと、やっぱり例えば物語というか、小説というジャンルに関しての解像度があまりなかったというのかな。
小学校の頃、図書館で本を借りるみたいなことはしていたけれども、そこから知っているものから広げるきっかけもなかった。
そこは本能を読むという行為の一番難しいところだと思いますけど、多分この手の文学に一番ハマりやすいっていうのが、
20代の頭ぐらいかなと僕は勝手に思ってますけど、生きることに戸惑いを感じている人にある種の救いではないけど、
肯定を与えてくれるものが文学の役割の一つで、そういう時にチャンネルが合う小説と合ってたら多分もっと早くに読めてたでしょうし、
今たまたま何か巡り合わせで読めたということもあるし、
文学の役割、こういう純白の役割は流通している普通に耐えられない人に何かを与えるということだと僕は思ってますけど。
うーん、この美味しいご飯が食べられますようになって、イメージとしてはやっぱりほのぼの孤独のグルメぐらいをイメージするじゃないですか。
していたんですよね、俺は。そういう先入観とか予備知識とか一切なしで、とりあえず読んでみようと。
読み終わるのせいぜい2,3時間、もうちょっとかかるかもしれないけど、そういうレベルで。っていうので読んでみたら、何も起こらないのにこれは本当素直にクッソ面白かった。
うーん、何も起こらないのに面白いという感覚が育まれているということか。
この本の話でいうと、自分が嫌いだったことが上手に言語化されてものすごくいい気分になれた。
いわゆるあれかな、もやもやしているという日本語を言語化してもらえたみたいな感じ。
言語化の甲斐。
もやもやしているを言語にするのって一定程度の技術とか修行とか時間、期間がないと簡単にはできないもので、こういうものによってもやもやの解像度を上げてくれる。
そういう観点で本を読んだことがなかったかもしれない。
そのもやもやがある状況が言語化されて解に変化されるっていうのは、別の形のエンターテイメントではない?
ああ、そういう言い方はできると思います。極論を言うとですね、これ悪口の本なんですよね。
なるほど。
そういう考え方で見たらエンターテイメントだと言える。
純文学というもののイメージとして、楽しみがある種の甲斐が全然発生せいへんものを淡々と読んでいくというイメージがもしかして誰か持ってるかもしれへんけど、ゴルゴスさんの場合はある種の甲斐があったと。
だからそれも作品として楽しめているということね。
そうですね。この本に関して言えば、どっちかというとさらに邪悪な観点で楽しめている。
なるほど。
これはちょっと昔のものをあまり読んでいないので、直近で読んだものだけの話になるんですけど、ほとんど全てのやつが結構邪悪です。
そうやね。僕が読んだのを加味しても、邪悪というか、ある種人間が持っている悪っていうものを隠そうともしないし、それを悪いものだと休断することもないということはあるね。
うん。このハンチバックとかは最初に読んだ時にだいぶ衝撃的だったんですけど、
でしょうね。
なんて言ったらいいんだろう。特殊な病気ですよね、ものすごく。
の著者が、仮、自分的な人が主人公で、その病気の辛さ苦しさ、やるせなさみたいなものを圧倒的に悪意を込めて語っている。
はい、そうですね。
この話に関して言うと、すっきりしたというよりは、まさに知らない人の考えを知ることができた面白さ。
まず、失礼ながらそういう病気に関する予備知識は全然なかったし、それがどれだけ大変なのかということを考えたこともなかったし、
その上で、悪意を隠さず書かれているところがやっぱり素晴らしいと思ったし。
雑文学という感じがするね。
やっぱりその、自分は多分ね、毒があるやつが好きなんですよ。その高校でいうと。
なるほど。
で、次に読んだデートピア。これもクッソ毒まみれというか、現代社会の、そもそも舞台設定が、なんだったっけ、Amazonのバチラーだったっけ?
