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始まりました。おおきなかぶは抜けるのか。この番組は、日常で起きた一人では消化できない些細な悩みや出来事をおおきなかぶとして、ちょっと不思議な関係の3人がうんとこしょどっこいしょと引っ張ってみるポッドキャスト番組です。お送りするのは石橋と?と?です。よろしくお願いします。
今回は浮き足立っている我々ですが、なぜかというとゲスト回です。では早速ゲストをお呼びしましょう。清水遼一朗くんです。こんにちは。かわいい。キラキラなの。本当に画面で見せたいくらいですよね。
今隣に座ってるんですけど。自己紹介が終わっちゃいました。ごめんごめん。うるさい3人で。一瞬だけ隣から撮ってもらえますか。どうか誰に自己紹介を。
マイクを見つめて。
ポッってやってきてしまったんですけれど。清水遼一朗と申します。よろしくお願いします。何て呼べばいいですか。
そうですね。結構初対面で猫をかぶることが多いので、その姿を見てシナモンって呼ぶ人とかも結構多いんですけど。
ぜひ皆さんは遼一朗、遼君か遼一朗の誰かしっくりくる長さのやつでやっていただければありがたいです。
遼君にしよう。
気をもらわない。
僕は遼君がいいな。
遼君にしよう。
よろしくお願いします。
なんでお呼びしたかというと、去年イベントで知り合って、イベントとか社交の場で知り合った知り合いの中で最も若いく、16歳今。
そしてあまりにも個性というか才能というか、キラキラとしていすぎており。
考え方とか表現の仕方とか、実際に行動に移していることとかが本当に面白くて、呼ばざるを得なかった。
深掘る回で一回やりたいぐらい。
時間足りないよね。
本当に本当に。
皆さん見ていただけるとありがたい限りなんですが。
かわいい。
感情が高まると眉毛が八の字になる。
特性はお持ちです。
すごい。
筋肉柔らかい人出ますもんね。
ほぐれてる。
自己紹介とか言いたいことある?
最近はずっと長らく学生団体をゼンダーとかアイデンティティーみたいなテーマでやっていたんですけれど、
最近はあんまりそこの自分の代名詞につかまりすぎるのも良くないなと思って、
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いっそ高校らしくモラトリアムを満喫してやろうと思って、
すごいモラトリアムという言葉の下めっちゃ流動性に流されながらやっております。
それを知覚していることがすごさ。
15歳でモラトリアムって。
しばゆーさんはメタ認知推しですもんね。
メタ認知推しなんでね。
メタ認知がめちゃくちゃできてる。やばい。
年齢でなんか16歳なのにとか言うのもあれだけど、あまりにもたっかんしているというか。
本当にめちゃくちゃ素敵だなと思って、
あやびさせていただきました。
やったー。
よろしくお願いします。
これ本当に音だけだとなかなか想像できないと思うんだけど、
会った時のこのりょうくんの眼差しのこのストレートさが、
あんまり出会うことがないストレートさっていうかね。
すごい。
もう容赦なく私の真ん中を見てくれています。
本質をめちゃくちゃ見てる感じ。
すっごくいい意味でね。
すごく本当に野生動物にあっているような感覚ですね。
野生で、一応、早熟だけど大器晩成がコンセプトなので、
早熟だけど大器晩成ね。
早熟の部分をアウトプットして社会との関わりを持ちつつ、
ちゃんと本体の部分は地に足つけながら大きくなれればなと思っているので、
野生の本能をたぎらせながら。
たぎらせながら。
おもしれー。
最高。
すごい。
ちゃんと言語化してるのもすごい。
めっちゃ日々考えてる思考の量がすごいんだろうな。
騒がしい、頭の中が。
ぜひ聞いたときにちょっと、
頭の中にイメージが湧いてくるようなしゃべりができると、
それこそ4人全体の雰囲気としてもいいのかなと。
めっちゃ考えてくれる。
全体性を常に。
ゲストさん優秀すぎますね、毎回。
前回は1人来てくれて2人目なんですけど、
ゲストの方が仕切り出すっていう。
毎度ね。
できすぎて。
素晴らしい。
素晴らしいな。
では、よろしくお願いいたします。
楽しみ。
では今回は、ゲストのりょうくんの持ち寄った株でお話ししていこうと思います。
りょうくんが持ってきた株を教えていただけますでしょうか?
