1. ブックカタリスト
  2. BC080『観光客の哲学』と『哲..

2024年一発目の配信です(収録は去年行われました)。

今回は倉下が『ゲンロン0 観光客の哲学』『哲学の門前』の二冊を取り上げ、それぞれのエッセンスを通して「本を読むこと」について考えるという構成になっております。

最初に結論を述べておくと、専門家ではない僕たちは自らの興味に沿って、なかば偶発的に本を読んでいけばいいんじゃね、という話です。

配信に使用したメモは以下のページからご覧いただけます。

◇ブックカタリストBC080用メモ - 倉下忠憲の発想工房

観光客の哲学

観光客とは何か、あるいは観光客の哲学とは何か、というのは本編で扱っているのでそちらをお聞き頂くとして、やはり重要なのは人間は「動物的」なものと「人間的」なものの二層でできているという視点でしょう。そうした二層構造は、去年の『ふつうの相談』でも触れた二極の話にも通じます。

で、私たち市民が本を読む理由は、学問的探求心という「立派/真面目/理性的」なものばかりでなく、流行っているからとか、有名人が言及していたからとか、たまたま自分の生活に関係する話題だったからとか、賢そうに見られたいという知的な背伸びだったりとか、そういう「卑近/ふまじめ/偶然的」なものだったりするわけです。

現代の思想や哲学が、「卑近/ふまじめ/偶然的」なものをうまく扱えてこなかったのと同じように、「真面目な読書術」でも、そうしたふまじめな読書はあたかも存在しない、あるいはあってはならないことだと扱われていたのではないでしょうか。教養的読書の強要。

でも、別にそういうふまじめな読書でいいのだと思います。観光客的に、物見遊山的にアカデミックの知見に触れてみる。そうして日常生活に帰っていく。たぶん、それだけでのことでも変わる風景があるでしょう。自分の知識が増えるといったことだけでなく、その分野への"親近感"が変わってくるなんてこともありそうです。

そのようなカジュアルな親しみ方が許容されたとき、本を読むことははじめて市民に開かれたものになるはずです。

哲学の門前

入門/門前の構図も同じです。

私たちは、日常生活の中で(あるいはそこで生じる苦難との遭遇において)哲学的・文学的な問いに直面することがあります。その意味で、私たちは誰しもが潜在的に哲学者です。いろいろ考えて、自分なりの意見を持つこともあるでしょう。門前の哲学者です。

一方で、その気概から「哲学入門」などを手に取ってみると、物の見事に弾き返されます。私は大学生のときに、ヘーゲル の『哲学入門』を手に取ったことがあるのですが、ページの始まりから終わりまでずっと「この人はいったい何を言っているのだろうか」という気分になっていました。

でもまあ、そんなものです。別にそれでいいのです。

そうやってやっぱり無理だと思って引き返し、しばらくしたらまた挑戦する。そんな感じで前に進んでいるのかどうかすらわからないままに、その対象と関係を結んでいく。いつまでたっても入門できたような気すらしない。そんなあやふやな関係があっても市民的な生活において困ることはありません。非常に不真面目な態度でありながら、その裏返しとしての粘り強さがあります。

たぶんここでのポイントは、「いつまでたってもわかった気がしない」という入門以前の気概が維持されていることでしょう。もし、「わかった」つもりになってしまえば、その人は容易に知識の穴にはまりこみます。そんなに簡単にわかるわけはないので、何かを勘違いしているのに、そのことに気がついていないのです(ちなみに、陰謀論に嵌まっている人は皆"真実"を確信している節がありますね)。

観光客に引きつけて言えば、観光客はその距離感を持って維持されている状態が大切で、あたかも「ウチ」にいると勘違いしてしまうと、そこに生まれたはずの力学が消えてしまうのでしょう。門外漢(ここでも門が出てきますね)のマインドセットをキープしておくこと。たぶんそれがポイントです。

というわけで皆さんも、自分の専門ではない分野の本を、観光客として(あるいは門前の小僧として)読んでいこうではありませんか。



This is a public episode. If you’d like to discuss this with other subscribers or get access to bonus episodes, visit bookcatalyst.substack.com/subscribe

サマリー

本日のポッドキャストでは、観光客の哲学と哲学の門前から読書について考えられています。観光に関しては、観光客の在り方やグローバリズムにも触れられ、読書と絡めながら話が進められています。この本は、新しい哲学書が出るたびに、哲学者が出るたびに背景の説明をちゃんと入れているので、哲学者の名前がわからなくても、ゆっくり読んでいける本になっていると思いますが、ゴリゴさんはいかがでしょうか。苦労すると思いますね。このエピソードでは、『観光客の哲学』と『哲学の門前』という書籍を通じて、読書について考える機会が提供されています。ヘーゲル的な人間感や動物概念、消費という概念にも触れられ、哲学の視点から観光客の存在が検討されています。スケールフリーのネットワークとスモールワールドの性質によって、ネットワークの形が変化し不平等が生まれるが、性を導入することで変化が生じる可能性があり、それを生活の中に取り入れることができるかもしれません。「観光客の哲学」と「哲学の門前」についての読書について考察された本で、門前の小僧と一緒に読書する市民的な哲学的な活動が提唱されています。読書についての考え方や新しい本の読み方について話し合われています。