あー、一人の女性に大量の男性みたいな。
そうそうそうそう。愛祈りから始まる、なんかその世界ブームのあのやつ。
まあ、端的に言うとあれめっちゃ嫌いなんですけど、俺は。
それを非常に上手に文学的に批判してくれている。
まず、やっぱその時点でこれも同じく、おそらく著者も同じような問題意識からこのストーリーを考えたんだろうなと想像するんですけど。
まあ、やっぱその段階で非常にこれもモヤモヤが晴れる。
だし、これなんかはやっぱ社会批判みたいなやつが、なんかね、下手にいわゆるそういう社会の問題みたいなものを、本を読んで勉強するよりも小説を読んだ方が勉強になるっていう言い方がいいかわからんけど。
そんな問題あるんだなっていうことがやっぱ読んでいてわかるようになった。
うーん、仮にそのような社会問題を指摘するような本と、この手の文学っていうのを比較したときに何が違うんでしょうね。
何だろうね。やっぱえっと、良い意味でお勉強じゃないけど勉強できるところの良さっていうのかな。
それはこっち側を姿勢として今から勉強するぞという気概を持たなくていいみたいな感じ?
うん。あと、今気づいたかもしれないんですけど、一般的にそういう本って問題意識を持たないと手に取れないですよね。
そりゃそうだ。
芥川賞って言われたら、おそらく多くの人が注目している問題を自然に知ることができる。
エンタメを通じて問題を考えることができるっていうところなんかは面白いところなのかなと。
僕自身の考えを言うと、そのような構成された社会批判問題を指摘する本を読むと、問題意識が固まってしまうというのかな。これが問題だと学習してしまう。
まとまった本だと。
小説を読むと、それを問題かどうかを捉えるのは読者に開かれているわけですよね。
何が悪いかどうか、誰かが出てきて、こいつが悪いから退治するっていう、完全懲悪のような構造じゃないわけですよね。
それは悪さもあるしそうじゃないし、登場人物の一人が何かを悪いと考えているということ以上にはいかないわけですよね、小説の場合。
そこら辺の固さの違いが、この二つの読み比べの時に起きてくることで。
だからこそ小説で読むと問題意識が育つかどうかわからないわけですよ。
それは言える。読んで面白かったなぁで終わるは十分あり得る。
でもだからこそ固い問題意識に囚われないというメリットもあって、両方読むのがいいというのが優等生的答えなんだけど。
僕的には小説の方が知性の動きが滑らかに保たれるんじゃないかなとは思いますけど。
デートピアは確か今のところ最新…あ、違うもう一個ゲーテとデートピアだったっけ受賞したの?
うん、多分両方受賞した。
一番新しいやつで、少なくとも今読んだ中で確かに問題提起として一番新しい話、話題なのかなという印象はあったかな?
やっぱり現代で今リアルに出版されている雑誌に載っている小説やから、当然問題意識も現代的にならざるを得ないから、
そこの章が取り扱っているのはその新人の発掘という側面があるからこそ、ここに出てくる問題意識が現代的なものに必然的になるという構造がありそうですね。
で、次に読んだのが東京都同情党。これはいわゆるあれですね、ちょっと哲学っぽい言い方をするなら現在の風光を文学にしたみたいな言い方になるのかな?
そうですね。ちょっとサイコパス風な感じ、サイコパスってアニメ風な感じもあり、まさに風光の社会的問題、ある種の同情とか優しさというものが持つ残酷さみたいなのが表されてた小説ですね。
個人的に非常に面白かったのがですね、東京都同情党の建築家の主人公の女性、この人というのが絶対仲良くなりたくないなっていうぐらいめんどくさい人なんですよ。
その小難しい鬱陶しい理屈をひたすら並べ立ててやたらとめんどくさい人。それを描けるというのは素晴らしい出力だなということをすごくしみじみ感じて。
間違いそうで、僕は女性の主人公の内的思考を扱った技術の部分を読んだときに基本的に共感の度合いがかなり高かった感じでしたね。僕はだいぶこの主人公寄りの人だなという感じをしながら読んでました。
その何か一言言うたびに必ず前置きと予防線を張っておかないと喋れないみたいな感じで。
なるほど。頭の中であのような謙越が働いているのは自分でも感じるなとは思いながら読んでました。
自分はね、やっぱりこいつめんどくせーなーってすげー思いながら読んでたんですよね。
そこがいいとこなんだよね。人が登場する作品の面白いところって読む人によってフォーカスするポイントが違うし問題設定も違ってくるっていうところがいいよね。
ディストピアものですよね。このデイトピアと東京都登場等がたまたま偶然連続でディストピアものみたいなものを読んでいたりもして。
これでも多分現代的な問題意識じゃないかな。ある種の快適さを求めた先に持っているものは何かっていうことが、これまではずっとSFの扱っているテーマだったけど、
現代ではそれが一般的な大衆文学というか純文学も考えざるを得なくなってきているという感じがするね。