はい。
ズバリ多様性って何なのか問題。
話したい。話したい、これは。
でっかい問い。
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最近結構叫ばれている多様性って言葉なんですけれど、
多様性って結局何なのかとか、
本当に多様性って目指していっていいものなのかっていうところについて、
みんなのそれぞれ個性として思いながらしゃべれると、
とても楽しいのかなと思っております。
面白い。
早速いいですか?
目指していいかなっていうのがすごく今面白いなと思ったんだけれど、
目指していいかなって思うのはどうしてなの?
そうですね。
多様性ってやっぱり一番最初に社会として、
それこそ昭和時代にみんなが画一化されてるよねみたいなことへのアンチテーゼから始まってるよなと思いつつ、
一方その社会として進んできた過去であったり、
そっちの良さみたいなものもあるなっていうところだったりとか、
多様性の素敵さっていう部分がありつつ、
その一方で一部の海外のところでちょっと個人主義が行きすぎてるよねって言われるように、
必ずしもその今言われている多様性を目指していくことが、
ここの価値を最大化するとか、
そういう大きな目標につながるわけでもないなと思っていて、
僕たちが目指していくべき多様性って、
どういう部分が多様なんだろうっていうところとかが結構引っかかってくるだろうな、
今後と思っているので、
そういうところをメンションして話させていただきました。
めっちゃ面白い。
いい問い。
いや、すごい。
それこそ今の話で言うと、
多様性が生きる場面と、逆に多様性じゃないところが生きる場面みたいなのがあるから、
その使い分けってすごい観点としては大事なのかなって思って、
それこそ確率的なものがパワーが出るっていうのは、
何か一つの目標に向かって、
団結してガッとパワーを出すときは、
すごいパワーが発揮できるからこそ、
そういう場面は逆に多様性だと団結が全然できなくて、
みんなコストがいろんなところでかかってしまって、
時間がかかってしまうみたいなところはあるから、
ふんわりそういう軸で、
今の自分のフェーザーここかな、
この自分のフェーザーで一方ここかな、
みたいなところをメタレンジしながら、
自分でデザインをしていくみたいなのを意識して生きてるなと思ってます。
どんな組織とかチームプロジェクトとか考えるとき、
イベントを打つときとか、
そういうときはすごいバランス感覚とか、
逆にこっちに偏ろうとかめっちゃ考えてる気がします。
そういう意味で。
多様性って言っても、
個々の個性とか尖っている部分が必ずしも尊重されるべきでもないと思っていて、
しかもそこに対して尊重するっていう選択を取っていることっていうのが、
同時に多様性っていう軸とか正解に縛られていることでもあるんじゃないかなと思っていて、
さっきスポーツとかチームでみたいな話が出ましたけど、
それこそ自分の個性だったり尖っている部分がどういう形で収束したり、
どういう形でチーム全体の利益になるんだろうみたいな、
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その尖っている部分の行き着く先っていうのをちゃんと定義できることとか、
ここのマッチングをちゃんと作れると良い多様性になるんだろうなと思ったりしてます。
確かに良い多様性の姿を考えるってそういうことだもんね。
確かにめっちゃそうだと思う。
確かに尖りすぎても人が傷ついたりバラバラになったりするし。
確かにな。自分的には、例えば自分の一人の人材としてさ、
やっぱり尖ってたいっていう気持ちとかはあったりするの?