観光についての哲学的考察
面白かった本について語るポッドキャスト、ブックカタリスト。第80回の本日は、観光客の哲学と哲学の門前から考える読書について。
はい、よろしくお願いします。
はい、お願いします。
新年一発目の配信ということで。
そうですね、明けましておめでとうございます。嘘ですけど。
そういう体で進みますけども。本の紹介とともに、改めて本を読むこと、読書について考える回にできたらなということで、2冊の本を取り上げながら、読書について考えていこうという、ちょっと大きな野望の回でございます。
新年っぽい、ぽいということですね。
はい、そういう感じでいけたらなと思って。
で、取り上げる2冊の本は、タイトルコールでもありましたけども、観光客の哲学という本と、哲学の門前という本で、両方とも別に、今年というか、2024年の本ではないのですが、少し前の本ですが、読んでからちょっと、なんですかね、僕の中で読み終えた後、じわじわとこうしてくるものがあったので、今回、読書に絡めつつ、紹介しようかなというところです。
大雑把には、どっちも哲学の本という、まあ、
ニュアンスでいいんですかね。
そうですね、哲学については語っている本で、まあ、えーと、観光客の哲学は、いわゆる哲学書の棚に並んでいる本で、で、哲学の門前は、まあ、コーナーは哲学書ですけど、本としてはちょっとエッセイの、えー、趣が強い本かなということで、えーと、どちらの本も、えー、哲学的なことに興味がある方が、えー、読むと読みやすい形になっているんじゃないかなとは、ちょっと個人的に思います。
はい。
はい。
で、まあ、それぞれ、えーと、一冊ずつ本を取り上げて、最後にまとめて、まあ、その読書についてという、三部、なんか、三部立てでいきたいと思うんですが、まあ、一応本筋は、観光客の哲学という本を、えーと、まあ、メインに紹介したいんですが、本自体が2017年に、えーと、言論ゼロ、観光客の哲学という、まあ、ソフトカバーというか、ちょっとムック本みたいな感じで出たのがありまして、で、それが、去年の2013年、6月19日に出版されました。
で、それが、去年の2013年、6月19日に出版されました。
で、それが、去年の2013年、6月19日に、えーと、情報版として、単行本で出たということで、で、内容自体は、ほとんど、多分、変わってなくて、まあ、多分、その、前版か後半あたりに、多分、追記が入っているぐらいだとは思うんですけど、僕は、
おまけが、確か、一章足されたんじゃなかったかな。
で、僕自身も、その、言論ゼロの方を読んで、ちょっと、情報版を読んでないんですけど、多分、まあ、論詞自体は、まあ、変わってないんで、えーと、そちらで話を進めていきますけど、もし、今、読みたい場合は、そっちの情報版を探していただくのが良いかと思います。
で、えーと、出版は、えーと、株式会社言論ということで、これ、えーと、第、何かな、4回、4回で取り上げた言論戦記。
3、3年前。
はい。
言論戦記という本で紹介した、その株式会社言論で、その著者である、まあ、東さんの本ということで、まあ、結構、えーと、第1回の懐かしい、第4回の懐かしいテーマを、えー、繋がっているところでもあるんですけども、まあ、本、えー、気になる方は、まあ、004回を聞いていただければいいんですけども。
あの、出てきたテーマとか似たような話もあるんですが、えーと、まあ、この本の、えーと、構成的に1部と2部がありまして、で、1部が観光客の哲学、で、2部が家族の哲学となっておりまして、で、えーと、一応2つの話は、接続はしているんですが、今回は、その、一部の方、観光客の哲学の部分を、えーと、紹介しながら、観光客の哲学とは何ぞやっていうのを、まず、拾い上げてみたいと思います。
もう、それだけで、結構、難しい。
まあ、これは1時間で終わらない話ですよね。本気で語ろうと思ったら。
まあ、できれば、その、最後の話に繋げる部分だけでも、まあ、うまいこと、えー、取り上げられたなと思うんですけど、まあ、あの、紹介するにあたって、結局、そらでは無理だろうということで、えーと、まあ、3ページぐらい読書ノートをしっかりとったんですが、結構大きい話なんで、まあ、端折りちょっといきたいんですけど、まず、第1章で観光について、第1章で観光についてなんですけど、
えー、そもそもなぜ、えー、
アズマさんが、まあ、観光客の哲学を論じようと思っているのかという、まあ、えー、前振りというか、えー、前提みたいなのが確認されるのが、この章で。
いや、まあ、それ自身、もう、結構大きな話題がありまして、2017年は、このコロナ禍の前の段階で、世界は、まさに、まさに、観光に湧いていたというブームがあって、で、まあ、その観光について、えーと、まあ、あまりに論じられてない、その重要性の割には、まあ、論じられてないところがあるというのが、まず1点と、
あと、
その、この本の前に出てた、弱いつながりという本の中で、アズマさんが、えーと、観光客という在り方、哲学的な概念として、つまり、えーと、村人でも旅人でもない観光客という第三の在り方、
家でも外でもない、えー、在り方として、えー、観光客というのを提示したところ、結構反響があったと、まあ、これ重要な概念だろうというところで、まあ、観光に論じたいという、
というところがまず説明というか準備段階としてまず語られる
グローバリズムとの関連性
面白いのが観光って英語で言うとTourism
TourにISNつけたTourismなんですけど
これが結構近代の概念だという話があって
でも私考えたことがなかったんですけど
観光って結構近代的な概念なんですね
旅行客とか宗教の信仰とかで旅するっていうことはあっても
一般市民簡単に言うと大衆がただ観光の目的で
娯楽として旅行に行くということは
19世紀から邦画があって20世紀ぐらいに反乱さが開いて
21世紀になってはもう当たり前の状況になっていると
観光っていうのは可能になったのは結局
要するに産業革命と大衆化と消費主義社会っていうのが
定着化したその土壌が整わない限り
観光っていうのは始まらないし定着しない
だから観光っていう概念と大衆化あるいは消費社会っていうのは
切り離せないっていうところが結構この本の中心的な話題の一つですね
多分俺たちがイメージする現代社会というものが出来上がって
初めて観光というものが世の人々に概念として生まれてきた
そして生活に徐々に定着していった
というところで僕らにとってはほとんど当たり前のパッケージとコマンドの一つになっている
観光と大衆性が切り離せないっていうところと
観光のスタート地点がトマス・クックというヨーロッパとかで有名な人らしいんですが
こっち僕は全然知らないですけど
観光っていうものを商業化して入らそうとしたわけですけども
万博の人ですよね確か
万博もおそらくそうですけど啓蒙的なイメージがある
いわゆる大衆に新しい知識とか見方の変化を与えようというような意図もそこにはあったというところで
ちょっと本社のメッセージでも通定するんですけど
ただ旅行する消費するというだけではなくて
そこでなんかちょっとプラスアルファな変化を期待して始まった文化というか文化的な活動であるというところが歴史として紹介されますね
不必要性の視点と新たな考え方
その面白いのが大衆を
啓蒙しようとする運動が貴族にはあんまりよろしく思われてなかったというところも触れられてて
これはあんまり大きく取り上げられなかった
なんかちょっと面白い話だなというところはちょっと現代的なメッセージとしてもちょっと感じますね
これもまた後に出てくるかもしれない
もう一個この本が観光の哲学を通して考えたのがグローバリズムについて