そうですね。ディストピアって例えばで言うと1984とかマトリックスとかそういう方向はあるけど、いわゆる日本の純文学枠ではなかなか効かない話ですもんね。
少なくとも日本の戦後の文学は生きるのが苦しいというところから始まっていたはずで、それは当然のように。
ある程度その見たかさが満たされて、今科学テクノロジーがここまで来ている段階で、
もうだって生成AIを使うのは日常的レベルの話になっているわけで、特にインターネット技術っていうのが特権階級というか特殊な人じゃなくて、
もう私たちは日常に入り込んでいる以上、文学のテーマにならざるを得ないというところがあるのでしょう。
これは例えば東京都道場党とかね、例えば風光を勉強しようと思う前にまずこれを読んだらいいと思うという感じがするし。
そうかもね。風光が何を問題意識として持っているのかは逆にこっちこの本を読めばわかるかもしれない。
もちろん風光が言っていることはそれだけではなくて、いろんなこととかいっぱいあるけれども、そういう観点で読んでも面白いなと思ったし、
逆に言うとやっぱり、いわゆる社会学とか哲学みたいなことを学んでから読むと面白くなるんだということもやっとわかるようになったというのかな。
そうだよね。特に道場党はその傾向が遥かに強いね。
知識というものは娯楽を楽しむためにも役に立つんだなっていうのが、できる人になった感を味わえて読めた感じ。
そうか、これは風光だなとかってだいぶ知的な感じじゃないですか。
そうやね。もちろん背伸びとか見栄っ張りとしてのこともあるけど、やっぱりこの小説作品で提示されていることを何かをより論じるときに風光の知見が参照になるということを知っているのと知っていないとではやっぱり明確に楽しさが違う、面白さ深さが違うというのはあるでしょうね。
例えばもう1回風光を読みたくなるきっかけとかにもこれとかはなるかもしれないし。
確かに。
そういう意味でもやっぱり。で、短いんですよね。やっぱり1,2時間。これは特に短かった印象があるかな。
そうだよね。短かったと思う。
映画の時間で本当に読めるぐらいのイメージ。
200枚って書いてあるね。原稿用紙刊さんで。ハンチバックは90枚って書いてあるからもっと短い。
あ、ハンチバックはもっと短かったんだ。
分類的に短ペニーになってるね。
そうか、やっぱり印象か、だいぶ。
そうやな、結構語り、文字数多いからね、東京道場とは。本人の頭の中の会話がだいぶ多いけど、ハンチバックは結構描写が中心で進んでいくからあっさりとはしてるけど、ただ濃いよね。
そのものすごいね、なんかドロドロした密度の濃いものだった。そのハンチバックは。
で、もう一個、三章五号の四十九日。これはね、今度はですね、能科学とか意識と哲学なんですよ。
なるほど。
そのジュリオトノーニさんとかのその意識とは何なのかみたいなやつをめっちゃ思い出したりしたんですけど、
結合創生時。完全に二人の人間が、外見的には二本の手と二本の足と二つの目とっていうその一人の人間として生まれてきていて、でも意識は二人分ある。
脳が二つあるわけではない。
脳も一つしかない。ただ内蔵の構造とかは違う。全然普通の人と違っていて、めちゃくちゃぐちゃぐちゃに入り組んでいて、その大きさが人間の標準とは全然違うサイズだったりなんだったり。
いわゆる左右で顔面も分かれているので、その何らかの障害者であるかのように見えるんだけれども、その世間の人からその人が二人だという感覚はない。
そういう人がどう感じるのかを想像して書いた話というのかな。
さらに言うと、著者が曰く結局人間たちって、俺は俺であり一人の人間が迷いなく間違いなくきちんと行動できているみたいに思ってるけど、
わかってないなっていう感じの言い方をしていたりするんですよね。
なるほど。
そのあたりも深いなというか、意識とは何なのかみたいなところを、哲学だったり脳神経科学だったり深めていくと、やっぱりそういう問題は出てくるだろうし。
ちなみにネタバレに関係するかどうか知らないけど、なんで三称語なのか。
三称語の話というか、特に深い理由があるというよりは、陰と陽の丸がウイーンってなってる感じの絵ってわかりますか。
対極図。
そうそう。あれが三称語みたいに見えてって言って、自分たちがあれみたいな感じがするっていうようなテーマです。
自分のことを三称語に例えている。
そこ自体はそんなに深い話ではなく、象徴的なものとして出てくる感じ。
これは一番衝撃を受けたというか、考えさせられるとまたちょっと違う気がするな。
なんだこれはっていう凄さがあったっていうのかな、これは圧倒的に。
なるほどね。頭をガツンとやられたっていうタイプ。
これはね、そういう意味で言うと圧倒的にエンタメだったっすね。
そういう意味でのエンタメ。
こんな人いるかいないかは知らんけど、こんなことを考えて描けるんやっていう。
これはでもやっぱり文学ならではという感じがしたかな。映画にできそうな感じはあった?
