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『積読こそが完全な読書術である』(永田希)

取り上げた本

今回は主題の本に加えて、本の中で紹介されている以下の4冊を挙げながら「本を読むこと」について二人で話をしてみました。

* 『本を読む本』

* 『読書について』

* 『読んでいない本について堂々と語る本』

あと、以下の二冊にも軽く触れております。

* 『知的生産の技術』

* 『独学大全』

完全な読書など存在しない

どうせなら本はちゃんと読みたい、という気持ちが私たちにはある。「真面目」に読書しようとすればするほどその気持ちは強まる。

しかし、「ちゃんと本を読む」とは具体的にどういうことだろうかと考えてみると、途端にあやふやゾーンに突入してしまう。ざっと速読することが「ちゃんとしていない」のはわかるにせよ、一字一句飛ばすことなく読み終えたらそれで「ちゃんとしている」と言えるのは心ともない。なんといっても、一ヶ月もすればその内容をすっかり忘れているかもしれないからだ。

本書は、その「ちゃんと本を読まなければ」という呪縛のような思い込みに反抗を企てる。ちゃんと本を読む必要はないし、なんならちゃんと読んでいない方がいいことすらある、と。積読バンザイ。

さまざまな読書法・読書術の書籍をひも解きながら、著者は積読の良さを組み立てていく。加えて、現代における積読の有用性をも指摘する。情報過多な時代だからこそ、本を積み上げろ、と。

ばかばかしいように聞こえるかもしれない。あるいは、一種の強がりのような響きもある。しかし、そこにはたしかに真実がある。何もしなくても情報が流れ込んでくる時代においては、自らの手で壁を作り上げる必要があるのだ。

村上春樹は、とあるスピーチで壁に挟まれた卵の話をした。そこでの壁は、巨大なシステムを表すものであった。当然それは、可能であれば打破されるべき存在である。しかし、私たちが作ろうとしている壁はそんなに強固な(あるいはソリッドな)ものではない。

本書では「ビオトープ的積読環境」という概念が提出されているが、私たちが作る壁/囲いは、強固なシステムというよりも、ところどころに穴の空いた、フラジャイルな存在である。風を通し、水が流れ、生き物が行き来する領域である。完全ではなく、不完全な領域。

それを「自分の手」で作ることが、肝要なのである。

なぜなら、自分の手で作ったものであれば、自分の手で作り替えていけるからだ。それはつまり──著者のもう一冊の言葉を借りれば──、その壁を「ブラックボックス」にはしない、ということである。手作りの壁。意志を持った壁作り。それこそが私たちを自由と不自由の狭間に導いてくれる。

ちゃんとしていなくてよい

「その本について何かを言うならば、ちゃんと読んでおきたい」という気持ちは真摯なものであり、また誠実さの一つの現れであろう。しかし、それがあまりにも強くなり、視野を狭めると困った事態になる。つまり、「ちゃんと」読んでいない人間は何一つ発言すべきではないし、「ちゃんと」読んだ自分は正しいことを言っている(そうでない意見は間違っている)、といった態度に陥ってしまうわけだ。

その上、あらゆる読書が不完全なものとなると、誰も本について言及できなくなる。はたしてそれは楽しい(あるいは豊かな)世界の在り方であろうか。

本についての「話題」が起こったとき、会話に参加しようとする人間を殺伐と疎外してしまうよりは、その話題が盛り上がるようにうまく立ち回るのが別の形での誠実さかもしれない。

さいごに

私自身は、なるべく頭から終わりまで、一字一句飛ばさず読書するタイプである。その本の著者が冒頭で好きな順番で読めばいいとか、これがわかっている人間は飛ばしてよいと書いてあってすら、極力まっすぐに(シーケンスに)読書をしていく。それはたぶん梅棹忠夫の姿勢に影響されているからだろう。著者は自分の言いたいことをうまく伝えるために、適切な順番を考えて文章を書いている。だから、読むほうもその「お膳立て」に乗っかっていく。そんな気分だ。

しかしながら、本の読み方は多様である。唯一の正解など存在しない。だからこそ、読書は面白いわけだ。

さて、皆さんは「本を読むこと」をどのように捉えているだろうか。どんな定義をあたえ、どんな分類をし、どんなノウハウをそこに充てるだろうか。よければお聞かせいただきたい。



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サマリー

ブックカタリストのポッドキャストでは、「つんどくこそが最強の、完全な読書術である。」という本について話しています。この本は、摘読についての論考と読書法を紹介し、積読の重要性やビオトープ的な積読環境について述べています。また、「読んでいない本について堂々と語る」という本は、読書の不完全性と本の位置づけについて探求したメタ読書的な視点を提案しています。本書では、ショーペンハウアーや読書の目的、読書レベルの区分について解説し、読書は趣味や知的生産にもなり、深く読むためにはシントピカル読書が重要であることを説明します。積読が最善の読書術であるという話を紹介しながら、本を完全に読むことは難しいかもしれませんが、自分が重要だと思う部分を把握できればそれで良いということや、他の人のメッセージを理解できればそれが読んだと言えることを考えています。