そうですね。結構それこそ無理やり自分の個性を主張していくことって、
ある意味簡単だと思っていて、
それってそれこそ自分のメタ認知が上手くできる人であれば、
例えば大阪から見て滋賀にいるとか、
これって大阪から見た時の北東の位置にいるっていう、
大阪ベースで作っているっていうところかなと思っていて、
同様に例えばそれが東京っていうコミュニティになったとしても、
それは自分の状態とそのコミュニティの状態をメタ認知して茨城にいればいいんだろうなと思って、
おもろい表現。
でもこれって本質的な個性ではなくて、
どちらかというと自分がどういうポジショニングを取るのか、
それこそコントラリアンとかジョーカーみたいな意味合いの強い子だろうなと思っていて、
すっごいよく分かる。
柔軟だな。
たとえば東京とか大阪からどう見られるのかっていうのを意識しないときに、
急に北極にいてどこから見ても北にいるよねみたいな、
化け物が生まれたりすることもあると思うんですけど。
そういう感じで、
コミュニティと自分の関係性っていうところにあんまり重要性を置かずに、
引いては評価みたいな部分に重要性を置かずに、
自分のアウトプットをコンスタントにしていくっていう先に滲み出てくる部分が、
個性的な部分だなと思って、
頑張ってそこにフォーカスしようとはしているんですけど、
とはいえやっぱり、
あなたの個性は何ですかって聞かれるような場面も、
世間一般生きていると多いなと思っていて。
そうだよね。
あなたの個性は何ですかっていう問いってさ、
それぞれに個性があるっていうのが前提だったら、そんな質問なくてもいいじゃない。
だからその質問があること自体が結構悲しいというか、
残念な状況だなとは思うなとは思います、個人的には。
社会から絶えず求められることというか、
それこそ例えば就職しますってなった時に、
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あなたの強み弱みを教えてくださいとか言われるし、
自己紹介をしなければいけないというか、
社会からの評価を、
さっきリョウ君は、
ある種その評価を気にせずに出していった先に、
その滲み出てくると言ってたけど、
自然に滲み出すことの難しさというか、
すごい絶えず感じてて、
滲ませねばならない日々という気持ちでいます。
- 滲ませなきゃいけないというプレッシャーを感じるってこと?
感じますね。
なんか特に、それこそ昭和の時は、
この会社に入って就職、雇用、家庭幸せみたいな感じだったけど、
今ってもう本当にないからそういう基準が。
軽くそう、自分で主張していかないと社会側に染まっていくというか、
自分である種その社会から求められていても、
提示しないと、じゃあ生きていくために、
ちゃんと就活をして働きましょう、
社会の駒になりましょうみたいな感じになっちゃうから、
そのために社会の評価込みでも、
とにかく自分を出さねばならないという気持ちが、
どれくらいみんなにあるのかわかんないけど、
私にはありますね、確実に。
その、なんかにじみ出るものがさ、
やっぱりその、あまりにわかりやすいものがどうしても目立つじゃない。
だからなんかそれがイコール個性ってなっちゃってる、
その定義を崩したいっていうのはずっと思ってることで。
めっちゃわかる。
じゃあ例えばここにさ、お母さんたちがさ、
お子さんがいるお母さんたちが、
ここに例えば3人ぐらいいた時に、
その人たちはやっぱりお母さんと呼ばれる人たちだけど、
じゃあ例えば洗濯物ここでみんなで畳みましょうみたいになった時にさ、
畳み方は3人それぞれ違うわけじゃない。
靴下からきれいに畳む人もいればさ、
洋服を畳むのが異常に早い人とかさ、
それこそが個性っていうかさ、
それをやっていくと、
じゃあこの人は大きいものから畳むっていうことが上手だってことは、
空間の整理能力が実は得意なんじゃないかとかさ、
そういうふうにいろいろ先ができていくと思うんだけど、
なんかそういう一番大事なさ、
手前の手前にある個性を無きものとして、
むしろ一番なんか目立つところばっかりを見ていくから、
なんかその個性の定義もおかしなことになるし、
多様性だって多様性っていう、
やっぱりその言葉の方が強くなっちゃってるし、
なんかこう良くないよなっていうのはすっごく感じる。
それこそSNSの発達とかもあって、
すごい情報がインスタント化してるなと思っていて、
なかなかワンフレーズで伝わるものであったりとか、
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そこの一番最初に目に見えるものっていうのが重要視されて、
それこそなんか多様性みたいな文脈で言うと、
ポーター性とか、機械の平等と結果の平等みたいな話ってあると思うんですけど、
あれってどこまで行ってもその名前のついた多様性を持ち上げているっていうのについないんですよね。
この人は女性っていう多様性があるから。
どうしてもなんか測りきれる多様性って、
現状ではそれぐらいの多くを超えていないんだろうなっていうのは思いますよね。
りょうくんがやってる学生団体もそれに関連してる?