多分やろうと思えばやるんだろうけど、自分の好みで言うとこれ映ったら面白くないだろうなって思ってしまう。
なるほどね。
見た目としては人類が異様に感じる姿形をしているらしいんですよね。
さらに言うと文中にわざと誰も想像できないと想像させるようなテキストとかがあったりして、
一時文通に凝ってて手紙をやり取りしていて、自分のことを説明するとあなたはこんな感じなんですかってすごい言われる。
絵を描いて送ってこられる。何もかも全然違う。
そんなんじゃないんだ私はっていうことで、想像させることにかなり重きを置いている印象はあった。
なるほど。
なので形にしてしまったらつまんなくなりそうかなと自分は感じた。
話の構造的にいかにもテキストで表現できる文学を探求してやろうかなという感じがしたね。
そうですね。この圧倒的にテキストだから面白いだと俺は思ったかな。
他のものは言ったら、ハンチバックもその方向か。
デートピアとか道場島とかはね、ドラマとか映画にもやりやすそうなんだけど、
ハンチバックと三少奥の四十九日とかは圧倒的に文学でしかやれない方向なんじゃないのかっていう感じ。
そんな感じはしますね。
っていう意味でめっちゃよかったですね。一番おすすめで言うと今これかなと思います。
この読んだ中で。
おすすめっていうのはこれまでこの手の章を読んでこなかった人に向けてということね。
そうですね。5年前の俺が読むとしたらっていうイメージかな。
もう一個あとはバリ・サンコウ。
これはですね、自分の中ではザッツ・芥川賞かなという感じはしていて。
印象としては何も起こらなかった。
生きるということに関して、社会生活を営みながら考えた話っていう言い方が自分的まとめかなと。
なんとなくわかります。
バリ・サンコウのバリというのが、バリエーションのバリというものを省略した言葉らしくて、
いわゆる登山において一般的な登山ルートではなく、バリエーションルートというものが存在するらしく。
勝手な道ですね。道なき道。
その道なき道を楽しむ人っていうのがいて、その人と一回バリ・サンコウをやってみて、
主人公もそこにはまってしまって、そこに生きることを見出したみたいな感じのまとめ方ができるというのか。
山、道なき道を歩んでいくってことと、人生を道なき道として歩んでいくことの交往みたいなのが作品の中心的なテーマ。
ただ自分はそういうのが全然なかったから、あれかな、どっちとも言ったら間違えてしまうような気がする。
じゃあこれはまあ僕もちょっと読んであたすしかないですね。一応気にはなってたんですけどまだ読んでないですね。
最初の方に一応ギャグとして出てきて、ドイツではゲーってっていうのが国を代表する最も有名な文学家、
フランスのシェイクスピアみたいなイメージなのかな、フランスじゃないね、あのイギリスの。
っていうイメージみたいなので、その主人公、ゲーって第一人者の大学時代の友達が、
全部ゲーってはこう言ったって言うと面白いぞっていうので盛り上がっていた。
なるほど。
どんなことでもゲーってはこう言ったって言えば面白いっていうことを知って、
そのいわゆるルームメイトとは仲良しだったんだけど、ドイツ人にこのギャグを言っても全然通じんくって、みたいなところまで読んだ。
まあでもそれ自身もちょっと実は社会主義的なことがあるよね。
このタイムラインとかで並んでいる名言ってだいたい結構な頻度で嘘らしいんやけど、そんなこと言ってないっていうことがある。
熱像みたいな感じですよね。
ゲーってやったらそれ言ってそうやなっていう受け取り方で名言が成立してしまうという状況に対するちょっとした悲鳴にも聞こえるけど。
おそらくだから賞を取れたんだと思う。
確かに。
ただそのピントコンかったかなって自分の場合はそこは。