積読の重要性
面白かった本について語るポッドキャスト、ブックカタリスト、第33回の本日は、「つんどくこそが最強の、完全な読書術である。」について語ります。
はい、よろしくお願いします。
はい、よろしくお願いします。タイトルを間違えましたね。
はい。
完全ですね、最強ではないですね。
そうですね、完全が。
割と重要ですね、この完全という言葉が。
この本、永田臨さんが執筆された本で、イーストプレスから出版されてて、2020年に出版されて、僕は初版で買って読んだんですけども、なかなか刺激的な読書論というか。
今回は2人ともこの本を読んでるんで、この本をきっかけにというか、つまみにしながら、読書とか本を読むってどういうことかなっていうことが話せたらいいかなという感じです。
はい、俺のこの本との出会いなんですが、これも読書会で、ブックカタリストがやっている読書会で教えてもらって、興味がある本がすげー増えて困ってきたっていう、いわゆる本を読むようになればなるほど読みたい本が増える現象。
そもそも全部読めないということはもちろん頭ではわかっていたんですけれども、その問題を少なくとも精神的な悩みの一部を大きく解消してくれた本だったなと思いました。
はい、とりあえず内容からいきます?この本の。
そうですね、全部で4章、5章?
第4章構成ですね、4つの章。
4章までですね、はいはい。
なぜ摘読が必要なのかが第1章で、摘読こそが読書である。大胆な提言ですけども。
摘読こそが読書であるが第2章、読書術は摘読術でもあるというのが第3章、第4章がファスト思考に抗うための摘読という4つ構成になっています。
要するに摘読について、摘読と読書の関係について論じつつ、ノウハウも語られているという、ちょっと変わった感じの本ですね。
ですね、自分的には今まで見たことがないフォーマットで書かれている本だったというのかな。
言ってみればこれまでの有名な本に乗っかって、それに合わせて自分の論を展開していくっていうイメージなんですかね。
そうですね。この本の面白いところは、先ほど言われたように既存の読書術とか読書論の本をピックアップして、それをさらに現代的な状況においたときに、それはどう考えられるのかというふうに論を展示している。
その点でまず第一に、読書本のブックガイドとして本書は読めますね。
本を読むことについて語るポッドキャストで、本を読むことについてのブックガイドについての本について語る。
そういうことですね。だからとりあえず、この本に書いてあるいくつかの読書に関する本を実際に読んでみることもできると思います。
このノウハウを動向するという以前に、どんな読書本があるのかって、これ結構難しいんですよ。探すのって。
確かにね、今時のファスト読書術っていうのは世にあふれているような気はするけれども、重厚な古典派読書術みたいな本っていうのは、探そうと思うとまず難しいかもしれないですね。
これよく言うんですけど、本屋には知的生産の技術っていうコーナーはまずないんですよ。
この手の本は、新書か文庫が多いんですね。この手の本は。
なので、新書か文庫コーナー行って、背描写を一個一個全部見ていかないとなかなか出会えないタイプの本なんで、いろんな本の入り口としてまず読むことができるっていうところがまず一つ。
ビオトープ的な積読環境
本書で展開されている積読論、ないしは積読-読書論っていうものの面白さ、奇抜さっていうところが二つ目の魅力ですね。
いやー、もう奇抜でしたよね。結構いろんな意見で納得してしまって、それは確かに言う通りだみたいな感じで、読まないことをここまで正当化するかっていう。
で、タイトルにある積読っていうのは基本的に本読みの人の中ではあまりよろしくないというか、積読になってんのにまた本を買うんかみたいな、ちょっとネガティブ、ないしは自虐的な使われ方をするんですけども、本書はそれを転倒させる試みであり、悪くないというだけじゃなくて、むしろどんどん積もうよっていう投げかきをしている本ですね。
うん、あれですよね。読まんくっていいから買えぐらいな言い方ですよね、極論大雑把に言うと。
大雑把に言うとそうですね。そうやって買うことに意味があると。で、どうですか、あんまり本書の中身に立ち入るのもあれなんですけど、中心となるキーワードがビオトープ的積読環境というキーワードで、これが本書のコンセプト的なイメージを一番引っ張っている言葉かなと。
で、ビオトープっていうのは小さい閉じた生態系というような感じで、そういうものを情報環境において作ろうよと。で、そのために積読っていうのが役立つよっていう論理立てというか、話の流れになってますね。
で、おそらくあれなんですよね。インターネットで欲しい本というものをピックアップしてしまうと、開けている環境で欲しい本をいくらでも無限に積めてしまうことを、物理的に本を積むことで制限できて、さらにその制限がある中で自分が興味ある本を積んだというところにビオトープとしての価値があるっていうか。
情報を増やしすぎないみたいなのは最近自分の中で結構考えていることで、オフラインであるメリットっていうのが、勝手に情報が増えていかないこと。で、物理の本っていうのも買って置いておくということをすれば、勝手に増えることは波の人間なら存在しないはずなので、プロになると気が付いたら本が届いたりするらしいんですけど。
そうですね。
そういう意味でもこのビオトープっていうキーワードで、うちにこういう本を読もうと思っている環境を作れっていう言い方は面白かったですね。
そうですね。だから本屋さんの前提として、現代の情報環境が情報の濁流時代になっていると。で、本っていうのも質の低い本が乱造されている状況もあり、そういう本のプロモーションとかマーケティングも巧妙になってきてるわけで。
私たちがフラフラと本を、そういうマーケティングとかプロモーションに影響されて本を読んでいると、どんどん主体性というか自立性が失われてしまうよねと。で、ところ本書の面白いところは、情報が多い時代やから情報を減らしましょうとは言っていないところなんですよね。
言ってないですね、この人は。
つんどくって面白い。情報を増やすことなんですね。だから情報が増加している時代に情報を増やすことで対応しようっていう、一見逆説的というか、響く話なんですけど。読んでみると、確かに言ってるところとも、そうだよねって感じる。
つっこめそうだけど、確かにそうだよねっていう風に、納得させられたくなるんですよね。
そうですね。で、例えばそのツイッターのタイムラインによってその情報の濁流に巻き込まれるときに、ツイッターを使わないでおきましょうっていうようなその情報の遮断じゃなくて、例えば自分の好きな人だけを集めたリストを作ろうとか。
ニファース的にはそういうずらし方に近いんですけども、要するに放っておいても何もしない。自然状態で生きていくと、情報の濁流っていうのはもう逃れがたくやってきてしまうと。CMとかプロモーションとかツイートとかっていうの。なんか情報機器を使っている以上、それは避けられないと。
だから何も手を打たない場合は、もう情報の濁流に流れ込まれてしまうんだから、自分で削くっていうか堀っていうか、遮断するものを作らないといけないと。で、その作るものとして、積読っていうか積読リストっていうかな。自分が主体的にこれから読む本をこれとこれとこれを決めようと。
そうやって読むものを決めることによって、情報の濁流から距離を置けるようになるというのが、著者の一番のメッセージでしょうね。本書の。
でね、個人的に一番言っていることとして面白かったなっていう話が、早く読むことと遅く読むことを突き詰めると積読になるっていう話が、ちょっと数学を匂わせながら言っていることが何て言うんだろう。その無茶苦茶なんだけど、その通りで。
早く読むことと遅く読むこと
だから早く読むことは速読を一段階レベル上げると目次だけ読むになって、目次だけ読むをさらにギアを上げると、表紙だけ見るみたいになって、それ結局積読よねっていう話と、ゆっくり読むっていうのは時間をかけて読むということで、表紙をページをめくるまでの時間を最大化すれば積読になるよねっていうことですよね。
早く読んだら読むスピードが速くなりすぎて全く読まずに読んだことになるし、どんどんどんどん遅くしていけば全く読まなくても読んだことになるし、だから結局読書をどちらかの方向に突き詰めていったら読まないという選択肢になるっていう、なんかこれにね一番救われたというか、なんか言ってることはめちゃくちゃなんだけど、めちゃくちゃじゃないなと思って。
もう一つ、メディア側からの話で言うと、本っていうのはこうやってリアルでしゃべるのじゃなくて、誰かが書き残したものを後で読めるようにするための媒体であると。後で読むっていうのは言い換えると、今は読まないってことですよね。