基本的にグローバリズムって思想の中では嫌われているというか
あんまり良くないものとして
扱われているわけですけど
その見方ってどうやねんっていうことを
新しい見方
グローバリズムを単純に否定するわけではないんですが
単純にグローバリズムは悪だと言って知りづけているその
硬直的な思想について
ちょっと疑問を投げかけようとして
観光客というものの存在を通して考えようとしているというのが
さらに第一章で確認されるところです
観光の歴史と観光とは何?
何か?どういうものなのかみたいなのが一章ですかね
それとともになぜ著者が観光について考え
あるいは観光客の哲学を今この時期に
この時期というかこの時代に提案しようとしているのかという
準備段階が語られる
その準備段階として著者の東さんが目指しているのが
グローバリズムについて新しい考え方をしたいということと
もう一個がね
偶然性たまたまっていうもの
必要性と不必要性を対比したときに
不必要性っていうものの視点から考えようというところで
これも結構現代的な視点やなと思うんですけど
これも後々明かされるというか
実際言論戦記とか読んでると
ああああ合配ってことだねって
多分ここでピンとくると思うんですけど
基本的に必要性重要性あるいは真面目というものから
観点から語られるものから
ずれるものを何とか思想とか哲学に乗せたいという思いがある
あずまさんはあれですよね
全般的にやっぱその郵便の誤配みたいな話とか
この観光客の偶然とか
あと今の訂正可能性とかにしても
なんかそのもうちょっといい加減っていうか
悪い意味での真面目じゃない方がいいよねみたいなことを
なんかよく言ってるような印象がありますよね
それは多分ある種なんてかな
プラグマティックに考えるとそうなるんじゃないかなと個人的には思う
理念指導主義じゃなくて
現実にあるものを見た時にそういう考えになるし
これも多分後で出てくるけど
結局真面目さを重視すると
不真面目なものを排除することになるわけじゃないですか
これはもう必然的に
それは多分リベラルのあり方としては不徹底というか
リベラルが認める自由は認めるけど
リベラルが見てのめない自由は
一切来ないでくださいっていうのは
ある意味真のリベラルではないわけで
そこのリベラルの弱点というかねじれというか
それをどう解消するか考えた時に
東さんのような視点がおそらく必要になるんじゃないかな
やっぱあれなんですかね
株式会社言論を運営してみて社長業をやってみたとか
その辺もそういう懐の広さにつながってそうな印象がありますね
例えば現場でイベントをするとか
人を雇って仕事をしてもらうっていうのは
そういうものがないと多分成立しないんじゃないかな
理想通り理想のイベントを企画してもそんなうまくいかんっていうので
たまたまこういうのはうまくいったとか失敗したとか
あと失敗から学ぶみたいなのもたくさんやってそうですよね
そういう意味で自分の意図とか支配とかっていうものを超えるものを
いかに自分の中でやるかっていうのが
中に入れ込んでいくかっていうことを
多分現場を通して考えてこられたし
実践もされてこられた人の哲学なんだろうなというところですね
第2章政治とその外部という話がありまして
ここからこの2章と3章が結構難しいんですよ
難しいというか本格的な哲学の話になってるんで
ある程度哲学を読まないとわからないところはあると思うんですけども
一応初心者でも読めるような体裁にはなっているというか
ここは塩梅が難しいんですけど
哲学の入門書っていうと
大体その例えば哲学史を扱う
そのギリシャ古代ギリシャにはこういう人がいたみたいな
その時系列でテーマを追っていくか
著者の哲学を専門家に向けて論じる本
いわゆる哲学専門書みたいなこの2つが多いと思うんですけど
この本は
哲学を著者の哲学を論じてるけど
その宛先はできるだけ一般読者になっているという
結構バランスの難しい本で
例えば専門的な哲学書の場合って
アレントがこう論じてたっていう文があったとするじゃないですか
じゃあもうそこで終わりますよね
でもアレントはこういう哲学者でこういうことを論じてたって
背景は普通専門家の向けの論文では書かないですよ
そんなものはもう一般常識なわけ
一般というか専門常識なわけですから
哲学書の読みやすさ
この本は一応そういう新しい哲学書が出るたびに
哲学者が出るたびにちょこちょこちゃんと背景の説明を入れてるんで
あの哲学者の名前とか全然わからんという人でも
一応ゆっくり読めばついていける本になってると僕は思うんですけど
ゴリゴさんはどうですかね
あのえっとめっちゃ苦労すると思います
知らずにいきなり読んだら
なるほど
えっとなんて言うんだろうな
不可能だとは言わないしめちゃめちゃ読みやすいけど
あのえっとめっちゃ苦労すると思います
えっとなんかねわかったつもりになるまでだったら簡単な気がする
なるほどね
まあそこらへんだからまあわかったつもりに
その著者がこっちのことを無視して
全くその先に進んでる感じはなくて
一応先導はしてくれてるけど
でもまあ十分追いつけてるとはまあわからんぐらいの距離感で読んでいける本になっている
これ結構でもやっぱり哲学書を読んでてもね
これぐらいの難易度って珍しいか
あまり見かけない気がしますね
そうですね
そうですねあとねやっぱねなんか
あずまさんの印象なんですけど
えっとね日本語が異常に読みやすい
確かにわかる
そのうまく言えない哲学が簡単とは言わないんだけど
日本語が異常に読みやすいから
えっと頑張る気になれる
変な変な比喩とか変なひねったロジックとか
怪獣な文章みたいなのはないね
そうですね限りなくその語りかけているような口調というのかな
それはまあもちろん彼がその問題好きなのか
意図的にこういう本のためにしているのかわからないですけど
だからあのとんでもなく難しくて
そのもう2ページ読んだら放り投げるみたいな難しさはなくて
でも十分難しいことが書かれているというバランスの本
少なくともねさらっと1回読んでわかったにはね
俺は全くならなかったですね
でも一応途中でやることはなかったでしょ
頑張って2回読んでそれなりにわかったと思えるぐらいまで来たっていう感じ
なるほど
でまあ多分ねその2章と3章がともその一番
この一部の中では一番難しいところで
で結局いくつかの哲学者のテキストを読解というか解釈しながら
自分の主張に補強できるような論章とかを取り上げる構成になって
で第2章がその政治とその外部なんですけど
いろんな哲学者とか思想が出てくるんですが
結局この章で言いたい
最初に言いたいのはそのこれまでの現代思想
現代的な思想というのが
その不真面目さとか偶然性みたいなものを
ほとんど論じられてこなかったし
なぜ論じられてこなかったのかっていうような
その思想の弱点視覚っていうのかな
見えてなかったところがどこだったんだろうかというのを
確認していこうという章なんですけど
これも一人一人紹介していくとめちゃくちゃ長いんで
まずボルテールさんという方が出てくると
でボルテールさんという方が出てくると
ボルテールと旅
ボルテールさんの作品において
旅かな旅っていうものが一つのテーマで
主人公は今いろんな場所を旅して
世界がこの世界がいかに間違いで溢れているかを
確認するという話で
これも有名な小説なんですけど
神の最高勢を信じる人っていうのは
全て起きていることは正しいという考えを持つわけですね
どんなに世界が貧困で満ち溢れているか
自分が困難な状況にあろうが
それは起きていることは全て正しいんだという姿を
描写すると
別に小説なんで
そのことが善か悪かっていうことは
別に論じられてるわけじゃなくて
それを読んだ読者が