なるほど。
なかなかおそらく一番文学的に高度な話だった。自分の観点で言うと。
そういう感じはする。
っていう意味である意味その一番すごい奴という言い方もできるかもしれないので。
自信がある方は読んで素直に楽しめるかどうかっていうのは逆にちょっと聞いてみたい。
純文学は本当に人を選ぶからね、エンタメと違って。
エンタメよりも。
合う合わないは多分結構出てくるから読むしかないし、中編とか短編なら結構簡単に読めるんで。
いろいろトライアンドエラーしやすいですね。
そうですね。自分は目標としては2020年以降ぐらいの芥川賞は全部読んでみようかなと思っていて。
一応なので最後まで目を通したという自己満足だけは突破しておこうかなと思っています。
なるほど。
あと古いやつもやっぱねちょっとタイトル的にこれは辛いだろうなっていう感じはした。
60年前とか70年前とか。
それはだって現代的なものを扱っている以上古いやつは古い時代の現代的なものを扱っているからそこまで読むバリューが高いかどうかはちょっと僕もわかりませんね。
やっぱり平成とかの話でも辛くて、2020年以降とか令和時代ぐらいの感覚までが現代でリアルタイムに読む価値がある限界なんじゃないのかなという印象はあるかな。
当然文学的価値って一旦別にして、現代でそこまで本をたくさん読んでない人が楽しめるということを考えたときにピンとくるキーワードとか舞台設定の方が当然いいわけで。
そういう意味でここ5年ぐらいの芥川賞を読む方がヒットする確率は高いかなとは思いますけどね。
たぶんですね、どこの地域の図書館でも芥川賞の本ならどんなちっちゃくてもたぶんあるはずで。
誰でも無料で挑戦できる。
確かに。
芸手は全てを言ったを果たして聞いてくださった方が面白いと思うのか。逆に3章後の49日は俺はクッソ面白いと思ったけど。
これやっぱりタイトル聞いただけでは。
それはね、わかるね。このタイトルでは全部そうなんだけど。ほぼ全部そうなんだけど。
俺は東京と道場とはもうタイトルだけで読んだけど。
自分で言うとデートピアはしさ深い感じがして、たぶんあれだろうな、ディストピアと賭けていて、さらにっていう想像ができて。
で、他は自分の場合はやっぱり賞を取ってなかったら選ばんだろうなって。
うん、特においしいご飯が好きよりは普通にエッセイ集だと思うしね、タイトルからして。
これちなみに3章後通り同じくらいおすすめですよ。
自分の気に入った度で言うと。おすすめというかあれかな、気に入った度合いというのかな。
なんなら3章後より読みやすくって素晴らしいんじゃないかと思う。
はい。
っていう感じですかね。
なるほど。
はい、ということで。前回は推理小説がメモを書くために面白いんじゃないのかみたいな話だったんですが、今回は章に頼っとくと、何て言うんだろう、やっぱ何を選ぶかがそもそも難しいじゃないですか。
そうよね。
自分は基本的に権威とかは好きではないんだけれども、少なくとも読書に関して素人だという自覚があって、まだ自分の好みすらよくわかっていない。
そういう段階で、やっぱこういう権威に頼っておくのは一定程度便利で都合がいい手法として万人に通用するのではないのかなと。
その上で同じ著者のものとかを追っかけていったりとか、そういうことができれば本の読み方も広がっていくだろうし。
逆に例えば東京都同情党が風光らしいとかって聞いて、じゃあ風光ってわからんけどなんかちょっと読んでみようかなみたいなことができるようになったら、本がもう一段階楽しめるようになるのではないかなと思います。
そうですね。
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