今は読まないを無限に保留すると、つんどくになると。だから本っていうのはそもそもつんどくするためにあるメディアであるっていう言い方もされてて。
全部ね、やっぱ気弁に聞こえるんだけどね、すげえ納得するんですよね。
もう一個は本っていうのは長く残るものであるから、一読者が読もうか読もうかな、読まないんかなっていうのは本にとっては別段どうでもいい話だと。本は読まれる、読まれんよりも残っていく。いつか誰かの手に取ることの方が重要であるから、あなたはそんなに気にやむ必要はないという話もありますね。
一個一個がね、それと似た話で言うと、本はチケットと同じだっていう言い方をしてましたね。
ライブのチケットというものは、読まないけど持っていて、存在していて、そのことに価値があって、本を買うのはライブのチケットを買うのと同じだって言って。
だから本の中身は読まなくてよくて、これを手に入れてライブに行ったことを想像するとか、ライブに行った思い出をするためのキーにする、トリガーにするみたいな使い方もできるみたいな言い方をしていて、これも面白いことを言っていますねっていう感じで。
それを延長すると、要するに自分がその時、興味を持ったもののログというかタイムスタンプ的になりますよね。買った本っていうのは。
それがあれですよね、リオトープというものとイコールというか、そういうことに価値があるっていうやつですよね。
だから自分が興味を持ったもののログっていうのは基本的には形がない。注意とか関心の出来事、いわゆる現象なので、基本的に足跡がないんですけど、本を買っておいておくことによって、自分がこういうことに興味関心を持ってたっていうログになってくる。
逆に言うと、そのように本を選ぶ必要がありますよね。自分の関心に沿った本を買わないとログにならないじゃないですか。
ある意味当たり前だけど、意外とそうでもないってことなんですかね。世の中で本を買うという行為が。
ヒット作だからとか話題だからっていう理由というかモチベーションではなくて、本書にも書いてますけど、何でもいいからとりあえずまず自分なりのテーマを決めようと。後で変えてもいいからと。
テーマを決めてみて本を買ってみると。で、だいたい本を読むとそのテーマっていうのは動いていくと。動いていくことは別に当たり前のことだと。
で、そうやって変わっていくある種の病トップ内が新地退社していくことが健全であると。逆にそのテーマ性を持たないとどうしてもその話題、その時の話題とかに引っ張られてしまう。
メタバースとかブロックチェーンとかっていう。知っとかなあかんから知っとくっていう形の情勢になってしまって、自分自身の関心のログにはならないんで。
だからこの病トップを作る上で一番重要なのは、仮初めであっても自分のテーマを持って、そのに沿って積読リスト、読みたい本リストを作っていくっていうことが大切になってきますね、きっと。
あとは何を持って興味とかテーマとかっていうのを、例えば今メタバースに興味を持ったのは果たして自分がテーマとして興味を持ったのか、世の中に惑わされているからなのかっていうのをどう判断しようかみたいなのは難しいような気がするんですけど。
まあでもいいじゃないですか、例えばそれを無自覚に本を選ぶんじゃなくて、メタバースを勉強しようと思って意識的に注意を払って本を買うと。で、一冊読んで嫌って思ったらそれはもういいじゃないですか。エグジットしたらいいじゃないですか。
うーん、まあそうです。エグジットしたらいいかな。
だからその注意、意識性の有無かな、どっちかっていうと。
買う時に大雑把に言うと、これはどういうテーマの本でどういう目的を持って読もうと思っているみたいなのがあった方がそのビオトープに良い作用があるみたいな。
そういうアンテナを逆に持っておかないと、そもそもが読み切れないし、そもそもが買い切れないですから。テーマを持ってすら選び切れないのに、テーマが無かったらもうパンクしますよね、やっぱりそこは。
うーん、そうですね。今で言うとね、だから選べないから最近逆にね、Kindleの日替わりセールをね、毎日見るようになって。
なるほど。
Kindle日替わりとか月替わりとかで気になる本は見つかるじゃないですか。
はいはい、もちろん。
ただAmazonのトップページを見ているとですね、Amazonの特定のジャンル、今10から十数カテゴリーをそれも毎日見るようにしているんですけど、そのね、まあ95%はやっぱり興味がない本なんですよね。
まあそうでしょうね。
読書の不完全性とマルペケ三角
で、その代わり映えが品浅すぎるに対して、例えばその動機が不純で日替わりセール、月替わりセールというお得に買えるという動機ではあるんですけど、それをね、毎回更新があるたびにチェックしておくと、
それプラス自分のテーマと見合ったものというのがね、自分ではやっぱり存在し得ないところから見つかるっていうのかな。
はい、わかりますよ。
っていうのはあって、その一時、そのね、セールで買うのはなんかこう動機として不純だなって思ってたんですよね。
もっと自分が読みたいと思う本を買うべきであって、そのなんていうんだろう、セールだから興味を持ったというのはなんかこう純粋ではないようなイメージを持っていたんだけど。
よくあの、まあビジネス書とか実行平発書でその欲しい理由が値段やったら買うなみたいな法則がありますけど、それに近いやつですね。
そう近いですね。だから安いから買おうと思ったは、やっぱその本来その時間をかけて本を読むんだから、やっぱり動機としてはそのそういう意味では正しくないと思ったんだけど。
本を全部探すのなんて無理だからそれでいいやっていうふうに思えたら、こうだいぶ割り切れることができて。
それもおそらくこの本を読んでその明確に意識はしてなかったんですけど、そういうテーマみたいなものとかがなんとなくこう自分の脳内に見えてくるようになったこととも関係しているような気がするんですよね。
でまあ、そのセールやから買うで、って言ってもその強度があるじゃないですか。その欲しいものの強度で、例えば僕も毎日Kindle日替わりセールと月替わりセールチェックしてますけど、安いという理由だけでそのラインナップされている本を全部買うわけじゃないじゃないですか。
この前ゴリゴさんミシェル風光のちくまの本をツイートされて見かけましたけど、動画書いてもやっぱり興味になりますよね。その安かのほうが。だからそれは別に全然間違ってないですか。安いもの買いじゃないと思いますよ、あれは。
言い訳?安くなってるし、これ買っとこうかっていう後押しになってるだけであって、ただ安いからこれ買っときゃ得するから買ってるんじゃないじゃないですか。だからそれでいいと思うんですけどね。
うーん、まあそうですね。得するか損するかわかんないけれども、積むようになったというのは事実で。
積むことって必然ですし、この本書でも議論されてますけど、何も悪いことはないと思うんですけど、本書でも後ろめたさを持つなって言ってるわけじゃなくて、その後ろめたさってのは避けがたいから、それを需要して本を読んでいきましょう、積んでいきましょうっていうことなんで。
まあ僕は別に後ろめたさを持つ必要はないとは思いますけども、その後ろめたさを持っても悪くはないと思いますね、もちろん。
うーん、自分の場合、どういうふうに思いが開けたっていうのかな。それで言うと後ろめたさ、あーでもどっちかっていうとやっぱそうかもな。後ろめたさ的なものが弱まったというのが自分の中でのその大きな開け方というか。
別に例えば全部読めなくてもいいと思っていたし、読みたい本がいっぱいあるとも思っていたし、その買って読まないことがそのお金の無駄だというふうに思っていたわけでもないけれども、読んだらそのもやもやが吹っ切れたというのはやはり事実で。
はいはいはいはい。本書の中でもね、千葉雅也さんの書評の記事が上がってて、その他社がそれを肯定してくれることが大切だと。
あーそれはあるかもしれないな、そうかもな、そういうことなのかな。
自分自身でそうだろうなと思ってたけども、例えばその有名な経緯のある人とか書籍がそれを他社が肯定してくれたことで、より確信を持てたみたいなことを書かれてて、でもそういう役割を持っていますね本書はきっと。
本の位置づけと関係性の重要性
まさにそのあれですね、人がいることによるありがたさっていうか、他社からの承認によってその許された感じがするっていうか。
本は人との対話であるみたいなのも、本は著者との対話であるか、みたいなのもそういうことなのか。
まあかもしれないですね、それは。