そうですね、なんかうちの学生団体は結構すごい特殊な団体で、
学生団体って結構一つのコンセプトをベースに、
そこに共感したみんなが集まってできて、
そのコンセプトの達成のためにイベントを打ったりってやることが多いと思うんですけど、
うちの団体の場合はすごい自己中な誰かがいった結果として、
その誰かっていうのが僕なんですけど、
僕自身がコンセプトっていう謎の形をとっていて、
なので僕が思想を変えたりいろんな経験をするにつれて、
ちょっとずつコンセプトを変えてすごい生きる団体としてやってきたっていう関係が実はあり、
その中ですごい大事にしていたのが、やっぱり社会評価みたいなものとか、
それこそジェンダーとか肩書きみたいな外部的な名前のついたものってあると思うんですけれど、
それでなんかそういうような強い部分、伝わりやすい部分の評価ではなくて、
自分のアイデンティティーに触れる部分であったりとか、
自分のすごいそういう部分の弱い美しさみたいなのを、
どう社会実装していけるかっていうことをずっと考え続けてきた団体。
それを学生団体でやってきた。
そんなの。
すごいね。
めっちゃ意義のあること。
それさ、本当に同じ、まさにその柔らかい部分を、
まさにその社会実装をどうやってするかっていうのが本当にポイントだと思うんだけど、
それをすごく考えて悩んでる同世代のお母さんたちとかはすっごい多いなっていうのは感じてる。
だから、なんか一緒にできたりしたらいいのにね。
社会実装するってなるときにどういう形を取ることが多かったり、どういう思考をするの?
なんか一番最初はそれをイベントとかで、それこそ非日常としてやってもらってたんですけれど、
最近っていうか去年の後半ぐらいは、
それを名刺の裏に当たるところのすごい自分の弱い部分を出していくような、
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媒体で初対面をデザインできないかみたいなことを、
それこそ何度か実況を重ねてやっていたり、
その後そこに限界を感じてしまって、
なら、限界を感じたっていうのも、やっぱりその弱さを出していくには、
ベースとなるその人の自信であったりとか、
コンフォートゾーンになりうるような空間の必要性みたいなのが一番大事だと思う。
一人そこに競争性を持ち込む人がいると、一気にそこがオリンピックになってしまう。
本当そう。
分かりすぎて悔しい。
年末僕が必ず夏に元気になって、
冬に読むっていう地球と一緒に動いている。
流動的。
そうなんです。
なので冬はちょっとお休みしてたんですけど、
最近になってその人のアイデンティティに触れる弱い美しさみたいなのを、
例えば基地にできたらいいかなとか、
そんな感じでみんなで次何しようかなっていうのをワクワク考えているようなところに。
楽しい。
何個も話したいことがあるけど、一気に競争っていう原理が入り込んだ瞬間に、
すべてゲームが変わってしまう。
その通りだなと思う。
お金とかパフォーマンスとか、その尺度が一気にカッと入った瞬間に、
考え方が変わっちゃう。
何も出せなくなっちゃう。
私はできる人間ですって言いたくなっちゃう。
気づけないでください。
警戒モードになっちゃう。
多様性が叫ばれているのも、資本主義社会の真っ当の中で叫ばれているって事実も見逃せないよね。
言ったら会社の経営の人たちとかが、多様性、多様性って言ってるのは、
すべてに多様性が経済的価値に繋がるから、やっぱ言ってるっていう事実はある。
そことどう折り合いをつけるかとか、
どう変えていくかというか、何で考えを切り分けていくか、
すごい大事な気がする。
みんなが叫んでいる多様性とはまたちょっと違う観点を今は考えているような気がする、ここでは。
確かにそうだね。今、多様性って言われてみんな何を思い浮かべますか?
ジェンダーとか。
僕は経営だったね。そのさっきの女性だからっていうのも似てるかもしれないけど、女性を何人置くかとか。
そういう。
話題が多いかな、僕が触れる話題では。
2人はどう会いそう?
