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2023-08-12 18:02

読書ラジオ『男ともだち』千早茜

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こんばんは、ゆうこです。このチャンネルでは、私の読書ログや日々の学びを音声配信しています。今日は、
千早茜さんの『男ともだち』という本について話してみようと思います。 29歳のイラストレーター、
神奈青井は、関係の覚めた恋人秋人と同棲をしながらも、身勝手な愛人真嗣との応勢を重ねていた。
仕事は順調だが、本当に書きたかったことを見失っているところに、大学の先輩だった長谷雄から電話がかかる。
7年ぶりの彼との再会で停滞していた神奈の生活に変化が訪れる。
ということで、タイトルにもなっている『男ともだち』との話ですね。
で、あの男ともだちってね、あの
そうですね、友達を恋人にしない方がいい問題ありますよね。
友達は友達のままとして、恋人に召喚、召喚っていう言葉が正しいのかわかんないですけど、
恋人にしてしまうと必ず終わりがくるから、今までうまくいっていた関係であればあるほど、なおさら
友達のままにしておいた方がいい、みたいなことありますよね。
うまくいかなくて終わっちゃう時がくるから。
確かにそれはそうだと思うんですよね。
例えば分かっててするならいいと思うんですよね。
なんかすごい、友達の感覚がめっちゃ強いんだけど、
例えばこう、2人ともお互いにパートナーがいないから、
ちょっとパートナーになってみない?ってやってみて、ダメなら友達に戻ろうよが、
2人の間でちゃんと成立しているんで、
それをこう、うまくいかない時でもちゃんと話し合って、
今ならちゃんと今までの友達に戻れるとか、本当に戻れるのかは別として、
そういう会話ができるんであればいいんですけど、相当難易度高いと思うので、
私も友達は恋人にしない方がいいよなって思いますね。
ただ、これって知らず知らずのうちに、
友情が愛情だと勘違いしてしまうってことはすごいあると思うんですよ。
それでこう、付き合って結婚しちゃったみたいなことってあると思っていて、
それでこう、うまくいかなくなる可能な場合、
恋人の秋とかそうだと思うんですよね。
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結構地獄になっていくので、
それも経験の一つだと思えるんだったらいいかなと思うんですけど、
できることならそこの判断をしっかりした方が良かったなと、
私も過去を振り返ってそう思います。
ただ、友情と愛情ってかなり限りなく近いところにあると思うんでね、
そこはすごい難しかったなと思います。
まあ、その友達を恋人にしない方がいい問題っていうのもこの中で扱っていて、
カンナの友人、女の友達も出てくるんですけど、
辞めた方がいいよとか、そのままにしておいた方がいいよみたいなアドバイスも出てきます。
で、なぜカンナにとって男友達、
ここで言うハセオですね、大学の先輩だったハセオ。
の存在が必要だったのかっていうところなんですけれども、
カンナにとって恋人がいたり愛人がいたりするんですけれども、
自分を成長させる、または認める上では、
第3者の存在が必要であったと。
それは契約とか義務ではない、あとはその仲間という共同体ではない、
そういう存在が必要だったのかなと思います。
結婚していたり付き合ったりすると、契約とか心理的契約で、
お互いに義務を果たさなければならないみたいなことが生じるんですけれども、
ハセオとの間においては、そういったことが全く発生しなかった。
お互いを何か背負っていたり、提供しなければいけないものはなかったということと、
共同体でもないということで、2人で何かを成功させないといけないだとか、
協力関係を築かないといけないみたいな、そういう相対的な関係もなかった。
お互いが一つの個人として、それぞれの生活だったり、
思考を持った個人として向き合えるハセオという存在は、この館内にとっては必要だったのかなと。
じゃあなぜそれが男友達である必要があったのかというところなんですけれども、
この男友達という小説の中でハセオは、
かなり言葉を選ばずにズキズキと、カンナに魔物を言う存在として描かれているんですけれども、
カンナはこの中で何度も傷ついたり、自分で自分を傷つけたり、
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ボロボロになって、でも誰かに甘えてしまうと立ち上がれなくなるみたいな、
自分に対して相当厳しい姿勢を貫いてたんですけれども、そんなカンナにとっては、ハセオはサンドバックにもなるし、
遊戯王にもなってくれる存在だったのかなと思います。
自分が追い込まれていた時、なりふり構って、相手に思いやりを尽くせない時ってありますよね。
そんなカンナの行動だったり発言を、サンドバックのように何でも受け止めてくれるハセオだし、
もうヘロヘロになって弱っているカンナを、ここで休んでいけよって言ってくれるような、遊戯王のような存在。
そういうものがハセオだったのかなと。
ある時は鏡の存在にもなってくれるんですよね。
要するに、俺から見えているお前はこうだよっていうのを言ってくれる。
今までもお前はあの時こうだったとか、今のお前はこういうふうに見えるって言ってもらえると、自分では受け入れられないこと。
でもそういう言葉で返されると、ああそうなんだって思う。それがまたカンナの成長につながっていく。
ハセオが男友達としてこの小説に存在した意味っていうのはそういうところであって、
それによってカンナがイラストレーターとしても人としても、天気を迎えて自分の中を整理して成長していくっていうことを促していたのかなと思います。
例えばですね、カンナが恋人のアキトと愛人のシンジと関係を終わらせるところ、第5章で出てくるんですけれども、
そういうカンナに対してハセオはこんなことを言います。
色々捨ててよかったやんか。捨てた分そのうち帰ってくるから。
それを言われたカンナは、確かに失くしてしまうともう先のことしか考えられなかった。