そういうふうに考えると確かに思っていたことは、大きな意味で自分が思っていたことを言ってくれたという見方もできたんですよね、確かに。
そうか、それを言ってくれたというのは、そうですよね、これだけ長いことを本一冊使って延々と語ってくれる人なんてそうそういないですからね。
確かに、しかもいろいろそれらしい理由をちゃんと持ってきてくれてる。
そうそう、それらしい理由が、全部なんていうんだろう、超有名本らしいっていう奴らが全部持ってくるから、そこがやっぱり説得の仕方として上手いですよね。
本書のタイトルは、完全な読書術の完全っていうところで、本書の骨子というかな、中心になっているのが、PLバイアールの読んでいない本について堂々と語る本と。
この本がバックグラウンドというか、中心的なことになっていて、つまりバイアールの本の中で言われているのは、何かを完全に読むっていうことの難しさ、あるいは不可能性っていうことが論じられていて、
本を読むことが不可能であるんやったら、つまりあらゆる読書が不完全であるんであったら、ゼロ行を読むのも全部読むのもある意味では変わらないと。
読めてないという意味では。だから、逆に読めるっていうことに読む、読み切る、完全に読むっていうことにこだわりすぎてしまうと、逆に本が読めなくなってしまうっていうジレンマがあるから、そこをひっくり返そうっていうことですね。
この読んでいない本について堂々と語る本も興味を持って、当時2000年代前半とかに出たやつでしたっけ、もともとは。
文庫本は2016年で、現状はわからない。
で、当時流行ったらしく、最近寸読を読んだきっかけでこれを読んでみて、この本もめっちゃ面白かったんですよね。
全部の本について、著者が本を紹介しているんだけど、そのページの注釈のところにマルペケ三角みたいな記号が書いてあって、
読んだけど忘れた、ほとんど読んでないみたいな、なんかすごい雑な判定をしていて、ちゃんと読んだ本っていうのが一冊もなかったんですよね。
いやー、これもまた痛快だなぁと思って、そのくせにすごそうな本をめっちゃ偉そうに語っていて、自分が全部の本をちゃんと読んでいなくてもこれだけ語れるんだぞっていうことを堂々と語っていて、本当タイトルがそれだけなんですけど。
このバイアルの本の論点というか、面白いところが、一つがさっき言ったように、まず読本を読むということの不完全性。
その不完全性にも、さっき言ったようにマルペケ三角って、不完全性の中にもいろいろグラデーションがあるっていう。
読むっていうことの多様性を明らかにしてるっていうことと、バイアルは挑発的に言ってるんですけど、本を評価するときに、むしろ読まないで何かを言った方がいいって言ってるんですよ、バイアルは。
言ってた、めちゃくちゃなこと言ってた。読まないけど書評書いたとか言ってる。
で、パッと聞くと、何言ってんねんっていう感じはするじゃないですか。例えばインターネットでも、記事を読まないで中身についていやいや言うっていうことは、モラルが低い行為として扱われるわけ。あるいはITリテラシーが低い行為として扱われるわけですけど。
例えばですよ、例えば。僕が何かの小説を読んだとするじゃないですか。で、その小説の中に一部分トレーディングカードゲームの話題が出たとするじゃないですか。で、僕はそれがすごい好きやからそこの部分に共感を覚えたと。で、そこの部分が非常に印象に残ってると。
で、後から振り返ったときに、あの小説はトレーディングカードゲームのことが書かれてましたって言ってしまうとしたら、それ実は間違った評価をしてるわけですよね。あるいは歪んだ評価をしてるわけですよ。
まあ、歪んでいると言えるのかな。あるある一部分だけを拡大して、その本筋と関係ないところの小説でって言ってしまうのは、正解から間違えていくとじゃない、近いから遠いから遠くなってしまってる。
それは遠いと思います。
逆にその本のあらすじとか、他人が紹介したことだけで、僕のその先入観なしに聞いたものを聞いて、その著者がどういう経緯でそういうのを書いたとかっていう知識だけを知って語ったほうが、実は客観的だったりするんですよ。
客観的になりますね、なりうる。
だから、その意味で読まないで評したほうが実はいいっていうのは、そういうことなんですね。で、本書が重要視してるのは、その本の中身よりもその本の位置づけ、関係性。
メタ読書的な視点の重要性
その本が、例えばその文学とかジャンルの中でどういう位置づけなのか、あるいはその著者のこれまでの本の中である種の続編なのか、あるいは新しいチャレンジングなのかっていう、そのコンテクストを理解することのほうが大切だと説いてるのが本書の2つ目の大きな筋ですね。
これは非常に重要な指摘だと思います。
メタ読書的な視点っていうのは、意外と目の前の本ばっかり読んでしまうと、その位置づけみたいなものっていうのは見落としやすくなってしまいますよね。
だから、一歩引いてみるとか、夢中になることも大切ですけども、俯瞰的に読書を捉える、本を位置づけてみるっていうことを説いている本なので、結構ふざけたタイトルで、さっきも言ったように挑発的なことを書いてますけど、でも読み終えると、その読書ってどういうことなんだろうって、一回考え込んでしまう本ですね、この本は。
おだしょー ちなみに、俺はこの読んでいない本について堂々と語る本は、読んでないけど読んだことにしましたよ。
いいじゃないですか、別にそれは。
おだしょー なんかね、文学要素が多すぎて、タイトルが何にもわかんないから、半分ぐらい読んで、こんなもんでいいかっていう感じになって。
だから、バイアルって書いて、そこで反読書的なことを言ってるってことを知ってりゃ、まあ大丈夫。
おだしょー そう、読んでないこの本について堂々と、いや、この本はなかなか刺激的でしたねって言ってしまえばいいと思って。
だから、本を読むことと、その読んだ本について語ることっていうのは別次元の話だっていうのはどっちだったかな。中田さんが言ってたんかな。バイアルが言ってなくて。
おだしょー まあなんかね、どっちも言ってるんですよね。これを引いて言っているから。
だから、読書は読書としてあってよく、本について語るのはまた別次元のタームである。あるいは、たとえば僕らっていうか、たぶん五郎さんもですけど、たとえば資本論って全部読んでないじゃないですか。
おだしょー 全く読んでないです。
でも、たとえば資本論について言及することはできますよね、おそらく。
おだしょー うん。なんかあの資本論はあんなもんだったってもう言ってますね。
だから、そういうのって普通なんですよね。僕たちは学者はありがたがるから、全ての本をちゃんと読んでるというふうに思ってるけど、案外そうではないんだよっていう曝露本でもありますね。
おだしょー うん。学者も実際、たぶん本当に全部読むことなんて無理だから、必要なときに必要な部分だけピックアップしてくるという、その能力がおそらく我々より高いんだろうなっていうのはすげえ思いますね。
おだしょー あとね、そのフィエル・ヴァイアールのメタ読書的な観点で、自分が割と実感したというか、そのエピソードみたいなのがあるんですけど、
クラシタさんにそのショーペンハグワーの読書についてという本、これを一応読んでおいた方がいいと思うよって言われて、公文社古典新訳文庫かな、のやつをざっと読んだんですよね。
クラシタさんが結構短いし読みやすいと思いますよって言われて読んでたんだけど、なんかね、結構長くて、あれ?で、さらに途中からなんかドイツ語の話とか始まって、
おだしょー マジで?
おだしょー 何なんだこれはって思ったらですね、この公文社古典新訳文庫の読書についてというのは、そのショーペンハグワーの3つの作品が全部一緒にマナーって入ってたやつなんですよね。
おだしょー はいはいはいはいはい。
おだしょー で、そのことについて気づかずにずっと読んでしまっていて。
クラシタ あー、そうか。読書について、他2編っていうやつで、詞作とあと著作と文体で読書についてっていう、いわなみではその3編が入ってますね。
おだしょー 全く同じですね。公文社古典新訳も同じなんですけど、電子で読んだせいで余計、そのことを理解せずに読んでいて、
おだしょー なんか意外と長いなーとか、あとそのね、理解していなかったらね、例えばこの読書についての話で、なんかね、この人のドイツ語批判が、なんかこう、今の新聞への批判とすごい似ている、今のウェブへの批判とすごい似ていると思ったんですよね、みたいなね。
おだしょー あの、堂々と全力で勘違いをしそうになるような状況になっていたわけで。
やっぱそのメタ情報を認知せずに読んでいたら、むしろ謝った情報ばかりが入ってきていて。
おだしょー なるほど。