どう考えるかっていうところで閉じられてるんですけど
でもちょっと変だよねっていう
その世界には正しいことじゃないこと
あるいは自分が正しいと思っていること以外のことも
起きているっていうことを確認することを
描写しているみたいなことがボルテールさん
めっちゃあれですよね
西洋的な考えの極みみたいな感じっていうか
そうですね
神が作ったこの世界なんだから
神が間違えるはずがない
だから何が起ころうが
それは全部神の考えたことで
間違っていることなんて何一つないみたいな
ちょっと強めの言い方ですけど
そういうニュアンスの人ですよね
そういうニュアンスを
そういう考えを持った人を描写している
それを読者が見てどう思うかはまずわからない
っていうところはありますけど
次がカントですね
カント
取り上げられるのは批判参照じゃなくて
永遠平和のためにというもので
カントさんが永遠の平和を
一時的な休戦状態じゃなくて
恒久的な平和っていうのを実現するために
どんな要素が必要なのかっていうのを論考した論文で
そこに3つの条件が掲げられていて
1つが各国家における市民的体制は
共和的であるということ
難しい表現ですが
その国は共和制で運営されていること
国際法は自由な諸国家の連合制度に基礎を置くべき
っていうのも日本語にするとややこしいですけど
つまり国際連合的な国連的なものが
国際法っていうのを作ろうという
この2つに加えて
3つ目
世界市民法は普遍的な有効をもたらす
諸条件に制限されねばならないというので
日本語を聞いてるだけでは
全くわからないですけど
ここで東さんはこれを
各国の市民が他の国に訪問できる権利を持つべきだというふうに解釈してて
そこが観光論と観光の哲学とつながるんですけど
僕が他の国に行って
そこの国のことを見て回る権利がないといけないんじゃないかということを
関東が言っていると東さんが解釈してるってことですね
難しいのでもう1回
はい
まず
僕がいろんな国に訪問するなしは
別の国の人が
僕の国にやってくる権利っていうのが
保証されていないと
永久的な平和がやってこないと
関東が言っていると
東さんは思っている
結局
世界市民法は普遍的な有効をもたらす
諸条件に制限されねばならないという
文章が
この文章をどう解釈するかは
多分人によって違う
学者さんによって違うので
全然違う解釈もあるでしょうけど
カントと永遠平和
東さんはそのように解釈して
それで自分の観光論に
哲学しているということですね
めっちゃあれですよね
関東がこうやって言ってて
これはきっと観光客が大事だよっていう風に言えるよね
っていう裏付け的なところで
こういう話が持ってこられてるってことですよね
違う解釈もあるでしょうし
それが正しいかどうかは別として
でもちゃんとそういうのがあるときに
その読みを成立されている論拠も書かれているので
そこはあと本を読んでもらったらいいんですけど
ポイントは
有効っていう
人間の感情的な感覚ですよね
が重要だと
関東が言っているという点は
おそらくどの解釈でも
共通してると思うんですけど
結構これは
実感的にもそうなんですけど
全然知らない
国が
例えば戦争に巻き込まれたりしても
そこまで
僕たちは何も覚えませんが
例えばすごく友達が多い国と
例えば日本がありえないですけど
日本が戦争するってなったら
ちょっと多分嫌な感じがすると思うんですよね
それは世界平和を実現しようっていうような
大きなビジョンじゃなくて
ただ知り合いの人が
傷ついたら嫌だなみたいな
非常に身近な
非近な感情から来ている
願いではありますけど
でもそう思う国人が
例えば8割以上いたら
やっぱりそういう行動は
取りづらくなるみたいな
結構このリアルティックに考えると
そういう風になるんじゃないかなと
僕もこれ読み流れだと思ってましたね
これねめっちゃもっと
観光のまさに身近な話題で言うと
あのね
1回でも行ったことがある国はね
愛着を持つんですよね
それは日本国内の
都道府県レベルでもやっぱり
同じようなことが言えて
行ったことがある県であれば
やっぱそこでの
何か出来事事件みたいなのが
あると
見たことも
言ったことがない県に比べて
やっぱ明らかに距離感が
変わってくるという実感はある
それはでも結構
重要な体験でしょうし
だからその間といわく
国の制度が
共和的で国際法が
あるだけではダメで
個々の市民が
それぞれの国に有効を持てるような
所条件をちゃんと
キープしておかなければならないと
言っているという見方
でその慣行の重要性が
再確認されるというところで
これがカントさん
やっぱ重要なのはカールシュミットなんですけど
カールシュミットってのは政治を論じた人なんですけど
政治っていうのは基本的に
敵と味方
友と敵っていう
友と敵っていうのを
区分して
友味方のためであれば敵を殲滅することを
厭わない選択を
する行為である
その行為においては
例えば美的な感覚とか
経済的な所条件とか
得する損する
みたいなのは一切考慮しないものであると
政治っていうのは
ただ味方を守り
敵を殲滅するためのものであるという
かなり
尖った政治論を
提唱されて
その考えが
いわゆる危ない政治にも引用されたということで
現代的には
どういう風に扱われているのか
僕は分からないですけど
危ない思想であるけど
それが現実であろうというところが
確認されますね
だから政治によって僕たちは
ある種味方という感覚
共同体っていうのを作るんじゃないかと
バッシュミットさんは言ってた
政治をやっていくためには
判断基準が
友と敵が
なんか最強の判断基準だと
言っているって
言っているっていう風に
俺は思っていたんですけど
いやだから政治というものが
敵味方を
つくっているという風に思っていたんですけど
作る
両方起こっている
美術の価値観は
美しいか美しくないか
というものを
判断の基準とし
あと何だったっけ
経済は多分
得する損する
経済の観点で言えば価値観というものは
得するか損するか
ということが判断の基準になり
政治での
判断の基準というのは
友達なのか仲間なのか
敵だけなのかそこだけを
何て言うんだろう
価値基準において
判断を下す時の
最強の価値基準は
それだっていう風に
カールシュミットさんは
考えたっていう風に
アズマさんは言っているっていう風に
俺は解釈していたんですけど
政治というものが僕は
敵と味方をむしろ作り出す
規範になっていると僕は読んだが
そこはどっちでもいいですが
まあ政治というものが
政治というものが敵と味方を
作るものであり
それが僕らの
家族とかっていうグループじゃなくて
ある種の共同体を作る
その石杖になっている
あるいはその
元となっている行為であるというところが
確認されて
そのシュミットさんとヘーゲルさんが
繋がる
ヘーゲルは多分僕が出したらあんまり出てこなかったかな
ヘーゲル的人間感と観光客
この人ね真面目の塊っていうイメージで
俺あんま好きじゃないんですよね
まさに
まさにそういうことが
申し上げてるんですけど
人間がどのようにして市民
ないしはもっと言うとざっくりと大人になるか
みたいな話で
最終的に人が
ちゃんとした人間になるためには
国家の精神を
身に宿さなければならないみたいなことを
言っておられて
ちゃんとした大人は社会に
順応するみたいなことを
そういうイメージがすげえある
いうことで
ヘーゲル的人間感っていうこと
そのヘーゲル的人間感
からするともう観光客みたいな
ちょっと寄ってすぐ帰っていくだけのような存在ってのは
もうチャランポラの極まりでしかないと
結局だからそういう観光客的存在っていうのは
思想とか哲学の視野からずっと阻害されてきたっていう