ハセオの言う通り、アキトもシンジさんも必要なかったのだと思い知らされた。
全力を出し切って終わると充電してまた励む。それを繰り返すうちに季節はだんだんはるめいてきた。
イラストレーターとして、どこか自分らしさを作品に表現するということに制限をかけてしまって、ブレーキを踏んでいる自分に対して、
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じゃあ自分らしさっていうのは何だろうかという考えるフェーズを迎えていきます。
この辺りからですね、ページをめくる手が止まらなくてですね。
スタバでこの本を読んでたんですけれども、もうちょっと泣きそうになりながら読んでいきましたね。
最後、それでも涙が止まらなくなってしまった第6章。
カンナがハセオに対して変わんないでねって言うんですよね。
自分が子供みたいなことを言っているのはわかった。でも止められなかった。
この甘くただれた匂いのする生き物がずっとあり続けて欲しいと思った。
それに対してハセオは、 あのな、全部変わるんだよ。
別に悪いことじゃない。 前も言ったように変わるのが嫌なら、先に捨てていったらいいんだ。
その分新しいもんが入ってくる。お前には必ず入ってくる。心配すんな。
お前はこれからいらんもんも得意にならんもんも情もどんどん捨てろ。
でも体だけは大事にしろ。わかったな。
このセリフはですね、もし私が誰かに言われたらもう、あの、めっちゃ嬉しいっていうか、そういうことを言ってほしい。
って多分思うんでしょうね。ここでね、ちょっと号泣してしまいました。号泣って言っても、
スタバだったから、あの、なんか、
おえつが出るほどではなかったですけど、
このセリフはグッときましたね。 カンナにとってはこういうことを言ってくれる、
自分をよく知っていて、こういう言葉をかけてくれる存在が必要だったと。
そういった発想の存在によって、カンナの成長が見て取れる小説なんですけれども、その過程は相当血を流しながらになります。
カンナ自身、自分に対してね、ぐさぐさ、自分の行動や言動や思考に対して、あの、
偽善だとかね、相当厳しい言葉を、目線を向けていくんですよね。
それはそのイラストレーターとして内面を見つめる、その眼差しにもあるのかなと思います。
で、自分にごまかしは効かない、そういう自意識の強いカンナに対して、
カンナに対して、カンナ自身が、自分の人生を、自分らが生きていくという覚悟をしているカンナが、よりその覚悟を強くして、前に進んでいく。
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血を流しながらも前に進んでいくというお話でしたね。
自分と生きていくという覚悟をした人は特に、何があっても信頼できる人がいるのか、自分のことをずっと見つめていてくれる人がいるのか、
本当にそれを見つめてくれる人がいる、というのは大きなことなんだなというふうに思いました。
で、最後にこの小説とはちょっと別の話をしようかなと思うんですけど、最近見たドラマで、タブルっていうドラマがあります。
でも、流行りのワンシチュエーションドラマで、大学に勤める主人公のジュンが、教授から歴史上の人物が愛した料理のレシピを受け取って、それを持ち帰って夫婦で作ってみるというドラマなんですけれども、
そこで主人公のジュンは、自分の年齢とか生き方について少し悩む心がありまして、
そのジュンに対して、おばが書けた言葉がとってもいいなと思いました。
どういう言葉かというと、
愛することは努力と知性が必要。自分自身を愛して初めて相手を愛せる。
自分を愛するのは努力が必要。相手を愛するのは知性が必要。知識は物を知っているということ。知性は知識を使って相手を幸せにしようと思うこと。
教養は自分の信じている知性が本物かどうか自ら疑うこととありました。
このターブルっていう、このおばさんのセリフ、愛に関するセリフだったり、男友達における、
長瀬夫とカンナの間で発生している友情なのか愛情なのかよくわからない、とにかく深い信頼関係上について、
何なんだろうって思ううちに、そもそも日本で愛っていうものがあまり深い歴史を持ってないんだよなと思いました。
キリスト教だったり、ギリシャ神話を小さい頃から習って、
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それ自体が人の思考とか行動原理に深く根差している国であれば、
愛というのはどういうものかっていうのを周りの大人から見て子どもを学ぶことができるでしょうし、
そもそも学校とかで学んだりするのかなと思うんですけれど、
仏教圏においては、愛とか、特に性愛については欲として抑制するべきもの。
欲望については、避けるべきものである、それが苦しみを生むから避けるべきものであるというような考え方があると思うので、
そもそも日本人にとって愛というものが感覚的にパッとわからないものであるんじゃないかなと思ったんですよね。
明治維新の直後に、翻訳する上で、愛という、ラブという言葉を翻訳できなくて月が綺麗ですねという言葉に置き換えたということもあるように、
愛という概念を日本人はまだそんなに歴史を刻んでいないというのがあるので、
それ自体をどうこういうわけではないんですけれども、まだ私たちにとって新しい概念であるんだなというふうに思いました。
なので気軽にラブとか愛とかいう言葉を使うことは全然それ自体悪いこととは思ってなくて、
そうやって私たちは人として学んでいる過程にあるんだということで、
いいとか悪いじゃなくて、それぞれが持っている愛という概念に対してジャッジするべきではないんだよなというふうに最後は思うに至りました。
ちょっと最後違う話になりましたが、今日は男友達千早茜さんの小説について話してみました。
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今日も最後まで聞いていただいてありがとうございました。
ではでは。
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