アイさんは個人的な感じでしたね。
私は人種かな。
よく。
僕はそれこそ一番最初はジェンダーだね。
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みなさん、一番最初に入る多様性って、すごい虹色みたいな感じで、赤、オレンジ、黄色、緑って、はっきり色が切り分けられているものが多いし、
それって言語化しやすい分、入ってきやすい、伝わってきやすいものだなと思うんですけど、
僕がここでちょっとみなさんとお話ししたかったなと思っている多様性って、
ちょっとそこに対して、
虹って本来別にそこに境目があるわけではなくて、
虹が5色の国とかも世界中にはあって、
っていうのから分かるように、そこって本来ノンボーダーなはずで、
グラデーション。
ノンボーダーのない中で、それぞれが自分の発信する事項においても、
当然自分が相手をどう受け取るかっていう観戦においても、
あんまりそこの社会基軸みたいな、黒と白に縛られないっていう話なのかなと思って、
そのすごいノンボーダーで枠のないところの中で、
みなさんがどう思うのかなみたいなのは、ぜひお話ししてみたいな。
感動しますよね。
なんか名前がついてるついてないってのはすごいヒントかなって思いました。
僕自身が今その一番最初の辺に2人が話してた、
名前がついたものによる切り分けって違うんじゃないかみたいな話は、
確かにその名前がついてて、その名前が人や歴してるかそうじゃないかみたいなところの基準で、
物事を考えていくとすごいいろんなものがクリアになるなって、
その言葉を聞いて思いましたね。
経済と相性がいいですよね、そのセグメントを切って。
そうだね、セグメントを切るとか。
虹を7色だと捉えること。
簡易的ではある。人間のその認知の仕方としてカテゴライズするじゃないですか。
本当にそれがクアと言ったらバイアスですよね。
バイアスがかかった象徴が、そういった名前が人や歴する属性であるみたいなのは、
すごい今話して感じたし、
だからこそその農房団の込みの多様性の認め方、
それをどうやって実装していくか。
ちょっとね、やっぱりその簡易的な言葉の肩書きとかジャンルとかに頼りすぎて、
ちょっとなんか無感覚っていうかになりすぎてるんじゃないのかなとか、
思考停止っていうか、なんか感じなくなってる感じ。
だからもうそういうの関係なく、人と人として向き合った時に感じるものでいいわけじゃない。
それこそが農房団を作っていくんだと思うんだけど、
なんか感じるよりも前にこの人は、
ここのこういうものに属してるこの人みたいな見方をしちゃうっていうか、
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だから頭の方が先に働いてコミュニケーションをとっているっていうのが、
当たり前になってるのもちょっと変えていきたいなぁとは思う。
でもそれを変えるとなると、やっぱり経済の在り方も変えていかなきゃいけないというか、
なぜならとても効率的ではなくなっていく部分があるから。
相当コストかかっちゃうし、当たれる個数が限られてきちゃう。
拡大するって方向ではなくなっちゃいますよね。
ボルっていう方向になっちゃう。少なくとも。
ある意味ちょっとセグメントで分けるみたいなのも本当に、
チームの組織的なものでも、
幸せ度もちょっと上がる経験もあったなっていうのがあって、
チームで4タイプぐらい人を分けてるんですけど、
野球チームもやってて、今野球チームで動いてるんですけど、
そのチームメンバーを4タイプぐらいで分けて考えていって、
この子はこのタイプだからこういう声掛けをするし、
こういう行動を取るんだよっていうのを、
理解するツールとして使ったことがあって、
それめちゃくちゃ分かりやすいんですよ。
かつ、その考えられないって思ってた行動が、
こんな感じかっていうふうな理解につながるから、
言うたらどっちの人間関係も良くなって、
そうやって幸せにちょっと近づいた経験もあったんですね。
いい面もあって悪い面もあるみたいなのはちょっとあるかもしれない。
ちょっと話されちゃったんですけど。
とらえやすくなりますよね。
一個その、わりと日本人ってタイプ診断とかも好きって言うじゃない。
MBTIとかね、最近の。