おだしょー ああ、そういう意味でもやっぱその、ちゃんとわかってないとダメだよねとか、この本がさらに言うと結構難しいというか概念として、
ショーペンハウアーの未発表の本、あ、違う、後期に書いたそのヨロクトホイという、ある程度年いってから書ききれなかったことを補うための本なんですよね。
さらにそれが全編書かれているわけではなくて、その中の、なんかおそらく後世に残りそうな有名な3つの話が1個の本としてまとめられているっていう情報を知っておくことの方がひょっとしたら、なのでこの読書についてを人に語るんだったら、その3編を読むよりも先にそっちを知っておくことだなっていうことを思ったり。
おだしょー なるほど、僕その話初めて知りました。で、今、あと書き読んだら書いてましたね、同じことが。
そのメタ情報。
おだしょー 僕はそこを飛ばしてましたけど。
そう、だから読書については1冊の本ではないんですよね、当時。
おだしょー そうですね。
で、そういうことも知っておいたらよかったとか、あとまあついでに言うとやっぱその、この手のコテンの話ですけど、解説があるのがやっぱすごくいいなと思って。
おだしょー そう、解説重要。解説重要です。
なんか読みやすい長さで、大体著者の雑とした歴史とか背景とかを紹介してくれていて、
ショーペンハウアーについて面白かったのは、この人は本当にこじらせまくってる人なんだなと思って。
おだしょー はい、ニヒリズムというかね、そういう感じの人です。
何だっけ、当時ヘーゲルが超大人気だったんですよね、この時期に。
おだしょー そうですね。
で、32歳でヘーゲルと同じ大学の先生になったんですよ。
ライバルシーむき出しのショーペンハウアーさんは、あえてヘーゲルさんの授業時間にぶつけて大学の講義やったんですけど、
全くほとんど誰も聞きに来てくれる人がいなくて。
おだしょー かわいそうに。
っていうので、1年ぐらいで大学辞めちゃっていじけて、結局この人はおじいちゃんになるまで評価されていなかったみたいなんですよね。
評価されていなかったことが余計こじらせを加速していて、この3個の本の中でもとにかくボロクソにヘーゲルで悪口ばっかり言ってて。
60になってもこんなに人間って尖ったまんまでひねくれてこじらせて、しかもそれが偉大な人として後世評価されているっていうのは、世の中なかなか面白いもんだなっていう感じで。
おだしょー そうですね。確かにニーチェが彼、ショーペンハウアー好きだったのかな、確か。
ニーチェがショーペンハウアーのことを好きでしたね。
おだしょー だからそういうふうで発見された、再発見されたっていう感じの人かもしれないね。
こじらせチームなんでしょうね。
おだしょー 方向性は似てるね。哲学者的な人はそういう人多いよね、印象。
多分ヘーゲルとかはその哲学者の中ではきっと割と優等生方向なんですよね。
おだしょー 確かに。それはそう思う。
それに対してこのひねくれおじいちゃんたちの、その人が本を読むことについてっていう本が、やっぱりこじらせてるので痛快な書かれ方をしていて、それが余計ウケるんだろうなっていう。
読書っていうのは他人、著者に他人にものを考えてもらうことであると。そんなことばっかりしてたらお前運動不足になるぞということで、本なんか読むなっていうことを本で書く。
全く本を読むなっていうことじゃなくて、読むべき本と読むべきでない本があると。
読むべき本とは何かっていうとコテンだということを、その時代の新書で書いてるわけですね。
そう、現代のウェブ批判と全くつながるというか、いつの時代も本当同じなんだなと思って。
おだしょー 彼は、自分がこの書いてる本が他の人が読むに値するであろう、コテンになるであろうっていう確信の下で多分書いてると思うんですよ。すごい。
その謎の自信。
おだしょー うん、すごいよなとは。僕はこの本を読むたびに毎回それ思うんですけど。
なんか永遠の中二病なのに、偉人として残れる。
おだしょー そうですね。でも、プトシガン、その鋭い批判も確かで、その悪書が、このショーペーハウアーの時代から、そのくだらない本が多いって言われてるわけですよ。
そう、それはね、やっぱね、思うんですよね。もう多分、活版印刷が始まって数年したらずっとそうなんでしょうね。
おだしょー そうそうそう。それが現代では、書籍もインターネットも玉石混合で、意思の方が多いっていう感じになるってあるんで、その読まないことが大切っていうのは、現代に通じる話でしょうね、きっと。
おだしょー ショーペーハウアーも、大衆受けする1年で寿命が尽きる本には手を出すなっていうふうに言っているし、もう一個興味深かったのが、この人が、私たちは興味があるものしか留めておくことができないっていうふうにも言っていて、表現としてこれもいいなって思ったんですけど、
読んだものをすべて覚えておきたがるのは、食べたものを皆体に留めておきたがるようなものだ。だが私たちは興味あるものしか留めておけないっていう、食ったものを全部残しておけないんだから、読んだものも全部残しておかなくていいっていう言い方をしているのが見事だなとやはり思って。
おだしょー その比喩はね、結構、読書と食事をメタファーで繋げるっていうのがね、わりかし多い。いろいろな箇所で見られて。で、梅沢の知的生産の技術でも、読書と、本の内容と栄養学っていうものの関連性が説かれていて。
おだしょー 書いてありましたね、確か。生きるための読書と、楽しみのための読書みたいな。
おだしょー そういう観点ははるか昔から受け継がれてるんだなっていう感じで、こういう今、僕2つの本を繋げましたけど、こういうところですね、本の読み方の大切なところは。
おだしょー 誰かが何か言っていることを、他の人とも共通点だったり違いを見つけ出したりして、そこから理解するという。
起点として何か論を広げていくっていうことが、いろいろな本を読むことの面白さだろうなという話で、もう一個、つんどくこそが完全な読書図で取り上げられている、本を読む本という、非常にややこしいタイトルの本がありまして、MJアドラーという方で、講談社学術文庫から出ている。
おだしょー 1299番絵から、結構番号は古いんですけど。僕の中ではこの本が読書論、読書図の個典に位置づけられる。ショーペン・ハウアーの読書については精神論というか。
あれは技法ではなくて、ないとは言えないけど、あまり技法ではないですね。
考え方に近いもので、ちゃんと技法として論じられているのがこの本で。結構重厚というか。お世辞も文章は読みやすいとは言えないんですけども、ある種の目的を持った読書の中では避けては通れないと。
この本を読む本で、一番最初に言われているのが趣味の読書と、そうではない読書というのがあるとまず。趣味の読書は勝手に読めばいい。別に好きに読めばいいと。
でもそうではない読書、例えばここでわかりやすく言うと、研究とか知的生産のための読書は、そういうのとは違ったある技法が必要だと。必要だとは言ってませんが、あった方がいいというようなニファンスで語られていて。
そういう方法を教えましょうというのが本を読む本です。
これは図書館で借りてきてはしたんですけれども、全部を読んではいなくて、目次を見る限りで言うと、わりと具体的にこういう読み方があるぞということを教えてくれているという印象ですかね。
最終的には、ある種のアウトプットを目指すというための、何か自分で書くための読書みたいな感じかな、目指したいのはこの本で。
やっぱり読む人と書く人というのが、わりとイコールに近い繋がり方をしているし、書く人は少なくても読んでいるから、どうしても本はその方向に行きますよね。
でもまあ、これは避けがたいというか、こういう本を読んでいると、やっぱり自分でも何か論じたくなってくるはず。
すごいよくわかります。というか、ある意味、書いて喋って理解が完成するというのはあると思うので、読んでて、俺はこうは思わないんだけど、こう書いてあったんだよねとか、逆にこれはこう思うから、もっとこうした方がいいんじゃないかっていうのが出てくるし、
そのぐらいまで読んだ方がいいし、そのぐらいまで読める本を読むべきではないな、読むとそうなりますよねっていうのは思いますね。
だからその読書について、ショーペンハワワが読書は他人にものを考えてもらうことであるって言ってますけど、ある種の準備運動ですよね。他人、著者の考えをなぞることで自分の運動のきっかけにつなげるということ。
本を考えさせてくれる本をたくさん読んでると自分で考えたくなってくるし、何かオリジナリティのある着想があったときに他人に発表できるし得るししたくなってくると。こういうある種、広い意味での知的生産活動の一部に読書を位置づける。