このヘーゲルもかなり長く論じられてるんで
今めっちゃざっくり言いましたけど
そんな風にあんまり真面目じゃない人間っていうのが
省かれてきたというところ
合わせて
あと
えーとね
動物という概念と
あと消費っていう概念も
合わせて紹介されてて
ここも長いからちょっと端折りますけども
動物的であるっていう言い方をすると
非常に結局
人間的ではないっていうことですね
人間的ではない
理性的、理智的ではないものとして
論じられますし
あと
アーレントも
消費っていう行為を
結構下に見ていたと
で結局
観光客っていうのは
消費
消費しに行くための行動であって
何も
いわゆる影響に残るものとかを
作ってるわけでもないし
政治活動に参加してるわけでもないですから
アーレントから見たら
観光客って人間の条件を満たしていない存在
ということになるわけですね
あの
こう
例えばアーレントの本とかを読んでると
なんかうんそうだなっていう気はするんですね
読んでて
なんかそうだ人間にとってこれは大切なことだ
っていう風に思うんですけど
でも
結局その
彼女の視点が
取りこぼしているものが
いっぱいあるわけですね
現実の中で読めたとき
例えば観光客っていうのはまさにそれで
その
アーレントからしたら観光客っていうのは
多分
不必要なことをしている人たちですし
人間的な条件を満たしているわけでもない
でも現実の僕たちはグローバリズムの中で
すごく大量に消費していますし
観光にも行っている
あるいは観光的なことをしている
ここの差を
そのどうにかしたい
これまでの哲学とか思想が語ってこなかった
その
その
,不真面目なもの
消費的なもの
あるいは
娯楽的なものっていうのを
どうにかして視野に入れていこうじゃないか
っていうことが大切だよねっていうのが
第2章
長々と紹介してきた中で
消費とアーレントの視点
論じられてる本で
ここはね結構難しかったですね
まああれですよね
いろんな哲学者が出てきて
観光客という概念を
この人はこんな風に考えてて
この人はこんな風に考えてて
大抵の哲学者は観光客なんてもんは
あの良くないものだダメだって言ってるよね
でもそうじゃないよねっていう話に
持って行きたいというような流れですよね
うん観光客とあるいは
それはえーと
こっこっんそのこっそのヘーゲル的な
完成された人間像っていうものから
は外れているものとかを
何とか使えるようにしたいということが
まあ確認されで
第3章がえっと二層構造というとこで
これ結構ね僕読んでて
面白い章なんだけど
ネグリとハートという人の帝国という本が
本というかな本か本が紹介されてまして
でえーとこれまでのこれまでつまり
えーとそのいわゆるそのグローバリズムがやってくる
前っていうのは国民国家のえー世界だったのが
今はもう帝国というかつまり巨大な
えー一つの大きな主体に世界が支配されている
というとちょっと陰謀論っぽく聞こえますけど
いうような世界になってくるっていうことを
論じた本でして
まあ
当時で言うと
まあ当然覇権国家はアメリカだったわけですけど
もう現代ではもっと
例えばえー今は僕はグーグル帝国に
インターネットが支配されているという言い方も
できると思いますけど
いろんな形のその一極支配っていうのが
えー出てきていると
でそのそういう状況をただ紹介しただけじゃなくて
そのいかに反抗
そういう状況に反抗できるのかっていうので
まあマルチチュードっていう
これはまあ大衆とかっていう意味があるらしいけど
大衆っていうものが
まああり得ると
しかもそれはえー
帝国的なものから内部的に生まれてくるという話が
まあ確認される
でえーと
それはそれで非常に有用な概念なんだけど
結構まずあずまさん曰く
そのざっくりしてるというか
じゃあ具体的にどうなん
どうしたらいいのか
どうしたらえー
例えば現実的なその政治とかに
変化を与えられるかっていうとこまでは
論じられてないし
論じられてないというか
むしろその
彼らの考えで言うと
そこが空白になるのは
ほとんど必然であるというところが
えーと哲学的に確認されます
2章は観光客の話で
3章はえーと
国家が
うん
なんて言ったらいいんだろう
国家というのはどういうものかみたいな話っていうイメージなのかな
あーそうかな
でそこにその
抵抗勢力みたいなのが
いて
それがそのマルチチュードみたいなやつなんだけど
その
ネットワーク理論と二層構造
そういう概念考えた哲学者さんがいるんだけど
なんか
言葉言ってるだけで
何も中身ねえんじゃねえみたいな
っていうことがまあざっくり言われるとこ
その将来の二層構造っていうのが
えーさっき
最初に言ったのは
グローバリズムと国民国家っていう体制で
現代で言うと
ナショナリズムとグローバリズムが
えーと
2つに挙げられるんですけど
あのー
著者の
言いたかった
著者がつまり
東さんが見ているのは
えー
えー
えー
ナショナリズムから
終わって
グローバリズムに移行するという
見方ではなくて
むしろ
二層構造になっているんだと
下の方の構造
もう株構造って言うと
またややこしい話になりますけど
えー
グローバリズム
経済が
支配している
僕らはもう
他の国と
経済活動を
やり取りすることなく
僕らの生活内緒は欲望を満たすことは
もうできなくなった
一方で
国の政治を見ると
非常に
非常にナショナリズムが
高まっている
この
経済と政治が
それぞれ違う
ことわりかな
ことわりで
成り立っている
この
二つの層があるということを
そのマルチキュードっていう概念から
引き出している
でも
マルチキュードという概念だけでは
十分ではない
じゃあどうするかというとこが
第四章
えー
第四章が
郵便的
マルチキュードという概念で
ここは
どうかな
郵便的という概念が
どこまで
わかりやすいか
どうかというところに
なるんですけどね
ちなみに
ゴルゴさんは
どうですかね
この四章の
郵便的っていうところ
四章は
まずですね
ここに書いてあった
複雑系とか
グラフ理論の話が
非常に面白くて
そこを熱中して
今読んでいるところで
この四章の中身自体は
まだちゃんと脳内で
整理できていない
というイメージ
郵便的は
僕は
存在論的
郵便的を
読んでるんで
郵便的マルチキュードが
観光客的だ
という話で
単一の
つまり
ナショナリズムから
グローバリズムに
移行する
っていうことを
規定するんじゃなくて
二つの層があり
その二つの層を
行き来する存在が
郵便的マルチキュードであり
観光客である
というところが
この章で
先ゴルゴさんも
言われたように
そういう
理念的
概念的なものを
紹介しつつ
中盤からにかけては
ネットワーク理論が
提示する
ネットワークの構造と
さっき言った
二層構造っていうのが
対応していると
対応しているであろうと
確認されて
だからこれは
実態のない話じゃなくて
現実的な話
っていうところが
説得されると
ネットワークの話は
非常に面白いんですけど
スモールワールドネットワークと
スケールフリーネットワーク
っていうのが
出てきまして
スモールワールドネットワークと
スモールワールドネットワーク
っていうのは
いわゆる
五次の隔たり
というやつですね
だいたい
友達の友達は
みんな
友達みたいな
5人ぐらい
パスしたら
だいたい
世界中の
誰かとも
繋がれるというぐらい
狭いネットワークの中で
生きているというのが
スモールワールドで
スケールフリーっていうのは
いろんな説明し方があるが
ある
むちゃくちゃ
スケールフリーっていうのは
ネットワークの中で
一つ
あんまり繋がりを持ってない