なんかその診断ものとか何か指標があると、
自分がどこにいるかみたいなのを客観的に見られるからいいっていう部分はあるとは思うんだよね。
だけど、そこから自分がどういうところがちょっと漏れてるかなとか、
完全にはハマってないなみたいなところも、
多分同時に見ていくこともきっと大事な気はするんだよね。
そこをちょっと、完全にないがしろにしてる気はするよね。
むしろここにハマったからOKみたいな。
安心しちゃうよね。
意識漏れますよね。
それ限界ですね。
学術的にもめっちゃ分類するっていうのは本当に学術的な鋭意でもあるから、
切り分けで考えるみたいな。
でもその切り分けって結局人間がしたことであって、
その例外がかなり出てきちゃうのは本当に限界としてやっぱり言われてて、
だからどんどん切り分け方を変える理論みたいなのがどんどんどんどん出てきてる。
歴代で言われるけど。
で、ちょっと50年くらい経ったらめっちゃ同じことを言ってる理論があるみたいな。
そういう感じだからこそ、あくまで恣意的であって、
絶対に信奉するようなものではない。
信じるものではないって思ってます。
分け方に関しては。
とはいえさっき言っておっしゃってたように、
社会的にそれが認められやすいよね。
社会の前進に役立つよねっていう視点は書いてはいけないなと思うんで。
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特にやっぱりどうしてもそこの余裕を、
そこの一個一個の関係とか個別具体でしゃべる余裕って、
なかなか取れない機会が多いなと思って。
それこそそれが資本主義だったりビジネスの方によればよるほどそうだなと思っていて。
そこの中でどう草の根的に持っていけるかみたいな。
それこそ僕的には人間生活みたいな部分とか、
特に人間関係みたいな部分で重視されたり、
みんなが違和感を持ったりする。
ベースの人間関係とか家族で得た知見とかスタイルを、
仕事とか自分のアウトプットに生かしてるんじゃないかなっていうのは、
僕のベースの哲学としてあるんで。
そこの草の根とか自分の根本の部分からどう染み込ませていけるかとか、
いうところが結構フォーカスになるところになるんじゃないかなと思って。
すごいバランス感覚だね。
本当にすごい。
本当にバランス感覚がすごい。
扱い方もそうだし、
メタ認知して自分で視差選択してる感じがものすごいなって思うし、
視差選択がすごい大事なのかなとも思ってて。
それこそ全ての場面で喧嘩するような感じで、
個性をそのまま出していくみたいなのってきついと思う。
いろいろな弊害も出てくるし、
それが幸せかって言われたら、幸せじゃない人もいると思うからこそ、
なんか気心知れてる人たち、
そのベースの関係値の中で、
そういう自分の弱さを見せたりとか、
することがまず第一段階なのかなと思いました。
逆にそのコミュニティさえあれば、
何やっても生きていけるなっていう実感もある。
例えば違うところで演技をしたとしても、
これがあるしみたいな。
それをやっぱり認識しつつ、
そのコミュニティを大事にして、
いろんなところに冒険していくみたいなスタンスが、
みんなで一括として、
すごい良いことなんじゃないかなって思ったんですかね。
調和するべきところでは調和して、
ちゃんと自分の内発的動機づきに基づいている場所があるからこそ、
そういう部分を社会の開発の中でも失わずに持っていって、
結果としてそれが、
めっちゃ実理的な部分、
実理的な場面においても、
すごい直線に引くようなアウトプットではなくて、
直線的に周りの無駄な、
イケムダに見える部分が、
そういう日常のところから実理につながるような形で、
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実理の直線に加わるっていうのが、
とりあえず向こう10年、20年で、
社会として進んでいけるといいのかなと。
少なくとも自分はできそうですよね、自分たちは。
やっていって、それが影響を与えてきて、
他の人も実践し出すみたいな形ってめっちゃいいなと思うし、
確かにそれが多様性の正体かもしれない。
自分のそういった内圧的な動機というか、
内から染み出てくるオリジナリティ。
そこがそれぞれみんな持ってて、