だから、ある種趣味でもあるし、ある大きな知的鋭意の一部にもなる。だから、こういう読書って、なぜ読んでるんですかって、1位には答えられないというか、面白いからなんだけど。
たとえば、本を書くために本を読んでるかって言われると、それも微妙な感じがしてる。 ああ、違いますよね。その違うのはすごいわかる気がする。
だから、もちろんそういう目的もあるし、読んでて面白いもあるしっていう複合的な感じが、この本を読む本で論じられてるタイプの読書と。
簡単にさらっておくと、4段階の読書が紹介されてるんですね。その4段階は、非常に荒っぽいかな、ざっくり切った4段階で、最初が初級読書と。
4段階は、頭から終わりまで読む。その本が大体どんなことを言ってるのかを読むと。基本的にこれは、頭から最後まで順番に読むことが望ましいと。
ちなみに同じことは梅沢も言ってて、梅沢も本を読むっていうのは、頭から始めから終わりまで読むと。そういう読んだ本だけを、自分は読んだという言葉を使うことを許すと言って入りました。
それ以外の本は、読んだと見たという区別をしている。だから、全般的に、こういう本を読むっていうのが一義じゃないんですよね。
初級読書と点検読書
よくよく観察すると。読むにもいろいろあるっていうことはよく言われてるんですけど、その一番最初の、僕らが多分本を読むって言って、真っ先に思い浮かぶのが、この初級読書。
次に点検読書ってのがありまして、その本がじっくり読むに値するかどうかをチェックするタイプの読書。これは大抵目次を読む。最初は始め、冒頭部分をチェックして、
おおむねこういう本が書かれているから、例えば自分的に読みたいか読みたくないかをチェックする。これ結構ね、実は技術というか、慣れ、スキルがいるというタイプの読書。これが第二段階。
おだしょー イメージとしては、本屋さんで買うかどうかを決める判断のためのやつですよね。
そうですね、そういう感じ。で、次が分析読書。ここになっていくとちょっと知的生産になるんですけど、その本の位置付け、またはジャンルとかを考える。
文類とかを考える。書名のタイトルが何を表しているのかを考えるとか、著者の出版歴の中でどう位置付けるかみたいなことを本の中よりもちょっと外とか、あるいはこの本を通して著者が言いたいことは何かみたいな、
その一つメタな視点から分析する、アナリシティックするっていうことをする。ここになると結構知的な作業。もうちょっと半ばアウトプットに半分入ってると。で、そうやって言ったらアトミックなノートをたくさん作っていくわけで、分析読書を通して。
で、最後のシントピカル読書っていうのが、複数の本から共通のテーマを引っ張り出して、それについて論じようという。シントピカルって造語らしいんですけど、動機っていうシンス?シンク?シンクにトピック。
トピックをシンクさせると。複数の本にまたがっているトピックをシンクさせて引き上げて、そこからまた何か自分らへのテーマで論じていくと。この4段階を通して本を読む。より深く本を読むのはその一番最後のシントピカルどこまで行かないとダメですよっていう内容です。だから、真っ当な正当なあるいは論文を書くためのような読書論が語られている本です。
で、あれですよね。一回、つん読こそが完全な読書術であるに戻ってくると、本のタイトルを上手くトピックをつなげて並べるだけで、つん読によってもうシントピカル読書は完成するわけですよね。
完成じゃないな。シントピカル読書ができるというか。
それはもう全然できると思います。
例えば、冷蔵への道?冷蔵無き道?
無き道だ。冷蔵への道は逆だ。
元ネタの方ですね。
だからここもタイトル2つ並べるだけで、何かあるやんってわかるわけじゃないですか。
僕2冊とも読んでないですけど。
そこに何か意図されている。あれは日本語訳ですけど、意図されているものがあるんやなっていうことがわかる。タイトルだけでもわかることがあるし。
複数の本。もちろん中身読めば中身読むだけでも何かあるしっていうところで。
ただ読むだけじゃなくて、一つ上の視点に立って、本の素材とか本そのものとかを論じているようになるし、そこまで来て初めて本が読めたと。
その読めたも不完全ではあるけども、最初に比べるとグッと精度のある読み方ができるようになっているということですね。
この辺りの本を読んで自分で思ったのは、読むという言葉を使うのが難しくなったっていう感じがあって。
最近は自分の場合、通読をしたとか見たとか、むしろ読んでない本の方が読んだっていうようになった気がして。
読書の難しさと本のメッセージ性
だから読めたって言いづらいですよね、あの本を。とりあえず読みましたとか、そういう濁した言い方になりがちですね、こういうのは。
特に難しいと思われる本であればあるほど、通読はできたとか読み終えることはできたって言うけれども、なんか逆に読んだと言えないような気がして。
だからそうですね、読むっていう。もっと日常会話ではもっとラフに使えますけど。
だからさっきも言ったように、逆に小説とかその単純なエンターテイメントを楽しむという読むはもっとカジュアルに使えると思いますけど。
やっぱり著者のメッセージ性があるもの。その本を通して著者が何を言いたかったのかっていうところを捕まえられたかどうかっていうところかな、僕の場合は。
だから、読み終えて結局何やったのよっていう本は、読んだけどっていう感じになっちゃうかな。
読んだけどよくわからなかったみたいな言い方をしますね。とか、今はまだ理解できないとか、なんかそういう感じで言うな確かに。
逆にだからでも、おそらくこういうことが言いたいんだろうってことが、もちろん正解かどうかは別にして、自分なりに掴めた感じがあったら、僕の中では読んだって言えるかなという感じかな。
ツンドクこそが完全な読書術であるとか、そういう意味でうまく言えないけど読めた感じはして、最後の方とかは自分の中で結構飛ばしたんですよね。4ぐらいのやつとか4章あたりは。
多分これは読まなくても読んだ感じになるやつだと思って飛ばしたりしていて、ただ自信を持ってこれは読んだって言っていいだろうなって思えたりもして、その体験も大きかったかもしれないんですよね。ひょっとしたら。
だから結局大筋を捕まえたらそれでいいっていうことですね。基本的には。
おそらくそういうことなんでしょうね。
まあこうね、それはその正しい定義かどうかは別にして、そういう言い方が可能であるっていう目の開き方がなされたわけですね。きっと。
多分そうなんでしょうね。それが言葉にするだけではなくて概念として自分の中に形成されたんだろうなっていう納得できる何かが。
でもこういう話しといてなんですけど、僕は基本的に最初から最後まで全部読めますけどね。
大体の方はちゃんと読みますよ。
2択で1章まででやめるか最後まで読むかのどっちかかな。僕の場合が多いのは。
最近で言うとね、なぜ人類のIQは上がっているかっていう本を読んでいったんですけど、あれはね、そのね、最初と最後だけでね、満足してしまって。
真ん中はね、いらんかったんですよね。
大体真ん中のあたりでデータとか実際例とか論章とかがあって、その結論そのものをサポートするものであって、メッセージとはちょっと違う場合が多いし、そこの著者の筆力、文章力があまりよろしくないと、ただただ退屈ということにはなるでしょうね。
21世紀の資本も大体同じです。冒頭読めばOKかなっていう。
そういうことね。それで満足するっていうやつね。
だって自分でもっかい証明する必要ないじゃないですか、その時期を別に。
人類のIQとかもね、統計を見ながら、この統計だからこう言えるはずだっていうことを、やっぱりかなり論文に寄った書き方っていうのかな。
読み物としてやっぱりなかなか楽しめなくて、エッセンスだけを手に入れたら、それで本を読んだことになるというのは、そりゃそれで楽しくないとは思うんですけれども、バランスなのかなっていう。
逆に、論文ってあるじゃないですか。論文は基本的にabstractしか読まない?基本的というか。
しかも読んだことないですね、俺は。
だから論文集みたいなものは似たインプットになりますよね、きっと。その冒頭部分でざっと掴んでっていうところにはなっちゃうから、それはそういうタイプの本なんじゃないですか、きっと。
そういうことかな。だから論文みたいなもんを読んだっていうふうに思えば、おそらくなんだけど、多分こういうふうに言っているって言われて、何でなんだって言われたときには、やっぱそれが書いてないとダメなのは確かですからね、そうやって。
それをリアルタイムに全部検証する気力があるのかって言ったら、つんどく的な意味でもつんどけばいいんだし、知っているつもり的な意味でも知っているつもりになっていて、ここに書いてあるってわかっていればいいんだし。