ノードっていうタイプしか
あんまり繋がりを持ってない人と
すげえ繋がりを持っている人がいて
でもそのすげえ繋がりを持っている人よりも
さらにすげえ繋がりを持っている人がいて
そのさらにすげえ繋がりを持っている人よりも
さらにすげえ物語を
繋がりを持っている人が
非常段階的に
つまりフラクタルに存在している
どこまでも大きくなれるような構造を
持っているというのが
スケールフリーで
インターネットでよく見かける風景というか
インターネットの特に
リンクの強さみたいなのは
まさにスケールフリーになっているという感じで
あとあれですね
よく言われるのが
ロングテールというのが
スケールフリーの
べき分布だっていうやつで
そうですね
べき分布じゃなくて
べき乗分布になっているっていうのも
これもネットワーク理論の話をすると
よく出てくるんですが
歴史はべき乗則で動くっていう本が
多分すごく面白い
この本でも出てきたな
面白いんで
早川で出てた
面白い説明されてるんですけど
とりあえずその2種類の
ネットワークの性質があって
1つのネットワークが
僕らにとってその2つに見える
スケールフリーのネットワークとスモールワールド
ある時は1つAに見えるけど
別の時はBにも見えるような状況ではないか
つまり
スケールフリーのネットワークというものがあり
スモールワールドというネットワークがあって
それが別に存在しているということじゃなくて
僕らが向かい合っているこの世界は
両方の性質を備えていて
僕らが向かい合う時に
どのように感じるのかが変わるだけではないか
っていう
ところがこの章の
非常に魅力で
問題は
スケールフリーのネットワークはどうしても
不平等を生んでしまう
何せごく少数の人たちが
ごく大量のものを持つわけですから
ある程度それは仕方がないことなんですけども
それが結局グローバリズムが
持つ問題にもなっているわけですね
結局僕ら
グローバリズムプラス資本主義が持つ問題なのかな
結局は
そのようなスケールフリーのネットワークが
なぜ生まれるのかを
論理的なモデルで
示したのが
成長と優先的選択
やったかな
新しいノードが入ってきて
そのノードが
どのノードと繋がろうかって
考えた時に
多く持っている人と繋がりたいよね
それはそうですよね
例えばパーティーに行った時に
一番友達の多い人に紹介されやすいですし
できればそういう人と友達になりたいみたいな構造が
どんどん続いていくと
先のような格差が
格差っていうか不平等か
非常に多くを持った人が一部生まれて
そうじゃない人がたくさん生まれるっていう構造になる
というところで
これは僕の考えですけど
資本主義の弊害としてですよ
弊害を抑えるために
脱成長って言うじゃないですか
脱成長って
でもこれ
ネットワーク理論を考えたら
脱成長じゃなくても良い可能性があるわけですよね
つまり
脱優先的選択っていうのもあるかもしれないですか
何かを増やして
増やすことをはやめずに
優先的選択っていうのを減らせば
もしかしたら不平等的なものって
減らせるんじゃないかなって
ちょっと僕は読みながら思いましたね
これは
本題とはちょっと関係ないですけど
このネットワークの
この2種類の性質化を見たときに
別に成長をやめなくてもいいんじゃないかなと
ちょっと思いましたね
この最近のマルクス主義に対する
ちょっと反論として思ったのは
そういうところなんですけど
俺ね
これを
この
観光客の方に
この哲学を読んでいて
この4章の
その
グラフ理論というか
この辺の話がね
超面白くって
そこから今
いろいろな本を読んでいる最中なんですけど
やっぱね
その
どうしてもそうなってしまうということが
分かってしまったというのが
非常に
なんていうんだろう
今のところどうにもならんのじゃないかみたいに
思えていて
さっきの
優先的選択っていう話も
あのね
ツイッターを想像すると
もうすっげえ想像しやすくって
初めてツイッターを
アカウントを作った場合に
友達が何々くんと
ラシタさんと
なんとかさんと
なんとかさんがいるから
その人はとりあえずフォローしといて
あずまさんとかいた
フォローしとこうとか
有名人の
芸能人の
なんとかがいた
とりあえずその辺フォローしとこうって言って
やっぱ10人フォローしたうちの
5人が友達でも
5人は超有名人になるんですよ
そういう性質が
人が選択するから今ネットワークは
そういうことになってるわけですね
構造的必然性が
そこにあるという言い方がいいかな
になってしまうのはこれはもうナチュラル
でもと
著者は考えるわけですね
優先的選択
っていうのはもちろん起こるけども
ネットワークを形成するときに
例えばすごい小さい
点が3つぐらいしか
繋がってないものが
それが
より大きくなっていくときに起こるのが
繋ぎ替えであると
元々繋がっているところを別のとこに
繋ぐことによってネットワークが少し
大きくなっていくと
これをこの繋ぎ替えが
偶然的なものに晒されたら
ネットワークの形が
変わっていくという
大きくは変わらないですけど少し変わるのではないかと
優先的選択が行われる
タイミングのところを
それを抑制して
偶然的な繋ぎ替えに
することで
ネットワークの形が少し変わるのではないか
という提案がなさるわけです
たまたま
たまたま性
友人をフォローするとか
著名人をフォローするというのは
たまたまじゃないじゃないですか
必然性ですよね
そうじゃない人をフォローする
本来ならフォローしている人を
たまたまフォローしないみたいなことによって
ネットワークが変えられるんじゃないか
という提案がなされる
そこを僕は
確認したかったですね
とりあえず
つまり
基本的に
僕らのネットワーク構造というのは
成長と優先的選択によって
形が変化して
大きくなっていくけども
結果的にスケールフリーな不平等が生まれてしまう
でもそこに
たまたま的なものを入れることによって
もしかしたら何か変わっていくかもしれない
実際にこの本は
こうしようと別に歌っているわけじゃなくて
こういう風に考えられるというところに留まっているので
どんな風に実践するのかというのは
人に任されている
そもそもノウハウじゃないから
僕はそんな風に
生活の中にたまたま性ある
どう考えても
これを選択した方が得だろうという場面において
たまたま性を導入していく
ということが
何か変化になるんじゃないかという風に
捉えたというところですね
これはあれですね
個人的にこれを見ていてやっぱ
面白いというか
まんま観光で当てはめて
綺麗に考えられるなって思って
さっきの
インスタの話なんかでも言うとですね
たまたま俺は
タイに行ったことがあって
タイの例えばなんとかジーン
みたいなところに行って
そういえばあそこ行ったかも
タイのなんとかジーンの公式アカウントとか
フォローしとこうみたいな感じとか
たまたま
タイに行ったときに
なんとかっていう食べ物が
美味しかったから
なんとかっていう食べ物について
詳しく語っている人について
フォローしてみようとか
そうやって見事に
たまたまを起こすきっかけに
観光というものが
ちゃんと作用してるなっていう感じは
したんですよね
現実的に観光っていうものを
もっと広く取ると
日常生活から出るってことですね
ある種のルーチン外のことをすることによって
たまたま性が引き出される
っていう風に
ちょっとライフハク的に
言えるかなとは思いますね
そうですね
俺ブックカタリストのオフ会に行って
たまたま時間が早くついて
暇だったからたまたま近所の
コーヒー屋さんに寄って
コーヒーが美味しいやつみたいなのに
出会えたみたいなことがあったりして