それが多様性って言われるものなのかなって、
今話聞いててめっちゃ思ったんですよね。
それを整理するツールとして、
有意物論と有意識論ってあるのと、
西洋でいう有意物的なものをあると確定させた前提で話を進めるのと、
有意識論は人の意識によってそのものが確定されて、
そのもの自体には可能性の幅として存在があるだけで、
それを人とか自分によって、
意識によって確定させるみたいな考え方にすごい近いなと思ってて。
有意物論的に自分の個性がこれですって確定すると、
本当に話も進みやすいし経済ともとても相性がいいけど、
それってどうしてもゼロサムゲームになりがちというか。
その個性をどう使うかとか、
その個性を使ってどう物質的な社会を生きていくかみたいな話になりがちだけど、
こっちの有意識の方で考えると、
その関係性によって現れる自分はその時によって違うし、
それは確定したものではないし、
本当にグラデーション的な考え方ができるから、
それをこの資本主義社会でどう実装していくかって話ではあるけど、
話とも近いなと思いました。
確かに有意識の概念持ってきても新しい視点になるね。
面白いな。確かに。
最近だと結構自己物語論とか、
自己認知の時に流行ってるなと思ってるよね。
自己物語論。
ストーリーをこう作るってことなのかな。
そうですね。
自分の過去の体験とか、
そこから自分が変わったと思う部分。
自分の中の膨大な過去のデータの中から、
自分の決めたいとか自分の見たいストーリーに
必要なものを組み合わせていって、
僕ってこうやってできてきたよね、みたいな。
そのストーリーによって自分を語るっていう。
モチベーショングラフとかも。
そうです。
私はここで挫折しました、みたいな。
それってまさにその有意識論にあたるところに意味付けを後付けしていく。
全ては解釈の問題というか。
まさにそういうところにつながってくるのかなと。
問いがたくさん出てきた感じだよね。
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そうですね。大量の問いが。
視点がもうめちゃくちゃいろんな視点から見えて、
その視点から多様性見えるんだ、みたいなところは感じた。
この番組では取り扱ってほしい出来事、株の種を皆さんからも募集しています。
抜いてみたい株の種をお持ちの方は、
概要欄のリンクからぜひお便りをお願いします。
あらたかなお便り、お待ちしてます。
今日の株、どうだった?
深すぎる。
深かったですね。
どうでしたか?参加してみて。
それこそ皆さんの会話がぐるぐるはちゃめちゃ巻き込みながら乗っかりながら、
そういうすごい渦みたいに巻かれていく会話の輪だなっていうのがすごい思っていて。
僕もそこにちょちょんと足を突っ込ませていただいたわけなんですけど。
でもね、ちょちょんって足を入れながらも、
りょうくんが足を入れるとスーってなんか筋ができるんだよね。
だからそこについていくんだけど。
わかる。
すごいわかる、その表現。
すげえもどかしくて本当に。
むしろ、りょうくんも本当にその筋を入れる役割を任せてしまって本当に申し訳ない。
申し訳ない。
甘えちゃったよ。
マジでそうだわ。
本当に甘えてしまいました。
それで独裁をやってしまいがちな方なのに。
みんなで進められたのに何より楽しかったです。
今はシナモンですか?
ちょっとシナモンは抜けてはないんですけど。
すごいリラックスして。
シナモンが抜けるのは結構難しいですよね。
そうなのね。
開発と戦った結果なのに。
お疲れ。
りょうくん的に今回の新しい視点というか気づきみたいなのがあったりしたのかな?
そうですね、まさに皆さんがぐるぐる持っていくみたいなところで。
特に社会との関わりの中でどうしていこうかみたいな視点であったりとか。
それってもちろんミーティングでおチームでしてたりしても出てくるんですけど、独裁で潰しちゃうポイントでもあります。
潰れていたポイントが。
そこら辺について皆さんでゆっくり、すごい心地よい雰囲気の中で波になるように議論できたのはすごい楽しかったなと思ってます。
よかった。
めっちゃ話したいな。もっと話したいな。
次のおつつかいに行きましょう。
では次回も。
一緒に大きな川を抜きましょう。
またねー。