読書メモを活用する方法
そうですね。
そういう意味でも全部読まなくてもいいっていうのはそういうことなのかなと思いましたね。
全部読まなくていいし、全部読めないし、全部読んだところで覚えてるとは限らないから、そこに固執するというか、そのべきではないですね。読むべきではない。でもまあ、そうか。だから俺はそもそも最後まで読み切れる本しか読もうとしてないからやな、多分。始めから。
あー、そのもっと早い段階で気にしているっていう。
そうそう、おそらくそういうことだと思う。
まあ、それに近いのはあるっちゃあるかな。もう無理に全部を読もうとすると、結局それはもったいないというか、時間は限られているので、読みたいものを読んだ方がいいだろうなっていうのはやっぱあって。
そうですね。たとえばある分野、例えば経済学の分野の本をいくつも読んでると、新しい本を読んだときにもかなり飛ばし読みできるのは間違いなくて、それで理解が損なわれてるかというと、そんなことはないわけで。
そういうジャンルに対する慣れ、もっと総合的に読書についての慣れっていうと、本を読み慣れてると、著者が何を言いたいのかをもっと早くつかめとれるようになるし、そうなると枝派?ここに書かれてる記述が枝派かどうかが判断できないじゃないですか、その主張がわからないと。
だからそれを早くつかまえられるほど、本、読書の取捨選択とかスピードそのものも上がっていくでしょうね、きっと。
よく自分が思ったのが、結局全部覚えていることなんて不可能なんだから、全部覚えていないことが正しく読んだという、正しくじゃないかな、あえて正しく読んだという言い方をしていいんじゃないかというのが最近考えていることで。
自然ですね、そっちの方が。覚えてない方が自然。
確か知ってるつもりにも書かれていたやつで、全てのことを覚えていられる、スーパーなんとかっていうができる人って、その抽象化ができないらしくて。
でしょうね、きっと。
だから仮に本を全て覚えてしまったということは、本に書いてあった内容を抽象化して他の場面で使うことができなくなるということになってしまうわけで。
なるでしょうね、きっと。
ということは、やはりどこかで欠落しないと本を読んだとは言えないんじゃないかって考えるようになって。
まあね、だから本を完全に読んだって言おうと思ったら、つまり1字1句を脳内で再生できることですから、きっと。
かつてはそれ重要な技術だったんですよね。
それは多分読書という行為ではないでしょうね、きっとそれはね。
伝承を言い伝えるような記録手段が音声しかなかった時代には、多分1字1句を覚えるということは非常に重要な技術で。
それは結局自分自身を媒体化するということであって、能動的読書とは多分違うでしょうね。
その人が考えるわけではないですからね。周りのみんなに考えさせるために1字1句間違えず覚えておかないといけないわけで。
その役割はもはや本ができるようになったので、我々は自分がいると思うことだけ覚えておいて、あとはその概念として捉えられれば十分だっていう風に、その辺りが上手く自分の中で開けた感じがしたのかな。
だからそこの自分にとって必要有用を見つけるためにもやっぱりテーマ性の仮設定っていうのはまあまあ避けがたいというか。
ああまあそうでしょうね。
それができへんから逆にその取捨選択ができないっていうことはあり得るかな。
やっぱ思ったのがそういうのも興味があることを書き残していて、書き残したものを見ているからテーマがよりくっきりというかこういうことが残しておけたら自分にとって興味深いものなんだなっていうのが気づけたのはやっぱ書いたからかなっていうふうに思うんですよね。
そうですね。書くあるいは読書メモを起こすっていうのは楽か楽じゃないかというと楽じゃない行為に入りますよね当然。
ということはだったら自分の中で必要性の低いものはまあまあいいかってなるわけですよ。
だからそこも読書メモがもうフィルターになるわけですね。
ここで真面目な人がその全部そのちょっとでも重要なところは全部ってやり出すとそのフィルターの機能が失われてしまうんで。
やっぱり読書メモってある程度手間かけるやつのほうがいいですねきっと。
結局全部覚えておくんじゃなくて面白いと思ったことを覚えておくだけになるし。
まあ面白い本だとだいたいほぼ全部とは言わんけどかなり書いてたりはするんですけど。
確かに。でもそういう本例えばもうページめくるごとに赤線引くような本はいわゆるその分析特徴をすべき対象ですよねきっと。
うーんまあなんでしょうねきっと。
まあそういう本めっちゃ少ないけど。
俺ねまだまだいっぱいありますよ。
僕はねドラッガーのマネージメントエッセンシャル版っていうダイヤモンド社から出ている本があってあれはもうねほとんどのページの赤線引いたね。
ほとんどのページの赤線引いて読み終えた後にあの読書ノートを作ったねその本の。
で重要なとこをノートに書き写してその下に論考を書くっていうことをした。
だからマネージメントについてはそこ論辞でその空で論じれるその蓄積がある。
でもそういう本はもうほんまに100冊2冊とかそれぐらいのペースでしか出てこないね。
これブックカタレストで語れるようにしているものとかそこまでかどうかはわかんないけど結構たくさんメモして書いていてっていうのはやってて。
でそれがひょっとしたらなんだけどやっぱあの始めは多くていいんじゃないかなと思うんですよね。
確かに確かに。
なんか多すぎてこれはいらんなって判断できることが割と重要な気がしていて。
それをこれもいらんこれもいらんを先にやってしまうとあのいるものがわかんなくなる。
ちなみに例えば電子書籍と紙でゴルゴさんが本読んでいるときは例えばマークとかしておいて後で読書メモを起こすタイプですか?
それとも読みながらも読書メモを起こしていくタイプ?
いろいろ分かれているんですけれどもパターン1は読みながら手で書いて書いたものを再度文章化。
もうちょっとライトなものは読みながらiPhoneのフリック入力などで入力をして後からもうちょっと詳しく書くぐらいの感じですかね。
一応段階とかステップがあるわけですねそこには。
必ず2段階は踏まないとそのやっぱ分かるものにならない後から見て。
そうですねだからまあそういう最初にあのよく言われますけどその読書メモを真面目にところに情報カードとかでやると
ひどく疲れるしそのあえて読みながらやると例えば中盤あたりであ著者が言ってきたことってこうやったかってわかるとその序盤の中での優先順位というか自分が重要だと思ったものがひっくり返ったりするんで
あの読書メモ本物を作るときはやっぱり読み終えてからの方がいいんですよね。
でも読んでるときにマークぐらいは指定を置かないと後で拾えないんでだから読むときとちゃんと起こすときっていうステップは分けた方が良いでしょうねきっと。
なんかもうねあの最近はわからなかったらもう一回読むってやってますね。
なるほど。
読書メモを見てわからんくってあのつい最近の体験で言うと悪い言語哲学入門という本が読み終わったら大変面白かったんですけど
もう一回読書メモを見たら全然わからんくってもう一回今見ながらもう一回見ながら書きながらやっているっていう感じで。
そこまでいくとかなりなんか理解は深まりそうですね。
まあやっぱそのぐらいわからん分野はだからあの読んでいるというよりもやっぱあの理解するために書いているという要素が強いですねそういうジャンルになるとむしろ。
いやでもやっぱりその読むっていう行為はその理解の目的のためにこの手の人文書とかエトセトラはそのために読むことが多いから。
だから雑学を仕入れるのとやっぱちょっと違いますよねこういう読書っていうのは。
そうですねだから書きながらできるように書きながらじゃないとわからんことが結構あるとかそういうものが多くてしかも書きながら書いたのにやっぱわからんかったになるとか書きながら読んだのにやっぱわからんとか。
そうですねまあでもそういう地道にまあでもそれと多分ですけど書きながらやってないとまあわかったつもりで終わりますよねきっと。
そうですねそのわかったつもりというか多分あの本で言うとわからんかったで終わる。
なるほどねわからんかったで終わる。
なんかよくわかんなかったなっていう感じでなんかこういろんな用語が解説してあってそれが何なのかよくわからんかったみたいな感じかな。
でもそれでもそういう本でも後でもっかいチェックする程度には興味は持ってるわけですよね。
その本の話で言うと最後になったら全部今まで手に入れた知識をすべて使って見事にお話をしてくれるんですよね。
なるほど。
『つんどくこそが完全な読書術である』のキーワード
で正直そのわかるまでの話はもうちょっとわかりやすくできるだろうと俺は思ったんですけれども。