ひょっとしたらそこで
コーヒーにはまるかもしれない
みたいなことが起こりうる
結局
美味しいコーヒー
これからコーヒーにはまろうと思って
そうしたわけじゃないから誤配が起きてるわけですね
結局は
それはいつもと違う構造として
普段は行かない場所に
行かない理由で
行こうとしたから
起こったことですよね
だからもう生活
ルーチンっていうのは生活を成立させるために
必要な行為
でもそういう観光的なものは
基本的に不必要なもの
その不必要なものがたまたま西洋を連れてくる
っていう捉え方は
結構重要で
それがもちろんこの世界のネットワーク
そのものを大きくは変えたりはしないけど
もしかしたらちょっと変化があるかもしれない
そしてこのべき条則の
ネットワークの
面白いとこは
ちょっとした変化で大きな変化になりうる
ということなんよね
絶対に変わるとまでは言わんけど
ちょっとした変化
不平等の問題と脱優先的選択
結局AのものとBのものがヒットするの
Aのものがたまたまヒットするっていうのは
初期条件がちょっと違うだけ
っていうことがあったりするわけで
ちょっと違えるのをもし入れ込めるとしたら
大きな変化が起こる
かもしれないとは言える
絶対に起こるとは言えないけども
起こるかもしれないっていうことを
生活の中に入れていけるっていうのを
ちょっと考える
でしたね
そもそもスモールワールドっていうのが
基本的に例えば俺は
地元の小学校中学校の
友達しか友達がいないんだけど
たまたま
エヴァノートがきっかけになって
ラシタさんと知り合って
ネットワークがつながって
共通の友人みたいなものが
そこから偶然生まれていったりとか
インターネットのあれですよね
プラスの可能性としては
そういうたまたまが
十分に起こりうる
そうだよね
あと僕はちょっとこれ意識してることだけど
たまたま性の重要性と観光客の距離感
例えばゴリゴさんの
やっている
メールマガとかに
参加しないようにしてるんですね僕はあえて
そこで何を行われてるか知らない
状態を維持している
僕がゴリゴさんにとって
ある種の観光客で
ありたいから
結局ここでも一緒になって
他でも一緒になってってやってたら
そのうちになってしまいますよね
基本的にはずっとそれは多分面白くないだろうな
と思ってある程度
観光客的距離感を
維持しようとは思っているっていう
ある種の自分で実践してることとも
ちょっと重なるところありますね
そうですね
友人知人と100%趣味が
何もかも一致する人なんて
存在するはずはないし
そういう友人知人
しかいなければやはり
起こり得ないことが起こらない
だからその起こり得ないことを
いかにずらしていくか
ずらして起こしていくかっていうのを
考えていける
そういう風なことを考えていけると
ある種そういうコスパに
抵抗できる思想が
ここには語られているような気がしますね
やっぱそれですよね
効率とかコスパタイパというものを
いかに哲学的に
説得というか
論破していくか
論破になってしまうんだけど
そういう考え方じゃないものもあるよということを
示してくれるある種現代的な非常な
そういう面白い本で
取り上げる価値のある本だと思うんですけど
続きまして哲学の門前
こちらは吉川さん
PC20回
「観光客の哲学」と「哲学の門前」
これも結構初期のかな
理不尽な進化という本を書かれた
著者さんで
この本は科学とか
科学哲学の本ではなくて
哲学の入門書でもなくて
僕らの日常に起こる
ある種哲学的な疑問を
呼び起こすような出来事とか
それについてのエピソードとか
著者の考えとかが
語られているエッセイ
哲学的エッセイというのかな
読み物自体
この本は面白くて
今回紹介するような話とか
関係なく読んでもらったらいいと思うんですけど
面白いのはタイトルなんですね
哲学の門前っていう
一般的に
さあこれから
例えば哲学を学ぼうというと
入門書っていうのを読むわけですね
門に入るっていう
でもこの本がいいというのは
別に門入らなくてもいいんじゃないか
っていうことで
つまり日常的に
例えば
なぜ僕たちは生きているんだろうとか
人を愛するのはどういうことだろうっていう
哲学的文学的な
ことを考えてしまった瞬間に
もうあなたはもうちょっと
哲学の門の場合にいるよということなんですね
もうその段階で
そういう本をそのきっかけにして
そういう哲学書を読むのもよし
自分なりに考えるのもよしというような
ある種の気楽な付き合い方を
提唱している本なんですけど
後半に一番最後に
そうは言ってもと
この門前っていうのは
門前の小僧習わぬ教を読むというところから
来ているわけですけども
ある程度耳がく門というか
自分が
日常生活の中で生じる哲学に
触れるだけでもある種の哲学者
市民的哲学者と言えますが
そうじゃなくてでも興味を持って
じゃあ哲学入門みたいな
ラッセルの哲学入門みたいな本を
見つけたら読もうとして読んだら
当然読めないわけですね
本格的な哲学書って
さっき言ったように専門家に向けて
書かれているようなものなので
哲学者に向けて書かれるようなことが多いので
素人が一回読んだからはわからないと
ここでカフカの小説が紹介されてまして
カフカの日本語訳が
いろいろあるんですけど
起きての門前というので検索したら多分ね
青空文庫とか見つかるんですけど
結構奇妙なカフカらしい奇妙な
偶話である人が門の中に
入りたいと思っているけど目の前に門番が入って
入れないと
入れてくれと言うけども全然入れてくれない
男はずっと歳をとって最後死んでしまうと
最後に女の子とか死ぬ前に
どうして自分だけ
子供に入りたいと
言ったのは僕だけだったのかって聞いたら
この門はお前
お前のため
の門だったんだとだからお前が死ぬから
この門は閉めるぞって言って
物語が閉まるという話なんですけど
つまりこれはいろんな解釈はあるんですけど
何かに入門して
いくことの難しさを
語っている本だとしたら
僕らが例えば哲学っていうのを
勉強しようとしても結局その
門番に立ちふさがられて
先に進めないことっていっぱいあると思うんですね
例えばもう関東なんて多分
その最大の人であの人は
5,6回門にぶつかってもまだ
中入れた感じがしない人だと思うんですけど
でも著者は言わく結局
そういうの僕らは専門家でない以上
それはもう避けて通れないんだと
つまり門前の
小僧である程度気楽に付き合うのと
ちょっと本格的に
踏み出していこうと思ってその門に弾かれる
この往復
をしていくことっていうのが
僕らのその哲学的な
営みのあり方なんで
市民的な哲学のあり方なんではないか
というところで話が閉じられるんですけど
このあり方が
非常に面白いなと思って
しかもそれは哲学に限らないんじゃないかな
と思ったんですね
というのも僕らは例えば
テクノロジーとかに囲まれて
生活してるわけで
例えば日常的にテクノロジー的なものの
影響を常に受けてるわけですよね
だから別に知らなくてもいいですけど
えーと
インターネットってなんで繋がってんのって
ふと興味を持つことがあるかもしれないですか
でそれについて
例えば電波の本とかを読んでも
全然わからないわけじゃないですか
そこでまあ無理やなと思って
でもある時また
ふと興味を持って読んだらちょっと分かるけど
まあ分からないみたいな
結局分かると分からないを
常にこの振り幅の中で
生きながら僕たちは
生きていくし最終的に多分
何も分からないまま死んでいくんだろう
それは門の前で
門に入れた気持ちもなく死んでいくんだろうけど
でもまあそういうものではないか
そういう風に一回そういうものではないかと
思ってみると
これは結局結論についてなんですけど
