キースヘリングの作品とその考察
先日キースヘリング美術館に行きました。 皆さんご存知でしょうか、あの太い輪郭線とカラフルな色だけで構成された人の絵。
圧倒的人感が、なぜかそんなシンプルな図柄からほとばしってくる。 そういうね、キースヘリングの絵なんですけども。
山梨県にありまして、僕そんなね美術館大好きってタイプじゃないんで、 ミュージアムショップに何か素敵なものが、いいグッズがね、あったらいいなぁぐらいで行ったんですけども。
なんか想像以上に良くて。 なんか最近センスについての本を読んだことがあって、その中に
意味を考えずにそのまま見るっていうのが、実はセンスを磨く上で大事だよ みたいなことが書いてたんですよ。
だから意味わかんなくても素敵だなぁくらいの感覚で見てたんですが、 ふとね、館内の解説を目にしたところ
キースヘリングの人物には顔や服がないと。 そのないことっていうのが不気味さと魅力を同時に生んでいるっていう
そういう評論があったんですね。 確かに人の絵を描くってなった時に顔とか表情を描かないのって異常だよなと。
でもキースヘリングの絵には顔がないし服もない。 そう考えると確かに不気味に思えてきて
普通物を見る時って何があるかで判断することが多いじゃないですか。 ライオンを説明するときに縦髪と牙がある猫って説明するのは
自然ですけど、猫をね仮に説明するとしたら 縦髪と牙のないライオンっていうと少し伝わりにくいというか
基本足し算で考えた方がやりやすいっていう、そういうなんとなくの感覚があると思うんですよ。 だからなぜないのかって僕にとってはあんまりなじみのない考え方で
とっても新鮮に思えた。 だからこれなぜないのかっていうフレームでいろんなものを改めてみたら
全く別のものとして見えるのではないかとそう思ったわけです。 いわば裏側の世界ムーンサイドがなぜないのかっていう考え方で見えてくるわけです。
だから今日はなぜないのかっていうことについて考えていきたいと思うんですけども 例えば缶コーヒーのボスあのロゴマーク
パイプを加えたダンディーなおじさんですけど あの横顔って実は輪郭が光で飛んでいてないんですね
通常ね人を描写するときは輪郭線を引きがち しかしないんですよ
ここでなぜないのかっていうのを考えてみますと 輪郭って通常後ろから光が照らされたとき
つまり逆光の時により際立ちますよね 正面から光を浴びているときは色のグラデーションが存在するだけで輪郭線というのは
ちょっと背景に紛れますよ まさにこれが答えで
どうして輪郭がないのかっていう疑問に対する答えは 見つめている僕たち自身が光のようだからっていうことなんですね
缶を手に取る僕らが太陽のように輝いている その光が彼の輪郭を溶かしてしまう
つまりボスっていうブランドは働くあなたが主役ですとか あなたが輝いているんですって静かに僕らにメッセージを届けているんですね
ない輪郭っていうのは僕らの光を前提にしている そう考えると少し元気が湧いてきますよね
これがムーンサイド世界の裏側です なぜないのかここに着目するだけで二重に世界が見えてくるんですね
イノシシに関する考察
このフレームで例えばイノシシについて考えてみたいんです エトにも組み込まれている僕たちに馴染み深いような動物イノシシ
しかしですね彼らを呼ぶときって僕たち サン付けしない傾向があると思うんですよ
なぜイノシシにサンがないのか 動物にサンをつける風習ありますよね
ゾウさんキリンさん豚さんクマさんライオンさん ほとんどの動物にサンをつけても違和感はないのになぜかイノシシサンというと空気が違ってくる
あの想像してください幼児がねキリンさん豚さんライオンさんって言った後に イノシシサンという姿を
ちょっと違和感がありませんか イノシシサンってなると思うんですよ
これサンの行用によるものだと思ってて 豚さん牛さんライオンさんにつけるサンは敬意と親しみ
お客さんとかお回りさんとかお父さんとかそういった類のものだと思うんです だけど僕たちってイノシシにサン付けしない
これは僕ら人類が未だにイノシシに親しみを持てていないことを表しているん じゃないでしょうか
エトも12番目だし怪傑ぞろりのイシシとノシシのようなキャラクターを見てもいまいち 心に入ってこない
でももののけ姫のオッコトヌシはしっくりくる 人類ね700万年の歴史をもってしても僕たちはまだイノシシに親しみを持てていないんです
さらに踏み込んで考えるとそれはなぜか 多分人類はまだイノシシの野生を心の底で恐れているのではないでしょうか
人類は多くの動物と共生しある種人間の管理化ともおける体制を作り上げてきました しかしそれはイノシシの前ではおごりでしかなくて人類が忘れかけている自然への恐れ
それがイノシシを媒体として脈々とそこに存在し続けている そんな小さなんですよ
ですから逆に私たちがイノシシにさんづけをしたとき イノシシを管理化においているって錯覚したとき
僕たちは何か大きな過ちを犯すのかもしれません どうですか皆さんこちら側ムーンサイドがはっきりと見えてきたのではないでしょうか
起きている状態と擬音の不在
最後に話すのは僕たちが起きているとき覚醒しているときの擬音はなぜ存在し ないのかです
すやすやグーグーむにゃむにゃと眠っているときをね表現する擬音は様々な形があります けれども起きているときの擬音は一つもありません
起き起きとかそういったものが一つでもね あってもいいにも関わらずなぜか起きているときを表す擬音は存在しない
なぜなんでしょうか もしかしたら皆さんは少しだけこんなことがね頭をよぎったのかもしれません
起きているときを基準としているからまあある種 擬音を必要としないのではないか確かにこれも一つの真実です
しかし現代の科学はこれに疑問を呈します 生物ってどうやらね睡眠している状態がデフォルトっぽいみたいな
そういうのはね示唆されているんですよ 起きている状態っていうのは生物が獲得した一つの能力に過ぎない
確かに今って起きていることが基準とされていてそれをね あえて表現する必要がないかもしれません
しかしそれはぼんやりとした感覚でしかないわけですよ これから100年200年と時が進んだとき眠っている状態がデフォルトであるっていうのが
証明されて人類がみんなそれを飲み込んだら すやすやグーグーむにゃむにゃは姿を消して
起き起きが表現の帝王となるやも知れないわけです これは私たちが扱う言語や思考がいかに不安定で僕たちが論理的だと感じている
ものは常に社会の一流行の歪んだ土台に立っているに過ぎないっていうことを教えて くれているわけですね
はぁ 皆様いかがだ
皆様いかがだったでしょうかなぜないのかっていうフレームがね 導いた先のムーンサイド
今これを聞いている皆さんの周りにもムーンサイドが広がっているのです もしかしたらイエスはノーでノーはイエスなのかもしれません
私たちの現実は蝶の見ている夢なのか果たして現実とは何なのか まあだから
一つ言えるのは今信じられるのは b 型ラジオを聞いているという私
我 b 型ラジオを聞くゆえに我あり そういうふうに言えるのかも
知れませんね はい対応でした
ご静聴ありがとうございましたでした b 型ラジオ