なるほどそういうタイプか。
ただあの最後の話であのだいぶ説得されたというかこれはやっぱこういう話をするためにはこれを知っておかないとあのわかんないんだなって思ってちゃんと理解しようと思ってもう一回読み直したとかですかね。
なるほどね。
まあそういう本のタイプによっても変わってくる。
その後でまとめるタイプは最近は珍しいよね最初にだいたい結論を出してっていうのが多いから。
うん面白かったですね。
その序盤がだからかなり飽きていてなんかきっと面白そうな分野だって思っていたのに結構飽きてしょうがないから読んでいたんだけど。
でそのそれはすごい良かったですね。
ヘイトスピーチがなぜいけないのかっていうのを言語哲学的な目線で最後は語ってくれる。
面白いね。
言語哲学で良い悪いが論じられるんやすごいな。
それは倫理的ということそれともなんか別の悪さがあるのか。
そこまで2回読んでないから上手に語れないんですけど。
なるほど。
言語哲学というもの自体がそもそも言葉がこの言葉はどういう場面でどう使われるものなのかみたいな目線なんですけど本のタイトルが悪い言語哲学で。
その悪口を言う時に悪口というものを言語哲学的な目線で研究していくんですよね。
で悪口は何が悪いのかどう悪いのかみたいなことを説明するための用語がいっぱい出てきて最後にそれらを踏まえてヘイトスピーチというものはこういう観点で悪いものだと言える。
こういうことはなぜ言ってはいけないのかをその哲学方面から考えるみたいな話で。
面白いな。
まだやっぱりすげえ難しかったからまだそこまで語れないんですよね。
読んだけどやっぱり喋れないのでやっぱり喋れるようにするためにもう一度読もうと思っているっていうやつですね。
やっぱりそこまで行って読む。そこまで行かなくてもそうやな。だからそこまで行って理解したという分かったと言えるって感じか。
今の段階でも紹介はできるんですけれども、要点をつかんでこういう話だったっていうふうに解説はできないというイメージかな。
5分のポッドキャストだったら多分これで読んだ話をできると思います。
それはそれで意義はあると思いますね。
それはもちろんあると思います。それが求められている場というのはあると思います。
だからこのつんどく本、つんどくこそが完全な読書術ってあるっていう本そのものがある種シントピカル読書の結果みたいな本を読まないというか読めないっていうところについて、
あるいは読むとは何かみたいについてテーマを集めた一つのアウトプットであり、読書の結果であると。
こういうとこに落ち着くし、こういうとこ目指したいですね。
自分の関心のあるテーマでまとめたことを言う。
新しい言われてなかったことを言うっていうことができたら幸せな読書というんでもないけども、
読書の満足感、本を読んだ価値をさらに感じられるようになりそうな気がするし、
自身の著作活動も大体それかな、そういう。
同じくその一時全然書いてなかったんですけど、今書かねばならないと思って書いているとかっていうのはそういう感じですね。
だから他人にものを考えてもらうことで自分の頭も考えられるようになるっていうことでしょうね。
だから頭の使い方を学ぶっていうことと、著者の主張を理解するっていうことがこの手のタイプの読書の一つの大きな目標になるのかな。
もちろん単純に面白いっていう知的好奇心を満足させるっていうこともありますけど、それだけにはとどまらない面白さがあるかなという気がします。
割とあれですね。やっぱりこの手のやつを読むと、みんな書こうぜって言いたくなるようになりますね。
やっぱその読んだだけじゃ物足りないでしょっていう風になるでしょって言いたくなるし。
僕は基本的にそう思うんですよね。本を読んで小説とかでも自分で創作したくなる人が多いやろうし、
ノウハウ書とかやったら自分のノウハウを紹介したくなるようになるんではないかなと僕は勝手に思ってるんですけど、世の中はどうなんですかね。
全員ではないかもしれないんですけど、ひょっとしたらなんですけど、そういうブックカタリストなコミュニティとかで別に共生するわけでもなんでもないんだけれども、
本を作りたいと思う人とかが集まってくると、やっぱその書かずにいられないから書くっていう人が増えるのはきっと嬉しいことなので。
そうですね。
なんか協力できることがあればしたいと思いますしね。
そうですね。筆筆の前段階の企画を考えるところとかネタ集めとかそういうところでは全然協力できるでしょうしね。
書いたやつ例えば倉知さんに読んでもらってアドバイスしてもらったらめっちゃ参考になったし、
やっぱその一人ではモチベーション的な意味でもあるし目線的な意味でもあるし、なんか行き詰まってしまうので、書きたいと思った時に。
やらないとダメなのでそこは難しいところなんですけど、なんか仲間がいるのはきっと心強いですからね。
そうですね。基本的に知ってるつもりでも書かれてますけど、人類ってのは知的分業をベースに生きてきたんで、
一人で本を書き上げるってだから自然に反してるんですよね、基本的には。
100%一人はだからやっぱ無理なんですよね、きっと。
本の中身自体も基本的には引用とか参照とかで構成されますし、
筆筆とか知的作業そのものも実は他者の力を借りた方が望ましい。
もちろん文書の責任は本人が多いにしても、
やっぱりそのアイディアとか視点とか論の組み立てとかっていうことの中の不自然さに自分では気づかない。
自分にとってはそれが自然やから、その不自然さに気づかないっていうところが多いですし。
だからある種の共同作業として、特に編集者がついてくれへん、セルフパブリッシュの場合は、
プロでなくても、これ他人であったら大体いいんですよ。
自分以外の人間が見たら何かし発見があるので、そのコメントから。
だからそういう、別にプロじゃなくても、日本語の文章を読める人であれば、チーム体制って作れるかなという気はします。
ですね。なのでやっぱり通読こそが完全な読書図であるを読んで、書きたくなった人はぜひ書いてみましょうっていう感じなのかな。
そうですね。読書論、またこれの逆張りとかも全然できます。
でも、現代の情報環境を念頭に置いた時の読むっていう行為を再考する、もう一回考えてみるっていうのは意義があることだと思いますけどね。
この本の話をしていて、自分が書こうとしているノートを書くことの話とかもつながっているなという感じがして、
読むことを完成させるためには書かねばならないというのが主張なので。
なるほどね、確かに。
そういう意味で言うと、ひょっとしたら本を書こうと思い立たせてくれるきっかけになった本だとも言えるのかもしれない。
でも本の読み方とかは変わるよね、きっと。読み方が変わるとさっき言って、アウトプットに向けた読み方とかが意識されるようにはなるかもしれないですね。
独学大全と他者との共同作業
そうですね。自分の中でそもそも2021というのがアウトプットのために読むっていうふうに明らかに変わった印象はあるので、それは大きいですね。
一応後付け加えておくと、読むことの多様性で言うと独学大全という本にほにゃらら読みというのが
いっぱい書いてありますね。
より詳しく掘り下げたい方はそちらをご覧いただければと思いますね。
カバーしている範囲の広さで言うと確かに独学大全は圧倒的に広いですね。読むこともカバーしていて、言ったら書くまでは言ってないか。
調査まではあるけど、情報を調べるまではあるけど、アウトプットの書き方は書いてないですけど、多分それ今執筆中じゃないですか。文章大全という企画案を見ましたので、おそらく書かれてるんじゃないですかね、今。
っていうので、やっぱりそうですよね。その独章大全さんは書かないわけにはいかない人の一番日本の高みみたいな人ですからね。
確かに。
あの人も多分おそらく同じモチベーションなんだろうなっていう印象があって。
そういう同じことができなくても目指すことはできますからね。
それに書いたものがどれぐらい読まれるかは別にして、やっぱり書くことを通して自分の中でのまとまりが生まれる、区切りが生まれて一つ理解が進むっていうことがあるので、
区切りとしてレポートを書くみたいなところは本じゃなくてもいいんで、その分野についてレポートを書いてみるっていうのは意義があると思いますね。
本を書きたいと思うきっかけ
そうですね。区切りという言い方もできるか。確かにね。
ということで、今回はいつもとちょっと趣向を変えて、2人とも読んでいる設定、実際読んでいるんですけど、
で、純読こそが完全な読書術であるについて語りました。
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