本を読むこともそんなもんでいいんじゃないかなと
思うんですね
僕らは専門家になるために
本を読んでるわけじゃなくて
ある種もう自分自身の欲望とか
さっき言ったらたまたま出会った人とか
あるいはその人生で
遭遇した哲学的な問題とか
科学的な課題とかについて
ちょっと興味を持つ
でそれを読んだところでさっき言ったように
実理的なものは何もないと
必要か不必要かで言ったら不必要やと
でもそれを読んでみて
分からないなりに何か得たとしたら
さっき言ったその
本来の自分ならば
優先的に選択してたものではないものを
選択したことになるわけで
ネットワークが変わっていくことになるだろうと
だから市民としての読書っていうのは
もう身近な欲望から始めて
でたまたまでやった本とか
たまたま思いついたことに
ふらりとある種その
実理を求めずに読むということだけで
もう全然十分じゃないか
例えば本読んで全然分からなかったとか
頭が良くなった気がしないみたいなことは
実はもう大したことではなくて
普段読まなかっただろう本を
読んだ時点でもう僕らは
ミッションを達成してるんじゃないかと
どうせ門の中には入れないんだろう
入れないんだからというような
市民的哲学観っていうのを
この2冊から
引き出せるんじゃないかなというのが
今回の話の大きなテーマです
どっちも門前も観光客も
大きな意味でやっぱその
本格的に入り込まない
一個一歩外ぐらいの
立場から付き合うみたいな
ニュアンスですよね
だからその門前と観光客って多分
概念として非常に近いと
両者が別に意識して
あってるわけじゃないですけど
僕から理察の本を読んだ子からすると
これ同じこと言ってるなと思って
それはまさにそういうスタンス
市民がアカデミックとか
ある種の専門性的な知識と付き合う時に
あんなもんはダメだよっていう
その外でもなくて
でも学者の中に入り込むでもなくて
ある種観光客のような視点で
フラッと立ち寄って
それを帰ってくる
帰ってきた時に
それから自分が得たものを
自分の周りの人に言うと何か
そうすると本来
自分の周りにいた人は
おそらくあなたがそれを言わなければ
絶対知らなかったような知識に
触れるわけですね
それでまたちょっとネットワークが
変わっていくっていう風に
だからそれだけの小さなことだけでも
実は結構大きなことをやってる
特にルーチンの中で
普段見知ったことしか知らない
生活を送っていることに比べたら
自分が知っていることの外に出ること
例えばゴルフさんで言うと
音階の科学に触れることは
もう観光ですよねある種
だって科学者になるまでしてるわけじゃないですから
そういう観光をやって帰ってきたら
やっぱりちょっと世界は
自分の物の見方とか変わってるし
ある種のそこから誤配が起こることもあるということで
だからこの僕カタリストって別に
書評家になろうとしてるわけでもなく
科学者専門家にしてるようになろうとしてるわけじゃなくて
まさにこの観光客的読書を
ずっとしてきるんじゃないかなということが
ちょっと言えるんじゃないかと思った次第ですね
市民的哲学のあり方
そうですね別に俺たちは専門家
俺たちかわからんけど
俺は読書の専門家になりたいとは
全く思って
全く思ってだな思っていないし
なろうと思っていない以上のものは何もない
それでも本を読んでいる
たまたま興味を持ったものもあるだろうし
知的好奇心が初めから向けられているものもあるだろうし
ちょっと義務的に
たまたまですね
やらんといかんから読もうかっていう
もので読んでいくというような
成功法としての読書じゃない読書のあり方が
その意義が論理的とか哲学的に確認できる
この2冊じゃないかなと思いますね
読書の意義とネットワークの変化
あと全然関係なく普通に読んでも面白いですけど
読んだら読んだでこういう風なことを考えられる
コンでもありますね
そうですね同時にやっぱブックカタリストが
おそらくその関係ない本を紹介することが重要なんだろうなって思いますね
だからその人がおそらく普通に生活したのが知らなかった本とか
あるいは読もうと思ってたけどと思ってたような本とかを
例えば紹介して手に取るなり読んでもらったとしたら
何かその優先的選択の誤配が起こってるわけで
だからそれだけでも十分価値がありそうですね
そうですね期待
予測されていない本を読む
だから自分が読む
当人の知識の中で
いつも通りの選択から外れるようなことが起きたら
それで結構グッジョブっていう感じですね
そうするとそれを意識することで
俺たちもいつもとは違う本を読もうと思うことができて
やっぱやっている価値も出てくる
僕ら自身もルーチンから外れるし
聞いてる人もルーチンから外れていく
でなんか誤配性に晒されていく
でネットワークの形が変わっていく
いやだから実際例えば
この方に聞いて
例えば興味を持って
暇と退屈の倫理学という本を読んで
それ読んだことをツイートして
その人のフォロワーは
普段そういうことを読まない人だとしたら
新しいネットワークの電波が起きてるわけですから
こういう誤配性がどれだけ起きるかが
その社会の豊かさにつながるんじゃないか
っていうのはちょっと僕の考えですけど
いうようなことが思いますね
ネットワークを
そこにあるネットワークが
もうそうなっていくと
そういうのは仕方がないっていう
ある種進化論的な受け入れとはして
でも僕らは意思を持ってそれを変えることもできるし
微量だから
読書についての考え方
だからそこをですよね
出前性と意思的な偶然性っていうのを
の二層構造をどう行き来するかっていうとこ
じゃないですかねきっと
そんなとこですかね
はいちょうどあれですね
やっぱあの読書の
今年の読書の仕方を考えるっていう意味で
良い出だしな感じですね
そうですね
あんまりそのランキングばっかり追うとか
あるいは自分が常に読んでる本ばっかり読むんじゃなくて
今年はなんか10冊に1冊ぐらいは
たまたまな本を読んでみる
読んで何得するかわからんような本を読んでみるというのを
一つなんか習慣として入れてみると
良いんじゃないですかね
そうですね
思いつかない人はぜひ
音階と音率の科学とかを読んでもらうと
世界が広がって面白いんじゃないかな
俺数学に興味出る
そういう風に数学に興味出ると思わなかったら
やっぱり読書は誤配に満ちてるわけですね
そこからさらにシンセサイザーに興味を持つっていう
そういうこともあるんだなっていう
だからそうですね
ブルーバックスとか
特に普段あんまりそういうのに触れへん方は
ブルーバックスとかは良いでしょうね
人文系多いですからね
言ったらこっちで紹介しているのは
そうですね
理系の本はあんまり紹介してないんで
2人とも理系が得意やから
むしろ文系の本を紹介してるところはあるかもしれないな
そういうことは
世間一般よりは理系は得意かもしれない
大抵だから普段読まなく
でも文系の方が
おー面白いって思う確率が
新しい本の読み方
多分高いんだよねきっと
そうかもな
新鮮なんですね
多分自分にとっては
そういうことだと思うわ
そういう本を
専門領域の外にあるけど
ちょっと興味があるみたいな本を読むと
こんな本を読んで
どんな得するかって考えた時に
何も理由が浮かばなかったら
誤配があるんだっていう風に
自分なりに言い訳を設けると
まあよろしかろうという感じですね
うーんですね
はいということで
ブックカタリスト本音もよろしくお願いします
ぜひ面白いと思った人は
サポタープランというのもあるので
そちらもよろしくお願いします
はいよろしくお願いします
それでは今回もお聞きいただきありがとうございました
ありがとうございます
58:14

コメント

スクロール